開かずの間
妙は15になって、あるお屋敷に奉公に上がることになった。普通なら12歳か13歳で奉公に出る。16か7で嫁に行く。お屋敷奉公が嫁入りになくてはならぬ情報網となっている。どこぞのお屋敷へと、娘たちは小さな胸をときめかす。
妙はほかの娘たちとは違っていた。年頃になっても嫁入りには毛ほどの関心を示さず、ましてや奉公など見向きもしなかった。野や山をかけずり回ったり、他人の家のいざこざの心配事を覗いては、好奇心を高ぶらせていた方が性に合っていた。
その妙が奉公に出るという。しかも誰も行きたがらない屋敷だという。仰天したのは両親だけではない。周りの者も目を丸くして妙を見つめる。あの屋敷だけはやめとけと親切な人は引き止める。
だがいったん言い出したら聞かぬ妙だ。仕舞にはこのへそ曲がりがと口を聞かぬ者も出る始末。両親もおろおろするばかり。
その屋敷に奉公に上がった者は決まって4ヶ月で暇を出される。中には自分から飛び出してくる者もいる。彼女らは一応に口をつぐんで、屋敷で何があったか話したがらない。
屋敷の主人は町の有力者で下手なことを喋ると、後で何をされるか判らないという不安もあるが、彼女たちの表情には骨の髄までしみ込んだ恐怖の色が見える。
中には厳しい折檻を受けた者もいて、その体には目を覆いたくなるようなあざがある。
・・・開かずの間・・・彼女達がようやく口にした言葉である。
この言葉の持つ陰気なニュアンスの所為か、うわさはたちまち広がって、あの屋敷はお化け屋敷だということになって、その屋敷の名前を聞いただけで、眉をひそめて口をつぐんでしまう。
「面白いわ」と周りをびっくりさせた妙の心の内には、奉公に出て、嫁に行って、子供を産んで、年取って死んでいく。こんな先の見える生活に飽き足らない気持ちが渦巻いているのだ。
未知のものへの憧れ、それがどんなに不気味なものでも、胸をドキドキさせたい。びっくりするような経験をしてみたい。
開かずの間?、面白いじゃない。妙の心はすでにその屋敷に飛んでいた。
屋敷内はとてつもなく広い。広い庭があって、廊下でつながった各部屋はいくつあるのか、妙の胸はときめいていた。
妙を伴ってきた母が型通りの挨拶を済ますと、早々に帰っていく。
奥様から直々に声をかけられて、ようやく我に返ったのである。
「あなたみたいな人が来てくれて、大助かりですよ」奥様は澄んだ声で言う。
・・・やさしくてきれいな奥様・・・妙は借りてきた猫のように小さくなっていた。
奥様が屋敷内を案内する。妙は目を輝かしてついていく。
まず東の方から納屋、台所、物置部屋、女中部屋、日用雑貨を出し入れする部屋、3つばかりの畳の部屋、玄関を挟んで床の間、応接の間、ご夫寝の部屋3室と続く。
昔の由緒ある庄屋だという奥様の説明を聞かばこそ、開かずの間はどこかしらと目がちらちらする。
「あなた1人で掃除するのも大変だから、私と一緒にやりましょうね」奥様の優しい声。
夕方、旦那様のご帰宅。カイザル髭の近寄りがたい風貌も笑いが漏れると愛嬌がある。妙が来たことを喜んでいる。
「妙さん、ここには私たちしかおりません。ですから家族の一員のようにふるまってくださいね」奥様はにこやかに言う。
「でも1つだけ守ってほしいことがあります」美しいお顔がひきしまる。
妙はそら来たとばかりに体中の血が逆流するのを知った。
「この屋敷の北に、渡り廊下で繋がった離れがあります。その離れには決して近づいてはいけませんよ」
妙は恭しく頭を下げた。
それからの数日間は、奥様から仕事を教わり、自分のものにするのに一生懸命だった。1日中休み間もない。働きづめで、夜になると死んだように眠る。
仕事の要領も判り、屋敷の生活に慣れるまで1ヵ月はかかった。妙はまめまめしく働いた。
旦那様は夕食後、面白い話を聞かせてくれるし、奥様は料理や裁縫を教えてくれる。過分の給金を頂戴出来て申し分のない奉公先である。
それからまた1ヵ月が過ぎる。仕事の多くが妙に任せられる。
ある日妙は・・・そろそろやるか・・・にやりと笑う。
ーー開かずの間ーー2間ばかりの渡り廊下で隔てられている。昼間は近ずくことはできない。それでなくとも奥様が目を光らせている。
数日前試しに雑巾がけしてやれと渡り廊下に一歩踏み込んだ。
「妙さん!」奥様の金切り声が飛んできた。身をすくめて慌てて振り返ると、奥様の鬼のような顔が妙を睨んでいる。
「近づいてはいかんと言ってあるでしょうが!」罵声ともいえるぞんざいな声を浴びせかけられた。
これがあのお優しい奥様かと、妙はわが耳を疑った。妙は幾度も頭を下げた。このことはすぐにも旦那様の耳に入って、その後しばらくは不機嫌な旦那様とうさんげな奥様と暮らす羽目になった。
しかし妙は開かずの間に一層興味を抱いた。
開かずの間には南京錠がかかっている。近づいても中には入れない。まずは外から調べてみようと、真夜中に起きだすと、台所の裏口から開かずの間に近づく。正面入り口はカギがかかっている。周囲は板壁で覆われていて窓さえない。縁の下に潜って床板をはがせないものかと,幾夜となく2間四方の古ぼけた開かずの間を探った。
ある夜、妙は柱時計のボーン、ボーンという音で目を覚ました。
この日は旦那様の友達が遊びに来られて、その接待の追われて寝たのは夜11時。寝過ごしたかと思ったが、今日こそは縁の下の床板をはがしてやると意気込んでいた。用意していた釘抜きとローソク、マッチを持って縁の下に潜り込んだ、。
ローソクに火を点けようとしたとき、雨戸の開く音がした。渡り廊下を歩く音がする。
・・・旦那様だ・・・妙は歩き方で判断した。足音は正面で止まる。南京錠を外す音。戸の軋る音が闇夜に響く。パタンと戸が閉まる。
妙は全身を耳にする。
10分もたったころだろうか、すすり泣きが漏れる。それが大きくなる。
誰かいるのだろうか、妙の血は激しく動く。
旦那様のつぶやく声が漏れるが、何を言っているのかよくわからない。
と、突然、床下がどんと響く。妙はびくっとする。
見つかったのかしら、息をひそめていると静かになる。またしばらくすると嗚咽が漏れる。それが恨みがましい呟きに変わっていく。こんなことが4回ばかり続いたあと、戸の開け閉めと錠をかける音がして、足音は渡り廊下のはずれで止まる。妙は縁の下から様子をうかがう。
「あなた・・・」奥様の声。
「いいんだ、いいんだ」旦那様は奥様を慰めている。2人の足音が屋敷の方に去っていく。
自分の部屋に戻った妙は、せんべい布団に潜り込んだものの、暗い天井を睨みつけたまま、まんじりともしなかった。
すすり泣き、旦那様の嗚咽、奥様の悲しいお声。それらが鮮やかによみがえってくる。
あの部屋に誰かいるのだろうか、いやいやそんなことはあり得ない。否定したものの、ひょっとしたらとまた思い返す。あの中はどうなっているのだろうかと考え込んでしまう。どうかして入ってみたい。妙はいちずな思いにとらわれた。
しかしこんな真夜中に旦那様が起きだそうとは思いもしなかった。床下を破っては気づかれてしまう。鍵を手に入れるしか方法はない。どうしたら夜が明けるまで考えとおした。
妙は1日の行動を反芻してみた。
朝6時に起床。朝食後、7時半に旦那様は会社へ、それから奥様と2人で掃除や洗濯。昼食後、お風呂の水を入れたり、薪を割ったり、夕食の用意をしたり、買い物に行ったり、漬物を漬けたり、奥様から料理の手ほどきを受けたりする。
旦那様は6時に帰宅。7時に夕食。後片づけを澄ませて9時の就寝の間の一家団欒。時折旦那様のお友達や会社の人が見えるがそれ以外は屋敷内は閑散としている。奥様が屋敷から出ることはまずない。
これでは鍵を手に入れることはできない。
妙はしばらく様子を伺うことにした。夜中2時ごろ、旦那様は開かずの間に入られる事がある。そんな時奥様は渡り廊下の前で旦那様が出てこられるまでお待ちしている。奥様は渡り廊下を踏み越えようとしない。
鍵は寝室にあるらしい。旦那様は白い小箱を持って入られる。あれは何だろう。大事そうに両手に包み込むようにして持つ。
旦那様が入られてしばらくするとすすり泣きが漏れてくる。旦那様の声ではない。誰かいるのだろうか。妙は不審に思う。人がいるならば食事はどうするのだろうか。それに排便は・・・。縁の下に排便用の穴もなければ、便の臭いもしない。小箱が食事だとしても人1人が食べる量はない。
想像を逞しくすればするほど、肌寒い思いにとらわれる。それだけに何が何でも中に入ってみたい。そのためには命を捨ててもいいと思うようになっている。
「鍵が欲しい」妙の焦燥は、屋敷から一歩も出ようとしない奥様のために深くなっていく。
幸運?が間もなくやってきた。旦那様が会社の出張で1週間ばかり屋敷を開けることになった。1日2日と過ぎて3日目に出張先の旦那様から電話があった。これでここ2~3日は電話はあるまいと妙は踏んでいた。
4日め、計画を実行する。昼過ぎに買い物に出かけた妙は薬屋に飛び込んだ。
薬屋の主人は妙の顔をじろじろと眺める。
「妙ちゃん、久しぶりだね。お屋敷奉公はどうだい。まだ続きそうかい。もっぱらの噂だよ」
妙はむっとした。
「開かずの間のことでしょ。そんなもの関心ないわ。それより眠り薬頂戴な」
「へえ、だれが飲むんだい」主人は眼鏡越から妙を見る。
妙はますますむかついたが、主人の心証を損ねてはと思って
「奥様がね、最近寝付かれなくてね、眠り薬を買ってくるように言いつかったのよ」
「あの奥様がねえ」主人は頭を振り振り薬を手渡す。まだ妙の話を聞きたい様子だったが、薬を手にするや、妙はさっさと店を出る。どうせ薬屋の事だ、薬のことは町中に言いふらすだろうが,かまうこったない。どうせ町の人は私に事を噂してるんだ、妙はふてぶてしくぶつぶつ言いながら屋敷に戻った。
夕食後、妙は奥様にお茶を差し上げる。眠り薬が入っている。奥様はおいしそうに召し上がった。妙はほくそ笑む。早く寝てしまえ、妙は胸をときめかせながら、妙は自分の部屋に引っ込む。
12時。起き上がって奥様の部屋に入る。
「奥様、奥様」妙は襖の外から声をかける。返事がない。薬が効いているようだ。妙は部屋に入って奥様の肩をゆすってみる。死んだように眠っている。
成功!。妙はにやりとして明かりをつける。部屋の片隅に引き出し机がある。その中に鍵があった。ふと上を見ると、神棚に白い小箱がある。妙はそれを手にすると電灯を消して開かずの間に急いだ。
南京錠を外すと震える手で扉を開ける。妙は持ってきたローソクに灯をつける。ささやかな風が入ってくる.炎がわずかに揺らめく。妙のギラギラした目が部屋を見渡す。
8帖ほどの広さの部屋には何もない。掃除をしていないせいか部屋の中はうっすらと埃にまみれている。壁は板張りである。
何もない・・・。妙は失望のあまり唇をかんだ。
「何が開かずの間だ」妙はふてぶてしくその場に座り込んだ。手の中の白い箱を見つめる。蓋を開ける。指輪が1つ転がり出た。
「なんだ、こんなもの、あほらしい」
妙は体中から力が抜けたいくのを感じた。
縁の下で聞いたすすりなきが蘇る。何かあるはずだ。妙はもう一度部屋の中を知らべてみようとしたとき、風が吹き込んで炎を吹き消した
途端に大きな音を立てて扉が閉まった。錠のかかる音がする。妙はびっくりして扉をたたいた。
「妙!」
「旦那様!」妙はその場に崩れた。
「胸騒ぎがしてな、急いで帰ってみるとこのありさまだ。とんでもないことをしてくれたねえ」
「でも中には何もないじゃないですか」負けてなるものかと妙は精いっぱい抵抗した。
「何もなければ入ってもいいというのか。あれほど近づいてはならんと言ってあるのに」
・・・畜生、2人とも眠らせておきゃよかった・・・妙は歯ぎしりする。
「ねえ、旦那様、お願いですからここから出してくださいな」哀れっぽっく言う。「駄目だ。死ぬまでそこに居ろ」
「そんな!それならぶち破ってでも出てやる」妙は喚く。
「やれるならやってみろ」旦那様は言いながら以下のように付け足す。
妙、いいかお前がどんなことをしたのかわかっていないようだから言い聞かせてやろう。
今まで来た奉公人たちも、開かずの間に興味を持った。仕方のないこととはいえ、絶対に許されないことだった。渡り廊下を歩いてだけでも折檻した。ましてや開かずの間に触れた者は体中に痣ができる程お仕置きをした。
だからみんな辞めていった。私だって世間の評判くらいは知っている。それでも私には開かずの間を守らねばならぬ秘密があるのだよ。
それをお前は・・・。
旦那様は悲しいのか、あるいは悔しいのか声を殺してしまった。
妙は沈黙に耐えられなかった。
「ここに何があるというのですか、教えてくれともいいじゃないですか」
金切り声を出した。
「そうだな、お前はもうそこから出られないのだからな、教えてやろう」
旦那様は声を落として以下のように話した。
もう15年も前のことだ。私には1人の子供がいた。その子が6つの時に妻が死んだ。それで1年もたたぬうちに新しい妻をめとった。それが今の家内だ。お前も知っての通り家内は優しい女だ。子供に好いてもらおうと、わがことのようにかわいがった。だが子供は,啓子というのだが、家内には少しもなじもうとはしなかった。むしろ敵意さえ抱いていた。子供にしては異常なほどだった。食事でも家内が差し出すとその茶碗を投げ捨てる始末。そのたびに家内は泣き出す。
私が啓子を叱る。ある時は思い余って啓子に拳骨をくれてやった。
「父さんは私とこの人とどっちが大切なの。私知ってるんだ。この人が母さんを殺したんだ」
恐ろしいことをずけずけというのだ。
家内はあんまりだ。実家に帰ると言い出す始末。とても子供が言い出す言葉ではない。わが子ながら、私は啓子が怖いと思った。
でも私は啓子の言葉に引っかかるものを感じていた。というのは啓子の母と家内は幼なじみだった。私は本当は家内と結婚したかった。身分が違うと親に言われて啓子の母と一諸になったが、私は結婚した後でも、家内の家にしげしげと通ったものだ。
ある日,啓子の母と家内は湖に釣りに行った。
家内の話だと釣り船で湖の真ん中に漕ぎ出したという。釣りをしながら戯れている最中に船が転覆して二人とも投げ出されて、家内だけが助け出された。
啓子の話と合わせて私が不審に思うのは、啓子の母は家内以上に泳ぎが達者だったこと、波もないのにどうして家内だけが助かったのかという、心のしこりが残った。
しかし晴れて家内と一緒になれる嬉しさにそれ以上詮索しなかったのだ。そのころは両親もなくなっており家内と結婚できたのだ。
啓子はものごころが付くころから異常な能力を見せるようになっていた。私が啓子を怖いと思うのもここに原因がある。
それは恐ろしい程人の心を言い当てるからだ。それに人の好き嫌いが激しく、嫌いな人が家に来ると、この人は平気でうそをつくんだと、本人に向かってずけずけと言ってのける。お陰でこちらが冷や汗をかく始末。
啓子が8つになった冬のある日、啓子が大やけどをしたという、家内の電話が会社に入った。駆けつけてみると、啓子は顔中包帯を巻かれて横になっていた。胸の痛む光景だった。傍らで家内が泣いて、私が悪うとございましたと言を繰り返すだけで要領がつかめなかった。
お大事にと言いながら医者が帰っていった後で判ったことは、家内が囲炉裏端で煮炊きをしていた時、後ろから啓子が包丁を持って突きかかってきたというのだ。信じられないことだが、家内の言うことを信じるしかなかった
幸い綿入れを着ていた家内には怪我はなかった。びっくりして振り向くと啓子がわき腹に突きかかってきたという。家内は思わず啓子の手を払いのけた。はずみで啓子は囲炉裏の火の中に顔を突っ込んだという。
こうまで啓子ちゃんに嫌われてはもうここにはおれません。離縁してください。家内は泣いていう。私は宥めるしかなかった。
旦那様の話を聞きながら妙はかわいそうな奥様だと思った。
旦那様の声はもう妙に聞かせる口調ではなかった。回想の中に自分を埋没させていた。
私が家内を離縁などできるわけがない。啓子も好きだ。思い悩んだ挙句、結局は今まで通り生活するしか無かった。
1ヵ月くらいたって啓子の体力が回復してきた。顔は二目と見られぬくらいに焼けただれていた。両眼は失明して声帯が損なわれていた。どうにか流動食を口に入れることはできた。
啓子は家内の気配を察すると、声ならぬ声を上げて逃げようとする。
私は家内と啓子を引き離すことにした。
開かずの間、つまり離れ屋を建てたのはそれから間もなくのことだった。3度の食事は私が運んだ。風呂や厠の世話も私がした。
幸い私が経営する会社だから、出勤の時間は融通が利いた。啓子は私がそばにいることが楽しかった。
啓子は白い小箱を大切にしていて、箱の感触を楽しんでいた。何が入っているのかと、私が問うと、胸にしっかりと抱きしまて、見せてはくれなかった。
その箱の中には、啓子の母の形見の指輪が入っていた。啓子の母は私と結婚して間もなくこれ私の秘密よと言って私に見せびらかしたものだった。
啓子は母の形見を大切に持っていた。私が箱の中身を見たのは家内と結ばれる直前だった。啓子の部屋にあった。私は箱の中身は知っていたが、あえて知らないふりをしていた。
啓子の生ある限りはその秘密を探ろうとは思わなかった。
啓子が亡くなって、離れを取り壊そうと思った。不要だし、屋敷全体に陰気な印象を与えてしまうからだ。
そんな矢先、啓子の霊が私の枕元にあらわれた。離れを壊してくれるなと、1度ならず2度3度も現れた。その上夜中になったら、小箱を持って離れに来てくれという。
・・・小箱の中には私の秘密、啓子の母と交わした結婚指輪を入れて・・・
家内は優しい女だった。私の話を聞いて涙ぐんだ。夜中、私が離れに入って出てくる間、渡り廊下で待つ日が続くようになった。
それが啓子へのせめての罪滅ぼしだというのだった。
開かずの間で、私と啓子の霊が語り合う。小箱の中の指輪を私が指に嵌める。嬉しいのか啓子はすすり泣く。時には思い余ったように、家内と別れろと訴える。私が床をたたいて啓子を叱る。
開かずの間は私の秘密なのだ。誰も近づいてははならぬ聖なる場所なのだ。
「ほら、啓子が呼んでいる」
話を聞いているうちに、妙は体が震えてきた。暗闇がじわじわと体を締め付けてくる。啓子の霊が現れるように思えてくる。髪の毛1本1本が逆立って来る。
「旦那様」妙は懸命に叫ぶ。
「私が悪うございました。お慈悲です。ここから出してください」声が泣いていた。
「駄目だ、お前は私の秘密に入り込んだ。啓子もお前を憎んでいる事だろう。お前を死なせることが啓子への供養になるのだ。このまま餓死してしまえ」
「私が死んだら、町の人が疑いますよ」
「思うものか、どうせお前は跳ね返り娘だ。どこかへ行ってしまったと思うだけだろうよ」
それだけ言うと旦那様の足音が遠のいていった。
「旦那様」妙はあらん限りの声を張り上げた。こぶしで戸を叩く。
「畜生、何が秘密だい。何もありゃしないじゃないか」
涙が出る。力なく崩れて涙の枯れるまで泣いた。
いつの間にかうとうとして、気が付くと朝になっている。戸の隙間から朝日が差し込んでいる。小鳥のさえずりも聞こえてくる。
空腹である。妙は戸を叩く。疲れ果てるまで叩く。もしかしたらという淡い期待を抱いて必死にたたき続ける。やがて夜になる。すすり泣きが聞こえてくる。どこで泣いているのか恨めし気な余韻が心に響いてくる。
妙はおどろおどろしい気持ちになる。辺りを見回して両手を合わせる。
泣き声は絹を裂くような鋭い呪いの声に変わっていく。まるで建物が1つの生き物のように震えている。
妙は今まで唱えたことのない仏様、神様の名前を必死に唱える。
2日目の朝、妙の気力は失せて目がどんよりとしていた。声にさなまれて一睡もしていない。その上空腹がひどくなる。もう戸を叩く力もない。何か食べたい。ここから出たい、その一念だけが妙を支えていた。
「お父う、お母あ」妙は助けを求めた。
3日目、「妙、妙」外で旦那様の呼ぶ声がする。
「旦那様!」妙は縋り付く思いで叫ぶ。
「まだ生きているのか」
「お願い、ここから出して・・・」妙は悲痛な声を上げた。
「駄目だ、家内はお前を出してやれというが私は許さない。死ね」
それきり旦那様の声は途絶えた。妙はがっくりと首を落とした。
闇の中からすすり泣きが漏れた時、妙はうつろな目を開けた。
「啓子ちゃん、堪忍ね。悪気があったんじゃないよ」
妙の心からは恐怖心が払拭していた。妙は闇の中で肉体のある人間に喋るように話した。
4日目、妙の眼はすわっていた。涙は枯れて、喉の奥が引っ付いていているようだった。唇の皮がむける。全身の細胞1つ1つが異常事態にピリピリしている。耳鳴りがしてめまいがする。
すすり泣きが聞こえると「啓子ちゃん」妙は親しい人に呼び掛けるように喋る。自分が啓子の霊に感化されていくようだった。慰められているような、体という殻を脱ぎしてて、空気のように軽くなっていくようだった。安らかな気持ちが妙の心に広がっていく。
5日目、空腹感が無くなっている。腹に力は入らないが、体中の細胞が活動を停止してしまったみたいな気持ちだった。目まいはしない。頭の中が軽くなる。このまま死ぬと判っていても恐怖心が湧いてこない。生きるとか死ぬとかの次元を超えていた。放心状態が妙の心を包み込んでいた。
心の奥底から力強い何かがせりあがってくる。その分だけ妙の“我”は沈んでいく。5感が制御されていく。妙は半分寝ているような気分に浸っていた。
・・・深い深い海の底にいるようだ・・・
頭の中がぼーっとしてくる。そのくせ意識が澄み切ってくる。
妙は夜の空気を嗅いだ。今まで感じたことのない独特な味だ。外の空気が動いている。南から北へ、妙は風の動きを見るように感じていた。
何かが怒っている。それは啓子の霊だと感じた。閉じ込められて、無念の情に凝り固まった怨霊が奮い立とうとしている。
妙は促されるようにローソクに火を点ける。小箱を手の中に包み込む。炎を凝視する。空気が動かないのに、炎が奇妙にゆらめく。命が燃えているようだ。炎が立ち上がれと命じている。妙はローソクを手にすると、軽々と立ち上がる。この力強さ!、
・・・これは私ではない・・・妙は心の底で叫んでいた。
左手で小箱とローソクを持つ。妙は右手で戸を押す。信じられないような力が腕から手首に伝わっていく。錠がはじけ飛ぶ。
妙はゆっくりと歩く。渡り廊下を踏み鳴らす。風があるのに炎は消えそうで消えない。母屋の雨戸に手をかけると簡単に外れる。
すぐ右手が寝室だ。妙が少し手をかけただけで、襖が外れんばかりの音を立てる。
「誰だ!」旦那様が叫ぶ。奥様も起き上がった。
妙は一歩部屋に踏み込んだ。ローソクの灯が怪しい陰影を作っている。
「妙!」驚愕する旦那様。奥様が張り裂けんばかりに叫んだ。妙を見つめるその目は恐怖に取りつかれていた。
妙は一歩また一歩と奥様に近づく。奥様は旦那様から離れると、半狂乱になって神棚の下の壁にへばりついた。
妙は奥様にかがみこむように近づく。
「よくも私の母さんを殺したね」幼い声を漏らす。
奥様の瞳孔は見開いたまま、口から泡を吹きだす。目の光が消えていく。
妙がそう思ったとき、「くくっ」奥様は喉の奥から絞り出すような声を上げた。それが奇妙な笑い声に変わっていく。
「狂った!」ぞっとして妙は顔を背けようとした。
・・・見たくない・・・妙は叫びたかった。それは空しいい抵抗だった。妙の体は奥様を見つめたまま、なおも近づこうとする。
突然奥様は妙を突き飛ばした。茫然自失の旦那様にしっかりと抱きつくと
「殺して悪かったかい」底響きのする、ばねのある声で挑んできた。その顔はあのお優しい奥様ではない。鬼だ、執念の鬼の顔だ。
・・・もうやめて・・・妙は顔を覆いたかった。
「とうとう白状したな」妙の口から幼いながらも突き刺すすような声が飛び出す。妙は奥様を睨みつける
「そうさ、憎い女だったからね」奥様の口から粘っこい声が飛び出す。
私は旦那様と愛し合っていた。それをお前の母は、、、。吐き捨てるような奥様の声が続く。
「私の母さんはそんなことぐらい知っていたさ。けどお前を責めたりはしなかった。その母さんを、、、お前を許さない」
「子供のくせに何を言うか」奥様の口から激しい言葉がほとばしる。
私はお前が憎くてたまらなかった。その目、その口、お前の母にそっく理だ。
あの日・・・。私は囲炉裏で煮物を煮ていた。お前は立って私を見ていた。あの女、そうだお前の母が見ているのだと思った。あの時ほど私はイライラしたことはない。旦那様の手前、お前に優しく振舞っていたがいつか殺してやろうと思っていた。
今殺してやろう、そう思うや,私はお前の首をひっつかむと、手鍋をひっくり返して囲炉裏の中にお前の顔を突っ込んでやったのさ。悲鳴を挙げるお前。顔の焼けただれる音,臭い、苦しみあがくお前を組み敷いて、私は快感のあまり叫びたかったよ。
二目と見られぬお前の顔を見たとき、私は声を挙げて笑ったものだ。お医者様が来るまで、包丁で細工をしたってわけだ。
これで旦那様は私1人のものだと思うと嬉しくて仕方がなかったねえ。
その後夜中に旦那様が離れに入られる。私は渡り廊下の前で待つ。その時私は陰陽師に習った霊を封じ込める呪文を一心に唱えていたのさ。
私にとっても離れは旦那様以外の者が絶対に近づいてはならない場所だった・・・。
奥様は勝ち誇ったようにけたたましく笑う。何と恐ろしいことを・・・。
妙は心の内でおろおろしていた。
奥様の声が言い終わらぬ内に妙の右手が奥様を殴った。すさまじい力が籠められている。奥様はカエルが後ろに飛び下がるように1尺ばかりのけぞった。仰向けになりしたたかに壁に頭を打ちながらも、妙を睨みつけていた。鼻から血が滴り落ちて亡者のようになった。
痴呆の様に突っ立つ旦那様を、妙は抱きしめた。
「父さん・・・」妙の口から悲しいまでにいとほしい声が流れる。
妙は小箱の中から指輪を取り出す。
「母さんのところにいこうね」旦那様の指にはめた。
妙は部屋に火を点ける。襖に寝具に・・・、部屋中を火の海にした。
・・・やめて・・・
妙は悲痛な思いで叫んだが声にはならなかった。目に涙があふれてくる。それが妙の精一杯の抵抗だった。
火はごうごうとうなりを上げる。奥様が起き上がる。妙を突き飛ばすと旦那様にしがみついた。
「これは私のものよ」絶叫した。突き飛ばされた拍子に、妙は物の化の落ちる顔になった。“自分”を取り戻した妙は追い出されるように火の中を逃惑って屋敷を飛び出した。風がある。火はすでに屋敷内を嘗め尽くしていた。
妙は呆然と火炎を見ている。火の中には旦那様と奥様の抱擁する姿が浮かび上がっている。この世とも思えぬきれいな光景だった。
梁が崩れ落ちる。お2人の仲を裂くように、真っ赤に燃えてゆっくりと崩れ落ちていく。奥様は旦那様と引き放されて崩れていく。業火に負けまいと立ち上がろうとしている。そのきれいなお顔は焼けただれていく。このありさまを喜ぶかのように炎はなおも燃え盛る。
妙の眼からはとめどなく涙が流れていた。髪の毛がちりじりになり、着物は焼け焦げてボロボロになっている。妙は白い小箱をしっかりと握りしめていた。火が消えるまでいつまでも立ち尽くしていた。
それから妙は無口になった。屋敷の中で何があったか尋ねられても、
・・・開かずの間・・・と答えるだけであった。何に対しても興味は抱かず、
1日中じっとして過ごす。人が白い小箱に関心を示すと、妙は見せまいとして隠す。それでもなおも見ようとすると、人が変わったように凶暴になる。
やがて妙は納屋に隔離されて外部との接触を断たれる。
妙は毎日小箱を握りしめたまま、生ける人形のように暮らしていた。
妙が死んでも、納屋は人が気味悪がって朽ち果てるまで閉ざされていた。
--完ーー
お願い・・・この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織
等は現実の個人団体組織などとは一切関係ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創
作であり現実の地名の情景ではありません。