8話 アネットという娘
「それにしても、本当にあなたってお姫様みたいねぇ」
マリアベルが教師にならなくても淑女教育が進んでいるのか、アネットはぎこちない様子だが、音を立てずにゆっくりと紅茶を飲んでいた。
アネットの後ろにいるのは、マリアベルも教わっていたダドリー夫人だ。かなり厳しい人ではあるが、完璧なマナーを教えてくれる。
ダドリー夫人が教育してくれるのならば安心だ。
きっとマリアベルが教えるよりも完璧なマナーを身につけられる。
マリアベルがそう思った矢先、アネットはカップをソーサーに戻す時に小さな音を立ててしまった。
ハッとして顔を上げたアネットは焦ったように辺りを見回したが、正面に座るマリアベルは何もなかったようにただ微笑んで、素知らぬ振りをする。
やはりまだマナーを完璧にするのは難しいのだろう。
そばに控えている教育係のダドリー夫人がアネットに厳しい目を向けたが、アネットがその視線に気づくことはない。
それどころかアネットは、エドワードもマリアベルも何も言わないのであれば、これくらいは大目に見てもらえるのだろうと思った。
大体、自分は平民だったのだ。
急に王太子妃になると言われて頑張ってはいるが、すぐに完璧なマナーを身につけることなど、できるはずがない。
それでもこれだけ頑張っているのだから、ほめてほしいと思う。
それにいつもいつも堅苦しいマナーとやらを教えられているのだ。
たまにお茶を飲む時くらいゆっくりさせてほしい。
かつての婚約者だというマリアベルは、ただの幼なじみだとエドワードからは聞いている。
だとしたらこれは、友達同士のお茶会のようなものだ。
きっとエドワードはいつも大変なアネットのためにこのお茶会を開いてくれたのだろう。
王妃がすぐに退席したのは、年の近いものだけでお茶会をしたほうが話しやすいと気をまわしてくれたのに違いない。
そう考えたアネットは、気を張らずに肩の力を抜くことにした。
「バークレイ侯爵家は古い歴史のある家だからな。何代か前に王家の姫が降嫁しているから、姫と言っても差し支えないだろう」
「へえ~。だから品があるのねぇ」
ぶしつけなほどに見られて、マリアベルは困ったように視線を落とす。相手をじろじろ見るのはマナー違反とされているため、こんな状況には慣れていないのだ。
その様子を気にすることもなく、アネットは大仰にため息をついた。
「それにしても貴族って大変ね。なんでも決まり、決まり、決まり。臨機応変って言葉を知らないのかしら」
「確かに無意味な決まりも多いかもしれないね」
「でしょう? 私だったら、上の人が声をかけるまで話しかけちゃいけないなんて規則はなしにするわ。だって急用があったらどうするの? 話しかけてくれるのを待っていたら、手遅れになることだってあるわ」
「手遅れになるって、どんなことだい?」
エドワードに聞かれたアネットは、うーんと首を傾げる。
日に焼けた顔に、赤茶色の髪がかかった。
貴族の手入れをした細やかで白い肌とはまるで違う健康的な肌に、くるくると変わる表情。
マリアベルとはまるで違うアネットの姿に、胸の奥がチリチリと焼けつくような気持ちがした。
「たとえば、鍋が焦げそう、とか?」
「鍋! アネットはおもしろいことを言うね!」
思わず噴き出したエドワードに、アネットは頬をふくらませる。
「だって、笑い事じゃないのよ。鍋が焦げたら、それを落とすのは大変なんだから」
なおもそう言いつのるアネットの手を、エドワードの爪の先まで綺麗に手入れをされた滑らかな手が包む。
「もう君がそんなことをする必要はないんだよ。君は僕の妻になるのだから」
「エド……」
見つめ合う二人に、マリアベルは取り残されたままうつむくしかできない。
チリチリと胸の奥で鳴る音が、さっきよりも大きくなった気がした。
王へ直言する必要のある話の内容が、鍋とは……。
最初は冗談なのだろうと思っていたが、エドワードとアネットの様子を見ると、冗談というわけではないらしい。
マリアベルはエドワードの妃になるために、幼い頃から必死に努力をしてきた。
その努力が、こんな何も知らない娘によって奪われてしまったのかと思うと、それが何よりも悲しかった。
王妃の地位が欲しかったのではない。
恋焦がれるほどエドワードを愛していたわけでもない。
ただ、今までの自分の努力が全て無駄だったのだと知らされて……。
それが、悲しい。
アネットの屈託のない笑顔がエドワードの心をつかんだというのならば、それはマリアベルが決して持ちえないものだ。
今までの自分を全て否定されたような気がして、まるで心臓を針で刺したような痛みを覚える。
けれどもマリアベルは。
マリアベルが今まで受けてきた、未来の王妃となるべく受けてきた教育が。
荒れ狂う胸のうちをすべて心の中に押し隠し、ただ穏やかな笑みをその顔に浮かべて笑い合う恋人たちを虚ろな目で見つめていた。
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