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ティアドロップ

作者: 落水彩

 雨が降っていた。昨日までの陽気が嘘のように肌寒い四月。この雨だと今日明日にでも校門前の桜は散ってしまうだろう。

 放課後を告げるチャイムと同時に、生徒たちは校舎を後にする。しかし、傘を忘れた一部の生徒は靴箱で途方に暮れている。俺もその一人なわけで。埃が濡れるツンとした匂いを嗅ぎながら、しばらくその場で雨宿りをしていると、


「傘、貸そうか?」


 と、後ろから声をかけられた。


「僕二つ持ってるんだ。」


 少年は少し小柄で人懐っこそうな垂れ目が特徴的だった。常に星が出ていそうなくらいキラキラした瞳だった。


「別にいいよ。」


 帰宅を渋る理由は他にあった。鞄を抱えるように持ち直す。「ありがとう。」と礼を言って外へ飛び出そうとすると、少年に手首を掴まれた。


「かさばるようならこっち貸すから。ね?」


 折り畳み傘を押し付けてくる少年に目を向ける。


「俺は貸しを作りたくないんだ。」


「そんなこと言ったって、体濡らすと風邪ひいちゃうよ。ほら使って。」


 強引さを鬱陶しく思っていると少年はニコリと笑い、「じゃあね!」と、大きなジャンプ傘を広げて去って行った。


「あ、ちょっと!」


 呼びかけた声は雨にかき消されてしまった。

「あいつ……。」と心の中で舌打ちしながらも、折り畳み傘を袋から取り出す。鮮やかな水色の折り畳み傘、カバンを濡らさないように広げて、学校を後にした。





「なんだったんだ。」


 遠慮していたにもかかわらず、いきなり傘を押し付けてきた彼のことを思い出す。


 (知り合いか? いや、会ったことなんて一度も……。)


「……さん、安曇爽太さん。」


「あ、はい。」


 待合室で名前を呼ばれると、受付を済ませ、エレベーターで三階へ向かった。「安曇純子」と書かれたネームプレートを確認し、三一〇号室の扉を開ける。


「あら爽ちゃん、いらっしゃい。」


 肩まである髪を一つに束ねた女性がニコニコと俺に話しかける。


「母さんが言ってたアルバム、持ってきたよ。」


「あら、雨なのに悪いねぇ。」と申し訳なさそうに母は俺からアルバムを受け取った。


「そんな折り畳み傘あったかしら?」


 母はアルバムを開くより先に、俺が手に持っていた傘を指差して聞いた。


「あー、貸してもらった。」


「そうなのね! 優しいお友達ね。」


 嬉しそうに笑う母に、心の中で「無理やりだけどな。」と返答する。


「それより、体の方は大丈夫?」


「大丈夫よ、今はまだ元気。」


 「まだ」という言葉が心に引っかかる。


「……爽ちゃん、あのね、お母さん話しておかなきゃいけないことがあって——」


「なんで急にアルバムなんだよ。」


 嫌な予感があたらないように、母の言葉を遮って聞いた。母の顔を見ることができなくて後ろを向く。


「え、ああ、それも今から話すね。えっと、お母さんね、もう、長くないらしくて、このアルバムまだ未完成だから、入院してる時の写真も……その後の写真も入れて欲しいなって。」


 聞きたくなかった。「長くない」という言葉が反響する。それにアルバムが未完成だったことも知らなかった。そもそも見たこともなかったし。


「爽ちゃん?」


 無言で病室を出る。返事をすると涙がこぼれてしまいそうだったから。

 しかし、病院を離れる気にはなれず、呼ばれることのない待合室で時間を潰す。

 母は三年前、俺が中学一年の時から入院している。膵臓癌だった。しかし、容態は安定していたため、心のどこかで治るんじゃないかと淡い期待を抱いていた。

 目を逸らせない現実。膝の上で拳を強く握り、無力な自分に腹を立てる。


「はぁ。どうしよ。」


 どうすることもできない問題を前に、ぼんやりと天井を仰ぐ。


「アルバムは楽しい思い出だけを入れるもんだろ。」


 放課後、直接母に会うため、学校に持って行った重たいアルバムを思い出す。


「……傘、どうするかな。」


 視線を下に落とすと手に引っ掛けていた傘が目に入った。雨はまだ止む気配はない。

 




 午後六時、あたりはもうすっかり暗くなっていた。


「そろそろ帰るか。」


 晴れない気分のまま、立ち上がる。ぐっと伸びをすると、


「あ。」


 見覚えのある少年と目があった。


「あー、さっきはありがと。助かった。」


 水色の傘を差し出すと


「え、でもまだ外雨降ってるよ? 今日は持って帰りなよ。」


 彼は受け取ろうとしなかった。


「いいよ。もう濡れて困るもん入ってないし。」


 少年も学校で会った制服姿のままだった。直接病院に来たのだろうか。


「えー心配だなぁ。学校で返してよ。1のBにいるからさ。僕は諏訪直人。君は?」


「え。」


「名前、なんての?」と寄ってくる直人に俺は渋々答える。


「へぇかっこいいね! 親がつけてくれたの?」


 まあなとテキトーに返す。


「安曇? 爽太? ……爽太はさ、」


 馴れ馴れしいな。正直、今は直人と話せるほど精神に余裕はなかった。さらに無力な自分にイライラして、つい強い口調で直人に当たる。


「もういいか? 俺帰りたいんだけど。それに、お前と話してる時間がもったいないし。」


 カバンを持って席を立つ。


「もったいないことないんじゃない?」


「は?」


「辛いなら、話聞くよ。関係ないかもしれないけど、一人で抱え込むとしんどいよ。」


 偽善者が。どうすることもできない他人に話す筋合いはない。それにまだ知り合って一日も経っていない。どうせ話しても向こうが気を遣うだけ。放っておいてくれ。


「爽太?」


 無言のままその場を後にした。

 結局傘を返し損ねたことには、病院を出てから気がついた。





 昨日まで降り続けていた雨はすっかり止んでいた。ホケキョと鳴くうぐいすの声は、まだ下手だった。

 学校に着いた俺は重い足取りで1のBへ向かう。昨日の出来事もあり、直人に良い印象は持っていない。しかし、当然それが傘を返さない理由にはならない。


「失礼します、すわさん? いますか。」


 昨日いくつかの言葉を交わした相手のことを、俺自身はどう呼べば良いかわからなかった。というより、ほぼ覚えていないに近かった。

 名前も覚えていないような人間と関わらない方が、相手のためだなどと考えていると、


「おはよう!」


 と後ろから声が聞こえた。


「朝早いんだね?」


「別に。」


「……あの、昨日はごめんね。」


「気にしてないから。」


 こちらも謝るべきだとは思いつつも、これ以上関わりたくなくてそっけなく返す。短く礼を言い、傘を差し出し踵を返す。


「えー直人くんの知り合い?」


「お前マジで顔広いな。」


 後ろから聞こえた声に安心する。別に自分に構わなくても友達がたくさんいるんだろう。しばらくすれば忘れる。傘を貸してもらっただけの関係。それ以上になることはない。

 放課後になると昨日と同じように病院へ向かった。母のいる病室に着いても、とても写真を撮る気にはなれなかった。


 ————————————


 母との会話はそれなりに楽しい。一人っ子で友達の少ない俺にとって、母は一番の理解者でもあった。

 病衣を着ていなければ、いつもと変わらない。俺は悔しかった。こんなにも優しくて暖かくて自分をよく理解してくれている母に、時間がないことが。


「明日も来る。」


 そう言って病室を出る。病院の出入り口の近くにある待合室の前で「よっ。」と声をかけられた。


「……なんでいんだよ。」


 関わらないと決めたのに、驚いてつい足を止めてしまった。


「ここにいれば会える気がした。」


 椅子の背もたれに向かって座り、肘をついてこちらを見上げる直人は、楽しそうだった。


「もう俺に構うなよ。」


「なんで?」


「お前友達いるじゃん。」


「うーん、爽太よりはいるかもね。」


 笑う直人にムッとする。


「じゃあなんで。」


「僕と似てると思ったから。」


 その答えは予想していたものとは違った。直人は俺にないものを持っている。友達、社交性。瞳だって、都会の夜空のように濁った俺とは違い、満点の星空を映すようにキラキラしている。似ているところなんてひとつもない。


「俺にその八方美人さはない。」


 心底自分が意地悪だなと感じた。

 ふふっと笑う直人を見て、やっぱり自分と似ているところなんてないと再認識する。


「お見舞い?」


 自分の領域に土足で踏み込んでくる直人が苦手だ。ほっとけ。


「まあ。」


 なるべく冷たく、突き放すように返す。


「ええと、誰のって聞いてもいい?」


「母の。」


「そっか。毎日来てるの?」


「うん、まあ。」


「爽太は偉いね。」


「諏訪は?」


「直人でいいよ。」


「……直人は?」


「僕は、もう病院には用はないよ。」


「じゃあなんで。」


 俺と話したかったなんて笑うから、呆れて言葉も返せなかった。帰ろうと直人に背を向けると、


「……家族は大事にしなよ。」


 と声をかけられた。段々と募る小さくも重い感情が心を黒く染めていった。





 桜の花もとっくに散り、日差しがだんだん強くなってきた頃、


「母さん?」


 いつもの時間、病室のドアを開け母を呼ぶが、返事はなかった。眠っているのだと思い、それ以上声をかけず、着替えを置いて花瓶の水を替える。


「爽ちゃん……?」


 細く弱々しく名前を呼ぶ声が聞こえた。


「ごめん、起こした?」


「いいのいいの。爽ちゃんと話せるならいつでも起きるわよ。」


 少しやつれた顔、転べば折れてしまいそうな腕、細い体を起こす母の様子は、とても健康そうには見えなかった。

 日に日に弱っていく母の姿を見るのは辛かった。 

「母さん、水飲んでないの?」


 机の上には昨日持っていったペットボトルが置いてあった。


「うん、最近ペットボトルの蓋も開けられなくって。」


 困ったように眉を下げるその笑顔を見ると胸が苦しくなった。視線を逸らしたままペットボトルの蓋を開ける。


「はい。」


 ありがとうと言う母の顔は笑っているのか、声だけでは判断できなかった。


「爽ちゃん、色々迷惑かけちゃって、ごめんね。お見舞いも、毎日来なくていいからね。」


「……迷惑なんかじゃないよ。今度は蓋開けたの持ってくる。また明日。」


 病室を出る前に先ほどの花瓶が目に入った。しおれた花と母の姿が重なった。病室においておきたくなくて、捨ててしまいたい気分だった。





 母のお見舞いの後に直人と話す日々もしばらく続いた。関わりたくないし、鬱陶しかった。決して楽しいものではなかったが、わざわざ待合室を通らないという選択もなかった。そんなある日のことだった。


「大変だよなぁ。爽太は偉いよ。僕にはできそうにないや。」


 「大変」という言葉で片付けられるのも、直人と比較して偉いと言われるのも気に食わなかった。母のこと何も知らないくせに。


「他人事だな。」


 だって実際に他人だから。当たり前のことしか言えない自分にも腹が立つ。直人とこれ以上話したくなかったので、待合室を通り過ぎ、薄暗く人通りの少ない廊下に出る。

直人は「ごめん。」と申し訳なさそうに謝ると、


「あ、でも気持ちわかるよ。」


 フォローのつもりだろうか。こんな気持ちお前にわかってたまるか。直人は俺の後をついてくる。


「だから——」


 肩を掴まれた。直人の手はひどく冷たく感じた。


「お前に何がわかんだよ! 家族亡くしたことないだろ。そうやっていつも余裕ぶって、可哀想な人間に中途半端に優しくして。」


 直人の手を振り払う。どんなに優しい言葉をかけられても、素直に受け入れられる余裕はなかった。


「……最低だよ。」


 直人は目を半目に開いて軽蔑するような、悲しそうな顔をしている。そして両手で胸ぐらを掴まれた。


「勝手に殺すなよ。」


 直人の行動に、目を見開くくらい驚いた。


「……関係、ないだろ。」


「爽太のお母さんまだ生きてるじゃないか。」


 うるさいな。一歩後ずさる。


「話しだってできる。」


 だからなんだ。もう一歩下がる。


「どうして冷たくするの?」


 黙れよ。もう一歩。


「どうして目を背けようとするの?」


 関係ないだろ……! 背中に冷たい感触がした。それ以上後ろには下がれなかった。


「分かってないのは爽太の方だよ……!」


「うるさいな!」


 わかっていたけれど、ずっと目を逸らして逃げてきた。勉強も部活も母の余命宣告も、友達を作るのだって、仲が悪くなるのを恐れて避けてきた。


 ——お前が母さんの代わりに。


 直人の首に手をかける。だんだん力が入り気道を閉める。


「が、あっ……。」


 直人は体が小さく力も俺には及ばないため、自分の首を絞める手首を掴み返すのがやっとだった。直人の爪が手首に食い込むが、気にすることなく、ただひたすら首を絞めた。


「……そうだな。俺はずっと逃げて、母さんに頼まれた写真だって、一枚も撮ってないっ。」


 どくどくと首から伝わる脈が速くなる感触。


「そう、た……。」


 自分の名前を呼ぶ掠れた声を無視する。


「なのに放ってはおけなくて、だから逆に母さん心配させて……。中途半端なのは、俺の方だ。」


 目頭が熱くなり、鼻がツーンとした。目からは涙がこぼれていた。


「……。」


 自分の手首を握る力がふと弱くなったのに気がついて、慌てて手を離す。直人は激しく咳き込みその場に倒れた。


「ごめん、俺……。」


 俺の手は震えていた。

 受け入れたくなくて、俺は、母さんに言われたことも聞けなかった。


「ゲホっゴホっ、ごめっん、僕も、無神経ッ、だった。」


 息を整えながらゆっくりと立ち上がる。

 直人の言う通りだ。俺はずっと逃げて、母に頼まれた写真も撮っていない。アルバムに今の様子を入れて欲しい気持ちも理解できない。その通りにしたら、母さんの死を受け入れるような気がして。だから逆に母さんに気を遣わせて。


「爽太は僕に何がわかる? って言ったけど……家族、亡くしたこと、あるよ。あの日、病院にいたのも、そのせい。」


 俺は呆然として声も出なかった。


「僕は、誰かに聞いてもらいたかったんだろうな。話すと楽になるって言ったけど、あれは僕のことでもあって。」


 待ってくれ。


「最低だよね、見返りを求めてたんだよ。相手の話を聞けば、自分自身のも聞いてもらえる。でも爽太に話させるばっかで、僕自身のことはほぼ隠したまま。僕だって怖いんだ。一人になるのも、現実を受け入れるのも。だから友達いっぱい作って気を紛らわせて。」


 黙って聞くことしかできなかった。


「話して楽になりたかったのは僕の方なのに。」


 いつもニコニコしている直人からは想像もできないような冷たく哀しい目をしていた。


「——ごめん爽太、改めて話さない?」


 直人の雰囲気が変わったような気がした。いつもの明るさと人懐っこさは感じられなかった。小柄なのになぜか自分より大きく見えた。

 直人の瞳には初めて会った時の光はなかった。なんだ、俺と同じじゃないか。現実から目を背けて逃げている。ようやく直人と向き合えた気がした。


 はじめまして。俺は直人と初めて話をする。

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