〈Ⅰ‐Ⅶ〉剣で応えろ!
◆1◆
「フロル!何であんたがここにいるのよ?」
三人の中で、最初に金縛りを解いたテンダが悲痛な叫び声を上げた。
信じ難いことではあるが、目の前にいる人物は紛れもなく三日前に自分を追い回したあのフロルなのだ。彼女がこの洞窟に現れたというその意味を考え、テンダの心臓は不安と怒りで高鳴り、フロルへの恐怖を麻痺させた。
「ティトは?ジドさんは?あんた何をしたの?」
「テンダ様……」
フロルは今にも泣き出しそうなテンダの表情を見て、ふとティトの言葉を思い出した。
"今は違うんだ……上手く言えないけどな"
「恐らく死んではいないでしょう……誰も……恐らくは」
フロルは自分の口から出た言葉に自分で驚いた。ここに来る直前までは、当然訊かれるであろうその質問に対し、まったく逆のことを言うつもりだったのだ。
"私がここにいる以上、答えはひとつ。二人はもうこの世にはいない"と。
それによりテンダの殺意を引き出し、あの"もっと違う別の何か"の魔法を使わせたかったのだ。
―ティト……お前の言う"上手く言えない"が少し理解できたよ……。
フロルはティトの表情を思い浮かべて微笑した。
「恐らく、って何よ!何をしたのかって訊いてんのよ!」
さらに甲高く叫ぶテンダだったが、フロルは彼女の表情から不安の色が薄まりつつあることに気がついた。
「ティトに何かあったら……あなたを許さない!殺してやるわ!」
テンダはそう言いながらフロルに二、三歩歩み寄った。そばにいたプロップが慌てて彼女の腕をつかんで引き止めた。
「テンダ、だめだよ!」
テンダはプロップを睨みつけ、唇を噛みながらも、何とか立ち止まった。
「よう、お前の目的は何だ?」
テンダが何かはやまったことをしでかさないうちに会話の流れを多少なりとも変えたいと考え、スピナは意を決して口を開いた。とはいえ相変わらず体中の関節と筋肉は石のように固まっていた。
スピナの直感はこう告げている。"この女と戦ったら負ける"と。
「やっぱりおいらたちを殺すつもりなんだな?あの仮面のおっさんともグルかよ?あいつもどこか近くにいるのか?」
「……仮面の男だと?」
フロルはスピナの方へ向き直った。そして彼の腰に下がっている短剣が視界に入った。
―これがリッキーの言っていた"巨大化する剣"か……こいつが侵入者の小僧……"スピナ"か。
「少年よ、こちらこそ訊きたい。ティトも同じようなことを言っていたが、仮面の男とは一体何なのだ?」
「何?し、知らねえってのかよ……」
スピナのその言葉の中に隠れているわずかな動揺をフロルは見逃さなかった。そしてある考えに思い至った。
「もしや、お前が王宮で得た情報は"それ"なのか?あるいは、その仮面の男とやらが何か関係しているのか?」
スピナは唾を飲み込んで黙り込んだ。つまり肯定ということだ、とフロルは確信した。
「答えたくないのならそれでも良い……」フロルはふっと笑った。「私はお前たちを始末し、テンダ様をさらうよう命じられた。だがな、今はもう仕事をする気はないんだ」
フロルのその言葉で、スピナたちを押さえつけていた見えない重力がわずかに弱まった。三人ともそれが聞き間違えでないかを確認し合うかのようにお互いの顔を見合わせた。
「……そ、それは、つまり……」プロップの喉はからからに渇いており、長年開閉していない木造のドアを開くような軋んだ声になってしまった。「あなたはこのまま僕たちを見逃すつもりだと?」
フロルは無表情でプロップの目を見た。思わずたじろいだプロップだったが、"それにしてもなかなかの美人だ"という場違いな考えが頭の隅を過った。
「いや……そうではない。私はお前たちと戦いたい……私は私のためにお前たちと戦いたいんだ」
スピナたち三人を押さえつける重力が再びその強さを増し、そして沈黙が落ちた。
誰もフロルの言葉の意味を理解することはできなかったが、やはり当初の認識通り、自分たちは深刻な危機的状況に陥っているのだということは誰もが理解できた。
―え?ミシュ?
スピナは驚きで目を見開いた。次に沈黙を破ったのはその場にいる四人のうちの誰でもなく、スピナの腰に下がっていた短剣だった。
赤い剣が鞘に納まったまま、突然まばゆい光を放ったのだ。
―何だ……これは?
フロルはその赤い光に目を奪われた。そして何故かその光に不思議な懐かしさを覚えた。
―感じる……私を呼んでいる……のか?……そうか、それも悪くないな。
「少年よ、その剣を抜け!」
フロルは半ば無意識にそう言い放った。感じるより早く口が勝手に動いたように思えた。
「一体何だってんだよ……?」
スピナは戸惑いながら短剣の柄に右手をかけた。
「ミシュ……」
剣の意思が伝わる。
「どうして……」
"構えろ!そして戦え!"
「君は……」
スピナはゆっくりと短剣を抜いた。すると途端に短剣は大剣へと姿を変えた。
"剣で応えろ!この女に応えろ!"
「ミシュ……おいらは……」
スピナは一旦剣を地面に刺し、リュクサックを外して放り投げると、それからまた剣を取り、柄を両手でしっかりと握りしめて上段に構えた。そして深呼吸をすると、意を決してフロルを強く見据えた。
「わかった。君の言う通りにするよ……こいつと戦ってやる!」
スピナは強い意志のこもった声で叫んだ。
フロルは巨大化した赤い剣に目を奪われた。
―この"赤"は何だ……?いや、それは既にどうでもいいのかもしれない……剣を交えたい……たったそれだけのことなんだ!
フロルはゆっくりと二、三歩スピナに詰め寄った。更にもう二、三歩近づけばお互いの剣の間合いに入る。
「少年よ、私はお前との一騎討ちを望む!何者も手出しは無用だ!」
フロルはスピナから視線を逸らさずにそう言い放った。
スピナの脇にいるプロップとテンダは、強ばったお互いの顔を一瞬だけ見合わせ、そしてほぼ同時に叫んだ。
「何よそれ?馬鹿げてるわ!」
「少しも理解できないよ!一体何の意味があるのさ?」
しかし、スピナとフロルはその言葉がまったく聞こえていないかのようにお互いを無言で見据えたまま、お互いの間にある緊張感を徐々に高めていった。
「この勝負、受けた!二人とも下がってろ!」
やがてスピナが叫んだ。プロップとテンダは怒りで顔を真っ赤に染めた。
「スピナ!僕は納得できない!こいつは殺し屋なんだ!わけのわからない決闘なんかする必要はないんだ!」
「そうよ!さっきからあんたたち一体何の話をしてるわけ?何でこいつの言う通りにするのよ?戦うなら戦うで、三人でやればいいじゃないの!あんた一人で勝てるわけないじゃない!」
「うるせえ!黙ってろ!」
スピナの叫び声が洞窟内にこだました。プロップとテンダにとってそれは何とも悲しく、そして不吉な響きだった。
幼なじみのプロップでさえかつて見たことのないほどのスピナの怒りは、この場を沈黙させるのに十分な力を持っていた。
「ミシュが望んでるんだ……だからおいらはそれに応えなければいけないんだ。だから、二人とも下がっててくれ。頼むから言う通りにしてくれ!」
スピナは静かに、それでいて力強くそう言った。プロップとテンダは何も言い返すことができなかった。
とんでもない"何か"が出し抜けに始まり、もはや自分たちにそれを止める術はないのだということだけは理解できたが、それでもなおその場から動けずにいた。
スピナから離れるのが恐かった。"最悪"を受け入れるのが恐かった。
「お前にとって、戦う"理由"とはそんなものなのか?お前はその剣の奴隷なのか?」
フロルが嘲笑するかのように鼻を鳴らしてそう言った。
「違えよ!」スピナの目が険しくなった。「上手く言えねえけどよ、ミシュはいつでも正しかった……今までずっとだ。それに、おいらはミシュと約束した……おいらが好きでそうしたんだ!だからミシュが望むなら、おいらは自分の意思でお前と戦う!」
フロルは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから微笑を浮かべた。先ほどとは違い、それは嘲笑とはほど遠いものだった。
―やれやれ……こいつも"上手く言えない"か……。
「テンダ様、どうぞお下がり下さい。そこの少年も……」フロルはテンダとプロップの顔を順に見た。「この一騎討ちをすべてとします……どちらが勝利しようとも、それで終わりです」
「終わりって……何よ……そんな……フロル……」
テンダは納得できなかったが、かと言ってそれ以上何と言っていいのかわからなかった。
「もしおいらに勝っても、この二人には手を出さない……そういうことでいいんだな?」
スピナがそう言った。テンダの代わりに、というように。
「そうだ。誓ってその通りにしよう」
フロルのその言葉が合図だったかのように、プロップがテンダの腕を引いた。
「テンダ、二人の言う通りにしよう」
「プーちゃん?あなたまで……そんな……」
「僕にもよくわからない。でももう止められない。それに……」
「それに?何?」
「いや、何でもないよ……とにかく離れよう」
テンダはしばらくためらった後、プロップと一緒にスピナから離れ、フロアの入り口の近くで立ち止まった。
「少年よ……名を聞こう」
テンダたちを横目で見送った後、フロルはスピナにそう言った。
リッキーから得た情報、そして先刻からの会話から察するに、少年の名は"スピナ"に違いないのだろうが、どうしても少年の口からそれを聞きたかった。何故かその必要があると思えた。
「スピナ……スピナ・ノールだ」
「スピナか。私はフロル・ラウラン。この勝負を受けてくれたことに感謝する」
そして、その言葉が"開始"の合図となった。スピナとフロルは剣を構えてお互いを見据えたままその場から動かなかったが、既に"戦って"いた。
―嫌な感じだ……。
スピナにとってフロルの"構え"はこの上なく"不吉"なものであり、目に見えないその"不吉"との戦いが既に始まっていたのだ。
自分とは対称的な下段の構え。しかし不吉を生み出しているのは剣の位置などではない。
それは何とも恐ろしいフロルの"脱力"だった。
剣を持っているというよりは、両手に剣を"立てかけている"というべきか、とスピナは思った。フロルの形をした置物に剣を立てかけている。そんな風に見えた。
"脱力"はそれだけではない。
半歩ほど前に出されたフロルの左足にもそれがあった。
しっかりと地を踏みしめている、という表現はおよそ相応しくない。地面すれすれの位置に"浮いている"。実際にそのようなことはまずあり得ないが、スピナにはどうしてもそのようにしか見えなかった。
となれば重心は右足にあるのだろうかと思いきや、それも怪しい。
右足から左足へ、そして左足からまた右足へと、極限の速さで重心が絶えず移動しているようにしか見えなかった。
―あたる気がしねえ……こっちの攻撃は全部かわされる……あいつがどう出るか……少しも予想できねえ……やべえな……まじでやべえな……。
スピナは直感的に理解していた。この"脱力"はつまり"溜め"であると。つまりは嵐の前の不気味な凪。そして極小から極限への"瞬間的な振り幅"こそが破壊力なのだと。
スピナのこめかみから汗が垂れ落ちた。冷たくて粘着質な、これもやはり"不吉"な雫だった。
その雫をフロルは見逃さなかった。そしてたったそれだけでスピナの思考のすべてを理解した。
―むやみやたらに斬りかかって来る連中と比べればまだ見込みはあるな……。
それにしても、とフロルは赤い大剣を眺めた。
―この剣は?この"赤"は?……このスピナも何かを背負っているのか……"剣の上に何かを重ねている"のか?
"遠慮しないで訊ねてみればいいじゃないか"
内なる声。フロルの頭の中に"二人目"が現れてそう言ったが、不思議にも頭痛は一切なかった。
"あのジドという男の言った通りさ。今は私たちの時間なんだ。精一杯甘えていい時間なんだ"
―この少年の剣の上に"何か"が乗っているとしたら?お前ならどうする?
フロルは二人目にそう問いかけた。その答えが何なのか皆目検討がつかないから相談した、というわけではなく、自分が既に導き出しつつある答えが間違いではないという確証を得たいがためにそうしたのだった。
"どうするかって?……そうだな、とりあえずこの少年を抱きしめて、それからキスでもするか?"
皮肉屋の二人目は冗談めかしてそう言った。
―もういい……やはりお前は黙っていろ!
フロルは二人目を頭の中から追い出し、思考を切り替えた。そろそろこちらから初太刀を仕掛けてやろうと考え、そのタイミングを計り始めた。
「ねえ、プーちゃん」少し離れた位置から一騎討ちを見守っているテンダは、対峙したままじっと動かないスピナとフロルを交互に見ながら、隣にいるプロップに話しかけた。「あいつ……死んじゃうよ?あたしたちこれでいいの?あいつが死んじゃっても……プーちゃんは平気なの?」
何故二人は動かないのか、テンダにはその理由はわからなかったが、スピナが精神的に押されているようだということは何となく理解できていた。
密かに魔法の詠唱を始めようか、という考えが何度も頭を過った。しかし、その度に自分の中の"何か"がそれを否定した。
"当事者同士が納得した一騎討ちは邪魔できない。それがたとえ神だろうと悪魔だろうとも"
「平気なわけないじゃないか」プロップはテンダの方を見ようとはせず、スピナとフロルを見つめたままそう答えた。「平気なわけないよ。納得いかないよ……でもさ……」
「でも?何?」テンダはプロップを促した。先ほどプロップに手を引かれた際、彼が何かを言おうとしてそれをやめたことを思い出した。「何なの?」
「あの"赤"がね……」プロップが空虚な声でそう言った。「上手く言えないんだけどさ、あの"赤"が正しい……そんな気がするんだ。だからスピナも正しいって。誰も傷ついたりしないって、そんな気がするんだ」
「何よそれ?」テンダはプロップの横顔をまじまじと見つめた。「さっぱり意味がわからないわ」
あるいは、プロップは密かに緩やかなパニックの坂を転げ落ちているのではないかと思ったが、彼の横顔はむしろ"気高さ"さえ感じられるほどに精悍なものだった。
「僕も自分で何言ってんのかよくわかんないよ」
プロップは苦笑を浮かべてそう言いながら、スピナが両手でしっかりと構えている赤い大剣を見つめた。
先ほど剣がひとりでに巨大化した際、その光を見たプロップの胸に、得たいの知れない安心感と、これは必要な戦いなのだという根拠のない確信が生まれた。
そして何故かスピナと旅を始めた"あの日"のことを思い出した。
"正しいって信じてるんなら、もう飛び込んでみるしかないんだ"
あの日プロップはそう叫んだ。その言葉が何故か頭の中に響いたのだった。
「テンダ、君はどうなの?あの"赤"を見て何も感じない?」
「あたしは……」テンダは視線を赤い大剣に移した。「わかんない……あたしにはわかんないよ!こんな戦い、早く終わればいいんだわ!せっかく玄烏賊を倒してみんな生き残ったのに……出口がすぐそこにあるのに……」
テンダは悲しげにそう吐き捨てた。プロップは何も言わなかった。そしてそれきり二人は黙り込んだ。
―汗が……後わずかで汗が……。
フロルはスピナの額に浮かんでいる汗の雫を見つめていた。その雫は、後わずかで眉を通り越し、右目に進入するだろうと思えた。
―あと少し……右目を閉じる……その一瞬前に……今だ!
汗の雫はスピナの瞼を滑り、まつ毛をすり抜け、瞳に進入を試みた。そして反射的に瞼が閉じられた瞬間だった。
―しまった!やべえ!
剣がぶつかり合う金属音が響き渡った。振り下ろされた虹の女王を、赤い剣がかろうじて受け止めた。
―クソッたれに速え!危なかった……次は……どうする?後ろに下がる……か?
スピナは剣を押し返し、瞬時に後退を試みようとしたが、背筋を走る悪寒に身を震わせ、慌ててその場に留まった。
「いい判断だ……勘はいいようだな。後退していたらお前は死んでいたぞ」再び構えを"不吉な脱力"の下段に戻し、フロルがそう言った。「後退すれば、私の追撃の突きをかわせはしなかっただろうな」
「そいつはどうも……ご丁寧に」
スピナはほとんど無意識にそう言い返しながら大剣を横に払った。とにかく一秒でも早くフロルとの距離を空けたかった。
「"距離を空けたい"か?それでは駄目だ!」
スピナの心を見透かし、フロルが叫ぶ。
刹那、スピナの背筋は凍りついた。
事態はむしろ悪化してしまった。横に払ったスピナの剣に対して、フロルは後ろに下がってかわしたわけでもなく、その場に留まり虹の女王で防いだわけでもなかった。
「逆だ!距離を詰めろ!お前の武器が大剣であり―」
フロルは素早く一歩前に距離を詰めることによりスピナの剣をかわしたのである。期せずして、スピナはフロルの肩に肘を食らわせる格好となったのだが、結局はそれすら命中しなかった。
「私の武器が長剣だから、ということはまったく関係なしにそうする必要がある。わかるか?」
スピナの肘がぶつかる直前に、虹の女王の柄の先端がスピナの腹にめり込んだのだ。スピナは、ぐは、と息を吐きながら体をくの字に折り曲げた。
「何を恐れている?一騎討ちを受け入れながら、死ぬ覚悟すらないのか?」
フロルが何を自分に問いかけているのかを考える時間はおよそ存在しなかった。腹部の痛みに続き、スピナのこめかみを衝撃が襲った。フロルのブーツの爪先がそこに叩き込まれたのだ。
「まったく話にならないな……それでは私に勝てない」
蹴りを食らい、派手に地面に倒れたスピナを見下ろしながら、フロルは前髪をかき上げた。離れたところからそれを見ていたテンダとプロップは思わず、ああ、と悲鳴を漏らしてしまった。
二人は同時に同じ事実を悟った。この黒衣の女は、その気になればいつでも自分たちを殺せるのだという事実。それも時計の秒針が一周するよりも速く。
何のためにフロルが一騎討ちを提案したのかますますわからなくなった。たとえ三人がかりで挑んだとしても勝敗は明らかだったはずだ。
―ふざけんな……化け物め……。
スピナは声に出してそう呟いたつもりだった。いや、実際に声は出たのかもしれなかったが、彼の耳には何も聞こえず、それすらもわからなかった。
―こ、怖ええ……逃げ出してえよ……それか、このまま気絶できたらさぞかし楽になるだろうな……。
上半身を起こすのがやっとだった。頭は割れるような痛みに襲われ、狂ったようにでたらめな方向に景色は歪み、口の中は不快な鉄の味が広がっている。
小刻みに震えている両膝は、もはや自分のものではなくなってしまったように思えた。
「死ぬのが怖いのか?」
フロルの声が遥か上空から聞こえてきた。
―当たり前だろ……馬鹿野郎め。
スピナはそう言い返した。しかしやはりこれも実際に声が出ているのかはわからなかった。
「ならば何故お前はその剣を持っているんだ?」
―約束したんだ!
「約束したんだ!」
今度は自分の叫び声が耳に入った。そして、いつの間にか赤い剣を杖の代わりにして、自分が立ち上がっていることに気がついた。
「約束したんだ!クソッたれめ!死ぬのなんか恐くねえ!自分を嫌いになるのが恐いんだ!」
「自分を嫌いになる……か」
うつむいたまま肩で大きく息をしているスピナを眺めながら、フロルはそう呟いた。
"立ち上がってくれてほっと一安心ってところだな。その気になれば首を刎ねることができた。だかお前はそうせずに蹴りですませてやったんだ"
内なる"二人目"が突然戻ってきてそう言った。
―そうだな……。
癪ではあったがフロルはそう答えた。認めざるを得なかった。スピナが立ち上がってくれたことを嬉しく思っていた。
「スピナ、お前は今までに人を殺したことがあるか?」
フロルはそう言いながら虹の女王を片手で持ち、スピナの肩に突き刺した。スピナは小さくうめき声を上げた。
「ねえよ……お前と一緒にすんじゃねえ!」
スピナは声を振り絞ってそう答えると、片手で大剣を持ち上げ、振り上げざまに肩に刺さった虹の女王をはねのけた。
肩に走る痛みがさらに鋭くなった。傷口からは真っ赤な血が容赦なく溢れ出てている。
「何故だ?今まではそのような戦いに直面したことはないのか?それとも正義や道徳か?」
フロルはその反撃に特に驚いた様子は見せず、冷静にまた下段の構えをとった。
「正義とかなんとか、おいらそんなのわかんねえよ……」スピナは肩の傷口を庇うことなく、先ほどと同じように剣を上段に構えた。「約束なんだ……自分が正しいと思うことのためだけにこの剣を使うってな。だから、もしおいらがそれを正しいと思ったんなら、そん時は人を殺すかもしれねえ。おいらは正義の英雄じゃねえんだ!」
フロルは目を見開いてスピナを見つめた。心臓が、とくんとたったひとつだけ鐘を鳴らした。
「約束……か」
"お前はどうだ?フロル・ラウラン。正しいと思って人を殺したことは?お前は悪魔の化身か?"
二人目が問いかける。フロルは軽くかぶりを振った。
―違う……いや、そうかもしれない……わからない……。
「スピナ、お前の言う"約束"とは、お前にとって重荷ではないのか?ある日、剣の重さに耐えられなくなったとしたら?どうする?」
フロルは構えを解いた。スピナは何も答えなかったが、いつまでも回答を待つと言わんばかりにフロルは立ちつくしたままだった。
フロルが構えを解いたことに気づいた直後から、スピナの思考は冷静な"脳"と熱い"胸"の二ヶ所に分断された。
冷静な"脳"はこう考える。
よくわからんが逆転のチャンスかもしれない。視界も元に戻りつつある。ダメージも回復しつつある。何かアイディアを考えなくては。
そして熱い"胸"には別の考えが渦を巻いていた。
何故だろうか?フロルとの会話で自分は"癒されて"いる。彼女もそうなのか?自分には常にプロップがそばにいた。そして赤い剣も。それでもなお自分は孤独だったのか?そしてフロルもまた自分のように孤独なのか?今の質問に対して何かを答えなければならない。絶対にそうしなければならない。
「"対話"だ。これは対話なんだ。この一騎打ちの意味は」
一時停滞している一騎討ちを見守っているプロップが、誰にともなくそう呟いた。
「どういう意味?プーちゃん?」
テンダはそう訊ねたが、実のところプロップがいわんとしていることが何なのかを既に理解できていた。自分もちょうど同じことを考えていたからだ。
「あのフロルって人、泣いてるみたい。涙を出さないで泣いてるみたい。スピナの胸を借りて……剣でしか語れないんだ。きっと」
プロップはそう言いながら、不思議にも自分の瞳に涙が集まりつつあるのを意識した。
「そうね……何かちょっと羨まし―」
テンダはそう言いかけて慌てて口をつぐんだ。何故かわからなかったが、"羨ましい"を認めることがとんでもなく恥ずかしいことのように思えたのだ。
それから恐る恐るプロップの顔を見たが、幸いにもテンダが口をつぐんだことについてはまったく気にしていない様子だった。
そうしてしばらく経った後、スピナの"脳"が、ある重要なアイディアを生み出すことに成功した。
―ミシュ、"あの力"をもう一度使えないか?
スピナは心の中で赤い剣にそう問いかけた。しかし、しばらく待っても"返事"はなかった。
―頼む!情けないけど、おいらの腕じゃこの女に応えられない。この女に勝ちたいんじゃない!おいらはこの女に"応えたい"んだ!
スピナはさらに力を込めて剣を握り直した。すると今度は"返事"が返ってきた。
"その瞬間になったら合図を"
つまりは承諾を得たということだ、と途端にスピナの心は晴れ渡った。そして身体中に力が戻ってきた。
―ありがとう!ばっちり決めてやるさ!
フロルは解除していた下段の構えを元に戻した。と言っても、一向に何も答えなないスピナにしびれを切らしたわけではなく、スピナの発する"気の質"が変わったからである。
―何かをやる気だな?
先ほどまでと違い、スピナの目の焦点はしっかりと合っていて、両足の構えもどっしりとしていて迷いがなくなっていた。
フロルは今朝見かけたあの玄烏賊のものらしき残骸を思い出した。
―何か仕掛けてくる……巨大化以外の何かの力があるのか?あるいはあの化け物を葬った力なのか?
「フロル・ラウラン……でいいんだよな?」スピナはにやりと笑いながらそう言った。「フロル、さっきの質問の答えだがよ、もしこの剣が重荷になったとしたら、だったよな?"重荷になんかならない"って言いたいとこなんだが、正直言ってあんまり自信がないんだ」
スピナはフロルを見据えたまま、ゆっくりと後退した。フロルはあえてそれを追わずにその場に待機することにした。
何を仕掛けてくるつもりなのか興味があったし、あるいはその後退自体が自分の前進を誘うまやかしなのかもしれないとも思えたからだ。しかし最大の理由は、スピナが何を言おうとしているのかしっかりと聞きたい、というものだった。
「お前の言うように、いつかこの剣が重荷になる時が来るかもな……でもよ、おいらはもしそうなったとしても死ぬまで痩せ我慢して約束を果たすつもりだ!」
「"痩せ我慢"だと?」
フロルは顔をしかめた。スピナとの距離はどんどん開いていく。
「そうだ!痩せ我慢だ!」壁ぎわまで後退したスピナは、そう叫びながら一気にフロル目がけて走り出した。「しょうがねえだろ!金玉ぁぶら下げて生まれてきちまったんだ!痩せ我慢して、這いつくばって、好きなやつの前でカッコつけるために生まれてきたんだ!」
フロルまで残り三、四歩の距離まで近づくと、スピナは地面を蹴って跳び上がり、大剣を頭上に振りかざした。ちょうどスピナの膝がフロルの顔のあたりにくるほどの高さだった。
「愚かな。死にたいのか?」
そして次の数秒でこの一騎討ちに決着がついた。
その"数秒"とは、端から見守っていたプロップとテンダにとっては実質通りの数秒だったが、スピナとフロルにとっては、彼らの脳が極限の集中により生み出したスローモーションの世界の中での出来事であったため、体感的には"数分間"だった。
スピナの跳躍攻撃は、フロルに言わせれば自殺行為以外のなにものでもなかった。
まず言うまでもなくその攻撃をかわすのは容易い。何せ"今からそこに攻撃をします"と予告してくれているのだ。どの方向にもかわせる。
さらに迎撃もまた容易い。首から下はがら空きになっている。着地前に苦もなく致命傷を負わせることができる。
多くの選択肢のうち、フロルは二つの理由から"左方向にかわす"を瞬時に選択した。
理由の一つは、跳び上がる直前にスピナが叫んだ言葉が胸に深く突き刺さっていたということ。それが何故なのかと考える時間はなかったが、とにかく迎撃で彼に致命傷を負わせたくはなかった。
もう一つの理由は"悪寒"だった。生まれつき鋭く、さらに経験という名のやすりで磨かれた、彼女の直感が発した警告。"何かまずいことが起ころうとしている"という限りなく確信に近い予感。
フロルのその選択は結果的に正しかった。
スピナの跳躍が絶頂に達した瞬間に"それ"は起こった。
―フロル、お前がいくら化け物でも―
スピナは渾身の力で剣を振り下ろした。
―これはかわせない!あり得ないことは予測できない!ミシュ、今だ!
まばゆい光。
剣は応えた。
輝ける"赤"の光がスピナの身体中を覆った。玄烏賊との戦いの最中、テンダの魔法から逃れたあの力。一瞬にして地底湖に移動させたあの力が発動した。
今回、赤い剣はスピナの体をほんの少し下へと移動させた。つまりはフロルの予測より格段に速く彼女の頭上にスピナの剣が降ってきたのだ。
スピナは命中を確信した。しかし同時にある種の矛盾が胸に渦巻いた。そのメビウスの輪のような矛盾の渦は、スピナの心臓に強く巻きついた。
―殺してしまう……生まれて始めて人を……フロルを……おいらは殺したくないと思っている……でもこいつに応えるにはおいらの強さを見せなければならなかった……これでよかったんだ……よかったんだ!
しかしそれはスピナの驕りであり、何とも愚かな思考に過ぎなかった。この時のスピナは哀れなほどに幼く、無知で自信過剰だったと言っても過言ではない。
何故ならフロルは"それすらもかわした"からだ。
着地と同時に、スピナの背中を邪悪な氷の妖精の群れが駆け上がって行った。大剣を持つ両手に伝わってきたのは、剣の切先が洞窟の堅い地面に刺さる感触だけだった。
―かわした……だと?
スピナは表情は恐怖に支配された。狂ったように首を素早く動かし、自分のすぐ右にフロルの存在を確認すると、大剣を地面から抜き、無駄とわかりつつ力任せに横に払った。
命中するはずのない残撃。フロルは苦もなくかわすに違いなかった。虚しい牽制。さらには、たとえ今この瞬間にフロルの反撃をしのいだところで、もはやスピナには反撃のアイディアはないのだ。
この女は一度見た攻撃はその後何度でもかわせるのだろうと確信していた。同じ手はもう使えないだろうと。
ところが、そうではなかった。
スピナが仕掛けた"空中での瞬間移動"による残撃は、実際にはフロルに命中していた。
スピナの手にはその感触が伝わらなかったほどのダメージではあったが、フロルの右足のふくらはぎの側面の肉を、わずかながら削ぎ落としていたのだった。
―斬られた……か。
フロルは足を止めたが、傷口には目もくれずにスピナを見た。
切り札がかわされたことがよほどショックだったのだろう。スピナは目に見えて狼狽えていた。そして首を動かしてフロルの姿を確認すると、反撃を恐れたのか、牽制の攻撃を仕掛けてきた。
迫り来る赤い剣を眺めながら、それでもフロルは一歩もその場を動けなかった。それはふくらはぎの傷のせいではなく、先刻のスピナの言葉を反芻していたからだった。
"好きなやつの前でカッコつけるために生まれてきたんだ!"
―自分が何者か知っているのか……自分のことが好きなんだなお前は……スピナ……。
フロルは微笑を浮かべたまま、まばたきもせずにただ立ちつくしていた。
スピナはその微笑を目の端に捉え、驚いて目を見開いた。
―何だ?避けないのか?馬鹿野郎!何考えてんだよ?
しかし既に動き出した両手は止まらない。このままでは、赤い剣は間違いなくフロルの胴体を真二つに切断してしまう。
スピナは強く目を瞑り、心の中で力の限りに叫んだ。
―ミシュ!頼む!
そして次の瞬間から静寂が訪れた。それは嵐が過ぎ去った後の穏やかな静寂ではなく、嵐の最中に突然訪れた不思議な"停止"。一瞬にして異世界に転移してしまったかのような突然の"変異"だった。
スピナは恐る恐る目を開けた。最初に視界に飛び込んできたのは、思わずはっとしてしまうほどに穏やかなフロルの微笑だった。
それから、自分の両手に握られている赤い剣が既に短剣に戻っていることに気がつき、ほっと胸を撫で下ろした。
―ミシュ、ありがとう……間に合ったか……。
赤い剣は、フロルの体を斬り裂くその寸前で短剣に戻り、空を斬ったのだった。
「どうした?何故やめる?」
フロルは微笑を浮かべたままそう言った。
「な、何なんだよ、お前?わけわかんねえよ!そっちこそ何で避けないんだ!こんなわけわかんねえことで、ミシュを血で汚させたくねえ!」
スピナは早口でそう叫んだ。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「それも"痩せ我慢"か?」
フロルは眉を一瞬だけぴくりと上に動かして、冗談めかしてそう言った。スピナは認めないわけにはいかなかった。フロルのその仕草は何とも"色っぽくて"それでいて"愛らしい"ものであると。
「……ああ、そうだよ。悪いかよ?」
スピナはそう言いながら、照れくさそうにうつむいた。フロルは無言でじっとそれを見つめていた。
"どうした?早くこの少年を抱きしめてやれ"
内なる"二人目"が現れ、フロルにそう言った。例によって皮肉っぽい口調だった。
―いや、私が抱きしめたいのはお前だ……。
フロルは二人目にそう答えた。二人目はそれを鼻で笑い飛ばした。
"それはつまり、認めるということか?私がマスターだと"
―それは違う。やはりマスターは"私"なんだ。お前とひとつになる"私"がマスターなんだ。
"真実を探す気になったのか?"
―ああ、そうだ。私はこの少年が羨ましい。テンダ様に敬意を払いたい……この"気持ち"のために戦いたい。自分を好きでいられる"気持ち"のために戦いたい。もうあの御方のためでもない。
二人目はしばらく沈黙した後、くすくすと笑い出した。
"いいだろう。私は消える。私たちはひとつになる。私はお前になる。私たちはやっと向き合えたんだ"
フロルは目を閉じて二人目の姿を思い描いた。そして"彼女"の右手を両手で握った。
―ありがとう……。
フロルがそう言うと、二人目は左手を重ねてフロルの手を握り返してきた。
"お前を愛しているよ。だけど―"
二人目はこれまでにない真剣な表情でそう言った。既に"こいつも私になりかけている"のだ、とフロルは思った。
"三人目に気をつけろ。もう一人……あいつは私たちを殺そうとしているんだ……決して忘れるなよ?私たちはまだ行くべき道を見つけただけに過ぎない。我々は何者なのか、どこから来てどこへ行くのか。答えはまだずっと先だ"
それが最後の言葉だった。二人目の姿がふっと消えた。
フロルがそっと目を開けると、スピナが怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「スピナ、私の負けだ……」
フロルはそう言いながら虹の女王を鞘に収めた。
それを見たプロップとテンダは、顔を見合せて頷くと、フロルとスピナの方へ駆け足で向かった。
「スピナ!大丈夫かい?」
プロップはスピナのそばに駆け寄ると、彼の身体中を眺めて傷の具合を確かめた。
「……大丈夫そうに見えるか?」
スピナは短剣を鞘に収めた。途端に半ば麻痺していた痛覚が襲ってきた。堪えかねてうめき声を上げながら、フロルの剣で突き刺された肩を押さえた。
「すぐに魔法を……」
プロップは治癒魔法の詠唱を始めた。
その様子を横目に、テンダはフロルに恐る恐る近づいた。
「フロル、あんたの負け……でいいのよね?」
「はい……申し訳ごさいませんでした。ここをお通り下さい。国境の関所はすぐそこです」
フロルの声は穏やかで優しいものだった。三日前に対峙した時とはまるで別人のようだとテンダは驚いた。
「あなたはこれからどうするの?」
「王宮へ戻ります。この国で何が起きているのか……真実を確かめます」
「ねえ、フロル、あなたは―」
「残念だがそうはならない」
テンダの声を遮り、空間を切り裂き、あまりにも突然に、そして無慈悲に"その時"は訪れた。
「誰一人として望む場所へ行けはしない」
光も音もなく、洞窟の出口の前に現れたその男は、低く、年季の入った声でそう告げた。
深紅の仮面の男。骨の手の男。
それはスピナにとっては悪夢の再来であり、テンダとプロップ、そしてフロルの三人にとっては"最悪との最初の出会い"となった。
「お前たちの旅はここで終わりだ!」
リャーマの言葉が洞窟内に響いた。低く、強く、この世で最も重要な予言であるといわんばかりに。
「ようやく出番か……すっかり体がなまっちまったぜ」
リャーマの背後にはもうひとつの影があり、その影がそうぼやいた。それは藍色の仮面の男、ガタカだった。
時刻は午後十四時三十五分。
その時は訪れた。
重なった"線"の"点"になる地点。
すべての重要な役者が舞台に出揃った。
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