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プロローグ:01【春の日、朝の公務員】



 天気がいいから、階段で降りることにした。


 朝の空気に包まれる、マンション四階からの風景。一望する町並で、取り分け目立つ季節の色。

 桜の別れはいつも早い。数日前には鮮やかな満開だった並木の道に、今は緑が混じりつつ。

 舞う花弁が風に乗り、外階段にまで届いてきた。

 ふと、足を止めて。

 景色に、心を投げる。


「……春が、これで終わったってわけでもないけれど」


 それでも例年、ふと物寂しく、そして浮き足立つような気分になる。

 昨日も今日も、ゆるやかに変わらない、守月草かみつぐさの有様。そんな中でふいに意識した、【動き】の感覚。

 落ち着かなさと胸の弾みは、きっと、イコールで結ばれる。

 何かが起こりそうな予感なんて――学生みたいな、言い方だろうか。


「……はは。もう、こういう年齢だしな」


 紺のスーツと、革の靴。

 どこからどう見ても、まごうことなき社会人。

 鞄を抱えて、見慣れた道を二十分ほどを歩いて、いつも通り出勤する。

 その前に。

 春風めいて訪れた感傷を、彼は、今日も始まっていく町を見ながら、ほんの少しだけ噛み締めた。

 ――そこに、


「あ。はよーっす、田中タナカさんっ」


 掛かったのは、声より先に、遮りだ。

 町と田中を結ぶ斜線に、割って入ったその影だ。


「今日は階段ですか、健康的ですねっ。やっぱり人間、折角持って生まれた器官(モノ)は使わにゃウソだとあたしも確かに思いますっ」


 うむうむ、と頷きながら、目線の高さは変わらない。

 ……ばっさばっさと、賑やかな音を伴いながら。

 マンションの外の中空に、一人の少女が浮いている。


「というわけで、ちょいとお手伝い願えません? いやー、ホントいいタイミングで会えましたよね。実はそろそろ同伴降下も試してみたかったっつーか、春はやっぱし新しいことに挑戦する時期、みたいなっ?」


 てへり、と舌を出し、


「ささ、どうぞどうぞ遠慮なくお掴まりください。それともここはあえて私が、捕獲もってっちゃうゾ、と言ったりなんかしたりしてっ」


 美しく鍛えられた、腿の肉付き鮮やかな脚を差し出した。

 うん、と頷く田中。


「おはよう羽衣(はごろも)ちゃん。おせっかいかもしれないけど、流石にスカート履きでそのお誘いはどうかと僕は思うな?」

「見せパン常備装着ですともっ!」


 最上階に住む有翼種一家の長女は、そんな忠告にびくともせず笑う。


「……てゆーかぁ? もしそうじゃなくってもー? 田中さんなら、特別に、上を見ちゃってもいいんだぜ?」

「スタミナ切れで遅刻しないようにねー」


 手を振って階段を下りていく。

 有翼種、俗に言うところのハーピーは飛行に多大なカロリーを消費する為、ペース配分を考えない血気盛んな若者が落下、行き倒れになる事例が全国的にしばしばある。

 その問題はあちら(・・・)こちら(・・・)の大気成分の違い、飛行難度と消耗速度の急激な変化によるもので、つまり慣れたつもりで飛ぶ手合いほど危ない。

 何を隠そう彼女も正にそれをやらかした例であり、親からの【娘が帰ってこない】との訴えを受けて町内会が総出で捜索に当たり、真夜中の路地にうつ伏せで唸っているのを発見したのが田中だった。

 以降、なんとなく縁がある。

 気安く親しく、腕の代わりに翼を持つ少女は、足で地面を歩く人間へ、見かける度に声を掛ける。


「田中さーん! あのねー! 来月にねー! 春の高校生有翼飛行大会があるのー! よかったら、応援に来てねーーーーっ!」

「――――ああ! きっと、予定を合わせるよ!」


 遠ざかる声に、大きな声で返答した。

 三階の廊下から、遠く、空路で学校へ向かい羽ばたいていく若者を見上げる。

 あれからも彼女は懲りることなく諦めもせず、地球の空を飛んでいる。


「……はは。今朝も元気だな、羽衣ちゃん」


 力を貰った気がして笑う。

 その羽根に似て足取りが軽い。


 異なる世界に移っても。

 その情熱は、色褪せない。


 

                 ■■■■■



 始業前の一時。

 朝礼までの時間に空いてしまったちょっとした間を凌ごうかと立ち寄った自販機のスペースで、


「おはようございます。今月号、通勤がてら買っておきましたよ、田中さん」


 藪から棒にネタを振られた。

 先客の同僚、工藤貞奈(くどうていな)に示されたのは、


【あなたの世界もきっと見つかる!

 大調査! 今期流行(ハヤリ)の異世界転生!】


 なんて、いかにもなコピーが載った雑誌だった。

 コーヒーの抽出を待ちながら、内容をざっとさらう。

 成程、


「相変わらずよく出来てるね、ここの特集。参考になるよ。や、そりゃもう世辞でも冗談でもなく」


 ランキング形式で纏められた【月間転生希望者倍率推移】、添えられたアンケートから聞こえてくる街の声は情勢把握だけでなく、文化傾向のデータ蒐集上観点からも読み応えアリ。

 本職の勤め人である田中も思わず唸らされる白眉の出来だった。


「それに何より、読んでて楽しい。写真も多いし、説明も丁寧で。子供の頃、ワクワクしながら図鑑のページをめくった気分、アレを思い出しちゃうな」

「田中さんであれば」


 両手で持った紙コップの、オレンジジュースを舐めるようにしながら工藤は言う。


「どこに転生したいですか?」

「結構なことを軽く言うね?」

「他愛もない雑談ですので。ささ、どうぞ気楽に、肩肘張らずに」


 不動の一位から凌ぎを削る百位圏内、紙面に広がる色取り取りの、勝るとも劣らぬ宝石たち。

 それを田中は丁寧律儀に検討し、それから「そうだね」と本を閉じる。

 前を見る。


「やっぱり僕は、まだしばらくはいいかな。何てったって、今はここで仕事があるし。工藤さんみたいなのがいてくれるおかげで、ちゃんと毎日楽しいから」


 砂糖にミルク入りのコーヒーを取り出しながら冗談めかした口調で言うと、工藤は何だか田中のことをじっと見詰め、


「このたらし(・・・)


 ふ、とかすかに笑うのだった。


「なんですかその玉虫色の模範回答。そんな処世、一体誰に習ったのだか」

「あはは。それこそ自分の胸に聞いてみろ、ってヤツだよね。君がもう少し一筋縄でいく相手だったら、僕ももう少し可愛げがあったと思うよ、工藤さん」

「あー、わかりませんわかりません。わからないので代わりに聞いてもらえます?」

「なんでかな!?」


 半ばセクハラまがいの行動に怯える田中と、真顔でぴょんぴょんとボディアタックを仕掛ける工藤。

 まあ。

 ここまで含めて、彼と彼女の、いつも通りのやり取りである。


「む。そろそろ時間ですか。遊んでいる暇はないですよ、田中さん」

「……ええ、まあ、はい」


 ツッコミどころ満載の台詞に切り替えの早さだが、そこにいちいち言及するのもそれこそヤブヘビにしかならない。

 紙コップはゴミ箱に、息を整え、気持ちを切り替え、廊下を歩く。

 今はまだ誰もいないフロアの奥には、職員が集まり始めている。田中に工藤も、その中へと加わる。

 ほどなくして現れた壮年の男性に、一同が背筋を伸ばす。

 彼こそが田中たちの上司であり、この課に於ける責任者だった。


「おはようございます。では、朝礼を始めましょうかね」


『よろしくお願い致します』、の揃った声が、朝のフロアに満たされる。

 どこまでも、地続きの場所。

 同じ世界の、同じ空気。

 同じ言葉と、同じ常識。

 それでも、やはり。

 この場所は田中にとって、境界を隔てた向こうの側だ。


 守月草市役所、二階。

 そのフロアの入口の、天井から吊り下げられた看板。

 毎朝丁寧に磨かれているそこには、全世界共通のシンボルマークの隣に、遠目にも見易く、きりりと際立っていて、けれど過度に主張し過ぎない丁寧な書体でこうある。


【異世界転生課】。



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