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大学に通う事が苦痛になっていた。しかし親に不審に思われるのを避けようとすると、通わないわけにいかない。結果、幸野は昼近くに大学に行き、比較的楽な授業だけに出る日々を送っていた。
図書館に行く用事もあったが、貴城とは顔を合わせても睨まれるだけで言葉を交わすことはなかった。
幸野の携帯が鳴ったのは、五限の授業が終わって講義棟から出た時だった。
またメールマガジンかと思ったが振動が止まない。見ると、知らない携帯番号からの着信だった。訝りながらもその番号がメッセージを残したので再生してみる。そして目を見張った。
メッセージに耳を澄ませるが、学生の雑踏の中でよく聞こえない。慌てて静かな場所を探して講義棟に戻り、学生がいなくなった講義室でもう一度再生した。
着信の主は智の母親を名乗っていた。そして智が怪我をした旨を話し、訊きたい事があるから電話を返してくれと結んだ。
智の母親と言葉を交わしたのは数回だが、メッセージの中で幸野を名指ししていたことから、なりすましなどではなさそうだ。もう一回同じメッセージを聞いてから幸野は携帯を見つめた。メッセージの内容を頭の中で反芻し、心臓がドクンドクンと鳴るのを感じる。智は大丈夫なのだろうか。自分に聞きたい事とは何だろう――。
唐突に携帯が震えた。先ほどと同じ番号がディスプレイに表示されているのを見て、幸野は通話ボタンをタップした。
「あ、幸野ちゃんですか? 木原で……智の母です。ごめんなさい、急に電話なんかしちゃって」
「いえ、大丈夫です。留守電聞きました。智は……?」
「うーん、それがねぇ……」
智の母は何か言いにくそうに言葉を切った。
「怪我したって、どうして怪我したんですか? 大丈夫なんですか?」
「うん、怪我は大丈夫。足の捻挫と、あとちょっと頭打ったみたいだから病院にいるけど、検査して問題ないみたい」
「そうですか……」
幸野は大きく息を吐いた。
「それで、私に聞きたいこととかって……?」
「そう、あのね……」
智の母が一呼吸置くのを、幸野は耳を澄ませて待った。
「あの子、誰かに突き飛ばされたらしくて、その相手がストーカーみたいなの」
「え……?」
幸野は、意外な言葉に眉を顰めた。
「智、ストーカーに狙われてたんですか?」
「やっぱり聞いてない……? 私も初耳で、それで幸野ちゃん何か聞いてないかと思って」
ため息混じりの言に、幸野は複雑な思いを抱く。今まで通り智と仲良くできていたら、相談されていたかもしれないのに――。
「すみません……」
「その、怪我した場所に逃げた犯人の持ち物が落ちてたみたいでね。アンドウ、っていう名前らしいんだけど、幸野ちゃん知らない?」
それを聞いて思わず目を見開いていた。
「アンドウ? 下の名前は何ですか?」
「さあ、聞いてないけど……。知ってる人なの?」
幸野は言葉を濁す。偶然同じ名字なのかもしれないから、軽々しく決めつけることには躊躇した。
「分からないですけど……と、とりあえず、病院に行っていいですか? 病院どこですか?」
病院の名前と場所を大まかに聞いて通話を終えた。智は今、眠っているらしいが、幸野が行く頃には目を覚まして話ができるかもしれない。自分の知っている「アンドウ」が関わっているのか、智から直接聞きたかった。
病院への行き方をその場で検索してから、幸野は足早に歩き出す。
正門が見えてくると、その傍らに見覚えのある白い髪を見つけた。一瞬、う、と顔をしかめるが、今の自分には貴城に嫌なことを言われるよりも重要な事がある、と奮い立たせて歩を進める。しかし、向こうからはまだ気付かれていない距離で、幸野の目に信じがたいものが映り驚いて足を止めてしまった。
何で――? 純粋にそう思って、口をぱくりと開けたまま立ち尽くす。
貴城が門の外から来た人物を出迎えているように見える。迎えてその場で話している相手は、幸野の知っている安藤だった。
混乱する頭を抱えて、迷いながらも幸野は二人に近づく。安藤が関わっているのかどうか、本人に聞いた方が早いし、ここで安藤を見失ってはいけない筈だ――。眉を上げ、目に力を込めて前を向き、二人がどこかへ去る前にとズンズン歩み寄った。
「あの」
「え? うわ、なに、お前」
背後から声を掛けられた貴城は、飛び上がるようにして振り向いた。
「何か用か?」
しかし幸野は貴城を見ずに安藤の顔を凝視した。安藤は驚いた様子で目を見開き、固まっている。
「安藤君、ですよね」
「さ、沢渡さん……」
「え、何。お前ら知り合いなの?」
安藤と幸野を交互に見る貴城は無視して、幸野は一歩、安藤の方に足を踏み出した。安藤は幸野のことを高校の同級生なのだと貴城に話した。
「へぇ、同級生ね。で、何の用だよ」
幸野はやはり貴城を無視して、安藤をひたと見つめる。
「智が今どうなってるか知ってる?」
安藤は何も答えずに、唇を噛んで俯いた。
「ん? ん? どういうことだ?」
「安藤君がやったの?」
「ち、違う!」
強い調子で否定する安藤に、幸野は首を傾げた。
「犯人の名前はアンドウだって」
「う、それは……その……」
視線を泳がせて言い淀む安藤の背中を、貴城がぽんと叩いた。
「とりあえず、ちょっと待て」
そして幸野に半眼を向ける。
「お前、まず俺に分かるように状況を説明しろ」
「先輩は関係ないです。これは智と私と……」
「説明しろ」
低い声で凄まれると、幸野は恨めしそうに貴城を見上げながら、不承不承、事の次第を説明した。
「だから、智が怪我をして、犯人のストーカーがアンドウって名前だそうで……」
「ふーん」
貴城が頷いて安藤に視線を転じると、安藤は激しく首を横に振った。
「それは違うよ! 何か、色々誤解があって」
「ていうか先輩は何なんですか。私、こんな事してないで安藤君を警察に連れてかないといけないんですけど」
貴城を相手にすると、思わず強い言葉が出てしまう幸野だが、
「ちょっ、警察……? 待ってよ!」
狼狽える安藤を後目に、貴城はわずかに顎を上げた。
「俺はこいつの兄貴だよ」
「……は?」
予想だにしない言葉に、幸野は目を瞬かせた。
「え、だって名前……、それに髪も……」
貴城と安藤を交互に見比べて言うと、貴城はつまらなそうに軽く舌打ちした。
「親が離婚して別々に引き取られたんでな。髪は関係ないだろ。染めればいくらでも変わる」
「あ、そうですよね……」
幸野は驚いたまま呆然と頷いた。
「警察沙汰にするなら、このままにしておけねぇな。それで瑞己、実際のところ何がどうなってるんだ?」
安藤に水を向ける貴城に、幸野ははたと我に返る。
「ちょっと先輩! それは私がこれから聞くんです!」
「どぉーでもいいだろ、誰が聞くかなんて」
貴城にきつく睨まれてしまうと幸野は思わず口を噤んだ。それを確認してから、貴城は安藤に話すよう促す。
「うん……、その……」
近くを通る人をちらちら見て話しにくそうな安藤を見て、あ、と貴城が気付く。
「悪い、場所変えるか。この時間に人が少ないところっていうと……六号棟の椅子のとこ行くか」
「え、待ってください。私、これから智のところに行かないと……」
「別に行ってもいいぞ」
貴城の冷たい言は、このまま真実を知らなくていいなら行けという意味に感じられた。早く智の元に駆けつけたい思いはあったが、真実を知れないのは自分の望むところではない。一瞬だけ迷った後、幸野は身を翻した貴城と安藤の後を追った。




