山本五十六のクノイチ魔女飛行隊特設空母艦隊鬼ヶ島作戦
以下の文章はアメリカ合衆国の雑誌に掲載された記事を日本語に翻訳した物である。
アメリカ人ジャーナリストが書いた物のためか特に日本に関する事実誤認が多いが、アメリカ人が我が日本に対して、どういう認識でいるか、読者に知ってもらうために、あえて、そのまま翻訳した。
我がアメリカ合衆国がリーダーである南北アメリカ大陸連合と日本・ドイツ・ソ連邦・イタリアを中枢とするユーラシア大陸枢軸との冷戦状態は、第二次欧州大戦集結以来半世紀以上続いている。
近年、ソ連邦において「改革」を掲げたゴルバチョフが書記長となり、ソ連邦初の選挙による「ソ連邦大統領」になったため、一時期は我が連合陣営にソ連邦がすり寄るのではないか?と期待されたことがあった。
しかし、現在でもソ連邦は枢軸陣営の主要国である。
冷戦はイデオロギーの対立でもある。
我がアメリカ合衆国は「真の民主主義」を掲げている。
だが、対立する枢軸主要四カ国のイデオロギーはバラバラである。
イタリアは世界で初めてファシズムを始めた国であり、ドイツは国家社会主義、日本はテンノーという世界最後のエンペラーが君主の国であり、ソ連邦は社会主義国である。
そして、アメリカ市民にとっては意外なことに、どの国にも選挙が存在するのだ。
イタリアは総帥であったムッソリーニの死後は、総帥職は廃止され、議員内閣制により、首相が最高行政官であり、イタリアの国家元首はイタリア国王である。
ドイツはヒトラー総統の死後は、総統は大統領と首相に分離され、選挙によって選ばれるようになっている。
日本は軍部の力が強かった時期でも議員内閣制であり、最近では現役軍人が首相になることは、ほとんど無い。
前述したように、ソ連邦は大統領が選挙で選ばれるようになっている。
もちろん、我がアメリカ合衆国の真の民主的な選挙にくらべれば、紛い物の選挙ではある。
さて、歴史をさかのぼれば、ユーラシア大陸枢軸の原型となったのは、1930年代に締結された日独伊ソ四カ国同盟である。
当時の各国の首脳、トージョー、ヒトラー、スターリン、ムッソリーニは、学校の歴史の教科書には当然出てくる名前である。
筆者は、この記事では教科書では出てこない歴史上の人物に注目したい。
その人物とは当時の日本海軍のイソロク・ヤマモト提督である。
ヤマモトという姓は日本ではありふれているが、イソロクという名前は珍しい。
イソロクとは日本語で「56」という意味である。
日本人男性では「イチロー」「ジロー」という名前があるが、「イチロー」は「1番目の息子」、「ジロー」は「2番目の息子」という意味である。
それから考えると、「イソロクは56番目の息子」という意味であろう。
それはさておき、ヤマモト提督は当時、日本政府・陸軍・海軍が進めていたドイツとの同盟に激しく反対していた。
ヤマモト提督は、ドイツとの同盟はアメリカ・イギリスとの戦争を引き起こす原因となりかねないと考えていたからだ。
ヤマモト提督はアメリカに駐在した経験があり、「君たちはアメリカの工場の煙突の数を知っているのか?」と、我が合衆国の巨大な生産力をことあるごとに主張していた。
他にも、「もし私が連合艦隊司令長官になり、アメリカ海軍と戦えば半年から一年は暴れてみせるが、二年後、三年後については見通しが立たない」との発言も残している。
海戦で一度や二度勝ったとしても、我が合衆国の巨大な生産力に最後には押し切られて、日本は戦争には敗北してしまうという主張であった。
しかし、ヤマモト提督の主張は日本では主流になることは無く、日本とドイツの間に日独防共協定が結ばれる。
防共協定とは「共産主義勢力に対する防衛」についての協定である。
この場合の「共産主義勢力」とは、もちろん、ソ連邦のことを指す。
これは「協定」であり「同盟」では無いが、同盟の一歩手前であった。
ヤマモト提督は防共協定締結後、ソ連邦モスクワの日本大使館に駐在武官として赴任することになった。
これは左遷人事であり、ヤマモト提督は駐在武官としての任務は特に与えられなかった。
閑職につけることによる完全な飼い殺しであり、海軍の主流からはずれてしまったヤマモト提督は、二度と浮かび上がることは無いと周囲からは思われていた。
しかし、ここからがヤマモト提督の本当の活躍の始まりであった。
暇になった時間を使いロシア語・ドイツ語・イタリア語を習得すると各国を飛び回ったのだ。
そして、日独伊ソ四国同盟の成立のために精力的に活動したのだ。
日本とドイツとの同盟に反対していたヤマモト提督が、四国同盟を成立させようとしたのは理由がある。
ヤマモト提督は米国と英国、特に我が合衆国との戦争を避けようとしていたので、ドイツとの同盟に反対していた。
しかし、ドイツとの同盟への流れが止められない状況になると、むしろ、それを拡大するのに動いた。
なぜなら、我が合衆国は世界で最も進んだ民主主義国家であり、国民の「民意」が国の政策に反映される国である。
当時の合衆国国民の民意は、戦争を避ける方向が強かった。
合衆国政府が民意に反しても戦争に踏み切るには、国民を納得させるだけの理由が必要であった。
例えば、日本が奇襲攻撃により、合衆国の重要拠点を攻撃すれば、政府は「卑劣な騙し討ち」と宣伝して国民の戦意を駆り立てるだろう。
ドイツが欧州で勢力を拡大すれば、イギリスが危機に陥るので、「イギリス救援」を理由に戦争に踏み切ることができる。
それで、ヤマモト提督は、日本から合衆国には手出しせず、合衆国によるイギリス救援が間に合わないぐらいに短期でイギリスを打倒する戦争を計画することで、合衆国との戦争を回避しようとしたのだった。
イギリスを短期で打倒するためには、日独伊だけでなくソ連邦も必要だと考えたのであった。
ドイツは反共産主義であり、日本もイタリアも同様なので、ソ連邦との同盟には、それぞれの国々の国内事情もあり難航した。
しかし、ヤマモト提督は通訳抜きで各国の独裁者ヒトラー・スターリン・ムッソリーニと会話できるのを生かして、彼らと個人的に親交を深めた。
日独伊ソ各国とも思想も戦略も違うが、勢力拡大を狙う以上は、英米との対立は不可避であると、ヤマモト提督は各国首脳に説いたのであった。
そして、日独伊ソ四国同盟は、ついに成立したのであった。
さて、日独伊ソ連枢軸軍(以後、枢軸軍と記述)が、イギリスの短期間での打倒のための戦争計画は様々なものがあった。
この記事で主題として取り上げるのは、戦争計画の一つである枢軸軍が対イギリス戦の開戦当初に活躍した特設航空母艦艦隊である。
特設空母とは特設艦船の一種である。特設艦船とは海軍が艦艇の不足を補うために民間の商船や漁船を徴用して軍用に使用された船舶である。
特設空母は一般的には大型高速商船を戦時に急速に空母に改造したものである。
四国同盟が成立すると、日本で建造されていた大型貨物船四隻が欧州に向かった。
それぞれの船名が「モモタロウマル」「イヌマル」「サルマル」「キジマル」であった。
「モモタロウ」とは日本の昔話の主人公で、ピーチから生まれた男が、「キビダンゴ」という日本の菓子を報酬に犬・猿・雉を傭兵といて雇い、「オニ」というモンスターが本拠地にしている島を襲撃する物語である。
モモタロウ型貨物船は、四隻とも飛行甲板を有していた。
イギリス海軍などは「日本から独伊への特設空母の輸出か!?」と警戒した。
しかし、モモタロウ型貨物船の実態が分かると、警戒は薄れて行った。
特設空母と言うより航空機運搬船と言うべき船であり、独伊で製造された航空機をソ連邦に運び、帰りにはソ連邦産の石油を船のタンクに詰め込んで帰って来る船であった。
飛行甲板はあるが航空機用エレベーターは無く、航空機は飛行甲板に剥き出しで載せられていた。
飛行甲板は小型機の発着艦がやっとの大きさであり、航空機の整備・修理能力も限定的であった。
同じ頃、イギリス情報部が日本が秘密裏に独伊向けの中型正規空母を建造中との情報が入ったため、モモタロウ型貨物船への警戒は最低レベルになった。
「モモタロウマル」「イヌマル」の二隻がドイツの民間船会社の所有となり、「サルマル」「キジマル」の二隻がイタリアの民間船会社の所有となった。
モモタロウ型貨物船は航空機・石油輸送のために、独伊とソ連邦を往復した。
モモタロウ型貨物船四隻を使ってイベントが行われたこともある。
それは、ソ連邦の飛行スポーツクラブの女性パイロットたちによるアクロバット飛行であった。
主に独伊の港に寄港すると、大勢の見物人の前でアクロバット飛行を行った。
狭い飛行甲板から小型複葉機で発着を繰り返し、見物人は拍手喝采のイベントは大盛況であった。
イギリスやフランスの港にも寄港しアクロバットを披露したこともあり、そこでもイベントは成功した。
ソ連邦女性飛行士たちは「魔女飛行隊」と呼ばれ、ニュース映画や雑誌に何度も取り上げられる大人気であった。
現代でも「魔女飛行隊」は有名ではあるが、筆者は彼女たちは「魔女」では無く「クノイチ」と呼ぶべきだと思っている。
「クノイチ」とは「女性ニンジャ」のことである。
我が合衆国のハリウッドで制作されるアクション映画の悪役は、たいていが日本人であり、「セイジヤ」「カンリョー」「ヤクザ」などが我が合衆国国民を苦しめるが、合衆国が誇る正義のヒーローとの戦いで正体をあらわす。
正体はもちろん「シノビショウゾク」を身にまとい、「シノビガタナ」や「シュリケン」を武器にして戦う「ニンジャ」だ。
女ニンジャであるクノイチは、「ゲイシャ」と呼ばれるダンサーやシンガーであり、毎回入浴シーンがあるのが定番である。
さて、第二次欧州大戦開戦直後、ドイツとソ連邦は協力してポーランドに侵攻した。
たちまちの内に、ポーランドは独ソに分割占領されてしまった。
イギリス・フランスは独ソがポーランド侵攻すると同時に独ソに宣戦布告したが、ポーランド救援のためには実質何もできなかった。
フランスは独軍主力がポーランドに攻め込んでいる間、ドイツ本土に攻め込むようなことはせずに、ひたすらフランス本土の守りを固めた。
この方針は現代からも批判が多く、「独軍主力が本国を留守にしている間に、フランスがドイツ本土に攻め込めば、戦争は開戦当初で連合国の勝利で終わっていた」と言われる。
しかし、フランス軍の軍備は第一欧州大戦の経験から防御優先になっていたため、これは仕方がないことと筆者は思う。
ポーランド戦が終了すると、独軍主力は次々とドイツ本土に戻った。
それと同行してソ連軍もドイツ本土に進出した。
準備が整えば、独ソ軍が共同してフランスに攻め込むのは誰の目にも明らかであった。
英仏の目から見て奇妙だったのは、四国同盟の他の二国日本とイタリアの行動であった。
日伊はイギリス・フランスに宣戦布告しなかったのである。
四国同盟は参戦義務があるのは「同盟の参加国が他国から攻撃を受けた時」であり、独ソは自国から戦争を始めたため、確かに日本とイタリアに参戦義務は無い。
イタリアは「あらゆる事態に備えるため」と公式発表して、フランスとの国境の兵力を増強し、日本も同じ公式発表でアジアの英仏領土に対する警戒を強くした。
しかし、それ以上の動きは見せなかった。
英仏から見て不気味であったが、独ソだけでも手一杯であり、これ以上敵を増やさないために、英仏から日伊への宣戦布告はしなかった。
フランス本土にイギリスは陸軍と空軍の大軍を派遣した。
イギリスは自国の商船をアメリカに派遣して、戦争遂行に必要な大量の物資を買い付けた。
我が合衆国のルーズベルト大統領は、できれば欧州の戦争に軍事介入したかったが、合衆国国民の世論が、それを許さなかった。
ルーズベルト大統領は合衆国商船によるイギリスへの物資輸送も考えた。
合衆国商船がドイツのUボートに撃沈されれば、それを理由に欧州の戦争に参加できるからだ。
だが、合衆国国内の政治状況は、それも許さず。イギリスがイギリス自身の資金と船で合衆国の物資の買い付けと輸送を許可しただけであった。
しかし、この時、合衆国商船がイギリスに向かっても状況は変わらなかったであろう。
合衆国からイギリスに向かう商船を枢軸軍は一切攻撃しなかったからだ。
その理由はしばらく後に分かることになる。
英仏・独ソが戦争状態にありながら互いに攻撃をしないこの時期を「まやかし戦争」とも言われるが、日本を出航した艦隊が状況の大きな変化をもたらすことになる。
それは日本がイタリア向きに建造していた中型正規空母二隻を中核とする艦隊であった。
スエズ運河を通ってイタリアに向かおうとしたが、運河を管理するイギリスは当然通航を許可しなかった。
日本イタリア派遣艦隊は「イタリアから注文された船を送り届けるだけ」と主張した。
その主張をイギリス側が受け入れるはずは無く、日本艦隊はスエズ運河の手前での停泊を余儀なくされた。
日本艦隊にはコンゴウ型戦艦二隻と連隊規模の海軍陸戦隊が乗っている輸送船もあり、スエズ運河を強襲占領して強行突破される可能性もあった。
そのためイギリス海軍は本国艦隊の戦艦・空母数隻を地中海艦隊に転属させ、フランス海軍も大西洋にいた有力艦を地中海に移動した。
イギリスとフランスを結ぶ重要な海路であるドーバー海峡付近が手薄になるのは分かっていたが、そうするしかなかった。
しかし、それこそがヤマモト提督の仕掛けた罠であった。
スエズ運河の手前にいる空母に気を取られて、航空機運搬船にすぎないモモタロウ型貨物船のことを英仏は誰もが忘れていたのであった。
この時期、モモタロウ型貨物船は四隻ともドイツの港にいた。
ドイツの船会社所属だった二隻はドイツ海軍に特務艦船として所属することになり、イタリアの船会社所属だった二隻も、いったんドイツの船会社に売却された後、ドイツ海軍の特務艦船となった。
モモタロウ型貨物船四隻が活躍したのはダンケルク撤退戦であった。
満を持して、独ソの戦車軍団がフランスへの侵攻を始めると、フランス軍はたちまち蹴散らされた。
戦車の性能、戦車の運用法、どちらも独ソが遥かに優れていた。
フランスの首都パリは陥落し、英仏残存軍は大陸からイギリス本土への撤退を余儀なくされた。
フランスのダンケルクから軍艦・輸送船・民間のヨット・艀などあらゆる船を使って撤退作戦は行われた。
英仏連合軍は戦車などの重装備のほとんどを放棄することになったが、何よりも貴重な実戦を経験した兵士たちを脱出させるのを優先した。
もちろん、独ソ枢軸軍はダンケルクの英仏軍を包囲殲滅しようとしたが、英空軍はダンケルク上空の制空権を維持し、英海軍も座礁の危険を冒してまで戦艦をダンケルク沿岸で活動させ枢軸軍地上部隊に対して艦砲射撃した。
英仏連合軍の船舶による英本土への脱出は、成功するかに思えた。
しかし、それを阻んだのが、モモタロウ型貨物船から発艦した複葉機の群れであった。
英空軍戦闘機部隊が活動できない夜間にダンケルクにある脱出船団を襲撃したのだ。
複葉機の群れは、ソ連邦の「魔女飛行隊」であった。
彼女たちこそがヤマモト提督が秘匿していた「クノイチ」であった。
ヤマモト提督の指導により密かに夜間洋上襲撃訓練をしていた彼女たちは、夜空を縦横無尽に駆け巡った。
小型複葉機のため爆弾搭載量は小さく、沈んだ船は少なかったが、損傷して航行不能になれば、他の船がダンケルクに出入港も接岸も困難になるような位置にある船を狙って攻撃した。
そのため船があっても兵士たちが乗り込むことができず、脱出作戦は失敗した。
英仏連合軍の大勢の兵士たちが独ソ枢軸軍の捕虜となった。
英本土には合衆国から買い付けた物資が豊富にあったが、それを使う兵士たちがいなくなってしまったのである。
ここで、日本とイタリアもイギリスに宣戦布告、数ヶ月後には日独伊ソ共同の英本土上陸作戦「オニガシマ」が実行され、英本土陥落、英国政府降伏により、合衆国が介入する前に第二次欧州大戦が終結したのは誰もが知る史実である。
日本の昔話の「モモタロウ」はモンスターの本拠地である島を制圧すると、モンスターが秘蔵していた財宝を故郷に持ち帰ったが、それと同じように枢軸軍も英本土にあった合衆国から買い付けた大量の物資を手に入れた。
その物資の質と量に驚いた枢軸各国首脳部は、合衆国と対立しつつも「不戦」を選択することにしたのであった。
合衆国から英本土への海上輸送を妨害せず、物資が英本土に集積したところで、それを奪い取る作戦は、ヤマモト提督の発案と言われている。
合衆国は全欧州が枢軸国の支配下になったのでは、敵が大きすぎ戦争を合衆国側から仕掛けることができず、南北アメリカ大陸における合衆国の立場を固めるのに専念した。
ここに、南北アメリカ大陸連合とユーラシア大陸枢軸との冷戦が始まったのであった。
第二次欧州大戦後、ヤマモト提督は日本海軍を退役し、新たに設立された友好団体「ユーラシア友好協会」の会長になった。
各国の上層部と親しいのを利用し隠然とした影響力を持ち続けた。
第二次欧州大戦時の各国の首脳が引退・死去した後も影響力は大きく、「ユーラシアの闇の大提督」と死去するまで呼ばれた。
モモタロウ型貨物船が特設空母として使われたのは、ダンケルクの一回だけである。
それ以降は、戦争中は軍事物資の輸送に活躍し、戦後はドイツの民間船会社に戻された後、しばらく航空機や石油を運ぶ貨物船として活躍した。
欧州の戦後復興と高度経済成長が始まり、国民の生活に余裕ができると、モモタロウ型貨物船は意外な船に改造された。
広い飛行甲板を利用して、舞台と観客席を設置したイベント専用船に改造されたのであった。
歌手のコンサートなどに使用されているが、日本の国営放送局には毎年12月31日に貸し出されている。
日本の国営放送が毎年12月31日に放送する番組で、女性歌手が「レッドフォース」、男性歌手が「ホワイトフォース」の2チームに分かれて歌で戦うのだ。
モモタロウ型貨物船の舞台で歌手が歌い、それを生中継するのが定番である。
モモタロウ型貨物船は老朽化が進み航行能力を失ったが、現在では四隻とも港に停泊したままイベント専用船として使用されている。
最後に筆者は合衆国国民に注意を喚起したい。
本来は芸術である歌で、毎年年末に日本の歌手は戦い、その生中継を日本国民のほとんどは見ているのである。
日本人は何でも戦争に結びつける「戦闘民族」であると言えるであろう。
そのような民族を相手に冷戦に合衆国が勝ち抜くには、相当の覚悟が必要であろう。
ご感想・評価をお待ちしております。