命の灯火
「ただいま、お父さん」
シルバーズは背後からの声に魔力草を擦る手を止めた。静かに立ち上がり振りかえる。その面は表情をなくしてしまったかのような無表情であった。
「どうしたの? お父さん。そんな怖い顔をしちゃってさぁ、息子が帰ってきたのにおかえりの言葉もないの。冷たいなぁ」
藍色の髪をした少年は何が面白いのか、笑いをこらえているような表情を浮かべながら一歩ずつシルバーズへと近づく。
「なんの用じゃ」
ひどく冷たい声で問う、低く重たい感情の起伏のない平坦な声だった。目を睨むように眇める。
「お父さん怖いよぉ。そんな目で見られたら悲しいなぁ」
手で顔を覆って悲しむふりをするが、隠しきれていな口元が愉悦に支配されひん曲がっていた。
「要件を言わんかのう、儂も暇じゃないんじゃよ。それに、お父さんと呼ばれる筋合いはもうなかったと思うんじゃがな。……フィローシャ」
シルバーズはフィローシャと少年に向かってその名を呼んだ。フィローシャと呼ばれた少年はわざとらしく小刻みに揺らしていた肩を止め、覆っていた掌を顔から離した。泣いてはいなかった。笑っていた。声を上げるこなく幸せをかみしめるように笑っていた。
シルバーズの記憶よりもフィローシャは幾ばくか成長した姿であった、だが1つだけが決定的にシルバーズの記憶と異なっている部分があった。シルバーズから見て右の眼の色が変わっていたのだ。澄んだ海を映したかのような藍色の眼から銀と金の色を混ぜたような不思議な色の眼に変わっていた。
「俺。息子じゃないの? ……ああ、そっか、そうだよな。俺の代わりが見つかったから俺は用無しってわけか」
シルバーズは眉根にキツイ皺を刻む。そして、瞳が揺れる。動揺であった。なぜフィローシャがグレイのことを知っているのか、どこから情報を得たのか。この小屋付近に知らぬ誰かが近づいたことは一度たりともなかったはずであるのに。シルバーズの心の内には疑問が溢れて、瞳に表れてしまっていた。そのことに目敏く気付いたフィローシャは片方の眉を上げて得意げに答えた。
「なぜ、知ってるかって? 知ってるぜ、ある程度な。俺の代わりに育てている少年、グレイってお父さんが名をつけた奴がいることも、ここに結界が張って侵入者が入ってきたら気付く仕掛けになっていたこともな」
シルバーズは愕然とした。結界のこと、それがもう機能していないことをも知られていたことに。そして同時に耳障りな言葉があった。´俺の代わり´という。
「グレイはお主の代わりではない。二度と口にするでない!」
声を張り上げ、威圧の含んだ声が出る。その声にフィローシャは委縮することもなく飄々と会話を続ける。
「そんなに怒んなよ。古傷に触るぞ、背中のな」
シルバーズは傷の痛みを思い出したのか渋い顔をする。
「まだ痛むのかよ、歳って怖えよな。傷は全然癒えないし、体はどんどんどんどん鈍くなり、思考は耄碌となる。抗えない時の流れほど残酷なものはないよ。ということで、もうこれ以上傷が増えねぇように気をつけるんだな」
フィローシャは真剣を引き抜きシルバーズへと肉薄した。上段から袈裟懸けに振り落とされた真剣は鞘から抜き出した真剣に容易く止められた。フィローシャはすぐに後方へ飛び退き、深追いをしなかった。
「さらに強くなったのう」
シルバーズは小さく言葉を洩らした。その声音は悲痛でいてどこか誇らしげな親心のような感情が詰まっていた。
「フィローシャ、お主の要件……目的はなんじゃ?」
シルバーズは再び問うた。はじめ問うた時よりもわからぬフィローシャの真意を知るために、一挙手一投足を見逃さぬように眼にさらに力が入る。
「目的?」
フィローシャはこてんと首を傾げた。質問の意味が分からず疑問を浮かべているようではなく、どのように答えたら面白くなるかを考えているかのような仕草であった。その姿はシルバーズには馴染み深い仕草だった。
「そうじゃ、ここに来た目的じゃ。目的次第ではここでお主を倒さないとならないからの」
「倒さないといけない……か。それはねぇ、お父さんに頼みがあってきたんだよ。お父さんの弟子のグレイっていうやつをくれねぇかなっていうよ」
「────」
手に掛けていた剣を中段に構えた。ここで倒すことを決意したのだろう。攻煌神体と硬護身を使った。シルバーズの心は風もなく、生き物もおらず、絶対不可侵の絶壁に囲まれた湖のように誰からも影響を受けることのない凪いだ水面のようなものになっていた。
「そんなに魔力を循環させんなよ。別にお父さんが代わりに来てくれても良いんだぜ」
軽口を叩いたフィローシャにシルバーズは地を這うように身を屈めたまま走り、剣を横一文字に振り切った。後ろに飛びよけるフィローシャにシルバーズは追随する。刹那、眼を見開いたフィローシャは口角を持ち上げた。追随したシルバーズの剣がフィローシャに当たる。草原の方へ飛ばされていき、止まった。足元はフィローシャの擦れて止まった痕跡が残った。足元には砂塵がふわりと舞い踊っていた。
「交渉決裂だな。これでやっと理由ができたぜ」
フィローシャはそう呟くと剣を構え、こちらの方に向かってきていたシルバーズを迎え撃った。金属同士の甲高い音がなり、すぐさまシルバーズは再び斬り込む。フィローシャは攻撃を受けた、が先程のように飛ばされる事はなく、硬護身を使っているようで耳障りな音が鳴り、シルバーズの剣がその身を斬る事が出来なかった。
フィローシャの振り下ろしていた真剣はシルバーズの肩へ撃ち込まれた。シルバーズは避ける事なくその剣をその身で受け止めた。
「避けれただろうよ。お父さん」
「それは、お主も同様だったじゃろう?」
「やっぱ、戦いはこれぐれぇ楽しくねぇとな」
シルバーズとフィローシャは暫く絶え間なく切り結び、双方ともに攻撃を受けていた。硬護身を纏っていても鈍痛がシルバーズの体の節々を蝕んでいく。鈍痛は次第に切り傷を生んでゆく。
硬護身とて万能ではない、意識をして魔力を纏い相手の攻撃との間に層を作る事でダメージが入らなくなる。攻撃を受ければ魔力の層は薄くなり、防御の意味を成さなくなる。身体にダメージは入り易くなるし、肉体にも傷ができ始める。痛みが通れば意識は痛みへと向く、すると硬護身の魔力は霧散する。傷はより一層、深さを増す。
だが、双方の硬護身が霧散する様子はなかった。
両者、距離を置いた。
「硬いなぁ、流石は硬護身の代名詞となった人だな」
「儂よりも傷の少ないお主に言われるとは、皮肉がよう効いておるわ」
双方の姿を見比べると、一目瞭然であった。数カ所しか傷のないフィローシャに数多の傷の出来ているシルバーズに側から見ていればシルバーズは劣勢に見えた。しかし両者共に深い傷ではなかった。
腰の魔法巾着から取り出したポーションを飲み干し、頬の血を拭えばそこには傷など最初からなかったかのような元通りの頰があった。
「いや、お父さんも凄いと思うぜ。俺は面白い力が手に入ったからこんなに硬護身が上手く使えてるけど、お父さんはそんな力ねぇはずなのにうめぇから驚いたわ」
心の奥底からの驚嘆に称賛を送るフィローシャの顔はやはり、喜びに満ち溢れていた。
「だからよぉ、俺がお父さんを倒したら面白いよなぁ。あっ、ちげぇは殺したらだったわ」
下段に構えたフィローシャの真剣に水が纏う。
「どうして、そうなってしまったのじゃ」
シルバーズは哀しげに目を細めた。真剣を上段に構え、土を纏わせた。土を纏った剣は一回りも大きくなるが、シルバーズはよろけもしない。
両者、駆け出し。剣と剣が衝突した。衝撃波が広がると木々は撓み、粉塵が波紋のように飛ばされた。世界が故障して、音が無くなったような静寂が場を占めた。
遅れて轟音が鳴り響く。世界の故障を誤魔化すようにと、音をなくした数秒にも覚えた時間をまとめたような音であった。
轟音を伴う剣戟を繰り返した。地が抉れ、木が倒れ、サランピアの花びらは衝撃波によって空へ舞った。
フィローシャが地面を削りながら、後方へと飛ばされた。
「まだ、駄目だな」
フィローシャは自分の身体を見ながら呟いた。
「無駄口を叩くほど、余裕なんじゃな?」
「そうでもねぇよ」
剣と剣が何度もぶつかった。切り結ぶうちにフィローシャの地面に描く痕跡が短くなっている事に気がついた。
シルバーズは自身の魔力の少なさに嘆いた。攻煌神体による身体強化が弱体化している事に気付いたからであった。均衡が保たれているように思えた剣戟もシルバーズは追いつくのが精一杯になり始めていた。魔力消費量の多い攻煌神体を辞めれば、力、スピードで押されいくら硬護身を纏っているシルバーズの身とて、攻煌神体と魔法刀身の併せて使用しているフィローシャの攻撃は無事では済まないだろう。良くて骨折、悪くて死もあり得るだろう。
シルバーズは硬護身を使用するのを辞めた。この戦いにおいて必要ないと考えたのだろう。
直ぐに剣と剣はぶつかり合った。何度目かの鍔迫り合いになった。硬護身を纏っていない老軀には衝撃波やそれに巻き込まれた礫が直に当たった。だが、シルバーズはそれをフィローシャに勘付かれぬようにおくびにも出さない。
距離を置いた。ポーションを飲み干しては捨てた。仕舞う時間さえ惜しかった。直ぐに攻撃を仕掛けなければ後手になってしまうのだから。ポーションのお陰で体力と魔力は少し回復した。苦いなどとは言ってられなかった。
駆け出して、先手を狙う。それはフィローシャも同じ考えでいるのだろう、駆け出していた。先程と同じ行程。同じ結果が見えていだが、……フィローシャが躓いた。一瞬のよろめき、動作の停止。好機であった。シルバーズは剣をフィローシャに向けた。真剣は首もとへと弧を描きながら振るわれた。
躊躇った。シルバーズは躊躇ってしまった。人を殺さぬようにと鍛えたその剣は、対象が自分の元弟子であった事も相まって緩めてしまった。凪いだ心の湖の底から過去の記憶と過去の感情が噴き出して、湖が荒れ狂った。
「予想通り過ぎて笑えてくるわ。これだから面白いんだよな戦いって」
謀られた。そう気づいた時のフィローシャの顔は笑っていた。幸せの絶頂にいるかのような、愉悦に浸っているかのような、それでいて不快感の感じさせない笑みであった。
急いでシルバーズは剣を振るうが、懐に潜り込んだフィローシャには当たらない。
「楽しかったよ。お父さん」
満足気に遊戯の終了を告げたフィローシャは剣をシルバーズの生命の灯火の宿った心臓へと伸ばす。
シルバーズは心臓へと伸びる剣先を身を捩るが、剣先はシルバーズの身体へと容易く入った。抵抗のない水面に剣を落としたかのように滑らかであった。
シルバーズは心臓を突き破られる事は回避出来たが、代わりに右の肺が突き破られていた。
「ッグフ」
喀血が地面へと吐き出された。ドロリとした赤黒い血である。
「はぁー、もうちょっと強いと思ってたんだけどなぁ。まぁ、でもこれ以上酷くなる前に戦えてよかったわ」
剣を引き抜かれ、栓のなくなった肉体からは血液がとめどなく溢れ出した。
「──っ」
シルバーズは声になり損ねた息を吐き。糸の切れたマリオネットのように地面に膝をつき、倒れた。拍動とともに送り出される赤い生命の灯火はゆっくりと、それでいて止まる事はない。
微かに動く右手を動かし、魔法巾着へと手を伸ばす。熱く燃えるような痛みと裏腹に動かす掌がどんどんと冷めていくのがわかった。
「苦しまねぇように、今度こそ殺してやるよ。じゃあな」
シルバーズは微かに残る魔力を背中にだけ纏った。無駄な抵抗だとわかっていても生きなければならないのだから。ここがグレイの帰る場所だから。
攻撃は来なかった。だが右の掌も動かなかった。
血を失い過ぎたのか、魔力の枯渇の所為なのか倦怠感が襲ってくる。徐々に呼吸も出来なくなっていた。これは肺の所為であろう。
「おやおや、面白そうな事をしていますね。私も混ぜてくださいよ」
嫌な声が聞こえた。久しぶりに聞くはずの声なのに忘れる事などできない憎らしい声だった。その声の人物は紫の長髪を揺らしながら森からゆっくりと姿を現した。
「────」
シルバーズは消え逝く思考の中でその名を呼んだ。怒りを込めて。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
数刻後のここ一帯は何事もなかったかのような和やかな空気が流れ、草葉は流れのままに戦ぐ。だが、注視すれば抉れた地面に倒れた立木、血液を吸い込んだ地面の跡が簡単に発見できた。ここにグレイを迎えに訪れたレベンディスはこの戦闘の痕跡を直ぐに見つけることが出来ていた。
「バズ兄ィ!! グレイ君!! 何処だ!? 無事か!?」
見つけるやいなや小屋へ走り出したのであった。
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