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君が僕の前に現れた日 ― 代用教師は実はひみつのスパイだった!  作者: わる
第1巻 - 始まりは零点と秘密の目撃者
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第1話「代役」

 朝の光が気だるそうに差し込んできても、あたし、花宮陽菜はるなの一日はすでに胃にパンチを食らって始まってた。犯行の凶器? 石田先生――あたしたちの恐るべき英語の巨匠が、勝ち誇ったように振り回してた赤い紙切れ一枚。


「花宮さん!」パンッ!先生の定規が机を叩いて、その音にあたしの内臓全部が縮こまった。クラス中の視線が針みたいに刺さるのを感じながら、英語のテストを受け取りに行った。そしてそこには、深紅の栄光に輝く真っ赤なゼロ。丸くて、あたしを嘲笑ってるみたいなゼロだった。


「花宮さん、この幾何学模様が何か、ご理解いただけていますね?」と石田先生が尋ねた。


「はい………………零点ですぅ」ぷるぅ…あたしの魂が溜息と一緒に抜けていった。


「その通り!英語で零点を取るとは、実に見事な離れ業ですね!」先生は一言一句を味わうように言った。


 ニヤリ


 ガチャーン!


 前の席の男子、あの魁斗とかいうお調子者が、口をあんぐり開けて振り向いて、「マジで、英語でゼロ点!?ウケる!」と笑った。ケラケラ


 ………………シーン。


 うん、自業自得だ。あたしの肩は落ち込み、プライドは粉々になった。


「別にアンタらが天才ってワケじゃないっしょ!」と高橋直美ちゃんが言った。あたしの幼馴染だ。――サーモンピンクの髪にキラキラネイルがチャームポイントのライトギャル――の声が飛んで、うるさい男子たちを一蹴した。


「直美ちゃーん、マジ神~!」むにゃむにゃあたしは泣きそうな声で言った。


 彼女は溜息をついて、一房の髪をいじった。「でもさー、あいつらの言うことも、ちょいは分かるっていうか?」


 ………………えーーーん。


「はるちゃんがゼロ点とか、マジありえんくらいボーッとしてたっしょ?」と直美ちゃんが続けた。ドカン!彼女のオレンジ色の瞳があたしをロックオンした。


「じーーーーっ………………」


「分かってるってば……でも英語ってマジ苦行なんだって!」ぷいっ!あたしの弁解は効果ゼロだった。


「実際は、コツさえ掴めば結構イケるんだけどな、英語。」あたしたちの友人で、明るい髪と青い瞳の、田中魁斗くんがいつもの自信ありげな笑顔で割って入ってきた。「花宮さん、よかったら俺が特訓してやろうか?」ニッコリ


『頼む、OKしてくれ!』って心の声がダダ漏れな視線だった。


「………………むぐっ」あたしは頬を膨らませて、ありったけの意志を込めて答えた。「遠慮しとく」


「え?でも――」と魁斗くんが食い下がろうとしたが、


「助けは要らないって言ったでしょ!」ビシッ!とあたしは遮った。


「彼、ぜんっぜん学ばないよね」と直美ちゃんが溜息交じりに言うと、魁斗くんは急にシオシオになった。


 そして、石田先生の「伝説の恐怖お説教タイム」が始まった。あたしは肘を机について、これ以上ないってくらい退屈そうな顔で聞いてるフリをした……


「皆さんは勉学の真の意義を理解するべきです、若き学徒たちよ!」と石田先生が熱弁する。


 ………………ん?


 突然、先生の射貫くような視線があたしを捉えた。


「来年、級友たちが誇らしげに卒業の途を辿る中、貴女だけが、この二年の教室で唯一の居残り組となるのですよ」


 ギクッ!冷たい何かが背筋を走った。


「ご理解いただけましたね、花宮さん?」と先生は念を押した。


「は、はいっ!完璧に理解いたしました、先生!」ピシッ!


 それはもう、ただの警告じゃなくて、あたしの未来への破滅宣告だった。


 次の授業は古典だった。普段なら多少は癒される時間だけど、今日はダメ――疲労感は英語の直後と変わらない。ただ、竹内先生の授業だけは、何かこう、キラキラしたものがあった。先生はどんな退屈な古文も、まるで魔法みたいに面白くしちゃう、あたしたちのヒーローだった。


 ……なのに、今日の教室は、いつもと空気が違った。


 ドアが軋んで開き、先生が入ってきた。いつもの教科書を持たず、そっと教卓に両手を置いた。


「今日は授業ではなく……少々お話したいことがあります」と竹内先生が切り出した。


 ザワ……………クラスの空気がピリッと張り詰めた。


「実は腰を痛めてしまいましてな。今年度いっぱいで休職することとなりました」


 ガチン、と心臓が鳴った。代わりの先生?全然ピンとこない。


 先生の「大丈夫ですよ」という笑顔も、なんだか涙で霞んで見えた。


 シーン……………誰も言葉が出ない。あたしは先生の手の深い皺をじっと見つめた――あの手で、一年の時、あたしが転んだ時に頭を優しく撫でてくれたんだ。


 チャイムが鳴り、あたしは恐る恐る職員室へ向かった。廊下に差し込む夕日が、やけに心に染みた。


「先生!」あたしの声が、震えてた。


 もじもじしながら声をかけると、先生は顔を上げ、疲れた表情の中にも、いつもの温かい笑顔を浮かべた。


「花宮さん、どうかなさいましたか?」眼鏡をくいっと押し上げながら尋ねる竹内先生の声は、まるで砂時計の砂が落ちるように穏やかだった。


「あの……お別れを言いに来ました。もし先生が戻って来られなかったら…って、そう思って」あたしの声はどんどん小さくなって、最後は風船がしぼむみたいだった。「それと……英語のテスト、また零点でした」こっそり……と視線を床に落とす。


 先生はふうっと息を吐き、持っていた書類を机に置いた。「零点ですか。まあ、貴女は昔から英語はあまり得意ではありませんでしたからな」


「はい、超ニガテです」ごしごしと首の後ろを掻きながら、蝉の抜け殻みたいに縮こまる。


「でも……先生、あたし、少しはマシになれますかね?新しい先生とでも……?」ぎゅっと制服のスカートの裾を握りしめた。


「勿論、なれますとも」先生の声は、力強い樫の木のようだった。「私の弟子は……少々風変わりなところがありますが、人と心を通わせる稀有な才能の持ち主です。きっと貴女の助けになってくれるでしょう」


 ぽろり、と涙が一粒、膝の上に落ちた。


「はい、先生……あたし、諦めません」あたしは言った。「それと……早く良くなって戻ってきてくださいね」


 先生の目が優しく細められた。まるで古いアルバムをめくるような、そんな表情だった。


「ええ、最善を尽くします。さあ、貴女も早く帰って、英語の勉強に励みなさい」と竹内先生は励ましてくれた。


 えへへ……二人で自然と笑い合っていた。その日、初めて心の中に、ぽっと温かい明かりが灯ったような気がした。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 家に着くと、あたしはまるでジャガイモの袋みたいにベッドに倒れ込んだ。天井を睨みつけ、学業問題への魔法の解決策がそこに現れるのを待っていた。


(……最悪!英語!勉強しなきゃ!)


 ガシャン!携帯が通知で光った。


「マジ!?あの少女漫画が実写化決定!?」


キャーッ!


 うつ伏せになって、机に顔をうずめながらニュースを貪り読んだ。画面の光があたしの赤い髪を照らした。


(ダメだよ、陽菜!石田先生に生徒のお刺身にされちゃう!)


 あたしはやるべきことは分かっていた。でも、一体全体、家で集中できる人なんているわけ?妹たちの叫び声、テレビの音、そしてこの携帯――永遠の現実逃避への誘い。戦う前から負け確だった。


 長いため息をつき、制服を脱ぎ捨て、椅子に無造作に投げた。擦り切れたジーンズ、だぼだぼの白いTシャツ、そしてあたし的にイケてると思ってる黒いベストに着替えた。赤い髪をポニーテールに結び、嵐のように階段を駆け下りた。


(よし!あの動詞どもを頭に叩き込むための静かな場所を探すぞ!)


 ドアに手をかける前に、お母さんに捕まった。「陽菜、また出かけるの?」と、彼女は尋ねた。台所で人参を外科医のような精密さで刻んでいた。カレーの匂いがあたしの鼻腔をくすぐり、お腹が抗議の叫びを上げた。


「うん。勉強するのに静かな場所が必要なの――」


「へえ?陽菜が自分から勉強だって!?」お父さんがリビングから叫んだ。彼はソファに寝そべり、新聞を読んでいるフリをしていた。


「お父さんこそ、今仕事してる時間じゃないの?」あたしは腕を組んで、片眉をぴくりと上げた。


「パパ、百合子と遊んでよー!」妹たちが猿の群れみたいにお父さんに飛びついた。一番下の百合子は、お父さんの背中にしがみつき、「わーい!」とはしゃいだ。彼女は、あたしや沙希の燃えるような赤毛とは違い、お父さん譲りの真夜中の海に浮かぶ月明かりのような深い藍色の髪を、ぴゅんぴゅん引っ張っていた。


「春姉、出かけるならお菓子買ってきて」ソファで漫画を読んでいた沙希がぺらりとリクエストした。彼女の水色のポニーテールはぽよんと跳ね、目はきらきらと輝いている。


「百合子もお姉ちゃん、おかしほしい!」お父さんの髪にぶら下がりながら、百合子がじゃれつく。お父さんは「いてて!ハゲるぞー!」と大袈裟に呻いた。


(……あたし、本当に「ノー」って言うのを覚えるべきだった)


 直美ちゃんはいつも、あたしはもっと自己主張すべきだって言う。でも、お父さんが百合子とじゃれ合う姿や、沙希の「もう、春姉!」っていう子犬みたいな目を見たら――


「ちぇっ」あたしはお母さん似じゃなくて、完全にお父さん似だった。結局、沙希の抗議の声を無視して、あたしは彼女をぎゅーっと抱きしめた。「こんな可愛い妹に、「いいえ」なんて言えるわけ!?」


 沙希は「きゃー!」と叫び、ばたばたと足を動かした。スキンシップ大嫌いな妹の定番反応だ。


「わはは!」お父さんと百合子も加わり、リビングは家族みんなでごちゃごちゃの大騒ぎになった。ソファがきしきし鳴り、お父さんの新聞はひらひらと床に舞い落ちた。


「もういい加減にしなさい、あなた。陽菜には用事があるのでしょう?」お母さんの声がぴしゃりと場を鎮めた。お母さんは、しーんと静かな足音で割って入ってきた。誰も逆らえないあの穏やかさで。ただ、その目にはぴりっとした光が浮かんでいて、まるであたしたちを一瞬で吹っ飛ばせるようなオーラを放っていた。


「あ、そうだった」あたしはお父さんの抱擁からするっと抜け出し、ぴたりと距離を取った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 結局、いつものように渋谷に来てしまった。(なんであたし、静けさを求めてるはずなのに、いつも渋谷に来ちゃうんだろ?あたしってホント馬鹿!)目指すは漫画喫茶、あの静寂と集中の楽園。目についた最初の店に飛び込み、二時間分の料金を払って個室に陣取った。ふう、と一息。よし、陽菜、今度こそ真面目に英語だ。


 教科書を開いた。文字を眺めた。文字があたしを眺め返してきた。……ダメだ、何も頭に入ってこない。


(もしかして……脳の準備運動に、ちょっとだけ漫画とか?)


 棚から適当に一冊引っ張り出した。『宮永さんと先輩の冒険』。可愛い感じ。五分後、あたしは宮永さんの恋の悩みに一喜一憂して笑ったり泣いたりしていた。読み終えたときには、一時間が吹っ飛んでいた。最悪!


「よし、今度こそ!集中!」両手で頬をパンパンと叩いた。決意を新たに英語の教科書を再び開いた。最初の一文を読んだ。もう一度。さらに、もう一度。


 その時だった。隣の個室から「ん……あぁん……」という声が聞こえてきた。続いて、壁に何かが鈍くぶつかる音。あたしの体全体が凍りついた。まさか、あたしが考えてるようなことじゃ……ないよね?


「だめ……そんなに強くしたら……声、もっと出ちゃう……」くぐもってはいたが、紛れもない女性の声だった。


(うわああ!マジであれやってんの!?ここで!?漫画喫茶でぇ!?)あたしの顔がトマトみたいに真っ赤になった。教科書もノートもバッグにごちゃ混ぜに突っ込んで、あたしは火事場の泥棒みたいに個室から飛び出した。「何事だこの子は?」みたいな顔の店員さんを横目に一瞥し、階段を転げ落ちるように駆け下りた。恥ずかしすぎる!


 夜は既に渋谷の街を包んでいた。ネオンの洪水が色とりどりに爆発していたけど、あたしの頭は別の場所にあった。まだ隣の個室の「勉強会」のことで一杯だった。とにかくバスに乗って、早くベッドに潜り込みたい。


 そんな時だった。いつも使う近道の、少し薄暗い路地に曲がった途端、現実があたしに強烈な平手打ちを食らわせた。二人、いや三人の男が闇からぬっと現れて、あたしの行く手を塞いだ。そこらのチンピラとは訳が違う。こいつらは……本職の、ヤバい奴らだった。黒っぽい服、冷たい目、そして「問題しか起こしません」って叫んでるような立ち姿。


「おやおや、こんなところでお散歩かい」と、頬に気味の悪い傷跡がある男が、目の奥が笑ってない笑顔で言った。「迷子の女子高生ちゃんかな?」


 心臓が喉まで跳ね上がった。後ろに下がろうとしたけど、別の男――まるで木の幹みたいに太い腕をした巨人が、逃げ道を塞いだ。


「お嬢ちゃんには、ちょっと付き合ってもらおうか」と傷跡の男が言い、一歩踏み出した。「ちょっとした『保証』が必要でね」


 保証?何のこと言ってるの?これはただの強盗じゃない。何か、もっと悪いことだ。


「わ、あたしを離して!」声が糸みたいに細く出た。


 奴らは笑った。傷跡の男があたしの腕を掴んだ。その手は鉄の万力みたいだった。「騒ぐなよ。大人しく路地に入れ」


 奴はあたしを、狭くて臭い路地裏の闇へと引きずり込み始めた。純粋な恐怖があたしを支配した。あたしは叫んだ。でも、声は喉の奥で死んだ。ここでは誰も聞いてくれない。誰も助けてくれない。


 その時だった。文字通り、地獄が降ってきたのは。


 ドンッ!


 何かの影が、路地を挟む低いビルの一つの屋上から落ちてきて、あたしを捕まえていた巨人の男の真上に鈍い音を立てて着地した。男は苦痛の呻きを上げ、膝から崩れ落ち、あたしの腕を離した。ゴハッ!


 あたしも傷跡の男も反応する暇もなく、その影はスッと立ち上がった。それは男だった。背が高く、黒っぽい実用的な服を着ていた。でも、あたしの目を引いたのは、丸いフレームの眼鏡と、屋上から飛び降りたばかりの人間にしてはフォーマルすぎる黒髪だった。まるで……おっさん?いや、おじさん?


 傷跡の男がキラリと光る物を抜いた――ナイフだ。「てめえ、何者だ!?」


 その「おっさん」は何も言わなかった。彼は、そのありふれた外見を裏切る速さで動いた。一瞬のブロック、ナイフを持つ手首への一撃で刃物が宙を舞い**キンッ!**間髪いれず傷跡男の鳩尾への素早い蹴り。男は息もできずに折れ曲がったグフッ!三人目の仲間――後方にいた奴が逃げようとしたが、「おっさん」は空のゴミ箱を掴み、回転して投擲。信じられない精度で逃亡者の足に命中し、金属音と共に派手に転倒させたガランッ!


「戦闘」と呼べるようなものではなかった。それは一分もかからなかった。残忍で、効率的で、完全に一方的だった。


「おっさん」はそれから最初の仲間、巨人の方に振り向いた。巨人が身を起こそうとしていた。「いやだ」その「おっさん」が低く言うと同時に、たった一撃、首筋への正確な打撃で、男は路地の汚い地面に音もなく崩れ落ちた。ズン!


 その短い乱闘の最中、「おっさん」が放ったか受けたかした打撃の一つ――薄暗がりではっきりとは見えなかったが――が、彼自身の顔面に当たったに違いない。なぜなら、彼があたしの方に振り向いた時、路地裏の奥の壊れかけた電球の弱い光の下で、あたしはそれを見たからだ。化粧。彼の頬と額の一部が、汗か衝撃か、完全に崩れて流れていた。そしてその下から……中年男の外見の下から、若者の顔が現れた。衝撃的なほど若い。たぶん、あたしとそんなに歳は変わらない。


 ザワザワ…


 彼の黄色い瞳――強烈で、今は戦いで落ちた眼鏡のフィルターもない――があたしの目を捉えた。そこには焦りの色が、あたしが見てしまったことに気づいたことに対する警戒心すらあったかもしれない。


 彼は一言も発しなかった。ただ、あたしを素早く一瞥し、まるで無事を確かめるかのように査定するような視線を送った。そして、前と同じ俊敏さで、地面から眼鏡を拾い上げ、倒れた男たちに最後の一瞥を投げかけると、現れた時と同じくらい突然に路地の闇へと消えていった。あたしはそこに残され、震えながら、口をあんぐり開け、一体全体何が起こったのか理解しようとしていた。おっさん……が、少年?そして、悪魔のように戦う?


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 翌日、学校。


 あたしは昨夜の出来事で頭が一杯だった。あの路地裏での乱闘、謎のおっさん、そして彼の若い素顔。一体誰だったんだろう……


 教室は、竹内先生の代わりの臨時講師が今日から来るという噂で持ちきりだった。まあ、あたしには関係ないけど……と、思っていた、その時までは。


 キーンコーンカーンコーン


 チャイムが鳴り、担任の先生より先に、一人の男がスッと教室に入ってきた。背が高く、きっちりとした身なり。黒い髪を七三に分け、丸眼鏡をかけている。全体的に真面目そうな、でもどこか印象の薄い雰囲気……でも、なぜかその佇まいに、あたしは妙に引きつけられた。どこかで……?


 彼は教壇に立つと、深々と一礼した。その動作があまりにも丁寧すぎて、逆にちょっと面白い。


 彼は黒板にチョークで名前を書いた。達筆だけど、やはりどこか硬い印象の文字――竹内 勇太。


「皆様、おはようございます。わたくし、本日より皆様の日本語の授業を担当させていただきます、竹内勇太と申します。何卒、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」


 声までカッチカチの超フォーマル!あたしは思わず口をあんぐり開けた。


 すると、すかさず魁斗くんが手を挙げた。「はい、先生!もしかして、前の竹内先生の息子さんだったりします?」


 新しい竹内先生は、表情一つ変えずに答えた。「いえ、前任の竹内先生は、わたくしの恩師にあたられる方でございます」


「へえー、じゃあ竹内先生が二人ってこと?なんか変なのー」と、どこかの女子生徒が言った。


「左様でございますね。竹内先生が皆様にとって、かけがえのない担任の先生でいらしたことは、わたくしも重々承知しております」と、新しい先生はまた丁寧に返した。


「じゃあ、紛らわしいんで、勇太先生って呼んでもいいですか?」と、別の男子が質問した。


「はい、構いませんよ」と、勇太先生は頷いた。


 その時、クラスのお調子者の女子の一人が、甘ったるい声で言った。「じゃあ、勇太ちゃー んって呼んでもいーい?」


 勇太先生は、その女子をじっと見つめ、ほんの少しだけ眉をひそめたように見えた。そして、ハッキリとした口調で、しかしどこか冷たく響く声で、こう言った。


「やだ」


 その瞬間。


 ズン。


 昨夜の路地裏。あの「おっさん」が、チンピラを最後に一撃で伸した時に言った言葉。「いやだ」――低くて、有無を言わさぬ、あの響き。


 ――「やだ」――


 あたしの頭の中で、何かがカチッとはまった。嘘でしょ?まさか……


 あたしは思わず椅子からガタンッ!と立ち上がっていた。


 勇太先生が、あたしの突然の行動に驚いて、こっちを見た。


 そして、彼の目が、あたしの目と、確実に、捉え合った。


 彼の普段は表情の乏しい、あの黄色い瞳が、ほんの一瞬だけ、信じられないものを見たかのように、大きく見開かれたのを、あたしは見逃さなかった。


 あたしの口が、声にならない叫びを上げようとして、パクパクと動いた。


(うおおおおおおおおおおっ……お前はッ!?)

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