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第4話「あたしが好きな顔」

花宮陽菜 


 先生の声なんて、あたしの頭の中ではただの雑音で、思考の重みにズンと沈んでいく。あたしは壁のペンキが剥げた隅っこをぼーっと見つめていたけど、心は全然違う場所にあった。――昨日の夜の、恵さんのパーティー。笑い声、カラフルなライト、カラオケの音…そして、彼女。フラヴィアンさん。


 パーティー以来、胸のあたりがずっとモヤモヤする。フラヴィアンさんは…完璧。…ムカつく!愛想が良くて、あの笑顔ひとつで誰からも好かれる。仕草ひとつひとつが計算されたみたいにエレガントで、賢くて、大人たち――斎藤さんや恵さんとだって対等に話してる。それに直美ちゃん…なんであんなに早く仲良くなってんの?気づいたら、昔からの親友みたいにケラケラ笑い合ってるし。それで、ゆうくんは…


 ゆうくんのことを考えただけで、心臓がドキッと馬鹿みたいに跳ねる。彼とフラヴィアンさんが一緒にいると、すごく…自然に見えた。言葉以上の何かを交わす視線、二人だけの秘密を共有しているみたいな、あの空気。あたしはギュッと唇を噛んだ。なんであたし、こんなこと考えてんのよ!


 不意に、腕を誰かがツンツンと突いた。軽くて、でもしつこい。


「はるちゃん…」直美ちゃんが、歌うようなヒソヒソ声で呼ぶ。「ねぇってば…」


 無視。壁に集中して、思考をかき消そうとする。すると今度は、目の前で何かがフリフリと揺れ始めた。――鉛筆だ。


「おい、花宮!聞こえてっかー!」魁斗くんの大声が、あたしを無理やり夢想から引きずり出した。


 ハッとして我に返ると、そこは現実の教室だった。黒板を引っ掻くチョークの音、生徒たちの囁き声、窓から差し込んで机を暖める太陽の光。魁斗くんが、あたしを催眠術にかけるみたいに鉛筆を左右に振っていた。


「は、え?な、何…?」あたしはどもり、顔がカァッと熱くなるのを感じた。


「『何』じゃねーよ!マジでよだれ垂らすとこだったし!」直美ちゃんが悪戯っぽく笑いながら、目を細める。


 あたしは目をカッと見開いて、反射的に口元に手をやった。そんなわけ…!


「一瞬、救急車呼ぶかと思ったぜ」魁斗くんが、やれやれと大げさに椅子に身を投げた。


「べ、別に…ちょっと考え事してただけ」あたしはぶっきらぼうに言って、ノートに視線を落とす。顔が燃えるように熱い。直美ちゃんと魁斗くんの視線が、グサグサと突き刺さる。


 二人がこれ以上からかってくる前に、先生が黒板の方を向いた。「はい、注目!」あたしはゴクリと唾を飲み込み、背筋を伸ばして集中しているフリをした。


 キーンコーンカーンコーン


 やっと終わりのチャイムが鳴って、ホッとした。生徒たちがガヤガヤと騒ぎながら教室を出ていき、すぐにがらんとなる。残ったのは、スマホをいじる直美ちゃんと、伸びをする魁斗くん。


「トイレ行ってくる」そう言って、魁斗くんはだるそうに教室を出ていった。


 ドアがパタンと閉まった瞬間、直美ちゃんがあたしの方に向き直り、頬杖をついた。あの、絶対に何か企んでる時の、意地悪な笑みで。


「で?正直に吐きなよ。さっきの授業中、マジで何だったわけ?」


 あたしはプイッと顔をそむけた。「なんでもない。」


「はーるーちゃーん…」彼女は、脅すようにあたしの名前を伸ばした。


 あたしははぁーっとため息をつく。逃げられない。「…ちょっと、自信なくしてるだけ」


 直美ちゃんの笑顔が、ニヤリと広がった。「なにに?」


「…友美さんと、勇太さんのこと」あたしは口ごもり、その名前を声に出すだけで胸がチリチリと痛んだ。


 彼女の表情が、面白いものを見つけた猫みたいに変わる。「へぇ?それがなんで、そんなに気になるわけ?」


「そ、そういうのじゃなくて!ただ…あの二人、すごくお似合いだし、友美さん、いつも彼のそばにいるし。…昔からの知り合いなんでしょ?」


 直美ちゃんはシーンと黙ってあたしを分析していた。そして、こてんと首を傾げる。「うん、でも、なんであちしにイラついてたの?」


「い、イラついてないし」嘘だ。


 彼女はあたしをもう一秒見つめて、そしてパアッと何かに気づいたように目を見開いた。「あーっ、わかった!フラヴィアンさんのことでしょ!」


 全身がカチンと凍りついた。「はぁ?!何言ってんの、あんた!」あたしは叫んだ。顔が熱い!


「ぜーったいそうだって!」直美ちゃんが、ビシッと指を突きつけてくる。「パーティーであちしが彼女と仲良くしてたから、はるちゃん、面白くなかったんでしょ~?」


「違うって言ってるでしょ!」あたしはほとんど叫んでいた。「あたしは、ただ…」


「ただ、あちしが自分の恋のライバルと仲良くするのが嫌だった、的な?」彼女は、部屋中を支配するみたいに、満面の笑みで言った。


 あたしの頭はフリーズした。「ち、ちがうっつーの!」あたしは両手で顔を覆った。恋のライバル?!こいつ、本気で言ってんの?!


「でも、友美さんと勇太先生のことも気になってるんでしょ?認めなよ、はるちゃん」


「関係ない!あたし、勇太先生のこと、そんな目で見てないし!」そう反論したけど、声は裏返っていた。


 彼女は、悪魔みたいに笑って最後の爆弾を投下した。「ふーん。そんな目で見てないのに…いまだに『ゆうくん』って呼んでるんだ。」


 ボンッ!


 あたしの顔面が爆発した。「も、もうこの話は終わり!」あたしは机に突っ伏して、床に吸い込まれてしまいたいと本気で願った。


 顔の熱が引かない。こいつを殴りたい衝動を必死にこらえる。


「…トイレ」あたしはそう吐き捨てて、椅子をガタンッと鳴らして立ち上がった。


「あ、あちしも行くー!」直美ちゃんは、あたしがイラついてるのが最高に楽しいみたいに、ピョンと椅子から飛び降りた。


 廊下に出ると、生徒たちの騒がしい声がワッと押し寄せる。あたしは早足で逃げようとしたけど、直美ちゃんは影みたいについてくる。


「はるちゃーん、逃げても無駄だって。でさー、勇太さんと友美さんの話なんだけど…」


「その話はもういいって言ってるでしょ!」


「じゃあ、フラヴィアンさんの話する?」彼女は、タタタッとあたしの横に並んで、にひひ、と笑った。


「うっさい!」


 あたしは廊下で足を止め、彼女の方をクルリと振り返る。あいつを黙らせる何かを、何か一言を言い返そうとした、その時。あたしの言葉を遮るように、穏やかな、でも心の臓がドキッとするような声が響いた。


「お二人さん、何をそんなに楽しそうにお話ししてるんですか?」


 シーン…


 あたしと直美ちゃんはカチンと凍りついた。さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、廊下が静まり返ったように感じた。声は、あたしの真後ろから。**ギギギ…**と錆びついたブリキの人形みたいに首を動かすと、胃がキリリと痛んだ。


 友美さんが、そこに立っていた。穏やかな笑みを浮かべて。でも、今のあたしには、その笑顔が先生のどんな叱責よりも恐ろしく見えた。彼女はベージュのブラウスにロングスカート、髪は緩くポニーテールに結んでいて、その瞳が好奇心の色をたたえてあたしをじっと見つめている。ゴクリと喉が鳴った。


「ひゃっ!」あたしは馬鹿みたいに後ろに飛びのき、自分の足にもつれそうになる。「な、な、なんでここに?!」


「わたし、ここで働いてるんですよ」彼女は落ち着き払った声で答え、腕を組む。笑顔は少しも崩れない。「でも、それより大事なのは…わたしのことを何を話していたのかなってことです」


 心臓がうるさすぎて、倒れそう。職員の人に見つかった!隣の直美ちゃんは、ニヤニヤしながらこの最高のドラマを楽しんでる。あたしが何か言い訳をひねり出す前に、友美さんは隣の空き教室をスッと指差した。「ちょっと、あちらのお部屋でお話しませんか?」その口調は、これが命令であることを明確に示していた。


 なすすべもなく、あたしは空き教室に引きずられるように入る。悪魔みたいな笑みを浮かべた直美ちゃんも、その後ろからテクテクとついてきた。部屋は狭くて、埃っぽい机が並んでいる。友美さんはその一つに腰掛け、優雅に足を組んだ。その落ち着き払った態度が、逆にあたしの緊張を煽る。


「それで?」彼女はこてんと首を傾げた。


 直美ちゃんはあたしを見て、今にも爆発しそうな兵器みたいな笑みを浮かべた。「んーとね」彼女は口火を切った。「はるちゃんがさー、友美さんと勇太先生が付き合ってるんじゃないかって、疑ってる的な?」


 ブツン。


 あたしの頭の中で何かが切れた。「直美ちゃん!」あたしは叫び、カァッと真っ赤になった顔を手で覆った。裏切り者!よくも!


「あれ、言っちゃダメだった?」直美ちゃんは、心底不思議そうに首を傾げる。


「そういうことじゃないでしょ!!!」あたしの声は、自分でも驚くほど甲高かった。


 友美さんは、ゆっくりと瞬きしながらあたしを観察していた。そして、不意に手を伸ばすと、あたしの額をピシッと軽くデコピンした。


「いっ!」あたしは驚いて、そこをさする。目に涙が浮かんだ。


 彼女ははぁーっとため息をつく。「陽菜ちゃんったら。わたしたち、そんな関係じゃありませんよ」その声はしっかりしていたけど、どこか楽しんでいる響きがあった。「勇太はウザいです。チョーウザい。それに、わたしが実験室を爆破でもするみたいに、いちいち過保護なんです。わたしたちが上手くいくわけないじゃないですか」


 ゴクリと唾を飲む。心臓が少し落ち着いてきた。「そ、そうなんですか…?」


「ええ」彼女は、本心からそう言っているような、自然な笑みを浮かべた。「どっちかっていうと、うっとうしいお兄ちゃんみたいなものです、わたしにとっては」


 直美ちゃんが、あたしの方を見て「ほらね!」とでも言うように、勝ち誇った顔をする。


 あたしは息を吐いた。胸のつかえが少しだけ、ほんの少しだけ軽くなった。あたしの考えすぎだったのかも…でも、あたしが安堵するより早く、友美さんはさらに話を続けた。その声は、甘い毒のように、からかう響きを帯びていた。


「ところで、フラヴィアンちゃんのことなんですけど…」


 あたしの体がビクッと硬直した。空気が薄くなる。「な、何ですか…?」


 彼女はニコッと笑い、身を乗り出した。「フラヴィアンちゃんがイギリス人だって、知ってました?」


「はい、それは…」心臓がまたドクドクと鳴り始める。


「それに、彼女の家…シルバーハンド家が、イギリスでとんでもないお金持ちだってことも?」友美さんは、片眉を上げて続けた。


 口がパクパクするだけで、言葉にならない。お金持ち?とんでもないって…どれくらい?


 直美ちゃんが眉をひそめる。「え、ちょ、それって貴族的な?」


 友美さんはコクンと頷き、笑みを深めた。「それで、他に誰がイギリス人か、知ってます?」


 シーン…


 胃がキリリと痛む。嫌な予感がした。


 直美ちゃんは一瞬瞬きして、それからハッと目を見開いた。「待って…勇太先生もじゃん!」


 あたしは緊張で固まる。「そして、彼もお金持ちの家系です」友美さんは、大したことじゃないみたいに肩をすくめた。


 直美ちゃんは顎に手を当て、点と点がピーンと繋がったように、顔を輝かせた。「ってことは…二人はイギリスの金持ち同士…まさか…」


「たぶん、婚約者同士なんじゃないですかねー?」


 友美さんのその一言で、直美ちゃんが「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。


 プツン。


 あたしの理性が、完全に焼き切れた音だった。


「えええええっ?!」あたしの絶叫が、教室に響き渡った。手が震える。婚約者?!


「け、結婚…?」あたしは呟いた。全身の血の気が引いて、足がガクガクする。嘘だ。そんなの、ありえない…でしょ?でしょ?!


 友美さんはただ肩をすくめてニコニコ笑っている。隣では、直美ちゃんが「やっぱそーなんだ!」と興奮気味に頷いている。


 嘘だ、嘘だ、嘘だ…そんなの、意味わかんない…でも、もし本当だったら?


 授業は続いていたけど、あたしの耳には何も入ってこない。ノートは開いたままで、ペンはピタリと止まっている。


 フラヴィアンさん。勇太さん。友美さん。…それに、婚約者?


 頭の中がグルグル回る。さっきの衝撃で、顔がまだカァッと熱い。隣の直美ちゃんの方なんて、見れっこない。きっと、あたしのことを見てクスクス笑ってるに決まってる。また「よだれ垂らしてた」なんて言われたら、今度こそ立ち直れない。


 でも、よく考えたら、友美さんの言葉だけが胸にズキリと刺さってるわけじゃなかった。昨日のパーティーであった、もう一つのこと。斎藤さんとの、あの会話。


(回想:恵さんの誕生日パーティー)


 あたしはソファの隅っこで、一人ポツンと座っていた。恵さんがプレゼントを開けている間、部屋は笑い声で溢れ、LEDライトが赤や青にチカチカ光り、ピザとチョコレートケーキの匂いが混ざり合っていた。あたしはぬるくなったジュースのコップを握りしめ、誰とも視線を合わせないようにしていた。いや、彼女と視線を合わせないように。


 でも、あたしの目は磁石みたいに、どうしてもフラヴィアンさんに引き寄せられてしまう。彼女は輪の中心で楽しそうに笑っていて、黒い髪がライトを反射している。身振り手振りを交えて何かを話すと、周りのみんながドッと沸く。すごく…自然体。まるで、そこにいるのが当たり前みたいに。そして、ゆうくんは壁に寄りかかって、学校では絶対に見せないような、半分笑ったような顔で彼女の話を聞いていた。時々目が合って、小さく笑い合う二人は、あたしの知らない世界を共有しているように見えた。


 あたしはギュッと唇を噛んだ。コップを持つ手が、微かに震える。なんで、こんなにイライラするの?


「そんなに睨んでっと、そのうち彼女に穴が開くぞ」


 突然の声に、あたしはビクッと飛び上がった。


 振り返ると、斎藤さんがギシッと音を立てて隣の椅子を引いていた。手には飲みかけのビールの瓶が握られている。「睨んでなんかない」あたしは早口で言い返して、腕を組んだ。


「はいはい、そうだな」彼は、あたしがムッとするほど皮肉っぽい口調で言って、ビールを一口飲んだ。「で、俺は日本の皇帝陛下、と」


 あたしはプイッと顔をそむける。でも、斎藤さんは諦めなかった。「まあ、落ち着けよ、花宮」彼はテーブルに肘をついて、続けた。「あの二人を見てると、ちょっと変な感じがするのも分かる」


 全身がカチンと固まる。心臓がドクンと跳ねた。「どういう意味ですか?」


 彼は肩をすくめた。「勇太とフラヴィアンは、仲がいいんだ。昔からな。一緒に育ったようなもんだし」


 あたしは瞬きをした。混乱する。「一緒に…育った?」声が、か細く震えた。


 斎藤さんは頷いた。「あいつらは昔から一緒なんだよ。お前が勇太と持ってる関係とは、また違う関係だ」彼は一度言葉を切り、あたしの反応を試すように見つめた。「今はまだ分からなくても、いずれ、あいつらがお互いにとってどういう存在なのか、お前にも分かる時が来る」


 胸が、万力で締め付けられるようにギュッと痛んだ。「それって…どういう…?」答えを聞くのが、怖かった。


 斎藤さんは一瞬、いつもの軽い笑みを消して、どこか悲しげな、真剣な顔になった。何かを言いかけて、やめたようだった。結局、彼はまた笑ったけど、それは目の奥が笑っていない、疲れた笑みだった。「そのうち分かるさ」


 そう言って彼は立ち上がり、あたしの髪をワシャワシャと軽く撫でた。「楽しめよ、花宮」


 彼が恵さんの元へ戻っていくのを、あたしはぬるいジュースを持ったまま、ただ見つめていた。でも、なぜか、恵さんの隣に立つ斎藤さんは、すごく距離があるように見えた。彼女に触れず、一緒に笑うでもなく、ただ床のどこか一点を、虚ろな目で見つめていた。


 あたしはもう一度、フラヴィアンさんとゆうくんのいる方へ視線を戻した。胸の痛みがぶり返す。でも、今度はただの嫉妬じゃなかった。――恐怖だ。理解できないことへの、彼らの世界に決して入れないことへの、恐怖。


 回想終わり。


 ハッとして、あたしの意識は教室に戻る。でも、あの嫌な感覚は、影みたいに心に張り付いて消えなかった。斎藤さんの言葉が、直美ちゃんのからかいや、友美さんの謎めいた笑顔と混ざり合って、頭の中でグルグルと回り続ける。


「そのうち分かるさ」


 あれは、一体どういう意味だったんだろう?ゆうくんとフラヴィアンさんのこと?それとも、あたしのこと…?


 もしかしたら…斎藤さんだけじゃないのかもしれない。見て見ぬフリをしてるのは。あたしだって、同じことをしてるんじゃないか。言い訳して、目をそらして、黙り込んで、自分の気持ちから逃げてる。頭の中で、直美ちゃんの声が響いた。


「彼のことが好きなんでしょ」


 ズキン!


 心臓が痛い。その考えを認めたくなくて、目の前のノートが滲んだ。


 違う。


 ありえない。


 そんなわけない。


 ただの…勘違い、だよね?


 …ねぇ?!


___________________________________________________


 キーンコーンカーンコーンと、休憩時間の終わりを告げる鋭いチャイムが教室のざわめきを切り裂いた。生徒たちが立ち上がり、椅子がガタガタと音を立て、皆が肩に鞄を放り投げる。あたしはまだ自分の席に座ったまま、重い心でペンをいじっていた。直美ちゃんと魁斗くんはとっくに食堂へ向かったらしく、教室にはあたし自身の思考の反響だけが残されていた。


 あたしは立ち上がり、制服のスカートを直して廊下に出た。廊下は活気に満ちていた。――大きな声、笑い声、光るリノリウムの床を鳴らすスニーカーのキュッキュッという音。高い窓から差し込む太陽の光が床に反射し、ティーンエイジャーのデオドラントと購買のパンの匂いが混じった空気を暖めている。あたしは中庭に行くか、どこか静かな隅っこで息を整えるか、決められないままゆっくりと歩いていた。


 その時、彼を見つけた。ゆうくん――いや、勇太先生が、廊下の向こうから書類の束を抱えて歩いてくる。袖をまくった薄緑色のワイシャツ、緩んだネクタイ、緑のメッシュを隠す低いポニーテール。彼はすごく…普通に見えた。パーティーで見た、あたしが認めたくない感情を抱かせた、あの半笑いの勇太さんとは全然違う。


 心臓がドクンと大きく鳴った。あたしはカチンと固まり、足が床に張り付いたみたいだ。


 話しかけて、陽菜!頭の中の一人のあたしが叫ぶ。


 逃げて!もう一人が悲鳴を上げた。


 あたしが決心する前に、彼が顔を上げてあたしに気づいた。いつもは退屈そうなその目が、一瞬だけ和らぐ。


「花宮さん」彼の声は穏やかだった。


「ゆ、勇太先生!」あたしはどもってしまい、顔がカァッと熱くなるのを感じた。(何か言って!何でもいいから!)「あ、あの…授業…どうでしたか?」


 なんてバカな質問、あたし!


 彼は一瞬瞬きして、明らかに困惑していた。「普通でしたよ。君の方は?」


「よかったです!じゃなくて、普通でした!」声が裏返った。穴があったら入りたい。後ろで笑い声がして、何人かの生徒が好奇の目を向けながら通り過ぎていく。胃がキリリと痛んだ。(ここでは個人的な話はできない)あたしが彼を「ゆうくん」と呼ぶことを知ってる人はいるけど、これは違う。もし親密そうな話をしたら、次のチャイムが鳴る前には学校中に噂が広まってる。


「あの…先生」あたしは必死で、当たり障りのない話題を探した。「国語のことで…『和』っていう漢字…あれって、えっと…部首は…お米、でしたっけ?」


 勇太先生は眉をひそめた。「『和』、ですか?」彼は心底不思議そうだった。「ええ、部首は『のぎへん』で、穀物に関連しています。それが何か?」


「です!ですよね!ただの…確認です!」無理やり笑ってみせたけど、顔は燃えるように熱かった。なんであたし、こんなこと言っちゃったの?!


 廊下は静かになった。本当のことを話そうかと思った。パーティーのこと、自分の気持ちのこと。でも、言葉が喉に詰まって出てこない。やめた方がいい。彼は先生なんだから。それって…ダメなこと、だよね?


「花宮さん」彼が、ほとんど優しさと呼べるくらい、柔らかな声で言った。「何か悩んでいるように見えますが。大丈夫ですか?」


 あたしはハッとして顔を上げた。彼が笑っていた。――小さな、でもとても誠実な笑みで、あたしの心臓がピョンと跳ねた。


「結局、手伝うのがわたしの仕事ですから」彼は、少しだけからかうような口調で付け加えた。


 その瞬間、あたしには彼が先生には見えなかった。パーティーのゆうくん、原宿のゆうくん、あの路地裏であたしを助けてくれたゆうくん…結んだ髪、緑のメッシュ…一瞬、彼の偽りが剥がれ落ちたように見えた。直美ちゃんの言葉が頭に響く。『そんな目で見てないくせに…まだ彼のことを『ゆうくん』って呼んでる』


 彼女の言う通りだ)顔に熱が集まる。


 あたし、彼のことが好きなんだ。


 あたしがその思いを処理する前に、空気を切り裂くような、丁寧すぎる声が響いた。胃がひやりとした。


「おや、竹内先生」


 あたしたちは振り返った。そこに立っていたのは、灰色のスーツを着た男。――短い、深緑色の髪、顔には完璧な笑みを浮かべている。木村先生だ。彼の目の中に何か、冷たくて計算されたような光があって、あたしは警戒した。


「木村先生」勇太くんが応え、彼の態度がスッと変わるのをあたしは見逃さなかった。


「いつも生徒たちのために熱心ですね」木村先生はそう言うと、あたしに一瞥をくれてから勇太に向き直った。「だからこそ、生徒たちに人気があるんでしょう。花宮さんも、こんなに熱心な先生がいて幸運ですね」


 あたしは勇太くんに目をやった。いつもの退屈そうな顔か、あの有名な「勇太ステア」――彼が何かに苛立った時に見せる、軽蔑に満ちた殺人的な視線――を予想していた。でも、違った。彼は笑っていた。穏やかで、人当たりのいい笑顔を。


「できることをしているだけですよ」勇太先生はそう答えた。その声は、別人のように落ち着いていた。


 でも、あたしには分かった。誰よりも。


 その笑顔は、偽物だ。


 ゆうくんは、あんな風には笑わない。そんなに簡単に…そんなハリボテみたいな顔はしない。いつもは気だるげな、くすんだ黄色の瞳が、何かを隠している。肩はこわばり、手に持った書類を普通以上に強く握りしめている。


 この人じゃない。


「では、頑張ってください」木村先生は、あたしにウィンクしてみせた。「また後で、竹内先生。花宮さん」


 彼は踵を返し、靴音をコツコツと響かせながら廊下の角に消えていった。あたしは彼の後ろ姿を見つめていた。彼の親切さが、なんだか…おかしい、と。


「花宮さん」


 ハッとして勇太くんの方を振り返ると、あたしの心臓が止まった。彼の仮面は、剥がれ落ちていた。瞳はもう退屈そうじゃない。鋭く、焦点を結び、冷たくて純粋な怒りに満ちていた。――あのショッピングモールであたしを助けた日に見た、あの静かな怒りだ。彼の瞳の黄色は、くすんではいなかった。今は、闇を切り裂く稲妻のように、激しい光で輝いている。その表情は硬く、顎は食いしばられていた。


「彼にはあまり近づくな」低い声だったが、あたしを震えさせるほどの切迫感がこもっていた。


「な、なんで…ですか?」声が震える。


 彼は答えなかった。ただ、もう一瞬だけその鋭い視線であたしを射抜くと、スッと表情を和らげ、またいつもの先生の仮面をかぶった。「…ただ、気をつけなさい」


 あたしは、訳も分からないまま、コクンと頷いた。心臓がうるさい。何が起きてるの?


 勇太先生は書類を持ち直し、廊下を歩いて行った。あたしはそこに立ち尽くし、あの燃えるような視線を心に焼き付けながら。そして初めて、あたしの知っているゆうくんには、あたしの知らない、何か危険な一面があるのだと感じた。

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