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Saa…old 15 to 23

2000年に徳坂紗愛(とくさかさあ)さんが、ばば様になってから。

2年が過ぎた。

 僕は防人としての役目を果たしきった。これは、僕という座敷童には、輝かしすぎる栄えで、(ほま)れだ。だって、彼女のおかげで、多くの子供たちの命は救われるし、悠久という流れを、村は(つむ)いでいけるんだから。つまり、僕という物語は、純度100パーセントのハッピーエンドを迎えたわけだ。ここには何の異論も生まれることはできない。だから、これから僕が話すことは、蛇足も蛇足、塵芥(ちりあくた)みたいな、下らないゴミに過ぎない。それは、ガラクタになった僕と同じくらいに。


 ……1994年の暮れに、僕から運命を告げられた紗愛ちゃんは、初めの戸惑いや、酷い恐れや絶望も、一通りの落ち着きを見せて、非行に走ったりもせず、以前にも増して学業に励んだ末に、京都の国立大学に進学した。ここまでの過程で、告知の以前と以後で変わったことと言えば、僕との接触、手をつないだり、抱きついてきたりとかそういうものが、消滅したくらいだろう。それは、雛が親から離れるようなもので、自然な流れと言えたし、実際、僕は色々と辛くなってきていたので、この変化はありがたかった。

 この、色々について語ることを、僕は恥ずかしく思う。死んだ噛月、ノストラダムスの月に逝った狂濡奇にも、面目が立たない。僕は、彼女が赤ちゃんの頃から、彼女をずっと見守ってきた。オムツのCMが似合いそうな、無垢で歯の無い赤子な笑顔にも全力で答えたし、その頃は僕は、彼女の因果(ちから)を受けて、この子のことを、娘のように想っていた。

 彼女が3歳を越えて、僕の周りを元気よく走り回ったり、絵本を読み聞かせてあげられるようになると、僕は彼女を、歳の離れた妹のように、想い始めた。

 この期間は、長く続いた。

 どういう時も、不眠不休で僕は彼女を見守り続けた。それが防人の役目だからだ。……不眠という言葉には、間違いがある。滅道さんの訓練で、僕は3秒に1秒眠る、という芸当ができるようになっていた。だから、どういう夜も、僕は3秒に1秒眠りながら、紗愛ちゃんの、宝石を抱きしめるような寝顔を、見守り続けた。穏やかな寝息と、微かに紅が満ちる頬は美しく、桃の木でも眺めているような幸福を、僕はいつも感じていた。村人の幸福脳内物質(えんどるふぃん)の分泌を促すのが、器様である彼女の因果(ちから)なのは分かっていたけれど、それに違和感を感じるようになったのは、いつのことだろうか。

……本当に、恥ずかしい事だけどね。お風呂を一緒に入らなくなったのが、まず、初めの境目だろう。

彼女の発育は早かった。

色々な部分が女性的な丸みを帯びて、目のやり場に困っていた。

でもそれは、なんというか。正常な男性なら、僕は村人だけど男性だから、性欲はある。性欲に根差した羞恥を、僕は、女性としての発育を始めた彼女に覚えていた。

それに、成長の予感が漂うだけでも、彼女が神々しいほど、美しく、魅惑的になるのが分かった。ビーナスの誕生、みたいな圧倒的な美と、濃厚な花粉みたいに僕を痺れさす何かが、彼女から芽生えていて。それは僕の、うん。部分がね、もたげるのが、酷く恥ずかしかった。ポーカーフェイスを気取りながらね。

でもそれは、一般的なことで。女性の裸がそこにあれば、とても困るというだけの話しだった。けれど、そのせいで、要らぬ危機を招いたりしたけどね。熱湯シャワーとかさ。

 次にその違和感、不純物、村や噛月たちに対しての想いに対する冒涜的感情の輪郭がはっきりしたのは。いや、勘違いしないで欲しい。僕の中にはいつも、防人という使命に対する熱量があった。それはいついかなる時も。けれど、風に乗って地上のどこかに落とされた種が、地中に埋まり、長い年月をかけて芽を出したみたいに、その感情が芽吹いてたその輪郭が、はっきりしたのは。

 そう、あれは花華という台湾人と対峙した時だった。僕は彼女をかばっていた。でも、花華と戦うには不利過ぎた。もし、滞在時間が24時間過ぎていたなら、それに、観客を無制限に巻き込んでも良いのなら、僕にもそれなりの、やり方があったと思う。けれど、力量の差に加えて、能力の差が圧倒的すぎた。だって、

彼女には、守るものなど、瀬長島君くらいしか無かったし、しかも、彼は、僕が人質として盾に使うには、遠すぎた。あんな手詰まりは、噛月と戦った時すら感じなかった。

 これが2%かと思った。だって、境間君なら、通路中を鼠で満たして、手当たり次第全て齧らせて、全てを骨にしてしまえるし。実際、そういう戦闘を、僕は保育所で何度か見た。彼は踏みつけられて死んだ子鼠を抱いてうずくまるだけだったのに、天井から床から鼠たちが溢れて、他の子たちを灰色に覆い尽くして、僕は必死で逃げながら、本当に彼は、強いなあと思ったものだ。そもそも彼なら、紗愛ちゃんを甲子園なんかに行かせない。野球部員たちに細工をして、適当なところで負けさせたはずだ。それくらいは、僕だってできたはずだ。千骸さんだってやった。彼の学校はすぐに負けて、瀬長島君は帰ることになった。つまり花華も。

 こんな感じで、僕は絶望的な状況を自分で招いておいて、劣等感に後悔していた。何故、情に流されたのか。野球部応援の準備に張り切る紗愛ちゃんの時間が、できるだけ長く続いて欲しかったからだ。彼女の浮き足だちに、水を差したくなかった。僕は僕独自の防人でありたかった。けれど、そんなこだわりは、危機の前ではちっぽけなプライドで、それこそ、弱虫の不良のいきがりみたいなものに過ぎない。瀬長島君を盾に取る試みも、花華の殺気を増やすだけだった。何から何まで駄目だった。

 けれど、紗愛ちゃんは、僕をかばって、僕の前に出た。心停止を引き起こす、殺気の中で、僕をかばった。本末転倒だ。防人がかばわれてどうするんだ。

 花華が去った後で、病院で昏睡する紗愛ちゃんに、怒りを覚えた。そして、目覚めを願い、容態の急変を恐れた。ここからだろうな。彼女の事を、防人という案件の先ではなくて、因果も何も関係のない、一個人としての、紗愛ちゃんとして見てしまうようになったのは。

 だって、それまでは、手をつながれても、抱きつかれても、胸の底に温かいものを感じるような感覚、後、動物的にもたげる部分を悟られずに、押さえ込む苦労しかなかったのに。彼女が倒れてからは、悲哀が。とても悲しい気持ちが、僕の中に生まれるようになったから。林檎を食べたアダムは、妻を見る時に悲哀を感じなかったのだろうか。それまでは、温かな綿みたいな包容しかなかったはずの肉に、肌の接触に、悲しみと同義の歓びを感じるようになる。その背徳。でもやはり、これも2%なのだろうか。多分そうなんだろうな。境間君なら絶対に陥らない、劣った感情が、僕の根から生えてきて、意識というか、僕の視界の端を占めて横たわるようになったのは、僕が劣等である証拠だ。

 そして視界の中央には、いつも、紗愛ちゃんの笑顔が、眩しくて。僕は彼女に、器様としてではない、朱森紗愛ちゃんに。

 ……恋をしていたんだ。


 これが、僕を困らせた色々の、正体だ。とても下らない。村という大義に比べれば、ちっぽけで些細だけれど。だからこそだろう。この感情は、結局僕がガラクタになった今でも続いていて、痛みで、僕の精神を侵食しながら、僕という存在を、支えている。


 1997年に、紗愛ちゃんは京都の国立大学の理学部に進んだ。偏差値は高いけれど、彼女の実力なら、もっと高い大学でも行けたと思う。それこそ、最高学府とか、ハーバードとか。

 けれど、彼女はそこを選んだ。理由は、気に入った本を書いた先生が、そこにいたから、という。とても彼女らしい理由だ。

 彼女は、東京近郊の親元を離れて、京都で一人暮らしを始めた。学生生活自体はのびのびとしていたと思う。けれど、特にサークルなどにも入らず、まあ、入っても、若者特有のやらかしで、彼女に危害を加えようとする不届き者がいたら、僕が撃退するつもりだったけれど。彼女はそんな事にはあまり関心がなく、

休みに寺を巡ったりしながら、1年で卒業までに必要な単位を全てとり終えて、飛び級で3年生のゼミに入った。

 ゼミの教授は、紗愛ちゃんのお気に入りの本の作者だった。

 彼女は彼のゼミに入るために、足しげく教授室に通ったし、晴れて飛び級も決まって、頬に満足を浮かべて、ゼミの講義室の下見に行った時には、予想もしてなかったんじゃないかな。

 徳坂彗一(とくさかけいいち)との出会いを。

 

 彼は、紗愛ちゃんがゼミに進んだ1998年に、留学先の英国から帰国した、大学院生だった。身分としては、ゼミの教授の助手かな。

 ひょろりと高い背に、似合わない小さな丸顔。緩く波型を描く髪。眠たげな黒目がちな、くっきりとした二重の瞳。

 僕は彼を見て、とてもびっくりした。彼は、彼の外見は、僕にそっくりだったからだ。紗愛ちゃんの瞳に映る僕がそこにいた。

 生き別れの兄と言われても納得してしまうくらい、全体的なフォルムがそっくりで、僕は息を呑んだ。

 絶句したのは紗愛ちゃんもだったけどね。


 徳坂彗一は、ゼミ室の黒板の前で腕を組み、黒板を眺めていた。

 黒板には、素数論に関係する数式で、ぎっしり埋まっていて、彼は、画家がキャンパスの上でデッサンを確かめるみたいに、腕を組んで考え事をしていた。

 呼吸と共にしかめられる目じりには、たしかな皺がくっきりと刻まれて、その皺が、彼が成熟した30代手前の男性であることを示していて、僕は殺意を覚えた。

 この殺意は嫉妬に由来する。そして、嫉妬は劣等感だ。つまり、僕は、まあ今でもだけど、15歳の外見なんだ。僕の外見は、15歳から先に進む事ができない。

 紗愛ちゃんは違う。若々しい桃の木のようだった彼女は、身長の伸びも手伝って、凛とした美しさが、この時には備わっていた。月に咲く大輪の花のような、はっきりとした美が、彼女の立ち姿にはあったし、彼女が京都の街を歩くと、大抵の男は振り返った。僕は彼女の隣を歩くけれど、だれにも気づかれない。

 けれど、もし誰かが僕を見ることができたなら、弟だと思っただろう。そう、僕の外見は、彼女の父から兄に変わり、弟に成り果てていた。もし僕が、歳をとることが出来て、ちゃんと背も伸びて、紗愛ちゃんと肩を並べて、プリクラなんかでも撮れたら、どんなに幸せだったことだろう。そういう願望は、僕の恥ずべき色々に由来する、劣った感情であり、(よこし)まな憧れだけれど。その憧れが、その教室で、具現化していた。

 徳坂彗一はそういう意味でも、とても鼻持ちならない男だった。彼は、紗愛ちゃんがゼミ室のドアを開いた音にも構わずに、やっぱり黒板を眺めていた。

 紗愛ちゃんは、彼の横まで行って、一緒に黒板を眺めた。

「Xを無限に飛ばせば良いと思います」

 彼女は呟いた。

 徳坂は彼女を見ずに、黒板のXを消して、無限のマークに換えて、端から端まで眺めた。

「そうすると、ここで成り立たない」

 大きな丸で数式を覆う。

「ここも無限に飛びますから、成り立ちます」

 紗愛ちゃんは、彼の隣に進み出て、黒板の数式をいくつか変えた。徳坂は、腕を組み、あごの先を親指でかきながら、鼻から息を出した。

「でも、そうするとここが気になる」

「それは初めから補完されています」

 ……こういうやりとりが続いた。将棋の感想戦みたいだった。

 彼女の知性にずっと触れてきた僕からすれば、この徳坂という男は、筋はそれなりに良いけれど、そこまで大した男ではなく。

むしろ、彼女の説明に合点がいかないこと、レベルの差すらわからない、センスの無さが、知的な隔絶を示していた。簡単に言うと、小学生と大学生の数学的能力くらいの差が、二人の間にはあった。

 けれど、紗愛ちゃんは気にしてなかった。もちろん彼も。室内に、午後の陽が、窓の外の緑を含みながら、斜めに差し込んで、透明に輝かす中で、彼らの数学的交流は続き、やっと一つの結論、紗愛ちゃんが正しい、という所まで至った時に、初めて、徳坂は彼女を見た。

「君は? 」

「朱森紗愛です。今年からこのゼミで、お世話になります」

「僕は、徳坂彗一だ。朱森さん」

「はい? 」

「僕と結婚してくれないか? 」

「はい」

 彼女は彼の結婚の申し出に、即答で承諾した。

 


 その1年と3か月後、7月11日のアメリカ独立記念日に、彼女は結婚して、彼女の名前は、朱森紗愛(あかねもりさあ)から、徳坂紗愛(とくさかさあ)になった。

 徳坂夫妻は、京都市役所に婚姻届を出した晩、新居の準備も途中な、紗愛ちゃんの部屋で、ささやかな晩餐を経て初夜を迎えた。

 その夜は、静かな雨が夜の大気を濡らすように降っていて、本当に静かだったのだけれど。僕は、寝室に続くリビングのドアに背を預けて腰を床に下ろしながら、部屋全体が、軋むような、よく分からない感覚を、覚えていた。

 背の向こうでは、紗愛ちゃんが、徳坂に、初めての全てを許していた。当たり前だ。夫婦になったんだから。

 けれど、彼女の初めての苦痛や、初夜まで交合を我慢した徳坂の勢い、乱暴さに激しく揺れる色々なものもあって、僕は、彼をとても殺したかった。もし、紗愛ちゃんが、僕に助けを求めたのなら、僕は迷わず、それこそ風のように速やかに室内に押し入って、徳坂の心臓を()いただろう。

 けれど、彼女は僕に助けを求める代わりに、苦痛に吐息を漏らすばかりだった。

 

 そして世界は朝を迎えた。

 徳坂は、煙草を吸ってから、裸のまま、紗愛ちゃんの机を物色し始めた。多分、灰皿を探していたんだと思う。

 彼女はまだ未成年で、そういうことに興味の無い子だったから、結局見つからず、彼は彼の上着のポケット灰皿に、焦げたシガレットの先をすり潰して、それから、古ぼけたノートの束に目を留めた。

 灰皿を上着にしまいこみ、一番上のノートを手にとって開く。

 ベッドの上で寝息をたてる紗愛ちゃんに一度視線を投げてから、ノートの記述を読み始める。

 読解が進むに連れて、呼吸も荒くなる。心拍数、血圧、もあがり、酩酊の錯覚すら覚えてこめかみを押さえる。けれど、徳坂彗一は、読むことを止めなかった。

 日差しが動いて、朝として紗愛ちゃんを照らし、彼女は、裸の半身を、ベッドから起こした。

「おはよう」

 紗愛ちゃんは、微笑みながら、そう夫に呼びかけた。

 けれど、徳坂は、ノートから視線すら上げず。おはよう、の言葉の代わりに、

「これは? 」

 と訊いた。

「ああ。それは、交換日記みたいなもの。わたしが問題を出して、えっと、好きだった男の子がね、解いてくれたの」

 徳坂は、無言で眉をしかめた。

 紗愛ちゃんは、少し不思議な顔をした。

「高1の時の話よ。ずっと捨てれなくて。好きだったの。その男の子のこと。とても、とても好きだったの」

「そんな下らない話じゃない。君は」

「え」

「君はこれの意味を分かっているのかっ!? 」

 徳坂は声を張り上げ、紗愛ちゃんの細い肩は震えた。

「数学的に間違ってはいないと思う」

 震えながら答える彼女に、夫は非難の視線を向ける。

「これで世界が変わるんだぞ。何故、応用数学の研究所(らぼ)に持って行かないんだ」

「だって、それは、あの子との、個人的な思い出、だから」

「そんな下らない話ではない!!世界が変わるんだぞ?暗号論も変わる。量子コンピューターの理論的基礎だって、構築が飛躍する」

「それはあたしも考えた。けれど、銀行がハッキングされにくくなったり、天気予報が当たりやすくなったりしたって、わたしにはそこまで関係がない。世の中は進んでいくし」

 徳坂彗一は、裸の妻に、冷ややかな視線を注いだ。

「怠慢だ。君が、そんな怠惰な女だとは思わなかった」

 徳坂紗愛さんは、絶句した。

 僕は、立ち上がった。

 扉を粉砕して速やかに徳坂の心臓を貫く。簡単な事をしようと、足首の筋肉に力を入れて、踏み出そうとした時だ。

「やめて。早羅さん、おねが、い」

 と、紗愛ちゃんが言った。

 涙を漏らすように、あるいは、昨夜、初めて破れた下腹部の痛みに耐えるように、響いた彼女の声は、僕の心臓を貫いて。

 結局、僕は何もできなかった。


 ……徳坂を豹変させたのは、一くくりのノートの束で。

 それは、高校一年の時に、紗愛ちゃんが思いついた命題、僕が証明した式だった。


 結局それは、徳坂彗一の手に渡って、専門的な数学的検証という、まどろっこしい作業に、彼を没頭させることになる。僕が書いた証明を、その通りに、純粋に書き出せばそれでたりるのに、それは自尊心が許さなかったらしい。

 徳坂なりの検証、大学のPCを使った大掛かりな茶番に、彼は入り浸るようになり、結局新居の引越しも、徳坂紗愛さん一人でする羽目になった。彼女は、淡々と引越し業者の手配をし、毎日夫の帰りを待ち、ゼミのレポートを書き、茶番を手伝おうとして手厳しく拒絶されたりした。

 誇りが。徳坂彗一の誇りが、許さなかったのだろう。彼は、「僕らの」ノートの口外を禁じた。

「真珠の価値が分からない君には、所有権を主張する資格がない」

 と、厳しい口調で、夫は妻を豚扱いした。しかし、醜い。とても醜い。何故、こんなにも醜い人間が、僕の憧れの結晶なのだろうか。何故、僕の手に入らない全てを、つまり、老いを、紗愛ちゃんとの生活を、輝かしい全てを、手に入れたのだろうか。そして、その価値も分からずに、足蹴にするように、彼女との全てを潰す。お前こそ豚だろう、と、僕は殺意と共に、呪うように思った。けれど、もっと醜いのは、僕だ。何故なら僕は、紗愛ちゃんと僕の時間が増えることを、喜んでいた。徳坂に怒りを覚えながら、彼が彼女から離れる分、朱森紗愛ちゃんに、戻るような錯覚に浸っていた。けれど、違ったんだ。彼女は結婚して、徳坂の妻になっていた。それは事実だ。

 だからだろう。

 その1年後、忘れ物を届けに訪れた夜の研究室で、後輩と抱き合い、唇を重ねる徳坂を見た、紗愛ちゃんに。僕は隔絶を覚えた。それは、初夜の夜よりも。

 彼女は、とても悲しんでいた。つまり、彼女にとっては、彼は夫で。いくらほとんど帰らなくても、たまに帰ったと思えば、乱暴に彼女を、はけ口のように抱いて寝てしまう夫でも、言いがかりをつけるようにノートの矛盾点をあげつらって、論理的に補足すると、さらに不機嫌になる、そういう卑しい夫でも。それでも、徳坂彗一は、彼女の夫だった。だから、紗愛ちゃんはとても傷ついて、まばたきも止めて、言ったんだ。

「早羅さん」

「ん」

研究室(ここ)の窓、全部、割って」

「分かった」

 僕は、研究室の椅子という椅子を次から次とたたきつけて、たたきつけられた窓のガラスたちは、爆竹でも弾けるみたいに、木っ端微塵に砕けた。窓のガラスという形を保っていたそれは、徳坂彗一と徳坂紗愛さんの夫婦生活みたいに、張り詰めた均衡から、闇に蛍光を受けて、まばゆく輝く欠片の、無数の飛散に回帰して、僕はそれまでの鬱憤を晴らすみたいに、これでもかと暴れつづけたのだけど。その間中、徳坂という男は、浮気相手の後輩を抱きすくめるようにして、ガラスの飛散から相手を守り。

 紗愛ちゃんは、そんな彼を、じっと、視線を放さずに、見つめ続けてから、踵を返して、戦場のようになった研究室を後にした。

 僕は彼女を追った。

 落ち着いたら、徳坂を殺してやろうと思った。

 

 徳坂紗愛さんは、無機質な足音を立てながら、通路を進んでいった。出口に向うと思われた進路は、幾つもの分岐を間違えて、やがて、どこでもない、袋小路に行き当たって、彼女はその壁に向って、へたりこんだ。

「大丈夫かい? 」

 僕の声に、彼女はうつむいたまま、首を振った。

「大丈夫、な訳ないじゃない。何で、こう、なの? あたしが悪い、の? 」

「君は悪くないよ」

「じゃあ、誰が悪いの? 結婚して、幸せと言えると思ってたのに。全然、じゃない……!」

「徳坂が悪い。落ち着いたら、僕は彼を殺すよ」

「止めて……!」

 紗愛ちゃんは、首を横に振って、僕を見上げた。

 頬が、おびただしい涙に、濡れていた。それは悲哀と言っても良く、彼女の瞳は、こんな時にも、とても黒く美しかった。

「もう、いい、の。十分、なの。早羅さん」

「うん」

「あの、(うた)、言ってもいい、よね。万葉集の」

「それは」

「もう、うたって、わたしは、ばば様になる。わたしはそのために、生まれてきたんだし、早羅さんは、そのために、いるんで、しょう?」

「駄目だ」

 歓迎すべきことだ。

 彼女の言葉の通りだ。器様が、ご本人の意思で、ばば様になられる。素晴らしいことだ。村には、ばば様が必要だ。今のばば様は、いつまでもつか、分からない。そう、必要なことだ。徳坂紗愛さんは、ばば様になってもらう必要がある。

「駄目だ。紗愛ちゃん。歌ってはいけない」

 僕の両手は、彼女の両肩を押さえた。

 何をやってるんだ?

 歓迎して、促すべきだろう?何なら一緒に詠唱してもいいくらいだ。

「早羅、さん……? 」

 濡れた瞳が、僕と交差した。

 僕の言葉は強くなった。

 噛月、狂濡奇、僕は……!

「駄目なんだ。君は、ばば様に、なってはいけないんだ」

「なん、で? 」

「僕は、紗愛ちゃん。君を、愛しているんだ」

 本心だった。

 それは、ずっと生まれようとして、存在すら禁じられていた、抑圧された言葉だった。けれど、それが僕の真実だった。その真実は彼女に届き、紗愛ちゃんは、笑った。

 その笑い方は、泣きじゃくるみたいな、笑い方だった。頬は幸福に上気していた。黒目がちな澄んだ(まなこ)の端からは、いくつもの滴が、きらめきながらその頬を伝った。唇はふるえながら、幸福を。幸福の微笑を浮かべた。

「わたし、も、あいし……っ!!」

 彼女が言い切る前に。

 何かが。

 稲妻のような電撃が、彼女を襲った。見開かれた目は、白目を剥いて、口から吹いた生クリームみたいなきめの細かい泡には血の紅が含まれていた。海老のようにのけぞった華奢な背は、男が絶頂するように、何度も痙攣した。

 

 僕は分かった。

 ばば様が、徳坂紗愛さんに、降りたのだ。


  ……ひとしきりの痙攣がすんで、運命の袋小路に脱力する、紗愛ちゃんのかたわらに、僕はしゃがみこんで、その美しい髪を整えて、剥かれた瞳に手をかざした。目を閉じてもらうために。

  それから、僕は呼吸をして、境間君に連絡をした。

  村にお連れするためだ。

  

 境間君は、救急車で迎えに来た。

「しきたりと違うね」

 と言ったら、

「村にも近代化が必要ですから」

 と微笑まれた。


 それから2年がたった。

 この2年にあった事は、とても下らない。

 

 まず、僕は防人の任を解かれて、都内に5200万円のマンションをあてがわれ、そこに移り住むことになった。これに加えて、案件達成の褒章として、毎月1000万の年金を受給することとなり。

僕は、とりあえず、眠ろうと思って、特大のベッドを、アラブの王族でも使うみたいな、これでもかってくらいふかふかの奴を買って、千骸さんに届けてもらった。

 そして、寝た。

 泥のような眠りの果てに。紗愛ちゃんの夢を見た。彼女はいつもと変わらず、西瓜氷菓を齧って、僕に、食べる? と訊いてくれていた。

 僕は目が覚めて、トイレの大理石製の便座に向う間に、嘔吐を堪えきれず、床に胃液をぶちまけた。夢は甘かった。

 現実もそこまで悪くないはずだ。なのに。


 紗愛ちゃんが喪われた。


 その事実がこんなにも。僕を蝕む。

 僕はそれでも、抵抗を試みようとした。つまり、できるだけ図太い神経で、眠ろうとした。けれど、駄目だったんだ。必ず夢を見る。必ず紗愛ちゃんといる。それはそうだ。彼女が21になるまでの間、ずっと、僕は彼女と共に在ったんだから。だから、僕の無意識は、現実についていけない。無意識が支配する世界、夢では僕は、必ず彼女と一緒なんだ。そして、目覚めて、酷く病む。その病みは、胃を壊す。肺を壊す。色々な、よく分からない身体の隅々を蝕んでいく。

 長々と書いているけど、一言で言うと、これは未練だ。女々しいことこの上ない。だから、僕は、いい加減嫌になって、眠ることをやめた。つまり、もう眠らないことにした。


 千骸さんは、たまに僕を心配して、見に来てくれた。

 そのたびに、朱森家のその後を、話してくれたりした。

 座敷童が去った家は滅びるという言い伝えとおり、紗愛ちゃんのお父さんの事業は失敗して、東京近郊の家も売りに出されているらしい。悲しいことだ。お父さんは、失敗した事業をなんとかしようと無理をして、脳に梗塞をきたしたらしい。けれど、その入院先で、看護助手をしている、本当の娘と、再会できたらしい。もちろん、再会を取り計らったのは、千骸さんだし、依頼したのは僕だけれど。

 千骸さんから、僕の惨状を聴いた九虚君が、この前、僕を訪ねてくれた。

「ずいぶん参ってますね。治しますか? 」

「気持ちだけで、ありがたいよ」

「悪化しますよ。気の巡りが、酷い循環です」

「構わない。この痛みも、僕が僕である証拠だ。つまり、彼女を忘れないために、必要なことだから、さ」

 こんな会話だったと思う。

 その頃は、正直食事もろくすっぽ取れないくらい、参っていたから、あまり覚えていない。ベッドで寝たきりの僕に、九虚君はため息をついた。

 そんな彼を眺めていたら、僕の中に、ふと。

 鮮烈な、冒涜が、脳に閃いたんだ。

「九虚君」

「はい」

「ばば様を、徳坂紗愛さんに、戻せないか? 」

 九虚君は、悲しげにため息をついた。

 望まぬ軽蔑を強いられている者特有の悲哀を、彼のため息は帯びていた。

「無理です。僕が治せるのは、ヒトの形を保ったヒトです。

 ばば様が降りた時点で、徳坂紗愛さんの人格は吹き飛んでいます。肉片から命を再生できないように、僕は、徳坂紗愛さんを戻すことはできません。

 それに」

 そこで彼は一度言葉を切って、サングラスの向こうから僕を見つめてから、続けた。

「仮にできても、僕はしません。徳坂さんを戻すということは、ばば様を消す、ということです。

 これは、考えるだけでも、明白な、村に対する反逆です」

「わかった。すまない、ね」

「いえ。もう、行きます。ご自愛ください」

「ありがとう」

 


 こんな会話の後に、彼は去った。その後何回も訪ねてくれて、治療を申し出てくれたけれど、断り続けた。

僕はベッドに寝たきりになりながら、窓の外の首都圏の、歯の根元にこびりついた黄色い煙草のヤニみたいな空を眺めながら、どうしようもなく無駄な日々を送って。

 夏が過ぎて、秋を越えて、冬が来たある日。境間君から連絡が来た。

 

 ばば様の調子が優れないから、見舞いに来て欲しい、てね。


 僕は奮起した。

 ポカリだけだった食事を、無理やり固形食にして、風呂にも入り、服も新しく揃えた。そして上野に出向くついでに、徳坂の研究室に寄って、彼の研究データをめちゃくちゃにしてやった。

 嘘も色々書いたから、彼の知能レベルなら、もう、あのノートにはたどり着けない。いい気味だ。


 僕は、ちょっと軽くなった気持ちで、上野から、村の最寄り駅に続く電車に乗った。特急とか、鈍行を乗り継いで、降りた駅には、迎えの車が来ていたので、乗り込んで、山道を一時間ほど揺られてから、杉林と一体化したように佇む、日本屋敷にたどり着いた。

 境間君が、にこやかに、出迎えてくれた。

 

 冬の陽をたたえた緑の生垣に囲まれた前庭を横切るときに、縁側に視線を投げると、僕の心臓は、妙な踊り方をした。それは歓喜であり、悲哀だった。

 紗愛さんが座っていた。

 紅の和服姿。凛とした彼女の美に陰りはなかった。その変わらなさが、僕の胸を穿(うが)った。

 彼女は宙を見つめていた。

 ずっと、ずっと見続けていた、覚えのある顔だ。論文を考えている紗愛ちゃんの、純粋な集中。思索に沈む美しい視線。

 そう、彼女は、紗愛ちゃんだった。

 「お食事を、お取りにならないのです」

 境間君の声で、僕は我に帰り、僕は迷わず、彼女の傍らまで進み、隣の縁側に腰を下ろした。

「久しぶり」

 返事はない。彼女は、宙を見つめ続けている。

 僕は困ったように、口の端を上げてから、彼女の向こうの縁側にある、黒い盆に視線をずらした。

 冷奴、山菜の御浸し、雑穀粥、蕎麦餅、焼いたヤマメに、猪の炒め物に、蕎麦湯。

 それぞれ、上等な漆器に盛られて、冬の空の光を照り返している。

「食べないのかい? 」

 返事は、やはりなかった。

 僕は彼女の前に移って、盆から、スプーンと粥を取って、彼女の柔らかな唇へと運んだ。

 紗愛ちゃんの唇は、開き、飲み込んだけれど、視線は何も見ず、ただ宙を物憂げに思索するのみだった。

 けれど、僕は嬉しかった。飲み込んでくれたから。僕はもうひとすくいを、彼女の口に運ぼうとした。

 すると、彼女は、僕の手を押しのけて、逆に、僕の手から、器とスプーンを取って、自分で、粥を、食べ初めてくれた。

「ご飯くらい、自分で、食べれる、から」

 と、言ってくれた気が、した。

 僕の胸は、視界は、感情に潰れた。

 そうだ。ここにいる、彼女は、紛れも無い、紗愛ちゃんだ。

 僕は、必死で笑みを作り、彼女がひとしきり、椀の粥を平らげるのを見守ってから、村の定めを思い出した。

 ばば様との接触は、助役に限られる。つまり、これは特例なのだ。

「そろそろ、行くね」

 僕は、和服の彼女に微笑みを作って、立ち上がり、境間君の方に踵を返す、と。

 裾を。

 引っ張られた。

 振り返ると。

 紗愛ちゃんが、僕のコートの裾を、固く(つか)んでいた。視線を宙に保ったまま。どこも見ずに。僕の裾を、裾だけを。

 掴んでいた。

 

 僕は、彼女にかがみ込み、その和服の細く、凛とした肩を、抱きしめた。


「ちゃんと、食べてね」

 立ち上がりざまにいって、境間君の待つ生垣に向った。


 ……


「ありがとうございました。一安心です」

 両手を膝の前に合わせて、礼をする境間君に、返事を返そうとしたら、右の視界が熱く欠けた。

 痛みではない。焼きごてに近い、熱だ。

 左の目で境間君を見ると、彼は、ひとさし指と親指の先でつまんだ眼球を、生垣に留まったカラスに食わせていた。

 その眼球は、一瞬前には、僕の眼窩に納まっていたものだ。

(かなえ)というものです。ばば様への不敬には、罰が適用されます。

 本来は命ですが、色々相殺しまして、早羅さん、あなたの右目で、すましてさしあげます」

 さすがは、完全な子だ。とても強い。弱っているとはいえ、僕の眼球を、僕に気づかれないで、えぐってみせる、その技量。

「お心遣い、感謝します」

「いえいえ。出来るだけ、永く生きて下さいね。

 ……ばば様のためにも」

 僕は境間君に、深くお辞儀をした。



 帰りの電車で、僕は色々な事を思い返しながら、ふと思いついて、接続の停車中に、一旦電車を降りて、公衆電話から、境間君に電話をかけた。

 コールは1回。

「境間です」

「早羅です。お願いがあるんですが」

「わたくし、境間にできることなら」

「ありがとうございます。年金の支給、打ち切っていただいて結構ですから、家を一軒、僕に買って頂きたいんです。

 今、売りに出されているはずです、から」

「なるほど。どこの家ですか? 」

 僕は、東京近郊の、僕と紗愛ちゃんが過ごした、あの家の住所を告げてから、

「出来るだけ早く、住みたいんです」

 と言った。

「分かりました。6時間で、わたくし境間が、済ませましょう」

 受話器の向こうは、そう快諾してくれて、僕は謝意を伝えてから、電話を切った。

 発進を山林の陽の中で待つ塗装の幾分はげかかった電車に、乗り込んで、一息つく。

 

 僕の向う先は、変わった。

 都内の虚しくて豪華なマンションから、紗愛ちゃんと過ごせた、懐かしいあの家に、変わった。

 懐かしさと、安心が胸からこみ上げて、視界が歪む。内臓もろもろが、そろそろ限界らしい。それはそうだ。紗愛ちゃんの喪失は、眠っても眠らなくても、僕を明確に蝕んで、胃も肺も肝臓も腎臓も、色々なすみずみが破壊されている。意識があることが不思議なくらいだ。というより、久しぶりに頑張って食べて、紗愛ちゃんの前で見栄を張って、随分と疲れてしまったらしい。僕の肩から力が抜けて、身体が、発車した電車の揺れに合わせて、横に無力に崩れる。でも、大丈夫だ。僕は死なない。死ぬのは、僕を待つ、僕らの、あの家に着いてから、だ。

 

 僕は座席の隅に崩れたついでに、肩を隅のクッションに預けて眠ろうと思ってうつむくと、目をえぐられた右の空洞から、

赤い血が一筋頬に伝ったのが分かった。それは、涙のように。

 僕は、それが何故か分からなかった。悲しいのか、嬉しいのか。けど、頬の血の筋をぬぐう力も、手には残されてなかったので、そのまま。

 とても、久しぶりに。

  眠りに、落ちた。


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