Saa…old 0 to 14
1
サイレンや悲鳴が近づいてきたので、
僕は滅道さんの到着が近いことが分かった。
御歳120を越える滅道さんの因果は今も健在で、彼を見る人は気を張っていないと、すぐに頭の中で血管が破裂してしまう。
だからこの街の夜空に響くサイレンも悲鳴も、彼の因果にその生を詰まれた人たちへの、餞の祝砲なのだ。
「…けど、迷惑だよ、なあ」
雲ひとつないけれど、地上の明かりに精彩を欠く紺色の夜空を見上げながらそうつぶやくと、
唇の隙間から白い息が上空に昇り消えていった。
寒い。
風がない夜だけど、その分底冷えがする。
こんな寒い夜に、村の助役の滅道さんは新生児を麻の布にくるんで走ってくる。
それがしきたりだから仕方ないと言えば仕方ないけれど、もう少し現代化しても良い気がする。
だって、生まれたてほやほやで外気に当たらないといけない新生児も可哀想だし。
滅道さんを見て死ぬ人たちも可哀想だ。
僕も可哀想だ。
いつ着くかわからないあの人に備えて気をはり続けるのは、
やたらと疲れるけれど、気を抜いた時に到着されたら即死である。
これは避けないといけない。
でも疲れる。
「おめでたいことなんだけどなあ」
僕はそうつぶやいて、山科産婦人科と黒く書かれた大理石の看板に視線を落とした。
こちらは立派な大病院ですよ と全力アピールしている立派な大理石である。
でもここで産まれる子供たちが、立派な人になるかは分からない。
本人次第なのだ。
多くは平凡に生きてささやかに死んでいくのだろう。
今現在、滅道さんの腕の中に在る彼女は、どういう生を歩むのだろうか?
そして僕は彼女にババ様が降りる時、何を思うのだろうか?
全然分からない。
予想もつかない。
「早羅君。こんばんは」
滅道さんが、夜空を覆い隠すように立っていた。
僕のちょうど後ろだ。
新生児とおそろいの黒染めの麻布をまとってフードを被っている。
この人の体は大きい。
2mを軽く越す。
シワだらけのモアイ像みたいな鼻と口が、フードの陰から浮かぶのはいつもどおりだ。
目を包帯が覆っているのも。
今晩はこの包帯が湿っているけれど、この理由は察しがつく。
けれど、確認するわけにはいかない。
なんせ滅道さんの本当の因果は直死の魔眼なので、見た瞬間即死だ。
気をはるとかそんな根性論は全く意味をなさない。
さすがは村の助役さんだ。
ちなみに彼の目を見て生きている人はいないけれど、
うわさによると、目は一つしかないらしい。
さすがは村の助役さんらしい、お化けっぽさだ。
「こんばんは。予定の時間よりはやいですね」
僕が滅道さんに向き直って見上げながらそう言うと、モアイな唇の端が柔らかく上がった。
「ああ。すまないね。年が寄ると足腰も弱くなってね。時間に間に合わないかと急いてしまった」
僕は助役さんのしわがれた声に合わせて微笑む。
「病院、入りますか?」
「いや、君と違ってわたしは目立つからね。それに、入ったら大惨事になってしまうよ」
「わかりました。器様を。こちらに」
そう言って、両手を滅道さんに向かって伸ばすと、助役さんは。
「よろしく、頼むよ」
と、しわがれているけれど、新郎に娘を渡す花嫁のパパみたいな優しい声で、僕の腕にその子を受け渡した。
「承服いたしました」
と応えて腕の中にその子を抱いたとたん、とても泣きたいような、懐かしいような、兎追いしかの山とかそんな故郷みたいな謡でも似合いそうな、
不思議な気持ちが、覚悟してた以上に胸にこみ上げてきて、沸き上がって、溢れて。
僕はとてもびっくりした。
「滅道さん」
「ん?」
「お猿さんみたいですね。この器様」
「産まれたてだからね。……さて、ちょうど時間だ。千骸君によろしくと伝えておくれ」
「ふぁい」
はい、ではなく、ふぁいと言ったのは。
目じりから涙が、鼻の穴から鼻水が溢れて、感情が胸に詰まって
これが器様の因果であると分かっていても、どうしようもなかったからだ。
しかしこの状態でも気をはりつづけないと、即死である。
村人というのは難儀であることこの上ない。
それにしても……。
- 村人たちに愛される因果、かぁ。
器様の特性とは聞いてたけれど、すごい、なあ。-
すごいのである。
滅道さんの魔眼を覆う包帯が湿っているのは、助役さんも泣いているからだし。
助役さんでこうなのだから、僕なんかは号泣の衝動に抗いようがない。
のみならず、滅道さんの因果すら効かせないという、恐るべきすごさなのである。
「あ、滅道さん」
僕は肩のすぐ下の力こぶで涙と鼻水をぬぐって、呼吸を回復してから助役さんの背中に呼びかけた。
「ん?」
「境間君は元気でしたよ。因果も抑えが利くようになってました。あと、僕の脇ポケットに贈り物あります。取ってってください」
肩越しに振り返る滅道さんに一気にまくし立てると、助役さんは僕の方に戻ってきて、
「そうかい」
と言って、開いた脇ポケットに、シャーロックホームズのパイプみたいに太い指を突っ込んで、中をまさぐって取り出して、首をかしげる。
「これは?」
「カイロです。帰りの道は寒いでしょうから、それでお腹を温めてください」
そう答えると、助役さんはシワシワの唇でくすっと笑って、
「ありがとう。君を防人に選んで良かったよ」
と言ってきびすを返して、そのまま闇に溶けるように消えてしまった。
この消え方は、おそらく助役さんなりの照れ隠しなのだろう。
「……だといいけど、さ」
滅道さんのいなくなった闇にそうつぶやいてから、やっとこさ気を全身から抜いて、こった首をこきこきしてから。
山科産婦人科の通用門に向かって歩き出す。
腕の中では麻布に包まれた器様が、猿みたいに真っ赤な顔をして、苦痛をぎゅっと我慢するみたいにまぶたを閉じている。
可愛くない。
けれど、油断するとまた涙がこみあげてきそうなほど、愛おしい。
「……まあ、よろしくお願いします、よ。器様」
僕はそう言って、通用門に歩く速度を速めた。
2
吹き上げる海風に髪を乱されながら、切り立った断崖に立って下を眺めると、足元からはるか下の海面に、黒土にまみれたジャガイモみたいな形の大小の岩たちが顔を出していて、そこに波が白い飛沫をあげながら寄せていたのだけれど。
わたしはそれらに教育番組でずっと前に観た切り絵や、日本の昔話という絵本調のアニメーションを連想した。
潮騒の音が小豆を研ぐみたいに一定のリズムを刻んで、いや、小豆をといだことなどないのだけど、まあそんな雰囲気としてとらえていただけると助かる。
で、そのリズムに誘われるように崖から飛ぶと。
一瞬重力を忘れたように、ふわっと海風に浮いた体は、崖下の濃い青の波面やジャガイモ色の岩に向かって自由落下を始めた。
ここまではとても自然な物理法則に沿っていると思うので、文章の上手い下手はおいておいて、
それなりに分かりやすいと思う。
要は、崖から飛んで、はるか下の海面やら岩やらに激突すべく落下しているという、ただそれだけの話なのだけど。
異常なのは。
わたしの隣、崖の壁面を海面に向かって防人の早羅さんが
「紗愛ちゃん何やってんですかああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
と叫びながら全速力で走っているという。
これは怪奇である。
そもそも早羅さんの存在自体が怪奇なのだ。
わたし、朱森紗愛は怪奇でも何でもない極平凡な父と母のもとに生まれた。
今はITソリューションとかいう意味のよく分からない分野の会社を経営して、バブル崩壊の荒波を乗り越えて注目のベンチャー企業10選とかいう雑誌の記事に顔写真が載るような父も、まだシュッとしていて、母と白菜鍋とかを食べていた頃。
早羅さんは1ルームアパートの片隅の赤ちゃんベッドの柵の中ではいはいをするわたしに、ひたすら、いないいないばぁ、をしていた。
それが、早羅さんについての一番古い記憶である。
ちなみに彼は父とも母とも何の縁もゆかりもないし、なんと知人ですらない。
そんな人が物心つく前からわたし達と住んでいる。
これを読む人は訳が分からないと思うけれど、書いているわたしが一番わけがわからない。
つまり、父も母も目の前の早羅さんの存在に全く気付かないのだ。
ちなみに早羅さんはお化けでも、わたしの妄想でもない。
ちゃんと皿の上のおかずもつまむしお茶碗も洗うし、朝の洗顔では隣でタオルをくれる。
だから、おかずは減るしお茶碗は綺麗になるし、タオルだって濡れる。
けれど、早羅さんのそういう全ての行動を、父も母も認識しないのだ。
これは怪奇である。
わたしだけが、早羅さんがいる事が分かるし、していることも目に映るのだけれど、
他の誰も、彼が見えないので、
― 正確には見えているのだけれど、認知されないらしい。―
彼と話しているわたしは空っぽの空中に話しかける可哀想な子に見えていたらしい。
実際、わたしが小学に入りたてのころ、母親にも精神科に連れていかれて検査を受けさせられるという事があった。
IQ検査に面談、性格検査で1日かかった3週間後の結果発表で医者が、
「とてもIQの高いお子さんです。想像力が豊かなのでしょう。
ただ、こういうことは自然に治まりますから、無理に辞めさせようとして、怒ったりしないで、温かく見守って下さいね」
とありがたいのだかありがたくないのだかよく分からない御託を述べた時、わたしは隣にしゃがみ込む早羅さんを見た。
早羅さんは困ったみたいに笑って、
「仕方がないよ。僕のご先祖様は座敷童だし、
座敷童はヒトの目には映らないんだ」
と言った。
この時、何か、早羅さんごと世の中から馬鹿にされて無視をされているような、不快と怒りを覚えたのだけれど、自分で言うのもなんだけれど、物分かりがいいわたしは次の日から、人がいる場所で早羅さんと話したいときは、彼を見ないで、できるだけ声を抑えてつぶやくことにした。
どこにいても、何をしていても、早羅さんはわたしの声をちゃんと聴いてくれるので、これが正解だったのだろう。
まあ、結果としては、空中に話しかける可哀想な子から、独り言をぶつぶつ呟く暗い子、に周囲の評価が変わっただけだけど、
それでも、である。
早羅さんと話す事で周りがわたしを変な目で見て、そのことで彼が心を痛めるよりは、100万倍以上マシなのだ。
加えて、前向きなわたしは、早羅さんを見る事ができるのがわたしだけである事を、特権だと思うようになった。
だって、早羅さんの顔は、テレビのブラウン管の中でスケートに乗ってはちまきして下手な歌を歌う
アイドルの男たちよりも、確実に整っているだけではなく。
見ているととても穏やかな気持ちになってしまう位、笑顔が穏やかな癒し系なのである。
ゆるくウェーブがかかって肩まで伸びた黒髪はつやつやしていて、アイドルの女の子よりも小さな丸顔は輪郭がとても綺麗だ。
長い眉毛とその下のくるんと上向いた長いまつ毛。
の下のくっきりとした二重の瞼の瞳は、慈しみに満ちている。
しかも、これは第2の怪奇なのだけど、この男の子は老けないのだ。
わたしと同じ、15歳くらいの見た目が、ずううっと昔から変わらない。
わたしが中学に上がった時、訊こうとして何となく聞けなかった歳を訊いたら。
31歳だという。
全国の31歳の男性に喧嘩を売るつもりはないけれど、31歳でこの綺麗さはないだろう、
とわたしは全力で突っ込まざるを得なく、実際突っ込むと。
「いや、ほら、座敷童って老けないから」
ちょっと困った顔をして彼はそう返してくれたのだけど。
この時わたしの脳裏に一抹の不安がよぎり、それを素直に口に出してしまった。
「わたしがおばあちゃんとかになっちゃっても、早羅さんは、見た目15歳のままなの?」
彼はもっと困った、というより、少し寂しそうな顔をした。
「その頃には僕は死んでるね。……器様をお守りするのが防人の仕事ですけど、防人の寿命は不思議と短いんです」
この時わたしは、明らかにムッとした。
早羅さんの寿命が短い事。
わたしが紗愛ちゃんと呼ばれずに器様とか他人行儀に呼ばれる事。
これは悲しく寂しい。
そして、わたしは寂しいと怒るのである。
むくれた顔をして、ぷいっ、と顔を背けたわたしをまじまじと見ながら、早羅さんは困ったみたいに笑った。
「村人としては器様のそばにいれることって、本当に嬉しいんですよ。つまり、僕は紗愛ちゃんのそばにいれて幸せだし、だからちょっとくらい寿命が短くたって文句は言う気にならないよ。けど……」
口ごもった言葉の続きが気になって、13歳だったわたしは横目でちらりと彼をみた。
続きをはやくと思うけれど中々言わないので、結局わたしがしびれを切らした。
「さっさと言ってよ。晩御飯のおかずあげないわよ?」
そのころのわたしは晩御飯のおかずをあげるとかあげないとかで彼を釣っていた。
今考えるととても子供っぽいのだけど、そういう幼稚さに付き合ってくれる早羅さんも早羅さんである。
優しすぎる。
「それは、お腹が減っちゃうなあ」
「しかも今すぐ言ってくれたら羊羮もつけてあげる。」
頑張って上目づかいをした。
「……つぶあんでお願いいたします」
「分かった。で、何なの?」
早羅さんはため息をついて、長いまつげを美しく伏せながら頭をポリポリした。
「ロリコンとか思われたら立つ瀬ないんだけどね。紗愛ちゃんみたいな綺麗な女の子を守るなら、できれば、笑顔を見ていたいなあ。」
「……」
「え」
わたしの沈黙に対して、分かりやすい不安とか、やってしまった感を帯びた彼の発音が可愛らしい。
そもそも31歳を可愛らしいと思うわたし、当時13歳も稀少である。
「やーい、ロリコン!!」
はやし立てるわたしの言葉に、早羅さんはがっくりと肩を落とした。
「……だよなあ。立つ瀬がないわ」
「うっそ‼うっれしいっ!!」
語尾を弾ませまくりながら、わたしは早羅さんに飛び付くように抱きついた。
ビーチフラッグ大会で優勝できそうな勢いだった。
……これでもかというほどメロメロの恥ずかしい描写を精一杯したので、読む方は察して欲しい。
わたしは、早羅さん、産まれてこのかたずっと共にいてくれた彼に。
……恋をしていたのだ。
しかもそれは、初めての恋だった。
3
わたしが早羅さんに恋をするようになったのは、いつからだったのだろう。
10歳くらいまでは、お風呂で背中を流してもらうことすら自然で。
お湯の温度も彼が調整してくれていた。
あ、でも、彼と一緒の浴槽に浸かることはなかった。
わたしは全然かまわなかったし、一緒に入ろ?と一度提案したことがあったのだけれど、
その時彼は。
「器様と座敷童が浴槽を共にするなど、恐れ多いことです」
と、言って、ゆっくりとした綺麗な仕草で床に両膝を着いて、平服した。
一連の様子がとても静かで穏やかで、その静かさに泣きたくなっる。
基本的に彼はゆるふわの権化という感じなのだけれど、防人としての立場を説明する時、とても静かにそして厳かに語る。
それが早羅さんのアイデンティテイなのだろう。
11歳になると、背中を流すことも、防人としての立場上厳しくなったらしく、わたしは一人でシャワーを浴びたり入浴するようになったのだが。
あれは一人シャワーの第1回目の話である。
温度調整の操作手順は早羅さんから入念な説明を受けたのだけれど、間違えてしまった。
当時の温度調節は、水と熱湯の出量をそれぞれ調整して、中でミックスされた湯を蛇口やシャワーから出すというものだったのだけれど。
水の青を止めて、熱湯の赤を全開にしてしまった。
そのまま湯を出しかけた時。
つまり、顔から全身にかけて熱湯を浴びかけた時。
浴室の引き戸が悲鳴を上げて頬に風を感じたと思ったその刹那。
わたしは早羅さんに抱きしめられていた。
彼はわたしをかばう事で、降り注ぐ熱湯を防いでいた。
もうもうと沸き上がる湯気にその熱さが熱さを超えて拷問に近い痛みとして、早羅さんの背中を焼いているのが分かり、
わたしは叫ぶか泣くかおそらく両方をしたくなったのだけれど。
彼は痛みに赤くなった頬と潤んだ瞳で。
「大丈夫、だから」
と言って、優しく柔らかく微笑みかけてくれて、その刹那。
心臓をわしづかみにされるような、衝撃と痛みと、そしてとても甘い感情を胸に覚えた。
あの時、だったのだろう。
わたしが彼に恋をしたのは。
不思議な居候が唯一無二の騎士に変わったのは。
……早羅さんはわたしを浴室の外に出して、真剣な光を宿した虹彩で、こちらを真っすぐに見た。
「焼けどはありませんか?どこか、かかっていませんか?」
彼の声色に余裕は全くなく、わたしが声を出せないまま、この非常事態に目を潤ませて首を横に小さく振ると、彼は、
「良かった……」
と言って、へなへなと脱衣所の床にへたり込んでから、ボイラーのスイッチを切って、
「申し訳ありません。器様を驚かせてしまいました」
とひれ伏しながら言った。
こういう時には必ず、紗愛ちゃんではなく、器様、なのである。そして必ず、悲しいほど、非を彼自身に求める。
でもわたしはその時、寂しさとか悲しさとかを胸の中でこねくり回す余裕などなく、
母親の、どうしたのー、というのんきな声が階下から響いてきて、母が来る前に、いや、そんな事は関係なく手当を早くせねばと逆に混乱してしまったのだけれど。
そんなわたしに、早羅さんは再びほほ笑んで。
「僕は村の防人だからね、これくらいの事は、普通だから」
と言ってくれたけれど。
もちろんそんな事はなかった。
その晩、アロエのプランターから拝借した果肉を背にあてて、
苦痛に耐えながらうずくまる彼に、
ポカリとか薬箱の痛み止めとかを運んだのだけれど、
彼は謝絶してひたすら痛みに耐えていた。
その姿は何か、傷ついた美しい獣のようで、わたしの頭の中には、器様とか、防人とか、村とか、どういう事なのだろう?
何が彼をここまでさせるのだろう?
訊くたびにいつもはぐらかされてきた疑問が、その晩はいつもに増して強くて渦巻いて眠れなかったのだけれど。
それは少なくとも、彼を傍目に寝てしまうよりも良かったと思う。
けど、結局寝てしまい、しかもそれは夢も見ない深い眠りだった。
……起きると。
早羅さんがおでこを撫でてくれていた。
キテイちゃん柄のカーテンの隙間から差し込む朝の陽が、彼の輪郭の綺麗な頬を照らしていた。
彼と目が合う。
その瞳が宿す慈悲に、色々な気持ちが子供なりにも込み上げて、
とても泣きたくなった。
「……」
「おはようございます。」
「……」
返事の代わりに、わたしは両手で掛け布団の端をつかんで、そのままおでこにずり上げて、彼から顔を隠した。
顔を見れなかったからだ。
でも、見たかった。
けれど見れなかった。
沈黙が柔らかく続く。
破ってくれたのは早羅さんだった。
「昨日はすいませんでした。うつわさ……」
「早羅さん。」わたしは泣きだしたいのをこらえながら、彼の声を遮った。
「はい」
「器様って呼ばない、で」
「……」
……沈黙。
わたしの胸は布団で作った暗闇のなかで、きゅううと痛み、耐えかねて言葉を漏らす。
「……今だけでいい、から」
「……分かった。紗愛ちゃん。無事でいてくれてありがとう」
ー この人、普通のヒトだったら絶対女ったらしだ。ー
自覚の有り無しは関係ない。
それくらい彼の言葉に、柔らかな声色にぐっときた。
「早羅さん」
「はい」
「器様って、村って、何なの?いつもはぐらかすけど、教えて」
「……」
「お願い。」
「……紗愛ちゃんが、15歳になったら教えて差し上げますよ。これは約束です」
静かで、そして厳かな語り口だけど。器様ではなく、紗愛ちゃんという言葉を彼が使ってくれたその優しさに。
それが精一杯であると知って泣いてしまった。
わたしはどうやら、精一杯というものに弱いらしい。
結局、15歳になるまで、村や器様について彼に問いただすことはなかった。
4
ここまで読んだ人は早羅さんについてどういう印象を抱くのだろう?
猫型ロボットの美少年版?
現代版座敷童?
わたしには分からない。
早羅さんは早羅さんだからだ。
そして彼は上の2つとは丸っきり違っていた。
だって、彼はわたしを守り続けてくれたけれど、
時々とても恐ろしい事をしたからだ。
これはその時の話である。
あれは14歳の夏休みだったと思う。
わたし達は在住していた市を南北に流れる川の土手を南に歩いていた。
河口が近く、海の匂いが風に薫っていて、のどかな事この上なく。
早羅さんが日傘を持ってくれていて、わたしはというと小豆氷菓をかじっていた。
海が見たいから歩こう、とその日、彼を自宅から連れ出したのだ。
「紗愛ちゃん」
と唐突に言ってきたので、わたしは彼を見て、
「食べたい?」
とアイスを差し出した。
「食べたいけど、後ででいい。帰ろう。この先は進まない方がいい」
わたしはきょとんとして彼の、真っすぐ先を見据える目を見た。
何が映っているのだろうと思って、彼の視線の方向を見る。
川は南に向かってゆるいカーブを描いていた。
河川敷は原っぱや、ところどころで公園になっていて、遊具の上で
子供たちが遊んでいる。
彼らの髪や、原っぱの緑の草の先や、土手に沿って植樹された樹の緑が南から薫る海風に揺れている。
夏の苛烈な陽ざしは海風に和らぎながらも、川を挟むように広がる赤茶けた工業地帯や、川に斜めにかかる白い大橋の景色を蜃気楼みたいに揺らめかせている。
何の変哲もない。
不吉さの欠片もない。
夏の午後の景色。
だけれど、早羅さんが、進まない方がいい、と言うのなら本当に進まない方がいいのだ。
彼は恐ろしく勘が働く。
勘というよりも、感覚が鋭いのかもしれない。
熱湯シャワー事件だって、冷水と温水の管の音で危険を察知して、わたしを守ってくれた。
自宅内なら、誰がどこを歩いて何をしてどこの電気がついてとか、配管や床の音で全てわかってしまう。
こう書くと早羅さんは座敷童というより、番犬に近い超人とも言えるけれど、もちろん早羅さんは早羅さんである。
その早羅さんが、帰りたがる。
― うん。帰ろう。―
「分かった」、
と言って、白のワンピースをふわあっとひるがえして方向を転換しようとした時。
「ごめん。僕はまた間違った」
「え?」わたしはきょとんとして、彼を見た。
「防人は器様のご意向を妨げてはならないのです。……だってそうだろう?安全を確保するだけなら、君をどこかに閉じ込めておけばいい。けど、それは違うんだ」
……多分、顔に出ていたのだろう。
土手の看板には、河口まで2㎞、と書かれていた。
2時間かけて、セミの声と夏の陽気の中を9㎞歩いてきたのだ。
つまり、ここで引き返すのはちょっと悔しかった。
けど。
「わたし、帰ってもいいよ?」
「大丈夫だよ」言いながら、早羅さんはわたしのおでこを覆う髪を、柔らかな手のひらで撫でながら。同じくらい柔らかい光を宿した瞳で、真っすぐこちらをみた。
ちなみにこの頃も、わたしの身長は成長を続けていて、とうとう早羅さんと背の高さが並んでしまっていて、女の子は背が小さい方が可愛いと思うわたしにとって、これは結構な悩みだったけれど、それは別の話である。
「……大した脅威じゃないんだ。ただ、紗愛ちゃんを怖がらせたくないだけで、さ」
「そうなの?」
「うん。僕も海が見たいからね。行こう」
わたしは首を傾げる。
「いいの?」
「うん。けど、ああ。小豆氷菓、欲しいな」
ちょっと意味が分からなかったけれど、この会話の間に半分溶けて、液体が土手の遊歩道にぽたぽたと垂れている、手元のアイスを、彼に素直に渡した。
「ありがとう」
柔らかくほほ笑んで、
「行こうか」
と早羅さんが言って、わたしたちは再び土手を歩き始めた。
わたしは早羅さんがさしてくれる日傘の影の下でドキドキして、
風景自体がいつもと違って、セミの声が大きくなって、何か怪奇な世界に歩いていくような気がしたけれど、一度決めた事である。
そんなわたしの隣で早羅さんはすぐにアイスを食べ終えて、残った棒を歩きながらまじまじと見て、
「当たり、かあ」
と残念そうにつぶやいた。
3分後。
海風に乗る潮の香りが強くなって。
陽ざしは相変わらずだった。
河川敷も原っぱも、その手前の公園も。
夏の陽に照らされる遊具も。
ただ。
子供たちが母親達とともに逃げまどっている。
南から薫る海風に悲鳴が乗って耳に届く。
猛々しい肉の塊のような、大型の土佐犬が一匹、鎖を地べたに引きずりながら、子供たちを襲っている。
7歳くらいの女の子が押し倒された。
腹をかじられる。
別の子も。
子供や母親たちは土手をこちらに上がってくる。
1人、母親が猛獣に立ちふさがった。
けれどすぐに脚を噛まれてたおされて腹や首をかじられる。
悲鳴。
土手に上がった母親たちは、子供を抱えてわたし達の横を駆け抜けて逃げ去っていく。
わたしはというと、きょとんとして、立ちすくんでしまった。
その間に、土佐犬は土手を駆けあがってきて、わたし達と対峙する形になる。。
「持ってて」
早羅さんは、わたしの手に日傘の柄を握らせてから、犬にすたすたと歩き始めた。
何の気負いも無い歩き方だ。
……その後は小さな怪奇だった。
早羅さんが一歩近づくたびに、土佐犬の迫る勢いは弱くなった。
猛獣の凶暴性に、弱者の哀願が混ざり換わるように。
四つ足の接近は駆けから歩みに変わって、最終的にお座りの形で遊歩道に縮こまった。
その犬は小刻みに小さく震えて、早羅さんは弱者にしゃがみ込んで、左手で頭部を撫でながら。
右手の親指と人差し指の先でつまんだアイスのあたり棒を猛獣の耳に挿し入れた。
それはケーキにナイフでも入れるような、滑らかで自然な入れ方で。
すっぽりとほとんど全部挿し入れてから、ねじでも回すみたいに
くるくると回す。
その一連の動作を、早羅さんは、それをすることが当たり前、みたいにしていたけれど、犬は。
挿し込まれた刹那に大きく泡を口からぶくぶくと吹いて。
目の粗いその泡には赤い血液が混じっていたのだけれど、
それが子供たちの血なのか、犬の血なのか分からなかった。
猛獣が、吠えることすら許されず、ただ腹を赤ん坊みたいに彼に晒してバタバタと胴体をよじらせながら、泡を吹き続けて、やがて完全な肉の塊になるまで。
わたしは猛獣にしゃがみこむ早羅さんの後ろ姿しか見えず、表情は確認できなかった。
ひとしきりの作業を終えて、血液と脳漿がべっとりと付着した当たり棒を土手の斜面に捨てて、そのまま手を洗うために川に下る彼の横顔には、何の感情もなく、彼の無感情さに近寄りがたいものを覚えてしまって、でも、いつまでも立ちすくむのも情けない気がしたので、土佐犬の前まで歩き、
しゃがみこんでまじまじと眺める。
夏が注ぐ陽の光に、毛並みというより、死肉の皮膚をびっしりと覆う硬そうな毛の一本一本が、光沢を帯びてきらきらしていた。
犬の口元の血の赤は濃く、それは上空の真夏の青と同じ質の濃さで、もう動かない何かなのに、とても濃い気配を感じる。
「触らない方がいいよ」
わたしの丁度後ろに早羅さんが立っていたので、しゃがんだまま首をのけぞる形で彼を見上げた。
「そうなの?」
「悪い菌にかかってるかもしれない。僕は動物使いじゃないからわからないけどね。もちろん触りたいなら触ればいいけど」
「救急車、呼ばないと」
早羅さんと話していたら、現実感が回復してきて、倒れている子供や母親たちに、視線を投げる。
「大丈夫さ。向こうにいる人たちがやってくれるよ」と彼がいってわたしの後方に視線を投げたので、
肩越しに振り返ろうとすると、
「振り返らない方がいい」
と言われた。
声が、とても冷たい。
「どうして?」
「……僕は彼らには見えないから、彼らは君が犬を殺したように思っている。逃げ惑うことしか知らない弱者のくせに、
救われた恩も忘れて、君に怪奇を重ねている。もちろん、振り返る返らないは紗愛ちゃんの自由だけど」
「そう、か」
「もう行こう」
早羅さんが手を差し伸べてくれたので、その手を取って、立ち上がり、2人で再び海に向かって歩き出した。
それから河口に着くまでの間、色々な疑問がわたしの脳裏に浮かんでは消えた。
…
「ねえ。早羅さん」
海風に吹かれて河口の隣の堤防にしゃがみながら、彼を見ずに呟く。
人気はなく、沖合いに小さく船が浮かぶだけで、後はひたすら空と海が青く開けていただけだけど、それでもこれは習慣である。
「ん?」
「海、綺麗でしょ?」
「ああ。来てよかった」
早羅さんはわたしの隣で立って日傘をさしながら、海風の下で
大きな弧を描く水平線を眺めていたのだけれど。
わたしをみて、柔らかくほほ笑んでそう言ってくれた。
けど、心は浮かない。
遠くに輝く水平線から、しゃがんだ足元のひびの入ったコンクリートに視線を落として、口を開く。
「……さっきのこと」
「うん」
「犬、じゃないよね。脅威って」
「うん」
「わたしが怖がると思ったのって、犬じゃなくて」
早羅さんはコンクリートに腰を下ろして、ため息をついた。
「…うん、ヒトだよ。彼らはとても弱く、そして理不尽に強い。
僕は彼らが恐怖にびくつく目が嫌いだし、そんな目を君に向けるのを見ると」
防人さんは一度言葉を切ってから、低いトーンで続けた。
「…全員、殺したくなる」
「止めてね」
「うん。分かった」
早羅さんの優しい声が海風に吸い込まれていく。
肩甲骨の下にまでのびたわたしの髪が別の海風にたなびき、顔面や視界に束みたいにかぶさってくるので右手のひらで押さえながら、泣きたい衝動をこらえた。
早羅さんはとても恐ろしい事を言っていたから、怖くて泣きたかったとかではない。
むしろ彼の言葉を聴くことで、わたしの中でいくつかの疑問が解けた。
……彼が怖いのは土佐犬ではなく、彼が嫌う、ヒトの目にわたしが傷つくことだった。
だから、帰ろうと言ったのだ。
彼が犬を止めなければ、もっと多くのヒトが襲われて、たくさんのヒトが、子供たちが、母親たちが、重く傷ついたり、死ぬことになっただろうけれど。そんなことは、この美しい座敷童さんには、関係がないのだ。
考え方の前提が著しく違っている。
とても大きな壁を感じる。
それは、早羅さんが、いつまでも少年の姿だったり、わたしや動物以外の誰にもに気づかれなかったり、土佐犬を圧倒したりさらっと殺せるくらい強かったりすることよりも、大きな壁で。
その大きさは寂しさに怒るにはあまりに大きく。
ただただ、とても悲しく。
それでも。
― ……わたしも、違うのかな。
普通の子なら、早羅さんを、怖い、とか思うのだろうけれど。 ―
頬に指が柔らかく触れた。
それは早羅さんの指で。
わたしの目元から頬にいつの間にか伝っていた涙を、ぬぐってくれていた。
ので。
わたしはとても可愛くない顔で早羅さんをじっと見て、それから、もう、こらえきれずに。彼の細い首に抱き着いて、泣いた。
わたしを泣かせたのは、とても切ない壁の存在だったけれど、抱き着いた彼の首から伝わる体温や、じっとりと湿った汗や、吐く息や息に含まれる水蒸気とか、そういうものに彼の存在を感じて。
やはり泣きたくなるほどの、幸福もまた、感じていた。
5
「土佐犬やべえ」
「やべえよなあ」
「怖いよねえ」
夏休みが明けると、クラスは河川敷で暴れた犬の話で持ち切りだった。
わたしが在住していた市では、交通事故とか工場の事故以外では
人が死ぬということがほとんどなかったので、土佐犬事件はそれなりにこの地域に衝撃を与えて、
この出来事にまつわる噂は尾ひれがつきまくって、
犬の体長は5mだとか。
― いやそれはもう象だろう。 ―
でもさらに馬鹿馬鹿しい噂があって。
白のワンピースの口裂け女が 、土佐犬を狂わせて襲わせてから飽きて、犬を呪い殺して平然と去った。
とか。
ー ……これは酷い。ー
早羅さんが、ヒトを嫌いたくなるのも分かる気がする。
「まじでやべえよなあ」
「5mって本当かなあ」
「めっちゃでかかったって。そんで容赦ないんだって。こっわ」
同じことを延々と話し続けるクラスの男女たちに、視線はおのずと冷ややかになる。
「朱森ぃ」
机をいくつも隔てた向こうから、わたしの名字が呼ばれたので、顔を向ける。
「何?」
「お前さぁ、よく土手歩くじゃん?白ワンピもよく着てるしさあ。口裂け女って、お前?」
目がふざけている。悪気が無いのは分かる。
けれど、酷く不快だ。
白のワンピースは早羅さんが似合うと言ってくれて、思い入れのある服だったので、なおさら不快である。
「……あの犬は大きいけど普通の犬だったわ。死ぬ前はおびえていた。わたしはワンピースを着てたしあれの前にいたけれど、口裂け女ではない」
……しん、と静まり返ったのは教室だったけれど、
凍ったのはその空間にいたの全ての男女たちで。
必然、彼らの全ての視線がわたしの顔面に突き刺さった。
けれど、たじろぐのも悔しい。
眉だけをひそめる。精一杯。
― 確かに、恐怖に怯える目というものは。……不快だ。
でも、こんなもので……。 ―
立ち上がる。
波紋が広がるみたいに教室の彼らはわたしを中心に後ずさった。
― 傷つきたくない。 ―
出口に向かい、そのまま廊下に出て保健室に向かう途中。
「大丈夫?」
隣の早羅さんの柔らかい声に。
涙が出そうになるけど、下唇を噛んでこらえて、しばらく歩いた。
「……確かに、犬の方がきつくない」
唇から自然に漏れでた声に、早羅さんは穏やかにうなずいてくれる。
「だよね。少なくとも犬は無邪気だったし」
ため息まじりに言う早羅さんに。
はっ
とする。
『全員殺したくなる』
という言葉を思い出して頬から血の気がひく。
伝えたい想いを言語化できないまま、必死で彼を見ると。
「大丈夫だよ。僕は、君との約束は忘れない」
とても柔らかい光を宿した瞳で、そう言ってくれたので。頬に熱を感じながら小さくうなずきつつ、ふと。
彼の右手の中にある物に気づいた。
「早羅さん」
「うん?」
「何それ?」
「ああ」
彼は右手に視線を落として苦笑をした。
「悪意の数。僕らが教室を出る時にね、飛んで来たんだよ」
彼の手のひらには、消しゴムが5個握られていて、わたしは硬直し、そんなわたしに早羅さんは再び苦笑をした。
「大丈夫だよ。彼らは意味も分かっていない。まあ、約束が無かったら報復はしてたけどさ」
静かに言って、彼は手のひらをぎゅっと握り、中庭を望む窓を開いて、悪意を手のひらから解放した。
5個あったはずのそれらは、1つのいびつで長細い物体に潰されていて。
どれだけの握力と、握力を生む憤怒があれば、物体がそうなるのか、わたしは分からない。
小さく窓の下の木立の緑に吸い込まれていく悪意のなれはてに、
美しく視線を落とす早羅さんは、とても傷ついているように見えた。
…その日、早退をして、翌日以降は、あの学級に登校することは無かった。
恐怖の視線にさらされるわたしに、消ゴム事件みたいに早羅さんが傷つくことを恐れたし、そこまで我慢して通う価値のある場所だとも思っていなかったからだ。
独り言をぼそぼそと呟くわたしに元々友達はいなかったし、
中学3年の時点で、わたしは難関と言われる国立大学の
過去問題集を読み漁るのみならず、似通った問題を作成する程度には、勉強というものには習熟していので、わざわざ教室に話しを聴きにいく必要もなかった。
もちろん、眠気の我慢の訓練にはなったから、そこまで無意味な場所ではないのは分かっているけれど、それは禅寺にでも行けばできることだし、そもそもわたしは苦行僧ではない。
ということで不登校になったのだけれど、3週間くらいは、クラスの子たちや卑屈な顔をした女教師が家に訪ねてくることが続いていた。
もちろん登校などしない。
そんな堂々と言うことでもないけれど、わたしは一度決めたらテコでも動かない。
3週間目の木曜日の夕方。
女教師の香水の香りが微かに残る空間を眺めながら
「ヒトの社会も大変だね」
と早羅さんが言ったので、わたしは彼に
「うん、そうだね」
と、うなずいた。
彼女は去る前に
『明日、待ってるね』
と言っていた。
明日。
彼女は本当に待っているだろう。
けれど、心から待っているかと言うと、
そうではないのだ。
何故か色々切なく。玄関にしゃがみこむ。
ー 虚しい。ー
「紗愛ちゃん」
「ん?」顔を上げると。
「勉強、しよう」
早羅さんが笑顔で言ってくれたので、うなずく。
口の端が自然に柔らかく上がる。
「今日こそ、ぐうの音も出なくしてやるから」
「期待しているよ」
わたしの宣言に、肩をすくめながら彼は奥の階段にきびすを返した。
6
わたしたちの勉強の仕方は特殊である。
センター試験や、国立大学レベルの問題しか解かない。
しかも解くのは早羅さんだけだ。
この形式に至るいきさつには、多くの説明がいるのだけど。
一言でいうと、これは真剣勝負なのである。
この真剣勝負に至る前までは、わたしは他の子たちと変わらないやり方で、勉強というものをしていた。
つまり普通に小学校で教師の話を聴いて、問題を解いて、暗記を試みたりなんなりしていたのだけれど、
そういう作業に臨むために机に向かう間、早羅さんも同じ学年の教科書やら練習ドリルやらを読んだりしていたのだけど、すぐ読破してしまって。
「続きが読みたいなあ」
ぽつりと言ったので、早羅さんは年上だからと、大して疑問にも思わずに、商店街の書店に赴いて中学3年生までの全教科の教科書と参考書を、買い込み、彼にプレゼントした。
「あげるから、持ってね」
と書店を出てからすぐ、彼にまとめて渡した時、それそれは感動してくれて、何事にも動じないゆるふわのほほんな常日頃の彼とは全然違って、頬を赤くして瞳も涙目になって、そんな彼にわたしは非常なる満足感を覚えた。
ちなみにこのプレゼントの費用は箪笥の底で眠るお年玉貯金からひねり出したのだけど、貯金を崩したことに全く後悔はなかった。
…これでわかるのだけれど、わたしはどちらかというと、好きな人にはメロメロに貢ぐタイプであり、初めての恋を覚えた相手が早羅さんでなければ、とんでもないことになっていたかもしれない。
そんなわけで、早羅さんがやはり全部、あっという間に読破してしまって、先が気になるけどお預け、みたいな顔をしているのを見た時に。
やっぱりお年玉貯金を箪笥の底から取り出して、再び本屋さんに行こうとしたら、制止されて、
「お金はあるんだ。買い物だけ手伝って欲しいな」
と言ってくれたので、もちろん大きくうなずく。
基本的に早羅さんと歩くのはとても楽しいし、ふわふわした気分になるのだ。何より、彼のためになれるのはとても嬉しい。
そんなわけでわたし達は再びとても大きなリュックサックと共に書店に向かい、高校3年生までの参考書とセンター試験用問題集をまとめて購入すると。
店員の中年男性にとても不思議な顔をされた。
まあ、これは不思議なことではない。
早羅さんは見えない人だから、わたしが代わりに買ってあげるしかないのだ。
例えば通販サービスがもっと充実した社会になったら、彼も生きやすくなるかもしれないけれど。そうしたら彼は本当に座敷童みたいな引きこもりになってしまうか。
いや、座敷童なのだけれど、わたしと外出する理由が減るのはやはり嫌だ。
……とまあこんな感じで再びまとめ買いした参考書類も、あっという間に読破してしまったので、彼は仕方なく、父の購入していた百科事典を読み漁るようになった。
これは書斎に運び込まれて以来、ずっとホコリをかぶり続けていたものなので、辞典たちにとっても幸福なことではないのだろうか。
ここまでは普通だと思う。
そして、ここからが違った。
わたしが宿題をしたり予習復習をしたりしている時に、思考がこんがらがって筆が止まる時に必ず彼は、ヒントとなる要点を教えてくれるのだけれど、教え方が鼻につくのである。
例えば、目盛りの問題で考え込む。
早羅さんは開いた窓の枠に肘を預けて、百科事典に目を通しながら、
「教科書52ページの下段に書いてあるよ」
と、こちらも見ずに言うのである。
そして本当に52ページの下段に書いてある。
いつもこういう感じなので、ある時訊いてみた。
「ページを当てるのも、座敷童の特技なの?」
「いや、ここの問題」
彼はのほほんとそう言って、綺麗な人差し指をこめかみに当てた。
「読みながらどこに何が書いてあるか。書いてある事がどうつながってるか。覚えただけだよ。まあ、村人は基本能力が高いし、あまり気にすることじゃない」
再び辞典に視線を落とす彼を凝視する。
「それって……。早羅さんがあたしよりもっのすごく頭の出来が違うってこと?」
「まあ、知能は人それぞれだけど、僕は村人だからね。村人ってのは基本身体能力が高いし、脳も身体の一部だから、僕は確かに君より知能が高いけどさ。そもそも器様に、知的能力なんて要らないからね。本当に気にしなくていい事だよ。」
……とてもカチンときた。
そりゃ、早羅さんが買い物で正当な手順を踏む以外は何でもできるのは知っていたけれど。
馬鹿で当たり前、みたいに言われるとさすがに傷つくので、わたしはこう訊いた。
「てことは、早羅さんは何でも解けるの?」
「うん、勉強とかいう暗号に関わることならね」
「ふーん。じゃあ、わたしが出した問題が解けなかったら、
わたしと頭の出来が違うってのは、嘘、よね」
「まあ、事実と違う事を言ったと、反省しないといけなくなるだろうね」
― やってやろうじゃないの。―
わたしは強く心に誓った。
不屈の闘志で、思い込んだらど根性である。
絶対早羅さんの解けない問題を出して、ぐうの音も言わせなくして、反省してもらって、どや顔で彼を許してあげるのだ。
ということで、国語算数社会理科について、手近な所から、ひたすら問題をつくり始めた。
けれど、どんな問題を出しても瞬殺的即答である。
そこでひねり問題について研究を始めた。
当たり前だけど、勉強というものは、暗記をするよりも、
問題を出す側になって考えた方が楽しいし、知識の咀嚼も用意になる。
ので、早羅さんに対する闘志とともに、勉強の楽しさを加速度的に感じるようになって。
小学校6年の時点で難関私立高校レベルの問題を作るようになっていたのだけれど。
やはり、これはさすがにわからないだろうという問題をいくつ出しても、
瞬殺的即答であり、心が折れかけた時に彼はこう言ってくれた。
「そりゃ、問題くらいソラで言えないとね。だって、理解してたら言えるだろう?でも、元々必要のないことなんだから、落ち込む必要もないよ」
のんきな顔である。
ふわふわしたのどかさである。
強制的に癒されてしまう。
が、わたしは再び、
― やってやろうじゃないの。―
と心に強く誓った。
というわけで、とりあえず、センター試験問題の暗誦を始め、それから難関国立大学の問題文も記憶して。記憶のためには、物事の順番の大枠を全体的に把握して、体系的な理解が必要である。
言葉にするとわかりにくいけれど、デッサンと感覚が似ているかもしれない。
つまり、頭だけ書いても後で整合性が取れなくなるのだ。
英語の文法でも数学の公式でも、全体の論理においてそれがどういう意味をもつのかを把握しながら理解しなければならないということなのだけど。
勉強が好きではない人は、あまりぴんとこないかもしれない。
けどわたしはこれがピンと来たし、意欲もアップして平日のみならず、休みの日にも図書館にこもるようになり。気が付けば、全国模試、学力テストも一位とか二位とかを行ったり来たりするようになっていた。
ちなみに父母は特進クラス的な塾にわたしを行かせたがったが、
それは頑に拒否した。
わたしにとって勉強とは、朱森紗愛と早羅さんとの間の真剣勝負なのである。
加えて、真剣勝負は早羅さんとの貴重な時間であり、そんな大切な時間を、他人である有象無象と無為に費やすにはもったい無いと思っていた。
そう。
わたしはどこかで、時間をもったいないと思っていた。
無限に思える人生を描く同世代の若者が多い中で、有限の時を感じていた。
それは結局、
「15歳になったら教えて差し上げます。」
という早羅さんの言葉に、あまり良くない類の運命を感じてしまっていたからで。
実際それは間違いではなかった。
7
不登校になったからと言ってこれといった弊害を特に感じることは無かったのだけれど。
早羅さんは落ち込む事が多くなった。
彼はよく、
「紗愛ちゃんには、できるだけ開けた場所が良かったけど、さ。」
とため息混じりに言うようになったのだけれど、
その意味がよく分からなかった。
開けた場所、という言葉の意味を深く考える前に、中学校の噂、わたしが土佐犬を呪い殺した妖女、とか本当に馬鹿馬鹿しいものが父母の耳に入ることになり、混乱した彼らに神社に連行されてお祓いを受けたり、東京の近郊に引っ越しをすることになったり色々な事が次々に押し寄せて、そんな事をしているうちに季節は秋を越えて冬を迎え、わたしは内申点よりも学力重視の私立高校にもちろん首席で合格した。
これにはそこまでの感慨は沸かなかった。
万が一落ちたら大検を受けるつもりだったし、そんな、一種の人生的な通過儀礼よりも、もっと嬉しいことがあった。
とうとう早羅さんとの真剣勝負に勝ったのである。
当時のわたしは既に国立大学受験の範囲を越えて、大学院レベルの書籍を英文とかドイツ語の原書で読み漁っていたのだが。幅広い何かを問うよりも、純粋な論理を問う事が分があると思って、
結局数学方面の問題を作成するようになったのはいいけれど。
当時の早羅さんはフェルマーの定理という300年以上解かれていない問題すら、完全証明してしまうレベルだったので、この戦いも絶望的に思えてしまった。
しかし、わたしは自身がたどり着いた結論を信じて、昼夜四六時中、数学書をめくりながら考え続ける。
ちなみに、大学院レベルの書籍というものはとても高く、世の中のIT革命の先駆け的会社として事業を加速度的に拡大していく
その勢いとは裏腹に、お小遣いとか家計簿的なやりくりが常識的な範囲を越えない朱森家で育つわたしは、お年玉貯金はおろか毎日のお財布だってすっからかんの閑古鳥だったけれど、後悔はなかった。
これは考えることが好きというのもあったし、結局早羅さんとのやりとりに意味を見出していた、というのもある。
わかりやすく言うと、わたしは好きな人のために
使うお金に後悔はしない。
と、どや顔で言い切れてしまうのである。
……その設問が浮かんだのは合格発表の日の朝で。
発表会場に向かう電車に揺られながら、車窓の向こうを流れていく桜並木に視線を投げていた時で。
わたしは、パステルカラーのバッグからメモ帳と万年筆を取り出して書き留めて。
それからすっかり忘れていたのだけれど、
会場に到着し母親に合格を電話で連絡した帰り道に。
再びメモを眺めて、頬が熱くなるのを感じた。
― これは。これが、それかもしれない。 ―
電車が遅く感じる。
合格発表よりもドキドキする。
10才の頃から膨らんでいた胸の内側で膨らむ期待。
のために、わたしは玄関で出迎えてくれた母親との会話も、おめでとうにありがとうとだけ言って無理やり切り上げて、自室に戻り机に向かい。
英語の原書も含めて書籍をまとめて取り出して、ひたすら関連問題を参照して。
それが的外れな問題ではないかの精査、確認を繰り返し、お祝いのご飯は体調不良を理由に後日にしてもらい。
はやる気持ちを抑えながら、途方もない確認作業をできるだけ最小限になるよう心掛けつつも、要点は逃さないようにひたすら計算と反証を繰り返して。結局深夜までかかったのだけど。
恐ろしく長い集中が終わって。
わたしは椅子の背もたれに背を預けながら天井を見た。
― 大丈夫。
この問題は、成り立つ。
しかも、誰も解いた事がない。 ―
「早羅さん」
「うん?」
「即答できなかったら、わたしの勝ちよね?」
早羅さんの瞳をじっと覗き込みながら、訊き、彼は柔らかくうなずいてくれた。
「ああ。いつもとは違うみたいだね。もちろんだよ。答えられなかったら君の勝ちだ」
その問題を彼に告げるとき、高揚する胸の高鳴りが、全身に広がるのを感じた。
……聖書を朗読するみたいに心を込めて読み上げてから。
恐る恐る早羅さんの顔を見ると。
何とである。
何とであるっ!!!
左の手のひらで支えた右ひじから伸びた腕の先に握った拳の親指を、
上唇に押し当てて、沈黙していたっ!!!!!!!!!!!!!!!!
長い眉を美しく寄せて、ひたすら数式を呟いている彼の姿にわたしは動悸を感じる。
即答できなかったらわたしの勝ちだけれど、完全勝利には、答えまで時間がかかった方がいい。
いや、
「ごめん、分からない」
と言ってもらえれば、超完全勝利である。
わたしは時計を見た。
午前0時5分。
「ごめん。時間が欲しい」
午前1時05分。
この言葉と共に、早羅さんは降参してくれたので、まるでプロポーズの言葉でも確認するみたいな、嬉しさと高揚を必死で抑えながら。
「それって、わたしの勝ち、てこと?」
と首を傾げながら訊くと、とても優しい光を宿した瞳でうなずきながら、
「ああ。紗愛ちゃん、おめでとう。君の勝ちだ。君を見くびってい…」
わたしは彼の言葉が終わる前に、首に抱き着いて。
抱きしめて。
嬉しくて嬉しくて。
泣いた。
とても長い真剣勝負の歳月が、走馬燈のように脳の記憶中枢でめくられ続けて。
ビデオテープを逆再生するみたいに戻っていって。
あの日まで。
器様は馬鹿でもいい、と言われたあの日まで戻って。
はたと気づいた。
― そうか。わたしは寂しかったのだ。色々なものが遠すぎる彼に、少しでも近くなりたかったのだ。そして、おそろしく時間がかかったけれど。わたしたちの壁は、薄くなった。 ―
感極まるとはこのことで。おでこも頬も涙腺も熱くなって。
声をあげて泣いてしまい。
そんなわたしに抱き着かれながら、
彼は背を左手のひらでぽんぽんと柔らかく叩きながら右手で頭を優しく撫でてくれて。
髪に触れる彼の指の優しさに、涙腺がさらに緩みまくった。
翌日。
昨夜の泣き声について訊いてきた母親に、
「合格が嬉しかったの」
と瞼を腫らして答えながら、ふと気づく。
― 設問を用意したのに解答を用意していない…!!
早羅さんに答えを訊かれたら、答えられない…!! ―
頬から血の気が引く。
壮大なぬか喜びをしてしまった。
わたし達の長年の真剣勝負の様式は早羅さんが答えられない命題を出して、わたしが答えて見せることを目的としていた。
つまり、答えられない命題を出すことが勝負ではなかった。
壮絶な片手落ちである。
……こういう場合、他の人ならどうするか、分からないので、その日に彼に謝ることにした。
「早羅さん。」
「うん?」
「昨日の問題なんだけど…」
「ああ。時間がかかるけれど、必ず解くから、もう少し時間が欲しい」
と、何回話題に出してもこんな感じで話を逸らされ続けているうちに、夏になってしまった。
そのころは、高校にも慣れて、なんと、お弁当を一緒に食べる子もできて。
体育の授業でもペア作成ではぶられる事もなく。
何より、である。
学力が飛びぬけている高校だけあって、独り言を小さく呟いている位では、浮かないのだ。
学年ではちらほらとエキセントリックでその分一芸に秀でている人も確認できたし、周りから見れば、わたしもその範囲だったのだろう。
これはありがたかった。
けれど、トイレを一緒に行ったり昼ごはんを一緒に食べたりエトセトラエトセトラする仲の子たちにも、例の問題のことは訊けなかった。
何故か恥ずかしかったからだ。
つまり、この問題の答えを訊かれた時に、分からない、では格好がつかないのである。
夏休みに入っても、壮絶な片手落ちの後始末をつけるべく、研究を続けていたのだけれど、
― なんか、これ、もしかして。問題として成り立たない、のかな? ―
と落ち込みかけた夜である。
「紗愛ちゃん、これ。読んで欲しい」
早羅さんが、A4ノートを10冊を、おずおずと渡してくれた。
ばつが悪そうなそうな顔をしているのでけげんに思いつつ、ノートの表題を見ると、わたしの出した命題が書かれていた。
思わず視線に驚きを込めて彼を見る。
困ったように笑っていた。
「申し訳ないくらい、時間がかったけど。やっと、答えがでたんだ」
「……」
彼の声色はプロポーズでもするかのような響きを帯びていたけれど、
わたしは返事をせずに、ノートに視線を落とし、勉強机において開き。
それから、とても長い時間をかけて彼のしたためた丁寧な筆跡の一言一句を確認し、
その全てを終えた時には窓の外の空が白みかけていて。
とても長い小説を読み終わった後のように、最後のノートを閉じて。
「……すごい。完全証明してる。すご、い」
と呟いてから、言葉を失った。
「時間がかかった。ごめんよ」
「ううん。すごすぎる。早羅さんって、知ってたけど、天才よね…」
論理というものは美しい。
真理というものは深淵の底にあり、そして意外に近くにある。
それが見える人を天才というのなら、彼は間違いなく天才であり、わたしは結局、熱心な凡才に過ぎないということを、彼の解答から思い知らされて。
― また、壁が厚くなってしまった。
嬉しいのに。
世紀の数学的発見が、ここにあるのに。
それよりも。 -
目頭に熱を感じる。
― わたしは、彼との壁の厚さに、悲哀を覚えている。
机にうつ伏せになって、泣きたい。―
「紗愛ちゃんが出してくれた問題だから、さ。謎のままにはしたくなかったんだ」
照れくさそうに、視線をそらしながら言う早羅さんが美しい。
わたしは彼が好きなのだ。
解けても、解けなくても。
同じ方向を彼と共に見つめたいのだ。
早羅さんの姿を映した視界が滲む。
涙で。
「僕はこの命題を考えながら、とても幸せだった。器様とか防人とかを抜きに。君と同じ方向を向けた事が嬉しい」
― うん、絶対この人、女ったらしだ。
本当に言ってほしい言葉をさらっと言えちゃうとか……
ずるいくらい、心に、響、く。 ―
涙腺は崩壊する。
けれど今回は、いつものように彼に抱き着くことはしなかった。
抱きしめてほしかったからだ。
けれど彼はそれをせず、かわりに、わたしの前髪を優しく撫でてくれた。
カーテンと窓の向こうの、遠くで。
鶏が朝を鳴いた。
8
その年は、わたしの高校の野球部が奮闘をして地区予選を勝ち抜き、夏の甲子園に出場を果たした。
これはステータスを知力に全振りのわが校にしては、とても珍しいことで、
地区予選を勝ち抜いた時は授業の関係で応援には行けなかったけれど、
早羅さんにお願いをしてラジオをイヤホンで聴いてもらっていたので、授業中に彼が
「勝ったよ」
と言った時、わたしは
「おお!」
と一人小さく叫んでクラスの注目を集めてしまった。
人間は基本お祭り騒ぎが好きなもので、わたしも多分に漏れない。
しかもその騒ぎの原因が精一杯頑張った成果なら、なおさら胸の底がくすぐったくなるような、素敵な何かを感じるし、この高揚や一体感がいつまでも続いてくれたらなあ、と何となく思ったりする。
まあ、この高校は知力に全振りなので、
生徒たちの関心も学術方面に集中しており。
汗やら熱気やら思い込んだら一直線に星を見上げるような人々に対する目は、温かいものばかりではなく、冷ややかな人も多くて。
……まあ、わたしもどちらかというと、冷ややか組に見られがちであるけれども、
ちょっと夜中にこっそり出向いて早羅さんに手伝ってもらって、
白地に黒の筆致で描かれた甲子園出場の垂れ幕に、ピンクの花柄を足したりするくらいには、熱かったりする。
まあ、そういうわけで、夏休みに突入し、全校応援に備えて
制服やら着替えのジャージやらハーフパンツやら保険証の写しやら汗ふきシートやらタオルやら洗面用具やら雨用の折りたたみ傘をバッグに詰め込んでいる時に、早羅さんが学校配布の応援グッズである黄色のメガホンをぱこぱこしながら。
「これ、いいなあ」
と言ったので、欲しいかと訊くと笑顔で否定された。
「おもちゃとして欲しいとかじゃないんだ。応援したいという想いが形状に詰まっているというか、さ」
「前もって言っておくけど。わたし、ホームランが出たりしたら、それ全力で振るから。想いに想いをめちゃくちゃ乗せるから。びっくりしないでね」
力こぶしを作るわたしに、早羅さんは、ははは、と笑った。
「幸せだね。野球部の丸刈り坊主君たちは。紗愛ちゃんとそこまで想いあえるなんて」
……わたしは意味がわからず、きょとんとして、首を傾げる。
と、彼は苦笑して首を横に小さく振った。
「特に意味は無いよ」
と言いながら、彼は窓を開けて、窓枠の向こうの青空と、綿菓子みたいに立ち上る遠くの入道雲に視線を投げて、
「…夏は、大気が濃いね」
と穏やかに言ってから、眩しそうに眼を細めた。
深夜バスで赴いた甲子園球場は、やはり天下の甲子園だけあって、道行く生徒たちみんな、どこの高校もそれぞれの譲れない想いを面立ちに滲ませていた。
― おおおお……!! ―
球場を包む真夏の炎天の陽気にも、よく分からない気合も覚えつつ人類が死滅して数百年経ったという説明にでも使われそうな蔓や蔦にまみれた壁面を、クラスの子たちから外れて見上げる。
「やあ、久しぶりだね」
20mほど後方から声がかかった。
中年の七三分けの教師、だろうか。
黒ズボンに白のワイシャツ。
左手でクリーム色のハンカチで汗でてかったをぬぐいながら、こちらに右手を振ってくる。
黒ぶちメガネの奥の瞳が穏やかで。
― 中学の先生、かな?でもなんで… ―
「千骸さん?」
早羅さんが驚いていた。
彼はその教師に向き直ってから、
真っすぐ彼を見て、顔をくしゃくしゃにして笑った。
そんな彼を見るのは初めてだった。
無邪気というのか。
15歳の少年に見える32歳ではなく、本当の15歳のように笑う姿に、驚きと、胸のどこかに複雑を覚えながら。
この唐突の出来事と、球場を包みつつある熱気の予感と、慣れない深夜バスの寝不足、そういう全てに当てられて、風景が歪みかけたけれど、ここで立ちくらみとか起こしたら恥ずかしいと思い、耐える。
― この先生は。早羅さんが見えて、早羅さんもこの人を知っている。つまり、『村の人』なのだろう。―
早羅さんが千骸さんと呼んだその先生は、足早に早羅さんのもとに来て、彼の両肩をわしっとつかみ、
「頑張っているね」
と、瞳と同じくらい穏やかな声でそう言ってから、まるで大成した卒業生の訪問に感極まる恩師みたいに、何度もうなずいてから、わたしの視線に気づき、こちらに向き直って、涙ぐむ。
「器様、お久しぶりでございます」
と言って、姿勢を正し深く一礼してきた。
9
千骸さんは顔を上げて、額の汗や目元に溢れる涙をハンカチで忙しくぬぐってから、ぶちメガネの向こうの穏やかな瞳と共に口角を上げた。
「応援で参られたのですか?」
との彼の問いに思わず姿勢を正して
「あ、はい」
と答えるわたしの隣で、早羅さんが首を傾げる。
「千骸さんも、応援ですか?」
「ああ、うん。暑いのに迷惑なことだよ」
千骸さんは一旦言葉を切って、目をしょぼしょぼさせる。
「うちの馬鹿校長が金にものいわせて、花形選手を他校から引き抜きまくりましてね。本当にいい迷惑ですよ。案件なので文句も言えませんが、夏休みくらい団扇片手に西瓜氷菓をかじっていたいですよねえ。甲子園はテレビで眺めるものです。しかし……」
そこで彼は言葉を切って、わたしをまじまじと見てきたので、
戸惑いを覚える。
初めてお会いした、早羅さん以外の村人、なのだ。
「何か?」
首を傾げるわたしに千骸さんは再び口角を上げた。
「早羅君は器様をちゃんとお守りしているのですね。安心しました」
「結構いつもひやひやしていますよ」
苦笑まじりに茶々を入れる早羅さんに村人さんは視線を移す。
「大丈夫だよ。器様はのびやかに育たれている。君の仕事が丁寧な証だ」
「ありがたいお言葉です」
「しかし、危なかった」
ため息交じりに言う千骸さんに、早羅さんの頬が硬直する。
「……どういうことですか?」
「今ね、案件の流れで護衛している男の子に、ね。ほら、あの子だよ」
村人さんは肩越しに振り返り、後方30mで列を成す高校生たちの集団を指さす。
1人。
とても背が高い男の子が歩いている。
黒髪が陽を受けてきらきらしている。
真っすぐで長い眉も。
凛々しいという言葉がぴたりと当てはまる涼やかな瞳も。
端正な鼻も口元も。
彼の周りだけ、陽の輝き方が違う、錯覚。
レオナルドダヴィンチが聖堂の天井に描いたキリストとか、ミケランジェロのダヴィデ像とかを
彷彿とさせられる、完璧に近い目鼻立ち。
― あの男の子の方が、村の人っぽい。 ―
「ああ、はい」
早羅さんがうなずくと同時に、千骸さんがほほ笑む。
「浮世離れって言葉が似合う子だろう。まだ無力な雛なんだけどね、僕の勘だと彼は強くなる」
「普通の子供にしか見えませんけどね」
早羅さんの声が冷たい。
「今はね。そして、このままならね。けれど、彼は強くなるよ。
境間君と並ぶくらいの強者になると思う。彼の名前は瀬長島優という。覚えておいて損は無いよ」
境間さんという名前を初めてきいたのだけれど、おそらくとても強い人なのだろう。
早羅さんが二重の瞳を大きく見開いて、あまり見ない感じの驚き方をしたので、そう思った。
「あの子の親権者が権力者でね。彼の依頼であの子を護衛しているんだけどね。いつもはもう1人、付いている。
今日は幸い、いないけどね。花華さんという台湾の武人で。この人が、本当に危ないんだ」
「というと」
「村人ではないのに、村人並みの強さを誇る。純粋な戦闘なら、大抵の村人は敵わないだろうね。あの人は化け物だよ。因果も無しに、武術の鍛練だけであそこまでなれるってのは、本当に世の中は広い」
「……」
早羅さんは沈黙して、美しい顔をしかめた。
千骸さんは両手のひらを彼に向けて、苦笑する。
「いや、器様に危険はないんだよ。彼女は弱者に興味を抱かないからね。強者にだけ恍惚と殺戮の衝動を覚えるらしい。おえらいさんが止めてくれているから、今のところ僕は無事だけど。護衛の契約が切れたら、間違いなく襲ってくるだろうなあ。実のところ、僕は契約の前に一度殺されかけててね。その際に手の内も明かされた。あれはきつい。しかも、契約切れを待ってるんだろうなあ。毎日、舌なめずりするみたいに、うっとりと僕を見て来るんだ。しかも絶世という言葉が似合う恐ろしいほどの美人だからね。これもきつい」
千骸さんは身をよじる仕草をした。
苦し気であり、また、嬉し気である。
早羅さんはしかめた眉を変えない。
「……千骸さんでも、手こずりそうですか?」
「手こずれるのなら、善戦だろうね。やり合ったら歯が立たないよ。鍛錬の末に神速と不可知の能力を修めた人だ。彼女は普通のヒトには見えないんだ。一定以上の強者にしか見えない。この能力は君に似ているけれど、彼女は更に異質でね。本気になったら強者にも認識しようがない。
そして彼女は強者を襲う」
千骸さんの声のトーンが低くなる。
それだけで、背筋が真夏の熱気を忘れて、とても寒くなった。
早羅さんは顔をしかめたままで、村人さんに
「ということは」
と短く尋ね、千骸さんはゆっくりとうなずいた。
数学の教師が生徒に正解をつたえるような、肯定のうなずきだった。
「そう。君と彼女が鉢合わせたら、もれなく襲ってくる。彼女は強いから、君の因果は効かないね。そして彼女の能力は君に効く。しかも村人並みの怪力と、麒麟を遥かに超える神速というおまけ付きでね」
「それは……器様の安全のためにも、摘まないといけませんね」
早羅さんの声がとても低く。
彼の姿に警戒の姿勢を取る獣が重なる。
なんかわたし達のまわりだけ、甲子園な感じがしない。
「僕でもだけど、君でも勝負にすらならないよ。それにあの人自体は器様の安全に差し障りない。村人ではないから器様の因果は効かないが、その分興味もひかないからね。それに、花華さんは戦闘以外では優しく誇り高い人なんだ。器様に迷惑がかからない場所とかには、気を使ってくれるだろう。けれど。」
なだめるようにそこまで言ってから、千骸さんは一度言葉を切って。
「……防人が死ぬのは良くない。まあ、なんとかするよ」
と言った。
時。
せんせーい、と、神話みたいに綺麗な男の子がいた列から、女の子が声を上げて。
千骸さんに手を大きく振ったので、村人さんは彼女に小さく振り返って、同じくらい小さく手を振った。
「もう行かないと。それじゃ、また。……器様、御機嫌よう」
千骸さんはそう言って、深く一礼をして。
彼の生徒たちの列に戻って行った。
その列が入り口に吸い込まれて行って消えた後も、早羅さんはそこを見つめ続ける。
眉をひそめて。
歯を食いしばり。
こめかみに植物の葉脈みたいに血管が浮きだっていて。
そんな彼の表情を見るのは初めてだったので。
「早羅さん」
「うん?」
「怒ってるの?顔、怖い」
とか、訊いてしまったのだけど、彼はそんなわたしにきょとんとして。困ったようにほほ笑む。
「ああ。違うんだ。僕は今」そこで一度言葉を切る。
瞳に迷いを浮かべて、沈黙。
こんな彼も初めてだ。
「……怖がってた。千骸さんは強い村人だからね。彼が、僕が死ぬっていうことは、本当に死ぬんだ。死んだら、君を守れないから。それは、避けたい」
長いまつ毛を伏せて言う彼に、胸の奥が抉れる。
けれど、早羅さんはすっかり、いつもに戻っていて、言葉を失うわたしに、柔らかくほほ笑んでくれた。上空から注ぐ陽に夏が戻った気がした。
「行こうか。クラスのみんなが不思議がる」
「うん」
彼が手を差し出してくれたので、わたしは彼の手を取って。
気づく。
わたしの手は震えていた。
夏の陽は戻ったのに。
未知の恐怖が、去らない。
11
わたしの高校の試合が始まるまで時間があったので、1塁アルプス席中階の端に腰を下ろしつつ、台形の四隅を丸く切り取ったような球場の景色を見渡した。
球児用のお土産グッズと化している甲子園の黒土を囲んで広がるグリーンが陽を受けて輝いている。
相手校も順々に着席して、芝生の向こうの席も埋まりつつある。
千骸さんは、今日はいない、と言っていてくれたけれど、わたしはとにかく不安で、目がどこかを探してしまい。
とても挙動不審になっていたのだろう。
隣の子たちに、大丈夫?と何回か訊かれた。
― 大丈夫ではない、けれど。
説明がつかない。 ―
それはそうである。
見えない連れが、見えない人に狙われるかもしれない、とか。
暑さでおかしくなったのかと思われるし。
実際おかしくなりそうなほど日光はきついし。
日よけのキャップをかぶっても、布の上からじりじりと髪や肌が焼かれる感覚を覚える。
「トイレ、行ってくるね」
緊張のせいか尿意を覚えたので、隣の子にそう言って席から立ち上がり、
連絡階段を下りて連絡通路の日陰に入り、日光からの解放を少しだけ感じる。
そのまま内野2階のトイレに向かう。
壁も天井も白い通路は応援の高校生や、球児たちの家族、観客でにぎわっている。
「引き返そう」
早羅さんが静かに言った。
声が張りつめている。
― え。 ―
「前を見てはいけない」
と言った彼の声が鼓膜に届くのと。
その女の人と目が合うのは、ちょうど同じ刹那だった。
トイレから出てきた彼女の背はとても高く。
脚も腕もとても長く。
とても豊かな胸の下のウエストのラインが描く無駄の無いラインを、真夏なのに、黒のタイトスーツがぴっちり覆っていた。
スーツの奥の白のYシャツの第一ボタンは外されていて、
そこからのぞく鎖骨のくぼみはくっきりとしていて、少しだけ地黒だけど陶器のように滑らかな肌は汗にわずかにてかっていた。
つやつやとした黒髪は肩の上まで伸びたショートカットで、高い身長に関わらず、彼女の丸顔はわたしより小さい。
長い眉と同じく長いまつげの下の瞳は黒目がちだけど、目じりがわずかに上がっているので、きつい印象を受ける。
唇は厚く、雌の肉食獣のような色気をかもしている。
その唇が、開いた。
「你好。你會說閩南語?我不知道如果這些英文好?」
12
球場の雑踏の中でもその声は不思議とよく通った。
抑揚の激しさで有名な中国語にしては、彼女の発音はとても穏やかなものだったけれど。
わたしは、ニーハオしか分からなかった。
早羅さんは分かったのだろうか?
分からない。
私は彼を見る事ができなかった。
視線が動かせない。
彼女の動きに特別なものは無かった。
はずなのに。
背筋がざわざわして。
行き交う人の流れが急にスローモーションになるような錯覚を覚えた。
大型の肉食獣に、衝立なしに対峙する感覚。
危機感ではない。
もっと非現実的な何かだ。
昔、早羅さんと土手で見た土佐犬が、とても可愛らしい哺乳類に思えるような、
圧倒的な何かで。
― ヒト、に、思えない。こんな綺麗なヒト、なのに。 ―
「やっぱり国際交流のために一番便利なのは英語よね?初めまして。わたしは花華と言うの。台湾人よ」
わたしの硬直などお構いなしに、彼女は再び唇を開いて、上記の意味の英語を話した。
その発音は滑らかで淀みなく、リスニングのテープでも聴いているような錯覚を覚える。
けれど、英語なら会話は成り立つと分かったので、それで返事をすることにした。
千骸さんから、彼女が
遭ってはいけない人
だと先ほど聞いたばかりなのに、いきなり出くわしてしまった。
けれども。
話かけてくれている。
つまり、彼女は会話を求めている。
― そう。
会話が続くうちは、まだ。
大丈夫、なはず。 ―
「わたしの名前は朱森紗愛です」
上ずる声で、やっとそう発音したわたしに、
花華さんは、くすっと笑った。
「あなたは礼儀正しいのね。礼儀正しい女の子は好きよ。
不思議な女の子も好き。あなたは強くは見えないけれど、わたしを見る事ができるのね。強者しか私を見る事は出来ないのに、それができる。何故?それとも私が分からないくらい、あなたは強いの?」
この問いかけの時、花華さんの虹彩が急に密度を増した気がした。
黒曜石の闇に飲み込まれるような錯覚。
とても異質な圧迫に、肺が呼吸を潰されていく。
早羅さんの背が視界に現れて。
呪縛が解ける。
肉食獣さんに立ちふさがってくれる彼のおかげで
呼吸が回復し、心臓がバクバク脈打ち。
瞳は涙目になる。
おそらく、首を絞められて、解放されたら、こんな感じになるのかもしれない。
14の夏には彼の背を5cmほど越してしまっていたわたしだけれど、
彼の背はとても大きく見えて、
ふと、11歳の初シャワー熱湯事件を思い出した。
そう。
彼は身を挺して、花華さんの圧力から、わたしを守ってくれている。
けれど。
平気な訳はないのだ。
だって。
他人には絶対に震えない彼の肩が、わずかだけれど、震えている。
そんな彼に、花華さんはきょとんとして、
それから柔らかく口角を上げた。
「あら、ごめんなさい。あなたを無視するつもりはなかったの。
彼女が興味深すぎるから後回しにしてしまった。勘違いしないでね。嬉しいの。わたしの存在を認識できる人が2人もいるのよ。今日は幸せな日だわ。仕事を早く終わらせてここに来て良かった」
幸福の絶頂が。
招待客にブーケをほおる純白の花嫁だとしたら。
花華さんは、ブーケと共に胸元に祝福と幸福を抱えて、感動に頬を赤らめる花嫁のように、うっとりと涙ぐみながら。
すらっと長い人差し指をクの字に曲げて、目じりをぬぐう。
その仕草に、可憐という言葉が脳裏に浮かんだ。
「もう少しこの幸せを噛みしめたいけれど…。貴方はわたしと戦闘をしたいの?殺気がすごいわよ?でも恥ずかしがらないでいいわ。せっかちな人は嫌いではないというより、むしろ好きなの」
花華さんは艶やかに笑った。
真紅の花を無数に咲き乱すような、そんな笑い方だった。
背筋や、腰、陰部がしびれるような、感覚。
あれを色気と言わずして、何を色気と言うのか、わたしは分からない。
女のわたしですらそう感じたのだから、早羅さんはいかほどだろうか?
また、彼は何を思ったのか?
その表情は見えず、後ろ髪しか見えなかったけれど、
彼の二の腕が、
ビキっ!!!!
と筋張った刹那。
わたしはその腕を両手でつかんでいた。
力いっぱい、必死に。
千骸さんの、
『防人が死ぬのは良くない』
という言葉を思い出す。
― 今、放したら。
多分もう、生きている彼を、見ることはできない。―
「止めてください!」
それしか言えなかった。
それだけを、必死に呼びかける。
甲子園球場の内階通路の2人に。
花華さんは、きょとんとして、早羅さんの頭ごしに、わたしを見て、
「何故?その気なのは彼なのに」
と首を傾げて、
わたしがその問いに答える前に、
とても優しくほほ笑む。
それから聞き分けのない子供を諭すみたいに
「あなたは可愛い女の子ね。強者ではないのにわたしを見ることが出来るし、特別な能力を持つみたいだけど、それは戦いたいと思う能力ではない。あなたが弱者であることは分かった。だから、貴方を殺すつもりはないわ。ただ、興味があるだけ。貴方は彼の事を心配しているけれど、大丈夫。結果が決まっている戦闘などあり得ない。彼が勝つかもしれないし、私が勝つかもしれない。それは花占いみたいなものなの」
と言いながら、ゆっくりとわたし達に歩いてくる。
散歩でもしてるみたいだ。
その間のわたしはというと、必死に早羅さんの腕を両手で握り続けることしかできなく。
でも、それは、ずるい、ことだったと後で思う。
防人さんは器様の希望を妨げてはならないのだ。
彼は腕を振り払えない。
そんな彼の葛藤や苦悶などどこふく風で、花華さんは、わたし達の前1mまできてしまった。
「……若作りの騎士様、ここでしますか?」
にっこりと笑顔を作って、彼女は早羅さんに首を傾げ。
早羅さんは彼女を見上げて。
「僕は彼女を守っている。これは僕の特殊任務だ。僕が君に攻撃されたら、組織は任務妨害と見なして、君と君に関係する人たちを殺すだろう。例えば、瀬長島優とかを、襲う」
と言う彼の声に、感情は無かった。
映画とかで駆け引きのシーンに使われそうな抑揚も何もなく。
その抑揚の無さが、彼のその言葉が真実であることを告げていた。
千骸さんが指さした長い列でひと際目立っていた瀬長島優という男の子の、きらきらした黒髪と涼やかな瞳を思い出す。
さっきまで、わたしたちはあの彼の近くにいて、彼を眺めていて、甲子園球場だった。
― あの男の子を、襲う、の…!? ―
花華さんが眉をひそめた。
それは、わずかなしめ方だったけれど。
口元から微笑みが消えた彼女は、思わず魅入られるほど美しく。
そして。
「なるほど。お前はあの男の関係か。面白いことをお前は言うのだな」
恐ろしい。
わたしは彼女の虹彩から、暴風のようなものを感じた。
それは圧迫ですらなく。
わたしの周囲から、酸素や温度を急激に奪い。
代わりにはっきりとした質感すら感じる、
恐怖
でわたしの肺や気道や胃や小腸や大腸や心房や心室や子宮や脊髄の隙間や口腔を満たしていく。
両膝の関節がぐにゃりと硬度を失う感覚。
立ってすらいられな…。
「やめてください…!!お願い…!!」
わたしは早羅さんの手を放して。
花華さんの前に立ちふさがっていた。
彼女はこの時何を思ったのか分からない。
けれど、驚いたのはたしかだろう。
彼女のくっきりとした黒曜石のように黒めがちな瞳は、大きくなって。
同じ刹那に、恐怖の呪縛が通路から解けて、空気中に酸素と温度が回復した。
でもこちらは、もうほとんどパニック状態だったので。
酸素や温度がどうこう言うより、もう、必死の極みだったのだが。
そんなわたしに、花華さんは、くすっ、と笑って。
「あなたは可憐な子ね。いいわ。あなたに免じて見逃してあげる。とても彼が好きなのね。彼との比武の魅力、天秤の傾き方はとても微妙だけど、つまり、後ろ髪は引かれるけれど。誇りに思いなさい。彼の命を救ってあげる。もうそろそろ行くわね。わたしは優を眺めに来たの。お姫様と騎士様、また会いましょうね」
とても柔らかく、優しくほほ笑みながら、
そう言い終わるか終わらないかの刹那に。
花華さんの姿は、球場の通路の景色に溶けるみたいに消えてしまった。
13
わたしは高台に立っていた。
笹薮みたいな濃い緑の草たちが、
さえぎる物のない陽の光に照らされながら辺り一面をまばゆく覆っていて、
風がふもとを蛇行する川の水面から吹き上がる度に、
波のような弧を幾つも走らせながら揺れた。
緑に沈黙する草たちが、その時だけは陽をおびただしく受けてエメラルドの色合いを帯びていた。
その色合いに目を惹きつけられたわたしは、
わたしの髪もこんな風に美しく輝いてくれたら良いのにと思いつつ、
風にたなびき乱れる髪を押さえながら草むらにしゃがみ込んで、
四六時中輝いてほしいとかそんな贅沢は言わないから
せめて早羅さんの前では目いっぱいきらきらして欲しい、
と心から思った。
「年頃の乙女は全体的に輝かしいものよ。ほっといてもね」
忘れるには色々印象的すぎる花華さんの声が、鼓膜の内側に甘く響いたと思ったら、
後ろから首を抱きしめられた。
わたしの胸に甦ろうとした彼女に対する恐れは、
この人が続けざまに行った頬ずりの柔らかさと優しさのために、
色合いをとても速やかに喪ってしまった。
背に感じる柔らかな弾力は彼女の豊かな胸であり、その温かさも速やかさに拍車をかけた。
なんとなくライオンに抱えられてすりすりされたらこんな感じなのかなという妙な空想を抱いてから、
我に返ってとりあえず慌てる。
「ふぁ、花華さん!?」
「ん?」
「」
わたしの口から出るはずの言葉たちは、
気道のなかばで痞えて渋滞を起こしてもつれてごちゃごちゃに絡まりあって、
結局わたしの心から秩序だけを奪っていく。
なんでここにいるんですかとか、そもそもここはどこなんですか、
とか瀬長島君を見に行ったんじゃないんですか、とか幾らでも訊きようはあるはずなのに、
わたしはそれらの全てをほっぽらかしにして早羅さんを視界に探した。
「可愛らしい慌てようね。でも必要なことではない」
「え」
「…わたしは貴方が気にかかった。その結果ここにいる。それだけの話なの」
花華さんは、わたしを放して、隣に腰を下ろしつつそう言った。
川向こうに視線を投げる彼女の瞳は黒々としていてかすかに暗い緑色を帯びていて、
わたしは無意識に惹き込まれながら、彼女の次の言葉を待つ。
「そんなに見つめないで。照れるから」
照れるとかいう言葉がもっとも縁遠い感じがする恐るべき花華さんは、
驚くべきことに本当に照れて、横風に揺れる黒髪がかかる口元に恥じらいすら浮かべていた。
「人に見られる事に慣れてないの。
わたしを知覚できる人って稀有だし。
まあでも、こういうのも悪くはないわね。中々珍しい体験だわ。」
川向こうに視線を戻して目を細める花華さんの前髪を風がかき乱して、
滑らかな曲線を描く額をあらわにした。
形の優れた鼻梁やなまめかしさのあふれる唇とともに、彼女の額は陽を受けて輝く。
その美しさは、風に揺れる草のエメラルドなどは比べ物にならないもので、
思わずわたしは喉を無作法に鳴らしてしまった。
耳たぶが恥じと彼女の美に熱くなり目を伏せるわたしに、
花華さんは真紅の薔薇のつぼみが少し開くみたいに横目で微笑んでから、
「これは夢なの。
希望という意味の夢ではなくて、
あなたが眠りから覚めるまでの刹那の間という意味の夢なの」と言った。
わたしは、妙に納得したというより、夢の中でいちいち物事に反論するといった経験が無かったので、
なるほど夢かあ、と思ったりして何故か背骨に張り詰めていたものがふにゃっとなったりした。
「だから早羅さんがいないんですね。」
わたしの声には安堵が大層こもっていたらしく、花華さんは声をこらえるようにして笑った。
「想い人の不在に理由があることに、安心する、か。
乙女というものは実に輝かしいものだな」
彼女はそこで言葉を一度切って、
わたしのただでさえ風にまとまりのなくなっている髪をさらに乱して続けた。
「安心しなさい。彼は目覚めつつある貴方の傍に在る。
現実の私は彼の向かいで貴方を気功で癒している。
…ああ、大丈夫よ。
私は彼を襲わないわ。見逃すと決めた相手に手をかけるのは、私の誇りが許さない。
しかも彼も私を認識していないから、戦闘も起きようがないわ。」
「早羅さんは花華さんが見えないんですか?」
「余計な諍いを避けて治療に専念するために、ね。
私は本気で気配を消しているの。本気の私は元始天尊ですら認識できない。
それが私のクンフーだから」
悪戯を語る子供みたいに誇らしげな花華さんに、わたしは首をかしげた。
「あれ?でもわたし花華さんと話していますよ?」
「それはね、夢だから。
私の意識は貴方の治療に専念している。
今ここでくつろいでいる私は、私の無意識。
私は気功を通じて貴方とつながっているだけだから、この会話も
現実の私は認識していないわ。
貴方だって目が覚めたら忘れてしまうでしょう。
でも良いの。夢だから」
わたしの脳に疑問符がおびただしく、ついには眼球すら疑問符マークになってしまったらしい。
花華さんは少し困ったように口の端を上げた。
「辻褄が合わないのが夢というものよ。
でも、滅多にあることじゃないの。
私の気功は気を通わせて癒すだけ。
ここで貴方とこうしてお話ができるのは、貴方の稀有な力のおかげよ。」
わたしは、彼女の言葉に疑問符すら通り越して、
眼を大きく開いてぼんやりとしてしまってから、訊いた。
「わたしの力、ですか?」
「そう。貴方の力。でも今はあまり難しく考えないで、この時間を楽しみましょう。
…何気なく憧れだったの。ガールズトーク。」
花華さんはそう言ってから、笑った。
その笑顔には、やっぱり真紅の薔薇たちが満ちて開くような艶やかさがあったけれど、
飾り気のない素直なあどけなさもあって、私は思わず何度も肯いてしまった。
14
花華さんは色々な事を話してくれた。
彼女の生まれ育ってきた経歴から始まって、瀬長島君の警護をするまでに至った経緯から、
台湾料理を美味しく仕上げる方法まで。
彼女はとてもゆったりとした面持ちで話してくれたし、
わたしも彼女の話に耳を傾けているうちに、頬や肩に張っていた緊張が
自然と解けていったのだけれど、話の内容自体は壮絶の一言につきる。
まず、彼女が生まれたのは台湾の売春街で、物心つく前に太極拳の師匠に
買い取られたため、彼女は親の名前も顔も知らない。日常生活の煩わしい物事を
面倒に思っていた師匠は、彼女に拳法を丁寧に教えてくれたけれど、
彼女が娼婦の娘であることを全く隠さなかった。このために彼女は、師匠のもとで
共同生活を送っていた兄弟子たちから壮絶な虐待を受けて育った。ただ、彼らの全員が
彼女を虐待したわけではない。一人だけ彼女を可愛がって大切にしてくれた兄弟子がいた。
彼の名前は辛と言った。
弟子たちの中では背も低く、当時は力もそこまで強くなかったため、
花華さんを虐待する兄弟子たちを止めることはできなかったけれど、
それでも極端なほど頑固に彼女を守ろうとし続けた。
「本当に馬鹿よねえ。
いつも辛は、ぶるぶる震えながら私をかばって鬼畜たちに立ふさがってね、
『大兄たち、やめてください!!』
て叫んで、もれなくぼろ雑巾みたいに痛めつけられるの。
この人は本当に知恵が遅れてるんじゃないかとね、
辛の惨めな様を見てたら思わずにはいられなかった。
でも体は幼いうちから異常に頑丈な男だったから、私より怪我をしているのに、
いつも私の手当てを先にしてくれていたの。
馬鹿みたいに、
『すまない、守れなくて、すまない』
て男泣きしながらね」
彼女はそこで言葉を切って、上空の太陽を眩しく見上げた。
「違うわ。馬鹿みたい、じゃなくて本物の馬鹿だわ。
でも辛の馬鹿のおかげで、わたしはこうして生きている」
恐ろしく悲惨な日々の事をとても上質な時間のように語る彼女の額の生え際から漆黒の髪が、
陽を受けてまばゆく輝きながら、川向こうから高台を吹き上げてくる風に後方にたなびくのを
眺めながら、わたしの思考は、早羅さんにどこかでつながった。
「貴方の騎士さんみたいな美形ではないわよ」
花華さんは、くすぐったさを堪えるように笑いながら、小さく顔の前で手のひらを振った。
その指は一本一本がすらりと長く、わたしはピアノ奏者を連想した。
こんな感じで花華さんは、大切な思い出の写真を整理するみたいに愛しげに、
たくさんの出来事を語ってくれたのだけれど、そのどれもが壮絶過ぎてというより、
わたしには縁遠い世界過ぎて、耳を傾けるということしかできなかったのだけれど。
彼女の言葉を借りるのなら、夢であるので、多少の現実感の無さは推して知るべし、である。
ちなみにその後の辛さんは、愚直に太極拳の鍛錬を積み続け晴れて世界最強の男になってから、
兄弟子たちを全員殺害してアメリカに渡り、現在はマサチューセツ工科大学の大学教授を
しているそうだ。彼が渡米する前に、花華さんは彼と共に師匠に挑んで見事撃破したらしい。
師匠を超える事は弟子の報い得る最大の孝行らしいのだけれど、
おかげで一人ぼっちになってしまった花華さんは、彼女をその強さごと受け止めてくれる強い男を
求めて、傭兵の世界にその身を投じ、主に中東やアフリカの紛争地帯を巡り歩いた末に、
台湾名物の濃厚マンゴーソースがたっぷりかかったカキ氷が恋しくなって、
帰国した先の夜の屋台で、瀬長島君の親権者さんに一目ぼれしてそのまま彼の愛人になったという。
そういう訳で今の生活には満足しているけれど、やはり強い男を探してしまうし、
見つけたら襲わざるをえない、というのが彼女の主張だった。
「花華さん」
「ん?」
「強い人を探したい、ていうのはなんとなく分かります。
けど、襲わざるを得ない、というのが分かりません」
「そう?」
「はい。すごく分かりません。
友達になる、じゃだめなんですか」
別にわたしは道徳の教科書的な論理を振りかざしたいわけではなかった。
むしろ、やはりこの時も早羅さんを想っていたのだ。
花華さんはわたしを現実の世界で癒してくれている恩人である。とても優しく、
魅力的という言葉では表せない、惹きつけられる物を持つ人だ。しかも彼女は、早羅さんと同じ、
人に認識されないという孤独を抱えている。わたしは彼女と現実でも親しくなりたい。でもそのためには、早羅さんとも親しくなってもらわなければならないのだ。つまり、皆で親しくなれれば、みんな幸せになる。最大多数の最大幸福が実現される、とわたしは、彼女との短いようなとても長いような関わりの中で、本気で思っていた。
後で思うと恥ずかしさを禁じえないほどの独善であるけれどわたしは、
真剣にそう思ったし、同じくらい真剣に、真っ直ぐ花華さんの黒曜石みたいな瞳を覗き込んだ。
花華さんの瞳の奥の暗緑色が微かに揺らいで、わたしの胸には期待がこみ上げたのだけれど、
彼女はすぐに否定した。
「違うの。ただ貴方の清らかさに感動しただけ。それにね」
彼女はそこで言葉を一度切って、吹き付ける風を吸い込んでから、続けた。
「現実の私はあなたとの会話をそもそも認識すらしていない。
貴方も目覚めたらおそらく忘れるでしょう。なぜならこれは夢だもの。
何より、私が強い者を襲いたいと思う衝動は、性欲のようなものなの。
獣は生きるために獲物の肉を噛み裂くけれど、味わうために血を舐める。
それと同じ。これはどうしようもない快楽、なの」
花華さんはそう言ってから、孤独に痛むように微笑んだ。
その瞳は、慟哭を堪える少女のように、わずかに潤んでいた。
15
話題は中華料理に移った。
花華さんは、中華料理を美味しく仕上げる秘訣について色々語ってくれたのだけれど、
わたしはその内容については正直あまり覚えていない。なんせ夢なのだ。記憶力を求めるには
無理があるのが、夢というものだ。ただ彼女が、わたしの独善の権化である強者との友になれるか
否かという暗い話題を、できるだけ明るくかつわたしの興味の持ちそうなものにと気をきかせて、
変えてくれたことは分かった。
「横浜にね、青夫人という方が店を構えていてね、親しくさせていただいているの。
あの方と知り合ったのは常盤平について来日した後だけれど、
100点満点中80点だった私の料理のクンフーを、95点に変えてくれたのは、
間違いなくあの人のご指導の賜物ね。この点だけでも、
私に彼女を紹介してくれた常盤平には感謝している」
常盤平さんは瀬長島君の叔父さんで、彼の親権者でもある。そして花華さんを
愛人として囲うのみならず、瀬長島君の警護まで申し付けてしまうもの凄い人だ。凄すぎて
想像の焦点が合わないけれど、とりあえず中国との国交正常化を果たした時の首相を
思い浮かべていたのだが、花華さんの関係者に青夫人という方も出てきた時点で、
わたしの聴き取りはいささか秩序を喪ったので、訊いてみる。
「花華さん」
「ん?」
「常盤平さんも青夫人も、普通の人ですか?」
「武の種類で言えばだけど、彼らは普通よ。
とてもか弱い。もちろん、わたしにとっては特別な存在たちだけど」
花華さんは、警察官を指差してお巡りさんと言う子供に
うなずいてみせる母親みたいな表情をわたしに対して浮かべつつ、
肯定してから続けた。
「貴方の騎士さまと違って、私は『見せること』ができるの。
体力というか寿命も使うから、四六時中という訳にはいかないけれど、
誰にでも認識されうる。私の『見えない』という業はクンフーの結果なの。
彼とは現象は似てはいるけれど、因果は全く違うわ。
だって、わたしはカメラに映るけれど、彼は鏡にも映らないでしょう?」
そのとおりだった。
早羅さんの姿は鏡にも夜のガラスにも映らない。誰よりも存在してくれているのに、
世界から取り残されて、光からすらも完全にないものとして扱われている。
わたしはその事に悲哀を覚える。それを覚えることすら失礼だとは分かっていても、
それでも覚えてしまう。
わたしは黙ったまま小さくうなずいた。
「そんな悲しい顔をしないで。彼は根本的に『見えない』から、貴方を守り抜けるのよ。
私は無理。気功で人も癒せるし、呼吸で心のひだも読み解くことができるし、
気配もこの世から消せるし、中華料理も95点な私だけれど、彼みたいに不動の心を
貫くことはできない」
わたしは嫉妬した。
そう。嫉妬という言葉が適当だろうと思う。花華さんは、
まるで全てを識る仙女みたいに、話す前から全てを知っている。訊きたいことや
言いたい事も全て先回りして答えてくれる。だから、心を読めるという言葉も真実だろう。
けれど彼女は心以外にも、好きとか嫌いとかそんな表面的な心の自由運動よりも
もっと大切な、本質を解くように悟っている気がするのだ。その本質は、
わたしについての本質であるのはもちろんだけれど。何より早羅さんについて。
ずっとずっと知りたくても触れることすらどこか憚られた答えを彼女は
知っている気がしたし、そしてそれは見当外れではなかったと思う。
わたしは、泉に斧を落としたために女神と対峙するはめになった樵
のような面持ちで、必死に花華さんの際立って整った二重に縁取られた瞳を
覗き込んだ。
「教えて下さい。早羅さんはわたしをどう思っているんですか?
どうして思っているんですか?」
わたしは出来るだけはっきりと伝わるようにこう言ったのだけれど、
正直わたしの心臓の鳴動の方が大迫力だったと思う。つまりわたしは緊張していた。
緊張による心臓の鳴動によって、頬も耳たぶも血に熱くなり、
夢の中であるにも関わらず眩暈のような現実感の喪失を覚えた。
けれど、花華さんは優美に微笑んで、
「それは本当に乙女な問いね。これぞガールズトークという感じだけれど、
第三者がそれに答えるのは無粋。
…大切な物事はね、誰かに判断を頼っちゃ駄目なの。
自分で考えて、たどり着きなさい」
正論だった。しかし14歳の子供には厳しすぎる正論だった。そしてわたしは14歳であり、
つまりわたしは泣きたくなったというより、視界が急速に水中みたいにかすれて熱くぼやけた。
「あらあら可哀そうに。お姫さまを泣かせるなんて、騎士さまも罪作りね」
花華さんはそう言って、彼女の長い人差し指と親指を、わたしの両のまぶたに触れて
閉じてくれたので、視界は暗闇に帰り、わたしの頬を、雨だれが渡るみたいに、
水滴が伝うのが分かった。
「でも、そうね。答えの片鱗なら、
見せてあげる事ができる。私は私の無意識にしか過ぎないから、
干渉には限りがあるけれど、見たい?おすすめはしないけれど」
閉じた視界からわたしの鼓膜に響く彼女の言葉は、とても柔らかく美しさを覚えるほど優しく、
わたしは、言葉にできない不吉を覚えて、その不吉は喉のあたり一帯を硬くした。石みたいに。
「…貴方が首を横に振ったら、この夢は泡と消え、貴方の意識は現実に浮かび戻る。
もうそろそろ時間だし。
それでも、片鱗を見る意志があるのなら、瞼を開きなさい」
花華さんの二つの指先の弾力がわたしの瞼の皮膚から離れた。
わたしは目を開いた。
…上空に君臨していたはずの陽は川向こうの山々の連なりに傾いていた。
慈悲を光に託して草たちやわたしや花華さんやおよそ世界にあまねく注いでいたその根源は、
大地から膨らんだすがたのままで逆さに生まれ落ちた巨大なマグマか、
または燃え尽きて大地に衝突する瞬きの時を切り取って
身動きを取れなくさせてしまった線香花火の
燃え尽きる最後の塊みたいになって、はちきれるのを待つように
禍禍しい赤が渦巻きながら満ちていた。
晴れ渡り透くような蒼だったはずのそらには、
大地を飲み込むという神話の怪物のくねる腹みたいな立体感のある雲が、
実際にはわたしたちの周りの風はぴたりと止んでしまっているのに、
人の脳を蝕む回虫のような勢いで変形し増殖していた。
その巨大に力と立体を与えていたのは、川向こうの山々を黄金色に焼きながら
渦巻く陽だった。陽は、大空と大地を圧する雲のみならず、
わたしと花華さんをやはり黄金色に染めて、そして世界の、つまり清らかな蛇のように緩やかに
川が吸い込まれて行く果ての先、山々の向こうに闇を満たし始めていた。
わたしの胸には終末の予感が宿った。それは、静寂に代表される夜の開始ではなく、
純粋な何かの終わりだった。陽は沈むのではなく、全てに幕を引くことを許すのだ。
そして闇が世界を覆う。
不意に眩暈がしたと思った。
真横に世界が引っ張られるような慣性を三半規管が受容した。
でもすぐにこれは大地が揺れているのだと分かった。
響いたのだ。大地が。
その響きと揺れの区別はわたしにはつかなかった。それほどまでに、
その鳴動は轟轟たるものだった。
膝から草むらに崩れ前のめりに土に手をつくわたしの背中に体温を感じた。
花華さんが、鶴が羽を交わすみたいに、後ろから抱きしめてくれていた。
「来るわ。目に焼き付けなさい。
あれが貴方の授かった力で、避けることの能わない運命、よ」
高台のふもとを流れる川の面を、さざなみが川上に向かって逆さに渡った。
それは小さな兆候で、その時はまだ川には黄昏があって、川は金色の蛇みたいだった。
さざなみは高台を上空に吹きぬけるエメラルドの風みたいに、夕の日を純白に乱反射して、
わたしは畏れの中で花嫁の衣装を連想したけれど、そんな美しさは初めの方だけで、
その波の連なりは途切れを知らず、さざなみは波から勢いを増して濁流となり、
川の金色は土を帯びた茶色に変わり、その流れは川の定めを超えてあふれ出し、
高台のすそに吹き上がるように流れ始めた。
濁流は暴なる大蛇となり、その色は茶から墨汁のような黒に変わって、
勢いも増し、やがて高台の中腹まで浸してしまった。川が緩やかに永い年月をかけて作った平野や、
平野を丸く覆う山々は、終末の招く闇と共に暗黒の洪水に浸され、途方も無い湖のように、
世界は変わってしまった。
けれど、流れの姿をまとったその黒い巨大は、中腹を飲み込むだけで飽き足らず、物凄い勢いで
世界を浸し高台の草たちを食みながら、わたしたちの足元に迫っていた。
「どう?美しいでしょう。
貴方はこれの蛹に過ぎないけれど、わたしは蝶も蛹も等しく尊いと思っている」
耳にかかる花華さんの息の熱さに、わたしは酩酊を覚えた。
黒いそれは既に川むかいだった場所にあった太陽さえ飲み込んで、上空の巨大だった雲たちすら、
そのあふれる闇に飲み込んでしまっていた。そしてそれはわたしの膝の先まで上ってきて、
わたしは初めてそれをじっくりと観た。
その黒い海の水は、とても濃く細やかな砂でできていた。
一つ一つの砂は、ビロードを成せるほど滑らかに黒く輝いていて宝石のようで、
わたしは素直に美しいと思った。
「そう。これは美しいの。貴方と同じ位に。
もう、時間ね。大分過ぎて、しまった。
それでは、良い、生、を」
わたしの耳にかかる花華さんの言葉は、後に行くほど小さく輪郭を喪ってしまった。
それは、夢の中のわたしの意識と共に。
…海の底から浮かぶような感覚を覚えたと思ったら、
早羅さんの顔が視界を覆うように飛び込んできて。
わたしは夢から醒めたことを悟った。
16
わたしは2日間昏睡していたらしい。
甲子園球場の内通路で倒れて、救急車で指定病院に運ばれて、丁度48の時間の後に
HCUの個室で意識が戻った時、早羅さんはわたしに、おはよう、と言ってくれて、
わたしも、おはよう、と返した。
早羅さんはいつも通りの早羅さんで、半円の綺麗なアーチを描く二重の黒めがちな瞳も、
やはりいつもどおりに穏やかで温かな光を宿していた。
そんな彼に安心してからわたしは、クリーム色の天井や壁で囲まれた四角い空間のあちらこちらに、花華さんの姿を探すけれどもちろん痕跡すら見出すことが出来ない。当たり前である。中国の伝説の仙人である元始天尊ですら見つけられないと豪語する花華さんだ。去っても留まっていても、わたしなどに認識などできるはずがないのだ。それは寂しいことだけれど、感謝すべきことであった。何故なら。
「早羅さん」
「ん」
「誰か来なかった?」
早羅さんは、窓枠から斜めに差し込んでわたしの横顔と乳房の横まで伸びた髪を照らす陽の光と反対側の個室の入り口に、その視線を投げる。
「誰も来ないね。逆に、今さっき君のお母さんが出て行った。
用でも足しにいったんじゃないかな」
「そう」
何故なら、現実の花華さんは、無意識の彼女と同じく、早羅さんとの戦闘を避けてくれたからだ。
わたしは、強い人を襲う衝動を性欲に例えた彼女のかすかに濡れた暗緑色の瞳を思い出して、小さく眉をしかめた。何故、上から目線で平和主義者などを気取ってしまったのだろう。あれだけ優しい人なのだ。平和を望んでも襲わざるを得ないそういう物を抱えている彼女を、わたしは責めてしまった。心に沈痛を覚える。何より心を沈ませるのは、あの人はわたしとの時間を覚えていないという、事実だ。
彼女の予想に反して、わたしは彼女との夢を覚えている。わたしだけが覚えている。その事がわたしに、置き去りにされた感覚を覚えさせた。もちろん早羅さんがいてくれるから、独りではない。けれど、置き去りにされたのだ。だって、花華さんはわたしに、あの黒の砂の海を見せて、それを片鱗とだけ表現して去って行った。授かった力とか避けようの無い運命とか、わたしの胸の中の至るところに引っかかる何かを残して、彼女は行ってしまった。
もっと聴きたかった。というよりわたしは、本質を知る花華さんからの励ましや慰めの言葉を欲していた。でも無意識な花華さんの予想は、わたしも忘れる、ということだったので、見事にはずれたのは不幸な事実でしかない。わたしがかい間見た本質の正体を、おそらく早羅さんも知っているだろうと思ったしそれは間違いではなかったけれど、わたしは彼に訊く事はできなかった。
何故ならそれはこの冬、わたしが15歳になった暁に、教えてもらう約束の内容と重複しているだろうし、何より、早羅さんに花華さんのことを話す事はできなかった。
彼はとても警戒して緊張していた。警戒の対象は花華さんだろう。彼女は誰にも見えないし、その事を彼も知っている。それにもし、無防備、いや彼に無防備な時があるのかどうかわたしは定かではないけれどとにかく無防備に近い状態、の時に昏睡していたわたしが目覚めたら、彼はおそらくとても喜んでくれたと思う。見た目一歳年上な少年の頬を紅く上気させて、もっと声のトーンもこんな穏やかで落ち着いてはいないはずだ。
ただこういう心の微妙なおもむきは、彼と長年共に過ごしたわたしくらいしか分からないのだろう。この事実はわたしは嬉しい。だからこそ、本質を知るだろう花華さんにわたしは嫉妬したのだ。でも彼女は、わたしの嫉妬などどこふく風であり、早羅さんの警戒と緊張などもやはり全く気にかけなかったということを、わたしは神戸から実家に戻ってきた後で知った。
…わたしが目覚める30分前に、病院の監視カメラの制御系統が何者かに乗っ取られた。そして手術室を除く院内の全てのカメラが『映らなく』なった。それからすぐにHCUの患者、わたしのいた病室の2つ隣の老人、が息を引き取った。次にICUに入室している患者たちの半分が、一分刻みで息を引き取って行き、続けて4階の脳外科病棟、5階の外科病棟で昏睡している患者たちの七割が次々と心肺停止に陥っていった。担当医を呼ぶ通話が院内に駆け巡り。母が席をはずしたのは用を足すためではなく、おびただしい死にどよめく病院全体の空気に、何か違うものを感じたからだろう。
早羅さんは瞼を閉じたわたしから離れなかった。彼も異常を感じたはずだ。病院の患者たちを殺して回っている何者かがいる。そしてそれは十中八九、花華さんなのだ。駆けずりまわる青の医師服たち、薄いピンクのナース服たちの足音は、感覚の強い早羅さんには手に取るようだったろうし、だからこそ、花びらを振りまくように、死を撒き散らす花華さんの足取りも、やはり彼の頭の中ではつぶさに再生されたに違いない。それでも彼は動かなかった。花華さんが誘っている、と思ったからだ。
彼女の足取りが途絶えると、HCUには静寂が訪れた。
看護師たちはICUへの応援に駆り出されていた。早羅さんは警戒を強める。寝息を立てるわたしと、わたしの心電図、脈動を映し出すモニターに集中する。わたしに何らかの変化があれば、そこに敵がいるからだ。花華さんは、その時確かにわたしのベッドをはさんで、彼の前に立っていたのだけれど、全く早羅さんに認識されることなく、わたしを癒して立ち去った。
ちなみにわたしが目覚めた後で、院内ではもう一騒ぎがあった。
HCU、ICU、4階と5階の各病棟に加えて、6階の小児科それと7階の産婦人科の、全ての意識不明の患者たちが、意識を回復したのだ。患者たちの家族たち及び看護師たちが飲む息や、担当医師を呼ぶたくさんの声は、欧米の祝祭で撃たれる祝砲のように次々と発生したし、その発生の軌跡が花華さんの足取りであることも、早羅さんは知っていた。けれど彼は動かなかった。わたしを守るためである。
これを読む人は花華さんの行動がちょっと分からないと思う。実のところわたしもだけれど。あの夢で話した花華さんを思い返せば、彼女の意図はなんとなく分かる気がする。
花華さんはわたしを治療したかった。そのために早羅さんとの戦闘は避けたかった。しかも彼は花華さんにとっては、血を味わいたい獲物である。なので心置きなく治療に集中するためにも席を外して欲しかった。ということで、彼をおびき寄せるべく、『起きる見込みのない植物たち』の命を詰んで回った。けれど彼は誘いにはのらなかったので、諦めて多分肩をすくめたりしてから、わたしの治療をした。わたしは起きた。花華さんは、夢の中でしたみたいに、わたしに微笑んでくれたと思う。それから早羅さんの前を堂々と歩いて病室を出て、監視カメラの制御系統を復旧しに警備室に向かおうとして、立ち止まる。植物たちを枯らしながら、診て回った『人に戻る見込みのある植物たち』に、何となく後ろ髪を引かれたのだ。彼女は、全員を治療つまり起こして回ることにして、実際全員の意識を回復してみせた…ということなのだろう。
なんというか、花華さんは生と死を司る女神のような人だ。もの凄く怖いけれど、同じくらい優しい。わたしは機会があればもう一度会いたいし、あの夢についても彼女に話したいのだけれど。早羅さんにとっては、彼女は精神的外傷以外の何物でもなく。加えてわたしの昏睡の原因は、早羅さんをかばって彼女の前に出た時に受けた殺気なのだ。それが心臓にきたのだと、早羅さんは後日説明してくれた。似たような力を持つ知り合いがいるらしい。
「防人が器様に救われました。そして死の淵を防げませんでした。
この座敷童は防人失格です」
説明の後で早羅さんは厳かに両膝と両手を床について、額もフローリングの木目になすりつけた。その仕草は静かで、とても早羅さんらしい品があったのだけれど、肩が小刻みに震えていたので、色々な感情を堪えているのが分かった。
わたしは、彼の前にしゃがみ込んでしばらくちょっと可愛らしいつむじを眺めながら、黒い砂の海について、わたしの避けることができない、つまり避けたいけれど避けれない運命について、訊きたい衝動をとても強く覚えたのだけれど、彼の肩の震えが視界に入って結局訊けなかった。
代わりに彼の柔らかな両手をわたしの両手で取って、顔を上げてもらい、正座の姿勢を取る彼の膝の上に乗って、鶴が羽を交わすみたいに、彼の上半身を抱きしめた。それは、ちょっと向きが逆だけど、花華さんがわたしにしてくれたみたいに。けれど彼女と違って、何も話せず、何も訊けなかった。
そしてそのまま夏は終わり秋が来て、木の葉が色づいたと思ったら、あっという間に冬になった。
つまり、わたしは15歳の誕生日を迎えた。