the road to Okehazama and
吉法師改め三郎信長は嫁を娶ったからといっておとなしくなるようなことはなかった。
毎日、馬場では馬の鍛錬に余念がなかった。馬も乗り主に似て気性の荒い駻馬であった。
朝夕の乗馬の外は弓、鉄砲の稽古、そして槍隊の模擬戦を観ては「槍が短い!以後、手槍は三間(約5m位)にせよ!」と命じるのだった。3月から9月までは川に入って水練、泳ぎも達者であった。また肉体の鍛錬だけではなく兵法も尾張在、平田三位殿に習っていた。
信長はおとなしく聴いているだけの生徒ではないから講義はさながら説法合戦のようであった。そして服装は相変わらず片袖は外し半袴、腰紐にはいくつもの袋を下げ中には芋やら火打ち石やらを入れていた。髷は茶せん髷、それも赤やら黄やらの紐で結んでいた。今ならさしづめ「yankee!」でcool!と言われるだろうが当時は遥かに周りは型にはまった時代である。しかし信長は守り役の平手の意見などどこ吹く風、全く意に介しないのだった。古渡はおろか尾張国中、織田弾正忠(信秀)の後継ぎはうつけ者であると知れ渡っていたのである。北の隣国美濃の斎藤山城守(道三)も弾正忠亡き後はと狙っていたし、東の隣国駿河遠江三河の今川治部大輔(義元)も弾正忠亡き後は尾張を呑み込みいざ上洛をと爪を研いでいたのだった。
さてその弾正忠、すなわち信長の父、信秀はいかがしていたか。
北の美濃とは道三入道の娘を嫡男信長の嫁に迎え一旦和睦をし東の今川に備えると同時に自が主、清須の斯波武衛家織田大和守家を滅ぼしその後は岩倉の織田伊勢守家をも滅ぼし尾張一国の統一を虎視眈々と狙っていたのである。この時代は室町殿(足利将軍家)の権威は失墜していた下剋上の時代であった。




