1.過去
「おまえの好きにしていいぞ」
定年退職を迎えた日の晩、電気を消して今から寝るぞというときになって、夫、川端春夫が言った。
すでに布団の中に入りこんでいた妻、幸子は、唐突な言葉に意味が分からず思考を巡らせた。
導いた答えは離婚だった。
さすがに口には出せずありきたりな質問をした。
「何の事ですか」
春夫は即答しなかった。
布団が擦れる音がした。
「君と結婚して37年。私はこの歳月を家族のために費やしてきたつもりだ。建て売りだが庭付きを買った。そのローンも終わっている。子供達3人も大人になり、それぞれの道を歩んでいる。家の主としての責務は、一応成し遂げたと思っていいだろう。」
春夫は話すのをやめた。
「それで?」
幸子は促した。
何の反応も返ってこない。
話す気がないならと幸子は眠ることにした。
直後、春夫が話し始めた。
「同僚はまだまだ若いと言って再就職を望んでいる。だが・・・私は、・・・これからの人生は自分のために使いたい」
「好きにしていいですよ」
そんなことかと幸子は思った。
だが春夫はどうも違うらしい。何か小声で言っている。
聞き取れなくて聞きなおした。
「おまえも占いを始めたらどうだ」
予想もしない言葉が出てきて、混乱した。
「独身時代に大切にしていた本やカードが、まだ押入れの中にあるのは知っているぞ」
面食らうとはこういう事なのだろうか。
「今更ながらとは思うが、もう一度始めたらどうだ」
「見返りは何ですか」
気がつけば出た言葉だった。言葉が悪いと思ったが、春夫は気にならないようだ。
「うん。・・・・もう一度、目指してみようかと思う。ただ・・・・昔を思うと、そのう、後ろめたさを感じて」
幸子は呆気にとられた。
この人の妬み心の強さはご都合主義を生み出すものらしい。
「私のことは気にせずに。あなたの好きなようにしたら。私は文句を言うつもりはありませんよ」
「う・・・・・・ん」
歯切りが悪い。
内心、溜息をついて幸子は続けた。
「免罪がないとできないの。あなたは十分に家族のために頑張ってくれた。それだけで充分よ」
「ありがとう。寝るよ」
春夫が安堵したのが分かった。
暫くして、春夫のいびきが聞こえてきた。
幸子は眠れなかった。
まさか、春夫がいまだに引きずっていたとは。
37年前、2人は結婚した。
出合った頃、幸子は卸業者の事務員として働いていた。春夫は大学生だった。
同じ年だが、幸子の目には知的だが親に甘えたお坊ちゃまに映った。
何の話から今では覚えていないが、お互い夢を持っていると知ったときから、距離が近づいたように記憶している。
春夫はそれがファッションとでもいうように、あまり本を読まない幸子でも知っている著名人の書を片手に持っている人だった。
最初はインテリで鼻につく印象だった。それが自分の夢に一途な人と鞍替えした。
働く苦労をまだ知らなかったが、その目は現実を直視していた。
2人はいつしか付き合うようになった。
デートコースは図書館や映画館が定番だった。
大学在籍中に小説家になることを目標としていた春夫だったが、その努力が報われることはなかった。
予選通過はしても最後で落とされる。後一歩の壁を越えることができなかった。
諦め切れなかった春夫は、卒業後、就職しなかった。
やがて、幸子が妊娠した。
話すことが怖かった。中絶はしたくなかった。できれば生みたい。
だが、春夫は喜ばない。
幸子はそう信じて疑えなかった。
意を決して事実を告げたとき、厚い雲が切れ光が差し込む風景が見えた気がした。
「結婚しよう。子供は生んでくれ」
迷うことなく春夫は答えたのだ。
直視した春夫の目を見たとき、一生この人についていこうと決めた。
春夫は家族を養うために就職をして営業マンになった。
予想以上の残業、付き合いの多さ。慣れない営業へのストレス。
仕事は春夫から時間を奪い、夢を遠ざけていった。
片や幸子は余暇を占いで潰していた。
だんだん春夫は幸子が妬ましくなっていった。
あのままだったら・・・という思いが蝕んでいったのだ。
ストレスと焦りの矛先は、すべて幸子に向かった。
幸子は春夫がどれほど小説家になりたかったか知っていた。家族のために、その夢を横に置いてくれたことに感謝していた。
春夫の態度が、愚痴が多くなり横暴な態度に変化していっても、その胸中や立場を理解して耐えていた。
しかし、そんな生活が長く続くわけがなかった。
春夫への不満が生まれ、心を荒んだものにしていった。
ストレスが募り、その捌け口が長男義男に向かった。
夫の捌け口が自分。自分の捌け口が息子。
こうなると悪循環だ。
幸子は改善を求めて春夫に問うた。
春夫は語らない。
幸子は離婚を考えるようになった。
離婚を決意したのは、泣き止まない義男を思わず叩いた夜だった。初めてだった。
なかなか泣き止まない義男に、春夫は幸子の躾がなっていないからだと罵倒した。
じっと立っていると寒さが身にしみる晩秋の夜、幸子は義男を抱いて歩いた。
閑散とした道を月が照らしていた。
幸子の影が薄く、長く伸びる。
義男はもう泣き止んでいたが、帰りたくなかった。
そのまま歩き続けた。
団地の隅にある公園に辿り着く。その頃には、義男はすやすやと眠っていた。
ベンチに座る。
義男の温もりが伝わる。
その寝顔をじっと見つめた。
幸子は義男のために立ち上がった。
家に戻ると、春夫はいびきをかきながら寝ていた。
その顔を見たとき、幸子は離婚を決意した。
離婚を告げたのは次の晩。
春夫は幸子が目を疑うほど狼狽し、部屋の中を右往左往した。
理由は冗談ではなく本当に分からないらしく、幸子の一方的な我がままだと自分を保持した。
幸子は呆れながら具体的に精神的苦痛を訴えた。
義男に及ぼす悪影響を懸念し示唆した。
春夫は力が抜けたように座り込んだ。
「あなたにとって今の生活のすべてがストレスになっていると思うの。義男のためにも別れたほうがいいと思う」
当時、私が働くから夢を追いかけてとは言えなかった。
思いもつかなかった。
春夫は暫し無言だった。やがて、ぽつりぽつり、小さな声で本音を語りはじめた。
「夢を捨てたわけじゃない。ただ今は家庭を守ることのほうが大事だから。その判断が間違いだったとは今も思わない。ただ・・・君を見ていると、どうしようもなく焦燥感に襲われて。何歳からでもチャレンジできる。今は・・・今、しなければならない事を優先しよう。そう自分に言い聞かせても・・・。私は・・・・・、小さく、卑しい男なんだ」
春夫は頭を垂れていた。
「私は、おまえと別れるのは嫌だ。ちゃんと納得して選んだはずなのに」
自分の実力や才能に見切りがついていたならまだしも、違った。だが成功を約束されているわけではない。賭けに出るような性格ではなかった。保障されていない未来に、幸子と子供を巻き込めなかった。
春夫はその結論に納得したはずが、思わぬ負の副産物ができたというわけだ。
「私もできれば別れたくないわ。私も家庭が第一なの。分かったわ。もうしない」
幸子は本棚に行き、タロットに関する本を抜いていった。
春夫は止めなかった。ただ一言、すまないと呟いただけだった。
あの日から春夫は自責の念に囚われていたのかもしれない。
そう思うと春夫が気の毒に思えた。
確かに独身の頃は占い師になることを考えていたが、子供ができて結婚してからは優先順位が変わった。
家庭の方が大事になり、占い師への志は萎えていった。本音を聞いたとき、悪いがそんな事かと思ったくらいだ。
三十年以上も経っているのに負い目を感じていた。
そんなに引きずるなら、あの時もっと話せば良かったと思う。
幸子はごめんねと呟いた。
春夫はう〜と呻った。