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■摩竭梵志經第四 ~ 浄らかな人についての偈

浄らかさとは何なのか……そしてそれはどうやれば実現できるのか。

ちょっと難解だけど興味深い考察をした詩句と、それが生まれた事件についての物語です;

 

 佛説義足經 摩竭梵志經第四


 聞如是佛在舍衞國祇樹給孤獨園時有一梵志……


 こう聞いた!

 ブッダが、サーヴァスティの町(舎衛国)の近くにある、ジュータ林(祇樹)のアナータピンディカ園(給孤独園)にいたとき。


 摩竭(マガッダ?)というバラモン(梵志、高位の神官)がいたが、講堂で亡くなってしまった……よそながらご冥福をお祈りいたします。

 同学のバラモンたちは彼の亡骸を寝台に横たえ、サーヴァスティの広場に持ち出して、大声でこう言った。


バラモン「完全に解脱げだつしたマガッダ先生の死に顔を見るがいい! マガッダ先生を見ればみんなも解脱できるぞ。今、亡骸を見る者も解脱できるし、後で彼の名を聞く者も解脱するぞ!」


 解脱とは「あらゆる苦しみや束縛がほとけて完全に自由になる」という意味で、インドの宗教家の多くはこの境地を目指して修行しています。

 ブッダもまた同じで、7年くらいかけて何度も死にかけた修行の末に「悟りを開けば解脱できる。これを成仏(ブッダ(ほとけ)に成れた)と呼ぶ」という発見をし、その理屈と方法を体系化して教えたものが、仏教の始まりだったのであります。


 ただし現代の日本では、「死んでから天界や浄土に『往生(または昇天)』すれば、その転生先にいるブッダ(阿弥陀如来とか薬師如来とか弥勒菩薩とか)に『成仏』させてもらえる」という「来世成仏」という考え方が主流で、「往生=成仏」「亡くなった人=ほとけ様」と呼ぶことが一般的となっています。

 一方で原始仏教や禅/密教など「即身成仏」を重視する自力門派の仏教では、『成仏』とは死んでからでなく生きてるうちに修行して実現できるよう努力せなあかんものです。

 この義足経をはじめとするいわゆる「小乗仏教」は完全に後者でありまして、「成仏」と言えば「生きてるうちに悟りを開いて解脱する」ことを意味しており、「死んであの世に行く」ことではないのでご注意を。


 さて、マガッダ=バラモンがそんな状況になってるころ、ブッダの弟子の比丘たちは、食べ物を得るために器(鉢)を持って町へやってきた。そして、バラモンたちがマガッダ先生の遺骸を人々に見せてこのような功徳を説いてる姿を見た。


 食事が終わり器を洗い、ブッダのところへ戻ると、一同は礼(五体投地?)をして、みなブッダの近くに座った。

 するとブッダは今日の出来事の意味を、弟子たちに理解できるように語った。

 また後世の人のために八行の偈を作って、意味を説明し尽くした教え(義の足りた経=義足経)を長く伝えるようにした。


♪病気(問題)のない浄かな人を見て

    真理を知って自分も浄らかになったと信じてsa

  そのように考えた人は

    苦しみを断って自分は救われたと誤解するyo


♪よい人を見ることで浄められ

    智慧を得て苦しみからも離れたとsa

  浄いものを見たことで悪いことを除き

    ただ考えただけで最高の境地を実現したとne


♪正しくない、本来と違うやり方で

    知識を学んで戒律を保つことでsa

  自分の不浄や罪を救われ幸福を得るなんて

    そんなこと言う人はニセ者だne


♪前の考えを捨て後の考えに従うことが

    四海を渡る(苦しい世界から救われる)ことと思うならsa

  後のその考えもいずれ棄てるだろうし

    苦しいという気持ちにとらわれっぱなしだyo


♪それでは常に戒を守ろうと思いこんで

    いろいろとおこなっても苦痛を感じてしまうyo

  根本と末梢の違いをよくよく考えて行う人なら

    問題のあることはやたらと言わなくなるのsa


♪見たり聞いたり考えたりした

    全てのダルマ(物事)を疑いなく至し(コントロールし)てsa

  諦見たいけんした(正しく知った)見・聞き・行う力の根(感覚器官)を

    誰が六衰ろくすい(眼耳鼻口身心が衰えること)させられるだろうne


♪自分の体のためとか思わず自分を尊いとも思わず

    また何も願わないことで、浄らかさって実現できるんだyo

  こだわりの無さをふつうの感情は損なうけれど

    何も願ったりしなければこだわらなくなるyo


♪(本当の)梵志バラモンとは何も(物質も概念も)自分のものとか思わないで

    真実をありのままに見ることができる人のことだyo

  欲にも無欲にもこだわらないことで

    ついには浄いということにさえも、もうこだわってないのsa」



 ブッダがこの義足経(意味を説明し尽くした教え)を説き終わると、比丘たちはみんな喜んだのでした。¥e。

 


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