第四章(序):13【異世界は遠くにありて想うもの】
「――笑うかよ、おい」
物言わぬ文字に問い掛ける。
眩暈がしそうなほどの断絶。あまりに杜撰な自己保存。
ここまで。
ここまで変貌ったものか、と嘆息した。
あの頃の自分はこの文章を、作品を、意志を、観念を、思想を、熱意を、感情を、当然のものとしてごく自然に燃焼させていた。生成していた。鍛造していた。渦巻かせていた。
それが、どうだ。
なんて、きっぱりとした他人行儀。
自分のものと思えない。自分の文字と感じない。
書かれているのが、自分の心と、信じられない。
今の自分は。
かつての自分と。
こんなにも、違ってしまっている。
それがおかしくて仕方ない。
あの頃の、中学生だった頃の田中が、今、こうなった自分を見たら、どうするだろう。
怒るか。
蔑むか。
興味が無いと視線を外すか。
それとも、
ならこうしよう、と自ら命を絶つだろうか。
自分がいつか、見る影もなく穢れてしまう、その前に。
「――――は。それ、ありそうですっげえ嫌だ」
過去は過去。
現在は現在。
同じ自分であろうとも、そこには越え難き断絶があり、隔絶があり、廃絶し合う関係にある。
どれだけ真っ当に生きてきた人間でも。
一歩一歩、足元を確かめて歩いた道程でも。
大なり小なり、変容は免れない。昔と同じ自分に戻ろうと思っても、それは決して遡り引き返すことで辿り着ける場所でもない。
人は、前にしか進めない形をしている。心も、時間も、世界も、身体も。
昔と同じに戻りたいと思ったら――また、新しく。望んだ場所と似た風景に、辿り着かねばらならないのだ。
だから。
もしもずっと、同じに見えるものがあるとするならば。
それは、その本人が、並々ならぬ努力の元に成し遂げた――擦り切れる記憶と在り方の維持、波に削れる砂の城を休むことなく継ぎ足し継ぎ足し続けるような、意志の証なのだろう。
「……そりゃあつまり、キミドリちゃんマジパないってことになるのかな」
変わらない覚悟も無しに変わらないことは出来ない。突風の中、踏み止まる足が胡乱では、杭になどならないように。
幼い決意は。
それから膨大に得させられる、数多の秩序に流される。
「一概に、善いとも、悪いとも、言えないのだろうけれど」
少なくとも、田中の場合は、そうだ。
まったくぞっとしない話ではある。自分がもし、中学の頃、それ以前の頃と、同じ自分であったなら。
高校と、大学と、それからの変化を体験していなかったなら。
――――彼女の力に、なりたいと。
その願いを助けたいと、思えなかったかもしれないのだから。
「……まったく。未練がましいな、僕は」
過去の自分と、現在の自分。
その二つは断絶していながらも、しかし、無関係には決してなれない。
時として。
人は、過去に呪われる。
過去の自分に、取り憑かれる。
田中もそうやって、掴み掛けていた新しい生き方を失った。積み上げてきたもの、培ってきたもの、変わりかけていた直前で、昔の場所に引き戻された。
――――異世界転生課、萬相談係、異世界派遣調査員。
平日の真昼に、畳の上で物思いに耽る自分が、ほんの一月と少し前まで、そういう場所にいた。そういう心を持っていた。そっちの方を向いていた。
現在と、過去。
そのどちらとも違う、宙ぶらりんの状態で、田中は『夢でも見ていたようだ』とぼんやり思う。
「…………」
窓を開けて、外を見る。
胸の奥に、ざわつきが無い。呼吸は緩く、落ち着いている。
二階から見渡す景色の何処までも、自分が生まれ、育った国だ。知っている世界の空気だ。空と、木と、土と、風だ。とてもとても聞き慣れた、環境音としての、虫の声だ。
地に、足の、着く実感に包まれて。
何か、やたらと、懐かしい。
あの感覚が。
不安定さが。
今から自分は知らないものを知るのだという緊張感。
知っているつもりのことが塗り換わっていく衝撃。
想像の中にしかなかったものが実感を帯びていく感心と驚愕。
想像だにしていなかったものがふいに目の前に飛び出した時の心地よい混乱。
もしもここにいれば自分はどうなるだろうと止め処なく湧き出る想像力。
それが、そんなすべてが、そこかしこに満ちる息遣いが、自分をもみくちゃにしていく未体験が、その広さと隙間と寛容さが時折羨ましくてしょうがなかった――
――今もこの瞼の裏に。
ありありと、思い返せる【異世界】たち。
「――――ああ、」
意識しないで、閃いた。
「うん。無理だな、僕には」
申し訳ないが、書けない。
昔、書いていたもののような、ああいう作品は、きっと、真似することすら難しい。
勘が戻っていないとか、昔とは考えが変わってしまったから、じゃあ、なくて。
もっと、もっと、根本的な部分で、そう出来ない理由があると。
田中には、急に、すとんと、わかったのだ。
「――――謝らなくちゃな、これ」
「何をだ? 途中で、面倒を見なくなったことをか?」
以前にも。
似たような、ことがあった。
今回はそれよりもっと怖い。
何しろ、足元ではなく、上から急に。
予想だにしていなかったタイミングで、相手からだ。
「……担当の編集さんと、編集長さんに、だよ。書く為だからって色々お世話をして貰ったっていうのに、その結果が【どうやっても書けないことがわかりました】なんてのは、不実に程があるものな」
それよりも、と田中は言う。溜息混じりに、嬉しげに。
「色々疑問はあるんだけどさ。まず、どこからそこに登ったの?」
「決まっている」
屋根の端から、逆さ吊りに。
まるで忍者かお化け屋敷の仕掛けめいて現れた人物は、腕組みしながら不適に笑い、こう答えた。
「登ったのではない。飛んできて、降りてきたのさ。何せ――自分は天使だからなっ!」
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