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第2話 「情報屋の憂鬱」

花宮陽菜


 あたしのノートパソコンのスピーカーから、ザーザーとノイズ混じりに聞こえる彼の声は、あたしの毎週の拷問のテーマソングだった。


「発音が違うよ、花宮さん。まただ」


 あたしは英語のノートから顔を上げ、こめかみがピクピクするのを感じた。そして、画面に映る彼、本物の勇太を睨みつけた。うん、認めがたいけど、本当の勇太は、最高にムカつく奴だった。


 ショッピングモールの事件から、もう一週間以上が経つ。あたしが公式に、彼の「情報屋」になってから一週間以上。それで、実際にはどうなったかって?何も、ぜーんぜん、何もなかった。秘密の任務も、解読すべき暗号もない。ただ、あたしのことを心底嫌ってそうな男との、耐え難いほど退屈な英語の授業があるだけ。


 彼が共有画面で、またあたしの間違いを赤いカーソルでクルクルと囲っている間、あたしの裏切り者の脳みそは、忘れようとしていた瞬間に引き戻されていた。


 あの試着室の、薄暗い光の中へ。いつもは死んだ魚みたいな黄色い瞳が、突然、溶けた金のようにキラキラと輝いて、あたしをまっすぐに見ていた、あの瞬間へ。あのホコリっぽい倉庫の中へ。彼が、あたしの手にキスをした、あのフォーマルな仕草に、胃がキュンと締め付けられた、あの瞬間へ。


「綺麗だよ」。その言葉が響く。


「ルナちゃん」。あの低い声で囁かれたあだ名が、まだあたしの背筋をゾクゾクさせる。


 あの時、あたしのバカな心臓は、期待のお城を建ててしまった。(彼は変わる!あたしたちの関係は、これから違うものになるんだ!)そう、何度も何度も思った。彼は大人で、大学生だけど…たったの四歳差じゃない。現実の数学では、大したことない。問題ない、よね?


 でも、現実は冷たい水のバケツだった。画面の向こうの勇太は、ミステリアスな王子様でも、照れ屋の貴公子でもなかった。五分ごとにため息をつき、ペンで首筋をポリポリ掻きながら、「この文法は非論理的だ」と文句を言う男だった。不規則動詞の説明の途中で、スマホのゲームの通知をチェックするために話を止める男だった。


 そして、そう、あのクソガキは、ハンサムだった。腹が立つほど、綺麗だった。今の、偽装のないお団子頭は、耳の後ろの緑のメッシュを完璧に引き立ててるし、画面を覗き込むために屈んだ時に、金色の瞳にかかるあの前髪…彼は「死ぬほどイケメン」で「一緒にいるのが耐えられないほどムカつく」っていう、完璧なコンボだった。


 マジで、最悪なガキ!


「…聞いてるのか、花宮さん?それとも、別の惑星にでも行ってたか?」


 彼の皮肉な声があたしの思考を断ち切り、あたしはハッとして現実に引き戻された。もう、たくさん。我慢の限界だった。


「もう一週間以上経つのに、何の情報もくれないじゃない!」あたしは、思ったより強くペンを机に**バン!**と叩きつけながら文句を言った。「あたしは、あなたの『情報屋』になったはずでしょ!一体、何をすればいいのよ?!」


 彼は通話の向こうで、まるでテクノロジーさえも彼にうんざりしているかのように、ザーッとノイズ混じりの長いため息をついた。「何か必要な時が来たら、僕から君に連絡すると言ったはずだ」彼の声は、恐ろしく単調だった。「今のところ、君に頼むことは何もない。ただ、勉強を続けなさい。君の発音は、まだ酷い」


「でも…」


「それに、そんなに大っぴらにその話をするのはやめろ」彼はあたしを遮った。画面越しの彼の視線が、少しだけ真剣になる。「馬鹿げている」


 その言葉が、ビンタのようにあたしを打った。馬鹿げている。


 そうかもしれない。一瞬でも、何かが変わるかもしれないなんて信じたあたしが、馬鹿だったのかもしれない。


 あたしは、さよならも言わずに、ブツッと通話を切った。


 自分の部屋の静寂が、急に、とても重く感じられた。


「ゆうくんの…バカ…」


___________________________________________________


 食堂のガヤガヤとした騒音も、クラスメイトたちの弁当の箸が当たる音も、どこか遠いホワイトノイズのようだった。あたしは、自分の周りにできたイライラの泡の中で、ぷかぷかと浮かんでいた。ペンは、黒板に書かれた「フランス革命」の途中で止まったまま。でも、あたしの頭はもっと最近の圧政に支配されていた——竹内勇太という圧政に。


 マジでムカつく!もう一週間も経つのに、何にもないじゃん!どんな『秘密のスパイ』が『情報屋』をスカウトしておいて、その後放置すんのよ?ただノートパソコンの画面に出てきて、あたしの発音にケチつけて、英語の授業で拷問するだけ…しかも、あのバカ…なんであんなに…あんなに…あーもうっ!


 あたしは、自分の思考に完全に沈み込んでいた。周りの世界は、声と動きのぼやけた塊になっていた…その時までは。


「はるちゃーーーん!」


「ぎゃあああああ!」


 直美ちゃんの叫び声が、あたしの耳元でキンキンに響き、心臓が口から飛び出しそうなくらい、椅子から飛び上がった。


「もー、はるちゃん、マジ何なの?またボーッとしてんじゃん」直美ちゃんは、呆れたようにため息をつきながら、あたしをそのオレンジ色の強い瞳で見ていた。彼女のサーモンピンクの髪は、いつものように、子供の頃からの癖だという赤いリボンで、高い位置でサイドポニーに結ばれている。大きめの制服と、だらしなく結ばれた二年生の緑のリボンが、彼女の「ライトギャル」な雰囲気を完成させていた。


「おーい、花宮さん!」魁斗くんが、あたしを本気で心配する声で言った。それが、余計にあたしをイライラさせる。彼は前の席に座り、こちらを向いていた。刈り上げた頭と細い眉のせいで、その青い瞳がさらに大きく見える。「前はエネルギーの塊みたいだったのに、今じゃ魂が抜けたみてえだぜ」


「あたしの魂は、ちゃんとここにありますけどぉ!」あたしは二人に叫んだ。


 二人は、きょとんとした顔で、あたしをただ見ていた。まるで、その反応を完璧に予測していたかのように。「へー、そーなんだ…」と、ほとんど同時に呟いた。


 顔がカァッと熱くなるのを感じて、あたしはプイッと顔をそむけ、腕を組んで唇を尖らせた。自分の、きちんと結ばれた緑のリボンを、意味もなくキュッと締め直す。(バカたち…)


「おっ…」直美ちゃんの目が、驚きで丸くなった。可哀想に、魁斗くんは混乱している。


「マジで大丈夫か、花宮さん?」と彼が尋ねた。


「うん!」あたしは、さらに顔を赤くしながら、彼の方を見ずに答えた。


 彼の反応は…ありえなかった。彼は幽霊でも見たかのように、ビクッとして後ずさった。「こ、この反応はまさか…?花宮さん…まさか、恋…してんのか?!」彼は、恐ろしい理論の確認を求めるように、直美ちゃんを見た。


 直美ちゃんは、彼のドラマに気づくと、意地悪く笑いながら、ゆっくりと頷いた。「そーだよ、魁斗。そーゆーこと」


 魁斗くんの世界が、ガラガラと崩れ落ちたようだった。「う、嘘だろ、高橋さん!」彼は、涙声で、ほとんど泣きそうに言った。そして、あたしが完全に呆然とする中、彼はモンスターから逃げるように、ドラマチックに泣きじゃくりながら教室を飛び出していった。


 あたしは、ぽかんとして直美ちゃんを見た。「何なの、あいつ?」


 彼女は、子供を相手にするように、ただため息をついた。そして、あたしの方を向き、その意地悪な笑みをさらに大きくした。「てかさー、ユウさんにフラれたとか?」


 あたしの頭の中で、パチッと何かが繋がった。魁斗のドラマ…あたしが赤くなったこと…直美ちゃんの質問…あいつら、あたしがこんななのは…恋のせいだと思ってる?!ゆうくんへの?!


 その認識が、ドカンと落ちてきた。


「違う!」あたしは、**バン!**と椅子から立ち上がった。「違う!あのムカつく朴念仁が、そんなわけない!あたしが、あいつのことなんて、絶対に…!」


「えぇぇぇ〜?!」直美ちゃんは、世界の最大の秘密を発見したかのような声で叫び、古典的な漫画のように、伸ばした指で口元を覆った。


「うるさい!」あたしは叫び、自分のカバンを掴むと、怒りに任せて教室を飛び出した。


「そんな怒んないでよ、はるちゃん!恋バナしよっ、恋バナ!全部教えなって!」直美ちゃんはあたしの腕にがしっとしがみつき、あたしが廊下を突き進む間、引きずられながら、他の生徒たちが部活に向かうのを横目に、キャッキャと笑っていた。


 恋?!バカじゃないの、あいつ!あたしの問題は失恋なんかじゃない!あのムカつくイケメンスパイが押し付けてきた、あのクソみたいな『任務』のせいだっての!マジで、ありえない!


 あたしは廊下をズンズンと、怒りに任せて進んでいた。あたしの腕には、ピンク髪のコアラみたいに直美ちゃんがしがみついている。


「もぉ、そんな怒んないでよ、はるちゃん!ねぇ、教えなって!やっぱユウさんのことでしょ?あちし、知ってるんだから!」彼女は、唇をぷくっと尖らせながら、あたしに引きずられていた。


 でも、あたしの頭は別のことでいっぱいだった。彼女の戯言はガンガンと無視。


 あたしの頭の中で、あたしを攫った男たちの言葉がリフレインする。——「赤い髪に黄色い目」


 そんな曖昧な特徴じゃ、特定なんて無理でしょ。一体何人いると思ってんのよ、そんな子


 でも、もう一つの言葉が、ネオンサインみたいにピカッと点滅した。——「シルバーハンドの娘と一緒にいた」


(フラヴィアン・シルバーハンド…!)あたしが知る限り、「シルバーハンドの娘」は彼女しかいない。じゃあ、ターゲットはフラヴィアンだった?いや、それなら、カフェや店で直接彼女を狙えばよかったはず。なんであたしを?なんで間違えるの?


 奴らは、彼女と一緒にいた誰かを狙っていたんだ。


 あのショッピングモールでの一件以来、好奇心(と、あたしが決して認めない、ほんの少しの嫉妬)のせいで、彼女のことを調べた。別に、ゆうくんと彼女のことでヤキモチ焼いてるとか、そういうのじゃないんだから!任務のため、そう、任務のためよ!


 そして、あたしが見つけた事実は、正直、ドン引きレベルだった。フラヴィアン・シルバーハンド。彼女の父親は、鉱業から刃物、特殊金属まで手掛ける世界的なイギリスの企業、シルバーハンド社のオーナー兼CEO。そして母親は、日本の最大手であり、世界第三位の規模を誇るインテリジェント・テクノロジーと兵器開発企業、神未来 グループの跡取り娘。二人の結婚は、政略結婚だった。


 こんな経歴の子が、なんでボディガードも付けずにウロウロしてるわけ?!


 頭がズキズキしてきた。結論は一つ。ターゲットはフラヴィアンじゃない。彼女のような誰かだ。でも、誰?開盟かいもん高校はエリート校じゃないけど、その教育水準の高さで知られる名門校だ。入学するのがどれだけ大変だったか、思い出したくもない。(あたしなんて、いつもギリギリで合格だったんだから)それでも、フラヴィアンみたいな「特別」な生徒は、他にもたくさんいる。じゃあ、誰?どうやって見つけるの?もしかして、あたしが…?


 あたしは廊下の真ん中で、ピタッと足を止めた。


 あたしにしがみついていた直美ちゃんが、前のめりになって、あたしの背中にこつんとぶつかった。「うわっ!あっ、やっと止まった!で、話してくれる気になった?その傷心のワケをさぁ」


 あたしは彼女の言葉を遮って、真剣な声で尋ねた。「直美ちゃん。デザイン部のパソコンから、学校のデータベースにアクセスできる?」


 彼女は、あたしが世界で一番のバカだと言わんばかりの顔をした。「はぁ?はるちゃん、アタマ大丈夫?できるワケないじゃん、普通に!セキュリティ、ガチガチなんだから!」


 **はぁ…**と、あたしは敗北のため息をついた。唯一のアイデアが、一瞬で消えた。


「でもさー」彼女は、いたずらっぽく笑って続けた。「一年生に、そういうのちょー得意なハッカーみたいな後輩いるんだよね」


 あたしの顔が、パァッと明るくなった。希望の光が差し込んできた。


「直美ちゃん!」あたしは衝動的に、彼女をぎゅーっと抱きしめた。「あんた、最高!」


 彼女は一瞬驚いたけど、すぐに抱きしめ返してきて、あたしの髪を犬でも撫でるみたいにわしゃわしゃした。


「よしよし…はるちゃんは助けが必要だもんねぇ。この親友に任せなさいって!」


___________________________________________________


 あたしは、グラフィック・ビジュアルデザイン部のドアを、まるで台風みたいに**バアアアン!**と開け放った。


 入り口でピタッと止まり、右腕をドラマチックに広げ、左手は腰に。「主役のお出ましよ!」と、静まり返った部屋に宣言した。


 一歩後ろにいた直美ちゃんは、ただ「あたし、この子とは無関係ですけど」って顔で、手で顔を覆っている。


 部屋の静寂は、**ヒソヒソ…という集団的な囁きで破られた。すべての視線があたしに注がれる。そして、その視線の主は全員、まるでパソコンの画面の前で進化したかのような、「オタク系男子」たち。彼らは、まるで神話上の生き物が聖域に侵入してきたかのように、恐怖と興味が混じった目であたしを見つめていた。あたしは、彼らのヒヒヒ…**という緊張した笑い声を聞いて、穴を掘って埋まりたくなった。


 **うわ、恥ずっ!**なんてバカなことしたの、あたし!


 直美は、そんなあたしをスタスタと通り過ぎ、あたしの手を掴んで中へ引っ張った。「大丈夫だって」と彼女は囁いた。「はるちゃんが怖がられてる方だから」その声は冷たく、表情は変わらない。


「あなた、毎日こんな感じなの?」と、あたしはまだ気まずいまま尋ねた。


「最初はね。今じゃもう、あちしのことなんて気にもしてないよ」と彼女は言った。「それに、この『オタク』たちの中にも、『普通』の人はいるし」


「僕らはオタクかもしれませんが、普通ですよ、高橋先輩!」


 苛立った声が、部屋の隅から飛んできた。黒縁メガネをかけた、短い茶髪の男の子が立ち上がって、あたしたちを睨んでいる。


 直美はあたしの方を向き、ニヤリと笑った。「山田宏くん。一年生。あちしが言ってた天才君だよ」


 この子が、あたしたちのハッカー?!あたしは笑顔を切り替えて、彼の方へ進み出た。「はじめまして、山田くん!あたしは花宮陽菜!」


 彼は一歩後ずさり、恥ずかしそうにモニターの影に隠れようとした。メガネをクイッと押し上げて、真面目な顔を作ろうとしている。「な、何の用ですか?」


 直美が、まるで獲物に忍び寄る猫のように、彼に近づいた。彼はビクビクと、目に見えて震え始める。彼女は身をかがめ、彼の耳元で何かを囁いた。彼がパニックに陥った顔つきからして、学校のサーバーにハッキングして、という内容だったに違いない。


 彼は、恥ずかしさで震えながらも、首を横に振った。「む、無理です!校則違反ですし、バレたら退学に…!」


(うそ、ダメじゃん!)あたしは、雨に捨てられた子猫みたいな顔を作って、ウルウルした瞳で彼を見つめた。「お願い、山田くん…あたしたち、本当にあなたの助けが必要なの…」


 彼はそれでも、顔を真っ赤にして、あたしたちから目を逸らしたまま、頑なに首を振る。(うわ、この子、手強い!美少女二人の誘惑に負けないなんて!)


 直美は、芝居がかったため息をついた。「まあ、仕方ないね。君にできないなら、もっと腕のいいプログラマーを探すしかないか」彼女はくるりと背を向け、あたしの手を取って去ろうとした。


「誰ができないって言ったんですか?!」彼の声には、プライドを傷つけられた響きがあった。


 あたしたちは振り返った。「できるの?」とあたしは尋ねた。


「はい!でも…対価が必要です」と彼は言った。


 直美はあたしの耳元で囁いた。「こういうタイプは、絶対ヤバいこと考えてるって。『際どい写真送れ』とか、そういうの」


 うわ、キモッ!あたしの胃がキリリと痛んだ。


 だが、山田くんはあたしたちの言葉を遮った。その声は震え、体も震え、視線は彷徨っている。奇妙で、緊張した笑いが、彼から漏れた。


「ほらね?絶対、気持ち悪いこと要求してくるよ!」と直美が囁く。


 彼は一歩近づいてきた。あたしは、どんな答えが返ってくるのか、恐怖で震える。だが、彼は震える手を上げると、おずおずと部屋の隅を指差した。


 あたしたち二人は、その指の先を追った。


 そこには、モニターの青白い光だけを浴びて、一人の少女が座っていた。長く、滑らかな髪は、銀髪に近いほど白く、毛先が緑がかった光を放っているように見えた。瓶の底みたいな分厚い丸メガネのせいで、その瞳は全く見えない。


「ぼ、ぼ、僕が…し、知りたいのは…か、彼女と話すための…ヒント、です…」と、山田くんはどもりながら言った。


 あたしたち二人は、その少女を見て、彼を見て、ポカーンとしてしまった。


 直美は、ただ一言、「…なるほどね」と言った。


 可愛い!恋してるんだ、この子!なんてピュアなの!


 ………


 山田くんは、キーボードの上で指をカタカタカタッと、信じられない速さで踊らせ始めた。「赤い髪と黄色い瞳の女子生徒の記録、ですね、花宮先輩?」


「そう!」


 直美にその理由を尋ねられたけど、適当にごまかした。彼女はすぐに興味をなくして、スマホをいじり始めた。


「なんでここ、デザイン部なのに『ナード』ばっかりなの?」とあたしは尋ねた。「『アーティスト』とか、直美ちゃんみたいな写真家がいるべきじゃない?」


「まず、その呼び方やめな、バカ」彼女は、スマホから目を離さずに言った。「それに、いるよ。でも、『アーティスト』の多くは、外で『アート』してる。ここは、学校で唯一、高性能なパソコンが自由にいじれる場所なの。だから、プログラムとか編集が苦手な『アーティスト』を、ここのプロたちが手伝う代わりに、機材を使わせてもらうっていう、ギブアンドテイクが成り立ってんの」


「へぇ…ごめん」


「ここにいる山田くんはね」直美は、ようやくスマホをしまい、彼の肩にポンと手を置いた。彼は気にもしない、もう慣れているみたいだ。「あちしが画像編集ソフトで困った時に、いつも助けてくれる、可愛い後輩ってワケ」


「終わりました」と彼が言った。


 あたしのスマホがブルッと震えた。あたしは驚いた。「なんであたしのメルアド知ってるの?!」


「知りません。学校のサーバーから印刷したり、データを保存したりはできないので、スクリーンショットを撮って、花宮先輩の学校のメールアドレスに送っておきました。今の僕にできるのは、これだけです」


「ありがとう、山田くん!あなたは天才よ!」あたしは、感謝の気持ちで、彼のすぐそばまで近づいた。


 彼はビクッとして、顔を赤くして後ずさった。「ち、近くに寄らないでください!」


「あ、ごめん。女の子に慣れてないのかな?」


「慣れてます」彼は、直美ちゃんの方をチラッと顎で示した。「でも、高橋先輩は…脅威じゃないですから…」彼の視線が、部屋の隅にいる、白髪の少女の方へ、スーッと流れた。


(ああ…)あたしは、ようやく全てを理解して、声を漏らした。


___________________________________________________


「ジャーン!」あたしはゆうくんの隠れ家で、彼にスマホの画面を見せびらかしていた。彼の顔にはまだ、あの胡散臭い『先生』の偽装――偽物のシワと、あのダサいメガネがくっついていた。「お望みの情報よ、秘密のスパイさん!」


 彼はスマホを受け取ると、退屈そうな顔でパラパラとプリントの画像を見ていく。「ああ、これか。僕ももう済ませたよ」


 はぁ?!


 あたしの満面の笑みが、ピシッと凍りついた。


『もう済ませた』って、どういうこと?!あたしが、あの変な後輩に魂を売り渡す勢いで手に入れたっていうのに、この努力が無駄だったって言うの?!ムカつく!


「どういうことよ?!あんた、あたしをからかってる——」


「だが」彼はあたしの言葉を遮り、指がある名前の上でピタッと止まった。その声色が変わる。「この生徒…椿理香。彼女は、僕がアクセスしたファイルにはいなかった」彼はようやくスマホから顔を上げて、あたしを見た。その金色の瞳に、初めて、純粋な関心の光がキラリと宿る。「どうやって彼女を見つけたんだ?」


 あたしは言葉を失い、怒りがフワッと霧散して、代わりに混乱した驚きがやってきた。


「これは…大したもんだね、花宮さん」


 あたしの心臓がドキッとした。(え…彼、あたしを褒めた?)あたしは、顔に上る熱を隠すために、プイッと頬を膨らませて体勢を立て直した。


「そ、そうよ!もっと褒めてくれてもいいんだからね!」


「僕はもう褒めたが」彼はそう言って、またスマホに注意を戻した。


「ああ、そう?」あたしの口調は、即座に挑発的で、見下したようなものに変わった。「それで?なんでそんなに興味津々なわけ?秘密のスパイさんは、もしかして、女子高生に特別なフェチでもあるのかしら?んーんっ♡」あたしは、アニメの悪役みたいに、わざとらしく甘い声を出してみた。


 彼はあたしをじっと見た。一瞬、その瞳に純粋な苛立ちの光が走ったが、すぐにあの危険な笑みに取って代わられた。「自分のスマホを他人の手に預けておいて、ずいぶん自信満々だな」


 あたしは混乱した。「え…?」


「おや、この写真フォルダは…」彼は、あたしのギャラリーをスクロールしているかのように、親指をスッと動かした。「何か…際どいものでもあるのかな?」


「なっ?!返しなさいよ、この変態!」あたしは絶望的に叫び、彼の手からスマホを奪い取ろうと飛びかかった。


 彼はただ腕を上げ、あたしをいとも簡単に遠ざけると、画面を見せてきた。彼は、山田くんからもらったプリントの画像から、一歩も動いていなかった。


 あたしは怒りで顔をカァッと赤くした。このクソジジイ!あんたの先祖代々の霊が、夜な夜なあんたの足を引っ張りに来ますように!


 彼は何事もなかったかのように続けた。「椿理香は、赤毛でもなければ、黄色い目でもない」


「え?」その言葉に、あたしは不意を突かれた。


「彼女を知っているか?」と彼は尋ねた。


「名前は、なんか聞いたことあるような…でも、個人的には知らないと思う」


「もし僕が考えている椿理香なら…これは大きな収穫だ」彼はあたしにスマホを返し、礼を言った。そして、彼は微笑んだ。あたしの顔をボーッと熱くさせる、本物の、穏やかな笑顔だった。


 あたしは視線を逸らした。「情報屋として、自分の仕事をしただけよ」と、プロっぽく聞こえるように言ってみた。


「それでも、君は褒美に値する」と彼は言った。「君にあげたドレスは、今やその『褒美』というわけだ」


「褒美としてドレスを受け取るつもりはないわよ!」あたしは、カチンときて言い返した。「誕生日のプレゼントとしてなら、受け取ってあげる」


 彼はパチクリと瞬きし、混乱した。「君の誕生日は近いのか?」


「ううん。二月だったけど」


「じゃあ、なんで三ヶ月も遅れた誕生日プレゼントを欲しがるんだ?!」彼は、少し苛立って尋ねた。


「知らないわよ!いきなりドレスを『プレゼント』だって言ったのは、そっちでしょ、このバカ!」


 彼は何も理解できない、という顔で、口をパクパクさせた。だが、その表情がふと和らいだ。


「花宮さん…」彼は言いかけたが、やめた。彼の唇が少し震え、声はためらいがちで、気まずそうに視線を逸らした。


 何、この顔!超カワイイんですけど?!あたしは心の中で叫び、心臓が大きく跳ねるのを感じた。


「いや、何でもない」彼は、体勢を立て直して言った。


「何でもないことないでしょ!今、何を言おうとしたのよ!」とあたしは詰め寄った。


 彼は首を振った。「どうやってこの書類を手に入れたんだ?」


 ギクッ。(やばい!生徒を脅して学校のシステムに侵入させたなんて言えるわけない!ゆうくんが『秘密のスパイ』でも、彼はまだ学校の先生なんだから!)あたしは話を逸らそうとしたが、彼はそれを遮った。


「一年生の山田くん、だろう?」


 あたしは驚きと恐怖で固まった。「うわ…やっぱり本物のスパイなんだ!」


 彼はため息をついた。「もう二度とやるなよ、花宮さん」


「でも、あたし、あなたを助けようと、一生懸命やってるのに!」


 ポカッ!


 彼の手刀が、軽く、でも的確に、あたしの頭のてっぺんに落ちてきた。


「痛い!なんで叩くのよ?!」


「そうじゃない、この馬鹿!」彼の声は真剣だった。「そんなに怪しい動きをするなと言っているんだ!もし山田くんが君を怪しんだら?誰かに話したら?あるいは、彼がシステムに侵入して捕まったら?もっと自分の行動を考えろ!『秘密のスパイ』が、そんな素人みたいなミスで捕まるわけにはいかないだろう!」


 あたしは何も言えなかった。彼は…彼は、本当にあたしを真剣に扱っている。あたしを、任務の一部として。予想もしなかった幸福感とモチベーションが、胸の中にじわじわと広がっていった。


 でも、あたしはあたしだ。このまま終わらせるなんて、できなかった。


「まあ、先生は初日にバレてましたけどね」と、あたしはニヒヒと笑ってやった。


 彼のこめかみの血管が、ピクッと動いた。


「このアマ…!」

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