貴方の理想には沿えません~侍女イルゼの奮闘記
「フィリーネ。先日、ビアンカ・アイメルト子爵令嬢と出かけたと聞いたが?」
「はい、ビアンカ様のお誘いで観劇にと。今話題の『銀姫の微笑み』という劇でしたが、大変面白いものでしたわ。よろしければ、今度アルベルト様もご一緒に行きませんか?」
「どうせ色恋がメインのストーリーだろう?子供騙しだ。遠慮しておくよ。正直に言って、君にもそんな低俗な物を目に入れて欲しくないな」
皆様、ごきげんよう。
私はノルデン子爵家で侍女をしております、イルゼと申します。
目の前で悲しげに眼を伏せておられる麗しいご令嬢が私の仕える主、フィリーネ・ノルデン子爵令嬢。
そして偉そうにふんぞり返っているクソ野郎……失礼、頭の沸いた毛虫、じゃなくて殿方がお嬢様の婚約者、アルベルト・グラーツ伯爵令息でございます。
今日は婚約者同士の交流を目的としたお茶会です。
先ほどからフィリーネお嬢様は懸命に場を盛り上げようとなさっているのに、アルベルト様はばっさりと切り捨てるばかりで全く会話が繋がりません。交流する気あるんでしょうか、この男は。
「それにその髪飾り。色が派手すぎるな」
「はい……」
その髪飾りは、婚約者に会うからとお嬢様がわざわざ新調なさった物ですが?
そのいじらしいお心遣いも分からぬ愚物めが。お前の髪を失くしてやろうか。
などど私が心の中で罵倒の限りを尽くしていることも知らず、クソ男はふうと溜め息をついて立ち上がりました。
「俺は帰らせてもらうよ。今は新しい論文を書いている途中なんだ。これ以上、時間を無駄にしたくない。次に君と会うときは、もう少し有意義な時間を過ごさせてくれ」
「あ、お見送りを」
「不要だ」
不機嫌な顔で去っていくアルベルト様を見送りながら、私は後ろ手で中指を立てつつそっと呟きました。
悪魔のもとへお逝きあそばせ。
◇ ◇ ◇
私がフィリーネお嬢様に初めてお会いしたのは、お嬢様が8歳の時でございます。
私の実家は男爵家ではあるものの領地の無い、所謂名ばかり貴族です。家計はいつも火の車。弟妹の学費を捻出すべく、私は父の伝手でノルデン子爵家へ仕えることになりました。
「貴方が新しい侍女さん?わたしはフィリーネ。貴方、とっても優秀な人と伺ってるわ。これからよろしくね」
侍女見習いとしてご挨拶した私は、その天使のように輝く笑顔に心の臓を打ち抜かれました。
くりくりの瞳、輝く銀の髪。頑張って淑女らしいしゃべり方をなさっていますが、幼い容姿とのギャップがまた愛らしくて。
その後ほどなく、私はお嬢様の専属侍女になりました。
フィリーネ様が貴族学院に入学するまで、ほぼ一日中一緒にいたといっても過言ではございません。
いえ、もちろんお休みは頂けましたよ。ノルデン子爵家は使用人を休み無しで働かせるような、ブラックな職場ではありませんので。
当初は慣れぬ仕事に戸惑う事もありましたが、ちっとも辛くありませんでした。旦那様も奥様もお優しい方ですし、何よりお嬢様が可愛過ぎるのですもの!
年相応に我儘を仰ることもありましたが、それすら微笑ましく感じられたものです。お嬢様の元気なお姿を眺めているだけで心身が回復するよう……ポーション要らずですわ。
そこへ暗雲が立ち始めたのは……貴族学院へ通い始めたお嬢様の前にあの男、アルベルト様が現れてからでした。
「フィリーネ!君はフィリーネだよね?」
「あの、申し訳ございません。私、貴方様をご存じあげませんが……」
「俺だ、アルベルトだ。幼い頃、一緒に遊んだだろう?」
「えっ、アルベルト様なのですか!?」
「そうだよ。ああ、懐かしい。まさかこんなところで会えるなんて」
上級生との合同講習で突然話しかけてきた男子生徒。それが二歳年上のアルベルト・グラーツ伯爵令息でした。
お嬢様が幼い頃、ノルデン子爵一家は避暑の為、とある観光地を訪れたそうです。取引先の一つであるグラーツ伯爵一家も滞在されていたため、旦那様はご挨拶へと伺いました。そこでフィリーネ様は伯爵家の次男、アルベルト様とお会いになったのです。他に年の近い子供がいなかったせいかアルベルト様とフィリーネ様はすぐに仲良くなり、ひと夏を共にお過ごしになりました。
「どうして湖の色は朝と夕方で違うのかしら」
「光の加減によってそう見えるだけだよ。近くで見れば同じ色だ」
「綺麗!これは何というお花かしら」
「アケサだね。葉は煎じて薬草に使うこともあるんだ」
「すごい!アルベルト様はいろんな事を知ってるのですね!」
本好きのアルベルト様は子供にしては博識だったらしく、次々と知識を披露する彼にフィリーネ様はすっかり夢中になりました。夏が終わってからは会うこともなくなりましたが、フィリーネ様は彼を初恋の相手として、大切に思い出の中へと仕舞っておいたそうです。
アルベルト様と再会してすぐに、グラーツ伯爵家から婚約の申し込みがありました。
「アルベルトがフィリーネ嬢じゃなきゃ結婚しないと言いますもので」
「この子はね、王立の魔法研究所を目指しているのですよ。先生方もアルベルトの成績なら問題なく合格するだろうって」
ノルデン家を訪れたグラーツ伯爵夫妻は、ニコニコしながらそう仰いました。多少息子自慢が鼻につきますが、それは置いておくとして。
アルベルト様もフィリーネ様が初恋だったそうです。再会したフィリーネ様の美しさたおやかさに、この人しかいない!と思われたそうで。
それを聞いた私が鼻高々だったは言うまでもありません。
そうですとも。私のお嬢様は美しく優しく、気立てが良くて頭も良くてスタイルも良く……コホン、とにかく素晴らしい令嬢なのです。フィリーネ様が見初められるなんて当然のことですわ!と、思えば随分呑気に捉えておりました。
旦那様はすぐには返答せず、アルベルト様の身辺調査を行いました。貴族家当主として当然ですわね。
グラーツ伯爵家は堅実な事業経営で知られ、財政状況は良好、家庭環境も問題なし。アルベルト様自身にも瑕疵となるような事柄は無かったそうです。むしろ学生の身で何本も論文を発表するほど、成績優秀な方であるとのこと。
次男である彼はグラーツ家の当主にはなれません。従属爵位である子爵位を継承しますが、領地は無し。そのため王立魔法研究所の研究職を目指しているそうです。論文を書いているのも、実績があれば合格しやすいからとのことでした。
「僕は必ず研究所へ合格し、高名な研究者になる。フィリーネに苦労はさせないと誓う」と求婚なさったアルベルト様に、お嬢様は顔を赤らめ嬉しそうに頷かれました。
貴族ならば愛のない政略結婚が普通です。
双方に瑕疵もなく家柄のつり合いも取れており、さらに当人同士が想い合っているとなれば……理想的な結婚と言えるでしょう。こうして二人の婚約が結ばれたのでした。
婚約が整った当初のお嬢様は、とてもお幸せそうでした。
初恋の君と想いが通じ合ったのですもの。そりゃあ嬉しいに決まっています。ですが日が経つにつれ、アルベルト様は本性を現し始めました。
「その時のローゼマリー様のお顔といったら、とっても可笑しくて……」
「フィリーネ。君は随分、みっともない笑い方をするんだね。もっとお淑やかな子だと思っていたのに」
お茶会の席でご友人の面白いエピソードをお話ししていたお嬢様の言葉を遮って、彼はそんな事を言い放ちました。
みっともないですって!?何言ってんのかしら、この駄男。
お嬢様の天使のような笑みを、事もあろうにみっともないと言いましたか?
「君はもう14歳だろう?口を開けて笑うなんてはしたないよ」
「あ、はい……申し訳ございません、アルベルト様」
それからというもの、会う度にあの男はお嬢様のありとあらゆる事にケチをつけました。
「その服、胸が開き過ぎなのじゃないか?まるで娼婦のようだ。それに、俺は赤色が好きじゃない」
「乗馬?淑女が馬に乗るなんて、どうかしている。令嬢とは刺繍やカードゲームを好むものではないのか?」
服装や話し方、考え方に趣味嗜好、終いにはノルデン子爵家のことまで……。時には1時間近く、ぐちぐちとフィリーネ様を責め立てた事もあります。そして最後には必ず「君はもっと素晴らしい女性だと思っていたのに」と溜め息混じりに言うのです。
ええ、あの時はあの小憎らしい頭をかち割ろうとする拳を抑えるのに必死でしたわ。
徐々にお嬢様は元気がなくなっていきました。あの溌剌とした明るさがなくなり、口数が少なくなり、笑顔が減っていき……。心配した旦那様や奥様が問いただしても、フィリーネ様は「何でもありませんわ」と答えるだけでした。
「はあ……。今日もアルベルト様を怒らせてしまったわ。やっぱりいつもの髪飾りにしておけば良かったかしら」
「いいえ、フィリーネお嬢様。あの髪飾りはとてもよくお似合いでございました。それに例え本当に似合っていなくても、あのような言い方をするべきではございません。アルベルト様の振る舞いは貴族の男性としてあるまじきものですわ」
湯浴みをお済ませになったフィリーネ様の御髪を整えながら、私は力説致しました。
ああ、それにしてもお嬢様の髪の艶やかなこと。くせっ毛の私などと違い、櫛は一度も引っかかることなく、するすると通るのです。
「だいたい、こんなに清楚で美しくて気立てがよくて成績まで優秀でいらっしゃるお嬢様のどこに責められる要素があるのでしょう。むしろあの男は、お嬢様の婚約者になれた栄誉にひれ伏して感謝するべきです!」
「ふふ、ありがとう。冗談とはいえ、イルゼにそう言って貰えて少し気が楽になったわ」
本気で言ってますが?
「お嬢様、やはり一度アルベルト様のことを旦那様にご相談なさっては?」
「いいのよ。私が至らないところを、改めればいいだけなのだから」
お嬢様はああ仰いますが、こっそり旦那様か奥様に現状をお話しした方が良いだろうか……。そんなことに頭を悩ませていたある日のこと。いつもよりかなり遅い時間に、フィリーネお嬢様が学院からご帰宅なさいました。しかもびしょ濡れで。
「お嬢様!?どうなさったのですか、そのように濡れて……」
「そんなことよりすぐに湯浴みの用意を!」
急いで湯の準備を整えお嬢様の身体を温めながら、私は首を傾げました。
出迎えた家令によれば、フィリーネ様を送って下さったのはアーレンス侯爵家の馬車だったとのこと。
お嬢様の通う貴族学院は馬車での通学が規則となっています。以前はうちの馬車を使用していましたが、アルベルト様から「少しでもフィリーネと時間を持ちたい」との申し出があり、今はグラーツ伯爵家の馬車で送迎して頂いております。それがなぜアーレンス侯爵家の馬車で……?
「やっと人心地がついたわ。ありがとう、イルゼ」
湯から上がった後、熱々の紅茶をお飲みになったお嬢様がようやく口を開きました。帰宅直後は真っ青なお顔で、口を開く元気も無い様子でしたから……頬に赤みが増してきたとはいえ、まだ油断は出来ません。お風邪でも召されていないか心配です。
「念のため、医師をお呼びしましょうか」
「大丈夫よ。身体は問題ないわ」
「……お嬢様。なぜアーレンス侯爵家の馬車で?アルベルト様はどうなさったのですか」
フィリーネ様はなかなか口を割ろうとはなさりませんでしたが、私は根気よく聞き出しました。尋常ではない事態であろうことは察せられます。理由を聞き、場合によってはしかるべき対処をせねばなりません。
そしてようやく語られた内容に、私は髪の毛が逆立つほどの怒りを覚えました。
校門前でアルベルト様を待っていたお嬢様でしたが、いつまで待っても来ないため教室へ行ってみると既に帰宅したと言われたそうです。
学院には家の事情で馬車を使用できない生徒のために、貴族街を巡回する共用馬車もあります。慌てて共用馬車を探したものの、すでに最後の馬車が出てしまった後でした。
こうなっては、徒歩で帰宅するしかありません。折悪しく降り出した雨の中を歩いている所へフランツィスカ・アーレンス侯爵令嬢の馬車が通りかかり、フィリーネ様を拾って送り届けて下さったそうなのです。
アルベルト様が、何故約束を破ってお嬢様を置いていったのか。私にはその理由に思い当たる節があります。
この週末も、お嬢様はアルベルト様とお会いになりました。そこであの男は、お嬢様のご友人であるローゼマリー・ヴェルテ子爵令嬢とそのご実家を貶したのです。
ヴェルテ子爵は慈善に熱心な方で、平民の働ける場を増やすべく様々な事業を展開されています。それをあのクソ虫は「平民をこき使って儲けようなんて、性根が卑しい。そんな家の娘も性格が悪いに違いない」と吐き捨てました。
流石のお嬢様も、親友を貶されるのは我慢できなかったのでしょう。自分はともかく友人のことまで悪く言わないで欲しいと、苦言を呈しました。それがよほど気に入らなかったらしく、その後アルベルト様は一言も口を利かずに帰って行かれました。
恐らく、今回の件はその意趣返しでしょう。
何て子供っぽい男でしょうか。
あれだけ偉そうにご高説を垂れていたくせに、当の本人には思いやりも常識も見当たりません。
そもそも、なぜ学院が馬車通学を原則としているのか。学院の生徒ならばその理由を知らない筈はありません。
以前、徒歩で通学していた令嬢が拐かされるという事件が発生したのです。幸い現場を目撃した者がすぐに衛兵を呼び、令嬢はほどなく助け出されました。しかしその後良からぬ噂を立てられ、婚約を解消され……彼女は修道院へ入られたと聞きます。
その事件を踏まえ、例え家が近くても馬車で通学すべしという規則が追加されたのです。
フィリーネ様はあの通りお美しい容姿。歩いている途中で良からぬ輩に目を付けられ、拐かされていたら……。そんなこと、考えるだけで鳥肌が立ちます。
流石にこの件は旦那様からグラーツ伯爵家へ抗議を入れて頂きましたが「申し訳ない。先に帰ると伝えたつもりが、行き違いがあったようだ。息子も反省している」と手紙が戻ってきただけでした。
相手は格上の伯爵家です。向こうから謝罪があった以上、旦那様も矛を収めるしかありませんでした。
「楽になさって、フィリーネ様。この場には私たちしかいないのですもの」
「はい……」
ここはアーレンス侯爵邸。お嬢様に突然、お茶会の招待状が届いたのは数日前のこと。侯爵家からのお呼びとあらばお断りするわけにはいかず、戦々恐々としながら訪れたお嬢さまと私を待っていたのは、フランツィスカ様の温かいお出迎えでした。
「あの日はお風邪など召されなかったかしら?」
「はい、大丈夫でした。本当にありがとうございます」
「実はね、前々からあなたのお名前は知っていたのよ。私、グラーツ伯爵令息とは同じクラスなものですから」
フランツィスカ様曰く、アルベルト様は事あるごとに「婚約者が我儘過ぎる」と愚痴を言っているそうです。さらには「そんな彼女を許している自分は寛大だ。俺が正しい道へ躾てやらないと」なんて偉そうに話しているとか。
あのクソ虫のたわ言に、日々大人しく従っているお嬢様のどこが我儘だと!?
何て腹立たしいのでしょう。毛虫やミミズの方がまだ可愛げがあります。調理場の黒い奴と同じくらい、憎々しいですわ。
……あの男、すぐに殺るべきでは?
「それにね、翌日彼が自慢げに話していたのよ。『あまりにも生意気を言うものだから、帰りは置いてきぼりにした。逆らったことを反省させないと』って」
一部の男子生徒は「よくやった!」「生意気な女にはお仕置きしないとな!」と同調していたそうですが、ほとんどの生徒はそんな彼の言動に眉を顰めていたそうです。
……やはりあの害虫、今すぐ殺るべきでは??
フランツィスカ様は、うつむいてしまったフィリーネお嬢様へ優しく問いかけました。
「あなたは彼との婚約に納得しているのかしら?もしそうではないのなら、私が力を貸しても良いと思っていますのよ」
結局、お嬢様はフランツィスカ様の提案を断りました。自分はアルベルト様を慕っているから、と。
それからも何度かアーレンス侯爵邸に呼ばれましたが、お嬢様の答えはいつも同じでした。「アルベルト様は悪くありませんわ。私が至らないから……」と。そんなお姿を見るたびに、私はもどかしい思いを抱えていました。
フィリーネお嬢様にとって、アルベルト様は初恋の君です。格別な想いがあるのは分かります。ですが今のお嬢様が健全な精神状態であるとは、私には思えないのです。
夫から虐げられていた知人がいます。彼女は暴力を振るわれ浮気をされ、周囲がどんなに離縁を勧めても「あの人は私がついてなければ駄目なのよ」と言うだけでした。ここまでくると一種の洗脳ですわ。
心配したご両親が無理矢理夫から引き離して実家で静養させたところ、ある日憑き物でも落ちたかのように「私、何であんな人に尽くしていたのかしら?」と言ったそうです。その後、彼女はすぐに離縁致しました。
お嬢様もきっと同じなのです。婚約者からの洗脳を、何としても解かねばなりません。
「お嬢様。アルベルト様との婚約を考え直すべきです。多少は揉めるかもしれませんが、フランツィスカ様のご協力を得られるのであればきっと解消まで持ち込めます」
「イルゼ……。私、アルベルト様と別れる気は無いわ」
「婚約の時点ですらこの状態なのです。結婚なさったら、今よりもっと難癖をつけられるでしょう。それも、毎日のように」
「アルベルト様は、私を愛しているから色々注意して下さるのよ。彼の言う通りに出来ない私が悪いの」
「違います!」
思わず叫ぶように答えてしまった私を、フィリーネ様はぽかんとしながら見つめていました。
「お嬢様に至らない点などありません。あるはずがないのです。アルベルト様は”初恋の君”に幻想を持っている。そして、その虚像をお嬢様に押し付けているだけなのです。頭の中にしか存在しない、都合の良い女……現実に生きる者が、そんな女性になれるわけはないでしょう。お嬢様は一生、あの男の幻想に振り回されて生きるおつもりですか?」
「一生……」と呟いて、お嬢様が考え込まれました。
揺らいでおられるのです。ここは一気に畳みかけねば!
「お嬢様にも理想の殿方像がおありでしょう。幼い頃に、それを初恋の君へ重ねた覚えはありませんか?」
誰だってあるでしょう。友人の兄君や学院の先輩。そんな憧れの存在に、理想の異性像を投影したことを。
「それは、まあ……なくもないわ」
「アルベルト様はその理想に沿う方でしたか?あるいは一度でも、お嬢様の望まれる男性になれるよう、努力されたことはありますか?」
お嬢様はハッとした顔になりました。
「近しくない存在だからこそ、その人に理想を重ね合わせることができるのです。成長するまで再会しなかったが故に、アルベルト様がお嬢様に対して妄想を膨らませてしまったのは、仕方のないことかもしれません。だけど普通は現実を受け入れ、相手に理想を押し付けるようなことはしないのですよ」
「言われてみればそうだわ……。アルベルト様は一度だって、私の意志も希望も考慮して下さらなかった。いえ、そもそも私から理想に沿って欲しいなんて願ったこともないわ。どうしてそれに気づかなかったのかしら」
「アルベルト様は、未だに理想と現実の違いを受け入れられないのでしょう。愛とは、相手のあるがままを受け入れることだと私は思っております。あの男はお嬢様ではなく、幻想の中のフィリーネ様を愛しているだけなのです」
頑なで矮小で、頭でっかちの癖に精神は未成熟な子供のまま。
そんな男は、私のお嬢様に相応しくありません。
「お嬢様、すぐに旦那様へ相談しましょう!」
それから三ヶ月後。ノルデン子爵家の応接間にて婚約解消の話し合いが行われました。
フィリーネ様とアルベルト様に同席なさっているのは旦那様と奥様、グラーツ夫妻、そしてフランツィスカ様です。
「第三者がいた方が、より公平な判断が下せるでしょう?フィリーネ様は大切な友人ですもの。喜んで協力させて頂きますわ」
なぜフランツィスカ様がいらっしゃるのかと怪訝な顔だったグラーツ夫妻も、侯爵令嬢にそう言われると黙るしかありません。伯爵家から見ればノルデン子爵家は格下。いざとなれば婚約続行をごり押しされるかもしれませんもの。フランツィスカ様、グッジョブですわ。
「おおむねは事前にご連絡したとおりです。アルベルト君のフィリーネへの態度は目に余ります。このまま結婚しても、うまくやっていけるとは思えない。これは娘の希望でもあります」
「ちょっと待って下さいな。うちの子が悪いというんですか?」
「普段からフィリーネ嬢の振る舞いには問題があると息子は言っていました。それでも彼女を愛している、共にありたいと、アルベルトは強く望んでいます」
やはり。あのクソ害虫野郎、家族にもお嬢様の悪口を吹聴していましたわね。本当にそんなダメ令嬢を妻にしたら、自らの評判も下がるでしょうに。そんなことも想定できないのでしょうか、この単細胞は。
「俺はフィリーネにどれだけ足りない部分があったとしても、受け入れるつもりです。彼女が何を言ったか知りませんが、娘だからと闇雲にその言葉を信用するのは如何なものでしょうか」
「これはここ三ヶ月、アルベルト君が娘と交わした会話を侍女に記録させたものです」
すっと書類を取り出してグラーツ夫妻へ渡す旦那様。それを読んだグラーツ伯爵の顔が、みるみるうちに険しくなりました。
「アルベルト……お前、本当にこんなことをフィリーネ嬢に言ったのか?」
アルベルト様が青ざめる様子に、私は胸がすく思いでした。その記録は全て私が書いたものです。実はお嬢様があの男と婚約して以来、私が立ち会った場での会話は覚えている限り全て書き残しております。それをお見せしたところ、旦那様がドン引きなさっておられましたけれども。お役に立てて何よりです。
「そ、そんなのでたらめだ!フィリーネが侍女に書かせたものなんて、信用できるかっ」
「あら。聞き捨てなりませんわね」
ここまで黙って静観なさっていたフランツィスカ様が初めて口を開きました。冷たい光を湛えたその眼力に、さしものアルベルト様もたじろいだ様子です。
「公正を期すため、ここ三ヶ月はお二人の茶会に我が家の侍女も同席させておりました。我が家の侍女とイルゼの記録を付き合わせて、差異がないことを確認しておりますわ」
なぜこの話し合いまで三ヶ月もかかったのか。
それはこの場で公正な証拠として、提示できる資料を作成するためだったのです。
「本当に言ったのか?どうなんだ、アルベルト!」
「う……言いました」
「なんてこと……!こんなの、ほとんど言いがかりのようなものばかりじゃない。しかもフィリーネ嬢どころか、ノルデン子爵家を貶めるようなことまで……」
「また先日、グラーツ家の馬車に置いて行かれた件ですが」
「それは行き違いがあったと聞いております。既に謝罪は受けて頂いたはずですが」
「行き違いではなく、グラーツ令息はわざとフィリーネ様を置いていったようですわ。彼がそのように吹聴していたことを、私自身が耳にしております」
「何っ!?本当か、アルベルト!」
何やら声にならぬ声で答える害虫、いえアルベルト様を、グラーツ伯爵が叱り飛ばしました。
旦那様も彼を睨み付けて「偶然アーレンス侯爵令嬢に拾って頂けたから良かったが、フィリーネにもしもの事が有ったらどう責任を取るつもりだったのかね?」と怒りを孕んだ声で問い掛けます。
「今さらそんなことを蒸し返さなくても……何でも無かったんだから良かったじゃないですか。それに、学院には共用の馬車だってあります。そのくらいの機転を利かせられなかったフィリーネにも非があるでしょう」
「あの時間では、最終の馬車には間に合いませんでしたわ」
そうです。アルベルト様を待たず、授業が終わってすぐに帰り支度をしていれば、十分に間に合ったはずなのです。
アルベルト様は余計なことを言うなとばかりにお嬢様を睨み付けましたが、フィリーネ様は素知らぬ顔をされていました。いつもならびくびくとしながら謝罪の言葉を述べていたでしょう。ですがもう、お嬢様の心にあの男の居場所など無いのです。
「ノルデン子爵、フィリーネ嬢。この度はうちの馬鹿が本当に申し訳ありませんでした。婚約の解消、いや破棄でも当家は受け入れます」
おや。グラーツ夫妻は案外ちゃんとした方たちのようです。優秀なアルベルト様の言うことだからと、信じてしまったのかもしれませんね。親としてそれはどうかと思いますけども。
「父上、俺は納得してない!そりゃ少し強引なやり方だったかもしれないが、俺はそれがフィリーネのためになると信じていたんだ。俺の言うとおりにすれば、理想的な淑女になれるって」
「そんなもの、お前の妄想を押しつけているだけだろうが」
「確かに私が至らないせいで、アルベルト様の理想から外れてしまっていたのでしょうね」と、お嬢様が上品に首を傾げながらおっしゃいました。
「だろう?フィリーネ、やはり君だけは分かってくれるんだね。君は俺の理想の女性だ」
「アルベルト様。私にも理想としている殿方像はありますわ。貴方も、それに沿うようにして下さるのですか?」
「あ、ああ!勿論だ。君のためなら努力する」
「ではまず、学院の専攻を騎士科に変わって下さいませ」
「は?」
「私は騎士様のような逞しい殿方が好みですの。だから近衛騎士を目指して下さいませ。ああ、あと収入は父上と同じくらいは欲しいですわね。ならば最低でも近衛隊長くらいにはなって頂かないと。あと月に一回は観劇に連れて行って頂きたいですし、毎月友人を招いてお茶会を開きたいですわ。それにドレスも新しいものを月に一度は仕立てて欲しいですわね」
「何をバカなことを!そんなこと、出来る訳ないだろう!常識で考えてものを言え」
顔を赤くしてぷるぷると震えながらそう叫んだ屑男は、周囲からの冷たい目線に気づいて口を閉ざしました。
『常識で考えろ』それは彼自身の言動そのものです。自分がどんなに理不尽なことを言っていたか、少しは気付けたのかしら。
「私は貴方の理想に沿うことができません。貴方も、私の理想に近づこうとする気はないのでしょう?ならば、私たちは一緒にいるべきではないと思いますわ」
「そんなのは努力次第だろう?君がもっと頑張ってくれたなら……」
「どうして私だけが、努力しなければならないのです?」
優雅な微笑みを消し、お嬢様は鋭い視線で婚約者を見据えました。
「私の希望は何一つ叶えようとしないくせに、こちらへ自分の理想を押し付ける。そんな身勝手な方のために、どうして努力する気になれましょう。次の婚約者にはあるがままの私を愛し、尊重して下さる方を選びたいですわ」
それは、容赦のない拒絶でした。それでも反論しようとしたアルベルト様の肩をグラーツ伯爵が叩いて「諦めろ」と諭します。
がっくりとうなだれるアルベルト様の姿に、私は心の中で天へ向かって拳を突き上げました。
「イルゼ、この服で本当に大丈夫?」
「はい。良く似合っておいでですよ、お嬢様」
今日のお嬢様は薄い赤色のワンピースをお召しです。ふんわりとした色合いが、お嬢様の美しさをより際立たせておりますわ。
「オスヴィン様は喜んで下さるかしら」
「勿論です!今日のお嬢様の可愛らしさを見れば、涙を流して喜ぶに違いありませんわ」
「ふふ。イルゼはいっつも大げさなんだから」
あれから婚約は無事に解消となり、お嬢様にはフランツィスカ様から幾人かの令息をご紹介頂きました。その中で相性が良さそうだったオスヴィン・バルツァー子爵令息と、婚約を前提に交流を行っているところです。前回の反省もあり、じっくりと互いの相性を見極めるそうですわ。
オスヴィン様はバルツァー子爵の次男で、近衛騎士を目指しておられるそうです。お嬢様好みの逞しい身体に加え、お優しくて気遣いの出来る方。フィリーネ様はすっかり彼がお気に召したようです。
一方、アルベルト様ですが。しばらくはフィリーネ様に付きまとっていましたが、当家からきつく苦情を申し上げた後は大人しくなりました。聞くところによれば新たな婚約者を探しているものの、どこの家からも断られているとのこと。
彼が元婚約者についてあることないことを言いふらして貶めたという過去は、学院どころか社交界中に広まっています。そんな方へ嫁ぎたい令嬢などいないでしょう。
彼は誰にも選んで貰えないという事実にいたく憤慨したらしく「俺は世界的に有名な研究者になる男だ!その時に後悔しても遅いんだぞ」と息巻いていたそうですわ。
その後トップの成績で研究所へ就職したものの、今では閑職に回されているとか。上司の指示を聞かない、注意されればふてくされる。あまりにも独善的な性格で使い物にならないと判断されたようです。そんなザマでは高名な研究者になるどころではありませんねえ。ふふふ。
「これであの目障りなあの男も終わりね。すっきりしたわ」
先日お会いした際、フランツィスカ様はそう仰いました。お嬢様に聞こえないよう、こっそりと。
「これも全て、フランツィスカ様のおかげでございます」
「私は大したことはしていないわ。あの男が、自分で自分の足を引っ張っただけよ」
アルベルト様の噂を社交界へ広めたのは、フランツィスカ様です。
あの日、お嬢様を送って下さったのがアーレンス侯爵令嬢と聞いた時……私は天の助けだと思いました。
学院へ通っている妹から、アーレンス侯爵令嬢が同級生のアルベルト・グラーツ令息とその仲間を酷く嫌っているという話を聞いたことがあったのです。
私はお嬢様からのお礼状を携えてフランツィスカ様の元を訪れ、無礼を承知で協力をお願いしました。フィリーネ様とアルベルト様の婚約解消へ手を貸して欲しい、と。
フランツィスカ様は「以前から、あの男は気にくわなかったのよ」と快く承知して下さいました。
あの害虫野郎は以前、フランツィスカ様のことを「美人だが気が強すぎる。あんな女の夫になる男は苦労が耐えないだろう」と悪し様に言っていたらしいのです。
侯爵令嬢を怒らせるなんて、愚かにも程がありますわね。どのみち、あの男には先が無かったのです。別れられて本当によろしゅうございました。
あれ以来、フランツィスカ様とフィリーネ様はすっかり仲良くなられました。お嬢様も友人が増えて嬉しそうです。
「あのね、イルゼ。オスヴィン様が二人だけで出掛けられたらいいのにって仰ったの」
「いけません!まだ婚約もしていないのに、二人っきりになるなど。そんな不埒な殿方だったとは…………これは婚約者候補から外すべきかもしれませんわ」
「冗談で言われただけよ。もうっ、イルゼはお父様より厳しいわね」
「当然です。私は旦那様からくれぐれもお相手のお人柄を見極めるよう、仰せつかっておりますので!」
ええ、そうですとも。
お嬢様のことは、このイルゼがしっかりお守り致しますわ。御身に相応しい殿方へ嫁がれる、その日まで。
以前、幼馴染を理想の女性と思い込んでいる夫に振り回された妻の話(「初恋の君と再婚したい?お好きになさって下さいな」https://ncode.syosetu.com/n7006iw/)を書きましたが、理想を押し付けられる方も困るよね~と思い本作を書いてみました。
その「初恋の君と~」のコミカライズを収録した
『愛さないと言われた令嬢ですが、勝手に幸せになりますのでお構いなく! アンソロジーコミック』が、ブシロードワークス様より発売中です!
また同じくブシロードワークス様より発売中の
『令嬢だって自分で幸せを掴みとりますわ!アンソロジーコミック』に
拙作「初恋の君と再婚したい?お好きになさって下さいな」が収録されています。
お手に取って頂ければ幸いです!