この世界
彼が私の手を引く。私よりずっと小さい男の子だと思っていたけど、背丈は私と変わらない。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕はリーグレ。ちょっと困っていてね。君もかな」
振り向いて私に微笑む。星がきらめくような眩しさ。
「私……あそこから、どうやって――。あれ……私の名前って――」
「忘れちゃったのかい? 無理もないよ。僕が呼び出せるような状態だったんだもの」
壊れかけのオルゴールのようなメロディーがたゆたう。誰も乗っていないジェットコースターが、轟音をたてて頭上をはしる。
「そうだなぁ。君の目……君はきっと決して得られないものを望んできたんだね。そんな目をしている」
失礼ね。そんな高望みしていたかな。あの世界での記憶が、一歩足を踏み出すごとに薄れていくようだ。
「ヘデラだ」
は、と声に出そうとするまえに、腕を強く引っ張られた。そういえば、握られたままの手。誰かと手をつないだのって、いつ以来だっけ。とっても小さかった頃、望んだわけじゃない、そんな場面でしか……。
リーグレの瞳に私が映っている。綺麗な瞳。こんな私がくっきり映るほどに。
「ここでの君の名前。決めた。さ、早く仲間のところへ」
仲間――。少しがっかり。絵本の中の王子様と二人、とはいかないようだ。
アトラクションの間を縫うように走り抜け、一段とひっそりした奥地にホテルが建っていた。
かなり老朽化が進んでいて、壁もところどころ剝がれている。
リーグレが重そうな扉を軽やかに開けると、私を中に招き入れた。
エントランスホールは、これぞ懐かしの一流ホテル、というように、大きなシャンデリアと、大理石の柱や床で縁取られていた。
「もう、遅い!」
中央の広い階段を、ポニーテールの女の子が駆けおりてきた。身軽な動きにひらひらとスカートが追いついていない。私に一瞥くれただけで、なにも言わず、リーグレに抱きついた。
「おっと。気をつけてね。この世界じゃ君たちは特に脆いんだから。ヘデラ、こちらはエビーだよ。エビー、ヘデラだ。新しい……最後の仲間だ」
エビーと名付けられた女の子は、とても外国人には見えない。でも私だって、ヘデラと呼ばれるのは恥ずかしい。けど、名前を思い出せないし……。
「ねえ、リーグレ。こんな枯れ枝みたいな人、役に立つの? 結構おばさんだよ」
(ねえ、あなたって何に役立てるの。ほんっと、邪魔なんだけど)
あれ、何だっけ。なにか思い出せそうだけど、いいや。ていうか、おばさん? そう、おばさんって言った。
「僕にはエビー、君と変わらないよ。いい匂いだね。なにか作ってくれたの」
「そう、リーグレの好きなグラタン!」
「帰ってきたんだね」
階段から、今度は肌の色がリーグレといい勝負に白い、か弱そうな青年が、手摺をつたい、降りてきた。
その横に、ふわふわと髪をカールした、おっとりした女の子も。
「あれ、新しい子?」
青年がリーグレに尋ねる。リーグレはエビーを少し離し、私の背中をポンっと押した。
「ヘデラだよ。彼はイクセ、彼女はユーニンだ」
イクセは軽く会釈した。ユーニンは微笑んで右手を軽く振る。
「グラタンだって。ヘデラの紹介もあるし、食堂へ行こう」
リーグレは先に立って階段を駆け上がっていく。
「おっせーな。冷めちまうじゃねえか」
階段の左奥にレストランと思しき場所があり、さらに奥に個室として、長テーブルが置かれた空間があった。
絵画の真下にある端の席に、ツーブロックのがたいがいい男が座っている。
その男から離れた席でこちらに背を向けている、もじゃもじゃ頭がピエロのような男と、二人がいた。
「あっちのマッチョ君がリープ、このもじゃもじゃ君はガーストだよ。君達、この子はヘデラ。仲良くしてね」
リーグレはガーストの肩を両手でポンポン叩くと、はしゃいだ様子で、リープの向かい、元気のなさそうな馬の絵を背に座った。
エビーが真っ先にリーグレの左隣へ、ユーニンはイクセを支えるように、リープから二席離れて、並んで座る。
「さあ、こっちにおいで」
リーグレが右隣の椅子を示す。――なんなの、この空間。
そっと椅子を引こうとしたが、エビーの鋭い眼光に、気まずくなり、一席あけて、座った。
「それでは、紳士淑女諸君、我が愛しの子供たちにして、忠実なるしもべの君達に乾杯!」
薄暗い部屋に明かりがともるような笑顔を皆に向け、ワイングラスを軽く上げる。
リーグレにならい、エビーも笑顔を取り繕う。反対側では、三人が同じくグラスをかかげていた。
ガーストという男は、もう食べ始めていたが。
――だからなんなの、この空間……。
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