〈Ⅰ‐Ⅵ〉やがて“線”が重なり“点”となる
◆1◆
突然に意識が覚醒した。
フロルは真っ先に自分の身体のどこかしらに異常が発生しているという焦燥感を覚え、次に今自分は誰と戦っている最中なのかまったく思い出せないという苛立ちを覚えた。
間違いなく自分の瞼は両方とも開いている。しかし、ぼやけた白い"もや"のようなものが見えるばかりで、ここがどこなのかまったくわからない。
―いつの間に気を失ったのか……攻撃されているのか?何者かに?既に?……早く……体勢を……。
"フロル。どうか落ち着いて。今は僕と君の二人きりだ。そして僕は君の敵じゃないよ"
恐らくは少年のものと思える、とても優しく、美しい声がどこかからはっきりと聞こえてきた。
フロルは咄嗟に周囲を見渡したが、やはり白いもやが見えるばかりで、声の主は見当たらなかった。
―誰だ?……ここはどこだ?……そうだ、私は……あのティトを倒し、玄烏賊の洞窟へ……―
"おっと、いきなり二つも質問をしてしまったね……まあ、君の場合は多少仕方ないかな。質問をすると崩れちゃうよ"
少年の声がそう告げるやいなや、白いもやが激しく揺らめき始めた。
フロルは半ば無意識に虹の女王の柄に右手をかけた。
―視力を奪われた……?やはり既に敵に攻撃されている……と見るべきか。
"さすがにいい動きだね、フロル。その精神力……ガタカの言うように、君は地上の戦士としてはかなり特別な存在だのようだ。だけど虹の女王を抜くことはできない。今の君にはね"
―何だと?
冷静沈着を常とするフロルだったが、この奇怪な状況による焦りや不安から、不覚にも少年の言葉に怒りを覚えてしまった。
―剣を抜けない、だと?私が抜くより速く動けるとでも言うつも―
フロルの怒りは驚きに変わった。少年の言葉は皮肉ではなく文字通りの意味だった。
柄に手をかけることは可能だった。しかしそれだけだった。
―何だ?この重さ……いや、これは……。
自分の腰のあたりに素早く視線を移すと、やはり白いもやが揺らめいているだけであり、はっきりとそれを確認することはできなかったが、フロルはその感触から、剣が単に重くなったわけではないということに気がついた。
―巨大化した……?虹の女王が…………抜けない……?
"剣が巨大化したわけじゃないよ。誰かさんの赤い剣じゃあるまいしね"
少年の声は、ふっと自嘲気味に笑った。
"もっとも、虹の女王とは親戚みたいなもんだけどね……剣ではなく君の体が小さくなってるんだ……いいよ、見せてあげる。ただし、なるべく質問をしてはいけないよ?いいかいフロル?"
―何だと?ふざけ―
言葉は遮られた。白いもやを切り裂くように、突然のまばゆい光がフロルの目に飛び込んできたのだ。
咄嗟に目を瞑った後、しばらくして恐る恐る開くと、そこにはフロルをさらなる混乱に導く風景が広がっていた。
―まさか……ここは……。
天井には豪華なシャンデリア。赤い絨毯に広い机。古く希少価値の高い書物がぎっしりと詰まった本棚。部屋の角の煉瓦の壁の上方には鹿の剥製が首を覗かせている。
決して忘れることのできない、そして今はもう存在しない"あの部屋"。その部屋の中央に今フロルは確かにいた。
鉄格子の大きな窓から降り注ぐ朝日が強く胸を強く締めつける。それは"認めたくない痛み"だった。
―この部屋は……この屋敷は十五年前に焼き払われたはずだ!
"そう、ここは君が生まれ育ったあの屋敷じゃないよ。今の君が最も望んでいるものをただ映し出しているだけなんだ……何故なら"
朝日を遮るようにして、フロルの目の前に一瞬の光とともに白いローブ姿の少年が姿を現した。
"ここは君の夢の中なんだ"
その姿を見た瞬間、フロルはようやく自分の体が小さくなっていることを実感した。
フロルは女性の中でも決して小柄な方ではない。しかし、自分より明らかに年下と思われるその少年の顔を見るためには、空を見上げるように首を動かさねばならなかったのだ。
もっとも、厳密に言うとそれでも青年の顔を見ることはできなかった。
何故ならその顔は、ローブとは対照的な闇のような黒の仮面で、口元以外のすべてが覆われていたからだ。
―夢……だと?お前は―
"おっと、質問はなしだ。スピナの時とは違って時間の余裕はあるし、目覚めた後も覚えている必要はないんだけど、話しづらくなっちゃうからね"
―仮面の男……あのティトが、確かそんなことを言っていたが……それはお前のこと―
"だから、質問はなしだって言ってるじゃないか?"
青年はフロルの言葉を遮り、君には呆れたよとでも言いたげに軽く両手を上げた。
"それにしても、よくそれを覚えていたね。でもティトが言っていた仮面の男とは僕のことじゃないよ"
少年は、人さし指で黒い仮面の頬をとんとんっと叩いた。
"今は顔を隠すために仮面をつけているんだ。スピナとは違って、君の場合はこの顔を見たら一瞬で僕が誰だかわかっちゃうだろうし、それでかなり混乱しちゃうだろうからね"
既に"かなり混乱"してるのだがなとフロルは内心舌打ちしながら、少年の姿を改めてじっくりと眺めた。
―その雰囲気……どこかで……私はお前のことを知って―
"無駄話はこれくらいにしようか。フロル、どうせ君は目覚めた後に忘れてしまうんだ"
少年はフロルの言葉を遮り、鉄格子の窓を指さした。
"早いとこ済ませてしまおう。さあフロル、窓の前に立って"
少年の指につられ、フロルは窓に視線を移したが、窓から射し込む朝日を目にした瞬間に再び胸が苦しくしめつけられたため、目を瞑り、その場で立ちつくしてしまった。
"どうしたのフロル?君はこの窓を恐れているのかい?"
―質問はなしだろうが。
"ああ、僕から質問するのは構わないんだ……僕は何も忘れることができないからね……フロル、どうしてこの窓が恐いの?"
―恐れているわけじゃない。
"じゃあ、一体何なのさ?"
―わからない……思い出せない……。
"わかったよ。それなら目を閉じたままで構わないから、窓の前まで行こうよ!"
少年は返事を待たずに、少しかがんでフロルの左手を握った。
少年の手はとても大きく、不自然なほどに冷たかった。
"恐がらないで。さあ、こっちだよ!"
フロルは少年に手を引かれるままに、瞳を閉じたままゆっくりと歩き始めた。
左腰に下がっている虹の女王がやたら重く、鞘の先が地面を引きずっていることに気がついた。
―何故、私の体は小さく―
"おっとっと、質問はなしだよ!それはすぐにわかるから……ほら、窓の前に着いたよ"
少年は足を止めてフロルから手を放した。
フロルは足を止めて恐る恐る手を伸ばした。
指先を伝わる冷たい硝子の感触と、全身に浴びている朝日のほのかな暖かさ。
―今、目を開けたら……私は……窓の外を見てしまったら……私は……私は……。
"フロル、ゆっくりで構わないから目を開けるんだ!"
―できない!そんなことはできないんだ!
フロルは叫んだ。いつの間にか胸の中を"異質な怒り"に支配されていることに気がついた。
それは、先ほど少年に剣を抜けないと言われた時に感じたような"熱い怒り"とはまったく異なる、"限りなく闇に近い色の怒り"だった。
"フロル、君は認めたくない痛みに対する怒りで、自分の心を壊そうとしているんだ"
―怒り……。
"その怒りの正体は悲しみであり、悲しみの正体は君の優しさなんだ。それは春の朝のように暖かくて、硝子のように強く、同時に弱いものでもある。それが裏返って怒りになった時、君の心は限りなく闇に近づく"
―私の両手からは血のにおいが消えないんだ……。
"フロル、振り返って目を開けて。窓の外を見なくてもいいように"
フロルはしばらくためらった後、窓に背を向けてゆっくりと目を開けた。
"これが今の君だ"
少年の声はかき消された。"それ"を見てしまったフロルの、シャンデリアを落下させ、部屋中の本棚を倒し、鹿の剥製と背後の窓硝子を粉砕しかねないほどの慟哭によって。
"フロル、目を逸らしてはいけないよ"
少年に言われるまでもなかった。フロルは恐ろしさのあまり、むしろ"それ"から目を逸らすことができなかった。
背後の窓から差し込む日光が地面に映し出しているフロルの影。
鉄格子の影に重なっているその影は、扇状に"三つ"に分かれていた。
"フロル、そんなに驚くことではないと思うんだけどな……君は既に知っていたはず"
―私は……誰なんだ?どこに行くんだ?
"今の質問は……僕にではないから、まあ、いいか……フロル、僕は君を見るためにここに来たんだ。君を救うためじゃない。スピナやテンダを救うためでもない。君の運命に対する力を見るためにここに来たんだ"
―運命……。
"そう。じゃあ、彼女たちの声を聞いてみて"
少年はそう言うと、フロルの傍らを離れて彼女の真正面に移動した。
そして、おもむろに両手を広げたかと思うと、ぶうん、という空気が震動しているような音とともに、少年の目の前に突如として彼の背丈と同じくらいの高さの三面鏡が姿を現した。
―ああ……私は……。
鏡面はフロルの方を向いている。そこに映る"三人の自分"の姿を見て、ようやく体が小さくなった理由を理解した。
―十五年前の私……ここで暮らしていた頃の私……。
男の子のように短く刈り込んだ髪。白いブラウスにカーキ色のパンツとレザーブーツ。
不釣り合いな虹の女王を腰に下げた、十歳のフロルがそこにいた。
"私たちはこの場所を望んでいる……この屋敷を、という意味じゃない。この部屋を、という意味だ。"
向かって右の鏡面に映るフロルがそう言った。恐らく彼女は皮肉屋の"二人目"と思えた。
"そう、ここは父上の部屋……とっくの昔に私の本性に気づいていたはずのあの男の部屋だ……"
左の鏡面のフロルは独り言のようにそう呟く。いや、そもそも何人そこにいようとも、鏡と向き合っている限り結局は独り言なのかもしれないと、フロルはおぼろげにそう思った。
―そうか、私は自分が何者なのか知らないんじゃない……"決められない"んだ。だから、そこへたどり着きたいと望む"居場所"がはっきりとわからないんだ……。
中央の鏡に映るフロル、つまり基本となる"一人目"が呟く。すると途端に三面鏡は姿を消し、再び直接あの少年と向き合うことになった。
"フロル、気づいたかい?"
少年は足下を指さした。つられてそこへ目をやったフロルは、先ほどまで三つに分かれていた自分の影が一つになっていることに気がついた。
"ただし、これは一時的なもの……君の選択次第ではまた元に戻ってしまうんだ。だけど僕の思った通り君には強い力がある。運命を切り開くほどの剣の技と心の技を……"
―"技"はつまり"業"だ。それこそが私自身を殺す私の正体なのかもしれない……。
"あるいはそうかもしれない……でも違うかもしれない。本当はそうじゃないかもしれないよ"
少年は両手を広げた。それはフロルにとって、神々しさと気高さを感じさせる仕草だった。
"さあ、行こうか。のろまなスピナのいる所へ……何なら君も太陽の塔を探してみる?僕たちの森を……"
少年は両手を下ろし、自分の言葉がとても滑稽だというようにくすくすと笑った。
"今のは冗談だよ。半分はね……何故ならここは夢の世界。真実を表す言葉をパズルみたいにバラバラにして、その欠片をシルクハットの中に入れてごちゃごちゃにかき混ぜる……そして無作為にそれをばらまいた世界なんだ"
―たいようのとう……?何だそれは?スピナとは、例の小僧のことか?
"おっと、またしても質問だ。二つも一辺に……でも、まあ、いいや。話はこれで終わりだから"
突如として景色が歪み始めた。少年の姿も同様に歪む。フロルは驚いて辺りを見渡したが、視界は次第にまた白いもやのようなものに包まれていった。
―待ってくれ!もっとお前と話がしたいんだ!私一人じゃどこへ行けばいいのかわからないんだ!
フロルは駆け寄って少年の体をつかもうと試みた。しかし、金縛りにあったように体は動かず、次第に消えゆく少年の姿をただ見つめることしかでなかった。
"解釈は君次第だよ。僕が今日ここに来れたのはまったくの偶然なんだ。君が虹の女王を持っていたからね。そしてさっき言ったように、僕は君を救うために来たんじゃない"
またしてもまばゆい光がフロルの目に飛び込んできた。反射的に目を閉じたが、今度は二度と開くことはできなかった。
"ねえ、フロル。僕に人間の夢を見せてよ!"
閉ざされた瞳の中の闇に響き渡ったその言葉が最後だった。後はただひたすらに広がる闇と静寂だけがそこに残った。
―待ってくれ!私は―
フロルは慌ててそう叫ぼうとしたが言葉が出なかった。それどころか、自分の全身が一切動かせなくなっていることに気がついた。
目を開けることも、声を出すことも、そして呼吸すらできないということに……。
―私は……どうなるんだ?
あるいはこのまま死んでしまうのかもしれないという考えが頭を過った。
そしてその後、その後は……。
◆2◆
突然に意識が覚醒した。
フロルは真っ先に自分の身体のどこかしらに異常が発生しているという焦燥感を覚え、次に今自分は誰と戦っている最中なのかまったく思い出せないという苛立ちを覚えた。
間違いなく自分の瞼は両方とも開いている。見えるのは土と草。そのにおいが強く鼻をつく。どうやら自分はうつ伏せに倒れているのだと気づき、フロルは素早く立ち上がった。
辺りを見渡すと、そこは午後の日射しに照らされた平原だった。さほど離れていない場所にコヒの村の入口が見える。
―そうか、私はティトを倒しコヒの村へ……いつの間にか気を失っていたのか……。
フロルは懐中時計を取り出した。時刻は午後十四時を少し過ぎていた。
どうやら気を失っていたのはわずかな間、ほんの数分のことらしいとフロルは胸を撫で下ろした。念のため辺りを見渡したが何者の気配もなかった。
―それにしても……。
フロルは思わず両手広げ、それを交互に眺めた。自分の体が妙に軽くなっていることに気がついた。
不眠不休の体でティトと戦い、"内なる声たち"と争い、肉体も精神は相当に疲労していたはずである。
しかしたった数分睡眠をとっただけだというのに、体は羽が生えたように軽くなり、割れるような頭痛は消え、内なる声たちの気配をまったく感じないどころか、そもそも存在していなかったかのように心は静まり返っているのだ。
―神が力を与えたとでもいうのか?
フロルはそう考え、自嘲気味にふっと笑った。
―この私に力を与えるのだから、それは神ではなく悪魔か……。
そして黒衣の汚れを手で払うと、フロルは今しがたの疑問を些細なものとして脳の奥へとしまい、"仕事"のみに思考を切り替えた。
―玄烏賊の洞窟……行くしかない……今はそこへ行くしかない。
それからフロルは再び歩き始めた。
うたかたの夢は彼女の記憶から消えてしまっていたが、あるいは彼女自身でさえ手が届かない心の奥底にその残滓が存在しているのかもしれなかった。
◆3◆
「おやっさん、後生だ!俺あ今まで、ただの一度だっておやっさんに意見したこたあない。どんな無茶を言った時でもさあ……だけど今日ばっかりはだめだ!後生だから俺たちと一緒に来て下せえ!」
健康的な小麦色の肌。隆々とした筋肉を見せびらかすような、やや季節外れの黒いタンクトップにグリーンの労働者用のパンツと茶色のブーツ。
その顔に刻まれた風化した無数の傷を一目見れば、良識のある者ならば、まず彼と関わり合いになるのはごめんだと考えるだろう。
彼の名前はホセという。
ホセは今、額から大量の汗を垂らし、中腰で両手を膝につけながら、カウンターの向こうで普段と何ら変わらぬ様子で洗い物をしているジドへ必死の形相で訴えかけている。
「ホセ、んなとこで油ぁ売ってねえでよ、さっさと仕事しろや」
ジドはホセの方を見ようともせず、洗い物を続けながらそう答えた。
時刻は午後十四時十五分。
ジドの店には彼ら二人きりでそれ以外には誰もいない。と言うより、今や"コヒの村には"彼らしかいない。
「村人もウチの連中も、もう全員村を出たよ!後はおやっさんだけなんだ!」ホセは右腕で額の汗を拭った。「なあ、おやっさん。あのフロルってえ女は―」
「お前、煙草持ってっか?」ジドはホセの言葉を遮ってそう言った。「そう言やぁ、さっき買うの忘れてたわ」
「おやっさん、いい加減にしてくれよ!あのフロルってぇ女はまじで化け物だ!俺ぁ昨日実際にあいつを見たから言ってんだ!……いくらティトの旦那でも……多分―」
「煙草持ってっかっつってんだろ?」
ジドは洗い物の手を止め、濡れた手をタオルで拭きながらそう言った。
その口調に含まれる迫力に気圧され、ホセは思わず口をつぐんだ。
「まあ、いいや……お前、隣街までひとっ走り行って買ってこいや!」
「おやっさん!はぐらかさんでくだせえ!村人も、ウチらも、おやっさんも、誰一人として絶対死なせねえこと……それをティトの旦那は望んでた!あの人は肚ぁ括ってたんだ!」
「お前こそ俺の話聞いてんのか?それとも、まさか俺の頼みが聞けねえっつうんじゃねえだろうな?」
間髪入れずに言葉を返され、ホセは悲しげな表情でうつむき、無言で唇を噛んだ。
「どうなんだ?あ?聞こえてんならとっとと行けや!」
ジドはカウンターに近づき、両手を腰にあてながらホセを睨みつけた。
ホセは恐る恐る顔を上げてジドと目を合わせ、ごくりと唾を飲み込むと、おもむろに尻のポケットから新品の煙草のケースを取り出してそれをカウンターの上に放り投げた。
「俺、煙草……持ってましたわ。だから買いに行く必要はないっしょ」
「ホセ……」ジドは深いため息をつくと、回り込んでカウンターを出て、つかつかとホセに近づいていった。「だったらお前にゃあ、もう用はねえわ。とっとと消えろ!」
ジドの拳は、その年齢に似合わぬ速さでホセの顎にめり込んだ。
ホセは派手にひっくり返っり、モップがけをして間もない湿った木の板の床に手をつくことになった。
「おやっさん、俺ぁ……」切れた唇から流れる血を右手の甲で拭いながら、ホセはゆっくりと立ち上がった。「俺ぁさあ、おやっさんから盃貰うのが夢だったんだ!おやっさんを追って熱風会を出たんだぜ!」
「それがどうした?」
必死に叫ぶホセとは対照的に、ジドは眉ひとつ動かさずにそう答えた。
「だからよ、あんたがここに残るっつうんなら、俺ぁどこにも行かねえよ!」
「お前……」
ジドは次に言うべき言葉が見つからなかった。ホセの必死の表情に若かりし日の自分の顔を重ね、それからふとティトの顔を思い浮かべた。
―なあ、ティト。俺らやっぱもう歳だわ……俺も昔、おやじに向かってこいつと同じようなことを言ってたっけなぁ……。
それから二人はしばらく無言で睨み合っていた。
やがて"その音"が沈黙を破るまで。
店のドアが開く、"ぎい"という音がやけに大きく響く。
それは"招かれざる客"の来訪を告げる音だった。
そしてその瞬間から空気が入れ替わった。
ホセは、今まで何千、何万回と耳にしたであろう店の金属製のドアチャイムが、これほどまでに不吉な音色に聞こえたことはなかった。
ブーツが木の床をコツコツと叩く。その女のブーツが。
黒衣の女、昨日何度となくその怪物ぶりを見せつけられた女のブーツが、である。
ホセは彼女の様子に違和感を覚え、そしてそこから来る恐怖に襲われた。
―こいつ……一体……。
昨日から不眠不休で歩き、ティトと対峙して恐らくはこれを退けたのだろうが、どういうわけか彼女はまったく消耗していないように見える。
いかな達人とはいえそんなことがある得るだろうか、この女は自分たちの常識とは何光年もかけ離れた存在なのか、という考えがホセの体を金縛りに遭わせた。
「よう、いらっしゃい!」
ジドは入り口を振り返り、今しがた店に入って来た"その女"に声をかけた。ホセは驚きのあまり、目を見開いてジドの顔をまじまじと見つめた。
不吉な黒衣に身を纏い、腰に長剣を下げているその女は、間違いなく"漆黒のフロル"なのだ。
直接顔を合わせたことがないとはいえ、ジドにも当然それはわかっているはずである。にも関わらず、ジドは一切の怯えや焦りや不安を出さずに平然と挨拶してのけたのである。
―ちきしょう……俺ぁ何でこんなにびびってんだ……。
ホセは今ほど自分を情けなく思ったことはなかった。
今しがたジドに向かって堂々と啖呵を切ったばかりだというのに、今やフロルから浴びせられている得体の知れない恐怖に一切身動きが取れなくなってしまったのだ。
「悪ぃね、お嬢さん。今準備中でよ。まあ、でも何か一杯くらいなら出せるぜ。何にする?」
ジドは微笑を浮かべ、カウンターの中へ引き返しながら愛想のいい声でそう言った。
「悪いが茶番につき合ってる時間はないんだ。お前がジドだな?噂通りの悪党面だ……私が誰か知ってるだろ?村人全員を避難させたのか?まったくご苦労なことだ」フロルは無表情のままそう言うと、静かに剣を抜いた。「選ばせてやるよ。大人しく私に鍵を寄越すか、それともせっかく掃除したばかりの床を血で汚すか……どちらかをな!」
フロルは決してジドを甘く見ていたわけではなかったが、既に自分が物理的にも精神的にも主導権を手にしたと確信した。
カウンターまでは四、五歩の距離があるが、ジドが何か不穏な気配を見せた後であっても、彼が何かをする前に踏み込んでその動きを牽制することは十分可能だ。
カウンターからやや離れた位置にもう一人、腕っぷしのありそうな男がいるが、そいつは特に武器などは手にしていない上に、自分の"気"に押されているのか早くも戦意喪失してしまっているようだ。
ジドに逆転の手段はない。そのはずだった。
しかし、やはりフロルはジドを過小評価していたと言えるだろう。
フロルの言葉に対してジドはまず、がははと豪快に笑って見せた。
「参ったなぁ……俺はそんなに悪党面かぁ?お前さんの方は噂以上の美人だけどな……"漆黒のフロル"さんよ。しかもなかなかいいケツだ」そう言うと、ジドはフロルに背を向けて背後の棚からウィスキーのボトルを取り出した。「そう焦らんでもよ、一杯飲んでからでも―」
ジドの言葉が途切れた。それを見ていたホセは、自分でも情けないと思うような小さな悲鳴をもらしてしまった。
もっとも、ホセが見たのは"結果"であり、その瞬間は何が起こったのかを目で捉えることはできなかった。
ジドがボトルをカウンターテーブルに置いた瞬間、虹の女王の切っ先が横一閃にボトルの先端を斬ったのだ。ジドの左手の指の数ミリ単位真下を音もなく。
「次は手首を斬り落とす……さっさと鍵を―」
しかし、今度はフロルが言葉を飲む番だった。ボトルの先端を持っていない方のジドの手に握られていた"それ"がフロルに突きつけられ、ガチリと冷たい音を放った。
「床を血で汚すって方にしようかなぁ、フロル。掃除はやり直せばいい。ただし誰の血で汚れるのかは神のみぞ知る、だ」
ジドの口調は変わらない。しかし体から放たれる"気の質"は変わった。この男を舐めすぎていたかとフロルは苦笑した。
―背後の棚に"あれ"を隠してあった。ボトルを取ると見せて右手にそれを持った……初めから衣服に隠し持っていれば、抜く瞬間に私に悟られてしまうと読んでいた……か。大したものだ。
「驚いたよ、ジド。まったくお前といい、ティトといい、"嘘の色"がわかりづらい……」フロルはジドの右手に握られた"それ"から目を逸らさずにそう言った。「回転式の"銃"か……私ですら数えるほどしかお目にかかったことがない。しかし、よもや知らぬわけではあるまい。それを所持しているということだけで、お前を一生ブタ箱にぶち込む理由になるぞ?」
「確かにそうだな。だが、脳天に弾丸をぶち込まれた後でお前さんに俺をパクる余裕があればの話だ」
「一つ忠告しておいてやる」フロルはふっと笑った。「数えるほどしかお目にかかったことがないと言ったが、それは私が"弾丸が放たれる瞬間を見たことがある"という意味だ……わかるか?この私が、それを見たことがあるという意味だぞ?それがどういうことかわかるか?」
フロルとジドに挟まれた空気が張りつめる。黙ったまま二人のやり取りを見ていたホセは、その緊張感に耐えられなくなっていた。
―二人とも化け物だ……よく立ってられる……何で"その距離"に立っていられるんだ?次の瞬間、どっちかがくたばってもおかしくねえ距離だ……どうして平然と立ってられる?
「バカには難しいこたぁわかんねえんだ」
ジドのその台詞はまるっきりフロルの耳に入らなかった。彼女の五感のすべてが、その台詞と同時に動いたジドの指先と目線に集中していたためである。
―感じる……かわせる!
パンッ、と乾いた発砲音が店内に響き渡った。
ホセは思わず目を閉じてしまった。そして、次に瞼を開く数秒の間に決着はついていた。
「遅くはなかった……が、私が“一度それを見た”ということは、“それをかわせる”ということだ」
冷淡なフロルの声。立ち込める火薬の匂い。放たれた弾丸が破壊した店の入り口のドア。
―かわした……?この女、かわしたのか?弾丸を……?
「この距離で……か?化け物め……」
ジドは激痛に襲われる右手を左手で押さえてながら呻いた。
握っていられなくなった銃が自分の爪先に落ちて跳ね返り、床に転がるのを意識したが、もうひとつの右手から"落ちたもの"がどこに転がったのかはまったくわからなかった。
「距離はあまり問題ではない……私の場合はな。そして私とて弾丸より速く動けるわけじゃない」フロルはジドの髪を鷲掴みにして強引に引き寄せた。「だが、目線と銃口の向き、お前の"気"を感じることができれば、弾丸が発射されるより一瞬速く動くことは可能なんだ」
先ほどフロルが先端を斬ったボトルとカウンターの椅子を二台巻き添えにして薙ぎ倒し、派手な音を立てながら、強引に引き寄せられたたジドの体はカウンターを乗り越えて地面に倒された。
―理屈を言うのは簡単だ……だからってあっさりやれるもんかよ、化け物めが……。
自らが主をつとめる店の地面のにおいを嗅ぐという初めての経験を味わいながら、(それにしても臭い、今度リフォームでもするか、というどうでもいい考えがふと頭の隅を過った)ジドは内心舌打ちをした。
フロルは弾丸をかわすと同時に自分の右手の親指を斬り落とした。命を断とうと思えばそれもできたはずである。しかし、自分から玄烏賊の洞窟の鍵を手に入れなければならないため、物を握れない程度の怪我を負わせるに止めたのだ。
弾丸が放たれた中でそれほどの余裕を見せつけられてしまった。フロルを甘く見ていたわけではなかったが、こうまで実力差を見せつけられてしまってはもう笑うしかねえな、とジドはそう思った。
―だけど、この女……妙だな……まるで……。
「さて、鍵を寄越す気になったかな?」
フロルはうつ伏せに倒れたジドのうなじを踏みつけた。
「どうしようかなぁ……女に踏まれるのも実はそんなに嫌いじゃねえんだよなぁ……俺」
ジドはがははと笑った。
「そうか」
フロルは無表情のまま、親指を失い地面に血を垂らし続けているジドの右手の甲を虹の女王で貫き、地面に串刺しにした。
ジドは苦しそうにぐっと呻いた。
「や、やめろ!」ここにきてホセはようやく声を絞りだすことができた。「おやっさんから離れろ!」
―動け!ちきしょう、動いてくれ!俺のクソったれの両足め!動け!動け!
「そうだな、何ならお前でもいいぞ」フロルがちらりとホセを見てそう言った。「これからこのジドの体をゆっくり順番にばらばらにしてやる。すぐには死なない部分から順にな。鍵を渡したくなったらいつでも言うがいい」
「おやっさんから離れろって言ってんだろうが!このアバズレめ!」
―頼む、動け馬鹿野郎!今死なねえでいつ死ぬんだ!
ホセの体はようやくその主の意思に従った。うおお、という猛々しい雄叫びとともに、右手の拳を振りかざしながら一直線にフロルへと突進した。
そしてその拳はフロルの顔面目がけて振り下ろされた。いや、振り下ろされるはずだった。
―何だ……?
突然、ホセを取り囲む景色が回転した。
―何だ……?天井が回った?……地面が天井に―
ホセは再び、モップがけしたばかりの地面のにおいを直に味わうことになった。
フロルは振り下ろされたホセの右拳をかわし、瞬時にその手首を右手で内側から外側に巻き込むようにつかむと、それを今度は逆に外側から内側へ捻り、同時に左足でホセの右足に強烈な足払いをかけたのだ。
ホセの体は宙をほぼ一回転することとなり、うつ伏せに倒され、なおかつ右手首をつかまれたまま逆関節を取られ、背中を踏みつけられてしまった。
いかな策を労しても、もはや反撃は不可能な体勢だ。
「仕方ないなジド、やはりお前に持ってきて貰おうか」フロルは相変わらず冷淡な口調のままで息一つ切らしていなかった。「鍵を持ってこい。左手なら握れるだろ?それとも、この忠義者の体がばらばらになっていくところをゆっくり見物するか?」
「おやっさん、俺ぁ死んでも構わ―」
ホセの言葉は苦痛の叫び声に変わった。フロルが逆関節を極めている手に力を加えたのだ。
「だからとっとと消えろっつったんだよ、このボケが!」ジドは苦しそうに肩で息をしながら、ゆっくりと立ち上がった。「いつだってお前ら青二才が足ぃ引っ張りやがる。ホセ、お前に言ってんだぜ?ったくよ……」
ジドはおぼつかない足取りでフラフラとカウンターの奥へ歩いて行った。先ほど床に落とした銃を拾うつもりではないか、あるいは、他に隠してある銃を取り出すつもりではないかとフロルは慎重にその様子を眺めていたが、どうやらその気配はなさそうだった。
「ほらよ、持ってけ!」やがて店の奥の戸棚から輪の鍵束を取り出すと、ジドはそれを無造作に放り投げた。鍵束はフロルのすぐ横の床に落ちた。「ところで言い忘れてたんだが、玄烏賊の洞窟の鍵はそこにはないぜ?鍵を持ったウチの店の者はとっくに村を出ちまったんでな」
ジドは勝ち誇ったように笑った。フロルは表情を変えずにホセから手を放すと、床に落ちた鍵束を拾い上げた。
「知ってたさ。お前たちが洞窟の鍵をわざわざここに残しておくはずもあるまい。私が欲しいのは別の鍵だ」フロルは拾った鍵束を眺め、その中からひとつの鍵を指でつまみ、鍵束から引きちぎった。「これだな……明らかに扉の鍵ではない。表に"あれ"がとまっているのを見たんでね。私にとっては入口の扉などカーテンに等しい。問題はテンダ様たちとの距離だけなんだ」
「まじかよ……まったく呆れたな。俺もティトも完全にお前さんの力ぁ読み違えてたってか」ジドはクックッと笑った。「もう止めやしねえよ。ところでフロル、ティトはどうしたんだ?さっきから気になってたんだが、お前さん妙にスッキリした顔してるよなぁ?ティトに一発ぶち込んでもらったのか?」
「村外れに行ってみろ」フロルは剣を鞘に収め、店の裏口へ向かって歩き出した。「珍しい死に方の死体が見れるかもな」
「そうか……それにしてもよ、お前さん洞窟に行ってどうする気だ?」
「どうする、だと?」
フロルは足を止めてジドを振り返った。
「これもさっきから気になってたのさ……どういうわけか、今のお前さんはとても人殺しにゃあ見えねえ」
ジドの意外な言葉に、フロルは不覚にも驚きを表情に浮かべてしまった。そして、反論すべきだという思いとは裏腹に一切の言葉が思い浮かばなかった。
「俺ぁ、お前みたいな奴を知ってるぞ。ある日突然自分の弱さに気づいたやつさ。自分の中に蓋があって、突然それが開いちまったやつのことだよ」ジドは手を伸ばし、先ほどホセが放り投げたタバコのケースをテーブルから取り上げた。「今のお前さんは、んな面ぁしてるわ」
ケースを開けて取り出したタバコをくわえ、それに火をつけるジドの様子を、フロルはじっと見つめていた。
「悪党が悪党に人の道でも説こうというのか?くだらんな」ようやく心に浮かんだその言葉を吐き捨てると、フロルは再びジドに背を向けて裏口へと歩き出した。「私は弱くない……」
独り言のようにフロルの口からその言葉がそっとこぼれ落ちた。それは彼女自身にも意外な言葉だった。
「弱いってのもよ、そんなに悪くないぜ?弱いやつには仲間がいるからな。ガキどもに追いつけたらいろいろと甘えてみろよ!」
既に裏口のドアノブに手をかけていたフロルだったが、ジドの言葉にまたしても足を止めてしまった。
―何故立ち止まる?……私は……。
「ちなみによ、俺もそういう弱いやつは嫌いじゃねえんだ……いつかまたここに来いよ、フロル。今度は酒を飲みにな!」
フロルは黙ったまま振り返ることなく、逃げるように、ジドの言葉を振り払うかのように勢いよくドアを開けて外へ出て行った。
裏口のドアが閉ざされると、店内には傷だらけの男二人が残され、壁時計の針の音が大きく響き始めた。
「おやっさん、すまねえ……俺のせいで……あいつ、初めっから"あれ"を狙って……」しばらくして、苦しそうに呻きながらホセがゆっくりと立ち上がった。「でもおやっさん、どうしたんすか?あんなにあっさり行かせちまっていいんすか?あいつ、ガキらに追いついちまうかも……」
「ホセ、俺の親指……その辺に落ちてねえか探せ」ジドは煙草の煙を天井に向けて吐き出した。「それからティトの死体を拝みに行こうぜ……どんな面でくたばってやがるかよ……楽しみだな。ああ、その後で住人も村に全員戻すぞ。もう避難する必要はねえからよ」
「お、おやっさん……?」
「なあに、心配いらねえよ」ジドは煙草を灰皿に押し込みながらホセに微笑みかけた。「あの女にガキらは斬れやしねえさ……年寄りの出番はもう終わりってことだ……」
◆4◆
徐々に日射しが弱まりつつあるようだ。
裏口を出たフロルは、半ば無意識に"その作業"を行った。
ティトやジドが玄烏賊の洞窟の鍵をわざわざ村に残してはおかないだろうことは予想できており、また、それ自体はフロルにとって大した問題ではなかった。
どうやってテンダたちに追いつくか、丸一日以上のハンディキャップがあると思われるその距離をいかに縮めるかが重要な問題だった。
村へ入る直前、フロルがふと思い出したのは、テンダが王宮から逃走した際に原動付きのボートを使用したということと、"そんなものを持ってるやつは限られている"というリッキーの言葉だった。
ジドの店に入る直前にフロルは店の周囲を回り、ジドであれば恐らくは所持しているであろう"それ"を店の脇に発見し、テンダたちに追いつけることを確信したのだった。
頑丈そうな分厚い武骨なタイヤ。明るいグリーンのフェンダーはフロルの好みとはかけ離れていたが、そんなことを気にしている場合ではない。
このラジアス中で、間違いなく最も速く洞窟内を移動できる乗り物。
オフロード走行を目的としたバイク、"モトクロッサー"と呼ばれるものである。
バイクにまたがり、今しがたジドから奪ったイグニッションキーを差し込み、クラッチを握りエンジンをかける。
手入れは行き届いているようであり、興奮を抑えきれないというような雄叫びを上げながら難なくエンジンはかかった。
―やはり悪党稼業はよほど儲かるらしいな……こんなもの、王宮にさえ数台しかないというのに……。
ふとそんな考えが頭の隅を過った。フロルは数年ぶりに乗るその乗り物の感覚を思いだしながらゆっくりスタートをきった。クラッチの開放にやや戸惑ったが、エンストすることもなく快調にバイクは走り出した。
村の南にある玄烏賊の洞窟へ向かって進みながら、特にその必要はなかったが、フロルはあえて操作の確認する意味で次々とギアを切り替えていった。
しかし、それもやはり半ば無意識の行動だった。
彼女の胸の中には先刻のジドの言葉が渦を巻き、繰り返し繰り返し鳴り響いていた。
"ある日突然自分の弱さに気づいたやつさ。自分の中に蓋があって、それが開いちまったやつのことだよ"
"ガキどもに追いつけたらいろいろと甘えてみろよ!"
―私は……テンダ様たちに追いつけたら……。
住人のいない静まり返った村の、異様とも言える風景を通り抜け、やがてフロルは玄烏賊の洞窟の入り口へとたどり着いた。
―追いつけたとしたら……私は……。
洞窟を塞ぐ鋼鉄の扉の手前でバイクを止めて降りると、フロルは虹の女王を抜き、刀身の根元に中指と薬指を添えた。
―何のために戦うのか……私は何者なのか……。
そして心の中で詠唱を始める。ティトを退けた、雷を剣に宿すあの魔法だ。
―いいや、きっとそれだけじゃないんだ……その前とその後……私は何のために生まれたのか……そして―
詠唱を終え、刀身にあてた指を切っ先の方へすばやく滑らせる。ジ、ジ、ジ、という音とともに虹の女王に青い力が宿った。
それからフロルは扉に切っ先を向けたまま、虹の女王をわずかに後ろに引くと、渾身の力を込めて"突き"を放った。
それは"突き"自体の威力で直接扉を破壊する技ではなく、剣の突きの動作により雷の力を一点に集中させて放つものであった。
放たれた雷は派手な爆発音とともに、扉を跡形もなく粉砕した。
―そして……そして、私はどこへ行くのか……だ。
扉が破壊されたのを確認した後、ゆっくりと洞窟内に一歩足を踏み入れ、フロルは慎重に中の様子を確かめた。やはり照明のようなものはなく、バイクのヘッドライトのみでは進めそうにもない。
素早く詠唱を済ませ、フロルは光の玉を放った。それはテンダが使用したあの光の魔法と同じものである。任務の性質上、それを必要とする場面が多く、フロルは必然的にその魔法を修得していた。
洞窟内に明かりがともるのを確認すると、フロルは引き返して再びバイクにまたがり、快調にアクセルを吹かして洞窟内へと進入して行った。
―自分のために答えを見つけよう……私自身のために……今はそれしかないんだ……。
◆5◆
午後十五時。
玄烏賊の洞窟内の地底湖。
先刻まで激しい死闘が繰り広げられていたこの場所も、今や再び暗闇と沈黙に閉ざされていた。
少年たちは散り散りになった荷物から無事だったものを拾い集め、既にこの場所を後にしていた。
後には使い物にならなくなった荷物と怪物の残骸が、死闘の凄まじさを物語るように散らばっているだけとなった。
しかし、今突如としてこの場所に再び明かりがともされた。
誰にも知られることなく、密かに死闘の一部始終を目撃していた二人の男たちの姿とともに。
「"死の魔法"か……見るのは久しぶりだな。せっかくリャーマが蘇らせたってのによ、これじゃあもう治せねえな。哀れな玄烏賊ちゃんよ」天井付近から地面に下り立ち、地底湖に近づきながら、藍色の仮面の男、ガタカはそう呟いた。「しかし、まあ、危ないとこだったなぁ……ガキら全員死んでもおかしくなかったぜ」
「お前の感想はそれだけか?ガタカよ」次いで地面に下り立った深紅の仮面の男、リャーマは苛立たしくそう言った。「気がつかなかったのか?問題はやはりあの赤い剣だ」
「あ、ああ、あの剣ね……」ガタカは"骨の"指でボリボリと頭を掻いた。下手なことを答えようもんなら、またリャーマの不機嫌むっつりが始まっちまいそうだな、と内心冷や汗をかいていた。「確かに巨大化した……しかしリャーマ、あれが"フラバラッハ"と決めつけるのはまだ早いんじゃねえか?冬の魔法の一種かもしれない……この何千年の間に、人間が俺たちの知らない些細な魔法か術を生み出していたとしても不思議ではな―」
「聞いていなかったのか?あの小僧の言った言葉を、だ!」
言葉を遮られたガタカは、またガミガミが始まるのかと舌打ちし、立ち止まってちらりとリャーマを振り返った。
しかしリャーマはこちらに視線を向けておらず、半ば独り言のようであり、怒っているというよりは興奮しているように見えた。
「小僧の言葉?……赤い剣の小僧の方か?何か言ってたっけ?」
「たまにはそのお喋りな口を閉ざし、耳を澄ませることを覚えろ……」リャーマはそう吐き捨てながらガタカを追い越し、地底湖の前に立った。「"ミシュ"の名を口にした……よいか?断じて聞き間違えなどではない……その名を口にしたのだ」
「ミシュ……だと?」
ガタカは自分の体が小刻みに震えるのを意識した。そして"聞き間違えに決まってる"という言葉を吐き出しかけて、それをかろうじて飲み込んだ。
"同じことを二度言わせるな!"というお決まりの文句が返って来るであろうことは明白だったからだ。しかし、それでもなお、ガタカは聞き間違えである可能性を指摘せずにはいられなかった。
「馬鹿げてるぜ、リャーマ。存在しない名前だ……"二度と人間が知ることのない名"だ……」
「そうだ。その馬鹿げたことが既に二度も我々の目の前で起きているのだ。存在しない剣を持つ小僧が存在しない名を口にしたのだ……」リャーマは右手の骨の人さし指を地底湖に向けた。すると指は急速にその長さを増し、小さな水しぶきを上げながら槍のように鋭く地底湖に突き刺さった。「あの小僧はこう言った……赤い剣に呼びかけたのだ……"ミシュ、力を貸せ"とな……そして赤い剣はそれに応じた……」
「ちょっと待ってくれ、じゃあ、仮にあの赤い剣が正真正銘のフラバラッハだったとしよう。そしてミシュの名を呼んだというのも聞き間違えじゃなかったとする……」ガタカは、所在なく水面を掻き回すリャーマの長い人さし指を眺めながらそう言った。リャーマが感情の乱れを仕草で表すのは極めて珍しい。果たして最後にそれを見たのはいつのことだったか、という考えが頭の隅を過った。「それなら、何故フラバラッハはミシュの名を呼ばれてそれに応じるんだ?わけがわからんぜ?」
「そうでもない。いくつか考えることはできる……」
リャーマの人さし指がぴたりと止まった。
「"アリュ"かミシュが何かしらの手段を使い、あの小僧にフラバラッハを渡した。"ラ・クラフィスの鍵"として使うようにと……」リャーマは指を元に戻し、軽く振って水を切った。「しかし小僧には理解できなかった。あるいはそれを拒否したのか……わからんが、いずれにせよ何かしらの理由で剣とミシュの名だけが残った……」
「あのガキは、あれが何なのかを理解せずに持っていると?だけどよ、呼びかけに応じたということは、剣が主として認めているということだろ?そんなことってあるか?」ガタカは両肩を押さえて、体の震えを半ば強引に静めた。「やっぱりあれは"鍵"なんかじゃ―」
「耳だけでなく、お前は眼の方もまったくの役立たずときているな」リャーマはガタカに向き直った。「見ていなかったのだろ?"死の魔法"が発動した後のことだ……あの小僧と玄烏賊の体は完全に魔法の力に捕らえられていた。しかし小僧の体は湖まで"移動"したのだ」
「そう言やぁ、あの時は……」
ガタカは頬を掻きながら先刻の記憶を呼び覚ました。
テンダが放った魔法、黒い球体は玄烏賊の体を覆い、その玄烏賊の目に突き刺さった赤い剣にはあの少年がぶら下がっていた。
ガタカは黒い球体の美しさと、それを放つ前後のテンダの様子に意識を奪われていたため、いつの間にか少年の姿が消えていたことに気がついたものの、ああ、運よく剣が抜けたんだなという程度にしか考えなかったのだ。
「まさか……"使った"のか?」
「そうだ。紛れもなく発動した。小僧の意思ではなかった。あの剣が自らの意思でそうしたようにしか見えなかった。"生の魔法"……この私と同じ力で、瞬間的に空間を移動したのだ」リャーマは手の平を広げ、それをじっと見つめた。「あの剣はもともと人間が生み出したものだ……本来の存在理由に関係なく、剣が主として認めるということがあったとしてもおかしくはない」
「あんたにしてはやや強引な仮説だが、まあ、そうだな。辻褄は合う……しかしリャーマ、疑問は残るぜ?」ガタカはリャーマに一歩詰め寄った。「それなら、あの小僧たちは何故一緒にいる?テンダって娘は赤い剣を見て驚いていた。小僧らは"死の魔法"を知っている風ではなかった。あいつらはお互いの正体を知らず、"鍵"が二つ揃っていることに気づかずに、まったくの偶然で一緒にいるってのか?何かがおかしいぜ?」
「何かがおかしい、か……」リャーマは再び地底湖へ向き直ると、今度は右手の指すべてを伸ばし、鋭く水面に突き刺した。「特別に何もおかしくはないのかもしれんぞ」
「何だって?」
「あるいは、我々にとって、最も不愉快な真実が存在しているのかもしれんな」
「……何の話だ?」
リャーマはその質問に答えず、しばらくの間黙って五本の指で地底湖を無造作に掻き回していたが、しばらくして突然ぴたりと手を止めた。
「ガタカ、あの小僧どもは玄烏賊が現れるのを予め知っていたかのようだったな?」
微かな水しぶきの音。リャーマの指が元に戻った。
「ん?……そうだったか?」再びガタカは記憶の糸をたどった。言われてみれば、少年たちはフロアに侵入した瞬間から既に疾走していたようにも思えた。「まあな……でもよ、さすがに考え過ぎじゃないか?玄烏賊の伝説にびびってただけじゃねえの?」
「……"人間の夢"とやらかもしれん……」
リャーマが手の水を払いながら呟いた。ガタカの胸にその言葉が鋭く突き刺さった。
「人間の夢だと?」
それきり、しばらくの沈黙が訪れた。お互いにお互いが今何を考えているか手に取るように理解できた。あの日のことを思い出しているに違いなかった。
それは悠久の彼方の記憶。自分たちの両腕が"骨"と化したあの日のことだ。
「リャーマ、さっきの話だけどよ……」やがてガタカが静かに口を開いた。「ミシュの名だけが何故か残ったってやつさ……それはつまり、アリュが既に死んだってこと―」
ガタカは言葉を飲み込んだ。いつでも藍色の仮面ごとお前の眉間を貫けると言わんばかりに、文字通り目の前に、伸びたリャーマの人さし指が突きつけられていた。
「それを口にするな……二度と」
「いいや、言わせてもらうぜ!」ガタカは間髪入れずに言い返した。「あんたが言った、"いくつか考えられる"の筋書きの中にはそれも含まれるんだろ?アリュが既に死んでいるかもしれないって可能性だ!」
「だとしたら何だというのだ?」リャーマは指を元に戻し、ガタカに背を向けた。「成すべきことに何も変わりはない……よもやミシュの名に怯え、このままこの星で人間のようにひっそりと生き続けるとでも?誇りも、名も捨てて……」
「……俺はよ、時々考えることがあるんだ」ガタカはリャーマの肩に手をかけた。「もう何もかも投げ出しちまってもいいんじゃないかってな……こんな体のままでも構わない。例えば、俺たち二人で人間の世界を支配してさ、力だけが正義だった時代に戻してやるってのも面白ぇし……もしそうしたとして、一体誰が俺たちを責められる?そうだろ?」
「ガタカ……」リャーマはガタカの手を振り払いながら振り返った。「まるで人間のようだな……話にもならん。そのような考えは捨てろ。私はお前を殺したくはない」
「……あっそ。ならいいや……わかったよ……」ガタカはリャーマから視線を外し、地面にへばりついている玄烏賊の肉片を踏みにじった。「もう行こうぜ。じきにフロルも追いつきそうだしよ」
「ガタカ、理解しているか?我々の成すべきことは"復讐"ではなく"決着"なのだ」
「"理解している"よ!もういいっつってんだよ」
リャーマは無言のまま、うつむいているガタカを眺めていたが、やがて両手をマントにしまい、ガタカに背を向けた。
「そうか。では行くぞ」
そして仮面の男たちは姿を消した。
音も光もなく突然に。
地底湖は再び暗闇と沈黙に閉ざされた。
◆6◆
時刻は午後十八時半。
あの忌々しい地底湖から数キロ先にある開けた場所に彼らはいた。
いにしえの怪物を退け、九死に一生を得た二人の少年と一人の少女は、焚き火を囲み無言で座り込んでいた。
玄烏賊を倒し、使えそうな荷物を集め、(思いのほか、あの醜い触手に潰されてしまった荷物は少なかった)その場を後にした。
荷物を拾い終えたあたりから三人とも次第に口数が減り、歩き出す頃にはまったくの無言だった。
生還の興奮は時間が経つに従い冷めていき、代わりに半ば麻痺していた疲労が三人を襲い始めたからである。
とりわけ、かつて試したことのない"量"の魔法を使用したテンダの消耗は著しく、時折スピナかプロップに支えられながら何とか歩を進めるという状態だった。
すぐにでもテントを張り、焚き火を起こして休息を取りたいところではあったが、玄烏賊の残骸だらけでもあり、およそ安全とは言い難い地底湖のフロアで休むわけにはいかず、何とか歩を進め、やっと開けた場所に到着した次第だった。
焚き火の炎の中には、それを見つめる三人のそれぞれの思考が、それぞれの瞳でしか見ることのできない映像としてそこに映し出されていた。
―ミシュ、君は……。
玄烏賊の肉片と体液により悪魔のスープと化した地底湖にどっぷりと浸かり、悪臭の根源と化してしまった体を、水筒の水で濡らした布で隅々まで拭き、もはや使い物にならなくなった衣類を脱ぎ捨て、予備の衣服(お洒落に無頓着なためほぼ同じような服だが)に着替え、ブーツを焚き火の前に置いて乾かしながら、スピナの瞳は炎の中に"あの瞬間"の映像を繰り返し見ていた。
―おいらを助けてくれた……でも君にあんな力が?
それは玄烏賊の目に突き刺さった剣につかまり、両足をばたつかせながら、さてどうしたものかと思案していたあの時のことだった。
何やら半透明な黒い光が、ばりばりと音をたてながら自分と玄烏賊の体を取り囲んでいることに気づき、それがテンダの"とっておきの魔法"であるということ、それがどのような効果のある魔法であるにせよ、このままでは自分も巻き込まれてしまうのだろうということを理解したが、かと言ってこの状況から脱出する手段がまったく思い浮かばなかった。
―おいらこのまま死んじまうのか?ミシュと心中ならそんなに悪くないかな……でもあの女の魔法でってのは何だか気に食わないな……。
そんな考えが頭を過り、次第に絶望が心を支配していった。プロップとテンダの叫び声が聞こえたような気がしたが、それはまるで遥か彼方、どこか別の世界の音のようであり、むしろ絶望に輪をかけただけだった。
もはや両腕の疲労も限界に近い。剣をつかんでいられるのも後わずかだと思えた。
―ミシュ、許してくれるか?……約束、全部は守れないみたいだ……死んだ後でも、いつかどこかで君に会えないかな?……よくわかんねえけど、天国とか来世とかでさ。
そう思い、最後にミシュの顔を可能な限り鮮明に思い浮かべようと瞳を閉じた瞬間だった。
―え……?ミシュ……?
両腕を通して突然に"意思"が心に流れ込んできた。スピナは驚いて目を開けた。
ミシュが意思を伝えてくるのはこれが初めてのことではない。と言っても直接的に声や言葉を伝えてくるわけではなく、いつもその"意思"か感覚的に伝わるだけなのだが、その瞬間伝わってきた意思を強いて言葉にするならばこうだった。
"まだ終わりじゃない!"
剣がまばゆい一瞬の光を放ち、スピナは再び瞳を閉じた。
そして次の一瞬で既にそれは終わっていた。
スピナが再び目を開けると、視界にはひたすら暗闇が広がっているだけだった。
そして何故か両目が激しい痛みに襲われ、またしてもスピナは目を瞑った。自分が水中にいるのだとようやく理解できたのは、鼻で思い切り水を吸い込んでしまった時だった。
海水の塩辛さが喉と鼻を襲い、口からブフォと水泡が吐き出された。
―やべぇ、溺れる!……何が起こった?ミシュ?……君の力……なのか?
水面までどのくらいの距離があるのかまったくわからないという焦燥感。体を突き刺すように襲う水の冷たさ。水を吸って次第に重くなっていく衣服は、まるで自分の体を奈落の底へ引きずり込もうとする亡者の群れのようだ。
スピナはこれらの恐怖と必死に戦いながら、無我夢中でひたすら両腕を動かして水をかいた。
そしてもう息が続かないと半ば諦めかけた頃、ようやく水面から顔が飛び出した。
―あ!ミシュ!ミシュ?……どこだ?
今になって思えば自分でも少し呆れてしまう。後でプロップにこの話を聞かせたら、やはり呆れ顔でくどくど文句を言うだろうなとスピナはこの時のことを思い返して苦笑した。
水面から顔を出し、ガス欠寸前だった肺を回復させた後、スピナが真っ先に考えたのは、赤い剣はどこに行ったのかということだったのだ。
つい先ほどまで自身の命が風前の灯火であったことなど一瞬のうちに露となって消え、代わって剣を失う恐怖が心を支配した。
―水ん中に沈んだとしたら?……クソッ!もう探せない?……そんな馬鹿な!
慌てて辺りを見渡すと、真っ黒な水面に玄烏賊のものと思われる無数の肉片が散らばっている光景が広がっていた。
そのおぞましさに思わず身を震わせ、これはテンダの魔法の結果なのかという疑問が頭を一瞬だけ過ったが、その時のスピナの脳にとっての最優先事項は"こんなにゴチャゴチャしてたら剣を探すのはやはり困難だ"という怒りと焦燥だった。
―ん?……あれ?
それは無意識の行動だった。とるに足らない、人間として当り前とも言える反射的な行動。とりあえず最初に行う確認の作業。物を紛失した際、そこにある可能性がゼロだとしても、その物が日常的に必ず置いてある場所をまず探すという習性。
腰に下げている鞘に手を触れると慣れ親しんでいる感触が返ってきたのだ。
―ミシュ!ある!ある!あるぞ!ここにあるんだ!
それが自分の思い込みなどではないことを確かめるために、スピナは未だ水面下にある自分の左の腰にあるそれを何度も手で叩いた。
―間違いない!ある!ミシュ、凄えよ!自分で鞘に戻ったのか?……さすがだな!
うははという笑い声が自然と口からもれた。そして鞘を腰から外し、水面の上までそれを持ち上げ、確かに鞘に収まった赤い短剣を目視した。
―ミシュ、おいらやっぱり君が大好きだ!
スピナは目を瞑り、そっと優しく剣を抱きしめた。
―ありがとう……ごめん……二度とあきらめたりしないから……絶対に……。
しばらくそうしていると、ふとプロップとテンダの声がかすかに耳に入ってきた。
「あ……そう言えばこの状況……」
はっと我に返り、スピナは口に出してそう呟いた。そして剣を腰に戻すと、平泳ぎで湖の淵に向かって進み始めた。
―結構上まで高いな……水の冷たさで体も痺れてきたしよ……。
「おい!プー!」自分ひとりの力では上がれそうにないとスピナは判断した。「近くにいるのか?聞こえるか?早く来い!このノロマめ!」
ややあってプロップが駆けつけ、ようやくスピナは生還を果たすこととなったのである。
回想を終え、スピナは焚き火から目を離し、傍らに置いてある赤い短剣に触れた。
―君にあんな力があったなんて……一瞬でおいらを湖の中に移動させた……んだよな?
ところで、とスピナはプロップとテンダの顔を一瞬ちらりと見た。
―プーたちはおいらが"消えた"瞬間を見てなかったのか……?未だに何も聞いてこねえってことはやっぱ見てなかったんだろうな……あの女、なんかゲロとかしてたし……まあ、それならそれで好都合だな。あの女にミシュのことを詳しく話すわけにはいかねえし、プーにだって別に今すぐ話さなきゃいけないってわけでもねえしな。
それはさておきとスピナは赤い短剣に視線を戻した。
―ミシュ、君は何で今までその力を隠してたんだ?
赤い短剣は何も答えなかった。
―それを使えばさ、この前の潜入の時に、あの仮面のおっさんに見つからずにすんだのにさ。
スピナは焚き火に目を戻した。今度は炎の中に深紅の仮面の男の姿が映し出された。
―そう言えば、あいつはここにいるのか?……この洞窟のどこかに?
昨夜現れた幼女の幽霊、メリッサが話した通りに玄烏賊は現れた。とすれば、彼女の言った"かめんのおじさんがおっきいいかをいきかえらせたんだって"も信憑性が高いことになる。スピナは腕を組んだ。
―やっぱり、おいらたちを殺すのが目的なのか?"しっこくのナントカ"だけじゃなくて、仮面のおっさんもおいらたちを追ってる、おいらたちがこの洞窟にいるってのはばれてる……ってことだよな。
スピナは再びプロップとテンダの顔をちらりと見た。無言でぼんやりと炎を見つめている二人の表情には、"我々は心身ともに疲れ果てており、それを表情に出さないよう努める気力すらありません"とはっきり書いてある。
―でもよ、もし仮面のおっさんが近くにいるとしたら、どうしてさっさと襲って来ない?おいらたちはボロボロだ……寝込みを襲うつもりなのか?それとも、イカをバラバラにしたあの女の魔法を恐がってるのか?いや、待てよ……そもそも仮面のおっさんがこの洞窟に入れるわけがない……よな。そうだよな……。
果たして本当にそうか?とスピナの直感が問いかけてきた。
―いや、やっぱり油断はできねえ……か……仮面のおっさんはどこか離れた場所からイカを生き返えらせたと考えるのが自然だけど……だけど、あいつなら……。
炎の中にいる仮面の男とスピナの目が合った。深紅の仮面越しに、天井越しに目が合ったあの瞬間のあの悪寒がよみがえった。
―あいつならどんなことだってできちまいそうだ……既にこの洞窟にいて、どこかからおいらたちを見ているのかもしれねえ……。
「あのさ、ちょっといいか?」
突然に沈黙を破ったスピナの声に、プロップとテンダは驚いたようにスピナを見た。
「疲れてるとこ悪いんだけど―」
仮面の男がここにいるかもしれない、決して油断することなく、いつ何が起きてもいいように心の準備をしておいてくれ、とスピナは話を続けようとしたが、二人の表情を見て言葉を飲み込んだ。
「いや、やっぱ何でもねえ……悪りぃ……」
スピナは片手を軽く振ってそう言った。プロップとテンダは特に何も言わず、表情も変えずにまた焚き火に視線を戻した。
―今すぐに言わなくてもいいか……おいらがしっかりしてればいいんだ。
改めてプロップとテンダの疲れて果てた表情を見た途端、スピナは、たとえわずかでも何かしらネガティブなことを伝えるのが何だか気の毒に思えて仕方なかった。
―今はゆっくり休ませてやろう……全員無事だったんだ。まあ、この女は相変わらずむかつくやつだけど、一応こいつの魔法が決め手になったわけだしな……。
焚き火に視線を戻すと、今度は炎の中にメリッサの姿が映し出された。
―メリッサ、君の"おことづけ"のおかげで助かったよ……ありがとうな!
スピナは炎の中のメリッサに心の中で優しく言葉をかけた。結果として玄烏賊との戦闘は避けられなかったが、スピナがしっかりと警戒していなければ、恐らく最初の攻撃でテンダはやられてしまっていたに違いない。
"おにいちゃんは、おねえちゃんをたすけられてうれしかったのお?"
炎の中から、メリッサがいたずらっぽい笑みを浮かべてそう問いかけてきた。スピナは驚いて目を見開いた。
それはメリッサの姿を借りた自分の"本心"の声であることにすぐに気づき、そして次の一瞬の内にそれを無理矢理否定した。
―そりゃそうだろ!やな女だけど、さすがに目の前で死なれたら寝覚め悪りぃしよ……報酬だって……そう、そうだ!報酬が貰えなくなっちまうじゃねえか!
スピナは心の中で必死に叫んだ。炎の中のメリッサを早く追い払ってしまいたかった。
"ばいばい、おにいちゃん!"
にっこりと笑いながらメリッサはそう言って姿を消した。それきり炎の中にはもう何も映し出されなくなった。
―あ……メリッサ……。
寂しさのとげが胸を刺す。スピナはさっさとメリッサを追い払ってしまいたいと思ったことを後悔した。そして今さらながら、心の中に彼女に対する哀れみが芽生えていることにはっきりと気がついた。
昨夜は混乱もあり、それをはっきりと感じることはできなかったが、玄烏賊と実際に遭遇した今ならはっきりと感じることができた。
"ずっとむかしにおっきいいかにたべられちゃったんだって"
彼女は確かにそう言っていた。つまりあの愛らしい少女は、数えきれないほどの鋸のような牙が蠢く、あのおぞましい玄烏賊の口に飲み込まれたということだ。
スピナはその様子を想像し、胸が苦しくなった。しかし、その口振りからすると、彼女は死の瞬間のことを覚えていないのかもしれないという考えがその苦しみを和らげてくれた。
―そうさ……何があったにせよ、最後にメリッサは……。
スピナは別れ際のメリッサを思い出した。あの、涙に濡れながらも満ち足りていた至福の笑顔を。
―最後にメリッサは"居場所"にたどり着いたんだ!そうさ。一番の居場所に。一番望む居場所に。一番好きな人がいる場所に……そうだろ?
スピナは自分でも気づかない内に優しく微笑んでいた。
―お父さんとお母さんのことが大好きだったんだよな?……そうさ、おいらは君が羨ましいくらいさ……おいらも大好きな人がいる場所を探してるんだから……。
苦しさは消え、スピナの胸の中は暖かさで満たされた。それからしばらくの間、肉体の疲労すら忘れてしまうほどの暖かさだった。
さて、一方では、そんなスピナとは対照的な思いで炎を見つめている者もいる。
プロップの魔法で顔や足の傷は消えた。布で体を丁寧に拭き、下着と肌着も着替えた。
しかしテンダの心は一向に晴れることはなく、どんよりと曇ったままだった。
この場所にたどり着いた際に、ちょっと早いけどもう寝たらどうかとプロップが提案したがテンダはそれを断った。
確かに体は鉛のように重くなっている。しかし"あること"が歯痛のように頭から離れず、とても眠れそうにはなかったのだ。
テンダの瞳が見つめる炎の中には、自らが放った魔法の黒い球体の映と、スピナが"ゲロ吐いたのか?汚ねえな"と自分に向かって言った時の顔が交互に映し出されていた。
―あの魔法をどんぴしゃの"量"で、しかもたった一回で成功させたあたしはエラい……すっごくエラい……果てしなくエラい……まぶしいほどの天才と言っても過言じゃない……それは間違いない……それは絶対にこの二人にもわかっているはずだわ……。
テンダは繰り返しそう自分に言い聞かせていた。
スピナが生還した後、こらえることなく彼女は泣き続けた。そして涙が出尽くした後、テンダを襲ったのは半ば麻痺していた疲労と、心の底から溢れ出す"羞恥心"だった。
―男の子の前でゲロしちゃった……。
プロップにはその瞬間を見られた。スピナにはその残骸を見られ、あろうことか"汚ねえ"と言われてしまったのだ。
―あのサルは一発殴ってやったけど……でも、プーちゃんもあいつも、きっとあたしのこと……。
ここに来るまでの間、仕方なく時折二人に体を支えて貰ったのだが、その度にテンダはいっそこのまま自分を置き去りにしてくれないかとさえ思った。
―あたしのこと"ゲロ女"って思ってるんだわ……仕事だから仕方なくそうしてるだけで、本当はあたしに触りたくないのよ……あたしが寝た後で、二人でこそこそとあたしの悪口を言うに違いないわ……"気持ち悪りぃな、あいつ"って……。
そしてテンダは、すかさず言い訳を心の中で早口にまくしたてた。
―でも、あの玄烏賊との戦いであたしは一番活躍したのよ!最優秀殊勲賞はこのあたし!二人ともあたしのことを尊敬してるはずだわ!そうよ……ゲロのことは帳消しに……。
しかし、テンダの思考は再び同じ所を回り始める。
―ううん、やっぱ帳消しにはなってないかも……ゲロの後で魔法ならともかく、魔法の後のゲロなんだから……後の行為の方がより印象に残るのよ!ああ、もう嫌だ……裸を見られた方がまだましかも……でも玄烏賊にとどめをさしたのはあたしよ!一番頑張ったのはあたし―
こうして、テンダは延々と孤独な戦いを繰り返していたのだが、幸いにも休戦の機会が訪れた。
スピナが突然口を開き、ちょっといいか?と言った時である。
半ば反射的にスピナに視線を移したが、スピナはばつが悪そうにやっぱり何でもないと口をつぐんだ。
何なのよ?と内心舌打ちをしながら再び焚き火に視線を戻した時、テンダはそこに移る映像が変化していることに気がついた。
スピナの顔を見たことで、別の思考に切り替えることができたのである。
今炎の中には映し出されているのは、スピナの持つ赤い剣の映像だった。
玄烏賊の触手に足を捕らえられ、容赦なく地面を引きずられていた状態から救出された時の記憶。触手を斬り裂いた大剣の姿だった。
テンダは炎から一旦視線を外し、ちらりとスピナの傍らに置いてあるその剣を見た。
―今は短剣……間違いなく短剣よね?……昨日もただの短剣だった……一昨日初めてあった時は大剣だった……瞬時に巨大化するってわけ?そんなの聞いたことないわ……。
テンダはそれについて質問しようかと少し考えたが、やはり黙っていることにした。
一昨日と昨日の会話の中で感じたことだが、彼らは旅の目的を秘密にしているような節がある。そして旅の目的と赤い剣は無関係とは考えにくい。
となれば、訊ねたところで教えてくれる可能性は低そうだと考えたのである。
―それにあたしにだって秘密はあるわけだしね。"あの魔法"を使うところを見せちゃったわけだけど、報酬の中に口止め料が含まれてるから二人とも未だにそれについては何も聞いてこない……あたしだけ秘密を聞き出そうとするのは何だかちょっと気が引けるわね……。
そう考え、テンダは自嘲気味にふっと笑った。そして彼女の心は平静を取り戻しつつあった。
しかしその後、あろうことかテンダは自ら墓穴を掘ってしまった。
―口止め料……報酬……。
テンダの思考は、一旦は忘れかけた戦場へ再び舞い戻ってしまった。炎の中の映像も元に戻っていく。
―報酬があるから、あたしに優しくしたりもする……体を支えて歩くのを助けたりするのも報酬があるから……それがなければ"ゲロ女"には触りたくないって思ってるんだわ!そうよ、それが本音よ!あたし一番頑張ったはずなのに何だか損してるわ!そうよ、玄烏賊に勝てたのはあたしのおかげで―
さて、もう一人の少年に視点を移そう。
プロップの瞳は焚き火の中にどのような映像を見ているのだろうか。
玄烏賊との戦闘において、プロップは三人の中で肉体的ダメージが最も少なかったと言える。
長時間天に掲げたままだった両腕の痛みを除けば、後は魔法の使用により体力を多少消耗しただけであり、外傷としては擦り傷ひとつ負ってはいない。
従って特に着替える必要もなく、濡れた布で汗を拭いただけですんだ。
そんなプロップは炎の中に、テンダが玄烏賊に放った、あの"とっておきの魔法"の映像を見ていた。
幼少の頃から魔法に興味を持ち、魔法に関するあらゆる本を読み、学校の魔法教師と授業外でも多くの話をしてきた(しまいには煙たがられるほどに)プロップであったが、あのテンダの魔法はまったく未知のものであった。
―考えられない……あれは、まるで……何ていうか……。
魔法が発動した瞬間に感じた感覚をプロップは必死に思い起こした。強いて言葉にするなら"風"となるあの感覚。しかし今、"風"よりも適切な言葉が後わずかで浮かびそうだった。
―そう、あれは……"風"じゃない……"空気"?いや、違う……もっと強くて絶対的な重さ……あ!
プロップは快感にも似た感覚を覚えた。喉に引っかかっていた小骨が取れてすっきりとしたような感覚。
最も適切な言葉を導き出すことに成功したのである。
―そうだ!重さ!"重力"だ!……あの感じ……"重力"が変わった……でも、そんなことがあり得る?重力を操る魔法だって?
プロップはその魔法について質問してみようかとテンダの顔をちらりと見たが、やはり黙っていることにした。
テンダの顔には、"あたしは疲れています、小難しい話を持ちかけてくるやつには、その腹に拳もしくは膝をめり込ませます"とはっきり書いてあったからだ。
―って言うかそもそもテンダさんやティトさんについて何も詮索しないって約束になってるわけだし、まあいいか……それに僕らだって旅の目的やスピナの剣については秘密にしてるわけだしね。
プロップはふうとため息をついた。すると突然スピナが、ちょっといいか?と口を開いた。
反射的にスピナに視線を移したが、彼はやっぱり何でもないと口をつぐんだ。
―スピナのやつ、何を言おうとしたんだろ……?
それはわからなかったが、恐らく自分とテンダの疲れ果てた表情を見て言葉を飲み込んだのだろうということはわかった。
―珍しく他人に気遣いを見せたわけだ……。
プロップはそんなスピナを微笑ましく思った。ここ一週間ほど異常な出来事が立て続けに起こっているが、その中でスピナもちょっとずつ成長しているのかもしれないと、そんなことを思った。
そして焚き火に視線を戻すと、プロップは炎の中に移る映像を違うものに変化させた。
それはスピナの顔を見てふと思い出したということだけでなく、自分も他の二人に何か気遣いをしなければというプロップの"習性"とも言える性格がそうさせたのだった。
―そう言えばスピナのやつ、あの時……。
それは最初にテンダが玄烏賊の攻撃を受けた時の記憶だった。
赤い剣を大剣に変化させ、大声で叫びながら必死に触手に向かって行くスピナの背中の映像である。
―よし、何とかこの重苦しいムードを変えよう!
「ねえ、今日は最悪な一日だったけどさ、ひとつだけいいことがあったよね?」プロップはおもむろにそう切り出した。スピナとテンダの視線が自分に向けられるのを意識した。「気がつかなかった?スピナが初めてテンダの名前呼んだってことにさ。ほら、玄烏賊にテンダが捕まった時さ!」
プロップはスピナとテンダの顔を交互に見ながら何かしらの反応を期待したが、二人とも氷のような無表情を浮かべたまま一切の反応を見せなかったため、ばつが悪くなってしまった。
「ほ、ほら、覚えてないかな?スピナが叫んだんだよ!"危ない!テンダ、避けろ!"ってさ」
必死に誘い笑いをしながらプロップは再度二人の顔を見たが、依然として二人とも無反応だった。
―ち、ちくしょう!引き下がらないぞ!
「抱き合ったり、お手手繋いだり……これで後はテンダがスピナの名前を呼んだら、君たちはすっかり仲良しさんってわけさ!」
プロップは、笑えるだろ?と示すかのように両手を上げて、二人を見たが、やはり彼らの氷の無表情が溶けることはなかった。
やがてスピナとテンダはほぼ同時に視線を焚き火に戻し、プロップの弱々しい誘い笑いだけが取り残されてしまった。
「そっか、二人ともすっかり照れちゃったんだね」
半ば自暴自棄になったプロップの、実質的な独り事は続く。
「そっか……まあ、何て言うか……」
次第に声は弱まり、笑顔は冷めていった。
「その……悪かったよ……でも、何か一言くらい言ってくれても……いいじゃないか……」
そしてプロップのため息を最後に、三人の空間は沈黙に閉ざされてしまった。
約一時間後に、"それじゃ、あたし先に寝るね"とテンダが口を開くその時まで。
◆7◆
"その時"はすぐそこまで迫っている。
束の間の休息を取っているスピナたちはまだそれを知らない。
時折休息をとりながら、モトクロッサーで夜通し洞窟内を進み続ける黒衣の女、フロルもそれを知らない。
洞窟内で密かにスピナたちとフロルの様子を眺めている仮面の男たちだけがそれを知っている。
舞台の上に重要な役者が全員揃うその時が、すぐそこまで迫っているということを。
重なった"線"の"点"になる地点がすぐそこまで迫っているということを。
間もなく日付が変わろうとしている。
やがて訪れた"その日"は、玄烏賊の洞窟の長い歴史において最も特別な日となった。
◆8◆
マクスカ王女の婚約記念パーティー当日、スピナとプロップが初めてテンダと出会ったあの日。フロルが、テンダの"もっと違う別の何か"の魔法を見たあの日から数えて四日目。
ついにその日が訪れた。
時刻は午前八時。
時折休息をとりながら、黒衣の女、フロルは快調に玄烏賊の洞窟を進んでいた。
ジドから奪った"モトクロッサー"はフロルの想像以上の性能を発揮してくれた。
オフロード用バイクにしてもタイヤの耐久力は高く、少々の岩や段差は軽々と越えられた。一本道の洞窟ということもあり、さほど苦労することはなかった。
途中数ヶ所で、テンダたちのものと思われる食事と焚き火の痕跡を発見し、それらの乾き具合を調べたところ、テンダたちとの距離は順調に縮まっており、恐らく後わずか、上手くいけば今日の夕方までには追いつけるのではないかと予測できた。
相変わらず体調も良い。ティトとの対峙の後に突然気を失い、目を覚ました後から続く不思議な体調の良さが今もなお身体を包んでいた。
さすがに洞窟内でわずかながらの睡眠もとったが、このまま休まずに日中走り通しでも問題なさそうなほどに体は軽い。
精神的な疲労もほとんどなかった。ティトやジドの言葉が心に引っかかってはいたが、上手くそれらから目を逸らすことができた。今はただ前に進みたいというその一心だけだった。
―そう……私は早く追いつきたいと望んでいる……。
フロルはそれを否定せずに受け入れた。
―仕事だからか?……違う。テンダ様の"あの魔法"を見てみたいのか?……いや、違う。
目の前にやや高い段差が立ち塞がった。ギアを低速に入れ、繊細なハンドルさばきとアクセルの加減、迷いのない体重移動でフロルはそれを難なく乗り越えた。
―答えを見つけたい……少なくとも、答えを見つけるために行くべき道を知りたい……そうだ、今の私はそれを望んでいる……上手く語れないから……私は剣でしか語れないから……。
ふと何かの音が耳に入り、フロルはブレーキをかけた。耳を澄ませ、それが水の流れる激しい音であることに気づき、エンジンを停止させた。
―地底湖か……玄烏賊とは、確かそこにいたとされる伝説の怪物だったな……。
それほど詳しいわけではなかったが、フロルはその伝説を知っていた。バイクから降り、スタンドを立てて駐車すると、慎重に音のする方へと歩を進めた。
と言っても玄烏賊を恐れたわけではない。フロルは玄烏賊の伝説はおとぎ話に過ぎないと思っている。
地底湖のあるフロアが安全であるか、このままバイクで進めるかどうか、恐らくは広い場所と思われるため、何者かがどこかに潜んでいないか、などを確認するためにバイクを降りたのだった。
―何だ……?
突如として異臭が鼻をつき、フロルは足を止めた。
"腐敗した水"。その臭いを強いて言葉にするとすればそうなるだろう。
フロルは虹の女王の柄に手をかけながら再び歩き出したが、地底湖のフロアにたどり着いた時、目の前に広がる光景の凄惨さに圧倒され、思わず剣から手を放してしまった。
―何だ……これは?
バラバラに飛び散った肉片。不気味に横たわる巨大な触手。黒く染まった湖。常人ならば、嘔吐して一目散に来た道を引き返すであろう地獄絵図。
フロルがまず真っ先に考えたのは、これが何の残骸なのかということだった。
―まさか玄烏賊が実在しているとでも?……馬鹿馬鹿しい。ただのおとぎ話だ……。
だが、とフロルの合理的な部分が反論する。どう考えても複数のモンスターの残骸には見えない。となると、よほど巨大なモンスターということになるが、現代においてそれほどのサイズのモンスターの存在は噂ですら聞いたことがない。
―馬鹿な……こんなことが?
そこまで考えて、フロルの全身に鳥肌が立った。残骸の正体よりも、より重要でより恐ろしい問題があることに突然気がついたのだ。
―"これ"が今起きていることは偶然か?……そして"これ"をやったのはテンダ様たちなのか?
現在自分に与えられている"仕事"には謎が多く隠されている。それも"巨大何か"が秘められた謎だ。玄烏賊が実在していたとして、それが現れたのは果たして偶然だろうか?いや、それは考えられないとフロルは唾を飲み込んだ。
―だが、偶然でないとすれば一体何だと言うのだ?この仕事には、伝説の怪物が現れるほどの"何か"が関係していると……?
そして"これ"をやったのは一体誰で"何の力"なのか、という考えが武者震いを呼んだ。
―テンダ様のあの魔法か……?
三日前に見たテンダの魔法は、強いて言うなら"瞬間移動"というものだったが、この怪物をバラバラにした力はその魔法の応用なのかもしれない、とフロルは確信に近い結論を出した。
"かわせるか?"
体の震えは治まり、代わって微かな頭痛と脂汗が現れた。
出し抜けに頭の中に響いたのは忌々しいあの声、"三人目"の声だった。
―大人しく引っ込んだと思っていたのだがな……。
フロルは三人目に挑発的な声でそう言った。
"質問に答えろ……怪物をバラバラにした力が何であれ、それをかわせるか?試してみたくはないか?"
―お前の方こそ試してみないか?
間髪入れずに言い返したフロルの言葉に、かつてないほどの強い意志を感じ、三人目はうろたえた。
"何だと……?くだらん話し合いなど―"
―逃げるんじゃない!
フロルは虹の女王を素早く鞘から抜き、力強く地面に突き立てた。
―逃げるんじゃない……質問に答えろ。
"何を試すと言うんだ?"
三人目の声はか細く、わずかに震えていた。フロルの声に、自分の存在を消しかねないほどの力を感じていた。
―一体誰がマスターなのか……試してみないか?
"へえ、どうやって?"
そこへ突然"二人目"が現れた。相変わらずの皮肉屋は少し嘲笑混じりにそう問いかけた。頭痛がますますひどくなってきた。
―……テンダ様たちに会うのだ。
"どうしてそれが試すことになるんだ?"
―わからない……。
"何だと?話にならない!"フロルがやや言い淀んだため、三人目が強気を取り戻した。"話にならないって言ってるんだ!"
―真実の一端が見える……そんな気がするんだ……それに……。
"それに、何だ?"
―……いや、何でもない。
フロルは昨日のジドの言葉を思い出していた。"いろいろと甘えてみろ"という言葉。しかし、今の自分の気持ちを"他の二人"に何と言って伝えればいいのかがわからなかった。
"私は賛成だ"何がおかしいのか、くっくと含み笑いをしながら二人目がそう言った。"真実を見て決着をつければいい……もう頭痛はたくさんだ!そうだろ?"
"……いいだろう"三人目は渋々といった口調でそう吐き捨てた。"私も頭痛にはうんざりしてたとこだ"
「決まりだな」
フロルは口に出してそう呟くと、虹の女王を鞘に収め、踵を返し、モトクロッサーを停めた場所へと引き返した。
いつの間にか頭痛はすっかり消え失せていた。
◆9◆
「ねえ、今何か聞こえなかった?」
当然だが、彼らにも"その日"は訪れている。
午前八時半。
洞窟内の一本道を歩く三人の姿があった。
三人の間には長らく沈黙が落ちていたが、最後尾を歩くプロップが突然立ち止まってそれを破った。
先頭のスピナとその後ろを歩いていたテンダは、ほぼ同時に足を止めて振り返った。
「何かって、何よ?」
テンダが気だるそうな声でそう聞き返した。睡眠は十分とったはずなのに、まだ昨日の疲労は完全には体から抜けていなかった。
「何か、こう、"ぶうん"って音。遠くで鳴ってるような……」
プロップはそう答えながら、来た道を振り返った。
「止まるな!先を急ぐぞ!」
道の先を指さし、スピナは苛立たしくそう言うと、二人の返事を待たずにさっさと歩き出した。
「ちょっと待ってよ!確かに聞こえたんだってば!」
両手を振ってプロップは必死にそう訴えたが、スピナは一顧だにせず歩き続け、やがて角を曲がって姿を消した。
テンダとプロップは一瞬だけ顔を見合せた後、慌ててスピナを追いかけた。
「ねえ、ちょっと待ってよ!」角を曲がり、テンダはスピナの背中を睨みつけた。「何をイライラしてるわけ?」
「何度も同じことを言わせんじゃねえよ!」スピナは、一瞬だけちらりとテンダを振り返っただけで、一向に歩みを止めようとはしなかった。「まだ何か起こるかもしれないんだ!"あいつ"がここにいるかもしれないんだ!」
「それはわかってるけど……」
ばつが悪くなり、テンダは口をつぐんだ。
昨日は交代で睡眠をとった。一昨日と同じく、まずテンダとプロップが休み、スピナは見張り番。二人が起きた後で今度はスピナが休むという順番だった。
見張り番を交代する際、スピナは今のうちにいらない荷物をすべて捨てて、自分が起きたらすぐに出発できるよう食事も支度もすませておけ、自分は既にそうした、と強い口調で二人に言った。
何を焦っているのかと反論した二人だったが、スピナの言い分を聞いて納得し、彼に従うことにした。
スピナの言い分とは、幽霊の話通りに玄烏賊は現れたのだから、仮面の男がどこか近くにいる可能性もあり、また危険なことが起こるかもしれない、できるだけ早く出口にたどり着きたい、というものだった。(いい加減おいらの幽霊話を信じる気になっただろ?というスピナの言葉が二人の胸をちくりと刺した)
やがて起床したスピナはさらに、すべての薪と食料の大半を置いていこうと提案し、不安がる二人を急かして強引に洞窟進行を再開させたのだった。
「スピナ、警戒するのはわかるけどさ、ちょっとくらいリラックスしようよ」二人に遅れて角を曲がって来たプロップがそう言った。「今さらかもしんないけど、君の幽霊話を疑ったりして悪かったよ」
「そんなんでイラついてんじゃねえよ!」スピナはため息をつき、渋々といった様子で立ち止まって二人を振り返った。「プー、お前が言った"音"ってのは、とっくにおいらにも聞こえてんだ」
プロップとテンダは同時に、えっ?と声を上げた。
「昨日の夜も微かに聞こえたんだ……お前たちが寝てる間にさ……お前たちは仮面の化け物を実際に見てないから危機感が足りないんだ!あいつなら何でもできちまう。あの"音"も何か関係があるかもしれない!また違う化け物をこの洞窟に呼び出したのかもしんねえだろ?」
そう言うとスピナは二人の反応を待たず、わかったらさっさと行くぞと吐き捨ててまた歩き出した。
プロップとテンダは今度は黙ってそれに続いた。"危機感が足りない"という言葉が二人の胸に引っかかっていた。
スピナの言い分は筋が通っている。実際に昨日は玄烏賊に襲われたのだ。確かに自分たちは少し配慮に欠けているのかもしれないと、二人は自己嫌悪に陥ってしまった。
―でも、なんかムカつく……。
テンダはスピナの背中を睨みながらそう思った。
いくら正論と言っても、雇い主である自分がそんな言われ方をされる筋合いはないのではないかという怒りと、"スピナに言い負かされてしまった"という理屈抜きの怒りの二種類の炎が胸に湧いてきたのだ。
―そうよ!それに、結局玄烏賊をやっつけられたのはあたしの魔法あってのことでしょ?
ぶつぶつと心の中で文句を言いながら、ふくれっ面でスピナの背中を睨み続けていると、しばらくしてその背中が突然ぴたりと動きを止めた。
「止まれ!」
スピナは振り返らずに声を潜めてそう言った。何やら足下を見ながら視線をゆっくり移動させている。右手は腰の短剣の柄にかかっていた。
「何よ?どうしたの?」
「静かにしろ!」
スピナは地面を見たまま、やはり声を潜めてそう言った。
テンダは振り返ってプロップの顔を見た。プロップはテンダの顔を見ながら、"あれだよ"と口だけ動かして前方を指さした。
再びスピナの方へ振り返り、その視線の先を目で追ったテンダは、やがてプロップのいう"あれ"に気づき、危うく悲鳴を上げるところだったが、両手で口を塞いで何とかそれを堪えた。
―うわっ!おっきい!
スピナが後一歩足を踏み出せば、そいつの背中を踏みつけることができる。
何ともおぞましい、橙と黒の縞模様の体。爬虫類図鑑を開けば、そいつの長ったらしい学術名が載っているのだろうが、およそ好ましい響きではあるまいとテンダは思った。
全長は恐らくスピナの身長を越えるのではないかと思われるその蛇は、スピナの手前をにょろにょろと、向かって左から右へゆっくりと横断していた。
昨日見た玄烏賊に比べれば可愛いものではあるが、これはこれで気味悪い生き物であることに変わりはなく、テンダは身動きがとれなくなってしまった。
"夏の魔法"で黒焦げにしてやろうかしら?という考えがようやく浮かんだ頃には、蛇は向かって右の側壁にたどり着いており、にょろにょろとそこを這って登ると、やがて壁の裂け目に進入して完全に姿を消した。
スピナはふうと息をつくと、柄から手を放し、ちらりと二人を振り返って、じゃあ行くぞと声をかけてまた歩き始めた。
蛇が入って行った壁の裂け目を見つめながら、テンダとプロップも後に続いた。
―頼りになるやつよね……一応は……。
テンダは再びスピナの背中を見つめた。ふと昨日の記憶がよみがえる。最初に足を触手に捕まれた時、後ろにスピナがいてくれなかったら自分は果たしてどうなっていただろうか、と想像して体をぶるっと震わせた。
―しかも、あたしがワガママ言って走る順番代わってもらったりしちゃったし……。
ここで突然テンダの思考が途切れた。正確に言うと、次に彼女の胸に訪れた"思い"を彼女自身が理解できなかったために、脳が思考を停止させたのである。
―背中……背中……背中……。
わけのわからない単語が頭の中に響く。テンダは慌ててかぶりを振り、それを追い払った。
「ねえ、ちょっといい?」
テンダはスピナにそう呼びかけた。思いのほか大きな声が出てしまい、少し恥ずかしくなってしまった。
スピナは肩越しにちらりと振り返り、何だ?と素っ気なく聞き返した。
「あのさ……昨日のことなんだけど……よく考えたらさ、あたしまだ……言ってなかったなって……つまり、お礼をって意味だけど……」
テンダの声は、呼びかけた時とは対照的に独り事のようにか弱く、スピナにも、後ろを歩くプロップにも聞き取れなかった。
「何だって?」
「だから!……昨日のことなんだけど―」
「お!またあの音だ!」スピナはテンダの言葉を遮ってそう言うと、振り返ってプロップの顔を見た。「"ぶうん"って音だ……プー、聞こえたか?……今思ったんだけどよ、エンジン……バイクの音に似てないか?」
「えっ?さ、さあ……今のは僕には聞こえなかったけど……」それは本当だった。プロップは、テンダが何を言うつもりか興味津々で、全神経をそれに集中していたのだ。「それより、ほら、スピナ。テンダの話……」
「ん?……ああ、何だっけ?」
「もういい!何でもない!」
テンダは鬼の形相でプロップを睨みつけた。そしてぶつぶつと何事か文句を言いながらうつむいて歩き続けた。地面を踏みにじりながら歩いているようにプロップには見えた。
スピナは、何なんだ?と一言呟くと、それきりすっかり興味がなくなったというようにまた黙々と歩き続けた。
―テンダ、何言おうとしたんだろ?……って言うか何で僕が睨まれなきゃいけないのさ……。
プロップは深いため息をついた。
◆10◆
午前十一時半。
地底湖を通過し、開けた場所に出たフロルは、そこに焚き火の跡を発見してバイクを降りた。
―近い。想像以上に近い!
フロルは焚き火の乾き具合を確認し、テンダたちがここを去ってからまだ数時間ほどしか経過していないだろう、自分が予想以上に速かったというよりは、テンダたちの歩みが遅くなったようだ、と判断した。あるいは地底湖の怪物との戦闘による消耗かもしれない。
それから周囲を見渡すと、缶詰めなどの食料や、歯ブラシ、石鹸、タオルといったものが捨てられていた。
―出口は近い。余計な荷物を捨てて、一気に進むつもりか……。
ひょっとして自分がこの洞窟に入ったことにテンダたちは気がついたのか?とフロルは考えた。モトクロッサーのエンジン音を聞かれ、警戒されたのではと。
フロルはしばらく思案した上で、モトクロッサーをここに置いて行こうと決めた。
自分の足だけでは追いつけない可能性もあったが、これ以上距離を詰めれば否応なしにエンジン音を聞かれる。テンダの魔法や少年の持つ赤い剣といった得体の知れない力に待ち伏せなどされるのは好ましくないと判断したためである。
―さて、間に合うか……。
フロルはモトクロッサーのエンジンを切ると、ためらうことなく颯爽と走り出した。
洞窟内を吹き抜ける、一陣の黒い風のように速く。
◆11◆
「二人とも、こっち来てみろよ!いいもん見せてやるぜ!」
間もなく午後十四時になろうかという頃。
岩に腰かけて小休憩をとっていたテンダとプロップに、先の様子を見てくると行って通路の奥に消えたスピナが戻ってきてそう言った。
それまでずっと不機嫌だったスピナだったが、その声は妙に浮き浮きとしており、微笑さえ浮かべていた。
何かよほどいいことがあったに違いないと確信し、二人は立ち上がってスピナに続いて歩き出した。
しばらく進むと、地底湖を除けばこれまでで最も広く開けたフロアに出た。
「見ろよあれ。間違いねえよな?」
スピナは道の先を指さした。それを見て、プロップとテンダは同時に喜びの声を上げた。
「出口だわ!」
「着いたんだ!」
人工的な岩の階段の先にあるこのフロアの出口は、三日前に見た洞窟の入口とまったく同じ鋼鉄の扉で塞がれていた。
「さすがにもう安心しきっていいかもな……これでやっとクソったれの洞窟ともおさらばだ!」スピナは鼻をこすりながら、へへっと笑った。「プー、まさか鍵なくしたりしてねえだろうな?」
「"あたりきしゃりきにブリキにかんきり"さ!」
プロップは得意げな笑みを浮かべながら自分の胸元を叩いた。そしてそこへ手を入れ、鎖で首から下げている鍵を取り出して、"確かにここにありますね"と、やがて消失するコインを観客に見せる手品師のように、大げさな手つきで二人に見せた。
「もう怪物はうんざりだわ!ああ、早くシャワー浴びたい……」
テンダも一瞬だけ笑顔になったが、ティトの顔を思い出して真顔に戻った。
―ティトは無事なのかな……まだこの国にいるのかしら……。
それからムミの顔を思い出した。
―ムミ……必ず助けに戻るからね……待っててね。
「よし、行こうぜ!プー、先行って鍵開けろ!これ以上、化け物やら幽霊やらが出て来ないうちにな!」
スピナがプロップの背中をどんっと叩いた。プロップは、痛いじゃないかと文句を言いながらも満面の笑みを浮かべ、出口へ向かって歩き出した。
否、"歩き出そうと"した。
「水を差すようで悪いんだが」
突如として響き渡った"その女の声"が三人の体を凍りつかせた。
「あともう一度だけ"化け物"につき合って貰おうか」
三人は来た道を振り返ってその女を見た。
そして、受け入れがたい現実を目視すると、三人の脳の思考回路は故障してしまった。
混乱することさえもできなかった。
「何とか間に合って良かったよ……」
独り言のようにそう呟きながら、その女はゆっくりと歩を進め、茫然と立ち尽くす三人を通り越し、出口に続く階段の前で足を止めて三人に向き直った。
二人の少年と一人の少女は、惚けたようにそれをただ眺めることしかできなかった。舞台上にいる大女優の圧倒的な演技に見とれている観客のように。
「さて、始めようか……」
黒衣の女は虹の女王を抜き、静かに下段に構えた。
◆◆◆