第一章:04【彼の仕事と泣き顔と.】
暗転。
それから、点灯。
瞼の奥の眼の裏の、意識の底から浮き上がる。
「おや、おかえり」
見るもの、聞くもの、肌に触れるもの。
五感ははっきりしていながらもどこか止まっている、痺れのような感覚のところに、そののんびりとした声はよく沁みた。
「へぇ。珍しいねえ、田中くん。死に戻りだなんて」
「……課長」
「ははは。いや失敬、笑いごとじゃないんだけれどね。でもまあ、よかったよ。用心と保険はしておくに越したことはない。この規則を作ってくださった方々と、天照大神様に感謝感謝だ」
異世界転生課、異世界派遣調査員。
その重要な公務には、不測の事態と生命の危機が懸念される。
それを解消する為の制度こそが、【主祭神分霊憑依保険】だ。
“ぶんれい”、或いは“わけみたま”――それは、かいつまんで言うのならば【大元の神霊から分かたれた、オリジナルと同じ能力を持ち、それがどうなろうとも大元に影響を及ぼすことのない分身】である。
異世界派遣調査員は、その公務を行うに際し、役所に補完されている完成直前の手のひら大の小さな社に一つ、最後の手を加えて建立する。
そうして宿った分霊を器に見立て、所定の儀式を行うことで、異世界派遣調査員は自らの魂――意識をそこに憑依させる。
世暦以前の宗教観では何とも不遜であべこべな構図だろうが。
要するに、【神の霊に人の心が乗り移る】のだ。
さすれば何が起こるのか。
異世界派遣調査員は、神の分霊に意識を乗せて、調査すべき異世界へと赴く。
故にその時の身体は、通常はその本人の存在情報が意識と共に上書きされる為、憑依した当人とまったく同じに調整されるが、緊急・危急の事態の際には、異世界派遣調査員が持つ公務上の権限に応じた能力の開放が許可される。
そして、万が一に死亡するほどの災難に巻き込まれようと――そも本体は元の世界に存在しており、器が破壊されようと、肝心の意識はこうして無事に戻ってこれるというわけだ。
「…………、」
いくつか呼吸を繰り返すうち、思考の痺れが取れてきた。
田中の“本体”がいたのは、保健室ならぬ保険室――分霊に意識を憑依させた異世界派遣調査員が寝かされることから、そんな別名でも呼ばれる部屋。
ベッドの脇にある棚の上に置いてあった小さな社は色褪せて、もうその役割を果たしていないようだった。
「――すいません。課の備品を損壊させました」
「きみのそういう律儀なところは好きだけれどね。非のないことを責める人間だと思われてるなら心外だなあ」
「っ、いえ、勿論そういうわけでは、」
「からかっただけー」
課長ははふはふと笑い、湯呑を傾け茶を飲んだ。
「ちょっと普通なことじゃあないよね、これは。体験したきみが一番わかっているのだろうけれど」
「……」
「意識も外見も田中くんでも、その強度は天照大神様の分霊だ。本当に危ないとき、公務遂行に関わらずその身に危機が迫った際には保険の保険が機能する。きみの認識がどうだろうとね。それが、どうにもあっさりと、それでもやられてしまったらしいというのは、それなりの一大事だよ」
「……はい。仰る通りです」
「色々と聞きたいところではあるが、まあ順序があるものな。慣例的に出さなきゃならん備品損壊に関する始末書と異世界派遣調査報告書は後で読ませてもらうから、まずは行くべきところに行っといで」
「……あの」
「ん?」
「こんな、丁度のタイミングで。課長はどうして、保険室に?」
「勘」
底の知れない、飄々とした笑顔。
サボってると知れたらコトだ、と言い残し、湯呑を流しで洗い終えると課長は保険室を後にした。
田中は、顔を洗って水を一杯飲み干してから、退室届にサインし内線電話で利用終了を告げ保険室を出た。
向かう先は自らの職場。
市役所異世界転生課。
総合受付の前にある、待機スペース。
まるで裁きの時を待つような、深刻な表情で俯いている、見知った顔。
意を。
決する、というのも、大仰か。
ただ田中は、こちらに気付いていない彼女を眺め、一度、深く呼吸をして、
表情を作った。
「先程三百十五番でお待ちでした、女神様」
例えるとして。
一番近いのは、犬だ。
独り身に飼われる小型犬が、夕と夜の境、居間で玄関の開く音を聞いた時の反応。
相手は神で何とも畏れ多くはあるが、申し訳ないが田中にはそれが思い浮かんだ。
強張った表情に、驚きが差した。
驚きは、気付きを経て歓喜に変わった。
目まぐるしく表情を移行させながら、俯いた顔が上がり、首が向く。
そうして、身体が後に続く。
立ち上がり。
駆け出して。
跳び付いて来た。
抱きつかれた。
公衆の面前で。
衆目がある中で。
真正面から、熱烈に。
「――――っ!?」
ざわめきにどよめき、衝撃が広がる波紋の中心点にいながら、誰より困惑しているのは田中である。
何せ、抜群に派手な動作を取りながら、その最中に女神は一言も発していない。
いきなりだ。
いきなり来た。
いきなり来られた。
なまじ言葉が無かったものだから、それ以外のことばかりが鮮明に際立ち、情報として入ってくる。
抱き締められる腕の強さだとか。
豊満な身体の沈み込むような柔らかさだとか、太陽を思わせる芳しき匂いであるとか。
そういえば、というのも失礼な話だが。
この人は、女神だけあって――花恥らうほど、美しい。
「……あ、あの」
とはいえ。
この状況は、八方によろしくない。
ここは市役所で、正しき規律のあるべき場所で、断じてこのような構図が成立していいスポットではない。
だというのに強い。
田中は何度も「すいません、すいません女神様、」と身を離そうと試みるのだが、いかんせん、人と神の圧倒的格差がここで出た。
まるで大木相手のようなびくともしなさ。
終いには全力で押したりもしてみたのだが、女神の体勢はほんのわずかも崩れない。
周囲の混乱は留まるところを知らない。
絶世の美人に抱き締められているという、そんな明快幸福状態とは裏腹に田中はその胸の内で青ざめる。
このまま問題となれば書く始末書は二枚や三枚に留まらない、いやさ下手をすればそれこそ、市役所勤めの公務員、異世界派遣調査員という職さえも失うことになりかねず、勝手に脳裏にフラッシュバックするのは数時間前食堂での会話、潰しのきかない仕事、妙な噂で行き場の無くなる自分、残った術はそれこそ異世界への転生――
「……聞きました」
止め処なく溢れかけた田中の妄想を止めたのは、神妙な一言だった。
「天使から、聞きました。私と、あの子は、どこにいようと繋がれるので」
「――ああ、」
急速に合点がいった。
抱き締める腕の力強さ。
田中が声をかけた時の、表情の移り変わり。
彼女は。
彼女が、怖かったのは。
怯えていたのは、避けられないと覚悟したのは。
感想ではなく、報告だった。
『あなたの世界はこうだった』という、異世界調査員の言葉ではなく。
その。
異世界調査員からの言葉を聞けないと、自分以外の誰かから報せがあること。
「……ごめん、なさい。あんなことになるなんて、思ってもみなかったんです」
異世界転生課から、忽然と消えた来訪者。
事態を察したあの天使から、女神はきっと連絡を受けた。
そうしてきっと、いくつものことを覚悟した。
それは嘘でなく、偽りでなく、対外的な振る舞いについてだけではない。
その重みが、転じたからこそ。
無事だった田中の顔を見て、解放された責の大きさだけ。
彼女は、こんなにも震えている。
震えるだけの権利を、涙を流す資格を、自分に許すことができた。
「こんっ、こんな、こんなことを言うなんてっ、おこがましいんです、けれどっ。わた、わたしっ、田中さんが無事で、無事でほんとに、うっ、ううっ、あぁあぁああああっ、よ、よかった、よかった、ですぅっ……!」
体勢が、変わる。
一方的に抱き締められていた形から、女神がずれ落ち、足元にしがみつくような形へ。
それに伴い、周囲の視線や反応も、先程までの田中と女神の二人セットで好奇を寄せているものから、女神単体を奇妙なものとして見るそれに変じていく。
「すいませんでした、もう、私、自分に見合わない願いなんて、二度と、思ったりしませんから…………!」
これ以上は、放置出来ない。
状況に戸惑っていた異世界管理課の職員たちがそう判断し、近寄っていこうとする。
――それを。
無言のままに、手が制した。
伸ばされた腕。
広げられた掌。
そちらを見もしないままに押し止め、それから彼は、ポケットの中に手を入れた。
困惑は、もう無い。
田中には。
自分のやるべきことが、わかっていた。
「こちらをお使いください、女神様」
顔を上げる女神。
差し出されたのは、言葉と、ハンカチ。
田中は優しく、柔らかに微笑み。
それから、強く静かに口にした。
「さて。諸々とここでは何ですので、あちらの別室へ行きませんか。リラックス出来るよう、お茶でも淹れさせて頂きますよ」
「……田中、さん」
「まずはご安心ください。私は貴女の担当です」
「…………っ、」
「これからの話を、致しましょう」
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