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Saa…old 15

その日、早羅さんは食事をご馳走してくれた。

 わたしの誕生日は、この国で最も高貴とされるお方の誕生日とも重なっていて、ただでさえ祝日だった上に、1994年のその日は金曜日だったため、とても時間的に余裕に満ちた日となった。終業式(校長が貫禄たっぷりにとてもありがたくそして長い無駄話をするという拷問の儀式)も前日に済んでいた。冬休みが始まっていた。そしてわたしは節目を越えていた。

 わたしは、その日の明け方早くまだ陽が上る前の闇の中で目を覚まし、パステルカラーのカヴァーの枕の弾力に左のこめかみと耳と頬を埋めて前髪を垂らしながら、目覚まし時計の蛍光文字を手繰(たぐ)り寄せてから、ため息と共に思い返す。

 前日の23時までは意識は明瞭だった。わたしは、パジャマに着替えてベッドのへりに腰と手を下ろして、クッションの弾力を身体の芯に受け入れながら、時計を見上げて世界が日付変更線をまたぐのを待っていたはずだ。ずっと待っていたのだ。とても長い期間のそれに加えて、夏の花華さんの予言は不安の影を濃くした。わたしは、その影に怯えるのは悔しい気がしので、できるだけ考えないようにしていたけれどやはり不安は不安だった。だから、15歳になった瞬間に早羅さんから全てを聴こうと思っていたのに、気がつけば寝ていた。

 水が綿に吸われるように、わたしは眠りに意識を吸われた。それがどうしてかは分からない。けれどそれも、わたしの迎えた変化の現われだったのかもしれない。身体は変化する。女の子は初潮を迎えて、妊娠が可能な身体、成体に変化する。わたしの初潮はとっくに来ていたけれど、もっと違う何かがわたしに来たのかもしれない。花華さんの夢を思い出す。

 黒い砂の海と、その輝き。

「おはよう。紗愛ちゃん」

 鼓膜は柔らかい声を受容した。それはいつもどおりの響きで。だからこそわたしは、いつもどおりに挨拶を返すことが出来なかった。だって、おはよう、と返してしまったら、それについて訊かざるを得ないのだ。わたしの中の覚悟が、意志と言ってもいいほどの形にみなぎっていたのは昨夜であり、この朝は冷蔵庫で忘れ去られて水分が抜けて代わりにしわがいくつも渓谷みたいに走った茄子(なす)みたいになっていた。

 わたしは、寝返りを打つみたいに早羅さんと反対方向の壁に身体と顔を向けて、沈黙をした。寝たふりである。つまりは狸寝入りである。けれどこの時、わたしの心臓は、鐘が打つような響きを立て続けに立ててそのいくつもの響きはわたしの全身を揺らしたし、頬とおでこは燃えた。どうやらわたしには狸寝入りの才能は無いらしい。狸に生まれなくて良かった。

「今日、ご飯食べに行こうか」

 早羅さんの声が響いた。

 その声の響きは、陽のまだない室内の闇に吸い込まれた後も、わたしの鼓膜の内側の渦巻きでぐるぐるしていて、いつまでもわたしの脳にはたどり着かないような錯覚を、わたしに覚えさせた。

 わたしの上体は起き上がり、枕と同じパステルカラーのカヴァーの布団はめくれた。街とか珍しいね、とか、デートみたい、とか、ご飯って一緒に食べれるの不思議がられない?とか言いたい事がのど元で混雑をして、結局でてきたのは、

「おはよう」

 で、それから間を置いて、わたしは

「うん。分かった」

 と続け、早羅さんが声を出す代わりに微笑んだのが分かった。

 カーテンの向こうの大気に陽が昇る(きざ)しが、淡い水のように満ち、布の隙間を通って彼をはっきりさせたからである。


 …わたしたちは昼になる前に出かけた。

 その前に服を選んだり、おめかしをしたりと色々した。高校生になって外出する時に化粧をしないのは常識的にあり得ない、と学友から聴いていたので、その頃のわたしは化粧というものを試行錯誤するようになっていたが、問題は、である。

 おそろしく時間がかかるのだ。およそ自らの顔面に(うと)い人生を送ってきたせいか、はたまた、

「紗愛ちゃんは何もしなくても綺麗だよ」

 という早羅さんの言葉にどっぷり甘えてきたせいか、美しくありたいのに、美しく化粧をしよう、という発想に至らなかった因果のせいか、わたしはメイクの完成手前で再びやり直し、を何度もしてしまうのだ。単純に美術の才能がないだけかもしれない。

 ともかくそんな訳でわたしは、恐ろしく長い身支度(みじたく)を終えて、家を出て、早羅さんと手をつないで、北風の中を駅に向かった。風は冷たかったけれど、彼の手が暖かかったので、幸せを覚えた。それは、カイロを握るのと似てるようで全く違う、幸福だった。

 わたしたちは、電車に揺られながら冬に色彩を喪った首都の街並を眺めながら、乗り継ぎをいくつかして都営地下鉄に入ってからすぐ、六本木でも赤坂でもないあまり名前の聞かない駅で降りて、地上に上がった。

 コンクリートは路地を覆い、そこからいくつものビルたちが、大地から空に伸びる林の木々みたいに、湿度の無い青空を、やりかけのジグソーパズルみたいに切り取っていた。とても大きな建物たちが防いでくれるはずなのに、風は路地で暴れてわたしや早羅さんの頬を切った。

「風邪引く前に、急ごう」

 と早羅さんが言ってくれたので、わたしは、首に巻いた赤のマフラーに頬を埋めるみたいに、彼にうなずいた。

 交差点をいくつか渡ってからたどり着いたのは、5階建てのビルで。およそこの大都会の活動から忘れ去られたみたいな、(すた)れ具合だった。それこそ竣工落成の直後に致命的な不具合でも見つかったのかという位、人の営みの形跡を見せないビルで、ひびの入った壁面とガラスの抜けた窓枠しかなく、しかも窓の内側の通路には所々、どす黒い水が溜まっているのが分かり、そこから漂う(ほこり)のかび臭さに、わたしは鼻の先を硬くして、早羅さんに訊いてしまった。

「ここ?」

「うん、ここだよ」

 彼は答えながら錆びついたノブの手をかけて、わたしを通路に招きいれた。

 通路は、窓枠から吹き込む風と共に光を採っているせいか意外にも明るかったけれど、やはりカビの臭いが強く、わたしはむせた。

 早羅さんの手のひらの弾力を、背が柔らかく感じる。その柔らかさに幸福を覚えながら、いや、覚えているからこそ。わたしは少し彼に不満を覚えた。さすがにここは無いだろう。廃墟すぎる。けれどわたしは我慢をした。そして、懐から取り出したライトで足元を照らす彼に手を引かれて、微かに水の流れのような音を鼓膜に感じながら、奥まった作りらしい迷宮(びる)の角を幾つも曲がり、地下に続く階段を下りて、さらにまた通路を行く頃には、闇にも大分目が慣れていたので、通路の果てに光を確認した時、わたしは息を呑んだ。

 それは、蛍の光を集めたような謙虚な白の光で、流れるような弧を空中に幾つも描いていた。その軌跡はアルファベットに見えなくもなかったし、軌跡の集まりは月光をためて輝く花畑にも思えた。

 早羅さんの手のひらを固く握りながら近づいていくと、その光の畑が、本当に蛍の群れだと分かった。

 清流が環を成して、蛇のようにくねりながら地下通路を巡っている。その(おもて)に浮かぶ飛び石を早羅さんの手に支えられながら渡る。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 女の人が腰をかがめていた。

 漆のような黒のワンピースに、フリルの柔らかな白エプロン。このエプロンドレスと、纏め上げた黒髪に戴冠した白のカチューシャという組み合わせ。わたしはメイド服という単語を思い出すのに少しの時を必要とした。

 彼女の背丈はわたしと同じ位で、フリルからのぞく黒タイツの足はわたしより細かったけれど、ワンピースの奥の胸はとても豊かで、花華さんを思い出す。けれど、顔立ちは整っていることは整っているが、それこそ池袋のスターパックスでクルーをしている女子大生なお姉さんたちとそう大差は無い。

 彼女がわたしに視線を合わせ、瞼を落として口角を上げたとき、わたしは彼女に目を凝らし過ぎている事に気がついて、赤くなった。

「時間が遅れた。すまない」

 肩の横で早羅さんの声がした。

「いえいえ。お気になさらず。

 それに器様のお誕生日をお祝い差し上げる誉れに比べれば、全ては些細です」

 言いながら涙ぐむ彼女の長いまつげを、蛍の光が浮かび上がらせた。

 その刹那の彼女は、ちょっとお化けに見える位、微笑(ほほえみ)が妖しく(なまめ)かしかった。それは女子大生の域を超えて、人ではない誰かを感じさせた。

 けれど、それはそうである。彼女は普通のヒトではない。早羅さんを認識できて、わたしを器様と呼ぶメイド服さんなのだ。わたしは廃墟のビルに入り、地下通路を抜けて、ここに来たという事を実感した。

 

 ここは、この蛍の闇は。

 …早羅さんの世界である。


 わたしは『注文の多い料理店』という小説を思い出した。

 この小説は、狩猟をたしなむ者たちが、山歩きの末に、ヒトならざる者の営む料理店に迷い込むという話である。もちろんここは、都営地下鉄沿線の廃れたビルの、光から隔絶された地下通路の果てに過ぎない。けれど地上階のかび臭さと違って、この細長い空間を循環する空気には、山深い神社とかでしか味わえないような清浄が満ちている。それは蛍すら飛べそうなほどで、実際飛んでいる。光として(つど)う彼らは、床に環を描く清流のせせらぎに恍惚するように、無数に揺らめいている。その揺らめきに、わたしは軽い酩酊を覚える。

「ご案内いたします。器様、こちらへ」

 メイド服さんの顔面に笑みが満ち、闇に光を帯びる雪のように白い手を差し出された。黒目が見えなくなるほど細められた彼女の瞳には、つい先ほど涙ぐんだ時の妖艶さはかけらも無かったけれど、有無を言わせぬ力があり、わたしは、思わず肩の隣の早羅さんを横目で見た。

 早羅さんは、わたしを軽く見上げながら、柔らかく肯いてくれた。

「大丈夫だよ。僕も後で合流するから。

 それにこのお姉さんはとても優しいし、信頼できる人だから、安心していい」

 彼のその言葉にわたしの頬は硬くなり、もう見向きもせずにメイド服さんの手を取って、蛍の闇の奥に控えていた漆黒の扉の向こうに誘われる。

 …わたしは、欲深い女ではないはずだけれど、早羅さんに関しては何故こんなに誰彼構わず嫉妬するのだろう。彼がメイド服さんを誉めた。優しいし信頼できると言えるほどの関係性がある。それはわたしの知らない早羅さんだ。彼女が羨ましい。わたしという存在は、彼が守る対象で、器様という黒い砂の海を抱えるヒトに過ぎない。信頼できる人だとか言ってもらったことは無い。いやそもそも夏の甲子園でお会いした千骸さんの他には、九虚君くらいしか、早羅さんと話している人を見たことがないのだ。

 ちなみに九虚君はわたしよりも一つ年下の男の子だ。

 夏の甲子園で花華さんの殺気に()てられて意識不明となったのは、以前にも書いたのだが、彼は、わたしが目を覚まして帰宅した二週間後に早羅さんが村から呼び寄せた人物である。何故二週間かという理由は言わなかったけれど、おそらく早羅さんは花華さんの襲撃を恐れたのだろう。彼女は強い人を漏れなく襲う。なので、早羅さんは、警戒に警戒を重ねて二週間外部の侵入の形跡の無いことつまり安全を確認した上で、九虚君を呼んだ。

 その日は夏休みの残りもわずかで、わたしは、窓の外の気だるい熱気と蝉の命の絶叫を聴きながら、勉強机に向かって花華さんの夢のことを思い返していた。口は西瓜氷菓をかじっていた。

「紗愛ちゃん、公園に行こう」

 窓の外の住宅街を覆うように広がる紺碧にいくつものメレンゲをこれでもかと落としたみたいに堆積した雲の輝きに、視線を投げながら早羅さんがそう言った時、わたしは、うん、と言って頷きながら意外に思った。声は、いつもと同じ柔らかさだったけれど、オクターブが少し高かったからだ。

 基本座敷童の地をいく引きこもりである早羅さんが、公園にときめくとはかなり珍しい。しかも、わたしを花華さんから守れなかったために、彼のテンションはものすごい低空飛行というより地中にめり込むモグラ状態であった。もう何度とも無く書いたことだけれど、彼と長年過ごしてきたわたしは、彼のテンションが分かるのである。基本的にその尺度は、つっこみや軽口の有無に依存するけれど、甲子園から帰宅後の早羅さんからは、そういうものが一切消滅していた。わたしにかけてくれる声も柔らかな響きだったけれど、どこかで張り詰めていた。これは全て花華さんのせいである。けれど、わたしを治してくれたのも彼女なのである。複雑だ。

 住宅街の隅に落とされた忘れ物のような小さなたたずまいの公園に着いた時、ベンチに腰掛けていた黒サングラスの男の子が、立ち上がって、こちらに向かって深深と礼をした。早羅さんはそんな彼に歩み寄って、その両肩を軽く叩いた。

「はるばる済まないね」

「いえ、光栄です」

 男の子はそう言ってからわたしに向き直ったので、わたしは彼と対峙することになった。

 色白でパーツが端正なうりざね顔にかけている黒のサングラスは、アンバランスに大きく、彼の感じを悪くしていた。平たく言うと不良っぽかった。サングラスの上の(ひたい)とさらに上の丸刈りの密度の濃い黒髪は、陽を受けて汗に輝いていた。背丈はわたしと同じ位で、早羅さんより高く、紺のジャージの股下は長く、白無地のTシャツから伸びた腕は長かった。

 わたしは早羅さんを見て何かを言おうとしたその時、九虚君がサングラスを外した。

 わたしを見据える黒目がちな瞳は、涼やかで、その宿す光には慈悲があった。

 嵐の暴れ去った海。海面に残る無数の白波。未だうねり狂う黒灰色の雲。その雲間から陽がのぞき、光の柱がいくつも斜めに海面に注ぎ降りて、濃紺の海面を淡く水色に透く。その淡さはやがて海原全体に広がり、陽は風を(しず)め、海は凪ぎ、世界の全てに光が回復する。

 そんな情景が脳内を巡る。

 そんな慈悲。

「終わりました」

 九虚君はサングラスをかけなおしながら早羅さんにそう言って、わたしは我に帰り、早羅さんを見ると、彼はとても苦しそうに九虚君を見ていた。この場合は心配という言葉が正しいのだろうけれど、心配が高じると苦しくなるのだろう。本当に苦しそうで、わたしの胸も痛んだ。

「ありがとう。彼女に後遺症は」

「ありませんよ。健康そのものです。器様はヒトに近いといっても、村人ですからね。命の力も強いのでしょうね。後…」

「後!?」

 言いよどむ九虚君に早羅さんが詰め寄った。

「いえ、大した事ではないんですけど。

 高度な治療の痕跡が気の循環に見られます。微かですけどね。

 誰かが力を使ったのでしょう。けれど悪意は感じません。

 今でも薄いですし、ほうっておいても月が変われば消える程度です」

 花華さんだ、と思った。

 わたしは九虚君から目をそらし、その間に彼は、早羅さんと二三の言葉を交わして、

「器様の因果を(こら)えるのが辛いので、もう行きますね」

と言って、やはり深々とした敬礼の後で立ち去ってしまった。

 

 わたしは、メイド服さんに案内されながら、九虚君について考える。

 何故彼には嫉妬しなかったのだろう?彼の慈悲?いや、関係は無い。彼だってわたしの知らない早羅さんのことを知っていたはずだ。結局は性別ということか。女は女に嫉妬する。そして嫉妬というものは、美しい感情ではない。だって、それは劣等感の投影に過ぎないからだ。

 とわたしが悶々と考えている間に、わたしは、黒い天井のシャンデリアが目にまばゆいエントランス、さらにそこからカーテンで仕切られた奥の小部屋に、通された。

 その小部屋は衣装部屋で、銀座のデパートのショーウインドウできらめく服たちみたいに、真紅、檸檬(れもん、純白、濃紺、漆黒、ライムグリーン、他さまざまな色のドレスが陳列されていた。

 口を鳩みたいに開けたわたしの横から、メイド服さんが訊いて来る。

「どれになさいますか?」

 花嫁の衣装合わせみたいな訊き方だったので、わたしは気後れした。ドレスのどれもが誇り高くきらめいていた。上質という言葉を布にしたらこんな感じなのだろう。布の()ち方、縫い方に使われた技術の高さも、華麗で高貴な形状から伝わってくる。そうなのだ。これは華麗や高貴という概念を服にしたもので、こういったものは、15の小娘のわたしなどではなく、オードリーヘップバーンとか、ハリウッド在住の白人たちかモナコの王族が着てしかるべきものなのだ。

 わたしは硬直を続けた。

 そんなわたしに、メイド服さんは困ったように微笑んでから、耳元に囁きかけてきた。

「桃の夭夭(ようよう)たる 灼灼(しゃくしゃく)たる()(はな)

「え?」

 わたしはメイド服さんの整った瞳を見た。

「中国の古代詩です。

 …若々しい桃の木に燃え立つような花が咲いた。

 わたしは器様を本日拝見して、この詩を思い起こしました」

「え」

「花があってこそ草や空があるのです。

 服は飾りに過ぎません。器様の華に比べれば、それは些細なること」

 彼女が励ましてくれているのは分かった。遠まわしにとても褒めてくれていることも。

 わたしはその善意に背中を押されて、ライムグリーンのドレスの元に立って、生地に触れてみると、このドレスが輝いていた理由が分かった。大小のエメラルドが薔薇があしらわれたような胸元から肩にかけて、散りばめられていたからである。それが、おびただしい光を輝かしていた。

 他も同じだった。真紅のドレスにはルビーが、純白にはダイヤモンドが、無数に、海のように広がっていたので、わたしは、メイド服さんが言う飾りの時価総額を想像して、頭の芯に軽い酩酊を覚えた。

 漆黒のドレスを手に取る。やはり宝石がちりばめられている。

 暁の闇を凝縮したようなその内部には、光が、幾重にも折り重なりながら静かに輝きを成している。この黒に。この光の重なりに。わたしは覚えがあった。

 わたしはドレスの表面の宝石たちから顔を上げて、メイド服さんに訊いた。

「これは?」

黒金剛石(ブラックダイヤモンド)です」

 彼女はにっこりと笑って答え、わたしは、再びその石たちの輝きに視線を落として、まじまじと見入りながら、とても複雑な気持ちになった。


 …黒い砂の海。

 その砂は黒金剛石(ブラックダイヤモンド)だった。

「これを着ます」

 わたしは、黒金剛石(ブラックダイヤモンド)の海に視線を落としたまま、呟くように声を出した。

 

 メイド服さんはドレスの着付けに加えて、化粧もしてくれた。

「器様の紅の塗り方には、いじらしさを感じますが、この服飾には残念ながらそぐいません。

 変えさせていただきますね」

 彼女の言葉を翻訳すると、化粧が下手で服に合わないから変える、ということなのだろう。この言葉に、わたしのささやかな自負は、大いに傷ついた。けれど、メイド服さんが、わたしを美容室的な椅子に座らせて、クレンジングクリームを塗ってくれたり、温かい布でパックをしてくれたりする時には、わたしは、エステに行った事はないのだけれど、韓国とかセブ島あたりの専用施設で美肌ケアを受けているような快適を感じて、自負の傷というものを少し忘れてしまった。けれど何だかそれとは別次元で、尻のすわりが悪いというか全然落ち着かなかったのだけれど、それは彼女のせいではない。

 文字通りわたしの目と鼻の先で、まつげの長い瞳を大きく開いてグロスの先に集中するメイド服さんの面持ちは真剣そのもので、わたしは、彼女の集中に、フレンチの皿に仕上げのソースを黒く垂らすシェフの姿を連想した。彼女の首筋や鎖骨を覆う肌は、白くきめが細かく、花畑のような匂いが薫っている。頬はうっすらと上気して、集中の度に微かに漏れる吐息は温かいけれど不快ではない。高原の天然のミントのような爽やかな香りがする。白のカチューシャが上下するたびに黒い前髪が揺れて、そのたびに花粉のようなものが柔らかく舞う錯覚を覚える。

 …と、長々と書いたけれど、彼女がわたしにしてくれたお姫様な扱い方が想像を超えていただけで、メイクにかかった時間自体はそこまで長いものではない。メイド服さんの集中と裏腹に、彼女の指の先のグロスは、まるで別の意志を持った生き物みたいに、迷い無く速やかな運動をしていたし、わたしに塗られた紅やおしろいの量もさっぱりしたものだった。むしろわたしがしてきたメイクの方が気合いが入り過ぎてごてごてしていた。これが分かった点で、わたしの中の自負の傷といったものは恥ずかしさに変わった。

 メイド服さんは、わたしの顔面の塗装作業を一通り終えると、わたしに視点を合わせたまま二歩後方に下がって、全体のバランスを確認してから、白のエプロン部分つまり彼女の腰に両手をあてがって、口角を富二屋のぺこちゃんみたいに上げながら鼻を軽妙に鳴らした。それからわたしの後ろに回りこんで、胸の横でまっすぐ重力に引かれているわたしの髪を()み編みしはじめた。髪はびっくりしたことだろう。およそストレートに垂れるという事しか知らなかったわたしの髪たちは、幾つもの束にまとめられて、セーターを成す毛糸みたいに編まれて、頭部に沿うように曲げられたり巻かれたりして、15年間の歳月では一度も経験しなかった形に落ち着いたのだから。

 

 わたしは、白雪姫に出てきそうな堂々とした鏡の前に導かれ、その前で言語中枢というものがすっぽり脳から消失してしまうような錯覚を覚えた。育った環境的に起こる出来事の衝撃に言葉を失うことはあっても、わたし自身に対してこんなに驚きを覚えることはなかった。

 だって、(そこ)に存在しているのは、わたしではなかったからだ。

 鏡という金属の奥の左右逆対象の中にたたずむ彼女の美の形容をわたしは知らない。髪形はローマの休日のオードリーヘップバーンみたいだったし、肩の開いた黒のドレスはモナコの王女を讃えるようにきらめいていた。けれど、彼女を。彼女の美を現実的な何物かに例えることを、わたしは出来ない。

 逆に幻想に求めるのならば、言葉は豊穣になる。

 月の輝く白鳥の湖。悪魔に囚われた姫を救おうとする王子。

 彼を魅了した黒鳥。闇に輝く美。黒金剛石のようなきらめきは、瞼を貫くのみならず、全てを闇にひたし、陶酔の予感に誘う。そういう美が、わたしの前の鏡の奥に立ちすくんでいた。

「いかがですか」

 人を化かすことを楽しむような響きを帯びたその声が、メイド服さんの唇から出たものであると認識するのに、わたしはしばらくの時を要した。わたしは、それほどまでに、あっけにとられていた。

 わたしは答える代わりに鏡の向こうの彼女を指さして、

「これ、わたし、ですか?」

 と、途切れ途切れに訊く。メイド服さんは、瞼を薄めて(つやや)かに微笑む。

「紛れも無い器様です」

「信じられない」

「女性には、あるべき姿がいくつもあるのですよ。

 わたしがお見せしたのは貴方様の片鱗(ほんのわずか)

 ため息をつくように言葉を漏らしたわたしに、メイド服さんはそう言った。彼女のこの、片鱗(ほんのわずか)という言葉に、わたしは花華さんを思い出した。なんというか、見た目女子大生なメイド服さんは、仕草や言い回しが花華さんと似ている。仕草はすみずみまで(みやび)やかで、言葉はそれとなくとても優しい。おそらくこの人もとても恐ろしい人なのだろう。だからだろうか?違和感がある。落ち着かないし、その事に心のどこかで申し訳なく思う。

「準備も整いましたし。こちらへ」

 メイド服さんに付き添われて、わたしは次の小部屋を隔てる幕を抜け、白真珠、透き通った紫のアメジスト、陽に透けた海のようなアクアマリン、砂漠の太陽のようなシトリンクォーツ、桃のような紅水晶、草原の空のようなターコイズ、夜空のような藍のラピスラズリ、輝きを結晶にしたような金剛石、そして、暁の闇に光を(はら)ませたような黒金剛石たちが、ネックレスやブレスレット、指輪の形をして陳列されているのを見て、輝きに言葉を失う。行ったことはないけれど、発掘されてないピラミッドの奥か、大英博物館にいるみたいだ。メイド服さんに、お選びください、と言われたので黒金剛石を選んだ。ネックレスもブレスレットも指輪も。

 それがわたしの本来だろうし、それが逃れられないのならせめて堂々と受け入れるべき、わたしの運命だと思ったからだ。

 最後の幕をくぐると、小さなお店だった。

 床も壁も柔らかな木の作りで、山の清涼な匂いがして、表の蛍の闇を思い出す。四隅(しすみ)にはランプが置かれて、そのガラスの中で小人が踊るみたいに炎が揺らめいていた。ランプの淡い橙色の光は暗がりに柔らかい輪郭を与えていた。春を待つ冬の眠りのような管弦楽が空気に循環していて、空間にかぶさる天井は闇のように黒いけれど、いくつもの小さなライトが(またた)いていて、銀河みたいだった。その銀河のちょうど中央の夜空に一際輝かしい星があって、そこから真下の、店内にたった一つのテーブルと純白のテーブルクロス、それを挟んで向き合う一対の木製の椅子たちを、光で円く包んでいた。奥にはカウンターがあって、その向こうでは、野菜を切ったり、フライパンで茸を焼いたり、オーブンに肉を入れる人たちの白い制服が、あわただしく動いていた。

 わたしの心はその景色のどれもとらえず、瞳は、テーブルの横に立つ早羅さんの黒の背広姿と、かき上げて整えられた髪を、瞳孔の奥の網膜に焼き付けていた。彼のおでこがあらわになっているせいか、いつものどことなく眠たげな早羅さんらしさはすっかり消えて、代わりに実年齢33歳を思わせる大人っぽさというか威厳があった。まっすぐだけれど(りき)みの抜けた立ち姿はいつも通りだったけれど、身に包んだ背広の黒が、彼の容姿や立ち姿の美しさを、光を与えるように際立たせていた。

「いつもと全然違う、ね」

 と、わたしは彼に微笑(ほほえみと共に言いながらとても安心した。なぜかというと、尻のすわりの悪さというか、緊張というか、違和感。メイドさんとの間中ずっと感じていた落ち着かなさが、わたしの中で霧が晴れるように、消えたからだ。わたしはどこかの王族みたいな身なりになって、童話の誰かみたいな別人になって、早羅さんはキラキラした威厳あふれる誰かになっていたけれど、彼に感じる安心。わたしがあるべき場所が、彼の在る場所である、という感覚は、いつもと変わらないでいてくれた。わたしの中の黒い砂の海によって、わたしがどう変わってしまってもどれだけ世界が変わっても、この安心は変わらない。わたしは彼を探し続けるし、彼はわたしと在り続けてくれる。そういう確信がこの時にはあり、だからこそ、いつもと全然違うと言いながら、わたしは安らぎを覚えた。

 

 …けれどそんな確信は、わたしが勝手に胸に抱いた一方的で絶望的な、勘違いであるとすぐに思い知ることになる。

 それは、早羅さんの独白によって。


 …………


「僕はどこで誰から生まれたのか知らない。

 けどこれは、村人としては普通のことなんだ。村人には家族という考え方はない。血の改良のために子供を誰々と作れとかそんな優生学みたいなしきたりは、たくさんあるし、実際の僕たちをしばっているけれど、どういう過程(しきたり)からにせよ産まれた子供は、全員親から切り離されて、保育所と呼ばれる特殊施設に送られる。古代ギリシャのスパルタっぽいね。

 この保育所で村人の子供たちは、世界史的な文明から隔離されて、18歳になるまで育つ。世界史的な文明という言葉は、ちょっと分かりづらいけれど、この表現が一番適(いちばんかな)っていると思う。保育所は、人の住む里からとても隔離されている、山あいの集落にあってね。この集落は日本の地図には載っていないんだ。地図の上では国有林扱いされている。つまり存在しない集落(むら)なんだよね。でもまあ、神社も、蕎麦畑も、公民館も、何故か古民家の住宅地も、一応あるにはあるんだ。畑や登山道のまわりはあぜ道だけど、それ以外は、ちゃんとコンクリートで舗装もされているし、整備も無駄にされている。無駄というのはさ、どこもまるっきりの無人なんだ。保育所以外はね。で、子供たちが育つ保育所では、ちゃんと発電もされるしそのための設備も整っているから、電化製品も一通り使える。こういう意味では文明的な場所と言えなくも無い。けれどね。ここでは、というより村では、人生とか社会に対する考え方が、世界と全く違うんだ。ガラパゴス的というのかな。世の中の思想的な進化と完全に切り離された場所が、この保育所でさ。孔子の仁愛とか、キリストの愛とか、啓蒙思想とか、奴隷解放とか、そういう流れの果ての世界人権宣言とかそんな一切が、全く関係ないんだよね。愛やいたわりに代表される善意は追求されない。そもそも善も悪もない。あるのは、闘争と流血と死だけでさ。つまり村で育つ僕たちは、物心ついた時には殺しあっている。そしてその事を誰も、特に不幸には思わない。

 でも理由なく殺しあっているわけじゃないんだ。保育所では、尊厳は強さと教えられる。この場合の強さというのは、我慢強さとか優しさではなくて、純粋に速やかに相手を殺害する器量なんだよね。だからこの施設は、保育所とかいう優しい名前だけれど、蟲毒(こどく)を作る壷みたいなものでさ。蟲毒というのは、壷の中に毒虫をたくさん入れて、共食いをさせて、最後に残った(むし)で毒を作るというあれだよ。村の子供たちは、大体は因果を持て余すからね。それは殺戮の衝動につながりやすい。

 あ、因果というのは、僕が人に見えないみたいな、生まれ持った祝福と呪いの事を言うんだ。例えばほら、メイド服の彼女。名前は狂濡奇(くぬき)っていうんだけど、彼女は僕と同い年なんだ。うん、保育所の幼馴染だね。彼女の因果は逆歯(さかば)といってね、別に歯が逆に生えているわけじゃない。人とは逆の歳のとり方をするんだ。逆歯の人は、まあ人によるけど、平均86歳の老人の顔をして産まれる。それから1年に2歳分ずつ、外見というか顔面が、若返りながら体が成長する。ファンタジーっぽいけどね。でもファンタジーってほど気楽でも素敵でもないんだ。彼女が10歳の時は66歳の顔で、18歳でやっと50歳の顔だった。周りは若さを春みたいに歌っているのに、彼女だけが壮絶に老けている。でも中身は女の子だからね、そりゃ心にも傷がつく。だから狂濡奇は、今が一番楽しいのかもしれない。33年かけてやっと、86歳から二十歳(はたち)になれたんだからね。ちなみに彼女の寿命の残りは4、5年だ。逆歯は、見た目が12歳、まあ()っても10歳まで、若返ったら死ぬ。実年齢的な寿命は平均37歳だね。早死は逆歯の呪いだ。でもそれ自体は、変わっているけれど、惨めではないんだ。人生の順番が(さか)さなだけだからね。

 問題は、彼女が抱えている、もう一つの因果でさ。彼女は、狂魅(くるみ)って村では呼ばれている、夜に人の生き血を吸う魔物、俗で言われる吸血鬼なんだよね。だから狂濡奇(くぬき)は、激烈なアレルギーが全ての食べ物に出てしまう体質のために、ヒトと同じ物は食べれない。何とか口に出来るというより、舐めて渇きをしのげるのは、年代物の赤ワインくらいでさ。トマトジュースも無理だ。あれは漫画の空想だね。栄養として吸収できるのは、経口摂取したヒトの血液だけなんだ。血液の主成分のヘモグロビンは鉄分が豊富なはずなのに、()れるものがヒトの血液だけだから、万年貧血だ。これが狂魅の因果だね。けれど彼女は恐ろしく強い。僕の同年代では最強じゃないかな。対抗できたのは、噛月(かみつき)って男の子くらいだったと思う。まあ、彼の話はおいておいて。狂濡奇の身に宿す狂魅の因果の祝福は、恍惚の魔眼でね。情緒が不安定になると、瞳が砂漠の太陽みたいな白金(ぷらちな)に輝くんだ。そしてその瞳を直視した者は、漏れなく恍惚にショックを起こして、麻薬を致死量分頚動脈に一気に打たれたみたいになって、死ぬ。今は制御ができているけれど、保育所の頃は抑えが利かなくてね。たくさんの子供たちが、彼女の因果に(ほふ)られた。でも彼女の芯は優しいから、無闇に他の子たちを殺さないように、砂漠のミイラみたいに顔に包帯をぐるぐるに巻いて、片目だけ出して生活していた。包帯があれば、相手の攻撃を警戒しながら、いつでも眼を隠せるからね。まあ、皮膚から水分が消え去ったお婆さんみたいな見た目も、隠したかったのかもしれない。何にせよ彼女は保育所の最強だった。最強ということは、一番尊ばれる。そして優遇される。だれもが、いや、誰もっていうのは違うな。僕と噛月(かみつき)以外は全員彼女を(おそ)れていた。

 噛月は優等生でね。とても気持ちのいい性格の男の子だった。言葉も行動もはきはきしている子でね。潰しあいの中でやさぐれている子たちも、彼には毒気を抜かれた。見た目も爽やかでさ。ほら、アメリカンコミックスのヒーロー、青いスーツに赤マントでガッツポーズしながら空を飛ぶ、クラーク・ケント。あれよりケントっぽかったんだ。まあ、ケントみたいに空は飛べなかったけれど、強さが他の子より遥かに優れていてね。基本的な身体能力が、村人の到達できる所を遥かに超えていた。普通そういう才能(もの)に恵まれるとそれにあぐらをかくものだけど、彼は全然思い上らないんだ。謙虚さも努力に励む才能も、村人の到達できる所を、遥かに超えていた。彼は、誰よりも努力して才能を磨き、誰よりも正々堂々と戦う。保育所のだれもが、保育士たちも含めて、彼が防人になると思っていた。

 当時の保育所には、実は栄誉というか皆の憧れることが、最強であること以外にも1つあったんだ。それが防人に選ばれることだった。器様の誕生は予言されていた。器様を守り抜くという仕事は、村の最重要任務でね。全てが最上に限りなく近い戦士にしか、その任務は託されないと、誰もが信じていた。

 で、ここが噛月の気持ちいい所なんだけど、彼は、謙遜とかいう卑屈に(おちい)らないで、ひたむきに防人を目指していた。その為には、因果の暴走を制御しないといけなかったんだけどね。苦労していたなあ。なんせ彼は、戌憑いぬつきっていう、狼男だったからね。月に一度夜空に満月が来てさ、不幸なことに雲で隠れてなかったら、次の朝には、必ず一人は噛み殺されているんだ。そして噛月は布団から出てこない。部屋からは、奥歯を食いしばるみたいな男泣きが、漏れるんだよね。噛月も随分まいってたんだと思う。だってさ、防人になりたくても、どんなに最上の戦士でも、満月の度にヒトを襲うようじゃ、無理だからね。保育所ならともかく器様が暮らすのは世界史的な文明社会だから、狼男なんか、下手したら器様ごと、駆除されてしまう。

 僕は、彼とは何故か親しかったもんだから、そういう朝には気を使って、前もって文明社会から取り寄せておいたドッグフードの缶詰の中身を皿に盛って、彼の部屋に運んだ。

ノックをすると、くまの酷い顔で出てくるから、彼を見上げながらね、できるだけ軽く、

『大変だね』

 と言うと

『こんな僕ですまない』

 て涙で真っ赤な眼を、さらに真っ赤にされるんだよね。

 その真っ赤加減を見る度に、本当に大変そうだなあ、と思ってたんだ。思いっきり他人事でね。

 だって、その頃の僕は、防人になろうなんて蜜蜂の針先ほども思ってなかったからさ」

 わたしは、体の重心が腰を落ち着けた椅子から勢いよくずれそうになるのを、肘に力をいれてこらえながら、早羅さんの話に集中を続けた。


「僕は集落の景色を愛していた。

 脈打つみたいに細長く連なる山々の隙間に、たまたま出来た泡みたいな小さな土地に過ぎない里だけれど、その美しさにとても大きな価値を認めていた。

 この里は大まかに東西南北の4つの山に囲まれている。名前も方向にちなんでつけられている。東なら東山とかね。僕が特に気に入っていた場所は、この東山のいただきでね。この山は四つの山の中では一番高いから、ここは里では一番空に近い場所で、岩場になっている。てっぺんのすぐそばには、鏡餅に乗った蜜柑みかんみたいな姿の小岩がある。

 この小岩に座ると里全体がくっきりと見える。南西の公民館や、図書館、体育館の一帯から道が、一本北に伸びて古民家たちに脇を固められながら、この山の中腹から湧き出た泉を源とする川と出会う。川は、東から西に流れて、里を2つに分けて、夕陽を探すように、また西山をはじめとする山々に吸い込まれていく。蛇の腹をまたぐみたいに道は橋になり、その先に広がる蕎麦畑を光線みたいに綺麗に半分に分かつ。畑は、季節によって、緑や淡い白に変わる。波が湖を渡るように風が畑を渡る。北山の(すそ)に至る手前で、道は東にうなだれる。その先に保育所がある。

頂きから眺めたあそこはとても人工的で、図体だけやたらと大きくて、なんというか醜悪でね。巨大化してしまった白いダニが大地にへばりついているような異物感を、僕は嫌悪していた。

地平線に向かって波打つ山々も、無人の家々もとても美しいのに、どうして保育所だけが、こんなに醜悪なのか。僕は毎日頂きに登って、里の全体を眺め続ける。四季に変化する世界には彩りがある。僕はその美に、幸福と価値を認める。けれど視線は保育所に集約される。吹き出物が気になるみたいにね。そして不快を感じる。そんな僕に向かって、風は、蒼空の果てから、山々の頂きを越えて吹き付けてくる。その声は、天候による強弱はあっても、いつも同じことを問いかけてくるんだ。

『どうして、お前は保育所(あれ)を醜いと思うんだ? 』

てね。僕は分からない。だから考え続ける。何年も何年も、幼い頃から、僕はそんなことに思考を没頭させながら、東山に登り続けた。

 ある冬の日、ふとした弾みで、答えが出たんだ。

 僕はいつもどおり、小岩(みかん)の上に座って、寒いから、毛布に穴を開けて作ったポンチョを何枚もはおって、マフラーを顔にぐるぐる巻いて狂濡奇(くぬき)みたいになって、膝を抱えて、雪に白く覆われた里を渡る風を、見るともなしに見ていた。畑は、純白の雪原になっていてね、ケーキに塗りたくられた生クリームみたいな緩い丘がいくつもできて、そこを粉雪が渡るんだ。風は西から来るから、僕の頬も切ってきて、僕ができるのは、白い蒸気(いき)を吐きながら、ミイラみたいに巻いたマフラーの隙間から、眼を細めることくらいだった。

 文明社会ではクリスマスソングが流れていた頃だったけれど、僕の耳の奥には、違う歌がループしていた。それは欧米のカリスマな歌手の、随分とセンチメンタルな歌でね。当時は、東南アジアで戦争が続いていてね。アメリカが長いこと戦ってたんだけれど、絵に描いたような泥沼でさ。その歌の旋律や歌詞には、『戦争なんかもう嫌だ! 平和な世界を想像してみよう。そっちの方がいいよね』というメッセージが溢れていた。僕は、いい大人が何を甘えた事を言ってるんだと、初めてその歌を聴いた時は、呆れたんだ。だって戦争だろう? 殺しの中でも一番楽な部類だ。戦争はさ、国家の運命を背負った集団戦で、武力を使った国家間の争いに過ぎない。国家という(おおき)な物の末端として、殺し殺される。殺しというのはさ、動機というか、屋台骨がしっかりしているほど、ちゃんとできるし、後腐れもないんだよね。ご近所さんとか、家族同士で殺しあうのとは訳が違う。そう、幼い僕らが保育所(あそこ)で日常的にしてる殺人の方が、成熟した大人たちが東南アジアの密林でわめき合いながらする殺人より、重いんだ。なのにアメリカの大人たちは、平和な世界とかいう、甘ったるい事を考えて、歌にまでして、挙句の果てに、保育所の僕まで届き、結局僕は思い知らされた。

 …世界は甘さに溢れている。保育所は、子供たちの血に溢れている。この二つの事実は矛盾しない。何故なら、保育所は、世界から切り離されているからだ。この世界というくくりは、ヒト以外の世界も含む。哺乳類の子供たちは殺しあわない。蟲なら殺しあう。つまり、村の施設である保育所で、教育システム的に、僕らは蟲と同じ部類になっている。哺乳類なのに、蟲だ。

 …その不自然に、僕は醜さを覚えるんだ。

 僕は、風に向かって、甘ったるい歌を口ずさんでみた。旋律は大気の怒涛に、かき消された。それはかき消されながら、かき消されるという形をとって、世界に溶けた。世界と、甘ったるい旋律は、どうやら友達らしい、と思ってしまうくらい、僕はひねくれた子供だった。

 そもそもこんな事は、強い子なら考えないのさ。僕はただの座敷童だからね。狂濡奇みたいな魔眼もないし、噛月みたいに全方位的に卓越している訳じゃない。特性と言えば、鏡に映らないくらい、影が薄いこと。弱いヒトには、僕は見えないけれど、保育所の子たちは強いから、見える。だから僕は因果の衝動に駆られて誰かを襲うという事がなかったし、襲われてもすぐに逃げ出した。挑発にも乗らない。殺気を感じた時点で、窓から飛び降りて、山に逃げる。ついでに登山したり、猿と遊んだりする。

 そんな事を続けているうちに、誰からも相手にされなくなった。あ、噛月と狂濡奇は別だよ。

 影が薄いことしか取り柄の無い、臆病の弱虫と蔑まれる僕と、どこが気があったのかは、謎だけどさ。お互い全然違うから、友達になれたのかもしれないね」

 早羅さんの話は続く。


「保育所の教育システムは、人間愛とかいう幸福な理想主義とはかけ離れていたけれど、質は高かったと思う。昼は自由選択制の講義が行われていた。暗殺術から、失敗しない料理教室から、線形代数みたいな高等数学まで、内容は幅広かった。

 僕はやる気の欠落した生徒だったから、保育所の不自然さを悟るまでは、授業なんて全く出なかったんだけどね。蟲壷にいる事を自覚したとき、『何故僕らは蟲なのか? 』という疑問が生まれて、その答えはさすがに小岩(みかん)の上では出ないから、民俗学の講義には出席するようになった。

 蟲には蟲である理由がある。村という共同体を成すのは、村人だ。では、村人はどのように生まれて、ヒトと別れて、村を作ったのか? この組織の起源は謎だけど、類例から推察はできる、と僕は思った。

 ちなみにこの講義は当時、恐ろしく人気が無くてね。みんな、すぐそこにある死を回避するべく、近接戦闘術とかに夢中でね。保育所を出た後に目を向けていた子たちも、キャリアのために、簿記とか、建築工学とか、大学的な教養を選んでいた。こんな風だから、この講義に出席していたのは、うん、そのとおり。僕と、噛月と、狂濡奇(くぬき)だけだった。まあ、出席の理由もそれぞれ違ったけどね。噛月はこの講義に限らず、保育所の知識の全てを網羅するつもりで、実際にしていた。狂濡奇は単純に人が多い場所が嫌いだったから、人気の無いこれを選んだ。もう一つ理由があったけれど、それに気づくのは後の話だ。僕は、長々と話したとおり、疑問の解明のためだった。

 講義は、疑問の解決にはならなかったけれど、中々興味深かったよ。神話の偉大な存在たちが、どのように暴れ、どのように倒されたのか。何に卓越して何に溺れたのか、から始まって、世界中の妖怪たちの分類。弱点の共通点。これは実際的な知識だと思った。例えば、狂濡奇は十字架とニンニクが苦手だ。戦闘でかざせば、一瞬の撹乱(かくらん)はできる。その間に逃げればいい。

 僕のやる気のない所は、優位に立てる情報に触れ続けていたのに、戦闘で使おうとは思わなかったことだ。逃げることしか頭になかった。

 講義に出続けて良かったことは、友人が増えたことだ。噛月とは部屋が近かったから、以前から親しかったけれど、狂濡奇とはそれまで接点が無くてね。これにでるようになってから、自然と言葉を交わすようになった。まあ、話しかけるのは、主に僕だったけどね。

 あ、そうそう。彼女が民俗学を取っていたもう一つの理由。これが分かったのは、出始めてから二ヶ月くらい、かな。

 その日の講義の前に、僕は食堂からバナナをくすねてきた。山の猿にあげようと思って、机の中にしまっておいて、講義が終わると綺麗に忘れてしまっていた。山に行く途中で思い出して、講堂に戻ったら、狂濡奇が床に這いつくばっていた。僕は驚いたけれど、驚くのも失礼かなと思って、できるだけ平静を装って声を出した。

『どうしたんだい? 』てね。

 彼女は包帯でぐるぐる巻きな顔面をあげて、答えた。

『ヘアピンを落とし…』

 彼女が言い終わる前に、僕は講壇横に落ちているヘアピンをつまみあげた。

『…たの』

 彼女は言い終わった。

 僕は座敷童だからね、累計滞在時間が24時間を越えた場所は、何がどこでどうなっているのか、完璧に把握できる。ヘアピン一本見つけることなんて、たやす過ぎて退屈なくらいだ。

 けれど、僕は彼女に、自慢げに、指先のヘアピンをちょっとゆらゆらさせて、言った。

『よく見れば可愛らしいね、これ』

 見つけたという親切に、ヘアピンの価値を認めることで共感も重ねたかった。まあ、実際可愛らしいヘアピンだったからね。黒のピンに、目をこらさないと分からない、桜色の花柄模様が散りばめられていた。夜桜みたいにね。

 僕は彼女に歩いて、ピンを差し出した。

『ありがとう』

 と彼女が言って、それを受け取ろうとしたとき、頭部の包帯が下にずれてね。老婆な彼女の頬。何年間も砂漠の陽で干し上げたような、水分の代わりに無数の皺が走った頬を、見てしまった。僕のポケットには、ニンニクも十字架も無かった。

だから僕は、ああ僕は死んだ、と思ったんだ。だって、彼女は同輩たちを殺さないために包帯で顔を隠していたからさ。顔を見たものは、魔眼で殺すに決まってる。でも、本気の瞳を見れるのは嬉しかった。だって、砂漠の陽のような白い輝きとか、絶対美しいだろう? 僕は美しいものに、心惹かれる。

『わたしは醜い? 』

 彼女はいきなり訊いてきた。

『23年後は美しくなると思う。狂濡奇さんは顔立ちが良いから』

 僕は、こう答えてから、さあ来い恍惚の魔眼、と胸の奥で叫んだんだけれど、彼女はうつむいて、包帯を巻きなおしただけだった。

『嘘を感じたら殺してたのに。早羅君って性格良過ぎ』

 と言ってくれたから、僕は、

『褒めてくれて、ありがとう』

 と返したんだ。彼女は、どういたしましても言わずに、講堂の出口に向かって、それから手前で振り返った。

『ヘアピン、見つけてくれて本当にありがとう。噛月君がくれた物だから、どうしても見つけたかったの』

 呆気(あっけ)に取られる僕をおいて、彼女はさっさとドアの向こうに消えてしまった。そして僕は、いくつもの間を置いてから、えーっ! とか、あー! とかを叫んだ。それから山に向かおうとして、バナナを取りにきた事を思い出した。

 狂濡奇はね、顔面を見た僕を見逃してくれただけじゃなく、秘密も教えてくれたんだ。彼女がこの講義を取る理由は、噛月への恋心だった。噛月も噛月で、彼女に花柄のヘアピンなんかを贈っていた。彼は硬派だから、軽々しく女の子に贈り物とかする奴じゃない。ということは、彼にとっても、彼女は特別ということだ。

 つまり二人は両想いだった。

 僕は、山の澄み切った森特有の匂いの中で、意外な事実に一通りくらくらしてから、友達の猿に、

『でも微笑ましいカップルだよなあ』

 と言った。

 実際お似合いだったからね。二人は保育所最強だったし、噛月は人格者だし、狂濡奇は僕を見逃してくれるくらい、優しい。

 僕は、神父の資格があるなら、いやむしろ神父の資格を取って、二人に永遠の愛を誓わせてあげたい、と思ったんだ。

 …まあ、実際は、僕は彼らのために、何もできなかった。

 それから何年も後に、噛月は殺された。殺したのは、僕、だ」

 早羅さんは、そこで一旦言葉を切って、痛める心にその眉を歪め、長いまつげを伏せた。

 ランプの炎が揺らめいた。天井の北極星から注ぐ光は、相変わらず、彼を銀色に祝福している。

 彼は瞼を開いて、独白を再開した。


「まあ、殺したといっても、潰し合って、結果として僕が競り勝っただけなんだけどね。

 僕が噛月に勝てたのは、…そうだなあ、(かなめ)と言える原因(もと)は大きく二つある。

 一つは、友達に猿がいたこと。


 僕の少年時代は山にいることが多かったから、自然と猿の群れとも顔見知るようになったんだ。けれど、村人は、生き物としてそこら辺の獣より全然強いし、彼らは敏感だから、基本的に恐れられる。まあ、因果として、動物を扱える人もいるけどね。後で話すんだけど、境間(さかいま)君とかは、そういう人だ。ということで、山に入り浸っても、遠目から眺められるだけでね、一定の距離という溝は絶対に埋まらないものだと思っていたんだけどさ。

 ある日、あれは夏だったんだけど、いつもの通り山に入ったんだ。当たり前だけど、山というのはいくつかの凹凸がうねりを作りながら頂上に向かっている。雨水が大地を削るのが山だからね。東山にも、そういう、うねりというか谷と言えるものがあって、その一つを歩いてたんだ。

 猿を見かけた。

 葉むらを透かす陽の下、磁気嵐みたいな音に合わせて黒い布を長い手足で振り回して、踊っているように見えた。けどすぐに、蜂の群れに襲われているのが分かった。磁気嵐は羽ばたきで、黒い布が蜂の群れでね。うっかり巣に手を出してしまったんだろう。

 僕はお腹がすいていたから、猿の所まで木々の間を弾むように駆けて行ってね、落ちていた枝を取って、群れをの蜂を全部叩き落とした。蜂は針さえ除けば、普通に食べれるんだよ。落とした蜂を包みにくるんで、保育所に持って帰って揚げ物にしよう、噛月にもあげよう、と思ったら視線を感じた。

 猿だった。

 普通は逃げるんだけどね。話したとおり、猿にとっては、村人は怖いから。けど彼は逃げなかった。僕はちょっと面白く思って、包みの蜂を一掴みあげた。彼は受け取って、僕たちは友達になった。

 友達に名前が無いのも不便だからね、僕は彼のことを、猿太郎さん、と呼ぶことにした。

 彼はちょっと間抜けだけど穏やかな雄の日本猿でね。外見は、猿そのまんまの赤ら顔にどんぐりみたいな形の深い色をした瞳がうまってて、顔全体がエスキモーのコートみたいに逆立った白っぽい毛に覆われていて、喧嘩で負けたんだろうな、左の小指の先が欠けていた。けれど、梢の上を飛び回るのに不都合は無かったし、逆に、僕に樹の上の世界の移動法を教えてくれたした。

 お返しに僕は、猿太郎さんに保育所のバナナとか食料をあげたり、相変わらず蜂に襲われている所を助けてあげたり、毛をつくろってあげたり、一緒に川湯に入ったりした。まあ、毛にくっつくと離れない特殊なトゲトゲだらけの蔓の群生に叩き落したりとか、悪戯もしたんだけどね。あれはしゃれにならなかった。猿太郎さんはめちゃくちゃ怒ったけれど、次の日にバナナを持っていったら許してくれた。

 彼は日本猿の社会で、ちょっと馴染めない感じだったのかもな。僕も、弱虫の臆病者と、保育所の大多数には軽蔑されていたから、似た者同士だったのかもしれない。夏も冬も、彼と楽しく山林を巡っていたらね、とても爽快で、このままもう猿として生きていっても良いかな、とか思ったりた。


 でも僕には噛月がいた。狂濡奇も。

 だから猿にはなれなかった。特に噛月は、防人になろうと、彼の力を懸命にふるって戦っていたからね。友人として見届けたいと思っていた。

 彼の戦いには二つの方向があった。

 一つは保育所の競合者(ライバル)達との激しい戦い。もう一つは、内なる因果(おおかみ)相手の、死にもぐるいの戦い。どちらも大変そうだったけれど、特に因果(おおかみ)相手は、彼には本能と言うか別人格との戦いだったからね。僕は、幸いなことに、14歳になるまで、どちらの彼とも、戦うことがなかった。


 …友人だったからね。噛月とは。つまりこれが、僕が彼を(ほふ)れた二番目の理由さ。僕は彼の戦い方をずっと見てきた。そして、僕は僕の戦い方を誰にも見せなかった。そもそも戦おうとすらしてなかったのは、話したとおりだ。


 一度、噛月に訊かれたことがあるんだ。

『君は僕と戦いたくないのか? 』てね。


 その質問をされた夜は半月でね。

 彼が狼男になる危険は無かったから、僕は完全にくつろいでいた。

 僕は、部屋で寝ていたんだけれど、お腹が空いて目が覚めたから、食堂から何かくすねようと思ってね。寝ぼけながら部屋から出て、通路に出て、角を曲がろうとしたら、噛月が戦闘をしてたんだ。相手は、苛麟(かりん)と言って、とても脚の速い女の子だった。

 戦闘はまだ始まったばかりで、(にら)み合い状態だったんだけどね、すぐに苛麟が移動を始めた。彼女の脚はとても強いから、分子の自由運動みたいに、通路の天井やら床やら窓枠やらを、恐ろしい速さで踏み抜きながら飛び回ってね。窓が幾つも揺れて、しまいには、次々に粉々に割れていった。もう速すぎて、僕には見えない。噛月の姿も見えない。彼は優しいから、彼女に合わせてあげていた。つまり、速さに速さを重ねて戦っていた。

 僕は一度あくびをしてから、角に戻って、ガラスの飛んでこない場所を確保してから、通路に座り込んで、膝を抱きながら、うつらうつらを始めたんだ。

 で、熟睡の手前で起こされた。噛月にね。

『何をしてるんだい? 』

 と訊かれたから、僕は彼を見上げて、君の戦闘が終わるのを待っていたんだ、食堂に行きたいから、と答えた。彼は不思議な顔をした。

『ここは近すぎるだろう。戦闘に巻き込まれたらどうしたんだい? 』

 僕は、僕は座敷童だからね、どこが危ないかくらいは、分かるさ、と答えた。顔は自慢気だったんだろうな。 その自慢気が鼻についたからかな、

 『君は僕と戦いたくないのか? 』と訊かれた。

 僕は、絶対嫌だ、と答えた。すると彼は、とても不思議な顔をして、言ったんだ。

『実を言うとね、僕を倒すのは君だと思うんだ』

 僕は猿太郎さんがよく取っている4足歩行のポーズをして、彼に尻を向けた。

『君を屠るくらいなら、僕は今すぐ猿になるよ』

 噛月は、困ったみたいに笑ってから、指をなめた。

 指というか、手指全体には、鮮血が赤くきらめいていた。不完全な月が、ワインをすくった後みたいに滑らかにきらめくその液体と、それも含めた彼の全体を、照らしていた。

 この会話の後で、彼は苛麟の遺体を、彼女は彼に心臓を()かれていたんだけどね、抱え上げて、保育士たちのもとに運んでいった。埋葬のためにね。保育所で死んだ子供たちは共同墓地に埋葬されるから。で、僕はというと、その後ろ姿を眺めてから、もう一度あくびをして、食堂に向かった。後で噛月にも何か届けてやろうと思ったりした。

 こんな感じで、僕は、折に触れては、噛月に戦いたくないと告げていたし、保育所でも、戦う価値すらない弱虫との評判を全力で保っていたからね。14歳の秋に、彼に戦闘を予告された時は、とてもがっかりした。

 彼は、半月の真夜中に、僕の部屋を訪ねてきて、堂々と、こう言ったんだ。

『次の満月に、僕は君を襲うだろう』

 穏やかだけど力強い眉毛の上で切りそろえられた前髪には、闇の中でも清潔感があって、僕は、彼の変わらなさをちょっと意外に思いながら、すかさずこう言った。

『嫌だよ。君が戦いたくても僕は逃げる』

『僕は追うよ。そして君と戦う』

 彼もすかさずそう言った。

 しばらくの沈黙があった。付き合いたての恋人たちのする喧嘩みたいな気まずさだった。

 沈黙を破ったのは彼だった。

『僕の中の狼が、もう君を襲うのを我慢できないんだ。ずっと我慢してきたんだ。君は友達だからね。だけど、狼は君を襲いたい。だから僕は説得してきた。早羅君の他にも、強い子はいる。そちらを先に噛み裂いてから、彼を襲おう、てね。

 …ずっと、そうやってしのいできた。けれど、強い子は全員潰してしまった。もう、強く見える子しか残っていない。境間君は強くなるだろうけれど、まだ屠るには弱い。君しか残っていないんだ』

『噛月』

『なんだい?』

『僕たちの友情はどこにいったんだ。そんな犬みたいな考え方で、防人になるつもりか』

 彼は輪郭のくっきりとしたまつ毛を落として、ため息をついた。ため息なんか、彼らしくなかった。

『次の満月に、僕は君を屠る。狼の奴は嬉しいだろう。けれど、僕は最悪だ。長年の友を、屠るのだから。その気持ちが、防人になるのに必要なんだと思う。つまり、君の死という後悔は、もっとも強い戒めになるだろう。僕はこの後悔で、今度こそ、狼に首輪をつけることができる』

『つまり僕は、君が防人になるための、犠牲の羊なんだね』

 噛月は伏せていた瞼を開いて、真っ直ぐに僕を見た。強い意志を感じた。

『羊よりは自由だ。君は僕を倒せるかもしれない。むしろ倒してほしいくらいだ。そうすれば、僕は友を殺さずに済む』

 僕は肩をすくめた。すくめるしかなかった。

 だって、そんな事を言われても、とても困る。僕は友達を殺したくないし、殺されたくない。そもそも噛月は、ただでさえ強すぎるのに、狼男だから、満月では、全ての身体能力が3倍以上に跳ね上がる。火事場の馬鹿力を催すアドレナリンとか、そういう脳内物質が、無制限解放状態だからね。勝ち目なんて、全く無い。なのに彼は本気で、僕がひょっとしたら彼を返り討ちするかもしれない、と思っている。

 僕は首を横に振ろうとしたんだけど、それを止めるように、大きく握った(こぶし)を差し出された。

 視線が自然に集中した。

 彼は拳を開いた。

 まるで大地のような手のひらの上で、月光を精錬したような十字架が、闇の中でうっすらと輝いていた。

 僕は彼を見上げた。

『これは? 』

『銀のロザリオだよ。狂濡奇がね、ふざけて、ずっと前にくれたんだ。ロザリオをかざして挑んできた馬鹿がいたから、潰して奪ったってね。これは銀だから、僕も殺せる』

『…欲しくない』

『君は受け取る。そして、次の満月に、僕と戦う』

 彼が差し出したロザリオは、猫が鼠をいたぶるみたいな、強者の余裕ではなかった。屠られる覚悟を銀に込めた、戦いの誓いだった。そこに偽りはない。だからこそ、僕は結局このロザリオを受け取った。

 時間というのは、意味に重みがあるほど速く過ぎるもので。

 噛月と戦う準備、精一杯のあがきを色々しているうちに、つまりあっという間に、満月の夜を迎えた」

 わたしは唾を飲み込んだ。早羅さんの独白は続く。


「その日は、暦の上では、十五夜だった。

 文明社会ではお団子を食べる夜で、日本の至る所の人々が、月を見上げながら物思いにふけったり、中秋の風情に幸福を感じていたはずだったから、雲ひとつない完全な月の予感をこんなに恨めしく思っていたのは、僕くらいだったろう。

 僕は陽が完全に沈む前に、保育所の遊具場のそばの桜の樹のたもとに来て、節の太い根の筋の隙間に尻をつけて、膝をゆるく抱きながら、噛月を待った。

 僕が背を預ける桜の後ろには、塀が、細胞の内と外を隔てる膜のように、施設を囲うために伸びていて、膜の外では、東山の(すそ)である、林が紅葉に色めきだっていた。それらは薪をくべられた炉の中の炎のようにも見えたし、山脈の向こうを進行しながら夕の陽に焼かれる、とてつもなく大きな山椒魚(さんしょううお)のような、雲の腹のように見えた。

 彼らは沈黙していた。そよぎに囁くことすらなかった。つまり、雲を呼ぶ風はなかった。空は皮肉なほどに高く澄み切った青から、夕の陽を淡く受けて群青に、群青から紺に、最終的に濃紺になっていって。そのグラデーションな変化と共に、世界は色彩を失っていき、塀の内側の施設の不恰好に高い屋上部分の輪郭が黒く際立って、その向こうにそびえる東山の(いただき)も、やはり黒く夜空を()いていた。

 僕は、その変化に、世界が、世界ごと、海の底に沈んでいくような錯覚を覚えた。それは、世界にとどまらず、世界が内に包む記憶ごと、つまり僕と噛月と狂濡奇の友情の日々ごと、水の底に沈めて光を届かなくさせられるような、そんな希望という希望を絶つ、静かだけれど避け得ない変化だった。

 僕はその感覚が嫌で、早く噛月が来て欲しいと思った。

 僕には、この期に及んでもなお、期待があったんだ。つまり、彼との戦いを、勝つとか負けるとかではない状況になんとかもっていって、彼に僕を(ほふ)ることを諦めてもらう、という期待がね。それはもちろん分の悪すぎる賭けではあったけれど、価値はあったし、だからこそ僕は全力を尽くすつもりだった。

 何事にかけてもやる気というものが無い僕が、本気で全力で彼と戦って、勝敗を全力で有耶無耶(うやむや)にしようと思った。それが僕の希望だった。とても、か細い、糸のようなものだったけれどね。

 糸にすがる僕を冷ややかに笑うように、東山の頂に君臨する月は、その存在を増し始めた。その臨在は夜空の濃紺を必要としていたけれど、その紺の濃さが完全に至る前に、施設から噛月が歩いてきた。

 ほのかに白い何かが、暗澹(あんたん)に染まった保育所に浮かんだと思った。宵の明星が地上に灯ったような錯覚を僕は受けて、すぐにそれが、彼だと分かった。

 彼は、闇の海底と化した敷地を、堂々と揺るぐことなく真っ直ぐに突っ切って歩いてきて、僕の前に立った。

 着衣は水泳用の黒のブリーフくらいで、靴も履いてなかった。

 当たり前だよね。狼になったら、裸足の方が速いのだから。服も、筋肉の膨張で、どうせ弾けて消える。彼がそのいでたちで来たのは、とても合理的な選択だし、だからこそ、合理を尽くすという、覚悟を感じた。手加減も容赦もない全力で、堂々と僕を噛み裂くという気合が、彼の全身にみなぎっているのが分かったけれど、僕がしたことはというと、相変わらず桜の根元に尻を埋めたまま、ゆるく膝を抱いたままで、彼を見上げたくらいだった。

『やあ』

 と僕は、できるだけ何でもない風に、言った。

 噛月は挨拶を返す代わりに、僕を含む桜と塀周辺を見回して、言った。

『施設じゃないんだね。君は座敷童だから、施設の方が戦いやすいと思ったのに』

 その穏やかだけれど力強い声は、いつもの噛月のものだった。

 僕が見上げる彼の(すね)は僕の太ももくらいあって、彼の太ももは僕の胴体よりも太かった。溶岩の塊でも埋め込んだみたいな凹凸が集まった腹も、もちろんその上の厚い扉のような胸板にも、無駄な肉は一切なくて、滑らかな肌に太い血の筋が無数に走る彼の肉体には、威厳というか神聖さすら感じた。宵に深まりつつある闇をまといながら、うっすらと光を(たた)える肉体を仰いでいると、巨大な月桂樹でも礼拝しているような気分になった。

『僕には僕の戦い方があるのさ』

 と言いながら僕はゆっくり立ち上がり、後ろ手で尻をはたいて、土を落とすふりをする。その一挙手一投足に、獲物を見定めるような視線を注いでいた噛月の虹彩は。宵の闇の中で。完全な月の下で。

 金色に変わった。

 血色の良かったその頬も、爽やかに切りそろえられた黒髪も、その下の太く穏やかな眉も、、整った高い鼻の輪郭も、微笑みを浮かべつつも強い意志がみなぎる口元すらもそのままで、まず、彼の瞳の虹彩だけが、地平から上がった月のような血の鮮やかさをはらんだ、金色に変わった。

 その瞳には、とても忘れ去られたどこかから、誰かが目覚めていくような、そんな輝きがあって。彼の瞳孔が収縮していくにつれて、その輝きは増し、光を(たた)えていた彼の全身は闇に沈んだ。

 そう、それはとても大きな闇、そのものだった。肉体ではなく闇があって、その向こうに金色(こんじき)があって、僕を見定めて。

 そして、それは現われた。

 猿太郎さんよりも長い銀灰色の毛が、噛月の3倍以上に膨らんだ図体の全てを覆っていた。僕は象の絵を思い出した。象を二足歩行にして、腹や顎を覆う脂肪を全部筋肉に()えて、代わりに雪男みたいな長い毛で覆ったらこんな感じになるんじゃないかなという、いでたちだったけれど、金色の瞳は、そのままで、むしろその宿す狂気の渦は、臨界に限りなく近づいているのが分かった。

『さぁわああるぁああ』

 血の臭さを含んだ蒸気が僕の額にかかって、それが狼の吐いた息だと分かった。

 不謹慎というか、やっぱりというか、その息は、下品ですまないけれど、男の肉体に溺れる女が漏らす、官能の吐息のような響きを、はらんでいた。

 僕は返事をする代わりに、眉をしかめた。不快だったからだ。本当にいい迷惑の全てが、この狼のせいだからだ。狼はそんな僕などおかまいなしに、そのせり出した犬みたいな鼻を、僕の頬に接近させながら、こう訊いてきた。

『まっていたずぅえええええ。てめぇもだろおおおぉぉぉぉ? 』

 僕は答える代わりに、それの無防備な鼻に、胡椒を瓶ごとぶちまけた。

 尻のポケットに入れておいて、立ち上がる時に蓋を外したんだ。

 狼はのけぞった。

 僕は斜め後方に飛び退(すさ)った。

 僕のいた空間を、狼のかぎ爪が弧を描いて、桜の樹の梢をかすめて、それはかすめただけなのに、3分の1が、一瞬で円く(えぐ)れた。

 塀を背面高飛びみたいに越えながら、視界に入る桜の惨状に心を痛めつつ、僕は、やっぱり、と思った。狼は、やっぱり、噛月とは正反対なんだ。つまり、噛月は、礼儀正しく、慎み深く、慎重で、頭がいい。狼は逆で、凶暴で、自制がきかなく、向こう見ずで、行き当たりばったりで、馬鹿だ。これは僕が思っていた通りだ。基本的に、物語で怪物を倒すのは、人の知恵だ。知恵ある怪物に人は勝てないけれど、この狼には知恵がない。

 …なんとかなるかな、と思ってすぐ、僕はまた、やっぱり、と思った。

 狼は、塀を粉々に砕いて追ってきった。

 僕が(あらかじめ思い描いていたのは、塀を乗り越えてくることだった。乗り越えるには、飛びあがる、手をかける、着地する、の3動作が付いてくるものだけれど、狼は、砕くという1動作で塀を突破してしまった。

 やっぱり、噛月は、狼になってもなお、僕の予想を超えるんだなあ、としみじみ思った。

 まあ、それが塀を粉砕したのは、くしゃみが一頻(ひとしき)り終わった後だったから、僕はというと、すでに東山に逃げ込んでいたんだけどね。

 もちろん、噛月の予告のとおり、狼は追ってくる。僕はひたすら逃げる。

 さっきも話したけど、僕は座敷童だから、累積滞在時間が24時間を越えた場所では、何がどうなってるのか、自分の身体以上に、把握できる。山の斜面に脈づく樹の根が、どう梢につたい枝を拡げ、紅葉の枝を別の樹と交わすのか。交わされた紅葉の枝は、どうその軌跡をしなげて梢に一旦収束して、次の樹と交わっていくのか。その環のような連なりを、僕は、手に取るように、というより、手や足の一部のように分かっていた。ちょうど、木材その他の素材の塊に過ぎないヴァイオリンを、音楽家が指先の延長のように感じるみたいにね。

 僕は紅葉の作る月光の影を、ひたすら駆ける。木々の隙間や梢の上、最短距離を飛ぶように進む。いや、違うな。梢が、枝が、月光に紅くすける葉むらが、後方に飛び去っていくんだ。月光は方向をおのずから開き、僕は合わせるように、枝に手をかけ、身をくねり、のけぞり、脚に力を込めて解放する。そこには無駄も迷いもない。ずっと親しんできた山だからね。その夜の僕は最速だった。

 一方、僕を追う狼は、最短だった。彼は最速の僕よりも、速さ自体は慣れない山の斜面ということもあって、遅かったけれど、一直線なんだ。つまり、塀を粉砕したみたいに、立ちふさがる木々の全てを粉砕して、僕を追っていた。

 それにとっては、樹も、岩も細かな凹凸も関係ない。僕が仕掛けておいた罠、蜂の群れも、踏み入ると(せき)が外れる濁流も、脇をえぐるはずの丸太の先も、全く関係ない。山を逆に上がる土石流のような勢いで、山という世界を構成する全てを粉々にしながら、怒涛となって僕を追ってくる。

 僕は、それが罠を踏む度に、噛月なら踏まないのに、やっぱり狼は噛月より弱いな、と思ったけど。噛月と狼の差というのは、アフリカ象とインド象の差みたいなもので、蟻にとっては、どちらも致命的なんだよね。

 狼は、どの罠にも漏れなく引っかかる。けれど、ほんのわずかしか、止まらない。それは僕の予想とは違った。もう少しくらいは止まってくれるとふんでいたんだけどさ。

 さすがは噛月だ、と思いながら、僕は紅葉の影を、枝枝の隙間を飛び続けた。止まりはしない。けれど、予定が違ってきた。狼と僕の距離は開いている。けれど、開き方が足りない。このままでは最後の罠に至る前に、追いつかれる。それは将棋みたいなものだ。それでも僕は、逃げるしかない。

 山が崩れるような音が後ろから(とどろ)いて、背中の皮膚の産毛が小刻みに震えるのを感じながら、僕はひたすら最速の維持に努めていた。

 そして、月光のせいで影絵のようになった視界の端にね。

 猿太郎さんを見つけたんだ。

 

 そこは丁度、山頂に向かう登りと、谷の上をなぞるくだりの分岐だった。

 僕の脳の内側で、全ての地形と、迫り来る狼、降り止まない銀の月光、猿太郎さんの存在が、目まぐるしくごちゃまぜになった。それから、僕は猿太郎さんに怒りを覚えた。狼の突進、山を(えぐ)りながら駆け上がるその轟音、暴虐とも言える狂暴に、山の動物たちは全て、鳥も鼠も猪も狐も、みんな逃げ去ったはずなのに、友達である彼だけが、この分かれ目に、間抜けな顔でここにいる。間抜けだとは知っていたけれど、ここまでだとは。

 でもその怒りは、八つ当たりだったんだ。それは、狼に追い詰められつつある焦り、とかじゃなくて。蟲壷の中での共食いを(さげす)んできた僕自身の、偽善に。

 …僕の中に、一つの案が産まれた。その案が産まれる、というのは、僕が、村人であるという証拠だ。でも、僕はこの案を本当にするくらいなら、狼に裂かれた方がましだと思った。これは最悪の最悪だ、とも。でも、その時。噛月と並んで歩く、狂濡奇の後姿がね。浮かんだんだ。

 黄昏に輝いていて、二人の愛とか幸福とかを、饒舌に語っていた。豊饒と言ってもいい。噛月は、噛月だからこそ、狂濡奇の隣が似合っていた。その噛月は、狼に負けて、僕を殺した悔いを糧にするような、弱虫では駄目なんだ。この夜にかかっているのは、満月に沈められた、世界が内に包む記憶だ。つまり僕と噛月と狂濡奇の日々なんだ。

 こんな風に、物事ってのは最悪の最悪に進むようになっている。

 

 僕は、首下にかけたロザリオ以外の服を、全て脱いで、ズボンと下着を丸めて遠くに放ってから、猿太郎さんの所に行って、上着を彼の首に巻きつけて、ちょっとやそこらでは外れないように、しっかりとマフラーみたいに縛った。

 彼はお座りの姿勢で、不思議なものでも見るように、その深い瞳で、僕を見上げていた。

 僕は、ごめんよ、と言ってから、右手のひらを大きく張って、僕自身のみぞおちを力いっぱい叩いた。その衝撃は肉を超えて内臓、この場合は胃だね、に届いて、中が破れるのが、痛みと共に分かった。痛みの波と共に、血液が食道を逆流する。口の中に血が溢れて、喉とか気道を塞いでくる。

 僕はそれが十分な量になるのを待ってから、猿太郎さんの顔に、その全てを吐きかけた。彼の顔は血みどろになって、白っぽかったその毛の一本一本が、ワインでコーティングされたみたいに、月光になまめかしくきらめいた。

 猿太郎さんは、どんぐりのような目を大きく開いた。驚いたんだろう。僕は彼の瞳を見据えて、睨んだ。こめかみには血管が浮いていたと思う。目を見開いて、歯をむき出しにしていたからね。視線には殺気を込めていた。殺気というのは分かりづらいね。

『お前を喰ってやるぞ』

 という語りかけを、視線に込めたと言ったほうがいいかな。

 猿太郎さんの瞳には、困惑が、続いて混乱が、最後に恐怖が浮かんだ。恐怖は彼の全てを浸したんだろう。彼は谷をなぞる下りに向かって逃げ出した。

 僕が幸運だったのは、彼は狼の轟音に向かって逃げるほど、間抜けではなかったということだ。それに、逃げるなら谷の方だと分かっていた。僕らはよくそこで遊んだからね。つまり地形的にも慣れている。

 僕は彼を見届けるように、分岐の坂の木々の空間を、彼と平行に駆け上がり始めた。僕と猿太郎さんの高低は、みるみる開いていく。それは運命の距離とも言えたかもしれない。

 うん。そうだよ。僕は彼を、おとりにしたんだ。身代わりかな。猿太郎さんには、僕の匂いがついた上着と、血がついている。血は狼を惹きつける。苛麟を()いた手を、その血みどろを、噛月が舐めていたのが、その現われだ。僕はズボンも遠くに捨てて、猿太郎さんと並行している。つまり、狼には選択肢が3つある。ズボンに行くか、鮮烈な血の匂いに行くか、一番匂いの薄い僕を追うか。

 まあ、噛月なら、罠だと思うだろうし、立ち止まるだろうけれど。狼だからね。因果の狼は、馬鹿だ。

 それは、谷をなぞる下りの勾配(こうばい)の奥で、猿太郎さんの胴体を右手で捕まえて、大口を開けて、彼の頭部ごと噛み千切った。

 僕はその瞬間を、彼らのはるか上空、空中からつくづくと見守っていた。

 見渡す限り紅葉が暗く燃え広がる、夜の山林を覆う大気が、月光にすかされながら、僕の四肢を駆け抜けていった。

 僕は登りの道から、狼が彼を捕らえた瞬間に夜空に、跳んでいたんだ。

 僕の肉体が登りの崖から描いた放物線は、丁度、狼の頭の毛並みに照準されていたし、僕は体質的に影がないから、月光も影で僕の存在を狼に伝えるということをしなかった。何より、狼は、猿太郎さんの頭部を噛み砕きながら、僕の血の味に酔っていたんだ。

 僕は、咀嚼を楽しむ狼に、上から激突するほんの前の刹那に、宙返りをして、それのこめかみを、思いっきり蹴り飛ばした。

 狼は体勢をぐらつかせたけれど、倒れはしなく、むしろ、よろめきながらも、猿太郎さんの遺体を握った右手ごと、僕に拳を打ち下ろしてきた。

 不完全な姿勢だった。噛月ならそんな体勢はとらない。僕は狼の拳を避けながら、その股をくぐり後方に回った。それの拳は谷をなぞる道、つまりそれの足場を(えぐ)り、足場は崩れ、それの重心はさらに不安定になった。僕はありったけの力で、それの尻を、後ろから蹴った。

 結果、狼は谷底に突き落とされた。そしてその谷底には、話したのを覚えているかな?僕が猿太郎さんを突き落としたことがある、特殊なツタというか(いばら)があるんだ。この茨のトゲはね、毛をからめ取り、粘着して離れない。暴れれば暴れるほど、深く深く食い込む。食い込むトゲに引っ張られて、茨本体も巻きつくものだから、さらにどうしようもない事になる。蝉が蜘蛛の巣にかかるようなものだね。蝉は蜘蛛の糸よりもはるかに強いのに、絡めとられて、自由を奪われ、体力が尽きて、食べられる。

 狼は蝉に似ていた。激しく動き振りほどこうとするその動きが。けれどもちろん、ほどけるわけがない。なんせ、茨は茨で、他の同種と絡み合っている。つまり、谷の茨全体で、狼を絡め取っている構図なわけだ。

 僕は、若干の脱力と共に、それの情けない有様と、それが右手に握った肉塊を眺めてから、それの胸元に向かって跳躍した。

 着地は難なく済んだ。狼の胸元は、ペルシャの絨毯(じゅうたん)みたいにフカフカしていたよ。彼の四肢は、アメリカの映画に出てくる拘束服とか、蛹か繭みたいに茨で巻かれていてね。せり出た口元も、哀れったらしく、やっぱりグルグル巻きで。金色の目だけが血走りながら、僕に殺意を叫んでいた。

『気分はどうだい』

 僕は彼の胸板の上にしゃがみ込みながら、訊いた。返事は無い。当たり前だ。口は開けるわけない。代わりに茨が、狼の顔面に食い込んだ。僕は構わず続けた。

『僕は最悪だよ。君が右手に握っている肉は、僕の友達だった』

 狼の瞳が、残酷にきらめいたので、僕はため息をついた。

『もう、止めないか?

 今なら僕は君を殺せる。けど僕は殺したくない。』

 僕は、首にかけておいたロザリオを、それにかざした。銀の十字架は月光を受けて、淡くきらめいた。妖精でも集っているみたいだった。僕は言葉を続けた。

『君が殺した僕の友達は、僕みたいなもんだ。

 それで満足してくれないか?君は十分に僕を打ちのめした。

 君が満足するなら、僕はいくらでも負けを認める。施設に帰ったら、僕が命乞いをして、惨めで哀れだったから、興をそがれたとか、適当に言えばいいし、僕も口裏を合わせる。

 だから、もう許してくれないかな?こんなのはもう、たくさんなんだ』

 僕は、かろうじて話ができる程度に、それの口元の茨を緩めた。

『わっかったあぁぁぁぁぁぁぁぜえ。さわらはああぁぁぁぁ、さすがはおれのだちだなあ』

 狼の口からでた言葉に、意味は無かった。僕が耳を澄ましていたのは、その響きだった。その中に少しでも、噛月が混ざっていれば、つまり、恥じとか、誇りとか、友情とか、そういうものが混ざっていれば、僕はそれの茨を解いただろう。

 けれど、実際に返ってきた響きは、狡猾を隠し切れない媚びと軽蔑だった。それが開いた口元の奥から、白い毛と砕かれた頭蓋に混じって、眼球がのぞいたのも、僕を打ちのめした。その眼球は猿太郎さんのもので、つい先ほどまでは、深い色をして僕をのぞいていた瞳だったからだ。

 僕はため息をもう一度ついて、目を伏せて、無言でロザリオを握り直した。

『はああああぁぁぁぁぁぁぁl!?

 おれをやるのかぁぁぁぁぁ?あそびやがったなああああああ!!

 このへたれがああぁぁぁぁ。おれをはめれるくせによぉぉぉぉ!

 にげまわりやがってええええ。ずうううううっとごまかしこきやがってえええええ。

 しってるかぁぁあ。おおかみのおれじゃねえ。にんげんのかみつきはなあ。

 …さわら、おまえのことが、ずっときらいだったんだぜ』

 狼は(ささや)くように言って、僕の心臓は震えた。

 いや、保育所の皆からの軽蔑は慣れっこだったんだけどね、噛月には。噛月だけには、軽蔑されたくなかったんだ。僕らには、強いとか弱いとか、そんなものを超えた友情があると、信じていたから。未来を夢見る子供みたいにね。

 僕は、茨で狼の口先をグルグルに巻いて、喋れなくした。声を聞きたくなかったからだ。吐き出す息の生暖かさも、奥歯からのぞく猿太郎さんの無残も、全て不快だった。

 とても憂鬱な心で、再びロザリオを握り締めた。

 その時。よりによってその時にね。

 上空の月光。夜の果てしない濃紺。銀の星屑の王。月が、薄らいだんだ。

 噛月が、身体は狼だけど、顔面から毛がばらばらと抜け落ちて、せり出すような顔面の腫れも、突き出た牙も奥に引っ込んで、噛月が。

 現われた。

『早羅、僕は』

 声も、瞳も涙ぐんでいた。僕は彼にうなずいた。

 刹那、雲は晴れて、彼は狼に戻った。

 僕はすぐさまそれの口を茨で塞いで、頭を抑えて、銀の十字架の長い部分をね。

 狼の頭部、耳の穴に挿しいれて、中を掻き回したんだ。

 そう、ずっと前に、土佐犬にしたみたいに。

 僕はもう、狼の罵声を聴きたくなかった。本当に、聴きたくなかったんだ。

 

 

 …山から戻ると、破壊された塀のそばに、狂濡奇が立っていたので、僕は彼女に、ロザリオを差し出した。

『噛月をこれで、屠った。彼は山で、人の姿で寝ている。もう目覚めることはないけれど、埋葬される前に、逢いたいなら、逢いに行けばいいよ』

 彼女はロザリオを受け取って、裸の僕の横を通り過ぎて、山に歩き出した。

 その後姿がね。月光のせいか、とても寂しくて、僕は声をかけてしまったんだ。

『ね、狂濡奇さん』

『何?』

『僕を、殺さないのかい?僕は噛月を殺した』

『あなたの言葉に嘘を感じないもの。噛月君にも』

 彼女は僕を振り返らないで、そんなやりとりを僕として、東山の闇に消えていった。


 

 …僕はほとほと嫌になってね。

 次の日から、保育所の部屋を引き払った。何が嫌かって、友人を失くしたこと。周りの視線の変化。軽蔑のほうが快適と思えるほどの、嫉妬とへつらい。実は噛月を嫌いだったんだ、と言ってきた奴も何人もいてさ。僕は本当に嫌気がさしてね。かと言って、山には帰れない。狼に荒らさせたのは、僕だ。猿太郎さんを殺させたのも。

 だから僕は、噛月との最後の思い出の場所である、桜の樹の下で暮らす事にした。

 生活の開始にあたり、蜂の巣も持ってきて、食料は確保した。毛布や布団も。防水防寒仕様のテントも。噛月を倒した僕を屠って名を上げようという馬鹿の対策も万全にした。

 落とし穴をたくさん掘ってね。穴の中に、ミミズの巣や、肥溜めや、単純に水や、あとは、馬鹿とかあほとか間抜けとか書いた張り紙が降ってくるという罠も仕掛けた。

 いや、あまり呆れないでほしい。馬鹿馬鹿しいことに命を賭けれる人ってのは、そういないんだ。無価値というのかな。戦意をそぐには、馬鹿ばかしさが一番なんだよ。

 こうして完成した僕の基地でね。僕は保育所の卒業まで、全力で怠けることにした。惰眠にひたりまくって、大したスキルも身につけずに、卒業したら、何かの任務でさっさと命を落とそう、と思った。

 完全にやさぐれていたんだな。

 そうやって、2年過ぎて、16歳になった春。

 滅道(めど)さんっていう、村の助役さんがね、保育所に来たんだ。彼と会わなかったら、僕は、防人には選ばれなかっただろうな」

 早羅さんの独白は続く。


滅道(めど)さんと会うまでの2年間、記憶というものに値する経験はほとんどなかった。

 狂濡奇とは、それまでも別に明るくハイタッチとかする間柄ではなかったけれど、もう、物凄くぎこちなくなってしまってね。僕が保育所の部屋を出たくなった原因(もと)には、それもあるかもなあ。

 落とし穴を幾つも掘って、桜の下という安住の地を自分で作ったはずなのに、怠惰な眠りをむさぼる生活は、正直そこまで楽しいものではなかった。

 僕は昼夜問わずに眠りこけていたんだけど、たまに起きるといつも、猿太郎さんの無垢な瞳、困惑と恐怖の瞳、狼に噛まれる時の絶望の瞳とか、彼だけではなくて噛月の涙で潤んだ涼やかな瞳もね、そういういくつもの瞳と悪い夢みたいな状況が、無限に脳内を反復するんだ。それは鳴りやまない鐘のように。でも、僕はどうしようもできない。

 だから僕は、ふて寝をする。悪い夢は見ない。夢は無意識の鏡というけれど、無意識の僕は、大層な鋼鉄らしい。夢の中では、良い日々しか再生されない。悲劇は起きない。でも幸せな、本当に何でもない日々の夢から目覚める度に、とても悲しくなる。だから、やっぱりまた寝てしまう。けれど、寝すぎてるせいか、上手く眠れない時もある。

 そういう場合は、ひたすら考えるんだ。何故、僕は噛月を殺したのか?殺さなければならなかったのか?もちろん、保育所では日常のことだ。でも、僕にとっては違う。僕は、他の子たちとは違う価値観を持った子供だった。それを貫いてきたはずだ。では何故?…と、延々と考え続けて、結論が出るまでに2年かかった。楽しい思索ではなかったけど、結論が出る事には出た。

 

 村人は、とても弱い。

 

 これが僕の結論だ。

 噛月は、人としての強さ、光とか善性だけで人格を構成したみたいな男だった。でもそれは、それも、彼の病理だったんだろう。彼は、過剰なほどの光と、同じくらいどうしようもない闇を、抱えた人間だった。ジキルとハイドと言えば分かりやすいかな?彼という人間は、精神が分裂していたんだ。つまり狼も人も、どちらも噛月だった。僕がこれを認めるために、2年という時間がかかったけどね、一旦その視点にたどり着くと、あらゆる疑問が解けてくる。僕が友情を感じ、遠まわしに憧れてきた彼は、元から病気だったんだ。僕は彼の躁鬱の躁だけ見て憧れていたのかもしれない。でも彼は僕を強いと思っていた。勘も人の域を超えた男だったから、こういう運命も薄々感じていただろう。けれど、彼は、銀のロザリオを僕に託した。防人になるという目的のために、全てを犠牲にする覚悟があるなら、危険を回避する覚悟も必要だったろう。徹底的に僕から逃げる覚悟。狼の声が届かないくらい、僕から離れれば良かったんだ。友達付き合いなんかね、するべきじゃなかった。いくらでも理由をつけてさ、それは出来たはずなんだ。または、予告などせず、もちろん銀など託さずに襲う非情。満月まで黙っていれば良かったんだ。どちらかの行動が必要だったけれど、光に溢れた噛月は、どちらも選べずに、結局僕に屠られた。

 それは彼の弱さだ。とても心理的な弱さであり、病理だ。過剰な善は、過剰な選択しかできないんだ。そういう意味で、彼は弱かった。そして、これが重要なんだけど、村人ってのは、多かれ少なかれ、因果を抱えて、歪んでいるんだ。そしてその歪みは、文明社会では駆逐される。駆除と言ってもいい。とても弱い種が、遺伝子の流れが集まった集団が、村なんだ。そこで一つの疑問が解けた。何故、保育所は蟲壺なのか。


 ある程度の淘汰を経た個体しか、文明社会を生き残れないからだ。


 生まれた子供の全員を生かすには、一人一人の病理が深刻過ぎる。だからこそ振るい分けをして、より生存に適した個をつなげていく。それが村という存在の意志だと、僕は解釈した。

 

 僕はこの解釈を、滅道さんに話した事がある。悲観的に過ぎるとらえ方だとは自分でも分かっていたから、嫌な顔をされるかな、と、話しながら思ったんだけど、助役さんは静かに聴いてくれた。

『それで、早羅君はどうしたいのかな?この呪われた血の集団を全部絶やして、すっきりさせたいかい?』

 僕の解釈にいちいち(うなず)いてから、助役さんは、逆に僕にこう訊いてきた。

 僕は、しばらく考え込んでから、首を横に振った。

『いいえ。できる事なら、守りたいです。淘汰される子も。淘汰をくぐり抜けた子も。

 か弱い種たちを、僕は守りたいです』

 こんな、恥ずかしい言葉がさ、よどみなく流れるように僕の口から出てきたものだから、言ってしまってから、僕の頬は熱くなった。でも、それは本音だったんだ。僕は噛月を守りたかった。狂濡奇の隣りの彼を。僕が彼らとの世界を大切に思うのと同じように、他の子たちも、彼らの世界を大切に思っているんだ。そういう全てを、因果と言う呪いの病理に苦しみながらも、それでも生き続ける彼らを、種を、僕は守りたいと思った。

 滅道さんの(しわ)だらけの口角が上がって、もっとしわしわになった。あの人は100歳を越えていたからね。彼は僕の頭を軽く撫でて、こう言ったんだ。

『そう。守りたいという気持ちが、大切なんだよ。防人にはね。

 名や(ほまれ)のために、防人を目指すのは素晴らしいことだけれど、その時点で失格している。

 …君は誰よりも、防人の資格がある。2%など、大した話ではないのだよ』

 やっと。

 紗愛ちゃん。

 君に言えた。

 僕はずっと、この2%について君に話したかったんだ。

 これは、僕の負い目だから、さ」

 早羅さんのくっきりとした二重の瞳は、うっすらと濡れた。

 しばらくの沈黙の後に、彼の独白は再開する。

 

 

「2%という言葉を僕に告げたのは、滅道さんだった。


 その時僕は、彼に名前を告げたんだ。早羅です、ってね。

 滅道さんは、

『そうか。君が、2%の子か』

 と言った。


 この、2%、を耳にする前の日、狂濡奇が僕を訪ねてきた。

 白に紅が混じった桜が、雪が吹き付けるように渦を巻く中、施設から姿を表して、静かに歩いてきた彼女は、やっぱり包帯ぐるぐる巻きでね。相変わらず物憂(ものう)げだけれど、因果のせいで(しわ)が少し減った瞳で、僕を見下ろして、

『久しぶり』

 と言った。

 本当に久しぶりだった。ほぼ2年前に僕が施設を出てから、僕を桜に訪ねてくる子はいなかった。襲ってくる子はいたけどね、全員落とし穴に叩き落して追い返した。そういうわけで、彼女とも、もちろん、音信不通だったわけだ。けれど、さすがは狂濡奇だ。大概の子は()まる(あな)の上を、易々と歩いてくる。質量が無いみたいだった。それはそれで凄い。身体操作を極めないと辿り着けない域に、彼女は到達していた。

 魔眼を使わなくても、僕なんか瞬殺だろうなあ、と思った。あと、噛月の仇を討ちにきたのかな、とも。

『久しぶりだね』

 僕は、桜の根元に尻を埋めて、2年前に狼が空けた(うろ)に首を、背をその下の幹に預けながら、こう返事をした。山林の春からは、冬の張りつめた大気は完全には去らないけれど、陽ざしには暑い季節の予感がある。

『明日は滅道さんが来るから、みんな部屋から出ないように、だって。聞いた? 』

『いや、聞いていない』

『そうよね。早羅君、保育士さんたちから嫌われてるから』

 僕は特に彼らに何かをしたわけではないけれど、おそらくは全力で怠惰な子供だったからだろう、彼らの

好意を感じたことはなかった。むしろ、感じる感じない以前の問題でね、噛月のために何かを取り寄せるといった用事以外で、保育士たちと関わることはなかった。けれど、そう言われたら、それもそうかな、と思った。

『そういう生き方だからね。僕は嫌われ者として生きて、嫌われながら死んでいく』

 否定を求める甘えではなくて、本音だった。それで良かったんだ。友人として好かれたかった噛月を、僕は殺してしまった。狂濡奇にとっても、僕は(かたき)だ。友人だった時は、2年という時間の向こうに薄れてしまった。

 卑屈に映ったんだろうな。彼女は軽くため息をついて

『噛月君が悲しむと思うの。……あなたが下らない死に方をしたら』

 と言って背を向けて、さっさと施設に戻ってしまった。

 僕はというと、あっけに取られていてね。気が付けば、目のあたりがとても熱くなっていて、頬を熱が伝って、桜が吹雪く視界が、陽の光に滲んだ。涙を熱く感じる頬は、いやに力が入っていて、口の端を左右に引っ張ってさ、とても醜い笑いの顔を作っていた。誰かに見られたら、その誰かを間違いなく屠りたいと思うほどの痴態だったと思う。でも、その顔を作るしかなかった。ずっと塞がっていた胸のどこかの栓が開いて、感情が濁流みたいになって、こみ上げて、声帯の向こうに泣きわめこうとするのを、止めるためには、醜い笑顔を作って、歯を猿みたいに食いしばって、(こら)えるしかなかった。

 ようは、僕は泣いたんだけどね。声を我慢してたから、変な顔をしちゃったってだけでさ。で、なぜ泣いたかというと、ちゃんと伝わってほしいんだけど。

 僕は噛月を殺した。そして、2年という時間をかけて、その出来事の整理をした。つまり、彼のそもそもの人格、光を否定することで、物事を受け入れた。言い方を変えるなら、物理的に殺した彼を、記憶の中でも殺したわけだ。彼は分裂型の狂人だったし、それは現実の把握としては正しい。けれど、それはそれで、物凄い寂しいことだけどね、でも。でも、さ。狂濡奇の記憶の中には、光としての彼がちゃんと残っていた。男女の関係として彼と関わってきた彼女は、僕よりももっと多くの闇を、彼に見ていただろう。けれど、闇に際立つ光の病理も含めて、彼女は彼を受け入れていた。だから僕を訪れた。

 滅道さんは、古代の中近東世界の王族の末裔でね。あの人を覚悟なく見た人間は、もれなく脳の血管が石のように固くなって、頭蓋の中で血が破裂して死ぬんだ。僕も、ほっとけば死んでいただろう。噛月の仇だからね、彼女にとってはそっちの方が良いはずなのに、彼女は僕に教えにきた。それが、噛月の意志だと思ったからだ。彼の光は、彼女の中に残っていた。

 だから僕は泣いたんだ。嬉しいとか、幸せとかじゃない。贖罪でもない。ただ、泣いた。泣き続けて、それからやっぱり、眠った。夢は見なかった。

 

 起きると陽はすっかり落ちていて、月が、星々を銀色にまき散らしながら、中空をかなり進んでいたから、僕は日付が変わっていることに気が付いた。なんか、とても晴れやかというより、胸のつかえがとれて、吸い込む空気を軽く感じた。

 伸びをしようと思って、大きく両手を、星空に触れるみたいに伸ばしてたら、ふと。7歩向こうの落とし穴に、誰かがはまっていることに気づいたんだ。周囲はそこまででもないけれど、深い穴でさ。中の土も(もろ)くしてあるものだから、中々砂地獄っぽい、秀作だ。()まると腰まで埋まる。しかも、出ようと暴れると、振動で、桜の枝にセットしている玉が上から割れて、馬鹿とか間抜けとか書かれた紙吹雪が降ってくるという優れものだ。いや、だからあまり呆れないで欲しい。馬鹿馬鹿しさってのは、戦意を削ぐには一番かなっているんだ。

 僕は、この時間の侵入は珍しいな、もしかして滅道さんかな、と思って、穴のヘリから覗いた。

 月の光の届かない暗い穴の奥底に、更に漆黒の布の塊が股下まで埋まっていた。腰から上、上半身の高さは、深い穴の中ほどまで届いていたから、とても大きな体だと分かった。

 で、すぐにその塊が滅道さんだとわかったんだ。視神経を伝って、全てを石に化すような、とても異質な何かが、くるのが分かったから。冷気ではない、熱風でもない、強いていうなら、風化を伴う角質化かな? 細胞から水分が失われる強烈な感覚が波のようにしぶいてきた。

 これは気合を入れないと死ぬな、と思って奥歯を強く噛んだ。瞬間、上から玉が割れる音がして、月夜の枝えだの隙間から、紙吹雪が降ってきた。

 はっきり言おう。

 この紙吹雪の馬鹿馬鹿しさは絶妙でね、僕は気を抜かれかけて、つまり死にかけた。けど、罠を仕掛けた本人がいきなり死ぬのも失礼な話だ。あと、上から見ているだけなのも。

『滅道さんですか』

 僕は、石化の闇に呼び掛けた。

『ああ、うん。穴に嵌まってね、恥ずかしい姿だが、わたしが滅道だ』

 声が穴の中でこだまして、合わせるように、闇の一部が動いて、それが黒染めのフードとその奥の包帯だと分かった。滅道さんは、いつも鼻から上の目の部分を、包帯でぐるぐる巻きにしているんだ。彼の本当の因果は石化ではなくて、直死の魔眼だからね。

『この穴は僕が掘ったものです。すいません』

 僕はこう呼びかけながら、上体を伏して、助役さんに肩と腕を伸ばした。

『気にしなくていいよ。ありがとう』

 滅道さんは僕の手をつかんだ。どっしりとした、まるで大地みたいな手のひらで、僕は噛月を思い出した。


 ……助役さんは、里に来るときにちょっと道に迷って、北山の向こうから山脈をショートカットしてしまい、保育所の塀が見えたので、やっと着いたと嬉しく思い、サッカーのボレーシュート的な跳躍をして塀を越えて、子供たちを起こさないようにと静かにした着地の瞬間、僕の落とし穴にはまったらしい。

 穴に落ちる瞬間も音を立てない、不測の犠牲者を出さないための真夜中の訪問、この二つだけでも、僕は、滅道さんが物凄い人格者だと分かった。何より、そもそもこんな所に落とし穴を掘って寝ていた僕を、責めない。僕は、申し訳なさと、ありがたさを感じて、彼を施設の入り口まで案内することにした。あ、それに、穴はまだまだあったからね。さすがに、2回も落ちてもらうわけにはいかない。

 (あな)の地帯を先導して抜けてから、僕は、滅道さんに背を向けてもらって、黒染めの厚布にまとわりついている紙きれたちをほろった。

『すまないね』

 滅道さんの声は、とても穏やかに夜の敷地の大気に吸い込まれて、僕はやっぱり気合がうすれそうになって、石化しかけたけど、こらえた。死んだら失礼だからね。

『いえ。当然の事ですし、威厳の問題です』

 僕は、大真面目にこう言ったんだけどね、助役さんは笑った。それから、とても楽しそうに訊いてくれた。

『君の名前は? 』

早羅(さわら)です。先祖は座敷童です』

 助役さんは、とても納得したように、または、とても不思議そうに、包帯の向こうから僕に観察の気を向けて、うなずきながら、

『そうか。君が、2%の子か』

 と言った。

 僕は意味が分からないまま、滅道さんを見上げると、こう付け足してくれた。

 『君は98%、防人に相応しい子なんだよ。ばば様から託宣が出ている。つまり、2%足りない子なわけだ。だから、通称では君は、2%の子と呼ばれている』」

 早羅さんの独白は続く。



「青天の霹靂(へきれき)という言葉が浮かんだ。

 夜だったから、紺の濃い空だったけどね。月は下弦で、無限の星の海に浮かぶ遊覧の船みたいだった。

 助役さんの言葉は、言語としては理解できたはずだったけど、それが彼の口から出てきたものという実感は、全くなかった。現実感というのかな。98%も、防人に相応しいというセンテンスも、欠けている2%も、全てが、バラバラに、まとまりなく僕の耳の奥を(うず)いた。

 ……呆気(あっけ)に取られて点だった僕の両目が元に戻るのを、滅道さんは辛抱強く、待ってくれていた。

 下弦の月の淡い光は、彼の漆黒のフードに染みこんでいて、その一本一本の繊維に影と立体を与えていた。包帯に覆われた目元は、フードの形作る影に光無く沈んでいた。港に降ろされた碇みたいな大きな鼻とその下の口元が、無数の皺と共に月明りにせり出していた。

 僕は、滅道さんの因果に飲み込まれないように、奥歯を噛みながらも、胸に迫る物を感じていたんだ。それは、喜びでも誇りでもなかった。

 噛月の笑顔に、彼を殺す前にいつも当たり前のように感じていた、あの安心感が、こみ上げてきたんだ。そんな感覚は、とうの昔に消え去ったはずだった。けれど、その時、完全に(ぬぐ)い去られてしまったはずの、噛月の光が。僕の胸に甦ったのを、感じたんだ。

『わたしは、君を防人にしようと思う』

 滅道さんは、しわしわの口元をさらにしわしわにすぼめるようにして、そう言った。助役さんの言葉の響きには、迷いも躊躇い、思いつきの軽さもなかった。代わりに確信に根ざす重さ、(おごそ)かさがあった。

 僕はというと、彼がどう思っているなんてどうでもよくて、ただただ、もう二度と感じる事はないと思っていた、旧友に由来する光を、胸に感じる確かな実在を、失いたくないとだけ思っていた。

 だから、助役さんの言葉は、今度はすんなりと僕に届いて、当然のように僕の感傷と溶け合った。結果、僕は、思ったんだ。

 彼が目指して叶わなかった夢を、彼の代わりにしよう。98%ならほぼできるはずだ。2%の欠けくらいなら、この想いで超えることができる。いや、超えてみせる、ってね。

 ……若かったんだね。僕は16の子供に過ぎなかった。自分が殺した友の感傷で引き受けるには、重すぎる役目なのに。けれど僕はこの時、完全に、ドン・キホーテになっていたからさ。滅道さんを見上げて、承諾の意思を示そうとしたら、声が響いたんだ。

『助役様!  』

 てね。

 声の方向を見ると、歳のいった保育士さんが、僕らから少し離れた闇に、仁王立ちしていた。

彼は、主に保健室の担当で、熊みたいに大きいけれど、にこやかな人という印象が僕の中にあった。でも僕は基本、まあ君も分かっている通り、自然治癒だからね。保健室には通わない。だから関わりも薄かったのだけれど、月光の暗がりでも、鬼気が滲んでいるのが分かった。

とても怒っている。

『やあ、卑歩(ひぽ)君』

『立ち聞きをしました。正気ですか?2%の子を防人にするなんて……! 』

『わたしは本気だよ。ばば様の託宣を承った上で、判断するのが助役の務めだからね』

『完全に近い子、境間君はどうなさるのですか? 』

『彼には私の後を継がせる。助役として、時間をかける』

『……確かに、完全に近い彼なら、助役も完全でしょう。ですが、助役以前の、本末転倒です!!

 蜂や蟻ですら、女王を正しく継いでいくというのに……! 』

 こんな会話だったと思う。正直あまり覚えていない。僕が希望しているのは、98%の特殊任務に就く、それだけだったから、誰が反対しようが、どうでも良かったんだ。

『なら、卑歩君はこの子を倒せるかな?  』

滅道さんは、どっしりとそう言った。同じくらい重厚な手のひらで、僕の肩甲骨の辺りを撫でながらね。

卑歩さんは息を呑み、助役さんは言葉を継いだ。

『弱者は強者の定めに従う。この子の防人就任が反対なら、力で従えなさい』

『保育士が子供に危害を加えるのは禁じられています』

『特例を出そう。何、大丈夫だよ。この子のためにね、これからたくさん出すはめになる。つまり、どうということはない』

 保育士さんは、もう一度息を呑んで、今度は僕を真っ直ぐに見た。皺の深い瞳が険しかった。

 僕はというと、正直、あまりというか全く怖がっていなかった。保育士さんを見つめ返す僕の瞳には、何のにごりも無かったと思う。むしろいささかの潤みすら帯びていたはずだ。それは、噛月の感傷に由来する。

 まあ、累計滞在時間が、当たり前だけど、24時間を越えていた場所だからね。そこは僕の戦場だったし、そりゃ、卑歩さんは僕より大きくて強かったけれど、噛月より弱いし、何より噛月よりも縁が薄い。殺し殺されるにもそこまでの抵抗がない。むしろ、防人になるための試練としては丁度いいとすら思っていた。

身体は軽く、肌冷えのする夜の大気は肺に心地良かった。意識がとてもクリアになってね。戦闘の要素(きー)は滅道さんの因果だとか、計算していたのが伝わったからかな。

 保育士さんは、僕をしばらく睨んだ後で、助役さんに向き直って、こう言ったんだ。

『私はこの子に勝てません。無駄に死ぬほど無責任でもありません。この子がなりたいと言うのなら、強者の定めに従います』

 (おごそ)かな声だった。


 ……僕は、その夜から半年間。特例というか、特殊任務の形でね、保育所を出て、滅道さんと一緒に暮らして、防人の訓練を積んだんだ。

 でも、積めば積むほど、自信が萎えてね。野菜から水分が抜けるみたいにさ。皮膚の下にみなぎっていたものが、喪われて、変わりに、ひりつくような焦りが、毛細血管を満たしていくのが分かるんだ。そしてそれは胃に集まる。

 けど、それでも頑張っていたんだけどね。訓練中に助役さんから聞かされた話しに、僕の胃はさらにやられた。

境間君は、防人に99.98%相応(ふさわ)しかった。

 そういう託宣が、ばば様から出ていたんだ。

 助役さんは、僕がこの事実に敏感になっているのが、それとなく分かったんだろうな。2%なんか関係ないって言ってくれたけれど、2は、0・02の100倍だ。

 ……特殊任務の相応しさってのはさ。成功確率なんだよ。

 ばば様という方は神秘的な存在で、人格というよりも因果に近い。血脈の呪いに由来する祝福が、ばば様の託宣なんだ。だから、あの方が、98%と示したら、本当に98%なのさ。つまり、防人という特殊任務を10000回繰り返したら、僕は200回失敗する。対して境間君は、たった2回しか失敗しない。そもそも、2%は大きすぎるんだ。考えてもごらん。50回に1回誤作動を起こすロケットなんて、ただのガラクタだろう?僕は、始めから、ガラクタと変わらなかった。そういうのを、君が生まれる前、折に触れては、嫌というほど感じた。なのに、旧友との感傷にすがり続けて、結局僕は防人になってしまった。

 そして、何か事ある度に必ず、僕は2%を思い出して、紗愛ちゃん、君に申し訳なく思ってきた。

 これまで。

本当に、本当、に。

 ……すまない」

 早羅さんは頭を下げ、彼の、とてもとても長い独白は、終った。


わたしが早羅さんの独白に聴き入っている間に、時計の針がどれくらい進んだのかは分からない。

けれど、室内を覆う闇にきらめく星屑たちは、時間の経過に寄り添いながら、プラネタリウムみたいに、わずかずつ動いていたし、その軌跡も夜空の回転を正確に模していたのだろう、独白が終わった後には、その配置は随分と様変わりしていた。

何より、昼食から始まったこの店のコースは、ティータイムに移って、さらにディナーに突入し、さらにそのディナーも、締めの紅茶とお茶菓子といった感じになっていた。

 ここまでの給仕は、全て、狂濡奇さんがしてくれた。

 彼女は耳が良いのだろうか、早羅さんの話が切れ目まで続く間は、つまり彼が独白を続けるためにグラスの水を口に含むまでの間は、厨房で野菜などを刻んでいた。

そして、彼の話の内容がどうだろうと、いつの間にか、わたしたちのテーブルのそばたたずんでいて、繊維の滑らかなテーブルクロスの白に、皿を戻すのだった。

 これを読む人は、いや、そこは皿を置く、だろうと思うかもしれない。わたしも、日本語としてそちらの方が、正しいと思う。けれど、狂濡奇さんは、皿を戻した。その戻し方は、音楽みたいだった。予定調和と言っても良いのかもしれない。テーブルの上に、あるべきだったものが、戻されて、完全が実現される。彼女の皿の置き方は、そんな錯覚をわたしに与えた。

父が、時代をときめく企業の代表だけあって、わたしは、東京の近郊に越してきてから、何度か、味もお値段も上等と言われるお店に、連れて行かれた。

とても美味しい。そして、学芸会のような演劇的熱意を、どういうお店の空間からも、感じたものだ。

給仕のお姉さんやおじ様方は、手品を披露するみたいに、皿を覆う銀色の盆を取って、かおる香草と焼かれた脂の混ざった匂いに、父も母も、瞳が光を帯びるのだ。それは水みたいに。わたしは、なんというか、そういう表情(かお)を早羅さんの前でするのが恥ずかしくて、うつむきがちになるのだけれど、狂濡奇さんの給仕の前では、そんな抵抗も一切無駄なのである。ただ皿を運び、置く、という行為に、ここまで意味を加える事ができるのは、彼女くらいではないのだろうか。

 皿はわたしの前に戻る。それは予定調和的な完全を帯びる。その完全に対して抱く気持ちは、食欲ではない。美に対してため息する感覚に近い。

置き方一つで、テーブルという空間を、ここまで変える事ができるのは、彼女くらいではないだろうか。少なくとも、わたしは無理だ。いや、もう本当に、狂濡奇さんに弟子入りして、メイド服になって、早羅さんに給仕したいと、思ったくらいだ。それは、上質な小説を読むと小説が書きたくなるような、そんな感覚に近い。

 こんな感じで、狂濡奇さんは、大小さまざまな皿を、わたしと早羅さんの前に戻して、その皿の上の成り立ちを説明した。彼女の声は、衣裳部屋の時と同じく、とても穏やかで落ち着いていたけれど、その語り口に、わたしは何故か引き込まれる。とても静かな、オペラみたいだ。わたしは、彼女の口上に耳を傾けながら、この人の天職は歌手かもしれない、と思ったりした。皿の置き方もそうなのだけれど、説明も、耳を傾けていると、何か現実を離れているような浮遊感を覚える。

 彼女の控えめながらも弾力にあふれているだろう唇と整然とした歯の隙間から、出た音は、言葉となるのみでなく、不可視の粒子となって、皿の上の料理たちに、物語と光を与えるのだ。

 (うさぎ)のテリーヌも、山菜と蜂の子のサラダも、猪のスープも、熊の(てのひら)の炭焼きも、岩清水の水菓子も、彼女の与える祝福に、その光沢を増した。もちろん味も、美味この上ない。こういう表現は俗すぎるし、つまり失礼だと思うのだけれど、ミシュランに審査して欲しいと素直に思った。つまり、わたしごときの舌の上で留まるに終わるべきではない、味なのだ。それは皿から切り分けられて、前歯で噛み、奥歯で解け、爆発する旨みに脳が痺れ、喉を過ぎると、満ち足りた余韻と共に、欠けた存在、先ほどまで舌の上にあったもの、失われた物に対する希求を覚えるのである。

いわゆるジビエと分類される料理なのに、全く臭みがない。力強さと、自然特有の繊細さの両立に、その調和に圧倒されるのみである。

 後日、早羅さんにそのことを話すと、彼は困ったようにして、笑った。狂濡奇さんの店は、店名のない料理店なのだそうだ。移動料理店というか、特殊任務に合わせて、ごくたまに出現する店らしい。出す料理もその日に合わせて様々で、和食に中華に、もちろん正統派フレンチから、果ては屋台のラーメンまで、何でも

客に合わせて作るらしい。この話を聴いて、とあるテレビ番組でアイドルのお兄さんたちも、そんな事をしていたなあ、と思ったりした。わたしは、アイドルな彼らのビストロが、いつまで続くのか知らないし、その終わりを見る事もないのだろうと思う。

 早羅さんの説明から考えると、狂濡奇さんたちは、わたしにぴったり合った料理を出してくれたことになる。そしてそれは間違いではない。何故なら、わたしは料理を口に運ぶたびに、爆発、または()み渡る滋味に震えながらも、どこかで、懐かしさを感じていたからだ。

それは、海を見たことの無かった人が、初めて潮の匂いに包まれた時に感じる、郷愁(きょうしゅう)に通じるものがあるかもしれない。とても遠いけれど、根元、意識や無意識を越えた根源に、根ざすものに触れた感覚。それはどこなのだろう?と、考えたい欲求が、頭のどこかを、食事中、ずっと引っ掻いていたのだけれど、狂濡奇さんの説明で、その疑問は解けた。

 彼女は、本日の食材は全て、私達の村で収穫されたものです、と、にこやかに、誇らしげに話した。

 わたしは、海を感じるように村を感じる人間らしい、と、照明の空間にまばゆく照らされる彼女を見上げながら、とても納得した。それから、誇りがあるから、このメイド服さんは

こんなに美しいのかとも、思った。蛍の闇でお会いした時は、池袋のカフェのお姉さんくらいの、つまり量産的な、せいぜい雑誌モデル的な美しか感じなかった彼女は、皿を運ぶたびに、仕事をする人特有の美しさを帯びるのだ。そして、わたしは、正直嫉妬する。

 こう書くと、お前は早羅さんの話のどこを聴いてるんだ、と罵声が飛んでくるかもしれない。それは、甘んじて受けるしかない批判である。何故なら、彼の独白は、わたしを守る防人になった経緯(いきさつ)であり、狼男さんである親友を殺した話だから。つまり、とても重い。しかしである。いや、だからこそ、と言ったほうがいいのかもしれない。

 食材の優れと誇りを、その表情だけで雄弁に語る、狂濡奇さんと、しわしわのお婆さんが、リンクしないのだ。

 彼女が14歳とか16歳の頃は、わたしの生まれる前で、つまり今から、22年とか20年前であり、その頃に包帯だらけのミイラ顔だったと言われても、ああ、そういう人がいたのだなあ、と思うことはできるけれど、目の前の狂濡奇さんだとは、どうしても思えない。なんか、太平洋に臨む岸辺で、この波の果てにアメリカ大陸があるよ、と言われてるみたいだ。

 わたしには波しか見えない。

 けれど、店内が星空の闇だったせいか、それとも、室内のBGMが、ディナーの始まりと共に、虫の音に変わっていたせいか、早羅さんの独白には、そこにいるような、臨場感があった。わたしの脳内には、噛月さんとの対決で、飛ぶように枝を駆ける早羅さんのしなやかな肉体が、細かに再生されたし、全裸のシーンでは、頬と下腹部に、熱を覚えたりした。さすがに恥ずかしいのである。

 でも、これは恋する身を思って許して欲しいのだけれど、わたしに重要なのは、狂濡奇さんだった。だって、彼女は、わたしの知らない早羅さんに、大切に思われていたのだ。羨ましい。その時の彼女になりたい。いや、狼男さんと付き合いたいとかではない。ただ純粋に、早羅さんに想われて、永い時間を共有したい

のだ。いや、贅沢なのは分かっている。けれど、やはり羨ましいものは羨ましい。それに、である。狂濡奇さんは、噛月さんと付き合っていても、もしかしたら、早羅さんに揺れていたのかもしれない。包帯が解けた時に、彼を殺さなかったのは、彼に揺れていたからかも知れないのだ。

 …と、まあこんな感じで、わたしは彼の深刻な独白に、まばゆいメイド服さんに嫉妬しながら、耳を傾けていたのだけれど、最後に大いに裏切られた。

 そう、防人になった事を、謝られてしまったのである。

 そんな、深刻に謝られても困るのである。そりゃ、花華さんの殺気には、死にかけたけれど、それはそれだ。それも含めて、早羅さんとの思い出である。そして、わたしには、これも恋する身ゆえのことか、彼との思い出は、どんな、そう、無数の黒い宝玉よりも輝かしい、大切な物なのだ。だからこそ、傷つく。これは、わたしのわがままかも知れないけれど、いい事も悪い事も含めて、共通の時間を、わたしが想うくらいに、大切に想って欲しいのだ。これがわたしが、寂しい、と思った理由である。

 しかし、さすがに、こういう寂しさをぶつけるのは恥ずかしいので、わたしは怒る事にして、その意思表示として、できるだけ大人っぽく、せめて、テーブルクロスの向かいの、形の良い早羅さんのおでこに釣り合うように、眉をしかめて、言った。

「謝ってくれなくても、いいと思う。村ってそういうものだろうし。それより、ね。早羅さん」

「何だい」

「器様について、話してくれるって約束、果たしてない。これは怒りたい」

 実際は怒っていなかった。何度も書くけれど、寂しかっただけだ。黒い宝石の海のせいで、わたしが、村にとって貴重な何かであることは、分かっていた。

 器様とはつまり、その海を宿す者なのだろう。そして、おそらく厳しい運命が待っている。けれど、わたしは、早羅さんがいてくれれば、いいのだ。これまでもそうだったし、これからも、そうであってくれれば、贅沢は言わない。だから、この時わたしは、彼に、説明と、それから、これからもよろしく、みたいな

夫婦的な何かを期待していたのだ。肝は据わっていたはずだ。

 だけど、彼は長い沈黙で答えた。

 その沈黙は、何故かわたしをざわつかせた。

 ……あまりにも長く感じたので、わたしは、いや、話すのがきついなら、今度でいいかも、と。声をテーブルの向こうの彼に。届かせようとした、時。

「器様は。ばば様の器である方、という意味だ。

 つまり、紗愛ちゃん。君にはいずれ、ばば様という、予言の因果が発現する。僕は防人で」

 彼はそう言って、言葉をそこで切ってから、

「ばば様、が、君に、発現するまで、君をお守りするのが、僕、の、役目、だ。」

 と。彼は、砂を噛むように、言葉を噛みながらそう続けた。

 この時、わたしの思考は目まぐるしくなり、その激しさから、むしろ痙攣と硬直に近い、真っ白加減に陥った。

「ばば様に仕えるのって、たしか、助役さんだよね」

 混乱する思考と裏腹に、このセンテンスは、わたしの口からすらすらと出た。それは、他人が出した言葉みたいに滑らかで、感情の抑揚に欠けていた。

「うん。今の助役は、境間君だ。ばば様が発現したら、君の補佐は、彼がする」

「やだ」

「嫌がる必要はないよ。君にばば様が発現した時点で、君は眠る。とても安らかで、覚めることの無い眠りだ。

 その眠りの中で、君の中から、僕という存在は消える」

 ……わたしの肝は据わっていたはずだった。

 が、全然だった。

 だって、それは、彼が。早羅さんが、わたしといてくれる、という前提の上での、覚悟だったからだ。

 そして、あろうことか、わたしは。

 ……彼を、忘れる、のか?


…………



  クリスマスの季節。父たちは、サンタ・クロースの代理で玩具店に足を伸ばし、母たちは、子供たちと緑のもみの木を金や赤のレースで装飾する。それは不自然なほどのきらめきを、電飾と共に放ち、その螺旋は、緑のあやふやな錐体(すいたい)の頂点に向かって、螺旋に収束する。その先には、新しく生まれた星のモニュメントがあり、星は、冬至と、キリストの誕生を祝う。

雪を掻き分けて、冷気に火照(ほて)る頬で、毛糸の帽子の

子供たちが白い蒸気を大気に戻しながら、家に帰ると、暖炉は暖かく、彼らが飾った樹は音楽をまとっている。それが、クリスマスの聖歌だ。


……音楽というものは、常に季節をまとうものだ。

季節はクリスマス真っ盛りだったけれど、わたしが早羅さんと長い時間を(とど)まった、この名前の無い店に、そういったものは全く無かった。

鈴虫の音が秋を告げるのみだった。

けれど、わたしたちの上に星は満天に散らばり、それは神話のような悠久(ゆうきゅう)を予感させた。

室内は暑くも寒くもなく、ただ、厨房で肉を焼いた後の炭の香りが、熱量の名残のようなもので、じんわりと、空間に暖かさを与えていた。室内は、わたしの皮膚や毛穴には、全く不快ではない、というより、とても快適な、それこそ満ちたお腹の身には、

眠たさを覚えるはずの、場所だったはずだ。狂濡奇さんが出してくれた料理はもちろん、彼女のサービスにもわたしは評価を求められたら、極上という言葉しか連想できない。けれど。それでも、わたしは、その極上の時間と空間の中で、身に待ち受ける運命を告げられた時、まばたきを忘れた。

狂濡奇さんが化粧を施してくれた目元、額やこめかみからは、寒気を覚えるほど、血の気が引いて、奥歯が極寒に震えるように、かみ合うことなく、幾度もぶつかりあっているのが分かった。その痙攣(けいれん)に似た震えは、こわばった頬に由来するもので、わたしの顔面は、酷く見るに耐えない、笑顔を作っていた。その笑顔の見苦しさは、汚らわしさすら覚えるほどで、わたしは、誇りとか、尊厳が喪われていくのが分かった。

 早羅さんの手元のグラスには、岩清水の発泡水が半ばまで注がれていて、それが天井から降り注ぐ北極星の祝福に照らされながら、わたしの醜態も反射していた。鏡のように。

 その鏡の中の口裂け女は、懸命にその肉食獣のような口を閉じようとし、何度も唾を飲み込む。

ようやく口を閉じる事に成功するけれど、無理やり閉じられた両端は、やはり不恰好(ぶかっこう)につり上がって、笑いをこらえるみたいに、小さく震え続ける。でも瞳は不気味なほど大きく見開かれている。

 ……この女が、わたしだ。黒の装飾たちはどれも、相変わらず、闇に光を幾重にも折り重ねたように、静かに美しい。けれど、だからこそ、わたしの醜さが際立つのだ。その醜さという言葉は、邪悪に、置き換えても良いかもしれない。

 黒鳥。白鳥の湖の王子を惑わした、黒鳥の邪悪。邪悪の微笑み。何故わたしは、もっと違う顔をできないのだろう。欧米アニメーション大手の製作する映画のヒロインたちは、白雪姫も、眠り姫も、人魚だって、みんな悲しい時には、美しくその心情を表すのに、わたしは、どうやら、ヒロインとは別の何からしい。いや、ヒロインでなくても、普通の子なら、涙ぐんだり、泣き出したり、両手に顔を埋めたり、そういうしおらしい行動を、いくらでも取れたはずなのに。わたしが結局できたのは、まばたきを忘れて角膜から水分を飛ばしながら、邪悪な微笑みを口許に浮かべるということだけだった。

「こんな顔、しかできなくて、ごめん、ね」

どれくらい、硬直していたのか、わたし自身さだかではないけれど、そこまで長い時間ではないと思う。

体感時間としては、夜中に体験する金縛りと同じ位だろうか。

わたしは、その金縛りの果てにようやく、喉を絞って、こう言った。早羅さんは、わたしを真っ直ぐ見て、わたしたちの視線は、やっと正常な交差に戻った。

「いや、いいんだ。分かっていたことだ。ずっと前から、分かっていたことなんだ」

 上に撫で付けられている髪は、いつもどおりの緩いウェーブを描いていた。その一部が、彼のおでこに、雪の朝にしなり落ちる雪のようにうちかかって、わたしはその変化に、花びらが舞い落ちるような、色気を感じ、こんな時なのに、排卵日の前のような熱を、下腹部に覚えた。救いようが無いわたしとは裏腹に、早羅さんのおでこの下の眉は、いつもどおり穏やかで、眉が薄く影を落とす、くっきりとした二重の黒目がちな瞳には。

悲哀と。

……強い、意志の光があったので。

わたしは、早羅さんが、狼男さんと、桜の樹の下で対峙したときも、こんな顔をしていたのかな、と思った。そう、強く、はっきりとした、意思だ。早羅さんは、そういう人なのだ。彼は彼で、覚悟して、わたしを、ずっと守ってくれてきた。それは、わたしがずっと、知っている。それでも、そのことすら、わたしは忘れてしまうのだろう。


……早羅さんは、器様とばば様についての話を続けた。

器様に、ばば様という因果が発現するのは、15歳以降であること。大体は30歳付近らしいけれど、16歳や80歳といった例もあるので、ばらつきがかなりあるらしい。

ばば様が発現した器様は、村に迎え入れられる。そこで、助役さんに補佐をされながら、残りの人生を送るらしい。

彼女たちは、確率的な予言と、産まれてくる、または産まれた新生児の命名をする。産まれたばかりの村の子供は、因果のためにとても弱く、ばば様の命名に基づいた措置が取られなければ、ほとんど死んでしまうらしい。そういう意味でも、ばば様は村という共同体の核であり、だからこその、最高尊厳である。

という説明を、わたしは、黒鳥的な邪悪な顔を作ってしまった恥ずかしさ、負い目もあって、特に不満を唱えるわけでもなく聴いていたのだが、どうしても、本当にささやかな抵抗をしたくなり、

「お父さんとお母さんは? もう会えなくなるの? 娘だし、消えるのは親不孝だけど、やっぱりあの人たちのことも忘れてしまうの? 」

と訊いたら、

「彼らは、君の実の父母ではないよ。甲子園で会った、千骸さん。彼がさ、君を彼らの子供と、取り替えたんだ」

という答えが返って来てしまった。取り替えられた子は、現在施設で育っているらしい。匿名の送金を毎月受けて、結構な額が貯まっているとのこと。わたしが望むなら、ばば様が降りた後に、その子と父母がめぐり合うようにすることくらいはできる、と言われたので、わたしは迷わずお願いをした。


こんなところだろうか。冷静さを無理やり装いつつ、お話を全て聴いてから、席を二人で立った。

こうして、名前の無い店でのお食事は、終わった。


厨房の方々へのお礼を済ませて、速やかに衣装部屋に向かう。気丈でいるには、速やかさは助けになる。

でも、部屋に入る前に、早羅さんと離れたくなくて、泣きそうになり、つくづくと考える。

冷静でも取り乱しても、わたしは、ばば様が発現したら、全てを忘れてしまうのだ。そして、早羅さんと引き離される。わたしは、早羅さんに恋をしている。この感情。早羅さんのそばにいたい。早羅さんがそばにいてほしい。早羅さんに笑ってほしい。早羅さんに笑いかけたい。早羅さんの前で、美しくありたい。陽の眩しさに瞼を薄める早羅さんの長いまつげの美しさにほれぼれしていたい。早羅さんと手をつなぎたい。早羅さんを抱きしめたい。早羅さんに抱きしめられたい。本当の夫婦みたいに溶けあいたい。

こういう感情の全てが、実は恋ではなくても。ただ、卵から(かえ)(ひな)が親を学習する刷りこみのようなものでも。

それでもいい。わたしは、早羅さんを想っていたい。だからこそ、わたしは雛たちに嫉妬する。だって、彼らは、卵の中身で、身体を与えられて、殻を割って外に出て、親を慕うことができて、その親を忘れないのだから。

一方のわたしは、そう。卵の殻に過ぎないのだ。花華さんを思い出す。彼女は、わたしを、さなぎだと言っていた。さなぎ。それは捨てられる外殻(がいかく)。それがわたしだ。……黒い宝石の海が、わたしという殻の中身であり、羽化するべき蝶なのだ。

このとても大きなものが、わたしに全てを与え、そして、全てを取り去っていく。わたしは、(あらが)うことが出来ない。


着替えを終えたわたしは、やはりコートに着替えた早羅さんと合流し、店を後にした。

狂濡奇さんは、わたしたちを、蛍の闇の先まで見送ってくれて、そのついでに、

「これ、噛月君の恨み」

と言って、早羅さんの手首を軽くつかんで、手ぬぐいを振り回すみたいに、彼の身体を、通路の壁にたたき付けた。

内臓に響くような痛い音と共に、壁は砕けて、中の(はり)が、闇に浮き上がった。早羅さんは、壁に身体を擦り付けるみたいに、通路の床に崩れ落ち。狂濡奇さんは、そんな彼に優雅に美しくしゃがみこんで、また彼の手首を無造作につかんで、

「これ、勝手に死んだ噛月君への鬱憤。友達でしょ、代わりに受けて」

と言って、彼の体ごと、テニスプレーヤーみたいに鮮やかに振りかぶって、床にたたきつけた。

やはり痛い音が低く響き、床を成す石材は砕けて、下の金属の骨組みが、格子状の闇に露出した。わたしは彼女の唐突の凶行に、色々真っ白に、つまり呆気にとられながらも、気がつけば、彼女の腕をつかんでいた。

「やめ、て。ください」

「はい」

闇の中でも、メイド服の彼女がにっこりと、微笑んだのが分かった。

彼女は、わたしが掴んだ腕を起点に、逆にわたしを抱き寄せて、

こう続けた。

「早羅君はね。馬鹿なの。だから、ちょっと大目に見てあげて、ね」

それがどういう意味か、今でも分からない。

でも。えっと。つまりその。

狂濡奇さんが、素敵な人であることは、改めて分かった。

早羅さんは、彼女の二撃でぼろぼろになり、わたしに肩を担がれながら、地上階まで上がったのだが。つまり、そういうふうに寄り添えるように、あの吸血鬼さんは、計らってくれたのだ。

……一歩一歩の階段を踏みしめながら、わたしの首にかかる彼の腕の重みが、温かくて。こんな絶望的な宣告を受けた後なのに、早羅さんは、宣告をしてきた人なのに。もう、条件反射的に、嬉しさが胸に溢れて。でも、同じくらい、わたしは、こういう全てを忘れて、彼と離されるということに、胸の(うつ)ろが痛みになって。地上階のホコリに咳き込んで、鼻水とくしゃみが止まらなくなって。涙目になって、それで、糸がやっと切れてくれて。

早羅さんに、抱きついて、彼の首を抱きながら、泣いた。

子供みたいに、みっともない声をあげて、泣きながら。

羽を交わすみたいに、わたしの背を撫でてくれる、彼の手の柔らかさに、頬を熱くして、その上を液体となった感情が、いくつもの筋となり流れるのを感じながら。

ずっと、永遠に、彼にしがみついていたい、と思ったりした。


 翌日、わたしは失恋した。

 この場合、失恋という言葉が正しいかどうかは、正直分からないのだけれど、それでも、わたしの人生の大部分は、早羅さんと共にあったし、彼を想ってきたので、むしろそれが当たり前すぎたので、そういう過剰さが我ながら無邪気だった日々への供養も含めて、わたしは彼への想いを、恋だったと言いたい。それは、誰が、特にわたしの中の論理的な部分が、いくら否定をしても。


 その日の朝方、目覚める前のうつらの中で、わたしは夢を見た。

 夢の中のそこは、四畳半を二つ合わせた位の部屋で、粗末の感じない木のフローリングの縦三分の一を、汗が染み付いて久しいパイプベッドが占めていた。ベッドの上には、肌の照りがとても美しい男性がいた。彼は半裸で、噴火した火山の黒煙のような猛々しさをまとう背の筋骨を、滑らかで、ほのかに脂を帯びた肌が封じ込めていた。後ろ髪は清潔に刈り込まれていて、ベッドの向こうの窓から、時折吹き込む風に、横髮の幾筋かがまとめて揺れた。

 わたしの視点は、彼の正面に回りこんだ。

 瀬長島君を少し思い出すような、そんな完璧に近く整った目鼻立ちの男の子だった。でも、彼のような、憂いを含む、つまり心ここにあらずな心情を含む光を、その瞳は宿さず、むしろ、彼自身に対する絶対の確信と、寸分の濁りすらない慈愛の瞳は、少しだけど、九虚君に似ていた。

 彼は、ベッドの上で半裸の膝立ちをしていて、彼の股下の何かに向かって、言葉を二三、短く言ってから、ズボンを脱いだ。

とても大きなズボン。

上野動物園の象さんでもはけそうな、大きさのそれを、綺麗にたたんでいる彼から、わたしの視線は、股下にあった何かに移った。

 それは何もつけていない女性の肉体だった。ベッドのシーツと同化するほどに白く、肉に無駄の無い、けれどふくよかな四肢の接ぎ目には、静脈が小さく浮いていた。

 水妖のような儚さをたたえるその肉体にも、生命を象徴するような黒い繁みがいくつもあった。太ももと下腹部の形成するYの字の上とか、顔を隠すために覆った手のひらから続く腕から、かすかに覗く脇とか。彼女の深い脇の繁みの肉は、魅惑的な凹凸を作って、生命というか、母性そのものというような、胸の膨らみに続いていた。やはり静脈が、細く青く浮き出ていたけれど、大きめの風船のように膨らんだその乳房に、大抵の人は顔を埋めたくなるのではないだろうか。

 瀬長島君のような男性は、服をたたみ終えた。床に綺麗にそれを置いてから、改めて彼女の上に覆いかぶさる。

 顔を隠していた女性は、その男性の重みを、両手で包むように、つまり彼の背に両腕を回す形で受け止めたので、わたしは彼女の顔を見た。

 狂濡奇さんだった。

 そこで、わたしは彼女と愛し合っている男性が、噛月さんだと分かった。彼は彼女の恋人であり、早羅さんの大切な友人である。

 なので、好奇心が芽生えてしまった。腰の揺さぶりに合わせて小刻みに、快楽に、上下する彼の顔を、もっとよく見たいと思って、覗き込んだら、いつもの見慣れた早羅さんが、ゆるいウェーブを描く前髪を揺らして、恍惚または、苦痛をこらえるように、両目を閉じていた。長いまつ毛。それは、わたしの愛するいつもの彼のもので。だからだろう。わたしの胸に痛みが生まれた。それは感情という感情を、生産する器官が根こそぎもぎとられるような、痛み、というよりも衝撃で。でも、だからこそ、わたしはこの痛みに安心した。つまり、まだ、わたしは、わたしなのだ。

 早羅さんは、ちょっと恥ずかしいアメリカの映画の男性みたいに、息を飲み込み、首筋が小さく揺れて、狂濡奇さんの上に倒れ込んだ。

 倒れ込まれた彼女は、彼の美しくしなやかな肉体を、その豊かで透き通った胸で受け止めて、両手を彼の背中に回しながら。

 お産を終えて、産湯のわが子に満足を浮かべる母親のような、潤んだ笑みを浮かべてから、口を大きく開き、並びの良い歯列の白がきらめき、小さな犬歯が、早羅さんの首の脈に食い込み、わたしは悲鳴を上げて。

 目が、覚めた。


「おはよう。大丈夫かい? 」

 鼓膜に早羅さんの声が届いたけれど、わたしは、両手で視界を覆って、仰向けになったまま、返事をしなかった。心臓を起点とした、とても激しい脈を感じながら、考える。

 何故だろう。昨日、あんなに優しくしてくれた狂濡奇さんに、わたしは嫉妬している。むしろ敵視に近い。早羅さんとの男女の関係の夢を、見てしまうくらい。

 昨日の彼女のメイド服の黒い肩には、何の気負いも無かった。白く滑らかな(すそ)から伸びた腕は闇に光を帯びた水のように白く、その細腕は、早羅さんを遠慮なくたたきのめした。その彼女の言葉。早羅さんは馬鹿だから、多目に見てあげて、というのは。どういう意味なのだろう。彼女の声色は、とても柔らかく、軽蔑は感じなかった。むしろ、長いときを経た間柄にしか生じないような、親しみがあった。彼女は、本当の彼を知っているのだ。それは、わたしの知らない彼であり。

どういう馬鹿だから、何を多目に見て、わたしにどうして欲しいのか? あの短い言葉では、わたしは推し量ることすらできない。そもそも、もし正確に彼女の意を汲むことができても、わたしは消滅するのだ。そう、消滅してしまう。同世代の若い子達が、日々の永続を錯覚する中で、わたしも彼らと同じように、時の連続を当たり前と思ってきた。大地が地平に延びるように、時は、日々は、日常は続いていくはずだ、と。けれど、違う。いつ、喪われるか、分からない。

 分からないのだ。この呼吸を終えた次の時には、わたしそのものが喪われているかもしれない。そして、わたしは彼と離される。村に運ばれて、予言と命名の因果という機械となって、後の一生を終える。

「早羅さん」

 わたしは、手のひらで視界を世界から隔絶させたまま、か細い声を出した。

「何だい」

「わたしと、養豚場の豚って、何が違うの? 」

「何もかもが違うよ」

「でも。待ってる、でしょ? あたしが、ばば様になる、の」

 ……返事が無いまま、枕もとの目覚まし時計の秒針が、随分とゆっくり沈黙を刻んだので、わたしは、そのゆっくり加減に不快を覚えながら、声を低く荒げた。

「ついて来てくれるなら、それでも受け入れる。けど、早羅さんは、境間さんって人にわたしをバトンタッチして、その後の事なんか知らない。そこで御終いなんで、しょ」

 胃を何かがこみ上げたので、わたしは唾を飲んだ。昨日食べ過ぎた胃もたれとかではない。むしろ、肉体は活力に満ちていた。名も無い店の料理は、身体に合う。

 それも、わたしが村人である証拠だ。だから体調ではなく、精神的な、何かが胃を荒げている。わたしはその理由を確認した。

 嫌悪。自己に対する、酷い嫌悪。

 そうだ。昨日のひきつり笑いが、続いているのだ。昨日は頬のこわばりだったけれど、今朝は心にきている。だから、こんなに、声も物言いも刺々しい。

 しかも、これは子供の駄々だ。いや、養豚場の豚が拗ねるようなもので、駄々以下の代物だ。

 無邪気な分、豚の方がまだ可愛げがある。早羅さんには早羅さんの事情があるのに。だけど、わたしは、それでも。

「境間君は良くしてくれるよ。君に対して最善を尽くす」

 早羅さんの声が鼓膜に響いた。

「そんなの、わかんないじゃない」

 早羅さんなら、分かる。彼なら。いっそのこと、彼がこのまま助役さんになってくれれば。まだ救いがあるのに、と思いながら、わたしは返事をした。

 ……早羅さんの気配が、変わった。声の空気というか、呼吸に、強い何かを感じる。

「村人は、器様、ばば様に忠誠を尽くすんだ。それは因果に縛られるのと同じ位に、ね」

「どういう、こと? 」

 わたしは起き上がり、彼の顔を直視した。早羅さんの瞳は寂しげだった。

「器様には、産まれた時からの因果があるんだよ。それは、生粋の村人にだけ効力がある。カリスマとか、魅了と言ってもいい。

 つまり村人は、器様に強い愛情を抱くように出来ている。だから、全ての攻撃の因果は、器様の前では無効になる。

 働き蜂が女王蜂を攻撃できないのと同じだ。むしろ、彼らは女王蜂のために、千里を飛ぶ」

 わたしの頭に、それまで会った村人さんたちの瞳が、走馬灯みたいに浮かんでは消えた。

 みんな、涙ぐんでいた。それに九虚君。彼は、器様の因果がきつい、と言っていた。納得がいく。けれど、それでは。

 早羅さん、も……?

 口を半ば開いて放心するわたしを、カーテンから差し込んだ朝陽が照らして。早羅さんは、そんなわたしに、苦しそうに目を細めて、言った。

「君は、女王の卵なんだ。だから、心配しなくていい」

 彼の言葉は、わたしを叩きのめした。

 でも、何故かは、すぐに分からなかったので、その衝撃は、思考を必要とした。


 

 その日、わたしは朝早くに、上野へ出かけた。

 象さんが見たくなったのだ。何故かは分からなかったけれど、夢の影響かもしれない。けれど、動物園の開園前にできる人だかりの、主に家族という単位たちの、冬だからだろうか、暖かな白い息に代表される幸福に、彼らに刻まれるこの日に、眩暈を覚えそうになって、わたしは(きびす)を返した。その後ろを、早羅さんが護衛として離れず。

 わたしたちの間には、歩幅五つ分くらいの距離があった。手は昨日と違い、つないでいなかったので、手のひらに冬の風と、寂しさを感じていた。でも、わたしがお願いしたのだ。

「今日は後ろをついて来て。いいと言うまで、敬語を使って。

 ……わたし、女王様なんでしょ? 」

 彼は了承した。いつもと変わらない、穏やかな顔で。


 動物園を諦めて、でも人ごみに突入する気力も無かったので、上野動物園の近くの博物館の傍の住宅街に、隠れるように営まれる、けれど菓子好きには人気な、西洋菓子店に向かった。

 隣に早羅さんがいない。寒い。会話がしたい。振り返りたい。けど、敬語で話されたくない。いや、わたしがお願いしたんだけど。でも。女王様とか。何それ?


 寂しさは怒りになり、それは丁度、菓子店の前で臨界を迎えた。

「早羅さん」

「はい」

「ケーキ、とってきて。何でもいい。シュークリームでも。苺ショートでも。カシスベリーのレアチーズでも何でもいいから。とってきて。早羅さんなら、余裕でしょ」

 犯罪である。店から黙って盗んできて、とわたしは彼に言ったのだ。

 彼の穏やかな眉は、少しだけしかめられたので、この時わたしは、否定を期待した。

 いさめられたかった。そしたら謝るのだ。その行為によって、女王という言葉の距離と、距離に感じる絶望を、薄めるのだ。

 けれど、やはりわたしの期待とは裏腹に、早羅さんは柔らかくうなずいて。

「君が望むなら、行ってきます、ね」

 と言って、ためらいのない足取りで、扉の向こうに消えてしまった。

 この時、冬の快晴の風が、頬を切ってきて、わたしは孤独を覚えた。孤独が正しいと思う。それはわたしが招いた物だ。

 巣から落ちた雛の気持ちに、鬱々としているうちに、早羅さんが出てきた。綺麗な、白いレンガみたいな紙の箱を提げて、

「はい」

 と言って、それをわたしに渡した。

 開くと、シュークリームと、苺ショートと、カシスベリーのレアチーズが入っていた。

 それらは、純白の紙の包みという小さな空間の中で、地中海の宝石みたいな美しい煌きを帯びていて。

 カシスの甘酸っぱい匂いや、シュークリームのバニラビーンズの甘い香りが、嗅覚の毛細を魅了して。さすが人気店である。

 けれど。だけれど。わたしには、それらが、腐った果実にしか思えなかった。正常の対価を支払わず、早羅さんに手を汚させて、得た対価。それは、腐ったわたし、腐った桃の木にふさわしい。わたしは恥を覚えた。そして、それ以上に悲哀を、早羅さんに覚えた。

 なぜなら、彼は変わらなかったからだ。いつもどおり、少し眠たげな、黒目がちな二重で、微笑むように、わたしを見守ってくれていた。怒りも、非難も、悲哀すらなかった。わたしはそこに、彼の態度に、感情の不在を感じた。

 

 わたしの手は、箱を、開いたままひっくり返した。

 罪の果実たちは、重力に素直に加速して、シュークリームと苺ショートは地面の暗いコンクリート舗装に、カシスベリーはわたしの靴先に、それぞれ激突して、位置エネルギーの変換によって、潰れて白や深紅に輝きながら飛散した。

「靴が汚れたの。舐めて」

 わたしは、早羅さんの瞳を見据えて、冷たく、そう言った。

 彼の瞳に変化はなかった。眉だけが、やはり、少しだけしかめられた。そしてこれもやはり、柔らかくうなずいて

「君が望むなら」

 と言って、わたしの靴先にかがみ込んだので。

 静寂。

 ひどい静寂を、感じた。

 それは、喪失と言ってもいい。

 動物性脂肪分や小麦粉やグラニュー糖の塊とは、比較にならない何かを、わたしは潰そうとしている。

 そしてそれは、何の滞りもなく、行われてしまうのだ。

 ……わたしの消滅と同じくらい、静かに。

「やめて」

 わたしの喉から声が出て、それは涙を含んでいた。

 早羅さんが顔を上げて、ほっとしたように微笑んでくれて、

「ハンカチで拭きますね」

 と言って、靴先を綺麗にしてくれて、立上がり、

「後はカラス達にあげましょう」

 と、住宅街の空を見渡した。

 わたしは抱きつきたかった。抱きついて、泣いて、謝りたかった。けれど、距離が。それは、女王という言葉とか、また、黒い宝石の海に消える運命とか、そういう物が絡まって、結局、できたのは、財布から紙幣を二枚取り出して渡すことだけだった。

「お金、置いてきて」

「払っておきましたよ」

「お金、持ってきたの? いつも、わたしが払うから、持ってないのに」

「はい。何となく、予感がしまして、念のため」

 ……何というお見通し加減だ。

 至れり尽くせりがはなはだしい。けれど、だからこそ。

 わたしは不満を覚えた。

 彼の態度に。不変の忠誠がほのめかす、個人的な感情の不在に。そう、彼はわたしに迷わない。幼少からの時間もあって、わたしの性格を熟知している。

 でも、わたしは、騎士としての彼しか、知らないのだ。素の彼は、狂濡奇さんの方がよほど知っているだろうし。

 そして、わたしは彼を知らないまま、エスコートだけされて、やがて、運命に屠殺される。

 その全てを見守る彼を、黒い宝石の海の因果(ちから)によってではなく、惹き付けれるものが、わたしにあるのか?

 無い。

 全く無い。加えて、彼の敬語の自然さに、自信が全て削られる。それはわたしの自業自得だ。

 ……時間に、限りがあるのなら。いや、あるのだから。

 もっと有意義なことがしたい。こんな、自業自得的な茶番は嫌だ。もっと輝かしく、もっと、充実した時間を送れるはずだ。でも、その時間を踏み出そうとした瞬間に、わたしは消滅するかもしれない。それが怖い。希望が無いのが怖いのではない。希望に触れた瞬間、喪うのが怖いのだ。

 でも、普通、そうだろうと思う。わたしは、器様とかなんとか言われても、15歳になったばかりの小娘なのだ。怖くて自然だろう。そして、怯えるわたしを見守る早羅さんは、いつもどおりで、そこに感情は無い。海のように限りの無い愛情はあっても、その愛情は、わたしの中身(うつわ)因果(ちから)であり、殻であるわたしに向けられるものではないのだろう。

 そう。それが酷く悲しいのだ。

 ……ここでようやく、わたしは、今朝の衝撃の中身を理解して、上野駅に向かった。

 けれど、自宅に帰る気にはなれなかった。色々な憂鬱が、晴れ渡った遊歩道の青空となって、わたしを圧迫していた。

 結局わたしは、住まいとは方向の違う電車に乗った。方角自体は迷ったけれど、西だと際限が無い感じがしたので、東に向う電車に揺られることにした。

 いくつかの乗り換えを経る間、座席の向かいで、すみっこに肩を小さくする早羅さんの、やはり小さな顎下とその下の華奢な首筋を眺める。視線は合わせる気になれなかった。だって、どんなに、わたしの中に刻んでも、それは喪われてしまうし、彼に刻まれるわたしの姿は、結局は、器の力なのだ。

 中性的とも言える早羅さんの顔立ちでも、喉下にはちゃんと小さな膨らみがある。それはつまり、彼が男性であることを示している。つまり彼の肉体は、ちゃんと男性ホルモンを満たし、睾丸があり、テステトロンというホルモンを分泌しているのだ。わたしが消滅した後は、村の誰かと結ばれたりするのだろうか。

 彼の遺伝子は、XX染色体の保持者と結びついて、子供が産まれ、わたしの中身が、その命名をするのだろうか。子を成さなくても、例えば今消滅してしまったら、彼は、わたしを村に届けてから、狂濡奇さんとくっつくのだろうか。

 こんなどうしようもない思考は、結局、その朝の夢と、痛みに回帰し、わたしはその痛みに沈んだ。けれど、窓の外は穏やかな冬の田畑で、杉の林の向こうに広がる沼が、冬枯れの景色に色彩を与えたりして、電車の窓ガラスというフィルターを通して眺める景色は穏やかで、そこに電車そのものの、赤子を揺らすような揺れが加わって、わたしは眠気を覚えた。

 刹那。

 酷い恐怖に目を見開く。頬がこわばり、反射的に両手で顔を覆う。今、寝たら、わたしは消滅しないとは限らない。それは、捨てられる殻の、恐怖で。

 まあ、でも、昨日の状況よりは、楽だ。目の前には早羅さんしかいないし。つまり、他人の目、早羅さんの面目を気にせずに、声だけ我慢して、泣く事ができる。

 ということで、わたしは泣いた。声を出さず。早羅さんにしがみつかず、かけてくる彼の声を、小さく振った首で拒否して。顔を洗うみたいに首を曲げて、両手のひらに前髪とこめかみを埋めて、泣いた。

 

 電車は房総の東の端の港町に着いた。

 とても長いけれど、九十九里も無いと思われる浜の端を歩く。地面は岩と傾斜を帯びる。そこを登っていき、人気(ひとけ)の無い崖に立つと、体が吸い寄せられるみたいに、崖下に飛んだ。重力に綺麗に加速する。遥か下の青の濃い海面には、大小の岩が突き出ている。激突すれば、わたしは上野のケーキになる。

 弾ける血は、カシスベリーほど綺麗だろうか?できればそうであって欲しい、と思っていたら、早羅さんの叫び声が隣で聞こえた。そう、隣だ。

 彼は崖の黒い斜面を、垂直に走っていた。そのままわたしを抜き去る。飛び降りる前に、ちょっと上を見て貰ったのが失敗だった。後ろにダッシュして貰えば良かった。

 せっかく終われたのに。せっかく、早羅さんだけのわたしで、終われるところだったのに、と、残念に思う。

 けれど。懸命に、なりふり構わず、壁を垂直に駆けていく彼の後姿は、見てて微笑ましい。そう、それが早羅さんだ。わたしの好きな。

 海面から吹き上がる潮風に目がやられたのか、視界が涙で滲んだ。体が風の抵抗を受けて、腰が上に、背が下に引かれる。落とし穴に落ちる漫画みたいだ。

 急速に離れていく崖上の木々の彼方の、海風の吹き渡る青空は、高く、はるか上空に一筋の雲が、花嫁のレースみたいに、薄くかかっていて、わたしは結婚したいと思った。

 早羅さんの花嫁になりたい。

 それでいい。消滅しても、その後を彼が看てくれるなら、文句は言わない。予言やら何やらは、電話で受け付けよう。

 と、考えていると、肩甲骨と膝裏に、柔らかい手が、絹のように優しく触れたのを感じた。

 さすがは早羅さんである。息を荒くするという対価だけで、崖を垂直に駆け抜け、下の岩でわたしを待ち受けて、マットなんかより優しくわたしを受け止める。

 わたしの頬は自然にゆるんだ。やっと、今日初めて、彼に微笑むことができた。必死で余裕の無い、けれど波濤のしぶきの(しずく)が、ビーズみたいにいくつもきらめく髪は美しい。だから、落下の際も敬語だったのは、気にしない。何より、わたしはお姫様抱っこをされている。早羅さんの足元の岩に打ち付ける波音が、嫌にうるさいことはうるさいけれど、ロマンチックなことには変わりない。そう。ロマンチックだ。


 わたしは彼にお姫様だっこをされたまま、両手を彼の首に伸ばして、抱き寄せようと思った。唇を重ねたいと思ったからだ。

 けれど、彼の首は、松の樹のように硬く、動かなかった。それが、彼の意思だった。

 拒絶。どうしようもない、拒絶。

 「キス、したいの。力、抜いて」

 わたしは、腕に疲れを感じながら、そう呼びかけた。まだ、ロマンチックな何かが残っているうちに、首を曲げて欲しかった。そうすれば、わたしは幸せになれる。後は話し合いだ。けれど。

「座敷童が器様と唇を重ねるなど、畏れ多いことです」

 という返事が、穏やかに、けれど、はっきりと返ってきた。

 いつもどおりだ。身分の差という隔絶。隔絶という拒絶。拒絶の招く、沈黙。

 岩に崩壊する波のしぶく音がうるさ過ぎて、かえって静寂を感じる。

「……早羅さんって、わたしのこと、朱森紗愛のこと、全然好きじゃないよね」

 それは、わたしの総合的評価だった。彼は、いつも穏やかで眠たげで、強く、非情なほどに全力でわたしを守り抜く。けれどそれは、結局、亡くした友達への想いなのだ。もっと言うと、償いに過ぎない。わたしに対する愛情と思えたものは、結局、わたしのオートマチックな力に過ぎない。なにそれ。どれだけ馬鹿にしてるの? 運命って。

 わたしの言葉は、このように、素直な感想だったのだけど。随分と彼を揺るがしたらしい。

「……君の因果(ちから)を一番受けてきたのは、僕だ。好きじゃない訳、ない、じゃ、ないか」

 最後ら辺は、途切れ途切れで。言葉が切れるたびに、早羅さんの頬は紅潮していった。雲が夕に焼けるような、輝きと美しさがあった。

 穏やかな長い眉は、きつくしかめられ、綺麗な二重の瞳は熱く潤んだ。

「そう。因果(ちから)、かあ」

 わたしは力の抜けた声でそう言って、ため息をついた。

 房総の東の町に来て、崖から飛んだだけなのに、ずいぶんな疲労を感じる。体の芯から、何かが抜けてしまった。

 そんなわたしを、やはりお姫様抱っこしたまま、早羅さんは、まつ毛の長い瞼を、固く閉じて、その隙間と言えない隙間から、透明な滴が、幾つも生まれて、どこかの国の洗礼みたいに、一滴ずつかかって、わたしのおでこや頬を濡らした。

 それは、早羅さんの体温や、おそらく、魂と同じくらいの熱さだった。

 

 帰りの電車で、わたしは謝った。敬語もやめて貰った。

 そして、いつ、ばば様という因果が発現して、わたしが消滅するか分からないから不安で、ふさぎこんでしまい、いっそのこと、崖から飛び降りて終わらせたいと、衝動的に思ってしまった、と伝えると。

 ため息まじりに、彼は一つの(うた)を教えてくれた。覚えがある一句だ。万葉集に出てくる。女が、兵役に就く恋人を想う詩だ。

 わたしが復唱しようとすると、両手で口を塞がれた。

「これが、鍵の(うた)なんだ」

「何の鍵? 」

「君に、ばば様が降りる。つまり、いつ君に、ばば様が発現するか、僕も分からないけれど、この詩を唱えれば、いつでも発現する。君は、いつでも、終わらせれる」

「今でもいいのに」

 本音だった。それは、若者特有の投げやりと似ているようで、少し違っていた。信じていたもの、拠り所としてきた価値観、の崩壊による虚脱、と言っていいかもしれない。

 早羅さんは、そんなわたしを、じっと見て、悲しげに、こう言った。

「君には、広い場所で、できるだけ生きて欲しいんだ。文明社会っていうのかな。もちろん、これは僕個人の願いで、普通のヒトへの憧れで、嫉妬なんだけどね。

 いつかは村にお連れするけれど、できるだけ、器様には、文明社会ってやつを、ありのまま体験してほしい。それは、呪われた血の中でしか生きれない僕らが、絶対にできないことだ。だから、君には他の、普通の子達みたいに、勉強をして、才能にあった学校に進んで、結婚もして、幸せといえる幸せを、発現のぎりぎりまで、身に受けて欲しいんだ」

 結婚、という言葉が、わたしの胸に響いた。それは響きを繰り返しながら、胸の奥の、とても大事な所に孔をあけた。その孔の出現は、残酷なほどの痛みをともなったけど、わたしは表情に表さず、むしろ、呆けた遠い目で、こう言った。

「結婚、かあ」

 わたしの声は、痛みの輪郭をなぞるみたいで。体の芯から、色々なものが、炭酸みたいに抜けていくのが分かった。

 車窓の向こうに視線を投げると、田園全体に、黄昏特有の輝きに満ちていた。空の向こうは既に濃紺を帯びて、やがてその全体が、薄い闇に沈み、その一連の変化が、何かの終幕を告げていた。そう、終幕である。


  ……こうして、1994年のクリスマス・イブに、わたしの恋は終わった。

 


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