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六号棟の一階にある休憩スペースは、貴城の読み通り誰もいなかった。貴城と安藤が長椅子に隣合って座り、幸野はその正面にある椅子に腰を下ろした。
「木原さんに怪我をさせたのは……俺なんだ」
絞り出すようにした安藤の言葉に、幸野は立ち上がって非難の声を上げそうになった。しかし貴城に目で制された。
「でも、わざとじゃない。それにストーカーもしてない」
「じゃあ、どうして怪我させたんだ?」
「学校の帰りに木原さんが待ってて、急にストーカーしてたんでしょって言われて……。腕を掴まれたから、離してもらおうと振り払ったら木原さんが後ろに倒れて、多分それで怪我をしたんだと。その時、定期も落としたみたいで……」
安藤の話を聞くにつれ、幸野は深く俯いた。黙りこくってしまった幸野を一瞥して、貴城はまた安藤に尋ねる。
「てことはストーカーに間違われて、たまたま突き飛ばしちまっただけなのか。何でその場で助けて説明しなかったんだよ?」
「人が集まってきちゃったから怖くなったのもあるけど……、木原さんの様子がちょっと普通じゃなかったっていうか」
安藤は首を傾げた。
「木原さんの言い方だと、俺たちが付き合ってたみたいなんだけど、そんなことなかったし。俺の帰り道によく木原さんがいて、その時挨拶したりしたくらいなのに」
「え、でも!」
幸野は思わず声を上げた。
「この間は付き合ってるって……」
「この間? 沢渡さんに会った日?」
「そう!」
「あの日は、木原さんに買い物手伝ってほしいって言われたから一緒に行っただけだよ。途中、休憩しようってあのカフェに入って、そしたら沢渡さんが来て」
「え……?」
幸野は眉根を寄せた。
「だって、智は……『安藤君と付き合ってる』って」
「ええ?」
今度は安藤が驚いた声を上げた。
「いや……、悪いけど、そんなことは全然……」
「ん、ん? どういうことだ?」
貴城が顔を覗き込むと、安藤は自分も分からないと言いたげに首を振った。
「少し前に、よく行くスーパーでたまたま会って、クラス一緒だったからちょっと話したりしたけど。一回だけ、買い物付き合ってほしいって言われたから手伝っただけだし」
話を聞くにつれ、幸野の顔が強ばる。
黙り込んだ幸野を見て、その代わりというように貴城が口を開く。
「別の奴にストーカー被害に遭ってて、瑞己と間違えたのかな。いや、でも瑞己と付き合ってるって前にお前に言ったんだよな。やっぱり分からんな」
「俺もよく分からないんだよね。そんなような話になった事もないのに、付き合ってたんだよねって言われて。否定したら、ストーカーしてたんだろって……」
貴城は腕を組んで、幸野をちらりと見た。
「それは……何かおかしくないか」
「ま、待ってください!」
貴城と安藤が幸野に視線を送る。
「智がおかしい、とか言う前に、どうして安藤君の言うことを全部信じるんですか? 本当にストーカーしてたかもしれないじゃないですか」
安藤は貴城の顔を見、貴城はそれを受けて軽く首を回した。
「それは俺がこいつの兄だから、というのもあるな。お前がこいつの話を嘘だっていうんなら、さっさと親友のところに行け。ただ……」
貴城の顔が、ずいっと幸野に近づいた。
「兄貴でなくても、瑞己の話は信じるだろうな」
「な、何ですか、それ……」
幸野が視線を泳がせてしまうのは、話の内容のせいだけではなかった。ぐっと近づいてきた貴城の整った顔を正視できない。なんだか急に暑くなってきて、自分とは違うシャンプーか整髪料の匂いに狼狽えてしまう。
「お前、今、智『が』おかしいって言ったんだよ。普通なら、智『の話が』、だろうが」
「あ……!」
「何かあるんだろ」
自分の失言に唇を噛み、幸野は俯いた。
「いや、だって今、智がおかしいみたいな言い方だったじゃないですか……」
しかし貴城の視線は幸野を逃がさなかった。
「そんな事はどうだっていいんだよ。何か知ってんだろ? 言わねぇといつまでたっても親友のとこ行けねぇぞ」
幸野は思わず両手で顔を覆った。
「ちょっと……ちょっと待ってください」
細い声で願う。
私たちの『それ』を、何と呼べばいいのか分からなかった――。




