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2.現在

 いつもの習性で6時に目が覚めた。

 幸子は起き上がり、まだ寝ている春夫を見下ろした。

 今日からいつも家にいる。そう思うと嬉しいやら面倒くさいやら。

 春夫が起きてきたのは7時前だった。彼もいつもの時間だ。ちょうど大根とワカメの味噌汁ができたところだった。

 食卓に運ぶ。

 春夫は新聞を片手に、席に着いた。

 幸子が席につくと、春夫は新聞に目を通しながら聞いてきた。

「昨夜の事だけど、働かないことに呆れているか」

「別に。私たちは60歳から年金を貰えるのでしょ」

「ああ」

「どうにかなるわよ」

 春夫は新聞をとじた。

「今日はハローワークに行ってくる。その後は役所だな」

 幸子はきゅうりのたくわんをポリポリと食べた。

 失業保険に国民健康保険に。退職後に必要な手続きを済ませた翌日から、春夫の生活が一変した。

 午前中は読書。昼から図書館へ出掛け夕方に帰宅。夜は執筆活動。

 それは大学を卒業した後の、春夫の生活パターンだった。

 幸子は内心、安心した。

 毎日家に居られるよりはいい事だったからだ。

 今更24時間一緒というのは、さすがに疲れそうだ。

 自分の父親が実は小説家志望だったと初めて聞かされた長女、和代と次女、美咲は、驚きの声を上げてはしゃいだ。

 義男はすでに知っていた。中学生の時に進路の事で相談した際に知ったという。

 だが小説家を再度目指す事には、妹2人同様、驚きを隠さなかった。

 本好きなのは知っていたが、まさかそこまでとは思わなかったらしい。

 さらに映画に誘われたと話すと、人格が変わったのかと言った。

 これにはさすがの幸子も唖然となったが、子供達が抱く父親像を思い起こすと苦笑いへと変わった。

 仕事一本のまじめ人間。趣味といえば読書。

 そんな姿しか見せていないのだから。

 付き合っていた頃の様子を幸子は話した。

 何だか、お母さんが楽しそう。

 そう茶化したのは美咲だった。

 一番興味を示したのは彼女だった。和代もそれなりに興味を示したが、自分の家庭の方が大きいらしい。小学生になったばかりの息子がいるが、もう中学受験に向けてあれこれ調べている。

 義男にいたっては、話を一通り聞くと流すようになった。

 奥さんにたいして同じ態度を取っていたら嫌われるわよと茶化してやったが、あっさりと聞き流された。

 冷たいと幸子は感じたが、和代に言わせると合理主義だという。

 自然と美咲と連絡を取り合う回数が増えた。

 三人とも同市内に住んでいたが、それぞれが忙しいらしく、子供達から言い寄ってくる回数が減った。

 特に娘達は息子より酷かったから、素直に嬉しかった。

「それで、お母さんは何もしないの」

美咲から言われたのは、日曜日の昼下がり。

彼女は独身だが、一人暮らしがしたいと2年前に家を出た。

最初の1年くらいはまめに連絡をよこし帰ってきていたが、一人暮らしの味に酔ってからは激減した。

2ヶ月ぶりの帰省だった。

「何の話?」

「占いよ〜。昔、タロット占いをしていたのよね」

 お茶を噴きこぼしそうになった。

「お父さんから聞いたよ。高校生の時かな・・・。あんちゃんも姉さんも知ってる」

 手土産の焼き菓子を頬張りながら言った。

「呆れた・・・。子供達に話すなんて」

「私たちの事で喧嘩していたじゃない? お母さんがいつも勝ってた」

 そうかしらと幸子は思った。

「お母さんの必殺文句が、お父さんをいつも黙らせていたのよね」

 幸子は心外に思った。子供達の事は納得した上で決めていたはずだ。

「何? 殺し文句って」

「本当にしたいと思って、それができなかった時の後悔は大きい、だったかな」

 それを言われると、ぐうの音もでなかったという。

「それでお父さんがボソっと言ったの。お父さんの身勝手が原因で、やりたい事を断念したんだって」

 そこから幸子がタロット占いをしていた事やプロを目指していた事を知ったというのだ。

 言われてみれば、喧嘩のたびに言っていたような気がする。

 でも、自分のことではない。そこまでの執着はなかった。

「あれはお父さんのことよ。まあ、独身の頃は考えていたわね。あなた達が生まれてからはどうでも良くなったけれど。お父さんの事はきっかけにしかすぎないのよ」

 美咲はふう〜んと呻った。

「でも、今でもとってあるのよね」

「押入れにね。捨てもせず出しもせず、ずっと置きっぱなしよ」

 三十年以上経つのかと思った。

 何となくとっておいて、いつしか忘れた。いいかげん捨てないと。

「また、始めたら」

 幸子は噴出しそうになった。

「今頃? もう覚えていないわよ。忘れた」

「そう?」

「晩御飯はどうするの? 食べていくよね」

「いらない。友達と食べる」

 幸子はがっかりした。

「友達・・・って、男?」

 期待をこめて言う。

 美咲はさらりと答えた。

「違うよ。女」

「・・・・いい人とかいないの」

「いない」

 あっけなく返事が返ってくる。幸子は溜息をつきたくなった。

「いいじゃない。別にぃ」

 胸中を読み取った美咲が先手を打ってきた。

 幸子は溜息を飲み込んだ。

 夕方、美咲は帰っていった。

 その暫く後、春夫が帰ってきた。

 バス停で美咲と会ったという。

 幸子はジャガイモを洗っていた。



 肉じゃが、ほうれん草のおひたし、わかめのお吸い物、大根の漬物。

 今夜の夕食メニューだ。

 それを春夫は10分足らずで食べて、自室に篭った。

 一人残された幸子は、黙々と食べた。

 初めは呆れたが、今では慣れた。ただ、妙に寂しくなる瞬時だけは、消えなかった。

 夕食の片付けを終え、お風呂に入った。

 その後にいつも見ているクイズ番組は、野球中継のためにお休み。

 裏番組はパッとせず、幸子は瞬く間に退屈になった。

 こんな時、春夫でもいいから隣にいれば話し相手になるのだが。

 就寝時間まで部屋から出てこないだろう。

 幸子はおもむろに立ち上がると、寝室に向かった。

 タロットのことを思い出したのだ。

 記憶違いでなければ寝室の押入れ、下段の奥に置いてあるはず。

 手前には大小の箱が積み並べられていた。それらを静かに運び出す。

 大半の物を動かしたとき、それらしき箱が見えた。

 身をのりだして取り出した箱の表面には埃が溜まっていた。

 ティッシュで拭き取る。

 あの日以来、一度もあけたことはない。

 封印の証であるような茶色のガムテープが一周している。

 幸子は一気にはがし、開けた。

 タイムカプセルを発見したような気持ちだった。

 懐かしさと恥ずかしさが押し寄せる。

 三冊のタロット本と一箱のカード。

 本を手に取り、ぱらぱらと捲る。

 覚えのある文字の羅列が飛び込んできた。

 幸子の胸の奥で、何かが動いた。

 本は脂が染み込みベタつきがあった。

 気持ちが悪かったが、予想よりは保存状態が良かった。

 カードを手に取る。

 こんなにも傷んでいたのかと驚いた。

 大半のカードの角先が曲がり、捲れていた。

 幸子は一枚、一枚、見ていった。

 覚えていない。美咲にそう言ったが。

 違った。

 カードから発想されるイメージが、次から次へと浮かんできたのだ。

 それらは暗記物ではなく幸子に染み込んだものだった。だが幸子にはカード自らが語りかけているように感じた。

 歓喜の震えが走る。

 気が付けば夢中になっていた。

 七十二枚。すべてのカードを見終えた頃、満足感と充実感に包まれていた。

 そこに小さな自信の種を残して。

 内の世界から外の世界へ意識が移行したとき、影に気づいた。

 春夫だった。

 感じていたのもが一瞬で吹き飛んだ。代わりに満たしたものは、怒りを含んだ恥心。

「声をかけてくればいいのに」

「悪いかなと思って」

 黙って見ているほうがかなりの悪趣味だと、幸子は言いたくなった。

「懐かしいな」

 本を手に取る。

 幸子は眉をひそめた。

 懐かしいという言葉が出てくるほど、彼について占った覚えはない。

「君の占いって、結構当たっていたよな。みんな、すごいって褒めていた。やっぱり素質があるのだろう」

「知人ばかりだったもの。相手の性格や事情を知っていたから読みやすかっただけよ。まったく知らない人だったらどうだったか」

 そんなことないよ、なんて返事が返ってこようものなら殴ってやる。

 構える幸子に春夫は予想外の言葉をかけた。

「でも、君の占いにたいする持論は本物だと思うよ。占いは道標」

 幸子はぽかんとなった。

「いや・・・・。見ていたら、昔をね、思い出したんだ」

 春夫の頬が、赤らんだ。

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