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〈Ⅰ‐Ⅴ〉いにしえの怪物(後編)




◆1◆




午後十三時十分。


睡眠不足の体に、眩しい日差しが皮肉のように不快に降り注ぐ。


ようやくコヒの村が視界に入ると、黒衣の女はふうと一息ついた。


後は道なりに進めば村にたどり着く。執拗につきまとっていた連中の気配は、今や完全に消え去っていた。


残る問題は、既に洞窟に入っているであろうテンダたちに追いつけるかどうかということだけのはずだった。


ところが……。


―なるほど……歓迎パーティーはまだ続くというわけか……。


フロルは足を止めて虹の女王の柄に右手をかけた。上手く気配を隠してはいるが、フロルに感じ取れないほどではなかった。


「いるのはわかっている。さっさと出て来い。時間が惜しい」


言い終えるやいなや、フロルの前方の木陰から銀縁眼鏡の男が姿を現した。その手には、恐らく鉄製と思われる短い杖が握られている。


―魔導士か……さしずめ、こいつがティト・カーソンか。


「やあ、フロル。今日はいい天気だな。剣など収めて一杯やりたくなるくらいに、だ。そう思わないか?昨日は少し雨が降ったよな……」


そう言いながら微笑しているティトを見て、フロルはやはり楽な戦いにはならないだろうと確信した。


言葉から"嘘の色"を感じ取るのが難しいタイプ。それは戦いの相手として、フロルが知る限り最も厄介なタイプだった。


「お前がティトだな?かつて、マクスカ最高の天才魔導士と呼ばれていた男……か」


「それはちょっと違うな。お嬢さん」ティトは、ちっちっと舌を鳴らしながら人さし指を左右に振った。「"かつて呼ばれていた"じゃなくて"今でも実際にそう"なんだよ。なあ、フロル。昨夜は一睡もしていないはずだ。腹も減ってるだろ?どうかな、仕事はやめて一緒に食事にでも行かないか?」


フロルは無表情のまま、虹の女王を静かに抜いた。


「それも悪くないが、また今度にしておくよ」




◆2◆




水が流れる激しい音が聞こえてきた。


午後十三時二十七分。


「よう、どうやら着いたらしいぜ」


先頭を歩いていたスピナは、立ち止まって二人を振り返り、道の先を親指でさしながらそう言った。


この先は開けた場所になっているようだ。音の大きさから、そこが地底湖で間違いなさそうだった。


プロップとテンダは顔を見合せた。お互いに、相手が今自分と同じようなことを感じているのだとわかった。


スピナの話は依然として信じられないのだが、いざ地底湖に来てみると何だか恐くなってしまったのだ。


「そうみたいだね……」


「ティトの話からすると、ここがちょうど洞窟の中間地点ね……」


スピナは二人が平静を装ってはいるものの、実は不安で緊張していることを見抜いており、話を信じなかったくせによと内心鼻で笑っていた。


「じゃあ、用意はいいな?一気に行くぜ!もたもたするなよ!」


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


テンダはスピナを引き止めた。


「何だよ?びびってんのか?おいらの話、信じてないんだろ?」


「びびってないわよ!靴ひもを直すの!」


そう言ってしゃがみ込んだテンダを、スピナは呆れ顔で眺めた。


―ほんと、可愛くねえ女……。


「よし、もういいわ!走ってやろうじゃないの!いつでもいいわよ!」


「じゃあ、おいらから行くから続けよ。プー、お前も準備はいいな?」


「大丈夫だよ!」


本当はプロップも一度靴ひもを直したい(少しも緩んでおらず、特に具合が悪いわけでもないが)気分だったが、ここですぐに首を縦に振らないと、何だか男の世界から出て行かないといけなくなるというような、妙な義務感にとらわれてしまった。


テンダがいるせいでなおさらそんな義務感(と言えば聞こえがいい。あるいはただの子供っぽい見栄なのか?)を覚えるのかもしれないと思った。


「よし、行くぜ!」


「ちょ、ちょっと待って!」


待たしてもテンダが待ったをかけた。既に走り出す体勢だったスピナは、少しよろめいてしまい、苛立ちで地団駄を踏んだ。


「今度は何だよ?」


「……あたしが一番前でもいい?」


スピナとプロップは顔を見合わせ、どうする?いや、だめだよ!と動作だけで会話を交わした。


「あのな、もしイカに襲われたとしたら……まあ、イカじゃなくても何かに襲われたとしたらよ、一番危ねえのは先頭のやつだぞ?」


「でも、ほら、嫌なことって早く終わらせたいじゃない?そういうのってあるでしょ?」


「何だよ、やっぱりびびってんじゃねえか」


「び、びびってないってば!……あたし一番荷物少ないし……ね?」


スピナはしばし無言で考え込んだ後、突然テンダの方へ歩き出した。


怒ってつかみかかってくるつもりかとテンダは身構えたが、スピナはすっと横を通り抜け、自分の背後のあたりで立ち止まった。


「じゃあ、先行けよ。こけたりすんじゃねえぞ」


「スピナ、危険じゃないかな?」


プロップが不安そうな声を上げた。


「仕方ないだろ。言い出したら聞かない雇い主様だからな……それに、プー、お前もイカなんて信じてないんだろ?」


「まあ、そうだけど……じゃあ君がしんがりかい?」


「いや、しんがりはお前だ。おいらはこいつのすぐ後ろにつく。何かあったらすぐに援護できるようにな」


少し意外なスピナの言葉に、テンダはわずかながらも申し訳ない気持ちになった。


―こいつ、ちょっとは優しいやつなのかな……?


「昨日も言ったように、怪我でもされて報酬パーになっちまったら困るしよ」


―ってわけでもないか……。


テンダはふうと息を吐き、軽い柔軟体操をした。


「よし!じゃあ、今度こそ本当に行くわよ!」


三人は顔を見合わせながら頷いた。


そしてまずテンダが走り出し、スピナ、プロップの順でその後に続いた。





◆3◆




耳をつんざくような、激しい金属音が響き渡り、ティトは驚きで目を見開いた。


―おい……速すぎる……だろ。


かろうじて鉄の杖でフロルの斬り下ろしを防いだものの、彼女がいつ始動したのか、いつの間に剣が届く距離まで間合いを詰められたのか、はっきりと捉えることができなかった。


―だが、初太刀は防いだぞ……もう一歩踏み込んで来い!


ティトは既に心の中で詠唱を終えていた。それは"秋の魔法"の一種であり、自分の手の届く範囲が射程圏内だが、命中すればしばらくの間相手の視界を完全に奪うことができるという効果があった。


相討ち覚悟で、次の太刀に対してカウンター気味にその魔法で迎撃するつもりだったが、フロルはそれ以上踏み込んでは来ず、素早く後方に下がって行った。


「どうしたフロル?遊んでいるのか?もう一太刀やられてたら、私はかなり危なかったぞ?」


「そうかもな……」フロルは剣をだらりと下げ、左足を前に出した。「魔導士らしく距離を空けて戦ったらどうだ?私の剣の距離では相討ちすら望めないぞ」


「そう思うのならもう一太刀打ち込んで来ればよいものを……えらく慎重なんだな」


ティトは詠唱を取り消し、すかさず別の魔法の詠唱を始めた。


―カウンター狙いは読まれている……作戦を変えるか……。


「では、忠告通り魔導士らしく戦ってみようかな」


ティトは微笑を浮かべたままそう言うと、手の平から光の玉を放った。


それは洞窟内でテンダが松明代わりに使用したのと同じ魔法だった。


様々な使い方があり、使い手の腕にもよるが、このように標的目がけて飛ばせば弓以上に強力な飛び道具となる。命中すれば火傷では済まない。


しかし、フロルは右足を軸にして、左足を回転させてその魔法を苦もなくかわした。


ところが……。


―消えた……?いや、これは……。


必要最小限の時間しか光の玉の軌道を見ていなかったにも関わらず、再び視線を戻した時にはティトの姿はどこにもなかった。


―さて、フロル。こいつはかわせるかな?


己の姿を消す春の魔法を使われたのだと確信し、フロルは目を閉じて耳を澄ませた。


その魔法は使用者の肉体のみならず、持ち物や衣服まで透明にすることが可能だが、影を消すことはできない。


それなら影を目で追うよりも、いっそのこと相手の気配を感じ取ることに集中した方が効率が良いとフロルは判断した。"見る"という行為こそが、つまりは幻惑を成り立たせる要因になる。


―私に向かって来る……一、二、三、四……まだだ。私の右側に回り込む……五、六、風の音……今だ!


虹の女王が美しい放物線を描き出し、その刹那、肉が斬られ、骨が断たれる音が響いた。


フロルの左側に回り込み、彼女の頭部目がけて思い切り杖を振るった瞬間に、既にティトは命中を確信した。


しかし次の瞬間、フロルの姿は消え、杖は空を切り、そして自分の体が足下から崩れていくのを感じた。


―な……やられたのか?


激痛はすぐにはティトを襲わなかった。それはその斬撃があまりにも速かったためだ。


素早くかがんで杖をかわしながら、フロルは虹の女王でティトの体があると思われる位置を斬り払った。その結果、ティトの右足の脛の中間から下がきれいに切断されてしまったのだ。


虹の女王から右手に伝わってくる骨と肉の感触。血の匂い。


―手ごたえあり……だ!


勝負を決定づけるほどの重傷を与えたと確信したフロルだったが、ふと妙な違和感を覚え、すぐさま立ち上がって体勢を整えた。


―声が聞こえない……?


手ごたえからして即死させたとは思えなかった。


それなら苦しみ喘ぐ声、もしくは混乱や恐怖の声といったものが必ず聞こえてくるはずなのだが、まるで今の出来事は束の間の白昼夢だったのだと言わんばかりに、あたりは不気味にしんと静まり返っている。


「まったく、君ときたら……目を瞑って避けるとはな……化け物め!」


突然のティトの声が沈黙を破った。


そして、額から大量の汗を垂らし、右足の脛のあたりをさすりながら苦笑いを浮かべているティトの姿が空間にぼんやりと現れ始めた。


何故か外傷は一切見当たらない。フロルは、彼の右足全体が淡い緑色の光に包まれていることに気づき、何が起こったのかを理解した。


「化け物はお互い様だろう……切断された足を瞬間的に魔法で治癒したのか?……考えられない詠唱の速さ、そして精神力……だな」





◆4◆





三人はついにその場所に足を踏み入れた。


進行方向向かって右側には、遥か広大な海へと繋がっているのであろう巨大な地底湖が広がっている。


緩やかな曲線となっている通路。その道幅はこれまでとは比較にならないほどに広い。


特に分かれ道はなく、このまま道なりに進めば出口へたどり着けるだろうと思えた。


自分の少し前を走るテンダのペースに合わせ、八分目ほどに調整した速さで走っていたスピナは、まったく異なる二つの思考がお互いの身体を上手く譲り合いながら、ほぼ同時に自分の狭い頭の中に入って来るのを感じていた。


一人目。


"ここは思っていたよりも広いなあ。天井の高さといい、一昨日見たマクスカ王宮の大広間"と同じくらいか、きもち狭いくらいか。水の流れる激しい音、潮の匂い……できれば足を止めてゆっくりと眺めたいなあ……"


そして二人目。


こいつは入って来た時は仲良くしていたくせに、今は一人目を追い出さんばかりの大声でわめき散らしている。


"何をぐずぐずしているんだ?すべての荷物を捨てろ!今すぐにだ!おいらだけが確信しているんだ!幽霊のメリッサも!仮面の男もだ!それはつまり、デカいイカがまじでここにいるってことだ!"


二人目は徐々に早口になっていく。


"さあ、とっとと荷物を捨てろ!何も起きなきゃそれでいいんだ。プーたちに後で何を言われたってどうってことはないだろ?"


先頭のテンダは、既に出口まで後わずかというところまで来ているが、スピナは"二人目"に従うことを決断し、まず左手に持っていた焚き火用の薪を手放した。


そして薪が地面に転がる乾いた音を耳にすると、もはや迷いはなくなり、次から次へと荷物を放り投げた。


―何も起こらなければ笑い話……ただそんだけだ!


"何も起こらないってことはあり得ない!"


先ほどの"二人目"が、去り際の最後の叫び声を上げた。


"あの仮面の男……骨の手を見たんだ!あいつなら、どんな恐ろしいことも簡単にできてしまうに違いないんだ!"


そして、"二人目"が去った数秒後にそれは起こってしまった。


後ろを走っているプロップが何事か叫んだ。恐らくは荷物を放り投げたことについての文句だろうとは思ったが、スピナにはそれを気にしている余裕がまったくなかった。


何故なら今まさに、"それ"がやって来たからだ。


水が跳ねる音を耳にしたからだ。


それは何かが水から飛び出した音に違いなかったからだ。


「ミシュ、力を貸してくれ!おい!テンダ、避けろ!」


スピナはそう叫びながら短剣を鞘から抜いた。同時に、テンダが"あれ"をかわせないだろうと確信して足を速めた。


短剣は一瞬のまばゆい光とともに巨大化した。


肩越しにこちらを振り返る、不安そうな、不機嫌そうなテンダの顔が目に入った。やはり気づいていないようだ。


「馬鹿野郎!あ、足だ!」


スピナがそう叫び終える前に、地底湖から飛び出した巨大な触手がテンダの右足を捕えた。


内側に無数の小さな吸盤がある、吐き気がするほどに醜い触手。


それは"腐敗"の二文字を連想させるような、黄ばんだ、何とも醜い触手だった。




◆5◆




「伊達に年齢を重ねているわけじゃないさ……というわけで、私に勝つには即死じゃなきゃだめってことだ」


ティトは服の汚れを手で払いながらそう言った。


平静を装ってはいたが、脳内の作業員たちは大量の汗を流し、走り回ってお互いの肩をぶつけ合いながら、必死に次の作戦の材料を探していた。


―どうしたもんかな……しばらく攻撃をしのぐことは可能だが、こちらから攻める材料が少な過ぎるな。


「お前の強さに敬意を表するよ……」


無愛想で乾燥した声だったが、皮肉や茶化しではなく、それはフロルの本心だった。


魔導士らしく戦うなどという言葉とは裏腹に、杖による打撃を狙ってきた。咄嗟にかわせはしたが"嘘の色"は見えなかった。体術もなかなかのものだ。


―経験からくる精神力……技術ばかりの半端な腕自慢のやつらとは比較にならんな……。


「次は回復する暇を与えない……時間が惜しい。玄烏賊の洞窟とは考えたものだ」


「洞窟?何の話だ?さっぱりわからんぞ、フロル」


ティトは両手を広げて鼻で笑いながら、心の中では次に使う魔法の詠唱を始めていた。


策らしい策はしばらく浮かびそうにない。とりあえず自分の使えるものの中で、最大の殺傷力をもつ魔法を正面からぶつけてみようと考えた。


「無意味な演技だな。お前がここに留まって行く手を塞いでいるのが証拠だ。ヤクザくずれのお友達を使って、休息の妨害までしてくるとは恐れ入ったよ」


ティトは、時間が惜しいなどと言いながら、実はフロルが時間稼ぎをしようとしているということに気がついた。やはり不眠不休が効いているらしい。少し休むつもりのようだ。


「正面からぶつかって君に勝てる自信がないんでね」


それなら時間稼ぎに付き合ってやろうじゃないか、とティトは内心ほくそ笑んだ。


こちらとしても、詠唱の時間や作戦を練る時間が欲しいところである。フロルを休ませることにはなるが、彼女が勝利を確信したとしたら、そこから油断を誘えるかもしれないという狙いもあった。


「ところで、フロル。命令はどこから出ているんだ?あの妖怪じじいの大臣か?それとも仮面の男とやらか?今回の件についてはどこまで知ってるんだ?」


「仮面の男?……何だそれは?」


「そうか、知らないのか。じゃあ、ムミ姫のことも知らないのか。それなら君は一体何のために戦っているんだ?命令とあらば、何の疑問もなく人を殺せるのか?」


どこまで効果があるかわからないが目一杯挑発してやろうとティトは思った。怒りを誘い、冷静さを奪えば、つけ入る隙が見つかるかもしれない。


―それにしても、どうやら本当に知らないようだな……このフロルでさえも……やはり余程の機密事項というわけか。仮面の男……ね。


「お前には関係な―」


実のところ、フロルは挑発しようというティトの意図に既に気づいており、それに乗せられるつもりはまったくなかった。


そのはずだった。


しかし、ここで予定外の訪問者が現れた。


"そうじゃないだろ?"


それは内なる声。一昨日議論を交わしたあの声だ。


"この男と話し合うべきだ。お前が今口にすべき最も基本的な言葉は、仮面の男とは誰か?ムミ姫がどうかしたのか?といったものだ"


突然うつむいたフロルを見て、ティトは首を傾げた。


―何だ?突然気分が悪くなったとでも?……私の油断を誘うための演技か?もう少しつついてみるか。


「フロル、話は変わるが、エスティバにはどんな言葉を贈ったんだ?彼は幸せそうにしていたか?」


"質問に答えてやったらどうだ?彼は幸せそうにしている、惨めな私とは違って……とかなんとかな"


―うるさいぞ!黙っていろ!


フロルは虹の女王を地面に突き刺した。ティトはその真に迫った様子を見て、これは演技ではないと確信した。


「どうした?顔色が悪いようだが?何か気に障ることでも言ったかな?」


「お前……お前は何のために戦っているのだ?」


フロルは息苦しそうに言った。地面に突き刺した剣を杖にして何とか立っているというようにも見えた。


"何だその質問は?……ああ、そうか!やっと認める気になったんだな?この男の話を聞いて自分と比べるつもりなんだ。悪くないじゃないか。この男に叱って貰えばいい。そうしろ。この銀縁眼鏡の男に聞いてみろ!"


「どういう意味だ?君は―」


「答えろ!お前が国を追放された理由を知っているぞ!テンダ様を守ることで自尊心を保っているのか?自分がしてきたことは正しいと、自分にそう言い聞かせているのか?」


ティトは魔法の詠唱をやめた。闘争心が薄れつつあった。どうしたことか、今のフロルの様子は明らかに異常だ。


「望むのならその質問に答えてもいい。うまく言えないかもしれんが……どうだろう、とりあえず剣を収めないか?今の君は―」


"そうしろ。この男を殺してはいけない。真実を確かめてみないか?"


「お前は黙っていろ!」


フロルは声に出してそう叫んだ。ティトは驚きのあまり目を見開いた。いよいよこいつはどうかしている。


「フロル、君は一体誰と話をしているんだ?」


"他の誰でもないさ。私は私……ただの独り言"


「いいから答えろ!私の質問に……答えろ!」





◆6◆





背後からのスピナの声は聞こえていた。十分過ぎるほどに聞こえていた。しかし、テンダの頭の中にその言葉の意味は一切入って来なかった。


何故なら、右足を襲う感触に全神経を奪われてしまったからだ。


―や、やだ……何?


ぬるぬるとした、足首から太股にかけてまとわりついてくる感触に悪寒が走り、その直後に肌を強く吸引されるような無数の痛みに襲われ、テンダは一気に混乱の渦の中に叩き落とされた。


さらに、何が起こったのか考える間もなく次に襲いかかってきたのは、湿った冷たい地面に叩きつけられた頬の痛み、苔と石の臭い、そしてうつ伏せに倒されたらしい自分の体を引きずる強い"力"だった。


そう、無慈悲で圧倒的な力。直感的に、すべての抵抗が無駄に終わると確信できるような力。


恐怖のあまり悲鳴を上げることすらかなわなかった。否、もしかすると自分は既に悲鳴を上げていて、混乱のあまりそれに気づいていないだけなのかもしれなかった。


それでもわずかに残っていたテンダの理性は、左足の裏と両手の指を地面のおうとつに引っかけて抵抗を試みろと肉体に命じていた。


―い、痛い……痛い……ああ、ティト!マーサ!……ムミ!


しかし抵抗は虚しく破れ去った。地面に引きずられ、顔面に激痛が走る。


そしてついに肉体のみならず、テンダの精神さえも白旗を上げ、思考を停止させ、ただ恐怖と混沌の巨大な渦に身を任せるままになってしまった。


―あたしは……こんなところで……死―


次第に遠ざかる意識の中で、きっと、このまま悲しみも苦しみも、何もかも感じないようになるんだという考えが頭を過った。


しかし、そうはならなかった。


「ふざけろ!このイカ野郎!」


誰かの叫び声と何か堅い金属のようなものが地面に突き刺さる音が響き渡り、消えかけていたテンダの意識を呼び戻した。


その直後、どういうわけか、突如として自分を引きずっていた力が消え、足に絡みついていた不快な感覚が弱まった。


―え……?


テンダは仰向けに直って半身を起こした。


まず目に入ったのは、自分の右足に巻きついている醜い触手だった。


次いで、地面に突き刺さった赤い大剣を両手で引き抜いているスピナの横顔と、水中へ逃げて行く、先端を切断された触手が視界に入ったが、彼女の脳はそれら入手した情報を素早く処理するほどの冷静さは未だ取り戻してはいなかった。


「あんた……あれを斬った……の?……そんな剣……どっから?っていうか、あれ……何?げ、玄烏賊……あんたが言ってた女の子の幽霊の話……」


体の震えと喉の渇きで、テンダの声は死にかかった虫の鳴き声のようにか細いものになってしまった。


スピナは焦りと怒りの入り混じった表情を浮かべながら素早くテンダに駆け寄ると、未だ彼女の足に絡みついている不気味な触手の残骸を、両手で力任せに引き剥がしにかかった。


「話は後だ!今のうちに逃げるぞ!……おい、プー!荷物なんかとっとと捨てちまえ!早くこっちに来い!」





◆7◆





「わかったよ……フロル」長い沈黙の後、ようやくティトは口を開いた。「だが先に聞かせて欲しい。何故そんな質問を?」


フロルはうつむき、何も答えなかった。自分が一体何を言ったのか思い出せずにいた。


―私は……どうしてしまったんだ?


"お前は疲れてるのさ。ボロ布のようにズタズタに"


―私は何を言ったんだ?


フロルは虹の女王からそっと手を放した。女王はゆっくりと地面に倒れた。


「もうこんなことは続けたくないって思ってるんじゃないか?」


地面に横たわる美しい剣を眺めながら、ティトは少しずつフロルに近づいた。


今はテンダたちのことはまったく頭になく、ただ目の前の刺客、この国で最も怖れられているはずの戦士が哀れで仕方なかった。


「無理もない……人を殺し続けて平気なやつなんていない。君は疲れているんだ」


手を伸ばせばお互いの体に触れられるほどの距離まで近づくと、ティトはそこで足を止めた。


「さっきの質問の答えだがな、かつて私は自分の誇りのために国を捨てた。君が言ったように、テンダ様を守っていたのは自分のためだけだったのかもしれないよ。最初はね……でも今は違うんだ……何だろうな。うまく言えないな」ティトは自嘲気味にふっと笑った。「なあ、フロル。はっきり言うが、今のマクスカには身を捧げる価値などないぞ。何かが起こっているということには気づいているだろ?我々に協力しろとまでは言わないが、せめて君自身の意思で自分が何をすべきか考えてみてはどうだろう?」


ティトの言葉を聞きながら、フロルは自分の心臓のあたりから両目に向かって何かが昇って行くのを感じた。


涙なのかもしれないと思った。


そして何故かその考えが体を熱くさせ、喉をきつく詰まらせた。


しかし……。


"おい!取り返しがつかなくなるぞ!"


内なる声が警告の叫び声を上げた。


"もう一人いるだろ?"


―もう一人……?何のことだ?


「今の君に必要なのは―」


次第にティトの声が遠退く。


"私たちの他にもう一人いるだろ?そいつがやって来るぞ!"


―どういう意味だ?


"この男の強さを見てしまった。だからあいつがやって来るんだ。この男と戦りたがってるやつさ!"


「―だからもう私たちが戦う意味はない。なあ、フロル。そう思わないか?」


ティトはフロルの肩にそっと手を置いた。慈しむような、優しい動作だった。


フロルはその手を、指先から手首のあたりまでゆっくりと目でたどった。


―ああ、そうか。私は……。


"やめろ!そいつを出すな!"





◆8◆




スピナに言われるまでもなく、プロップは既に荷物を捨て始めていた。


「わっ……わっ……」


わかってるよ!と叫んでいるつもりだったが言葉にならなかった。


次々と荷物を放り投げながら必死に前へ進もうとしたが、思うように体が動いてくれない。


膝は笑い、足はまるで自分の体の一部でなくなってしまったかのようにもつれ、スピナとテンダのいる場所が遥か彼方に感じられる。


―今のあれ……本当に玄烏賊なの?実在していた?もう少しでテンダが湖に引きずり込まれるところだった?もう少しでテンダが……食べられるところだった?


ようやく絡みついていた触手の残骸を剥がし終えたらしく、ゆっくりと立ち上がるテンダと、それを支えるスピナの様子を確認したプロップは、二人の先にある出口に視線を移した。


―な、なんだ、思ったより出口は近いじゃないか……逃げ切れる!何とかなる!


しかし、それはプロップの本能が主に正気を保たせるために無理矢理ひねり出した"希望"にすぎなかった。心の中の合理的な部分はとっくに理解していたのだ。


"あの触手はまたすぐに戻って来るに決まってる!僕らを出口に向かわせないつもりでいるに決まってる!"


そして案の定、冷たい現実はやって来た。


その瞬間だけ、まるで洞窟内全ての空気が凍りついてしまったように感じられた。


三人とも"それ"に目を奪われ、一切の身動きがとれなかった。


激しい音を立てて地底湖の水が重力に逆らって天に昇り、巨大な水柱を造り上げた。


それは一瞬にして崩れ落ち、その中から"そいつ"が姿を現す。


いにしえの怪物。頭頂が天井まで届きそうなほどの巨大な烏賊。無数の巨大な触手。


プロップは口をあんぐりと開けたまま、その怪物から目を離すことができなかった。


腐敗しているかのような黄ばんだ体。触手の内側にある無数の吸盤がなんともおぞましい。


不恰好な帽子のような非対称な三角形の頭部の下にある"顔"は、もはやイカとは呼べないどころか、この世の生き物とすら呼べないだろう。


滑稽なほどに巨大な両目には、体よりも濃い黄色が空虚に広がっているだけで黒目はなかった。


一切の感情を持たない死の生物、ただ獲物を食らうだけの帰死生物の目だ。


さらにその目の下には、数千、数万ほどあるのではないかと思える鋸状の牙が、呼吸に合わせて、獲物を待ち焦がれているかのように蠢いている。


プロップはこの世に存在するあらゆる死に方の中で、この口に飲まれるよりも最悪な死に方が果たしてあといくつあるだろうかと思った。


さらに、プロップを最も震え上がらせたのはこの怪物の"声"だった。


け、け、け、け、け―


その体のどういう構造が、一体どのような理屈でその"声"を造り出しているのかまったく理解できない。


け、け、け、け、け―


これが冒険小説に出てくる、地底に住む凶悪なドラゴンのように、"グォオオ!"というものだったらどんなにましだっただろうかとプロップは思った。


断続的というおぞましさ。今しがたスピナに触手を切断されたことを怒っているのか、そうでないのかもわからないほどに不気味な無機質。


これ以上これを聞いていたら気が狂ってしまいそうだ。


「プー!上だ!」


スピナの叫び声でプロップは我に返った。


―うえ?……うえって、"上"?


背筋を無数の小さな虫が駆け上がって行くような感覚に襲われ、プロップは一切の思考を捨てて力の限り走り出した。


―やばいことが起きてる!まさに今、僕の身に絶対的にやばいことが起きてるんだ!それはもう、本当の本当にとんでもなくやばいことだ!


背後で“どん”という大きな音が響き、地面がわずかに揺れた。


つい今しがた自分がいた場所に、あの醜い触手の鉄槌が振り下ろされたのだろうと確信したが、振り返ってそれを確かめる勇気も余裕もなかった。


「ス、スピナ!ころ、殺される!」


かつて、これほどまでにスピナが愛しく思えたことはなかった。


「プー、落ち着け!あれを使え!あの魔法だ!」


そう叫びながら、スピナはテンダのリュックを肩から強引に降ろさせると、彼女の手を引いてプロップがいる方向へ向かって走り出した。


「わっ!スピナ?何でこっち来んだよ!出口に向かえよ!」その時、スピナたちの頭上に振り上げられた忌まわしい触手がプロップの視界に入った。「危ない!危ないよ!スピナ!テンダ!」


スピナの足が速まった。強く手を引かれたこともあり、テンダがきゃっと叫ぶ。


二人は、振り下ろされた触手を間一髪のところでかわした。


「逃げ切れない!触手が多過ぎる!出口に着く前にやられちまう!」スピナは必死の形相でプロップに指を突きつけた。「だから"あれ"を使え!おいらたちを"その中"に入れるんだ!今はそれしかない!」


「あ、"あれ"って……?中に入れる?……あ、ああ、そうか!」


ようやくスピナの意図を理解し、彼の冷静さに感心しながらも、プロップは不安を拭い去ることができなかった。


何故なら、プロップの心臓は既に破裂寸前と思えるほどに稼働しているのだ。


―走りながら詠唱なんて無理!……とも言ってられないけど……。





◆9◆




ティトとしては、それは特に何かを意識しての行為ではなかった。


しかし、結果から考えると、"肩に触れた"というその行為は彼にとって最も致命的な過ちであったと言える。


溢れ出す寸前だった涙は、そもそも存在していなかったというように消え去り、それとは違う"熱"がフロルの全身に広がった。


"知らないふりはできない。自分に嘘はつけないだろ?この私こそがマスターなんだ!そもそも私一人いればそれで済む話なんだ!"


そう言いながら現れた"三人目のフロル"は、圧倒的な力により、自分以外の二人を問答無用で彼方へと追いやった。


「フロル?どうした?」


フロルは顔を上げてティトの顔を見たが、質問には答えず、肩に乗せられているティトの手の上にゆっくりと自分の手を重ねた。


ティトは薄気味悪くなり、手を引っ込めるべきか迷ったが、とりあえず今しばらく様子を見ることにした。


彼女が自分の話に納得してくれたことを意味しているのかもしれず、邪険にはできないと考えたからだ。


―この男を……。


フロルは赤子のように、その形、大きさ、感触をじっくりと確かめるようにティトの手を撫でた。


やがてそれが手の甲の先、袖をめくって腕へと伸びると、さすがに気味が悪くなり、ティトは素早く手を引っ込めた。


―この男を……。


身体中に無数の小さな虫が這いずり回っているかのような疼きを感じ、フロルは身を震わせた。それは狂おしいほどの"快感"と言えた。


彼女は手を触れただけで改めて確認できたのだ。たったそれだけの行為で感じることができた。


優れた彫刻家が、石に手を触れただけでその中に埋まっている石像の形をはっきりとイメージできるように。


ティトの強さ、人間としての"完成度"を感じ取ることができたのだ。


―この男を……殺したい!


フロルは屈伸して虹の女王を拾った。しなやかで美しい動きだった。


ティトはゆっくりと後退しながら、心臓の高鳴りを覚えた。フロルの精神は分裂しかけている。それには気づいていた。


しかし、今新たに出て来た"これ"は、明らかに常軌を逸していた。


―身体の中にこんな化け物を飼っていたのか?なるほど、エスティバとの決定的な差は、剣の腕ではなく、"これ"なのか……なんと哀れな"孤高"か……。


拾った剣を握りしめ、フロルは顔を上げた。その顔は"捕食者"の顔であり、ほのかに淫靡の色が浮かんでいた。


―この男を殺したい……私の業をすべて解放したい……そして二人で死の淵を覗き、お互いの血のにおいを嗅ぎたい……ああ、殺したい、殺したい、殺したい……そうだ、私は飢えているんだ!殺したい!殺したい!そうさ、まったく足りないんだ!


「話し合いは終わりだ。死にたくなければ私を殺せ!私を失望させるなよ?」


フロルは、虹の女王を下段に構えた。





◆10◆




「く、クブし、し、し神の……子、プ……」


プロップは走り続けた。


常に次の瞬間にあの触手がどこからか襲ってくるという強迫観念が心臓に鞭を入れ、喉をからからに渇かせた。


あの忌々しい"けけけけ"が絶えず耳に入って来る。


もうすぐ二人に合流できるというところまで来ているというのに、呪文の詠唱がままならない。


口に出さなければ発動できないという自分の未熟さを、かつてこれほどまでに呪ったことはなかった。


「プー、止まれ!ゆっくり詠唱しろ!化け物はおいらが引きつける」スピナの決断は早かった。プロップの様子を見て、このままでは全員やられると判断すると、迷わず行動に出た。「お前は、先にプーんとこ行ってろ!」


「え?ち、ちょっと!」


これまで以上に強く手を引かれ、テンダはよろめいた。


どうするつもりかと訊ねる間もなく、テンダをプロップがいる方向へ放り投げるように手を放すと、スピナはそのまま地底湖に向かって一直線に走って行った。


―何考えてんのよ、あいつ!


「おいらが相手だ!ほら、捕まえてみろよ!できるもんならな!」


け、け、け、け―


七、八本ほどある(もはや誰も正確に数える余裕はない)玄烏賊の触手は、すべてスピナの方へと向かって行った。


先ほど体の一部を切断された相手が誰かちゃんと知っている、その仕返しは半端では済まさないというように。


テンダは足を止め、肩で息をしながら振り返った。スピナから目を離すことができなかった。


個人的感情など遥か彼方に消え去り、今はただ誰かが死ぬかもしれないという恐怖に怯えていた。


しかしテンダの不安をよそに、スピナは素早い動きで触手をかわしながら、あまつさえ反撃すら加えていた。


先ほどやられたことが脳裏に残っているのだろうか、玄烏賊は赤い剣をかなり警戒しているらしく、スピナがそれを振るう度に感電したように素早く触手を引っ込めた。


それを計算に入れていたのかどうかはわかりかねたが、テンダは思いのほか効果的に牽制をしているスピナの姿を見て、わずかながら落ち着きを取り戻していた。


「テン……ダ……」


プロップがようやくテンダのそばにたどり着いた。立ち止まり、両膝に手をついて、ぜえぜえと苦しそうに息をしている。


テンダはスピナから目を離さずに、後退りながらプロップに近づいた。


顔の右半分と右足がまだひりひりと痛む。どこかしら出血しているのかもしれないが、今はそんなことを気にしている場合ではないと強く自分に言い聞かせた。


―何とかしなくちゃ……。


「プーちゃん!あなたの魔法って何?苦しいでしょうけど、何か策があるなら急いで!」


テンダは肩越しに振り返ってそう叫んだ。


プロップは顔を上げて無言で大きく頷くと、深呼吸を一つした。


―一回で成功させてやるぞ!ああ、絶対やってやるとも!頼むぞ!落ち着けよプロップ!スピナが頑張ってるんだ!


「……クブ神の子、プロップの名において命ずる……叡知の糸を重ねし聖なる衣、今日という日は雨と風から我を守る屋根となれ!」プロップは両手を天にかざした。「ジ・ルド・セル・フィ!」


プロップの両手から淡い緑色の半透明の光が溢れ出し、それは次第にドーム状に広がっていった。


やがて光は地面まで達し、プロップの体を中心の柱として周囲を取り囲む"光の小部屋"が完成した。


―やった!成功だ!


プロップは思わずわおっと叫んだ。


「テンダ、早く中に入って!」


テンダは言われるままに素早く光の小部屋に入った。


「なるほど、これだったのね!なかなかいい魔法使えるじゃないの、プーちゃん!」


プロップの背中を軽く叩きながら、テンダは笑顔でそう言った。


―これなら逆転できるかもしれない……あたしの"あれ"が使えれば……でもどうする?リスクが大き過ぎる?


「僕の力じゃ、こんな小さな部屋しか作れないけどね」プロップは周囲の光を見渡し、苦笑しながらそう言った。あと一人入るのがやっとというくらいの広さである。「おい!スピナ、できたよ!早くこっちに来るんだ!」


地底湖のそばで触手と奮闘していたスピナは、プロップの声が耳に入ったものの、一向に逃げ出せそうにはなかった。


少しでも視線を逸らせばどれかの触手に捕まってしまう。剣を振るいながらゆっくりと後退しようとしたが、それもなかなか上手くいかない。


そして最悪なのは、両脚に積み重なっていく疲労が徐々にその重みを増しているということだ。


―やべえ、結構やべえかも!


プロップはそんなスピナの様子に気づき、ごくりと唾を飲み込んだ。


―スピナ?長くはもたない?……どうしよう?この魔法の壁ごと移動はできないし……。


「テンダは何か他にいい魔法とか―」


プロップはテンダに相談を持ちかけようと試みたが、その言葉が終わらない内に、テンダは何も言わず矢のように光の部屋から飛び出して行った。


「って、あれ?え?テンダ?」






◆11◆






もはや先ほどまでとはまったくの別人と言ってもいいほどの威圧感を放ち、自分を殺すという明確な意思を示している黒衣の女を眺めながら、それでもティトの闘争心がよみがえることはなかった。


―歳をとったんだな……昔の私なら、こんな化け物を目の当たりにしたらさぞ興奮したろうだろうに……。


「私はこれ以上戦う気はないよ。フロル、君は壊れているんだ」


フロルへの恐怖はあったが、それよりも哀れみの方が勝った。


「君を助けたい、と言えば偽善のように聞こえるかな。だが少なくとも我々が戦う意味はない!君を利用している連中が笑うだけだ!このままでは、君は壊れ続けて何もかも手遅れになるぞ!」


「私に人は説けない」必死なティトとは対照的に、フロルは相変わらず淫靡な笑みを浮かべながら冷たい言葉を返した。「失望させるな!お前も私と同じだろ?自分の業をすべて解放してみたいんだろ?それだけの理由で十分なんだ。その魔力をすべて使い果たしてみたいんだろ?」


「君の言っていることは理解できるよ。かつて、そういう風に思っていた頃もある」ティトは人さし指で眼鏡のずれを直した。「だけど今は違う。と言うより、君と私は根本が違うんだ……人の道を説こうなんて思っちゃいないさ。ただ、一緒に考えてみないか?君自身について。そして我々が何をすべきかについて、だ」


「……お前を見損なったよ」フロルは下段に構えていた虹の女王から左手だけを放し、中指と薬指を刀身の根元にあてた。「所詮はお前も私の世界には入れないようだな。これ以上の話し合いは時間の無駄だ!」


―さあ、お前たち。これから女王の意見を聞こうじゃないか!私たちのうちの誰が最も正しいかについて、だ。


三人目のフロルは、どこかで聞いているであろう他の二人へそう言うと、心の中で呪文の詠唱を始めた。


虹の女王の特別な性質を生かす魔法の呪文を。


―デト神の子、フロルの名において命ずる。我こそが終焉を告げる者、略奪の爪を晒し、日々の影を踏まん……ニ・ト・グ・ライ!


そしてその魔法は発動した。フロルが刀身にあてていた中指と薬指を先端まで滑らせると、虹の女王は青い光に包まれた。


その光は、ジ、ジ、ジ、という音を放っている。


「これは……珍しい魔法を使うんだな……そうか、その剣は虹の女王か……」


ティトはそう言ってふっと笑った。もう笑うしかなかった。それほどまでに最悪な状況に陥ってしまったのだと理解した。


―最悪の中の最悪ってところだな……もう私の言葉は届かない……か。テンダ様。ムミ様。申し訳ございません。どうやら私はここで……。





◆12◆





「ねえ、ちょっと、イカさん!あたしのこと忘れたの?ここにいるわよ!捕まえられたら、もう一回あたしの足に触らせてあげる!」


光の小部屋を抜け、スピナと玄烏賊が対峙している地底湖の中間の辺りより、やや入口寄りの位置まで移動したテンダは、両手をメガホン代わりにして挑発的にそう叫んだ。


―あいつ、いつの間に……。


触手から目を離すリスクを顧みず、スピナは思わずテンダを見た。


け、け、け、け、け、け―


挑発は効果的だった。


何本かの触手がテンダの方へ向かって行った。テンダは、わあホントに来たあ、と叫びながら全速力で光の小部屋の方へと引き返し始めた。


「ほら!早く!あんたも逃げなさいって!」


テンダが走りながら叫ぶ。スピナは、警戒すべき触手の数が減り、逃げ出す隙ができたことに気づき、赤い剣を振るって最後の牽制をすると、一目散にプロップのいる場所目指して走り出した。


テンダの様子が気になったものの、横目ですらそれを確認する余裕はない。


―二人とも、あと少しだ!頑張れ!走れ!走れ!風みたいに速く!


かざしている両手が徐々に痺れてきているのを感じながら、プロップは触手から懸命に逃げている二人の様子をはがゆい思いで見守っていた。


自分のいる位置までは、今のところテンダの方が近いが、走る速度はスピナの方が速いようだ。


―ああ、神様!白状します!今日までの僕のあなたへの信仰心は大したものではありませんでした。ですが、明日からは毎日祈りを捧げます!教会にも通います!なんなら、イメッカ中にあるすべての教会を巡ってもいい!ですから、僕らにその明日を下さい!どうかお願いします!僕と、僕の二人の友人に明日を!


プロップは必死に祈り続けた。額から流れ落ちた汗が左目に入ったが一切気にならなかった。二人は目前まで来ているが、あの触手は二人のすぐ後ろにいるのだ。


―来た!来た!来た!間に合う!


あともう少し、もう十歩以内、恐らくは二人同時に光の部屋にたどり着くだろうと確信し、プロップはやったと叫びかけた。


しかし次の瞬間、一本の触手がラストスパートだと言わんばかりに加速するのが目に入った。


その触手はやや斜め上に振り上げられ、天井近くで一瞬だけ静止すると、凄まじい勢いでスピナ目がけて振り下ろされた。


―だめだ!スピナがやられる!


プロップは思わず目を瞑った。その直後に、がんっと大きな鈍い音とともに両手に強い衝撃が走った。


恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に触手の先端があった。そして何かが肩にぶつかった。


「あ!テンダ!」ぶつかったのはテンダの肩だった。自分のすぐ右隣で、苦しそうに大きく肩で息をしている。「ス、スピナは……?」


プロップは激しい心臓の動悸を意識しながら素早く周囲を見渡した。しかしスピナの姿はどこにも見当たらなかった。


―スピナ……やっぱり、さっきのでやられ―


「ここだ……何とか間に合った……ぜ」


絶望しかけたプロップの耳に、すぐ左側からスピナの苦しそうな声が聞こえてきた。肩越しに振り返ると、うつ伏せに倒れ込んでいる親友の姿が視界の隅に入った。


二人はプロップの推測通りにほぼ同時に光の小部屋にたどり着いた。スピナの最後の一歩は頭からの滑り込みだった。そして彼に振り下ろされた触手は光の屋根に弾き返されたのだった。


光の小部屋は使用者の望むもの以外の一切を拒む。


「よかった……二人とも無事―」


状況を理解し、プロップがほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、再び光の小部屋に衝撃が走った。両手に伝わる衝撃でプロップはうわっと叫んだ。


またしても触手が振り下ろされたのだ。そう、少しましになったというだけで悪夢はまだ続いているのだ。


け、け、け、け、け、け……―


玄烏賊は相変わらず湖の中から不快な声を発し続けている。


―あいつは水から出られないんだ。でも触手はフロア中に届く……結局僕らはここから一歩も動けない……何か、何か考えなきゃ!いずれ僕の体力が尽きて、この部屋がなくなったらそれで終わりだ!


そして次の数秒でプロップの悲壮感はさらなるものとなる。


三度目の触手の鉄槌をくらった光の屋根に、小さな亀裂が入ったのだ。


「う、うそ……そんな……」


いかに自分の魔力が低いとはいえ、これはそう簡単に壊されるものではないはずだった。


―終わりだ……せめて誰か一人だけでも助かる方法は―


「ねえ、二人とも」突然テンダが口を開いた。まだ肩で息をしていた。「"とっておき"があるって言ったら信じる……?あいつを確実に一発で倒せる魔法をあたしが使えるって言ったら……信じる?」


それはどういう意味なのかと聞き返そうとしたプロップだったが、声を発する前に四度目の触手の鉄槌が振り下ろされた。


先ほどよりも強い衝撃。亀裂がさらに広がる。


「信じるも何もないだろ……この状況……何かあるんならさっさとやれよ」


だるそうに立ち上がりながらスピナがそう言った。


「それもそうね……でも」自分に言い聞かせるような口調で、テンダはゆっくりと言葉を続けた。「一歩間違えたら、あたしたちごと……この洞窟ごと破壊しかねないの……あたしに命預けられる?」




◆13◆




―かすっただけであの世行き決定だな……。


ティトは、ジ、ジ、ジ、と音を放ちながら青く輝いている虹の女王を見つめた。


あらゆる対策を考えたが、この剣が振るわれた時、自分の生存確率は限りなくゼロに近いだろうという結論に達していた。


今しがたフロルが使用したような、"冬の魔法"を修得しようとする者は世界的に見ても極めて少ない。


まったくと言っていいほど実用的ではないから、というのがその理由である。


冬の魔法にはいくつかの種類があるが、どれも"物に何かしらの力を宿す"という共通点がある。ところが、そもそも魔法に耐えられる物体というのが滅多に存在しないのだ。


もしも神が存在しているのなら(伝説によれば、そのうちの一人は宇宙の彼方に去り、もう一人はどこかへ封印されたということらしいが)何故この漆黒の女に虹の女王を与えたのだろうか?とティトは苦々しく思った。


詩的だとでも思ったのか?あるいは何か特別な理由があって、この世の中に人間の死体を増やしたかったのだろうか?


フロルが使用した魔法は、物に雷の力を宿すという効果があるのだが、ほとんどの武具は使用者の魔力に関わらず、その魔法をかけられた瞬間か、よくても数秒でバラバラに砕け散ってしまうのだ。


ところが虹の女王だけは、どういうわけかそうはならない。(詳細不明とされている製造方法や材質が関係していると考えられている)


また、虹の女王は冬の魔法以外のすべての魔法にも耐性があることが判明しており、使い手の腕次第だが、例えば相手にかけられた魔法を弾き返すといったことも可能だった。


「さて、覚悟はいいか?これで終わりだ」


フロルは左足を前に出し、攻撃の体勢に入った。


「本当にそれでいいんだな?それならそれで仕方ないが……なあ、フロル。私を殺しても構わないが、その代わりその後で少しだけ考えてくれないか?君自身のために」ティトは一切の構えをとらず、相変わらず立ちつくしたままそう言った。「何もかもやり直せるかもしれないんだぞ?自分の魂を救えるかもしれないんだ。"そう考えている君"もいるんだろ?」


「いい加減にし―」


突然胸が苦しく締めつけられ、フロルは言葉を飲み込んだ。


ティトの言葉に呼応するように、突然押さえつけられていた二人の内なる自分が抵抗を始めたのだ。


その二人が"主導権"を取り戻そうと強く胸を叩き続けている。


―今さら何だ!多くの命を奪ってきたんだ!私を攻める資格がお前らにあってたまるか!私はお前らそのものでもあるんだぞ?私たちはお互いにお互いを生み出したんだ!


フロルは叫んだ。内なる二人に向けてあらぬ限りの声を振り絞った。


内なる二人は完全に抵抗を止めはしなかったが、その声に圧倒され、徐々にその力を弱めていった。


「終わりだ……ティト、お前は終わりなんだ!」


フロルは地面を蹴り、一気に間合いを詰めた。


まさしく稲妻のような斬り下ろしだった。もはやどの方向にもかわせないと判断したティトは、杖をかざして防御の体勢を作り、ある魔法を発動させた。


それは奇しくも同じ頃、玄烏賊の洞窟内でプロップが使用していた光の部屋の防御魔法と同じものであり、プロップのそれとは比較にならないほどの強く、広範囲に及ぶものであったが、雷の剣はそれを苦もなく斬り裂いた。


意識が途切れる直前のティトの最後の記憶は、自慢の鉄の杖が粉々に砕け散っていく様だった。


ばちんと鼓膜が破れかねないほどの爆発音が響き渡り、ティトの体は勢いよく後方へ飛び、鈍い音を立てて仰向けに倒れた。


肉の焦げるにおいが辺りに立ち込めている。


衣服は焼け焦げ、全身に酷い火傷を負い、煙を漂わせているティトの姿を眺めながら、フロルは慎重に近づいていった。


―大したものだ……意識は失っているが、まだ死んではいない……か。


光の部屋と鉄の杖を砕いた手応えはあったものの、肉体を斬り裂いた確かな手応えはなかった。


―無意識に自分で後方へ跳んだ……斬撃はかわしたが電撃はかわせなかった……といったところか。


フロルは虹の女王にかけていた魔法を解除して柄を逆手に持ち直した。


心臓を串刺しにして完全に息の根を止めるつもりだった。


―くだらん……私に哀れみなど……だが、私はこの男に本気を出させたかった……。


ため息を一つつくと、フロルは剣を振り上げて心臓に狙いを定め、ためらわずに一気に振り下ろした。


ところが……。


―な……何だ?まだ邪魔をするつもりか?


剣は心臓を大きく外れ、ティトの頭のすぐそばの土の上に突き刺さった。


"お前がさっき言った通りさ"


それは皮肉屋の"二人目"のフロルの声だった。


"お前は私で私はお前なんだ。だから剣を外したのはお前自身の意思とも言えるだろ?……ああ、まったくややこしいな。とにかくもう十分だ"


内なる声が響き、三人目のフロルは突然の激しい頭痛に襲われた。


「邪魔をするな!私はまったく満足していないんだ!せめてこの男にとどめをさしてやるんだ!」


"話し合いを放棄したのはそっちだろ?ならばこちらも力ずくでやってやるさ。お前がマスターだと?ふざけるな!"


「クソが……」


フロルは片手で額を押さえ、ふらふらとよろめきながらティトの体を通り過ぎて歩き始めた。


「私は間違っていない……私は間違っていない……私は悪くない……」


三人のうち誰の意思で歩いているのか、誰の気持ちを言葉にしているのか、今現在一体誰が"マスター"なのか、あるいは四人目以降が存在しているのか、誰にもわからなかった。


彼女の進む道の先にはコヒの村がある。


多くの自分がそこにいながら、結局のところ彼女はたったの独りぼっちだった。


まったくの独りぼっちだった。





◆14◆




スピナとプロップは顔を見合わせた。しかし同じことを考えていたわけではない。


スピナとしては、どうせこのままじゃやられちまうんだから、それがどんなに危険な魔法でも構いやしないよな?という意見の一致の確認のつもりだったが、プロップにとっては、そんな魔法本当にあるのかな?という疑問の共有のための視線だった。


確かにかなりの破壊力を持つ攻撃魔法は存在する。しかしどんな熟練者であったとしても、この洞窟を一撃で破壊するということはまず考えられない。


け、け、け、け、け、け、け―


三人があれこれ考えている間にも触手の攻撃は繰り返された。上げっぱなしのプロップの両腕も悲鳴を上げ始めている。


「テンダ、よくわからないけどやっちゃってよ!それで死ぬことになったとしても、あいつに食われるよりましだよ!」


「ああ、そうだな。他にアイディアはないんだ。今はお前を信じるよ……」


二人の言葉を受け、テンダは無言で頷いた。そして深呼吸を一つして、両手を玄烏賊のいる方向へかざした。


「じゃあ、いくわよ……ちょっと時間がかかるけど、話しかけたりしないでね……」


―落ち着いて。多分いける……あの化け物をバラバラにできるくらいの力……そんな大きな力で発動させたことはないけど……イメージを膨らませて……あたしは天才……間違えたら何もかも壊してしまう……集中、集中……。


目を閉じて集中しているテンダの横顔と、執拗に繰り返される触手の攻撃により次第に広がっていく光の屋根の亀裂を交互に見ながら、スピナはもどかしさで気が狂いそうになった。


―数を間違えたら何もかも終わり……いくわよ……011011100101100010011000010001100000100001―


け、け、け、け、け―


徐々にコツをつかんできたとでも言うように、玄烏賊の次の攻撃は二本の触手による連続の打撃だった。


屋根の亀裂の深刻さ。今にも泣き出しそうなプロップの顔。未だ詠唱を終える気配のないテンダの様子。


スピナはついに決断を下した。


「ミシュ、もう一回行かなきゃならないみたいだ……おいらのそばにいてくれ……」


テンダの集中を乱さぬようにそっと赤い剣に囁くと、スピナは意を決して光の部屋から飛び出した。


「あ―」


またしても死地へと赴いて行った親友の背中が視界に入り、プロップは思わず叫び声を上げそうになったが、テンダが詠唱中であることを思い出して慌てて言葉を飲み込んだ。


―スピナ……この部屋からあいつの気を逸らすために……。


ところが、今回はすべての触手がスピナを無視して光の小部屋の破壊に集中し続けた。


スピナに気づいていないのか、それとも何の意思も感じさせない巨大な瞳から受ける印象とは対照的に、相手が最も嫌がることを理解しているのかはわからなかったが、スピナにはこの怪物の"けけけけ"が初めて嘲笑のように聞こえた。


「クソったれが!こっちを見ろ!女とひょろっちいガキを先に狙うのかよ!卑怯だぞ!」


しかし必死の挑発もまるで意味をなさなかった。スピナは地面に唾を吐き捨てると、地底湖目ざして全力で走り出した。


―こうなったら意地でもこっち向かせてやるからな!


わずかにスピナの叫び声が耳に入ったテンダは、何が起こっているのかしらという考えが頭の隅を過ったが、すぐさまそれを追い払い、詠唱に集中した。


―1000000……1000001……これくらいかな?いや、多過ぎる……かな?


険しい表情で何やら悩んでいるらしいテンダの表情を肩越しに見ていたプロップは、ふと自分の肩に何かが落ちて消えるのを視界の隅にとらえた。


それが何であるか気づくと、気色の悪い虫が背骨を駆け上がって行くような強烈な悪寒を覚えた。


―ああ、神様!何てこった……ついに……。


それは光の屋根の破片だった。ついに崩れ始めたのだ。よく目を凝らすと、屋根には拳大の多角形の穴がぽかりと空いている。


―もう、一発も耐えられないかも……。


そして無情にも次の鉄槌は既に振り上げられていた。プロップは目を瞑って体を強ばらせた。


「シカトぶっこいてんじゃねえぞ!隙だらけだぜ!」


スピナの叫び声とともに赤い閃光が地底湖を通過した。


スピナの手から放たれた赤い剣は、流星のように速く、一直線に突き進み、いにしえの怪物の巨大な左目に突き刺さった。


け、けけけけけ―


玄烏賊の声が高らかなものに変わった。すべての触手が弾かれたように地底湖へと引き返す。


恐る恐る目を開け、状況を理解したプロップは、歓喜のあまり思わず頬がゆるんだ。


―スピナ!やった!すげえや!


もはや玄烏賊はスピナを完全に無視していた。目に剣が刺さったことでよほど混乱しているのか、触手は狂ったようにそこら中の地面を叩きまくっている。


テンダの詠唱の邪魔になってしまうため何とか我慢したが、プロップは今すぐに歓喜の叫び声を上げたくて仕方なかった。


あとはスピナがこちらに引き返し、テンダの"とっておき"の魔法とやらが発動すれば大逆転勝利だ。


いや、魔法の失敗のリスクを考え、あるいはテンダに詠唱を止めさせて今の隙に三人揃って逃走した方がいいのかもしれない。


―いずれにしろ僕らは助かるんだ!ああ、神様。僕はあなたを愛しています!


しかし喜びも束の間。プロップは再び奈落の底へ叩き落とされることとなる。


―おい、何してんだよ?あの馬鹿スピナ!


あろうことか、ウォオオという雄叫びとともに、凄まじい勢いの助走をつけて、愛すべき友人は地底湖へ向かって跳んでいったのである。


そして、ぎりぎりのところで、玄烏賊の目に突き刺さっている赤い剣の柄に両手でつかまることに成功したものの、両足はぶらぶらと足場を探しており、何とも危なっかしい状態だった。


そして彼の真下には、あの恐ろしい玄烏賊の巨大な口が待ち構えている。


それにしても酷いにおいだ、とスピナは思った。


腐敗した肉、血、骨、水。


頭の中にあるあらゆる言葉を用いても表現しきれない臭い。


吐き気と目眩に必死で耐えながら、それでもスピナは笑っていた。


何も考えず無鉄砲にこんなことをしているわけではなかった。プロップと同じように、今の隙に逃げ出せるという考えも頭を過った。


しかし、どうしてもそうすることはできなかった。


「ミシュ、思わず投げちまって悪かったな。でも、おいらは君から離れたりしないよ……」


たとえこのまま死ぬことになったとしても、この赤い剣を見捨てるような真似はしたくなかった。


―約束したからな……君の代わりにこの剣を守るって……。


「スピナ!……スピナ!」


プロップが叫んだ。もはやテンダの詠唱を気にしてはいられない。スピナの命は風前の灯火だ。


しかしプロップには名前を呼ぶことしかできなかった。


スピナが赤い剣に抱いている愛情は十分に理解していた。そのため、自分がどんな言葉をかけようとも、剣から手を放してどうにか脱出するよう説得するのは困難だろうと思えた。


プロップの声を耳にしたテンダは、何かいいことが起こったのだろうかとちらりと考えた。玄烏賊の攻撃が止んでいることにも気づいていた。


―よくわかんないけど、あのボサボサ頭が何かやったのね?……ちょっとは見直してやろうかしら……。


積み重ねた"数字の量"を慎重に確認し、これ以上ないほどに適切と判断すると、テンダは詠唱の最終段階に入った。


"大いなる宇宙意思の子、テンダの名において万物の凍結を命ずる……始まりと終わりの星、その空白を線で繋ぎ加速せよ……そして我が道を塞ぐ者より那由多の時を奪え!……レ・テ・イ・グ・エ・ト・ラ・ヴィ!"


そしてついにテンダの"とっておき"の魔法が発動した。


刹那、プロップは強い風が吹き抜けて行くのを感じた。否、それは強いて言うなら"風"というものだった。


その風は洞窟中から玄烏賊に向けて一斉に集まってきているようだった。


しばらくすると、丈夫な布を力まかせに引き裂いたような、ばりばりという激しい音が響き渡った。


そして玄烏賊の体の中心から、黒い半透明の光が広がり、やがて体全体を包み込む球体と化した。


―何だこれ……?こんな魔法……。


見たことも聞いたこともない魔法を目の当たりにし、呆気に取られ、口をあんぐりと開けていたプロップの背中をテンダが力強く叩いた。


プロップが驚いて振り返ると、勝ち誇った笑顔でガッツポーズを決めているテンダの姿が目に入った。


「プーちゃん!今の見てた?大成功よ!もうあなたは魔法を解除しても大丈夫よ!やっぱあたしっててんさ―」玄烏賊を指さしながらそう言っていたテンダの笑顔が突然凍りついた。玄烏賊の巨大な目にぶら下がっている"何か"に気がついたのだ。「え……?ねえ、プーちゃん。あそこにいるのって……あたしの見間違えじゃないわよね?」


「うん、スピナだよ……」光の小部屋を解除して、腕を下げながらプロップはそう答え、両腕の軋むような痛みに顔をしかめた。「ねえ、テンダ。嫌な予感がするからあんまり聞きたくないんだけどさ、この魔法ってこの後どうなるの?」


「ど、どうなるって、それは……」


すっかり青ざめた顔でそう答えたテンダは、一瞬の間の後に弾かれたように地底湖目ざして走り出した。


それを見たプロップはクソッと一言吐き捨てると、慌ててその後を追った。


玄烏賊を包み込む黒い球体が激しく振動した。布を引き裂くような音は次第に高まっていく。


「あんた何してんのよ!バカ!早く湖に飛び込んで!巻き込まれちゃうわ!」


「スピナ!剣から手を放すんだ!気持ちはわかるけど、君が死んだら何の意味もないじゃないか!」


走りながら二人は必死に叫んだが、その声は届いていないようだった。スピナは相変わらず剣の柄にぶら下がったまま足をじたばたと動かしている。


ほどなくして、スピナごと玄烏賊の体を包み込んでいる黒い球体が縮小し始めるのを見たテンダは、絶望のあまり足を止めて両膝を地面につき、両手で口元を覆った。


「プーちゃん、止まって!」


自分のそばを通り過ぎ、さらに先へと走って行くプロップを見てテンダは慌てて呼び止めたが、プロップはそれを無視した。


「止まって!お願いだから!」


続けて怒気を含む口調でそう叫ぶと、プロップは少しためらいながらも、ようやく立ち止まってテンダを振り返った。


「どうしたのさ?スピナは気づいてないんだ!もっと近くに行かなきゃ!」


「だめなの!これ以上近づいたらあたしたちも"吸い込まれる"かもしれない……本当にごめんなさい……あいつ……もう間に合わない……」


「間に合わないって何さ……?」プロップは胸の奥から沸き上がる苛立ちを抑えることができなかった。テンダの言葉の意味するところは理解できるが、とても受け入れることはできない。「間に合わないって何だよ!」


テンダは何も答えず、悲しげな表情を浮かべたままただうつむいているだけだった。


―あたしのせいで……あたしのせいで……。


今はこれ以上テンダに何を言っても無駄だと判断し、プロップは地底湖を振り返った。


―あきらめてたまるか!まだ何かできることがあるはずだ!


黒い球体は相変わらずばりばりと音をたてながら縮小を続けており、玄烏賊の"けけけけ"と不気味な不協和音を奏でている。


今やその大きさは玄烏賊の目と同じ程度まで縮んでいた。


玄烏賊は、もはや何もかもあきらめたというように身動き一つせずにただ声を上げ続けている。すべての触手は力なく地面に張りついていた。


―あれ……?


プロップは初めそれを見間違えだと思った。あるいは自分の心がそれを望んでいるがために、自分の目に幻覚を見せているのだと。


―スピナがいない!


何度か目をこすり、それが幻覚ではないと確信すると、プロップの胸の中にわずかながら希望の風が吹いた。


玄烏賊の目の、先ほどまで赤い剣が刺さっていた部分からは、どろどろとした白い液体が溢れ出していたが、赤い剣とスピナの姿はどこにも見当たらないのだ。


「スピナ?どこに行った?……ねえ、テンダ!スピナがいないよ!脱出できたのかも!」


プロップは振り返らずに、玄烏賊と黒い球体の様子を見つめたまま呼びかけた。テンダにもそれを確認させて確信をより深めたいという一心だった。


しかしテンダにはその声は届いていなかった。


それは、その声が玄烏賊と黒い球体の不協和音に半ば埋もれてしまったからという理由だけでなく、テンダの理性が崩壊しかかっていたためでもあった。


「あたしのせいで……みんな……死……あたしが呪われてるから……こんな力……」


知らず知らずのうちに、テンダは口に出してそう呟いていた。


「テンダ?聞いてる?スピナが―」


返答がなかったため、プロップは再度呼びかけようとしたが、思わずその言葉を飲み込んでしまった。


縮小し続けていた黒い球体が完全に姿を消した。その途端にあのばりばりという音と玄烏賊の声が鳴り止み、不気味な静寂が訪れたのだ。


―止まった……何がどうなっ―


プロップが何かを考える間もなく、静寂はすぐに破られた。


後にプロップはその時のことを何度も思い出すことになるが、その度にいくら思考を巡らせても"その音"を的確に表現する言葉を見つけることはできなかった。


"水の詰まった袋が破裂する巨大な音"


強いて言えばこれが最も近いだろう。


それは玄烏賊の身体が木端微塵に破裂する音だった。


しかし的確ではない。そこにはあの魔法が関係しているのか、もっと違う何かの音も混じっており、それにいたっては強いて上げられる喩えすら思い浮かばなかった。


プロップは反射的に両腕で顔を覆った。


黄ばんだ無数のバラバラになった肉片。鋸型の牙が付着した肉片もある。濁った白い液体や闇のように黒い墨といった体液。それらが地面や湖に降り注がれる音が響き渡る。


プロップとテンダのいる位置までは届かなかったものの、地底湖とその周辺は、今や破裂した玄烏賊の残骸が散乱した地獄絵図と化していた。


その地獄絵図を描いた頭のいかれた絵師が、最後の彩りとして加えた線であるとでもいうように、魔法の黒い球体に収まらなかった触手が地面に横たわっている。


一連の音が収まり、あたりが再び静まると、プロップは両腕を上げてその光景を見た。


あまりの凄惨さに声を上げることができず、茫然と立ちつくしてしまったが、先ほどスピナの姿が見当たらなかったというわずかな希望を目の当たりにしていたため、その光景をかろうじて直視していることはできた。


しかし、テンダはそうではなかった。


その光景を見た直後に目を瞑り、そして開くことができくなった。


―あいつ……あいつの体が……。


この残骸の中のどこかにスピナの体の一部が混じっているという考えが頭から離れず、それが唯一の思考としてテンダの心を支配した。


―う……う……あ……あ……。


テンダは両手と両膝をつき、胃の中身をすべて地面にぶちまけた。


はらわたが震え、さらにそこを不快な痛みが襲う。吐瀉物が手の甲にかかったが、悲しみと苦しみが胸を埋め尽くし、そんなことは一切気にさせなかった。


プロップはテンダの嗚咽を耳にしてもしばらくの間振り返ることができなかったが、やがてわずかに平静を取り戻すと、素早く振り返り彼女に駆け寄った。


「テンダ、大丈夫?」プロップはゆっくりとテンダの背中をさすった。レザージャケット越しに彼女の体の震えが伝わってきた。「大丈夫かい?」


「し……し……しんじゃっ……あ……いつ……」


「テンダ、喋らなくていいよ……苦しいでしょ?それに―」テンダの背中から手を伝う体の震えは、同時に彼女の悲しみも運んできた。それはプロップの喉の奥を襲い、声を詰まらせた。「スピナのことなら、多分……多分だけど、大丈夫だと思うんだ。さっきね……つまり玄烏賊の体が破裂する前って意味だけど、スピナはいなくなってたんだ。うまく逃げたのかも……多分……だけど」


「そんなはずない……"あれ"は―」ようやく嘔吐が収まったものの、テンダはそのままの姿勢で目も開けず、体を震わせたままだった。強く閉じられたまぶたを無理やりこじ開け、涙が溢れ出そうとしていた。「"あれ"からは逃げられない……"あの状態"からは……決して……存在してはならない魔法……」


―え……?


プロップは思わずテンダから手を離して立ち上がり、地底湖を振り返った。


テンダの言葉の後半部分を聞き取ることができなかった。


他の何かの音に邪魔されたためである。


その"音"は……。


「テンダ、今の聞こえた?」


プロップはほとんど独り言のようにそう呟いた。テンダが話している途中からそれは聞こえてきたのだ。彼女に聞き取れたはずはない。それはわかりきっていた。


しかし、口に出して確認せずにはいられなかった。何故ならそれはあまりにも喜ばしい"音"だからだ。天の福音のように。


「空耳じゃない……空耳じゃない!」プロップの両足は半ば無意識に動き出していた。「テンダ!スピナの声だ!やっぱり大丈夫だったんだ!僕ら全員大丈夫なんだ!まだまだ陰気な洞窟の旅は続くんだ!三人仲良く揃ってさ!ああ、そうとも!クソったれの幽霊と神様たちにサンキューって言おうよ!もう、まったくクソったれにバンザイって感じだ!」


ほとんど意味不明な言葉を笑顔で喚き散らしながら地底湖の方へ走り去って行くプロップの背中を、テンダは茫然と見送った。まったく状況が理解できなかった。


―プーちゃん?おかしくなっちゃったの?何て言ったの?声?神様にサンキュー……って?


先ほどまでの疲労はどこへ消えたのだろうか。プロップの両足は、まるで羽が生えているとでもいうように軽やかに地を駆けた。


でこぼこだらけの洞窟の地面を名馬のように速く。


あまりお洒落とは言い難いレザーブーツが、(プロップ本人はそうは思っていないが)時折忌まわしい肉片を踏みつけ、よろめきそうにもなったが、そんなことは一切気にならなかった。


もはやはっきりと"それ"が耳に入ってきているのだ。


「プー!聞こえてるのか?おいらはここだ!」


バシャバシャと水の跳ねる音をBGMにして聞こえてくるスピナの声。


赤い短剣とお話しできる変わり者。無知で、無鉄砲で、無愛想で、どうしようもなく愛しいあの悪友の声だ。


「聞こえてるとも!今行くよ!」


はやる気持ちを抑えつつ、湖の前までたどり着いたプロップは、玄烏賊の肉片が散りばめられ、墨で黒く染められた、悪魔のスープと化した地底湖を注意深く見渡した。


「プー!遅えよ!手を貸してくれ!一人じゃ上がれそうにないんだ!体が鉛みてえに重いんだ!」


「わあ!スピナ!よかった!……よかった!無事で……よかった!」


湖のやや東側に、黒く汚れきったスピナの顔が水面から出ているのを見つけたプロップは、飛び上がってバンザイをした。


「まったくの無事ってわけじゃねえよ!この水見ろよ……気持ち悪いし、臭えしよ……」


スピナはしかめ面を浮かべながら、平泳ぎでプロップの方へ向かって行った。


「ここんとこ泳ぐ機会が多いね。スピナ」プロップは中腰になり、手を伸ばしてスピナを待ち構えながら笑顔でそう言った。「川、湖ときて、次は海かもね!」


「笑えねえよ!」湖の縁までたどり着いたスピナは、苦しそうに呻きながら縁の岩肌に手をかけて体を水面から持ち上げると、何度か挑戦した後にようやくプロップの手をつかむことに成功した。「放すなよ!プー、放す……なよ!」


「この、おもっ、重い!すべっ、滑る!う、う……」


水を吸収した衣服の重さに加え、スピナの腕は湖の水でヌルヌルと滑る。プロップは力の限りふんばり、歯をくいしばった。


この"ヌルヌル"はつまり玄烏賊の肉片や体液なのか?と一瞬考えたが、慌ててそれを頭の中から追い払った。


そして"勝利の瞬間"は訪れた。


二人は言葉にならない叫び声を上げ、ようやくスピナの体は湖の外へ脱出した。


スピナを引っ張っていた勢いに任せ、プロップは仰向けに地面に倒れ込んだ。


背中と後頭部を軽く打ちつけてしまったが、嬉しさのあまりその痛みすら心地よいものに感じられ、天井を見つめたまま声を上げて笑った。


スピナもプロップと同じように、引っ張られた勢いそのままにうつ伏せに地面に倒れ込むと、あたりを埋めつくす残骸に顔をしかめながらも、かっかっかと乾いた笑い声を上げた。


「"雇い主様"も無事か?イカ野郎をバラバラにしてやったんだな?」


しばらくして笑いが収まると、スピナは顔だけ動かしてプロップを見た。


「うん、無事だよ。テンダがやってやったんだ!"とっておきの魔法"でね。あの化け物をクソったれのイカの刺身にしてやったんだ!」


「そうか。つまり、クソったれのイカのキンタマの刺身にしてやったんだな?そうなんだな?」


「そう、その通りだよ!つまり、クソったれのイカのキンタマの、びびって縮んじゃったシワシワの刺身にしてやったってことだよ!」


プロップがそう言い終えると、それから二人は寝そべったままゲラゲラと笑い続けた。


地獄絵図のような地底湖に二人の少年の笑い声が響き渡った。


それはまったくもって異様な光景だった。





◆15◆





遠くで聞こえる二人の少年の叫び声は笑い声に変わった。しばらくしてそれが収まると、やがてボロボロに汚れた少年たちが戻ってきた。


全身真っ黒に汚れたスピナの姿を目の前にしてもなお、テンダの頭の中はぐちゃぐちゃに混乱したままであり、立ち上がりはしたものの、茫然と彼の姿を見つめたまま立ちつくすばかりだった。


「よう、元気か?」


スピナは苦笑しながらテンダに声をかけた。


未だにあまり好感を抱けない相手ではあったが、地獄のような状況から生還したという嬉しさ、彼女の魔法が決め手になったという事実に対する敬意といった複雑な感情が胸の中を渦巻いていた。


「……聞いてんのか?」瞬きもせずに無言のまま、ただ自分を見つめているテンダを不気味に思い、スピナは手の平を彼女の顔の前で何度か振った。「おい!大丈夫かよ?」


テンダは一向に反応を示さなかった。スピナはばつが悪くなり、横にいるプロップと顔を見合わせた。プロップもどうしていいかわからないという表情を浮かべている。


―生きてる……。


しばらくして、テンダの胸の中に、ようやく言葉らしい言葉が浮かんだ。


―生きてる……あの状況から?あり得ない……でも生きてる……今目の前にいる……あの魔法から逃れた?……あたしの魔法から……呪われた力から……。


"知ってるでしょ?"


唐突にテンダの脳が忌まわしい記憶を呼び起こした。愛しい人の声で告げられた忌まわしい言葉。


"知ってるでしょ?自分が何者か知ってるでしょ?誰も救えないってこと。ずっと独りぼっちから解放されないってこと。居場所なんてどこにもないってこと。永遠にお父様に認められはしないってこと"


耳を疑った。聞き間違えではなかった。ムミの口から出た言葉。


その時、彼女は既に術により正気を失っていたのだと後に知ることになった。


今目の前にいる、不思議な赤い短剣を持つ少年の口からその事実を告げられたのだ。


―ムミ、知ってるわ。あたしは自分が何者か知ってるわ……でも―


テンダは心の中でそう呟いた。あの時はムミに何も言い返せなかった。しかし今ならはっきりと言える。


それは決して誰にも届くはずのない言葉であり、また、何故自分がそう思うのかが自分でも理解できない不思議な言葉だった。


―違うかもしれない……そうじゃないかもしれない……。


そして、その言葉を呟いた瞬間から心が高揚していることに気づき、テンダはそのことに自分で驚いた。


―だって、こいつは……このボサボサ頭野郎は……バカでムカつくやつだけど、でも生きてるし、相変わらずのバカ面で……えっと、何て言うか……。


「いい加減にしろよ!」


業を煮やしたスピナの怒鳴り声で、テンダははっと我に返った。眉間に皺を寄せたスピナの顔が目に飛び込んできた。


「ボケっとしやがって!おいらの顔に何かついてるってのかよ?って言うかよ―」スピナはテンダの足下に広がる、彼女の吐瀉物を指さした。「お前、ゲロ吐いたのかよ?汚ねえな!」


「ついてる」テンダはゆっくりとスピナの顔を指さした。「顔、ついてる」


「ああ?」


スピナが両手を広げて聞き返すと、テンダは無言で自分のこめかみのあたりを指さし、もう一度スピナの顔を指さした。


「う、うわっ!」


自分のこめかみに何か付着しているのだと気づき、そこへ手をやったスピナは、それが玄烏賊の肉片だと気づくと慌てて引き剥がして地面に叩きつけた。


「ねえ、それからさあ」テンダはスピナに二歩近づき、間合いを詰めた。「女の子に向かって"汚ねえ"とか言わないでね?二度と……ね?ね?」


それは最後の"ね?"と同時だった。


突き上げられたテンダの右の拳が、スピナの腹、へそのすぐ横に叩き込まれた。


ぐおっと呻き、スピナは体をくの字に折り曲げた。


「て、テンダ!何もそこまで―」プロップは驚き、テンダに非難の視線を送ったが、凍りつくような視線を返され慌てて目を逸らしてうつむいた。「い、いえ、何でもありません……スピナが悪いと思います……女の子に向かって"汚ねえ"なんてね……」


あはは、というプロップの空笑いが虚しく響き渡った。


「この……アマ……」怒りの炎を瞳に浮かべながら上体を起こし、スピナはテンダを睨みつけた。「今度という今度は―」


ぶっ飛ばしてやる、と叫ぼうとしたが、スピナは思わずその言葉を飲み込んでしまった。


顎をわずかに下げ、やや上目遣いに自分を見つめているテンダの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていたからだ。


「お、おい、お前よう、な、泣けば許すとかよう、そ、そう思ってんなら、大間違いだぞ!」


気を取り直し、凄んでみせようとしたスピナだったが、思うように言葉が出てこなかった。"このタイミング"で"この女が"泣いたということに完全に虚を突かれ動揺してしまった。


テンダの涙は止まることなく、むしろその勢いを増し、しまいには両手で顔を覆っての号泣となった。


「い、いや、その、あの……」


スピナはすっかりばつが悪くなり、助けを求めるようにプロップの顔を見た。


プロップは、"早くあやまれ!"と声を出さずに口だけを動かしてスピナを睨んだ。


「わ、悪かったって。でもよ、そんな……泣くほどのことでもないじゃんか……って思うんだけど……」


しかしテンダは泣き続けたままだった。スピナはゆっくりとプロップに近づいた。


「よく見りゃあよ、お前、何だか、いっぱい血出てるな」スピナは作り笑いを浮かべながら、テンダの顔と右足を交互に指さした。そこには玄烏賊につかまれて地面に引きずられた時にできた傷がいくつもあり、滲んだ血が固まりかかっていた。「お、おいら、何か拭くやつ探してきてやるよ!布とかさ……投げ捨てちまった荷物を拾い集めながらさ」


それからスピナはプロップの肩をぽんっと叩いた。


「その間によう、プーに魔法で治療しててもらえよ!……じゃあ、プー、後は頼んだぞ!」


「ち、ちょっ、スピ―」


プロップの返事を待たず、スピナは逃げるように走り去って行った。プロップは心の中で"ええっ?"と叫びながらその背中を見送った後、未だ泣き続けるテンダに向き直り、わざとらし咳払いを一つしてから恐る恐る近づいた。


「テンダさん。聞いての通りです。魔法をかけます。えっと、僕はまだ口に出して詠唱しなきゃいけないんで、ちょっとだけうるさいかもしれませんが―」


「生きてるね……」


プロップの言葉を遮り、涙をすすりながらテンダがぽつりと呟いた。


「え?」


「あいつ、生きてるね……」


「は、はあ……」


スピナのことを言ってるのかな、とプロップは首を傾げた。何と返事をしようかと迷っていると、突然テンダが泣きながらえへへと笑った。


―わ、笑った?まるで、ちっちゃい子供みたいだな……どうしよ……?


プロップは言うべき言葉が見つからず、また、詠唱を始めていいものかもわからず、仕方なくテンダに合わせて笑った。


テンダは、ジャケットの袖で涙を拭いながら笑い続けた。


この場所には到底似つかわしくない、太陽の光を浴びて輝く夏の花のような、何とも明るく眩しい笑顔だった。


―ムミ……あたしは自分が何者か知ってるわ。でも違うかもしれない……本当はそうじゃないかもしれない……せめてそう思うだけなら……いいよね?




◆◆◆





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