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「智、幸野ちゃんが来てくれたよ」
智の母の言葉に振り返ったのは、目の大きな、少女と言って差し支えなく見える女性だ。
「……幸野!」
「智……」
ベッドに半身を起こして溢れそうな笑顔を送ってくれているが、幸野はその顔を見て逆に心配になった。
「来てくれたんだ、幸野」
「智、やせたんじゃない? 顔色が良くない」
少し頬がこけたようで、下ろした髪と伴って目の大きさが際だつ。顔も、幸野の記憶にあるよりも白いような気がした。
そうかな、と微笑う表情に、昔の智の面影を見つけて、ようやく幸野は息を吐いた。
「心配したよ、智。怪我したなんて」
「大丈夫だよ。頭ぶつけたから検査してるだけだもん」
「でも、足も」
「あー、うん。歩くのは、今、大変かも」
「もう……」
笑みをはいたまま、幸野は何気なく周囲を見渡し、廊下に立つ貴城のものらしい足を見つけた。ああ、と胸中で嘆息する。智とこうして話すと、真実などどうでもいい気がしてきた。このまま智と前みたいにいられればそれで――。
思ったところに、貴城のものらしい男性の咳払いの声が聞こえてきた。聞こえよがしなその声に、幸野はむっとして、分かったよと心の中で舌打ちした。
「智、変なこと、おばさんから聞いたんだけど」
切り出すと、智は、ん、と小首を傾げた。
「ストーカーに怪我させられた、って……本当?」
幸野の言葉に一瞬、びっくりしたように目を見開いた後、智は泣き出しそうなほど眉を下げた。
「そうなの! もう怖かったよぅ……」
差し出された手を、幸野は反射的に両手で包んだ。
「この前の安藤君なの……?」
「そう! あいつ私のこと超好きなんだよ。待ち伏せとかしてるんだよ。怖かったぁ」
「でも……、安藤君はストーカーなんてしてない、付き合ってもないって言ってるよ? どういうことなの?」
瞬間、智の表情が冷ややかなものになった。
「幸野は、私が嘘つきだって言うの」
幸野は慌てて首を振る。
「嘘ついてるなんて言ってないよ。ただ安藤君の言ってることと違うから、どういうことなのかなって」
幸野の手をふりほどいて、智はキッと睨みつけた。
「嘘つきだって言うんだ! 私が嘘ついてるって!」
「違う、智。聞いて」
「幸野ひどい! 帰って!」
智は、幸野を拒絶するように自身の両の手を握りしめ、大きな声を上げた。
「智、違うよ!」
幸野は焦ったが食い下がる。
「ママ、幸野を追い出して! 私をひどい目に遭わせるんだから!」
「待ちなさい、智。幸野ちゃんの話をちゃんと聞いて」
智の母も、智が落ち着くようにとゆっくり言い聞かせる。途端に、智の顔に絶望が満ちた。
「ママも私の敵なの? 私を嘘つきだって言うの?」
「そうじゃないって、智」
幸野と智の母はなだめようとしたが、智は布団を頭の上まで引き上げて潜り込んでしまった。ベッドの中から嗚咽が聞こえる。
幸野は、智の母に視線を送る。智の母は困り果てたという表情で肩をすくめた。
「どうする、幸野ちゃん。もう少し落ち着いてから……」
だが幸野は、布団の中で肩を震わせる智を見て、もういいかなと思った。
「いえ……、きっと智の言う通りなんだと思います」
「え?」
幸野はベッドに顔を寄せて、そっと囁いた。
「智、怖い思いしたんだね。もう大丈夫だよ」
――真実なんてどうでもいい。これでは智がかわいそうだ。私は智の味方でいよう。
きっと嘘だろう。ストーカーなんてされてないんだろう。安藤君のことは空想遊びだったのだろう、だけど。
「誰も嘘ついてるなんて言わない。私が智の側にいる……」
その瞬間、ぐいと肩を掴まれて智のベッドから引き離された。
驚いて首を巡らすと、眉をつり上げた貴城の顔があった。幸野はその迫力に思わず黙る。まるで彼の怒りが周囲に煙立っているようだった。
何も言えない幸野の見る前で、貴城は智の布団に唇を近づける。
「幸野を巻き込むな。安藤瑞己はストーカーじゃない」
低く、それだけ呟いて貴城は顔を離した。
布団がびくりと震えた。
幸野が呆然と成り行きを見つめていると、また肩が強く掴まれて貴城の方に引き寄せられた。そしてそのまま肩を抱かれるようにして、押されるままに幸野は歩き出す。
「あの」
貴城をふりほどこうと試みたが、肩を掴まれた手に更に力が入り、余計に上半身を動かせなくなってしまった。
せめて一瞬、智を振り返ろうとしたが、貴城の上背に遮られてそれすら叶わなかった。
「あの、すみませんけど」
「黙って歩け」
ぐいぐい押されて歩きながら貴城の顔を盗み見ると、まだ怒りが収まっていないような厳しい表情があり、これは言うことを聞いておこうと幸野は思った。




