第六話『兄弟』
十二月二十五日、木曜日。今日は、クリスマスだ。駅前には大きなクリスマスツリーが鎮座している。ただ、今は朝の八時。朝陽に照らされた朝露が、ツリーを艶やかにしていた。
現在、オレはある人に会う為、本社ビル内を歩いている。本社も《P×P》の事務所も、始業時間は九時だ。現在、社員は疎らに居るだけの状態だ。
正直、人は少ない方が気楽だ。
本当は昨日の内に会いたかったんだけど……電話をしたら他県に居た。だから、今日にしてもらった。朝の九時半までは本社に居るらしい。
エレベーターに乗り込んで、“15”と書かれたボタンを押す。途中、一度も止まることなく十五階まで辿り着いた。
エレベーターから降りて、応接室を通り過ぎ、次の部屋の前で止まる。扉に貼ってある、白いプレートには“社長室”の黒文字。
その扉を三回ノックすると、中から「どうぞー」と、軽くて明るい声がした。
二条雅弥、四十歳。この会社の社長だ。常々オレに「養子になってよー」と言ってきている。
オレは入室して、一礼。
「お早うございます。社長」
顔を上げると、社長は正面にある自分の席に座って、笑っていた。いつもの笑顔だ。手まで振っている。
黒い髪に黒い瞳。スーツもワイシャツもネクタイも真っ黒。座っているから分かりにくいけど、身長も一八〇センチはある。笑うと目尻に小皺が現れるけど、若く見えるし、塩顔形のイケメンってやつだと思う。
「お早う、凌。今日もカッコイイね」
と、これもまぁ、いつもの挨拶だ。
「ところで、朝ご飯は食べてきた? おにぎりがあるんだけど、どうかな?」
これも、いつもの誘いだ。社長はおにぎりが好きで、しょっちゅう食べてる。朝ご飯は、ほぼ毎日おにぎりじゃないか? コンビニのおにぎりも好きみたいで、よく事務所に差し入れに来てくれる。
「お気持ちだけいただきます。オレも今日は、コンビニでおにぎりを買って食べて来ました」
そう答えると、社長は満足そうに、いいねー、と笑った。
「ところで、今日は何の用かな? 凌から連絡をくれるなんて珍しいから、ウキウキして待ってたんだよー」
社長が催促するものだから、オレは本題を切り出した。
「戸籍を“二条”へ移す件を、お受けします」
オレが言うと、社長は目を瞬かせて身を乗り出した。喜んでいる様子が見て分かる。けど、オレが黙っていると、社長も席へ腰を戻し、軽く咳をした。
それを見届け、オレは続ける。
「ひとつ、条件があります」
落ち着きを取り戻した社長は、机に両肘を突いて、手を組んだ。
「何かな?」
言ってごらん。と促されたので、オレも営業用の笑顔を作って、答えた。
「ええ。養子ではなく、社長の義弟として、二条家の人間になります」
この答えが予想の範疇だったのか、社長は案外、すんなり受け止めてくれたようだ。へぇー、と数回小さく頷くと、そっかぁー、と両手の甲へ顎を乗せた。
「うん。良いよ。その条件、飲んだ。間柄はどうであれ、家族が増えるのは喜ばしい事だね」
朗らかに笑うと、社長は自分のスマートフォンを取り出して「そうと決まれば―」と操作をし始めた。
「あ、倖魅ー? 凌がね、ウチの義弟に入りたいんだってー。そうそう。養子じゃなくて、弟だよ。ふふふ。嬉しいねー。じゃ、戸籍の書き換えよろしくー」
電話を終えると、社長は「はい。手続き完了」と、スマホをスーツのジャケットへしまった。倖魅先輩の情報操作能力は、抜群に高い。これでオレは、数分後には社会的に“二条凌”になっている筈だ。
今まで「“二条城”みたいに聞こえるから嫌だ」って断ってきたけど、これはこれで、慣れれば案外どうって事がないのかもしれない。
社長は立ち上がり、オレの横にあるソファーへ座るように促してきた。ソファーはテーブルを挟んで、二台置かれている。オレは手前のソファーへ、社長は向かいのソファーへ座った。
社長はテーブルの上にあるビニール袋から、ペットボトルのお茶とおにぎりをふたつ、取り出した。
「ところで、決心の決め手ってなんだったの?」
流石に、恵未の事を出すのはマズイ。社長なら笑ってくれるだろうけど、オレ自身が居た堪れない。
オレは嘘ではない、差支えの無い事実を述べた。
「オレは一人っ子だったので、兄弟には憧れがあるんですよ」
とまぁ、これは本当だ。オレには、血の繋がったきょうだいが居ない。ひとりでのんびり育てられた。だけど父親の仕事は不定期で、学校が休みの日に不在の事も多かった。中学校に入学して……まだ一学期の頃だ。父親が死んだのは。
母親は、昔モデルをしていたんだと聞いた事がある。綺麗な人だった。料理はあまり得意じゃなかったけど、元気で明るい人だった。父親が死んで、心身症からうつ病になって、更に色んな病気を併発して、一年もしない内に死んだ。
それから数か月後に、オレはこの会社の社長――二条雅弥さんに、拾われた。
社長は、そっかぁー、と嬉しそうに目を細めている。
こんな形でも、喜んで貰えたなら良かった。今まで、恩返しらしい事もろくに出来てなかったし。それこそ、四年ほど前から散々「養子になってよー」とか「戸籍を移すだけだからさぁー」とか言われてきたのを、尽く一蹴してきたんだ。
いや、ホント、恩人である社長を相手に、よくもまぁ、あんな横柄な態度を取っていたもんだ。と思う。
「凌も僕の事、『お兄ちゃん』って呼んでくれて良いんだよー」
「いえ。社長は社長ですから」
間髪入れず返事をすると、社長はおにぎりを口に咥えたまま、ガックリと項垂れてしまった。
っつか、誰も社長の事を『お兄ちゃん』なんて呼んでねーぞ。『凌も』の“も”は、一体どっから来たんだ。
オレが社長の義弟になるという事は、オレは末っ子。間にまだふたり居る。髪と瞳が灰色の、ウチの事務所の所長と、アイボリーのような髪に赤い瞳の、副所長。ふたりとも、オレの先輩だ。
赤い瞳の人間というのは、世界に〇、〇〇一パーセントしか居ないらしい。先輩の瞳は少しピンクっぽくて、ルビーみたいに綺麗だ。
そういえば灰色の瞳の人は、日本にも結構居るらしい。グレーっていう色は、心理学的に人の警戒心を和らげるんだとか。ウチの所長の交友関係の広さを考えると、あながち嘘じゃないのかもな。
思考が明後日の方向へ跳躍しかけていた時、社長が「あ、そーだー」と間延びした声を上げた。
「今度、家族パーティーしたいねー」
「もう年の瀬ですし、正月に行ってはどうですか?」
「三が日の内のどこかでやりたいなー。あー、でも新婚さんの邪魔しちゃ悪いかなぁー。お兄ちゃんさみしいなー」
社長は社長で、寂しそうな振りをしているだけらしい。顔が笑ってる。そして、こっちを見ながら凄い速さで瞬きを繰り返している。正直、不気味だ。この人、本当に四十歳か? なんか、養子にならなくて良かったな。少なくとも、オレの中に在る父親像ってのは、コレじゃない。
「凌、視線が冷たいよ。お兄ちゃん泣いちゃうよ」
「すみません。泣くのは勘弁してください」
あれ? オレが弟だよな? 今オレ、弟が出来た気分になってるんだけど。何だ、この錯覚。
「凌」
「はい」
「呼んでみただけ」
「…………」
うん。知ってる。この人は、こういう人だ。日本有数の複合企業の社長だというのに、コレだ。初めて会った時から、こうだった。
「っていうか社長。前々から耳にしてますけど、将来的にこの会社をオレに任せるって本気ですか?」
「うん。ずっっっと、そう言ってるよね?」
マジか。いや、確かに聞いてたけど、ガチのやつか。
「って言っても、僕もまだ四十歳だからね。あと十年くらいは現職でいるつもりだけど、いつ何時、何があるか分からないからさ。上層部をしっかり黙らせとかないといけないし。って事で、もし僕に何かあったら、後宜しくね!」
おいぃぃいい!! 何、清々しくオレに全てを委ねようとしてくれてんだ、この人は! っつか、オレはまだ十九歳だ! 未成年だ! とんでもねぇ重荷を背負わせそうとするな! この会社全体で、社員が何百人居ると思ってんだよ!
「あはは。凌、顔が怖いよー。大丈夫。スケジュール管理は秘書に任せて、にこにこ笑っていたらいいだけだから」
「って、そんなわけあるか!」
って、あぁぁぁああもう! 声に出して言っちまった!
「あはは。良いツッコミだねー。兄弟! って感じで、お兄ちゃん、嬉しいなー」
「…………。もう、何とでも言ってください」
オレはがっくりと脱力し、ソファーの背凭れに体を預けた。
あぁもう。疲れる。
「そうそう。凌は、もうちょっと肩の力を抜いた方が良いと思うよ」
社長は、肩の力を抜きすぎだと思う。
「まぁ、真面目なのは凌の良い所だけどね」
社長は、ふたつ目のおにぎりの包装を広げている。今度は昆布らしい。海苔の乾いた、良い音が耳に届いた。
「恵未と居る時くらい自然体で接してくれたら、僕も嬉しいなぁー」
その言葉を聞いた瞬間、自分の心臓が大きく跳ねた気がした。それからずっと速いし五月蠅いんだ。心臓が。
いや、いやいやいや。ちょっと待て。尚巳に散々言われたからって、意識しすぎだろ、オレ!
「し、自然……ですか……?」
「うん。自然すぎて不自然、みたいな感じ。凌がムキになって食って掛かるのって、恵未が相手の時だけで、恵未がムキになって食って掛かるのも、凌が相手の時だけなんだよね」
社長は口の中に有る米を咀嚼し、飲み込んでから、にんまりと笑った。
「ふふふ。喧嘩する程何とやら、ってね。ちょっと羨ましいなぁー」
社長はペットボトルのお茶を飲み下し、時計を確認した。それと同時に、社長のスマホが着信を知らせる。社長はそのまま、電話に出た。
「はーい。お疲れ様。うん。ありがとう。特別手当て出しとくからねー。んじゃ、今日も仕事、宜しくね」
スマホをしまうとこっちに向いて、にっこり笑った。
「データの書き換え、終わったって。改めまして、宜しくね」
「はい。こちらこそ。我儘を聴いていただき、有り難うございます」
「弟は、我儘くらいが丁度良いよ」
社長はそう言って、立ち上がった。ゴミの入ったコンビニの袋を持って。
「じゃ、今日も仕事をがんばりますか」
両手を上げて伸びをしている社長に向かって挨拶を済ませると、オレは退室した。
その足で会社から出て役所へ向かい、戸籍謄本と……悩んだ末、婚姻届を貰ってきた。




