メメント・モリ
「メメント・モリ」
男の放った言葉が音をなくした空間にとてもよく響いた。
男はロッキングチェアにその身を預け、ゆっくりと椅子を揺らしていた。揺れた身の反動にあわせて男は立ち上がる。音のしない行動であった。
そんな空間に異質な音が鳴った。男の眼前に置かれた小さなベッドからであった。そのベッドはこの部屋に置かれた暗い色合いの調度品に比べると異質で、仲間外れの様な印象を受けるものであった。それはベッドが汚れなど知らないかのようにまっさらな純白のベッドであったからだ。
全体的に薄暗い一室の唯一存在するドアから一番遠い対極の角に置いてある純白のベッドの上に、今しがた上半身を起こした少女は晴天の空を切り取ったかのような澄んだ青い髪を肩まで伸ばし、その頭部には一対の耳がピョコっと生えていた。そして透き通る宝石のような碧い綺麗な瞳をしている年はまだ幼さを感じさせる16、7の亜人の少女が座っていた。
亜人の中でも耳と尻尾しか生えていない人獣であった。亜人の中でも獣要素が少ない者から、人獣─半獣─獣人と呼ばれているのであった。
少女の動作がこの部屋に久方の音を産んだのだった。
男は空中に浮かぶピアノを弾くように右の細く長い指を動かした。するとそれに同期する様に少女はベッドからその身を離す。少女はキチッと真っ直ぐに立ち上がった。その白磁のような滑らか頬に、袖から覗く細い腕。全てが容易く壊れてしまいそうな容姿は儚さを感じさせた。
男は少女の前で片膝をつき、忠義を誓うかのように頭を下げた。右手を心臓に当て、深く、長い呼吸を何度も繰り返す。その姿のまま男はじっと動かなかった。少女は表情1つ変えずに真っ直ぐ前を眺めたまま、眼下の光景を見ようともしなかった。
もし、この光景を側から見ているものがいるのなら、この部屋の時間が止まってしまっているのでは、との疑念が頭によぎることだろう。
それでもなお男は動かなかった、少女からの行動を待っているかのようにも感じられた。
男はやっと顔を上げ、縋るような眼をこちらを見ようとしない少女へと向けた。少女は微動だにしなかった。男は悲痛さの滲ませた表情を浮かべると、心臓に当てていた右手を少女の前へと差し出した。すると彼女は可笑しなことに、その白磁の肌を動かしてふわっと男に微笑みを湛えたのだった。男はそれに歓喜の表情を浮かべることはなく、更に悲痛さに色を深めるのであった。
少女から細く、小さな手が差し出されて男は優しく掴んだ。触れてしまうとなくなってしまう雪の結晶を触れているように少女の手を右の掌で包み込んだ。
男は立ち上がると少女の顔が上にあがる、男はその碧い瞳に映る自分が居なくならないよう、消えないように、その綺麗な瞳から目を離すことはしなかった。
「死の舞踏」
男が低い声で囁くと少女の足が動き始め、男もそれに合わせて足を動かした。足音はリズムを刻み、音のない静かな部屋に音楽が流れた。男と少女にはその音楽が聞こえているかのように踊り始める。少女は楽しそうに笑顔を深めるが、男は目元を細めるだけであった。
ゆっくりとした音楽に合わせて、悠久にも思えた時が流れた。
「うわーー」
この声がするまでは。
突然、棒読みの声が扉の先から発せられた。
音楽が止まり、動きが止まった。少女の表情が消え去り、男は声の主に少女の姿を見せぬように抱き寄せた。
「グレゴリオス、その歳で人形遊びはヤバイよ。しかも幼女趣味かよ引くわー」
男──グレゴリオスに近づいた声の主は覗き込むように少女を見た。声の主はこの少女を見るのは初めてではないがグレゴリオスが踊っている所を見たのは初めてであった。そして、その何時も気取ってるグレゴリオスの晒された恥部を鬼の首を取ったように囃し立てることでそのうざったい面を剥がせるかと考えたのだった。
「いけない子だなフィローシャは。部屋に入るときはノックをすることと歳上に敬語を使う事を忘れてはいないか?」
「──ッチ。つまんねぇの」
フィローシャと呼ばれた蒼色の髪の少女と同じくらいの年齢の少年は心底悔しがっているようすはなく、元から分かっていたかのような反応であった。
「ノックはしたぜ。人形遊びが楽しすぎて聞こえなかったんじゃないのか?」
「それは申し訳なかった。だが、訂正させてもらおうか彼女は人形ではない。人だよ」
「どうでもいいわ、そんなん。俺にとっては人形だろうが人だろうが亜人だろうが死体だろうがよ」
茶化すように話すフィローシャにグレゴリオスは人形呼びを改めるように苦言を呈した。するとフィローシャは興味なさげに吐き捨てた。
グレゴリオスは表情を無くした少女を元のベッドへと運んだ。
「それで、要件は?」
振り向き、少しフィローシャの方へと近づた。
「死にかけの魔族が呼んでる。議会だってよ」
「ヴァイン様の事を死にかけ呼ばわりですか。……絶対に直接あった時に言ってはいけませんよ」
「わーってるよ、めんどくせぇからな。じぁっ、俺の伝言は終わったから帰るわ」
「ご苦労様でした」
フィローシャはそう言うと直ぐにドアを閉めてしまった。グレゴリオスの労いの言葉などフィローシャの耳には入っていないだろう。
グレゴリオスは少女に布団を掛けに戻り、少女の顔を眺めた。今は瞳が閉ざされており、眠っているように見えた。だが、その瞳が自分の意思で開かれる事は2度とない。その胸が呼吸で上下する事も、白磁のような綺麗な肌が赤く染まる事も自分の意思では2度とないだろう。
彼女は──
「メメント・モリ」
──死んでいるのだから。
グレゴリオスの紫色の長髪に隠れていた、まるで芽吹きたての若葉のような淡い翠色をした左の目が少し光ったように感じた。
「おやすみ。イリーダ」
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
「おやっ? 私が最後なのですね」
グレゴリオスが豪奢な両手開きの扉を開いて入った時にはもう他の4人が席に着いていた。
黒い大理石のような硬質な材質の長方形の机に対面するように椅子が2つずつあり、奥には一際目立つ大きな玉座が置かれていた。玉座にはドラゴンや蟒蛇などの彫り物がされている黒い椅子であった。だが玉座には人が乗っており、背凭れの黒龍の鋭い眼光は鳴りを潜めていた。その人こそが、ここヘルケルヴィア帝国の王でおられる。ヴァイン・ヘルケルヴィアであった。彫りの深い紫がかった厳つい顔をして濁った紅色の瞳と濁った青色の瞳で辺りを睥睨していた。
「私のせいで開始時間が遅れたようで、申し訳ないですね」
グレゴリオスは特に気にした様子はなく空いている自分の席に着いて、他の幹部を流し見た。
前に座っているは帝国では珍しい人間であった。帝国では実力至上主義国ため、身体的に虚弱な人間などヘルケルヴィア帝国では直ぐに殺されてしまうのであったが、そのヘルケルヴィア帝国に居るだけでも珍しい人間が幹部にいる事など異常以外の言葉はなかった。
オレンジがかった茶髪の髪を短く切り、髪と同色の瞳を右につけていた。そして左の瞳の色は地面を耕した後の土の色のような唐茶色である。
「ん? どうしたよ俺の顔になんかついてるか?」
流し見た時に目があったオレンジがかった茶色の人間──ニコラオスが笑う。
「いや、特に──」
「口を慎め人間」
ありませんよ、と続けようとしたグレゴリオスの言葉を遮り、冷たい一言が隣から放たれた。隣の席は竜人であるアバドラだ。赤い鱗を纏い金の右目に青の左目をしている人間嫌いだ。
「ガハハッ! そんな言い方はねぇだろうよ。会話しただけで怒るお前は心が小せぇな。俺の耳糞ぐらい小せぇ。グハハッ」
そしてアバドラを豪快に笑いながら窘めたのは最後の幹部である左斜め前に座っている獣人のグライドであった。茶色の鬣を豪快に生やし金色の瞳に左目は赤い瞳をしていた。体格がでかく、笑い声の中には魔物のような獣っぽさを感じられた。
「君もその口吻を縛ってみたらどうだい?」
「グハハッ! 面白い事を言うわ、蜥蜴風情が」
「なんですか、ネコが虚勢を張ったところで。底が知れますね」
「あ゛ぁ? 面白いな。その鱗全て剥いで表を歩けなくしてやるよ。表出ろや」
「ふんっ、こちらこそ、その自慢の鬣を全て抜き取って差し上げますよ」
アバドラとグライドは椅子から立ち上がり、顔を近づけて睨みを利かせた。威圧的なその覇気には、只の生物では近づくことはおろか、見た瞬間その意識を瞬間的に手放してしまう事であろう。
「なぁ、喧嘩なんて怠いこと辞めて、早く議会やろうぜ」
「指図をするな! 人間」
「楽しい所なんだからよ。止めんじゃぁねぇよ」
「はぁ、俺こういうのメンドくさくて嫌いなんだけどなぁ」
ニコラオスが仲裁に入るが喧嘩している2人とも両者異なる意見で喧嘩を辞めようとせず、頑張ることが嫌なニコラオスは気怠げに息を吐いた。
グレゴリオスは我関せずと読み掛けの書物を懐から取り出して読んでいた。
只の生物では、の話であるからここの部屋にいる者は全て大丈夫であろうと思われた。だが、
「ひっ、ひっ〜〜」
と情けない声が玉座の方から聞こえた。それは、玉座の隣に立っていたテロスという少年と青年の同居している者の声であった。白髪の中に金糸のような金髪が紛れ込んだ右眼が緑色で左目が赤い色をしていた。
数年前にヴァインが側近として連れて来たのだが、実力もなく気弱な性格であるため、時々起こる幹部の喧嘩にいちいち驚き、玉座の裏にその身を潜めようとするのであった。
「ほらさぁ、こうして怖がっている人もいるからさ。やるなら外でやってくれ」
「人間に言われぬとも外に行きますよ」
「お、もしかしてお前も外で戦うか?」
「やらないよ。俺は争い事嫌いだからさぁ、穏便に済ませたい派なのよ」
ニコラオスは仲裁した時に立ち上がった身体を椅子に戻して、両手を顔の前に挙げて不参加を表明した。アバドラとグライドが扉へと向かうさなか、低く威圧的な声が響いた。
「お前らは、ちっとは静かに出来ねぇのか? 黙って見ておれば、何時ものように喧嘩を始めて、俺が呼んだというのにあまつさえ部屋まで出ようとしやがって。殺すぞ?」
「すみません。ヴァイン様」
「あー、悪かった。そう怒るなよヴァイン様よ」
帝王の 鶴の一声が、ニコラオスが何度言っても聞かなかったアバドラとグライドの口を閉じさせた。
「それじゃあ、始める」
帝王が掌に顎を乗せて肘を肘掛に乗せた格好のまま、開始の合図を出した。
ここはヘルケルヴィア帝国の帝都ヴァルシアにある帝城の中である。
サンディラン王のいるサンロ・ミゼリア王国から見て東に存在するのがヘルケルヴィア帝国である。その帝城の一室で始まった会議室にいる者はテロスを除いて全ての者の左目に魔眼が宿っているのであった。だだ一部だけ例外があるとするのならば帝王ヴァインは両目とも魔眼であることだけであった。