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不意に、聞こえよがしな舌打ちの音が近くでした。
「何でお前はさっきから俺の視界に入ってくるんだ……」
心底嫌そうな声音に、幸野も思わず顔をしかめる。
「一年がこんな時間に何の用事だよ。ていうか閉館時間まで寝てんじゃねぇよ。図書館は仮眠室じゃねぇんだよ」
ぶつぶつ言いながら近づいてくる貴城を、幸野はむっとして見返した。
「先輩こそ、何で今日図書館にいるんですか。シフトじゃない筈ですよね」
とげのある口調の幸野に驚いたのか、貴城は足を止めて目を瞬く。しかしすぐにいつもの半眼に戻った。
「休んだ奴の代わりに入っちゃいけないのかよ。ていうか何で俺のシフト知ってるんだ。お前、ストーカーか?」
「違います! たまたま聞いただけです!」
自分から尋ねたとは言えなくて、幸野は声を一段高くしてごまかす。
その様子を貴城は訝るように眺めていたが、すぐに興味なさそうに視線を外した。
「で、何してんだ、一年。部活か?」
「いや、私は……」
言葉を濁した幸野に、盛大な溜息が聞こえた。
「ああもう、面倒くさいけど仕方ねぇよな。最近ツイてないのかな」
幸野が辛うじて聞き取れる程度の声量で呟いた貴城は、もう一度溜息を吐いて頭をかいた。
「そういやお前、今日は親友だかと遊ぶんじゃなかったのか。メール返すのが遅れると不安になる親友さんと」
薄く笑った貴城の言で、幸野はまた智と安藤の姿を思い出し、押し黙って俯いた。
「あんなところで泣かなきゃならないような事があったわけか」
「……先輩には関係ない、です」
「ああ。関係ないから話せとは言わねぇけど、いつまでもここにいたって仕方ないと思わないのか?」
幸野は何も答えられない。
「お前が何に悩んでるのかなんて俺には関係ない。でも、一年の女子が一人でこのままずっとここにいるんなら、俺は守衛んとこ連絡してくる」
「大げさじゃないですか? まだそんなに遅くない……」
「もうすぐ十時」
「え?」
意外な言葉に驚いて、携帯を見ると確かにあと数分で十時だった。
「嘘……」
そんなに時間が経ってたのかと呆然として呟く。貴城は白い髪をかきあげた。
「まあ、人によっちゃそんな遅くないかもしれないけど。俺ももう帰るし。こういう奴見つけて放置して行くのは気持ち悪い」
幸野は逡巡する。大ごとにされるのは嫌だけどすぐに帰る気にもならない。迷いながら、昨日貴城に智の話をした事を思い出した。恐らく、大学に入って初めて智の事を話した――目の前の人に。
「……彼氏ができてたんです」
「はあ?」
「親友に彼氏ができてて、今日一緒に来てたんです」
「……うん」
少しの間、沈黙が降りた。それを打ち破ったのは、
「え、だから?」
心底不思議そうな貴城の声音だった。
幸野は顔を上げて、きょとんとする。
「『だから』?」
「親友に彼氏がいたから……だから何だよ」
「だから何って、付き合ってる人がいたんですよ」
「いや……さっぱり分からん」
理解できないと言いたげに、貴城は頭を振った。
「彼氏がいて、だから何だよ。彼氏に何か問題があったのか?」
「いえ、別に普通の……」
「だったら、めでたい話で済むだろ。それともあれか? 親友との仲に邪魔が入ったとか思ってるのか?」
幸野は拗ねたように俯いて、小さく頷いた。
「バカか、お前」
呆れを含んだ声に、幸野はたまらずキッと見返す。
「でもでも、智とは、そういうのなしでずっと一緒にいられると思ってたし。智も、絶対そうだと」
「彼氏がいたって友達でいられるだろ?」
「でも……」
「友達なら喜んでやるのが普通じゃないのか?」
それは昼間からずっと幸野が自問していた事だ。『良かったね』と言って一緒に喜んで、彼氏の存在を受け入れて智の気持ちを尊重する――それができない。どうしても。
「……嫌なんです」
貴城の視線が注がれているのを感じる。
「嫌です……。智の、彼氏は……私じゃないと」
一拍の間があってから、貴城は吹き出した。
「おま、お前、バカだろ。何言ってんだ」
気味の悪い物を見つけて反応に困って笑っている、そんな貴城の表情に、幸野は眉根を寄せた。
「そうなんです。私は智が好きなんです。いつも一緒にいたいんです」
思った事をそのまま口に出してみると、胸のつかえがすっと取れるようだった。
貴城が笑みを消して、幸野の顔を見下ろす。
「でも、相手は違ったってことだろ」
「……はい」
「つまり、片思いしてて振られた、と」
「そう……ですかね」
ふっと貴城がまた笑った。
「何だよ。じゃあ、大した事ないな。飯食って風呂入って寝ろよ」
その言に、幸野は怒りがこみ上げてくる。
「何ですか、それ」
「ただの失恋だろ?」
「違います!」
貴城が面白そうに眉を上げた。
「何が違うんだ」
「だって、私は親友が好きだったんですよ。智、女の子ですよ?」
「ふうん……。それで『女の子を好きになった自分は特別だ』とでも思ってるのか」
「そ、そんな風には……!」
反論しようとしたが、言われてみると自分の気持ちを正確に表しているように思えて言葉に詰まった。
貴城は真っ直ぐに幸野を見据える。
「相手が同性だろうと、ただの失恋だろ。世の中で失恋してる奴がどれだけいると思う。その中の一人だよ、お前は」
幸野はただ俯いた。
ふう、と貴城が息を吐く。
「まあ、これからその親友とこれからどう付き合っていくのかは知らないが。とりあえず今日は失恋したんだから、思い切り泣くとか、やけ食いするとか、すればいいんじゃないか?」
幸野はゆっくりと顔を上げた。
「泣いて……いいんですか?」
「いいんじゃないか? 何の解決にもならないがすっきりするだろ。ただし、ここで泣くなよ? いい加減、お前は帰れ」
腕を組んだ貴城が、顎で正門の方を示した。
「もうバス終わってるけど、帰る方法はあんのか?」
「あ……。家に電話して、お母さんに迎えに来てもらう、とか……」
「だったら、今すぐ連絡しろ。今、ここで、すぐ、早く」
急かされて、幸野は言われるままに母親に連絡した。母は、大学にいることを不思議に思ったようだが、迎えに来ると言ってくれた。
「じゃ、もう行け。これ以上、お守りはしねぇぞ」
「あ、はい……」
お守り、という言葉に引っかかりを覚えたが、幸野は立ち上がって歩きだそうとした。すると皮肉を帯びた声が追いかけてきた。
「ふうん。これだけ話を聞いてもらった人間に礼もなしなのか。さすがだな、一年」
むっとした幸野は弾かれたように振り向く。
「先輩、ありがとうございました!」
語気を強めて言い捨て、身を翻した。
前方を睨みつけるようにして、どんどんと足を進める間に、頭の中がすっきりしていると感じていた。貴城の言い方は概ね嫌なものだったが、正体の分からなかった気持ちの絡まりは解けていた。更に、泣いてもいいと言われたことが幸野の気持ちを救っていた。
泣いていいんだ。思い切り嫌がって、悲しんでもいいんだ――幸野は、星の少ない夜空を見上げた。
しかし、もう涙はこぼれそうになかった。




