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幸野は三日ぶりに大学に来ていた。三日ぶり、というのは、休日を挟んだ為でもあるが、授業をさぼったせいでもあった。
心の拠り所をなくして、幸野は大学に行こうという気力を失った。一回くらい授業をさぼっても大丈夫だろう、という甘えもあったが、根底にあるのはやはり寂しさだった。
学校行っても誰とも話せないし――そう思う度に、貴城の顔が頭を過ぎる。そしてそのつど、先日抱きしめられた時の記憶がよみがえってくる。
そう、あれはきっと抱きしめられたのだと思う――その事実にドキリとする。しかし同時に、『好きなやついるし』と『犬みたいで』という貴城の言葉が追いかけてくる。
じゃあ、あれは何だったのだろう?
ハグ? 友情のハグみたいなもの? 智にも抱きつかれたことあるし――。
幸野ははたと思い至る。
犬みたい、って、暴れてる犬を押さえつける、みたいなことだろうか?
それほど自分は暴れていたのか、と恥ずかしさで顔が熱くなる。そしてこれからのことを――前も元気づけてくれたようで次の日には睨まれたし、今度もきっとそうなんだ、と消沈する。
頭の中がその繰り返しで、幸野は家を出る気にもなれなかった。今日、ようやく大学に来たのは、一回でも欠席すると単位を取れない授業があったからだ。
授業が終わり、講義棟から出てきた幸野は、更に暗く重い気分だった。外はどんよりと曇っている。空気は乾いているから、雨は降らなそうだ。鞄をちらと見て、プリントが中に入っていることを確認する。
『メディアリテラシーの必要性について、調べて意見を述べよ』――その課題だけでも幸野には難解なのに、更に厄介な文言がついていた。
『参考資料は図書のみとする』。
まただよ――自分に対する嫌がらせではないだろうかと、根拠なく疑ってしまう。
これは図書館に行かなければならないだろうか。自分一人で資料を探せるだろうか――誰かに尋ねなければならないか。
図書館に貴城はいるだろうか。
いや、きっと妙に意識しているのは自分だけで、向こうは何とも思っていないはずだ。いつものように睨まれて溜息を吐かれるだけだ。顔を合わせれば何か変化があるかもなんて、自分だけ――だからこそ図書館へ足が向かなかった。きっと自分は、貴城の態度に落胆する。以前と変わらぬ態度を見せられたら悲しくなるだろう。
それに以前、分からないレポートを毎回持ってくるなと釘を刺された気がする。
「あら」
間近で声がして、幸野は顔を上げた。図書館の三田が、微笑しながらこちらを見ている。
「確か、一年生の子よね。こんにちは」
「あ、こんにちは」
自分のことを覚えていてくれたことに、幸野も自然と笑顔がこぼれた。だが次いで、三田が仕事中にしては不思議な様子なのに気がついた。両腕に花束と小さな犬のぬいぐるみを抱えて、ネームプレートもつけていない。
「授業終わったとこ?」
「はい。それ、かわいいですね」
犬のぬいぐるみを指して言うと、三田はふふと笑った。
「かわいいよね。図書館のみんなにもらったの。ちょっとかわいすぎ?」
「そんなことないですよ」
「私ね、今日で図書館最後なの。だから会えなくなっちゃうけど、また来てね」
幸野は驚いて目を見張った。
「え、そうなんですか? 何で?」
何気なく発した一言に、慌てて手を口にやる。
「すみません。何で、とか聞いちゃって」
三田は拘りなさげに微笑む。
「全然。聞いて聞いて。私ね、結婚するの」
「え?」
「相手の都合で遠くに行くから、それで私が仕事辞める事にしたの」
「わぁ、それは……、えっと、おめでとうございます」
「ありがとう」
照れているような三田がとても幸せそうで、同時に幸野は、また一つ拠り所がなくなったと思い寂しくなった。
「だから私は関係なくなっちゃうけど、これからも図書館使ってね。レポートとか聞いてもいいんだから」
「え、でも貴城先輩が……レポート聞いても基本的に断るって……」
「え? 貴城君がそんなこと言ったの?」
三田はきょとんとして、次いでくすくすと笑い始めた。
「貴城君、口は悪いんだけど、レポートの相談を一番受けてるの」
「はあ……」
「だから大丈夫。今度聞いてみて? 文句言いながら面倒見てくれるから」
「そうですか……?」
本当かな、という気もしたが、文句を言いながらという点が貴城らしい。
「大丈夫、大丈夫」
三田は、請け負ったとばかりに満面の笑みで頷いた。
つられるように、幸野も笑みがこぼれた。三田がそう言うのなら聞いてみようかなと素直に思えた。
「じゃあ、元気でね」
「あ、はい。三田さんも」
荷物を片手で支えながら三田は小さく手を振った。それに応えて幸野も手を振り、三田を見送った。




