第三話『共謀』
私が居るのは、会議室だ。あと三十分もすれば定時だけれど、巻いている晒がどうにも息苦しくて、外しに来た次第だ。
動く仕事をしているので、正直、Fカップもある胸は邪魔で仕方がない。困ったものだ。切除するべきだろうか……。だが、この胸を枕にして眠る恵未先輩の幸せそうな顔を思い出すと、無くしてしまうのは惜しい。
私が重い溜め息を吐きながら、棒に晒を巻き付けていると、会議室の入り口がバタンと開いた。
「祐稀ちゃん! 明日の恵未ちゃん――……」
上半身に何も着けていない私の今の状態を見て、倖魅先輩が固まった。
ノックはして欲しかったな。
私は長机の上に乗せていたブラジャーを着け、ブラウスのボタンを留めながら、ひょろ長い体をした先輩へ顔を向けた。
「お待たせしました。恵未先輩が、どうかしたんですか?」
スーツのジャケットを羽織ると、倖魅先輩が両手を合わせて謝罪してきた。
「ごめんね。ノック忘れちゃって」
「いえ。見られて減るものでもないですし」
私がそう答えると、倖魅先輩は「相変わらずクールだね」と肩を竦めた。
ラッキースケベ、と言うのだろうか。そんな場面に遭遇しても、倖魅先輩はさほど、慌てた様子がない。お義姉さんが三人も居るからだろうか。
もし、上半身丸出しだったのが恵未先輩だったら……きっと、顔を真っ赤にして……――いや、赤い顔が青くなり、紫になり、黒くなるくらい、恵未先輩に殴られるんだろうな。
少なくとも、私は恵未先輩が上半身をほっぽり出していたら、床を鼻血の海にする自信がある。
「それで、恵未先輩がどうかしたんですか?」
「あぁ、そうそう。トールちゃんと、明日もデートだって言うからさ。ボクらも後をつける?」
「それは、私たちもデートをするカップルを装い、尾行する……という意味に捉えればよいですか?」
「うん。そゆ事」
成る程。それなら、少しの変装と距離で何とかなるかもしれない。もし透が恵未先輩の嫌がる事をしようものなら、私が鉄槌を喰らわせてやる。
昨日も後をつけてみたけど、酷いものだったからな。あんなに具合の悪そうな恵未先輩は、初めて見た。ただ、同意の上で付き合っている以上、出過ぎた真似は出来ない。デート初日という事もあり、ハンカチを噛みしめる思いで見届けるに至った。
「そういえばさ。祐稀ちゃんは、どうしたいの?」
倖魅先輩が、わけの分からない質問をしてきた。
「恵未先輩と透の動向を見届けます」
「いや、そうじゃなくてさ。祐稀ちゃん自身は、どうしたいの?」
「質問の真意が分かりかねます」
倖魅先輩は、うぅん、と唸って、そうだね、と続けた。
「恵未ちゃんと付き合いたい、とかさ。そういうの」
あぁ。そういう事か。それについては、もう、私の中で答えが出ている。
「色々考えた結果、私自身が恵未先輩と関係を持つ事は、ないです」
あわよくば、と考えた事はあるが、お互いの為にならない未来図しか想像出来なかった。それならば、恵未先輩が幸せになれるように陰ながら見守り、助ける事に専念したい。
倖魅先輩は、いつもの締まりのない顔でへらりと笑った。
「へぇ。じゃあ、ボクの事を応援してくれるの?」
「いえ。ただ、今は目的の方向性が同じなので行動を共にしているだけです」
「あ、そうなの」
何やら残念そうに肩を落としながら、倖魅先輩は自前のノートパソコンを長机に開いた。
そういえば、もし、倖魅先輩が恵未先輩と交際し、ゆくゆくは結婚……となった場合、私は果たして、それを受け入れる事は出来るのだろうか。
いや、私が受け入れられるのか、というのは問題ではない。恵未先輩が受け入れさえすれば、相手が誰であれ、私は受け入れるしかないんだ。例え、ポッと出てきたモブおじさんと恵未先輩が、アレやコレで何だかんだとあって結婚したとしても、当人が幸せならば、見届けるだけ……。
私が決意を新たにしていると、倖魅先輩がノートパソコンの画面をこっちへ向けてきた。
「今ね、営業部の部屋を盗聴して仕入れてる情報だと、明日は映画を止めてどこかのゲームセンターに行くらしいよ」
盗聴しているのか。現在進行形で。やはりこの人は危険だ。
それより、予定を変更したということは……透の奴、少しは恵未先輩の事を考えているようだな。
私の中で、透への好感度がミジンコの身長くらい上がった。
「倖魅先輩。尾行するのにその髪と目の色は、いささか目立つと思うのですが」
「大丈夫。ちゃんと、カツラと黒のカラコン用意するから」
安心した。どうにもこの人は、容姿で目立ちすぎる。背は高いし、細いし、どうしたわけだか髪も目も紫色だし。それに、年中白いマフラーを首に巻いて……。
「先輩。そのマフラーも目立つので、可能なら外して下さい。まさか、そのマフラーが先輩の本体だとは言いませんよね?」
「真顔でとんでもジョークを言うね、君は。そうだね、外していくよ」
え、外せるのか、このマフラー。外しているところを見た事がないから、身体と一体化しているのかと思っていた。
「祐稀ちゃん。ボクのマフラーの事、着脱不可能だとでも思ってたの?」
「思っていました。外せる事に驚きです」
思った事をそのまま声に出すと、倖魅先輩は苦笑して、首にある白いマフラーに手を掛けた。するりと解けたマフラーが外れ、細くて白い首が露わになった。
首の付け根に近い場所に、横一文字の傷痕がある。少しケロイドが膨らみを作っている。切り傷のようだ。
「あんまり綺麗じゃないでしょ? ヤんなっちゃうよねー。ま、自分でやったから、自業自得なんだけど」
「自殺ですか? もう少し上を切らなければ。これでは痛いだけです」
倖魅先輩は肩を竦めて、クスクス笑っている。
「祐稀ちゃんは手厳しいなぁ」
本当の事だと思うのだけれど。何がそんなにおかしいのだろうか。
「ホント、痛いだけだったよ。いざってなると怖くなって、手元が定まらなくてさ。思い切ってカッターナイフを刺して引いてみたけど、それも思ったより浅くってさ。笑っちゃうよねー」
「そうですか。細い腕をしていますもんね」
これも冗談だと受け取られたのか、倖魅先輩はまた、肩を震わせて笑っている。
ちょっと、昔話をしようか。と、倖魅先輩は呟いた。
あるところに、体毛と瞳の色が紫の少年が居ました。その少年は奇病を疑われ、家族たちから蔑まれ、隔離され、カメレオンを飼育するような檻の中で生活をしていました。
しかしある日、ある団体に保護され、自由の身となったのです。
保護された先で出会ったのが、体毛と瞳の色が灰色の少年と、瞳の色が真っ赤な少年でした。灰色の少年は、髪と目の色の事で紫の少年と同じような境遇だったらしいです。しかし、太陽のように明るく元気で、ふたりはすぐに友達になりました。でも、紫の少年にはそれが眩しく、何故だか無性に、自分がとても醜く、愚かしい生き物に思えたのです。
紫の少年は、衝動的な自殺願望に駆られます。すぐに手の届く場所にあったカッターナイフを使い、首にある頸動脈を切ろうと試みます。しかしビビリの少年は、震える手を鎮める事が出来ず、見当違いの場所を切ってしまいます。
血がたくさん出ましたが、なかなか死ねません。痛いだけです。
痛みに悶え苦しんでいると、訪ねてきた灰色の少年に発見され、病院へ搬送されて、一命を取り留めたのです。
数針縫った傷跡は見事に、醜く残り、紫の少年は再び陰鬱な気持ちに陥りました。しかし、馬鹿みたいに大口を開けて笑っている灰色の少年を見ていると、だんだん、世の中の全てが馬鹿らしく思えてきたのです。
真っ赤な瞳の少年は、自分が巻いていたマフラーを、傷口を隠すようにして紫の少年の首に巻きました。
更に数年後、紫の少年は、ふたりの少年の紹介で、ある少女と出会います。少女は綺麗な黒い髪をしていました。灰色の少年のように明るく、元気で、とても可愛らしく、お菓子の大好きな少女です。
紫の少年は、その少女に惹かれていきます。しかし、好きだという気持ちをいくらアピールしても、少女には届きません。
それは、残念な事に、青年になっても続いていますとさ。
ちゃん、ちゃん。と締め、倖魅先輩は、「かなしーよねぇー」と、出てもいない涙を拭う振りをした。
「昔話にしては、最近の事も含まれていたようですが」
「最近? 何言ってるの。とあるどこかの、紫少年の物語だよ」
いつものように飄々と言うと、倖魅先輩は白いマフラーを首に巻き付け、ノートパソコンを小脇に抱えた。
「じゃ、明日ふたりがマンションから出たら連絡するから」
そう言い残して、紫の青年は会議室から出て行った。
あの物言いは、マンションに設置されている監視カメラの映像も盗み見るという事だな。全くもって有能な人だ。と思う。
元来、倖魅先輩は有能な人材なんだ。元々は本社でアルバイトをしていたらしく、正社員として入社すれば、間違いなく情報処理課のホープだったのだと聞く。
性格こそ、ねじくれてはいるが。だがまぁ、さっきの話を聞いた限り、性格の事は仕方がないように思う。同情する気はないが、あの人はそんな事を求めるような人でもない。
私は晒を巻き取った棒を持ち、窓のカーテンを少し開け、外を見てみた。空はもう真っ暗だ。しかし、周りの建物の明かりが、暗さを掻き消している。他社のオフィスビルであったり、マンションであったり、飲食店であったり。
飲食店の電飾は、特に賑やかに光り輝いている。空の星は見えないが、これはこれで綺麗だと思う。
そんな事をぼんやり考えていると、定時を告げる、独特なチャイムの音が聞こえた。