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君の夢の裏側  作者: 鈴鯉
第6章 過去の『遊び』――変化と、緩やかな濁り
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「売店の人、絶対、私のこと好きなんだよ」

 高校の廊下を歩きながら、密やかな声音で智が囁いた。こんな事を言い出すのはもう何度目かだ。ほとんど――というか、いつも、絶対にそれは事実ではない。売店の人は普通に接客をしているだけなのだ。

 幸野はにっこり笑って頷いた。ちょっと目が合ったとか、何かきっかけがあると智はそういう風に言ってくる。だからといって変な行動を起こすわけではない。こうして二人で秘密として共有して、くすくす笑い合っているだけだ。

「教育実習の先生、私のこと好きっぽい」

 少し時間が経つと、また別の人の話を智はしてくる。

 くすくす笑う智に、

「売店の人は?」

 と聞いてみても、

「釣り合わないからってやめたみたい」

 あっさりとした返答があるだけだ。

 最初は本気に取って戸惑ったが、智なりの遊びなのだろうなと思い、受け流したり一緒に笑ったり、『今はこの人なんだな』と幸野も楽しむようになった。

 少し様子が違ったのは、卒業間近のことだった。

「クラスで私の悪口言ってる」

 眉根を寄せた固い表情で、ぽつりと智が言ったのは、幸野の部屋に遊びに来ている時だった。

「え、うそ」

「悪口が聞こえるの。陰で私を笑ってる」

「そんな……」

 意外な言に幸野は狼狽えた。クラスで智の悪口を言っているなんて、幸野は聞いた事がなかった。だがそれは単に幸野がクラスとの繋がりが薄く、周囲に興味がないから聞こえてこないだけなのかもしれない。少なくともそう思えるほどに智は思い詰めているようだった。今日も、数日前から普段より口数の少ない智を心配して、学校帰りに智の好きな菓子を買って幸野の家に誘ったのだ。

 幸野は思わず智の手を取った。

「大丈夫だよ。智には私がいる。それにもうすぐ卒業だし」

「本当? 幸野、側にいてくれる?」

 うるんだ智の瞳を見て、幸野は強く頷いた。

「うん、側にいる。智を守るよ」

「ありがと!」

 不意に智が抱きついてきた。智の細いふんわりした髪が鼻をくすぐる。付き合いは長いが、こんなに密着したのは初めてだ。幸野は驚いたが、同時に、胸から伝わる智の温かさが心地よかった。

「幸野? 嫌だった?」

 わずかに顔を上げて智が訊いた。慌てて幸野は首を振る。

「嫌じゃないよ」

 嫌がっていない事を示さなければ、と幸野も智の背に手を回した。こんな事をするくらい智は不安なんだと思った。

 こんな時、漫画では『ドキドキ』といった書き文字がコマに踊るのだろうな――幸野は智の背中に手を当てながら考える。だが自分の中に立ち上ってくるのは、ほんわかとした愛おしさだ。十秒近くこうしていると、ずっと離したくないような、彼女の為に何でもしてあげたい気がしてくる。

「大丈夫だよ……」

 次の日から幸野はクラスの中で耳を澄ましていた。しかし智に関する話など聞こえてこなかった。周囲と自分たちの距離はいつも通りで、だが智の表情だけが固い。

 ある日の帰り道、幸野は意を決した。通学路の内、人通りの少ない橋に差し掛かったところで智に話を切り出す。

「智、あのさ……、まだクラスで悪口言われてる?」

 智はすっと表情を暗くした。

「うん」

「うーん……」

 幸野は自分のコートを見下ろした。その日はいつもより暖かかったが、まだコートが要らないほどではない。智も紺色のピーコートを着ていた。

「私さ、ずっと気にしてたんだけど、……誰も智の悪口言ってないと思うよ?」

「嘘!」

 幸野にしてみれば、智が何とか救われてほしいという思いだった。だが智は眉をつり上げた。

「そんなの嘘! 絶対ひどい事言ってる! それで私の事見てくすくす笑ってるんだから!」

「え、そんな……」

 智の様子に幸野はひどく面食らった。自分が観察している限り周囲にそんな様子はないのに、どういうことだろう。

「私が嘘ついてるって言うの? 幸野までそんなひどい事言うの?」

「ちょ、ちょっと待ってよ、智」

 智の激しい言い募り方に狼狽えた。

「幸野なんて大嫌い!」

 言い捨てて、智は走って行ってしまった。

 幸野は呆然と立ち尽くした。あんなに怒っている智を初めて見た。自分はそれだけの事をしてしまったんだ――ショックで悲しくて、途方に暮れる思いだった。

 とぼとぼと家に帰り着くと、すぐさま、智からメールがあって先ほどの事を謝ってきた。

 幸野はすぐに電話をし、智が何度も『ごめん』と謝るのを聞いて安心した。

「私もごめん。智の言う事、信じてないみたいな言い方して……」

「幸野は悪くないよ。私が全部悪いの」

「……ねえ、やっぱりクラスで聞こえるの?」

「うん。私の事、何か言われてる」

「そっか……」

 それから幸野は、智の話を否定する事をやめた。智は段々、学校に行きたくないと言うようになっていったが、あと少しだからと幸野が毎日励ました。

 そんな日がしばらく続いて、午前授業になり、卒業式に向けた慌ただしさの中で徐々に智の様子も戻っていった。ああ、大丈夫だったんだ、と幸野は一人胸をなで下ろしていた。

 春休みに何度か会った時には、智はすっかり明るい様子で、『今のお店の人、私の事気になってるよ』などと言って笑い合った。しかしこの一件以来、幸野は、智を守るのは自分だと強く認識した。

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