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週が明けて、幸野はいつも通り授業に出る。教室移動の時も休み時間も一人で行動しているが、もう智からの連絡を待ってはいなかった。
幸野が待っているのは時間だった。
朝、図書館の開館時間すぐに入って、フロアを探し回って見つけた三田に訊いておいた。今日、貴城は五時からシフトが入っている、と。
三田には、用があるのだと言ってシフトを聞き出したのだが、実のところそんなものはなかった。何となく、今までと違って普通に会話できるような気がしたし、吹っ切れている自分の姿を見せたかった。
幸野の取っている授業が終わり、五時までまだ時間があったので食堂で時間を潰した。五時を少しすぎてから偶然行った風な顔をして図書館を訪れる。
階段下に、目を引く長身と白い髪があった。幸野は楽しくなってきて、くすくす笑いながら近づく。しかし、目の前の光景に足を止めた。
貴城が笑っていた。幸野に見せるような皮肉を含んだものではなく、純粋に、楽しそうに笑っている。いつもきつい目元が緩んで、見惚れるほどに幸せなのだと分かる、幸野が見たことのない表情だった。そしてその笑顔の先には三田がいた。二人は、何か言葉を交わす度に笑い合った。
胸に重いものを感じながら、幸野は呆然と立ち尽くす。
やがて三田が事務室へと歩み去り、貴城は入り口の方向へ足を踏み出し――幸野と目が合った。
余韻として残っていた貴城の笑みが、一瞬にして消えた。その変化を目の当たりにして、幸野の胸が凍りついた。
「何か用か?」
すっと目が細められて、睨んでいるような、幸野がよく見る顔で貴城が尋ねた。
「……あの、えっと」
幸野の中から言葉が消えてしまった。土曜日の事を話題に上げようと思ったのに、なんと言っていいのか分からない。
「いえ、……あの」
とても貴城の顔を見られなかった。彼の苛立ちが煙のように立ち上って周囲に漂っている気がした。パニックになって更に口をもごもごさせてしまう幸野の視界で、すっと影が動いた。
白いシャツとジーンズが、視界の端を通っていなくなった。
顔を上げ急いで首を巡らすと、貴城の後ろ姿が少し距離の離れたところにあった。表情は伺えないが、こちらのことなど全く気にしていないような、仕事のことだけ考えているような様子に見えた。
幸野は肩を落として息を吐いた。
期待したように話せなかった落胆もあるが、幸野の心を苦しくしたのは直前に見た貴城の笑顔だった。
私はあの笑顔を向けてもらえない――存在を受け入れてもらえているのだと思っていた。
だからといって、貴城と親しくなれなくて残念なのではない。
幸野は改めて気付いた。この学校には、自分にあんな笑顔を見せてくれる人がいない。自分があんな風に笑える場所がない。
大学で一人でいても、辛くなった時に智と話が出来ればそれで良かった。実際にメールをしなくても、保険のようにそう考えているだけで頑張れた。
土曜日以来初めて、智のことを考えて携帯を見たが、着信は一切入っていなかった。智が安藤と過ごす時間を邪魔したらいけない、と考えると、どんなメールを送れば良いのか分からなくなってしまう。幸野はそのまま携帯をしまった。
拠り所がなくなってしまった――不安が胸に広がる。
これからの大学での生活について途方に暮れてしまう。ここには私の居場所はない。
もう一度溜息を吐いて、踵を返す。重たく感じる体を引きずって、ゆっくりと図書館を後にした。




