後悔
路地を目的もなく歩いていた。
むしろスラムの入り組んだ路地を目的があって入ってくる者の方が少ないと思われた。
現に此方を見る者の目は剣呑な目をしていたり、下卑た笑みを浮かべている者ばかりだった。汚れたボロ布を纏い、日に焼けたのか薄汚れたのかわからない燻んだ肌、髪の毛はギシギシと脂で固まっている。こちらから見える口内は数本しか見えない歯が黒く染まっていた。
少年は後ろの男達に話しかける。
少年の後ろをついてきていた2人の男のうちの片方が笑顔で返事をした。
ジェシュチャーを交えながら話す男の楽しそうしている筈の顔には暗い靄が掛かっていてよく見えない。
少年は黒い靄など見えていないかのように会話を続けた。もう1人の男も会話に混じるが完全に黒い靄で隠されてその表情を見ることが出来なかった。先ほどまで見えていたはずの表情を思い出そうとするが、一層濃く色付いた靄が男2人の表情の情報を全て包み隠した。
少年は男2人との会話のキャチボールを繰り返して会話が終わると手を振って一人で歩き始めた。
会話の内容も全てノイズが入り込んでいて理解をする事は出来なかった。
──俺は流れる映像を見せられいているだけだった。俺の意思とは反して身体は動き、会話し、笑い、喜び、幸せな感情が流れ込む。
俺は少年の中で映像を見ていた。
──過去の自分の記憶を。グレイ自身の記憶を。
後ろを見れば、見上げる程高い硬質で温かみの感じない石が視界の半分以上を占めていた。
苔や蔦が絡み汚れで黒ずみ、所々欠けた石、陽に当たらない低い位置の石はどこも完璧な状態を保っていた石は無かった。
不完全の吹き溜まりのここスラムを表しているように。
城壁の先の空を見るには首を90度近くまで上げなければ難しかった。
少年はそれでも視界いっぱいに空を収めようと身体を仰け反らせた。そんな事をしなくても城壁の穴から顔を出せば視界いっぱいに空を収められる事を知っているのに。
白い生き物が悠然と空を飛び、窮屈さを感じない伸び伸びと羽をはためかせていた。この窮屈な壁に囲まれて生きている生き物を嘲笑うかの如く、鳴き声をあげながら。
俺はこの鳥の末路を知っていた。この鳥は悠々自適に空を飛んでいるが、直ぐに小さい魔物が飛んできて食われてしまうのだ。あんなに雄大な空を我が物顔で飛んでいた白い鳥があっという間に。その魔物も何処からか飛んできた魔法にあたりその命を簡単に奪われた。
その時の俺は、過去の自分は、少年はもう『弱い方が、悪いのだからしょうがない』と考えていた事を覚えている。
映像が飛び、グレイは少年の横に立っていた。少年の期待に膨らんでいる嬉々とした感情がまだ自分の中に今も流れ込んで来る。軽い足取りで進む少年の後をグレイはゆっくりと追いかけた。
少し先を進む少年が止まった。それと同時に感情の濁流がグレイの中に流れ込んできた。
戸惑いや恐怖などの感情、それらから逃れるために少年はゆっくりと後ずさるが、動作が突然止まった。
それと同時に思考の停止、感情の流れは止まった。止まる前に送られてきた最後の感情は拒絶だった。
グレイは少年が立ち止まると同時に駆け出した。
流れ込んで来る感情が過去の記憶を呼び覚まし、今起こっている現状を、少年が見ている世界を思い出したから。今まで一度も忘れたことがなかった筈なのに、忘れられる筈なんてないのに、少し前のグレイは完全に忘却していた。
だから、少年の視線の先へと走った。
魔力を使う事なども忘れて。
『──っ!!』
グレイの見た先には騎士が3人は互いに向かい合い、円を描き立っていた。
視線は足元に向かい侮蔑の色を含ませ、口元は微かに持ち上がっている。そんな表情に気持ちが昂り、声を張り上げる。だが、こちらの声には気付いた様子はなかった。
振り上げた拳は騎士の横面に振り下ろされた。
シルバーズの元で修行し、鍛え上げられた筋肉が出来る繊維の伸縮が限界まで動いた。しかし、グレイの拳には肉を叩く衝撃が来ることなく、目一杯の力は行先を見失いグレイの身体をもう1人の騎士の体へと引っ張った。
状況を飲み込めないグレイはたたらを踏んで眼前に迫った輝くプレートアーマを、反射的に右手で振り上げる。しかし、先程同様に拳が何かに触れた触感は皆無だった。
それは、グレイが触れた騎士の身体が黒い靄に変わり、通り過ぎると黒い靄がなかったかのように騎士へと再構築されていたからであった。
グレイは反射的に放った拳の後を確認して目の当たりにした。
その後も身体の勢いは止まらず、騎士の身体を通り過ぎた。
視界だけが黒く染まり、視覚情報だけを遮った騎士の身体は、直ぐに再構築された。
その後何度殴っても、何度蹴っても騎士たちは黒い靄に変わり、何事もなかったように騎士へと戻った。
どれだけ足掻いても、騎士たちを吹っ飛ばす事は出来なかった。魔力の存在を思い出して攻煌神体を纏うが、身体には変化が無く殴る威力も走る速さも変わらなかった。
聞こえてくるのはノイズのかかった騎士たちの声。それと、口から漏らさぬ様に堪え、くぐもっている呻き声だった。
ノイズのかかっていないその呻き声はグレイの耳には嫌な程、明瞭に聞こえる。
知らない言語の飛び交う中で知っている言語が抵抗も無く理解できてしまうように。
騎士たちの中心で蹲る黒い髪色の少年から発せられたその声に、蹴られる痛みに堪えるように発せられたその声に。
グレイの苛立ちは積もった。騎士に触れることが出来ないことのもどかしさも相まって叫んだ。
『テメェーはいつまで動かねぇつもりなんだよ!」
立ち止まったまま動かない少年に、過去の自分に。
────怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
視線が交差すると、少年の瞳が揺れていた。そして、ゆっくりと流れ込んできた感情は徐々に勢いを増して行き、堤防の結界した溜め池の様にとめどなく溢れ出た。
『テメェーが動かなきゃ変わらねーんだよ。動けよ!雑魚』
────怖い、助けて、やめろよ、怖い。
流れ込む過去の感情がグレイの身体を当時のものを思い出させる。呼気は音がする程激しくなり、拍動の音が耳朶に響く。手足は震え、血の気が引き凍える程寒くなる身体。
『何度後悔したか分かんねぇ!ずっと俺のせいで死んだんだ。俺が殺したんだ。俺が弱者だから周りにいた人まで奪われた。だから考え始めるんだよ、強者になって弱者を同じようしようってよ』
『……でもよ、こんなに苦しかったんだな』
掌に爪が食い込む程拳を握り、思い出した感情に支配されないように平常心を保つようにして話した。
グレイの声に耳を傾ける者の姿はない。視線は誰とも合わず、ただ時間だけが流れる。それはこの時いなかったグレイが存在していない、昔の映像がただただ流れているようだった。
少年は視線の先の黒髪の少年に小さく首を振った。次第に大きくなった揺れは溢れ出した雫を勢いよく飛ばした。小さく漏れ出る声は「いやだ」の繰り返しだ。
『逃げんなよ、従うな』
後退する少年。黒髪の少年の口元が示した指示。少年は身を翻し、走った。二、三度振り返りはしたが、走る速度は落とさなかった。
振り向く時に見えた黒髪の表情はとても柔らかかった。
グレイは苦虫を噛み潰した表情になった。その後の少年の見た光景を覚えているから。
少年が男2人を連れて戻った時には何も残っていないのだから、少し飛び散った血痕だけが先程の情景と結びつくがそれ以外は何も結びつかない。
その日以来、少年は黒髪の少年を見ることはなかった。
『言うこと聞くんじゃねぇよ』
黒髪の少年が声出せぬ時、動かした口はに、げ、ろ。この三文字を表していた。
グレイは意味のない事だとわかっていても、騎士たちを殴ろうと何度も繰り返し試みた。
鼓膜を打つ声が弱々しくなっているような気がしたから。
『─────よ』
何度殴っても当たらない拳、時間は流れているはずなのにいっこうに傾かない陽光。戻って来ない少年。進まないようにリピートをかけられているみたいに、景色は変わらなかった。
その時、あたり全体に響く声がした、耳をつんざくような大きな声ではなく、暖かく囁く声だった。
すると唐突に景色が動き始めた。グレイの殴った騎士は黒い靄に変わり上空に吸い込まれるように消えた。
『あ?』
再構築されずに消えていく黒い靄にグレイは戸惑った。
周りに視線を彷徨わせると次第に騎士や建物までもがゆっくりとその姿を歪めて、上空へと吸い込まれていった。
足元にいた黒髪の少年
──野犬もゆっくりと消えた。
『待てよ、まだ終わってねぇぞ。この先はどうなんだよ! なぁ!』
吸い込まれた黒い靄を追い上空に視線を向けると、そこにはもう、空も太陽も雲もなにもかも無くなっていた。
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「グレイよ、もう寝てしまったかのう?」
目が覚めたグレイの耳に入ったのは、申し訳程度の声量で話すシルバーズの声であった。
「いや、今起きた。目覚めは最悪だけどな」
グレイはもう既に朧げで、思い返す事のできない夢を、気分の悪かったとしか思い出せない夢を思い出そうとするのだった。
最後まで読んで頂きありがとうございます。令和2年になって初めての投稿になりました。明けましておそようございます。遅れてすいません。そして、今年も「剣神の弟子のジジイの弟子──生きる為に強くなる」をよろしくお願いします。