観覧車【noria】
葵枝燕と申します。
この作品が、「なろう」での初投稿作品となります。
不束者ですが、よろしくお願いいたします。
あれは、十年程前のこと。祖母の訃報を受け、大急ぎで帰ってきた故郷の町でのことだった。
「ひさしぶり」
そう言って右手を上げる彼を、私は驚きと少しの嬉しさで見つめた。
「どうしてここに?」
彼とは保育園に通っていた頃からの付き合いだった。小学校と中学校は、子どもが少ない町だったために一貫校のようなものだった。全校生徒は、小学生五人に中学生三人の計八人しかいなかった。高校からはバスと電車を乗り継いで、隣町にある県立高校に通った。それが、私や彼のような、この狭く小さな町で生まれた子ども達の常識だった。
そんな常識が変わってくるのが、高校三年になってやってくる進学か就職かという選択だった。
歴史に興味があった私は、地元の歴史を多くの人々に伝えたいと考えるようになった。そのために学芸員という道を選び、東京の大学に進んだ。別に、東京でなくてもよかったのだが、担任や進路指導の先生、祖母に説得され受験したら合格してしまった。しかし、なかなか単位が取れず、未だに卒業できないでいる。今年度で、大学四年生も三年目だ。地元に帰る暇も、その度胸もなく、祖母には最期まで心配も迷惑もかけてしまった。
一方、私と同じく進学組であった彼は教員を目指し、教職課程の取れる県内の大学へと進むこととなった。彼の方は既に卒業しており、この寂れた町に小学校の先生として戻ってきていた。
つまり、高校を卒業してから彼とは一度も会う機会はなかったのだ。ひさしぶりに会った彼は、高校生時代と何の変わりもなかった。
「いやぁ、みっちゃんが帰ってくるって聞いたからさ、出迎えようと思ってな」
そう言って笑う彼に、やはり戸惑いを隠せない。彼が、自身の生まれ育ったこの町に戻ってきていること、そこで教師として働いていることは、遠く離れた場所に住む私の耳にも入っていた。しかし、今はまだ十二月の前半だ、冬休みまでにはまだ時間がある。なのにどうして、彼はここにいるのだろう。
「あ、みっちゃん今、俺がここにいる理由が気になってんだろ」
「うん。先生が、こんな時間にこんなとこいていいの? 女と一緒にいたって、すぐに広まっちゃうよ?」
悪戯っぽく言うと、彼は恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。知り合った頃と少しも変わらない笑顔だった。
「大丈夫。みっちゃんとなら、噂になっても構わないし、むしろそうなってもいいなって思ってる」
よくもまあそんな恥ずかしい台詞を本人を前に言えるものだと、半ば呆れている自分がいた。でも、そんな台詞を嬉しいとも思う自分もいて、私は何だかわからなくなった。だってきっと、彼は本心で言っているのだと理解できてしまうからだ。
「なあ、みっちゃん」
彼の声。温かみと、包容力のある優しい声。
「遊園地、行かん?」
「遊園地? この町にそんなのあったけ?」
言ってから気が付いた。確かにこの寂れきった田舎町にも遊園地があった。私が小学校に上がる頃に開園したものだ。開園したばかりの頃は祖母にねだって何度も遊びに行ったが、年が経ち年齢を重ねていくにつれて興味を失ってしまった。田舎町の遊園地よりも、都会にある大型ショッピングセンターなどに興味を移してしまったからだ。しかし、まだ開いていたのは意外だった。とっくの昔に閉園したものだと思っていたのに。
「あったよ。まだ開いてる時間やし行こうや」
彼の手が私の手を取る。寒いのに、彼の手は不思議と温かく感じた。
彼の言うとおり、あの遊園地は開いていた。しかし開園当初のような賑わいは、そこには存在しなかった。客は、私と彼の二人きりだった。
「貸切やね」
「そうだね」
そうして私達は、年甲斐もなく遊んだ、メリーゴーラウンド、ゴーカート、お化け屋敷……。施設の数こそ少なかったものの、疲れが吹き飛んでしまいそうなくらいはしゃいだ。そして最後に、この遊園地の目玉である観覧車へと、私と彼は向かった。
「……」
「……」
向かい合って座ったものの、先ほどまでは明るく話していた彼が観覧車に乗った途端黙りこくってしまったので、私達の間は重苦しい沈黙に包まれてしまっていた。二人とも俯いて何も喋ろうとしなかった。私は元々そんなにお喋りな人間ではなかった。だから、彼が明るく話すことで、和やかな明るい雰囲気が作り出されていたのだ。そんなことに後になってから気が付くほど、私は頭の隅である一つのことに捕らわれていた。
「みっちゃん」
彼がやっと口を開いたのは、私たちの乗るゴンドラが真上に差しかかる頃だった。訊き返すつもりで彼の方へと顔を向ける。しかし彼は俯いたままだった。
「本当は気付いてるんだろ?」
彼の声は、今この瞬間に消えてしまうのではないかと思えるほどに弱々しく掠れていた。さっきまで発していた明るい声が嘘だったかのように。
そして数刻の沈黙。しかしそれは、いつまでも続きそうな重たい時間に感じられた。
意を決したように、彼は顔を上げた。どこか決意を孕んだ、その眼差し。
「俺はもう二年も前に死んでいるってことに」
彼の声は、すぐ近くでしたはずなのに、どこか遠くの音のように聞こえた。それほどに私は、呆然としてしまっていたのだ。
彼の言ったことは、紛れもない事実だった。二年前の冬のある日、彼は突然にこの世から消え失せてしまったのだ。教師になることを夢見て、そしてせっかくその夢を叶えた矢先のことだった、彼は新任教師として戻ってきた母校で、たった一週間しか先生になれなかった。
「最初に言ったあの言葉は、そういう意味だったんだろ?」
そう。再会した数時間前に私が彼に放った言葉――「どうしてここに?」は、“何でここにいるの? まだ授業中でしょ?”などという単純な問いかけなんかではなかった。彼は気付いていたのだ。あの言葉の本当の意味を。
「うん」
無駄にはぐらかすのは彼に対して失礼だとわかっていた。誤魔化したとして彼にはばれてしまうだろう。昔から、他人の感情に敏感な人だった。
「嬉しかった。また逢いたいって思ってた。大学卒業したら――って思ってた……」
でも、もう叶わない。彼と私ではもう、住む世界が違うのだから。
そう思ったら、止めどなく涙が溢れてきて、自分の力では止めようがなかった。泣き顔を見られたくなくて、顔を伏せる。
「俺が、言おうと思ってたんだけどな」
彼の言葉に驚いて、私は顔を上げる。
「美咲」
彼の優しい声が、私の名前を呼ぶ。
「ずっと好きだ」
「……っ」
遅いよ、今さら。そう言ってしまいたかった。それほどに全てが遅すぎた。彼はもういないんだから。でも嬉しくて、また新しい涙が次々溢れた。
「こうくん」
幼い頃呼んでいた彼のあだ名。それを無意識に口に出した。
気が付くと、ゴンドラはもう到着しそうになっていた。私は慌てて乱暴に顔をぬぐった。
観覧車乗り場を離れて、私達はベンチに並んで腰かけた。そしていろんな話をした。保育園で飼っていたウサギやニワトリのこと、小学生の時のかるた大会、中学生の時の修学旅行、高校での思い出――。彼は明るい笑顔で私の話を聴いてくれた。まるで、叶えられなかったもう一つを今になって叶えようとしているかのように。
「そろそろ帰ろうか」
彼が言った。
遊園地を出て、もう暗くなった夜道を歩く。この田舎町に、街灯なんてしゃれたものはない。闇に包まれた街を、彼と二人並んで歩いた。
私の家の前に着くと、彼は無理矢理に笑ってみせた。寂しい顔をするといけないと思っているのだろう。私を不安にさせたくないための行動だったのかもしれない。
「こうくん」
もう逢えないの? と言いかけた言葉を飲み込む。そんなことを言えば、彼をさらに苦しめてしまうだろう。彼はいつまでもここに留まっているわけにはいかないのだ。だけど、それでも寂しい。
さよならは、いつだって寂しいものだと、私はもう理解し尽くしてしまっている。それが永遠のものならよりいっそう深まってしまう。そのことを、知っている。
彼は何も言わなかった。ただ私を見つめているだけだった。
「みっちゃんのばあちゃんは、俺が責任もってつれていくから」
彼はそう言って、私をそっと抱き寄せた。温かい、確かな温もりを感じた。
「うん」
もう泣かないと、どこかで決めていたのに結局泣きそうになっている自分がいた。彼はまるで幼子をあやすかのように、私の背中をそっとさすった。やがてその感触も温度も、冬の冷たさの中に溶け消えていった。
私はそっとお腹に触れる。膨らんだお腹は、新たな命の誕生の証だった。来月あたり、出産予定だ。夫が仕事から帰ってきたら告げるつもりである。今の今まで太ったことにして誤魔化していたのだ。さすがに気が付かない夫に呆れているのだが、驚く顔を想像すると何だか楽しくなる。
結婚することに関して、私は消極的だった。彼のことが、どうしても忘れられないからだ。私の心の中には、彼がいつまでも住み続けていた。私の結婚に彼がどう思うのか、考えれば考えるほど暗い気持ちになっていった。それでも夫と結婚したのには、夫の気遣いと、そして、どことなく夫の雰囲気が彼に似ていたからだ。ついでにいえば、夫の職業は彼と同じだった。初恋の相手に似ていたからなんて、夫に言ったら呆れられてしまうだろうか。
立ち上がって、空を見上げる。彼と再会した冬とは裏腹に、澄み切った夏の空が拡がっていた。青い葉が茂り、蝉の喧しい鳴き声も聞こえる。この子が生まれる頃には、葉は色を変え始めるだろうか。そうして、やがてまた冬が訪れるのだろう。
ドアの鍵を開ける音。次いで、ドアを開ける音が聞こえた。夫が帰ってきたようだ。「ただいまぁ」と言う声がする。
「おかえりなさい!」
私は元気よく、夫を迎えに玄関に向かって一歩踏み出した。