ジジイとの出会いと王都
「おいっ、まて小僧!!」
活気のあるに商店街の呼び声とは違う怒声が上がる。往来の激しい道に響く声に道行く人は視線をそちらへ向けた。
皆が向ける視線の先には商品を奪い逃げる少年とその商品を追いかけようと、走りかけた男がいた。
しかし誰一人、少年を止めることはしなかった。
「おい、誰かっ、店番を頼む!」
男は走る前に店に声をかけるがどこからも返答はない。外から見える仕事場には誰もおらず、そこでお店には自分しかいないことを思い出した。
「誰もいねぇからこうして接客してたんだったな」
いつもは赤石で敷き詰められた一階の仕事場から動くことなく作業をしているが、今は誰一人として店にいない為店番をしていた。
「チッ、まただよ。あの野郎」
取られたのはこれが1度目じゃないのか厳つい顔をさらに厳つくして店番をしていた場所に戻った。だからか、
「おじちゃん、パンちょうだ––––」
「あ゛ぁ゛?」
「ひぃぃ」
小さい掌で銅貨を数枚握りしめてやってきた少女にまでその厳つい顔を見せてしまい、少女は叫び声を上げて逃げて行ってしまった。
とても高い壁にに囲まれた城塞都市ーー王都サントス
王都サントスはサンディラン王が住む王城を中心に広がる都市である。
中心から、王城、貴族街、商業区、市民街と円状に広がる。
王都の端からでも見える王城は途轍も無い程輝いて見え、王都に住む民衆はそんな王城を誇りに思いながら過ごしていた。
そんな輝きのある王都でも影は出来る。
市民街より城塞寄りの整備のされていない一角に存在する影、スラム街だ。
そこは鼻が曲がる程の異臭が立ち込め、冒険者でさえ長時間の滞在はしない程のニオイだ。
だがスラムにも人が居る。生きるのを諦めただ死を待ち望むだけの屍のような人や生きる為に抗い続ける人の2種類だ。
雑踏に紛れ、早歩きする少年。
後ろには少年を探して居ると思しき、プレートアーマーを着た者達が視線を彷徨わせていた。
少年は身を屈み元の色が分からないほど汚れた黒いローブを目深に被りながら薄暗いスラムまで続く路地裏へ入ろうとした瞬間。
「野犬くん、捕まえた」
地を蹴っていた足が風を切り、自分が宙に浮いている事に気が付いた。それは後ろにいる騎士に自分が持ち上げられたからだと。
「離せよクソ女」
少年は手足をバタつかせて暴れるがやはり空を切り、騎士の拘束からは逃げられない。
少年を捕まえたのは騎士の中でも珍しい女騎士であった。 綺麗な赤い髪を雑に短く切られており、すらっと伸びた身体は170センチ弱の長身で、女の人の中では頭一つ分大きいだろうとおもわれるその身を包むのは皮の軽装備でプレートアーマーではなかった。
抵抗して暴れる少年のローブの中から黒いパンが落ちた。
「あっ、それは」
女騎士の言葉に少年は落ちたパンに気づき慌てて女騎士を後ろ足で蹴りあげた。
女騎士から小さな呻き声があがる。だが少年は気にすることなく地面に着地し、落ちたパンを隠した。そして女騎士を睨み、威嚇するように唸り声をあげた。
安い黒パンなら銅貨一枚で買えるほど高級品では無い。
女騎士は優しく笑いながら語り掛ける。
「いたいなぁー野犬くん、か弱い女の子には優しくって教わらなかったの?」
少年は淡々と言う。
「周りには女なんて弱い奴いねぇ、すぐに死ぬし、生きのこったとしても誰かに連れてかれ、いつしか見なくなる」
女騎士の顔が暗くなる。そんな様子を見た少年は少し小馬鹿にした笑みを浮かべて続けた。
「それにおまえ、女の子っていう歳じゃないだろおばさん」
女騎士は暗かった顔から一転、眉間に皺を寄せ、眉尻を小刻みにに震え始めた。そんな様子に気付かない少年は言葉を紡ぐ。
「おばさん、騎士団の団員なんだろ、何が、か弱いんだよ。俺にとっては騎士全員オークと同じ脳筋で力馬鹿なんだよ」
女騎士は拳を握りしめ、少年の頭を掴んだ。
「そうか、そうか。野犬くんは20歳迎えたばかりの淑女に向かっておばさんやオーク呼ばわりをするのか」
優しい笑みを固定させ、少年の顔を覗き込む。少年の頭から鳴ってはいけない音が鳴り始める。
「いってーよ、おばさん、いたたたた、離せよ。クソ女、馬鹿力女」
女騎士は惚けたように返答する。
「私、オークの様な脳筋らしいから力の緩め方が分からないな〜「お姉ちゃん、御免なさい」って言われたら分かるかもな〜、力の緩め方が」
「いたたたた、痛いわ。クソ女」
少年は意地を張り言おうとしない、すると音が一際大きく鳴った。
「あぁ〜野犬くん、これ以上力入れちゃうとゴブリンの頭みたいに割れちゃうよ。因みに野犬くんの血の色は何色かな?ゴブリンは緑だけど、赤色かな?」
「いた、いたたたた。こ、答えられるか。おばーー」
ミシッと鳴った。
「早く言わないと、危ないよ」
笑顔のまま言う女騎士。
「ごめんなさい、お、、、」
「お?」
「お姉ちゃん」
「よしっ、よろしい」
女騎士は腰に付けたポーチから瓶を出して少年に飲ませた。
ポーションは最も安い物でも銀貨5枚も必要な程の値段である。
貨幣の価値は、銅貨、大銅貨、銀貨、大銀貨、金貨、白金貨となり、どれも10枚で一つ上の貨幣と交換出来る。
久しぶりの甘い飲み物で少年は瓶を垂直にしてまでポーションを飲み干した。
「それじゃあ野犬くん、行こうか」
女騎士は立ち上がり手を差し出した。
少年ははっと思い出しポーションの入っていた瓶と黒パンを持ち、後ずさる。
「俺は、捕まるわけにはいかねぇんだ」
そう呟き、まだ日中だと言うのに仄暗い路地裏へと走った。
少年は身寄りがいなかった。スラムではいつ人が居なくなるかわからない。亡くなったのか、殺されたのか、それとも捕まり奴隷にされたのかさえわからない。
スラムではいつしか噂になっていた、身寄りのいないスラムの住人は傭兵や騎士に見つかると奴隷として売られると。そんな噂が流れていた。事実、力の無い女子供は売られていた。そして事実と違うのは、身寄りがいたとしても力が無い者は売られていたという事である、勿論全部の傭兵や騎士がこの様な行為をするという訳でも無いと言うのも事実。
だが、誰を信じれば良いかなどもわからない。誰も、信用しないのがスラムの鉄則。
「あっ、待って」
女騎士の掛ける言葉を聞かずに駆けていった少年。
「そのパンを、盗んだ場所に謝りに行くだけなのに。」
女騎士は独り言つ。
「アリー第3副騎士長、探しましたよ」
「ごめん、ごめん、リンちゃん」
手を合わせて簡単に謝る女騎士ーーアリー副騎士長に声を掛けた女騎士ーーリンちゃんことリンガルは何時もの事の様に諦念の色を含めた溜息を吐いた。
第3騎士団は女騎士が主の団であり、リンガルも同じく第3騎士団の一員であった。
「まったく、それで例の野犬は捕まえました?」
「あはは、逃げられちゃった。面目無い」
反省の色の見えない返答に頭を抱える。
「どうせ、また貴女が逃したんでしょ」
「バレちゃった?」
「バレますよ、そう何回も副騎士長を欺けたら捕縛優先度が上がっちゃいますよ。それでどうして逃したんですか?早く捕縛しないと罪重くなっちゃいますよ。さして高価な物を盗んで無いとはいえ、被害届は少なからず来ているんですから」
「えっ、被害届出てるの!」
「驚くとこはそこですか!?」
「え〜、野犬くんの事件は全て握り潰したと思ったんだけどなぁ〜」
アリーはリンガルに聞こえない様に呟いた。だが、思ったより声が大きかったのか、リンガルは目を見開き問い詰める。
「何やっているんですか!? アリー副騎士長! 貴女は第3騎士団の副騎士長なんですよ! 自分の立場を考えて行動して下さい! なんでそんなに、野犬に拘るんですか?! 」
「そりぁ〜、野犬くんを弟にする為でしょ! 」
「何故、然も当たり前の様に言い張るんですか! ちゃんと罪を償わせましょう」
リンガルはアリーを咎めるが、アリーは被害届をどうもみ消すかを考えていて聞き耳を持たない。するとリンガルはあー、っと大きく言葉を発し、アリーの視線が此方に向いた時に小声で呟いた。
「そうですか。アリー副騎士長がその様な態度を取るなら考えがあります」
アリーは考え事をやめて耳を澄ませた。そして考え、ある考えに辿り着いたのか、顔の色を青色に変え、呟く。
「まさか……リンちゃん。嘘だよね……リンちゃん」
リンガルは短い白髪の後頭部を掻きニコッと笑った。
「おやっ、聞こえましたか?案外、地獄耳ですね。副騎士長 」
アリーはリンガルに詰め寄り問い質す。
「嘘だよね、ね〜嘘だよね」
「いえ、考えている事が一緒ならば、嘘ではありませんよ。この事を騎士長に報告して、階級を下げて貰いましょう。あれっそうなると副騎士長の一つ下の位の人が上がりますね?誰でしたっけ?」
アリーは恐る恐る聞いてみる、勿論一つ下の位の人が誰なのかは勿論知っている。だが、認めたく無いのだその事実を。
「誰だっけ?」
「私ですね」
リンガルはそう言うと、困ったなぁーとほくそ笑む。そして言葉を紡ぐ。
「そうだなぁー、先ず最初はアリー副騎士長を左遷させよっかな」
「やめて下さい。リンガル副騎士長〜」
「あっそっか、元でしたね。アリー元副騎士長さん。そうと決まれば直ぐ報告に」
歩みを進めるリンガルの腰元にしがみ付き、引き摺られていく、アリー……副騎士長。
「な、何か、食べたい物とか御座いませんか? 美味しいラーメン屋さんを見つけましたので、この事は何卒、何卒」
引き摺られながらも胡麻をするこの光景を周りが微笑ましく見ているのは、日常の光景と化しているからだろう。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
全力で走った。
捕まったら自由など無い、奴隷になってしまうのだから。
もう少しで城塞の端っこの自宅に着く筈だった。立ち塞がる3人組の男が居なかったら。
「まてよ、良い物持ってるね野犬。もしかして飼い主でも見つかって飼い犬にでもなったのかな?」
3人組の左の男が下卑た笑い声を堪えながら話しかける。 背はそれ程高く無いが、12歳くらいの少年と比べたら高く見える。
筋肉も程よく付く程度に毎日食べられている様だ。
「俺達お腹ぺこぺこなんだ、なんか恵んでくれよ」
今度は右端の男が話しかける。身長は平均位だが筋肉など無くヒョロっとしている右手にはナイフを持ち、下卑た笑みを隠そうとしないで此方を見てくる。
「ふざけるな、お前らにあげる飯なんてねぇーよ。そう何度も飯を奪われてたまるか」
少年が声を荒げて言うと両端の2人は下卑た笑いを辞め、顔からスッと感情がなくなった。そして手で顔を隠しながら。
「悲しーな、せっかく可愛がってやっていたのによ」
左端の男は嘘くさい鳴き真似の演技を始めた。それを真似る様に右端の男も演技を始める。
「ホントだよ。これが飼い犬に手を噛まれると言う事なんだね」
「誰が飼い犬だ、ボケ。可愛がられた事なんてないだろ」
「おい、おい、冗談はよしてくれよ。あれだけ可愛がったのに忘れちまったのかよ。間違えを正すための愛の鞭をよ」
左端の男が右手を振り上げ近くと、右端の男もナイフ構え追随する。その光景を見ていた真ん中の男は両端の男へ指示を出す。
「早くパンを取ってこいよ。お前らの口上長すぎて腹が減りすぎたわ」
気怠そうに発した言葉に剣呑な雰囲気を察した2人は、冷や汗をかきながら急ぐ。
少年は先ず左端に立っていた男のパンチを後ろへ下り躱す。勢い良く振り下ろされた拳を横から蹴る。
少年の蹴りによりたたらを踏む男を無視して、その後ろから放たれたナイフの突きを避ける。力の入っていない突きはとても遅いが今日の突きはいつも以上に遅く感じた。
少年は女騎士ーーアリー副騎士長から貰ったポーションのお陰で体力が回復しており知らず知らずの内に体調は万全であった。勿論、万全じゃなくてもこの2人負けた事はここ数年はなくなっていた。
じゃあ、何故奪われたのか。それは遊戯を見るかの様に気怠げに立っている男の所為であった。
あの男は一年前位に突然現れ、両端の男を従え始めた。そして遊戯がつまらなくなると途端に放ってくる。スラムの人間が使える筈のない魔法を。
何度目か分からない攻撃を避ける少年。すると、
「長いなぁーもう駄目だ。遅いよお前たち。“ファイヤーボール”」
いつもよりお腹を空かせていた男が早い段階で魔法を撃ってきた。
“ファイヤーボール”はその名前の通り。炎の玉である。直径15センチ位の炎の玉が速いスピードで飛んでくる。
仲間である筈の両端の男達も、こんなにも早く魔法が来ると思わなかったのか、急いで少年から離れた。
少年も警戒していた為離脱した。
少年の立っていた地面に“ファイヤーボール”が当たり、小さく爆ぜた。
魔法は爆ぜた後、その炎は燃焼物がないため消えた。残るの地面の焦げた後だけだった。
熱せられた空気を感じ、食らったら危ないと本能的に感じる。
「あっ、兄貴、怖いじゃないですか。」
左端に立っていた男が男に言う。右端の男も首肯していた。
「だってお前ら遅せぇからだ。さっさと終わらして寝たいのに」
「分かりました。兄貴、いつも通りにお願いします」
左端の男はそう言うと殴り掛かってくる。
少年は先程と同じ様に避けようと思うが、先程までとは違うことがある。避けようとした先に魔法が撃たれているという事。
少年は魔法より殴られる方がましだと、殴打の勢いを殺す為力が入る前にの拳に自分から突っ込む。
だが、少年の矮小な身体では勢いを殺した拳でさえ威力は十分であった。
吹き飛ばされた少年の体躯は入り組んだ路地の壁に当たり、肺から空気が押し出された。
うつ伏せに落ち。 聞こえる男達の声。
「じゃあ黒パンとその瓶を取って帰ろうか。勿論躾をしてからね。殺しちゃ駄目だよ。この犬には餌を恵んでくれる飼い主が居るっぽいからね。顔だけは良いからどっかの女から恵んで貰ってるんだろ」
真ん中の男はそう告げると、身を翻し欠伸をしながら帰っていった。入り組んだ路地に消える様に。
「まぁ、安心しろ。ちゃんとやられた分だけ返してやるからよ」
左端の男は手と首をコキコキ鳴らしながら話しかけてきた。右端の男はナイフをしまい。
「大人しく渡していた方が良かったのにな」
そう少年に話すと。
殴り始めた。無抵抗の少年を。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
気が付いた時には暗かった。元々仄暗い路地ではあるが、この暗さは夜だった。痛む身体を引きずって、少年は自宅へ戻った。
「クソッ、瓶まで奪いやがった」
ボロボロの城壁の隣に座って独り言つ。
瓶は1瓶銅貨一枚で引き取ってもらえる。だから盗みを働かなくたって黒パン1つ買えたのだ。
ローブを脱ぎ、布団代わりに掛けて寝るだけの家。
家というにはお粗末な気もするが少年が住んで居るのだから家といえば家なのだろう。
ボロボロの城壁は岩で隠されて居るが穴が空いている。子供1人がやっと通れるスペースだろう。
少年が王都に入るにはお金がいる。その為一度王都から出たら二度と入る事が出来ない。だが、この通路があれば出入り自由だ。
その為少年は、ゴブリンを見た事があり。倒した事もあるのだ。
其れが少年の小さな誇りでもあった。
スラムの人間はここから出た事が無く。魔物など見た事ないだろう。
少年は益体のない事を考える。ーー俺に力が有れば、魔法が使えれば、お金があったら、彼奴らにでも勝てるのに。
少年は弱者が強者に搾取されるのは当たり前。だから力を手に入れ、強者になれば。今度は俺が……甚振ってやる。搾取してやる。殺してやる。そんな風に考えていた。
城壁の穴から岩の隙間を通って吹いてくる風が少年の長く伸ばされ汚れで燻んだ灰色の髪をふわりと撫ぜていく。
程よい風が気持ち良く、少年は泥のように眠っていった。
目が覚めた。まだ暗い夜であった。
満月が見えない事から城塞の向こうがに沈み始めているという事だろう。
夜明けが近い事を少年はわかった。だがお腹に手をやる。ポーションしか入っていないほぼ空っぽの腹はへっこんでいる。
まさしくお腹と背中が引っ付くという言葉がピッタリだ。
ポーションは体力を回復させる事は出来るが、お腹を満たす事は出来ない。
痛む身体を引き摺りながら入り組んだ路地を行く、まだ夜明け前で商店は開いてないだろう。
だが、移動している間に夜が明け、店が開くかもしれない。夜が開けるのを待つより歩いていた方が良いだろう。
少年は大通りへ向けて歩き始めた。
ふと、肉の匂いが鼻孔をくすぐった。
もう開いているお店があったのかと思い。匂いの発生源に向かった。
大通りに出た。見渡しても明かりが付いている場所はない。匂いの元を探すために大きい息を吸った。
匂いはどんどん近づいて来ているのがわかった。
目を凝らし暗い大通りを見つめると、少年より少し背の高い老爺がいた。
腰には弁当を入れる包みを付けており、匂いはその包みから香っていた。
少年は格好の獲物を見つけたとばかりに頬を緩めた。相手はしがない爺さんだと、侮った。空腹の為か、こんな時間に出歩く爺さんなどあり得ないという事に。全く気が付かなかった。
老爺は初めから此方に気が付いており、微笑みながら向かって来た。
「おやおや、どうしてこんなに朝早い時間に子供が居るんじゃ? 親はどうしたんじゃ? 幾ら王都が安全だとしてもこんな時間に子供が1人だけだと危ないんじゃろ」
長い白髪を後ろで留めている老爺は此方に優しい声音で問いかける。
「爺さんこそ、こんな夜深くに出歩くなんて危ないねぇぜ。スラムへ通ずる路地が直ぐ傍にあるからな」
少年が忠告すると老爺は笑い、弁当の包みとは逆の右側の帯剣を叩いていう。
「こんな老いぼれを心配してくれるなんて、良い子じゃのう。じゃが、儂は少し腕に覚えがあってなぁ、心配はいらんぞ。儂はお主の方が心配じゃて。そのボロボロな格好はどうしたんじゃ?」
老爺の質問に少年は答える。
「それはな、爺さん。……俺がスラムの住人だからだよ!」
少年は駆け、殴り掛かった。弱者は強者に搾取される。自然の摂理を問うが如く、少年にとっては当たり前の事だった。
「命までは取らないからさぁ」
少年は拳を引っ込めた。少年の本能が殴るのを辞めさせた。昼の男に魔法を使われた時よりも危険信号が発せられ、警鐘を鳴らす。額に汗が噴き出す。灰色の長髪が額にくっ付く。すぐさま老爺との距離を置いた。
「ホッホッホ、危機察知能力が高いのう。環境の所為なのか、生まれつきなのか気になるが。力の使い道が残念じゃ。もっと良い事に使わないか?」
老爺は悲しそうに顎髭を触った。
老爺は良い事を思い付いたとばかりに提案した。
「そうだ。儂は今、弟子を取りたいと思っておったのじゃ。お主はスラムの住民なんじゃろ。満足にご飯も食えて無さそうじゃし、丁度良い儂の弟子になれ。其れが良い、其れが良い」
「勝手に話進めてんじゃねぇーよ。ジジイが!」
少年は駆けた。その勢いを左足に乗せ蹴り上げる。少年の得意な蹴りだ。自身があった。今回は危険信号も出なかった。行けるっ、そう思った。
軽い音が鳴り、簡単に止められた。老爺の左の手によって。
少年は目を見開く。老爺に受け止められた事も袖が捲れ脆弱な筈の老爺の腕が見た目に似つかわしくない程筋骨隆々だった事も。驚愕だった。
「しかし、まだ力が弱いのう」
老爺は受け止めた左足の威力を分析しながら、此方を見ずにぶつぶつと考え込んでいる。
「離せ、ジジイ!」
少年は右腕を振り上げ老爺の顔面を狙う。またもパシッと軽い音が鳴った。
老爺の右の手によっていとも簡単に受け止められた。
「うん、まだ軽いが鍛え甲斐があるじゃろう。お主名はなんといった?」
「言う訳ねぇだろ。ジジイ。離せクソッ」
少年は老爺に右手、左足を掴まれており。身動きが出来ない。
「イウワケネェ・ダロ・ジジイと言うのか、なんとじじ臭い名前じゃ。名乗りたくない理由が分かったわい」
うんうん、と納得しかける老爺に少年が怒る。
「そんな名前な訳ねぇだろ。馬鹿なのかジジイ!?」
老爺は心外じゃ、と言わんばかりに首を振る。
「わかっとるわい、冗談じゃ。とは言え本当の名前はなんと言うじゃ?」
このままじゃ足を離さないまま、膠着状態になってしまうと少年は思い。答える。
「名前は無い。だけど巷では野犬と呼ばれている。犬の様に何でも食い。唸り声を上げるからいつの間にかそう呼ばれていた」
老爺は話を聴くと。深く刻まれた皺を一層深く刻み。笑った。
「尚更、弟子にしたくなった。良し、連れてこうとするか」
「おいっ、ジジイ。俺はお前の弟子になるなんてまだいってねぇぞ。兎に角、離せっ!」
少年は身動ぎするが一向に右手と左足が動く気配は無い。
「弟子になれば食べ物が山程食べれるぞ。好きなだけ、食べ放題じゃ」
少年は、生唾を飲む。元来の目的は老爺の弁当を奪う事だったと云う事を思い出したからだ。
少年の身体は今迄動けていた方が可笑しいくらい栄養が無いのだ。
食べ物の事を考え、少年の腹が鳴く。
「良し、決定じゃな」
「俺はまだ何も」
「喋るともっと腹が減るぞ。少し眠っとくんじゃ」
「眠るって、どう云う意ーー」
老爺は少年の腹を剣の柄頭で打ち、気絶させた。