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〈Ⅰ‐Ⅳ〉いにしえの怪物(前編)




◆1◆




"スピナ、僕の言葉を聞いて!今すぐにだ!"


どこからか聞こえてくる声にスピナは不快感を覚えた。


―プー、うるさいぞ!まだ朝じゃないだろ!


"僕はプロップじゃないよ。目を開けて"


―確かにプーはこんな大人っぽい声じゃないな……。


スピナは渋々目を開けた。しかし、まだ目覚めたばかりということを踏まえても不自然なほどに視界がぼやけている。


それにこの場所は……。


―ここは……?ミシュの森……なのか?


懐かしさで胸が押しつぶされそうになった。ここはフクロウと虫たちの合唱に祝福され、優しい満月に見守られているあの森に間違いなかった。


スピナはゆっくりと立ち上がりながら、何度も周囲を見渡した。


"そうじゃないよ。君が最も望んでいるものが映し出されているだけなんだ……何故なら"


―そうか!おいらは夢を見ているんだ!


"そう、その通り。いいかい、スピナ。これ以上質問をしてはいけないよ。たったひとつの質問もね"


―君は誰だ?どこにいる?


スピナはそう訊ねながらもう一度周囲を見渡した。


すると、突然景色が激しく歪み始め、ただでさえ視界がぼやけているため何がなんだかわからなくなった。


"質問はだめだって言ったばかりじゃないか"


景色が元に戻り始めた。しばらくして完全に元通りになると、目の前に白いローブを着た少年がぼんやりと姿を現した。


自分と同い年くらいだろうか、とスピナは思った。


"質問する度に歪んでいくんだ。夢の中だからね。質問は目覚めた後にしなければならない"


声の主はこの少年で間違いなさそうだ。とても大人っぽく、美しい声だった。そして彼の顔は……。


―一体何がどうなってんだ?……それに君の顔は―


"質問はだめなんだ!君は目覚めるといつも忘れてしまう。僕の言葉だけを聞いて。意味は目覚めてから考えるんだ"


―言葉……君の言葉。


"じゃあ、始めるよ?"


―意味は……目覚めてから考える。


"洞窟に入ったら湖に気をつけて"


―洞窟……げかの洞窟?


"仮面の男はあいつを蘇らせようとしている"


―仮面の男……骨の手の男。


"仮面の男はミシュを恐れている"


―ミシュ……まだあの森に?


"君がテンダを守るんだ"


―おいら、あの女嫌いだ!……多分、嫌いなんだ……と……思う。


"僕はいつでも君のそばにいるよ"


―君は……誰なんだ?


またしても景色が歪み始めた。先ほどよりもさらに激しい歪みだった。


"質問はだめなんだ……ああ、また忘れてしまう"


―おいら、君を知ってるぞ?どこかで会ったはずだ!


"僕たちは君の夢を見ている"


―夢?これはおいらの夢だろ?


"崩れ始めているんだ。僕の言葉も……君がたくさん質問をしたせいだよ"


―だって、君の顔……どうしても思い出したいんだ!


"君がそれを望むなら……ああスピナ、本当に心からそれを望むなら……いつか僕を太陽の塔へ連れて行って!"


―たい……よう……?


"仮面の男たちを救うんだ"


―仮面の男……骨の手の男?


"君の夢を見ている……いつまでも消えないように……"


その時突然、まばゆい光がスピナの目に飛び込んできた。


反射的に目を閉じると、今度は全身が石像のように固まって動かなくなっていることに気がついた。


もう一度目を開けることも、声を出すこともできず、呼吸さえできなかった。


―どうなってんだ……?


このまま死んでしまうかもしれないという考えが頭を過った。


そして、その後。その後は……。




◆2◆




「スピナ、起きなよ!今すぐだ!」


どこからか聞こえてくる声にスピナは不快感を覚えた。


「プ……う……う……るさ……いぞ……まだ……朝じゃ……あ……ない……だろ」


「もう朝だよ!みんな起きてるよ!」


「たい……よ……う……の」


スピナはうんうんと唸って寝返りをうった。


ベッドのそばから呆れ顔でスピナの顔を覗き込みながら、こいつを起こすのは骨が折れそうだと思い、プロップはかぶりを振った。


「ああ、太陽は昇ったよ!僕らは追われている身なんだ!早いとこ洞窟に入らなきゃ!」


「洞窟……げかの洞窟」


「そう、玄烏賊の洞窟!みんなを待たせちゃ悪いよ!」


「洞窟に入ったら……湖に気をつける」


「何寝ぼけてんのさ!早く起きなよ!」このままでは埒があかないと、プロップは掛け布団に手を伸ばした。「このっ!」


布団を取り上げようと懸命に引っ張ったが、スピナがううと唸りながら両手で布団の端を強くつかんで抵抗してきたため、引っ張っり合いになってしまった。


「早く起きろっつってんだろ!このネボスケのネグセ男!」


プロップはベッドのボトムの板に足をかけ、渾身の力を込めて布団を引っ張った。


―起きたら……忘れる?


突然スピナがぱっと目を開き、布団を放して上半身を起こした。引っ張っていた勢いで、プロップは派手にひっくり返り尻餅をついた。


―あれ?


スピナは背中や首筋を掻きながら辺りを見渡した。


窓から光はほとんど差し込んできてはおらず、外はまだ薄暗いようだったが、どこからか聞こえてくる小鳥のさえずりが朝を感じさせた。


枕元の時計へ目をやると、針は六時十二分あたりを指していた。


―夢……何か大事な夢を……。


「ス……ピナ」


尻をさすりながら、プロップはゆっくりと立ち上がった。


「プー、おいら大事な夢を見たんだ」


突然マットがぼんっと揺れ、スピナは驚いて体をびくっと震わせた。プロップが両手の拳をマットに叩きつけたのだ。


「ああ、そうだろうとも!さぞかし楽しい夢だったろうね!」


プロップの剣幕に、スピナは無意識のうちに、身を守ろうと枕へ手を伸ばしていた。


「な、何怒ってんだよ?」


「もういいからとっとと顔洗ってきなよ!このタコ!」


そう叫んでもう一度マットを叩いた後、プロップはぶつぶつと文句を言いながら部屋を出て行った。


「朝からうるさいやつ……」


一人きりになると、小鳥のさえずりと時計の針の音がやけに大きく聞こえた。


―あれ……?で、何だっけ?




◆3◆




マクスカシティ王宮内。


ここにも朝は訪れている。


フロルは午前六時ちょうどに目を覚ました。厳密には時計の針が六時ちょうどを指す何分の一秒か前だった。


彼女の体は、自らが望む時間に目を覚ませるように訓練されている。


ベッドの温もりに少しも未練を残さずに素早く起き上がり、軽く全身をほぐすと、それからカーテンと窓を開けた。


窓から眺望できる美しい朝の風景に何かしらの感慨が湧くこともない。部屋の衛生を保つために窓を開けたに過ぎなかった。


顔を洗い、髪を整えたら後はいつもの黒衣に身を包み、黒いブーツを履いて剣を腰に下げるだけ。


彼女は化粧をしない。彼女に与えられる"仕事"は"女"を武器にするものではないからだ。


ならば化粧など時間の無駄だった。それで体調が良くなるわけでもなく、剣が速くなることもない。


さらには、精神に良い作用をもたらすということもない。彼女は自分の美しさに喜びも悲しみも感じたりはしない。


何故なら"死"は平等に、無慈悲に、ためらいなく扉を開けてすべての生命の前に現れるからだ。


そして彼女の住む世界には、その"死"が、常にすぐ隣で自分の出番を今か今かと待ち焦がれているからだ。


剣の上に乗る命の重さは、化粧をしたところで何も変わりはしない。


"かつてそうじゃない時があったはず"


最近になって頻繁に聞こえてくるようになった声の主、内なるもう一人のフロルはそう言うだろう。


そいつは更に、昨夜部屋を訪れたエスティバのことを思い出させようとするだろう。


しかしフロルはそれを無視する。それどころかそもそも聞こえていないことにさえしてしまう。


着替えを終えたフロルは、部屋の角に設置されている硝子張りのショーケースを開け、中に保管されている、自分の身長よりもやや高さのある、長方形の革張りのハードケースを取り出した。


今回は"これ"を使うつもりだった。


ケースを部屋の中央にあるテーブルの上まで運び、側面に取りつけられている金属性のロックを外して蓋を開くと、甘く心地よい木の香りが広がった。


"それ"は、くりぬかれた毛皮張りの木製のボトムにぴたりと収まっていた。


"虹の女王"


それがこの長剣の名だ。


フロルはそっと優しく虹の女王をケースから取り出すと、柄を逆手に持ち、わずかに引き抜いて、その名の由来である美しい刀身を眺めた。


見る角度により様々な色に変わる、まさしく虹の剣だ。


この剣は約四百年前にある一人の男が造り上げたという。


その男は大の人間嫌いで、金や名声に一切の興味をもたず、山に籠もってひたすら剣を造り続けていた。


そして虹の女王を完成させた朝に天に召されたという逸話が残っているが、虹の女王の製造法と男の名は何故か後世に伝わっていない。


また、"虹の女王"とはその男がつけた名ではなく、次々と人の手を渡っていくうちにいつしかそう呼ばれるようになった名であると言われている。


ある角度から見た時に刀身に浮き出る、一筋の濃い紫色の緩やかな波線が、高貴な女性の体を連想させる、というのが"女王"の由来ということらしい。


虹の衣に身を包んだ、美しく気高い女王……。


"漆黒の女"とは対照的な名を冠する女王……。


しかし、皮肉にもこの剣は、戦いの場においてフロルの最良のパートナーとなる。


フロルがあらゆる武器の中で長剣の扱いを最も得意としているからということもあるが、フロルが持つことにより、虹の女王の"ある特別な性質"が最大限に生かされるためである。


そのため、フロルはあえて滅多なことではこの剣を使ってはいけないという規則を自分に課せていた。


優れた武器は"驕り"を生み出してしまう。虹の女王に頼り、基本的な鍛練を怠ってしまわないようにするためだ。


しかし、今回の仕事では迷わずに虹の女王を使うと決めていた。


戦いにおいて"正体不明"ほど恐ろしいものはない。


昨日直面したテンダの"あの魔法"。


これまでの自分の経験を総動員しても、その正体を推測することすらできない"もっと違う別の何か"の魔法。


―決して油断はできまい……ただの少しの油断も……この剣を持ったとしてもだ。


フロルはテンダの顔を思い浮かべながら虹の女王を鞘に収めて、部屋の出口へ歩きだした。


これから街へ下り、昨日情報収集を依頼しておいたあのリッキーに会うつもりだった。


果たしてあいつは一晩でどのくらいの成果を上げただろうかと考えながら、ドアノブへ手をかけた時、不意に"あいつ"の声が聞こえてきた。


"女王の意見を聞いたか?彼女はもう仕事をしたくないと言うかもしれないぞ?もうこれ以上血を吸いたくないとな"


フロルは手を止め、少しの間立ちつくしていたが、やがてその内なる声を頭の中から追い払い、ドアを開けて部屋を出た。





◆4◆




「では、さっそく洞窟へ向かうとしよう。忘れ物はないね?」


ティトは三人を見渡してそう言った。


時刻は間もなく午前七時。


ジドの店の一階のカウンター前で、国境を目ざす三人組は横一列に整列してティトと向かい合っていた。


ジドは店の裏口の前で、鍵束の輪の部分に人さし指をかけてジャラジャラと回しながらその様子を眺めている。


「大丈夫です」


中央に立っているプロップが三人を代表してそう答えた。両脇の二人が一切口を開くつもりがないということを確信していた。


左隣に立っているスピナと右隣に立っているテンダとの間に生じている、きわめて強力な"磁場"が、早くもプロップの体を押しつぶそうとしていた。


今回の旅における自分の役割は既に決まってしまっているのだ、とプロップは腹を括った。


「朝食は弁当にしてあるから、洞窟内の適当なところで食べるといい」


ティトはテンダが背負っている、迷彩柄のアウトドア仕様のリュックを指さした。そこに弁当が入っているというわけだ。


プロップはティトの指につられたふりをして、リュックではなく、それを背負っているテンダの姿を見た。本当はずっと彼女を見ていたいのだが、何の理由もなくそうする勇気はない。


―やっぱり可愛いよな……。


今日のテンダは、パーティードレス姿ではなく、昨夜のようなラフな姿でもない、また違った印象を抱かせる服装だった。


白いVネックのシャツと、その上に着ている茶色い薄手のレザージャケットが彼女のセンスの良さを感じさせる。


また、髪は綺麗にアップされていて、頭頂部で団子状にまとめられており、前髪はヘアピンできっちり分けられていた。そしてその間から覗く額が何とも大人っぽくて色っぽい。


さらに、先に硝子細工の小さな桃色の玉がついている鎖状のピアスを右耳だけにつけており、それが髪型によく似合っている。


しかし、プロップが彼女をずっと見ていたい最大の理由はそれらではない。


それは、デニム生地のショートパンツと茶色いミニブーツの間の"聖域"。


そう、それは白く、美しく煌めく真夏の砂浜。何とも悩ましい彼女の"脚"だ。(ああ、何ということだ!もしも彼女が読心能力者だったとしたら、僕は恥ずかしさのあまり自殺してしまうに違いない)


ティトが指をさしたからという大義名分のもと、プロップは堂々と彼女の脚を見たが、やはり照れくさくなり素早くティトに視線を戻した。


罪悪感はあるが、これはもはや十六歳の男の"サガ"なのだ。


「ああ、そうだ。忘れるところだったよ。今のうちに洞窟の扉の合鍵を渡しておかなきゃ」ティトは苦笑しながら鎖に通された鍵をポケットの中から取り出した。「頼むよ、プロップ君」


「ちょっと待ってよ、ティト!」合鍵が通された鎖をプロップの首にかけようとしたティトを、テンダが慌てて制止した。「鍵はあたしが持つわ!そんな大事なもの、他人に任せられない」


ティトは一瞬だけ手を止めてテンダを見たが、その言葉には従わず、プロップの首に鎖をかけた。


「プロップ君が適任です」


「ティト?何でよ?あたしが一番年上なのよ?」


「怪力がさつ女にゃ任せられんよなあ……握ったら鍵折っちまうんじゃねえか?」


ここまで黙っていたスピナが、ふんっと鼻で笑いながら独り言のようにそう呟いた。テンダはそれを聞き逃さなかった。


「あら?何か言った?あたしおサルさんの言葉はわかんないの」


テンダは嫌味っぽく、ふふんっと笑った。


「ゴリラの言葉ならわかるってか?」


スピナがそう言い返すと、テンダはスピナを睨みつけながら、鋭く人さし指を突きつけた。


「ねえ、あんたさあ、今のうちにはっきり言っとくけど―」


「はいはい、そこまで!」ティトが手を叩いて二人を制止した。「鍵はプロップ君が持つ。それでこの話は終わりです」


スピナとテンダは互いにそっぽを向いて黙り込んだ。プロップは二人を交互に見てがっくりと肩を落とした。


―二人が仲良くしてくれたら結構楽しい旅になると思うんだけどな……まあ、そりゃあ楽しんでる場合でもないけどさ………。


「よし。じゃあ出発するとしよう!こっちだ」


ティトはジドが待つ裏口へと歩き出した。テンダがそれに続き、少し遅れてプロップ、最後にスピナと続いた。


荷物は、衣類を詰め込んでいるリュックと棒状に折り畳まれたテントをプロップが担当し、それ以外の水と食料、その他生活用品が入ったリュックと、焚き火用の薪をスピナが運ぶことになっていた。


ジドを先頭に裏口を出た一行は、村の南へと向かった。


早朝ということもあり、村人の姿はまばらだったが、誰も一行を訝しげに見るということはなかった。


もしかすると、村人には予め話を通してあるのかもしれないとプロップは思った。


―洞窟の鍵も管理しているわけだし……ジドさんって余程影響力のある人物?……なのかな?


しばらく歩いた後、一行は村の南端にある、壊れかかった木の柵に囲まれた、玄烏賊の洞窟の入り口にたどり着いた。


辺りにはまったく人気がない。


ジドは入り口を塞いでいる鋼鉄の扉の前まで行き、鍵束を探って一本の鍵をつかむと、それを鍵穴に差し込んで回した。


ガチンと大きな音と共に鍵が外れた。


そしてジドが力を込めて両手で把手を引くと、引きずられるようなぎしぎしという音を立てながら扉は開かれた。


「さあて、ちょっとした冒険の始まりだね」ティトは冗談めかしてそう言った。「くれぐれも気をつけて……プロップ君、二人を頼んだよ」


「はい……ティトさんもお気をつけて。それにジドさんも、いろいろとありがとうございました」


プロップは深々と頭を下げた。


「おっちゃんたち、ありがとうな!」


スピナもティトとジドに挨拶した。


「おう。落ち着いたらまた遊びにこいや。嬢ちゃんもな」


扉の前で腕を組み、にやりと笑いながらジドがそう言った。柄にもなく照れてやがるとティトは思った。


「ジドさん、本当にありがとうございました」


テンダもジドに頭を下げた。ジドは構いやしないよというように無言で手を振った。


「ティト、ありがとう……ごめんね……気をつけて……」


駆け寄ってティトに抱きつくと、テンダは小さくそう言った。少し笑いながらティトも優しくテンダを抱き返した。


「イメッカで会いましょう。彼らと仲良くして下さいね」


ティトはそう言って体を離した。テンダは名残惜しそうにティトを見つめていたが、しばらくして、またねと言い残して洞窟の入り口へと向かって行った。


「それじゃあ、行ってきます!」


入り口の前に三人揃うと、プロップが最後の挨拶をした。ティトとジドは無言で手を軽く振った。


そして、スピナ、プロップ、テンダの順に洞窟へ入って行った。三人を見届けた後、ジドは扉を閉じて施錠した。途端に辺りは静寂に満たされてしまった。


「本当に一緒にいてやらなくていいのか?」


扉から引き返しながらジドはそう言った。ティトは扉を見つめたまま、自嘲気味にふっと笑った。


「大丈夫だろう……むしろ私じゃないほうがいいのかもしれない」


「どういうこった?」


「あの少年たちがテンダ様を呪縛から解き放つかもしれない……」


「ああ?何だそりゃ?」


ティトはバスコの街で初めて少年たちに出会った時のことを思い出していた。


―あの赤い短剣……何故だろう?あの"赤"を見ていると、不思議な安らぎに包まれる……。


「何でもないさ。ただそんな気がするんだ……」


ティトがそう言うと、ジドはふうんと気の抜けた相づちを打った。


「よくわかんねえが、何でもいいや。とにかく店に戻ろうぜ。お前はコーヒーでも飲んでろ。俺は若い連中集めてくっからよ」


「ジド?」ティトは驚きの表情でジドを見た。「どういう意味だ?私もすぐに発つつもりだぞ?」


「お前よう、俺に気づかれてねえってまじで思ってたのか?なめんじゃねえや!」ジドは地面につばを吐き捨てた。「お前、しんがりを買って出るつもりだろ?"漆黒のフロル"が遅からずここに来ると……そう思ってんだろ?」


ティトは何も言い返せなかった。何故ならそれは図星だったからだ。


「国道かどっかで待ち伏せるつもりだった。違うか?そんな勝手はさせねえよ!せっかくだから俺らにも遊ばせろや」


「ジド、気持ちはありがたいが、こればっかりはお前を頼れない。ここまでしてくれただけで十分なんだ」


「勝手な言い分だな?ならば俺は俺の勝手でやるのさ。お前がやられたらどっちみち俺が手を貸したってことはばれちまう。それに俺も"漆黒のフロル"ってのがどんなもんかこの目で見てみてえしな」


ティトはジドへ歩み寄り、肩に手をかけて無理やり立ち止まらせた。


「無駄に死人が出るだけだ!足手まといなんだよ!私一人のほうがましだ!」


「悪りぃがもう止めらんねえよ!俺がやるっつったら誰にも止めらんねえんだよ!」ジドは肩にかかっているティトの手を払いのけて再び歩き出した。「どっちが先にフロルを口説けるか賭けようか?噂じゃあなかなかの美人らしいぜ。楽しみだな」


がははという豪快なジドの笑い声が響いた。


「ジド……」


眼鏡のずれを人さし指で直しながら、ティトはしばらくの間、旧友の背中をじっと見つめていた。





◆5◆




ばんっという突然の大きな音でびくっと体を震わせた。


リッキーは心地よい眠りの世界から無理やり呼び戻されてしまった。


いつの間にかソファーの上で眠っていたらしい。壁時計を見ると、七時を少し回ったところだったが、それが午前なのか午後なのか、すぐには判断できなかった。


「おはよう、リッキー」


出しぬけに聞こえてきた声に、またしてもリッキーは体を震わせた。


声のした方へ目をやると、最悪の客人(寝起きでなくとも)"漆黒のフロル"が部屋の入り口の脇の壁にもたれかかり、足と腕を組んでこちらを見ていた。


「よ、ようフロル……ノックくらいはしてくれよな……」


慌ててソファーから立ち上がり、目をこすりながらリッキーは愛想笑いを浮かべた。


「ノックはしたぞ。三回もな……仕方がないからドアを破って入ってきてやったんだ」


「とび、扉を……」それでは今の音はフロルが扉を破った音だったのかと思い、リッキーは気が重くなった。「そりゃあんまりだ……」


「仕事の成果はどうだ?ドアの修理代になるくらいの情報はつかんだのだろうな?なあ、リッキー。この国で一番の情報屋リッキー。どうなんだ?」


リッキーはちらりとフロルの腰に下がっているものに目をやった。


―あれは"虹の女王"?まじな仕事ってわけか……?


「ああ、まあな。ゆうべは街中走り回ったよ」


「では聞かせてもらおうか」


「……ガキらの背後にいるのはティトだ」ゆっくりと深呼吸した後、意を決したようにリッキーはそう言った。「元マクスカ王宮魔導士のあのティト・カーソンだ。恐らく間違いない」


「ティト……」フロルは記憶の糸をたどり、その名を思い出した。「そいつは十何年も前に国を追放されたはずだ」


「その通りだ。しかし、やつなら密入国なんてわけないさ。未だにこの国では顔が効くだろうしな」


「それで、そいつはどこにいるんだ?」


「恐らくコヒの村だろう。裏を取ったわけじゃないがな。その可能性が高い」


「可能性が高い、では困るんだがなリッキー」


凍える吹雪のようなフロルの言葉が吐き出された。リッキーはもう一度深呼吸をした。


「昨日、ジドんとこの若い連中が街をうろついてたって情報があるんだ。ジドってのはあの"ジドの店"のジドだ。ティトとジドの仲は裏の世界じゃ有名さ。バスコの街でティトらしきやつを見かけたって話もある」


リッキーはここまで言った後、目の前の散らかったテーブルを見渡して煙草を探した。


無性に吸いたくなったのだが、無情にもそれはまったく見当たらなず、ちっと舌打ちして話を再開することにした。


「それに侵入者のガキらは、逃げる時にエンジン付きのボートを使ったらしい。この辺りでそんなもん持ってるやつなんて限られてる。つまりティトがジドと組んでガキらを使ったと考えると辻褄が合うんだ」


「しかし推測の域を出ない……というわけだな?」


「そ、そりゃあ、そうだがよ」リッキーは両手を広げて激しく抗議した。「なあ、フロル。たった一晩だぞ?これが限界なんだ!他の誰もここまでやれはしないさ!ああ、そうとも!」


「ジドの店……か」


フロルはリッキーを無視してぽつりと呟いた。


直接顔を合わせたことはないが、フロルはジドのことを知っていた。


"熱風会"という組織がある。


この国で最大の勢力を持つマフィアのことだが、ジドとは史上最年少でそこの幹部になった男だ。


しかし、彼はある日突然引退を表明した。その後はコヒの村で酒場の経営を始めたらしいが、フィクサーとして密かに活動しているという話だ。


「フロル、いくらあんたでもジドとティトが相手じゃあ少々厄介だぞ。ジドは今でもそっちの世界に影響力を持っている。ジドに何かありゃあ熱風会も動くぜ?」


リッキーは恐る恐るそう言った。フロルがそれほど自分を非難しているわけではないと気付き、少し安心し始めていた。


「いいだろう、リッキー。コヒの村まで行ってやるさ。ただし、情報が空振りだったとしたら、せっかくドアを修理してもこの家に住むやつはこの世からいなくなってしまうことになるがな……」フロルはそう言うと、輪ゴムで縛られて丸くなっている札束をリッキーの足下に放り投げた。「邪魔したな。ゆっくり眠るがいい」


そう言い残して出口へと歩き出したフロルを、リッキーが慌てて呼び止めた。


「待ってくれよ。あと二つばかし情報があるんだ」


「何だ?」


「役に立つかはわからんがな。スピナとプロップ、ってのがガキらの名前らしい。それで、スピナってやつの持っている短剣はいきなり巨大化するらしいぜ」


「……何だと?」


「まあ、もっとも、そっちはガセかもな……そんな剣も魔法も聞いたことがねえし……」


"そんな剣も魔法も―"という言葉を聞いて、フロルは再びテンダの魔法のことを思い出した。


―正体不明の魔法に、巨大化する剣……何かあると見るべきか……やはり虹の女王を持ってきて正解だった……か。





◆6◆




「おい、プー……誰か松明持ってきたか?」


玄烏賊の洞窟の入口が閉ざされた途端に、ひんやりとした洞窟内にスピナの声が響き渡った。


それもそのはず、入口が閉ざされるやいなや、洞窟内は完全な闇と化したのである。


「いや、持ってきてないと思う……僕もすっかり忘れてたよ」


プロップは頭を掻いた。これまでにも何度か洞窟探険をしたことがあったにも関わらず、初歩中の初歩を忘れてしまっていたのだ。


「あら、大丈夫よ。あたしがいれば松明なんていらないから」


今度はテンダの落ち着き払った声が響いた。


「どういうことですか?」


「そうね……やって見せたほうが早いかしら。ちょっと待っててね。二人とも動いちゃだめよ」


テンダは両手を合わせ、心の中で詠唱を始めた。


"クブ神の子、テンダの名において命ずる。原始より我らを奮い起こす熱き光、その力をもって今日という日を明日への繋ぎとせよ……カ・フ・イ・ラム!"


合わせた両手が開かれた。すると手の中から小さな光の玉が現れ、ゆっくりと天井へ昇って行った。


「わあ!凄い!」


プロップが歓喜と驚嘆の声をあげた。


光の玉が天井すれすれのところで止まると、洞窟内は昼のように明るくなり、かなり先の方まで見渡せるようになった。


「テンダさんは、詠唱を口にしなくても使えるんですね?凄いや!」


「まあね……」


テンダは素っ気なくそう言った。誉められて悪い気はしなかったが、自分にとっては取るに足らないことだった。


「何なんだこれ?これも魔法なのか?」


明るくなった洞窟内を見渡しながら、スピナが呟いた。


「"春の魔法"の一種だよ。色んな使い方ができるんだ。応用すればこんな風にも使えるんだね」


プロップが目を輝かせてそう答えた。


「さあ、早く行きましょう。光はあたしについてくるから、二人ともあまり離れ過ぎないでね」


テンダはそう言って歩き出した。プロップはそれに続いて歩き出したスピナの肩を叩いた。


「スピナ、わかってるよね?君が先頭だよ」


「何でだよ?お前が行けよ!」


スピナは不満顔だった。何となくテンダに背中を向けて歩くのは嫌だった。


「君が先頭だ!絶対譲らないからね!剣持ってるし、僕より強いんだから」プロップは断固とした強い口調でそう言った。「行けったら行けよ!このスカタン!」


「わかったよ!プー野郎め!」


スピナは渋々歩みを速めた。


「気遣いはいらないわ。自分の身は自分で守れるもの」


テンダがちらりと振り返ってそう言うと、スピナはむっとした表情でさらに速足となりテンダを追い抜いた。


「そうもいかねえよ。お前に怪我でもされたら報酬がパーになっちまうかもしれんだろ」


スピナは振り返らずにそう言った。


「ねえ、あんたさあ、あたしのほうが年上なんだからタメ口やめてくんない?」


テンダの言葉が洞窟内に響いた刹那、プロップは"かちん"と何かのスイッチが作動した音が聞こえたように思えた。


そう、それは決して触れてはならないスイッチの音。


―さっそく始まるの?もうティトさんはいないんだぞ?


「へいへい、わかりましたよ」


スピナのぶっきらぼうな返事に、テンダはふんっと鼻を鳴らしたが、それ以上何も言わなかった。


―とりあえず噴火は避けられた……か?


ほっと胸を撫で下ろしたプロップだったが、再びどちらかが何か言い出さないうちに話題を切り替えようとすぐさま思い直した。


「あの、テンダさん。魔法は誰に教わったのですか?学校の授業だけじゃあんなに上手くならないですよね?」


それは、まんざら咄嗟に口から飛び出した質問というわけでもなかった。


先ほどテンダは詠唱を口に出さずに魔法を使った。十代でそれが可能ということはとても珍しいことであり、プロップとしては非常に興味深かったのだ。


「ああ、うん……ティトに教わったの」


「へえ、ティトさんって魔法使えるんですね」


「使える、なんてもんじゃないわ……ああ見えてかなりの腕前なのよ。"春夏秋冬"どの属性も一通り使えるんだから。あたしなんか全然相手になんないのよ」


テンダはプロップを振り返り、自分のことのように誇らしげな表情でそう言った。


「え?どの属性も……ですか?それってかなり凄いですよね?」


プロップが知っている限り、それは世界的に見てもきわめて希少な存在のはずだった。


「まあ、そうね……ところでプロップくん」


テンダの口調から、これ以上はその話題を続けたくないといった雰囲気を感じ取り、それは何故だろうかという疑問がプロップの頭の中に根を下ろしたが、それは束の間のことだった。


自分の名前を呼んでくれたという興奮が、その根を引きちぎって彼方へと放り投げてしまったのだ。


「は、はい!何でしょうか?」


「ちなみに、言いにくいから"プーちゃん"でいい?」


「はい……それは、もう、何とでも」


言いにくいと言われ、ちくりと傷ついたプロップだったが、なんとか笑顔を作り出した。


「堅っ苦しいから、これからはタメ口でいいわよ。あたしのこともテンダって呼び捨てにしてね」テンダはにっこりと笑ってそう言うと、すぐさま眉を曲げて少し哀しげな表情を作った。「それから、今さらだけど、昨日のこと……本当にごめんね!痛かったでしょ?」


「いえ、そんな……気にしてません」


プロップは、自分の顔が次第ににやけていくのを止めることができなかった。


―"プーちゃん"も悪くないな……。


「本当?じゃあ、これからは仲良くしましょうね!」


「はい!テンダさん!」


「だから、タメ口でいいんだってば」


「あ、うん。わかったよ、テンダ……これでいい?」


テンダは無言で笑みを浮かべ、右手の人差し指と親指で輪を作って見せた。


その仕草の可愛らしさにプロップの胸はしめつけられ、にやにや顔は最終形態まで到達した。


しかし彼は気づいていなかった。自分の愛すべき相棒のマグマのような怒りが、既に頂点に達してしまっているということに。


「よう、何かおかしくねえか?おいらには何のお詫びもなしかよ!」


先頭を歩くスピナが振り返りもせず、これは大きな声の独り言だというような皮肉のこもった声でそう言った。


「うるさいわね!こっちは今いいところなの!しっかり前向いててよね!でかい石が転がってないかとか、ちゃんと見ててよ!」


テンダの怒鳴り声が響き渡った。スピナはちっと舌打ちすると、それ以上何も言わなくなってしまった。


「あ、あの、スピナもそんなに悪いやつじゃないよ。口は悪いけどさ。頭も悪いけど……じゃなくって、だから、その……」


プロップは罪悪感に苛まれた。怒鳴ったりわめいたりしないことが、逆にスピナの怒りの深さを感じさせた。


「プーちゃんも魔法使えるの?」


プロップの思いなどどこ吹く風と言わんばかりに、テンダは強引に話を切り替えた。


スピナへの罪悪感がますます高まっていくのを意識しながらも、プロップはンダが発する無言の重圧、つまり"二人であいつを無視しようね"に逆らうことができなかった。


「う、うん。春の魔法が少しだけ……さっきのテンダが使ったやつはできないけど。それにまだ声に出して詠唱しないとだめなんだ」


「あら、そうなんだ。時間があったら、あたしがレクチャーしてあげようか?」


「本当?ありがとう!」


洞窟内を照らしている魔法の光のように、プロップの心も光で満たされた。


―きっと上達するに決まってる!……あんまり美脚を見すぎないように気をつければ……ちゃんと集中すれば―


「よう、お二人さんよ!」


不機嫌そうなスピナの声で、プロップははっと我に返った。


テンダの提案にすっかり浮かれてしまい、いつの間にかまたしても怒れる友人のことを忘れてしまっていたのだ。


「この先は少し開けた場所になってるみたいだ。とりあえず飯にしようぜ」スピナは握り拳の親指だけを伸ばし、道の先を指した。「心配しなくてもよ、おいらはずっと黙っててやるからよ」





◆7◆




雨が降ってきた。


黒衣の女、フロルは、馬から降りて国道の脇の大きな木の下で雨宿りをすることにした。


懐中時計を取り出して時刻を確認すると、まもなく午前九時になろうかというところだった。


空には晴れ間も見える。あるいは通り雨なのかもしれない。先を急いでもよかったが、思えばまだ朝食をとっていなかったということもあり、小休止するいい機会だろうと考えたのだった。


馬の腰に取り付けてある革鞄から、干し肉と水の入った革袋を取り出し、フロルはやや遅めの朝食をとり始めた。


ぼんやりと頭上の木の枝を眺めながら、彼女の脳は今回の出来事についての情報を整理し始めていた。


王女と騎士団長の婚約パーティー。


そこへ招待されたテンダの案内役として、"裏の人間"であるはずの自分が何故か抜擢された。


パーティーの席でテンダのことを公に発表し、彼女を正式に王宮へ迎え入れる、ただし昔の因縁を考えればテンダは神経質になっているかもしれない、妙な気を起こさぬよう見張れ、逃げ出すようなことがあれば多少手荒な真似をしてでも止めろ、というのが事前に伝えられた指示だった。


パーティー当日、テンダはやはり逃げ出した。理由はわからない。王女と対面を果たした直後から彼女の様子は一変した。一体何があったのか?


そしてテンダは自分の追跡をかわしてそのまま逃げ切った。あの"もっと違う別の何か"の魔法を使って。


その魔法はテンダがパーティーに招かれたことや、そこから逃げ出したことと無関係だろうか?


いや、それは考えにくいだろう。何かあるとしか思えない。


その後、イスラはテンダの追跡と侵入者の少年たちの始末を自分に命じた。


さて、この侵入者の少年たちは一体何者なのだろうか?


リッキーが言ったように、ティトが背後にいるのだとたら、そのティトがテンダを逃がすため、あるいはパーティーを密かに監視するために雇った者たちなのだろうか。


そして、偶然か必然か、その少年たちは王宮内から"何か"を盗み出した。


始末を命じられるほどの"何か"を。


フロルはそれは"情報"ではないかと考えた。


イスラの命令は少年たちを"始末しろ"であって、何かしらを"取り戻せ"ではないからだ。


少年は一体何を見たのだろうか?


自分にすらそれが何なのかを明かせないほどなのだから、余程重大な機密事項なのだろう。


この国で何かが起こっている。何はともあれ、それだけは間違いない。


さらに先ほどリッキーから得たばかりの情報、"巨大化する剣"がやけに気になって仕方ない。


リッキーの言うようにガセなのかもしれないが、テンダのあの魔法を見た後では、どうしてもそれが事実に違いないと思えてしまうのだ。


"真実を確かめてみないか?"


またしても内なる声が唐突に、無遠慮に問いかけてきた。


"剣を振るう意味を考えてみないか?女王に意見を聞いてみたらどうだ?"


フロルは干し肉の最後の一切れを食べ、水を一口飲むと、どうしても話し合いをしたいらしいな、と内なる声に答えた。


―仮に私が真実にたどり着いたとして、それからどうするというのだ?


"言うまでもないだろ?剣を振るう相手が誰なのかを考えるのさ"


―何のために?


"我々は疲れているからさ。知っているだろ?奪った命はすべてこの両肩に積み重なり、その重さがいつか背骨を押し潰す。それに、この身体に染み付いた血は既に洗い流すことができなくなってしまっている。いつか自分自身の血で染め直すしかなくなるんだ"


―何故今になってそんなことを言うのだ?


"さて、昨日も同じような話をしなかったかな?これまで仕事をしてきて、一体何が残った?我々の愛は報われず、裏切られ―"


―裏切られてなどいない!私は何も求めていなかったのだ!あの御方のためにしてきたこと……すべて私が望んだ結末なんだ!


"ひとまずそういうことにしといてやろうか……それで、次は?"


―次?……次とは何だ?


"質問しているのはこっちだ。次は何なんだ?"


―……変わらないさ。次も、その次も……死ぬまでずっとだ。


"間違いだったらどうする?間違いじゃないとどうして言える?"


「わからないんだ!」


フロルは声に出してそう叫んだ。馬が驚いたように首を震わせた。


知らず知らずのうちに、自分の両手が髪を掻きむしっていることに気がつき慌てて手を止めた。


「わからなくなっているんだ……考えたくないんだ……」


それはもはや完全なる独り言だった。すっかり白けてしまったというように、内なる声はまったく聞こえなくなってしまったのだ。


フロルは、木の枝から垂れ落ちる雨の雫を見つめながら何度も深呼吸をした。


いつの間にか雨は上がっていた。やはり通り雨だったようだ。


しばらくして落ち着きを取り戻すと、手櫛で髪を整え、それからまた馬に乗った。





◆8◆




スピナの言った通り、少し開けた場所に出た。


三人とも適当な岩に腰掛け、リュックから取り出した弁当を食べ始めた。弁当の中身は昨日の夕食とほぼ同じで、(というよりその残りなのだろう)鶏肉と玉葱のピラフに人参とブロッコリーの炒め物だった。


テンダとプロップは並んで座っていたが、スピナは少し離れた場所に座った。


宣言通りに一言も喋らないつもりだな、とプロップは内心ため息をついた。


「ところで、プーちゃんたちは何で旅してるの?どうしてイメッカの図書館に行くの?」


テンダの質問にプロップはどう答えたものか迷った。スピナの顔をちらりと見たが、食事に集中している、こちらの会話には興味がない、といった雰囲気だった。


「えっと、探し物をしてて、それで図書館に手がかりがないかなって……」


「探し物って?」


「それは……」プロップは再度スピナを見た。案の定、今度はこちらに目で合図を送っていた。それはつまり、"わかってるだろ?それ以上喋るなよ?お喋りプロップめ!"だ。「内緒なんだ……ちょっと、いろいろあってね」


ごまかすように、あははと笑うプロップの顔を訝しげに眺めながら、テンダはふうんと小さく呟いた。


「ねえ、スピナ。イメッカの図書館ってどんなんだろうね。テンダは行ったことある?」


自分でも少し不自然な台詞だと思ったが、プロップは何とか三人で会話をしたいと思い、話を膨らませようとした。


洞窟の旅はまだ始まったばかりだ。何とか二人を仲良くさせたかったのだ。


しかし、スピナはこちらに一瞥くれただけで、後はむっつりと黙り込んだままだった。


「ああ、見たことないの?すっごく大きいわよ!そうね……マクスカ王宮より一回り小さいってくらいかな」


「まさか!」


「あら、本当よ。何たって世界最大の国にある、世界最大の図書館だもの」


「スピナ、聞いたかい?そこならきっと手がかりがあるよ!」


努めて明るい声でそう言ったが、スピナは、ふんっと鼻を鳴らして、だといいな、と素っ気なく答えただけだった。プロップはがっくりと肩を落とした。


―よし!こうなったら荒療治だ!


プロップは弁当箱を閉じて、おもむろに立ち上がると、水を取り出す時に偶然見つけた蝋燭とマッチを(ティトが入れてくれたのだろう)リュックから取り出して、来た道の方へ歩き出した。


「ちょっと、プーちゃん?どうしたの?」


「えっと、トイレに行ってきます」


「そう……気をつけてね」


歩き去って行くプロップを見送りながら、そう言えば自分もいずれはどうにかして用を足さなければならないんだ、と今さらながら気づき、テンダは気が重くなった。


しかし、それよりももっと気が重くなる状況が今目の前にある。


"あいつ"と二人きりにさせられてしまっているのだ。


プロップが戻るまでの時間は、限りなく永遠に近いほどに長いのではないかと思われた。


二人は何をするでもなく、互いに目を合わせず、ひたすら黙ったまま時間が過ぎるのを待った。


―そりゃ、あたしだってできれば仲良くしたいし、いろいろ悪いことしちゃったなって思ってるけど……。


テンダはほんの一瞬だけスピナの横顔を見た。


―でも、こいつが喋ると何だかむかつくんだもん!


テンダがあれこれと考えていると、しばらくしてスピナが突然立ち上がり、プロップが歩いて行ったのと真逆の方向、洞窟の奥へと歩き出した。


「何よ?あんたも小便?」


テンダが呼びかけると、スピナは立ち止まって振り返った。


「ちょっと先の様子見てくる」


「あたしから離れたら光が届かなくなるわよ?」


「そんな遠くまでは行かねえよ」


そう言い残してスピナは去って行った。やがてその背中が見えなくなると、テンダはさすがに少し心細くなってしまった。


スピナと二人きりの空間は何とも耐え難いものだが、一人きりというのもそれはそれで居心地が悪い。


まだ午前中であり、洞窟内とはいえ光はある。しかし場所が場所だけに、つい何か恐ろしいことを想像してしまう。


―怪物はいなくとも幽霊はいたりして……なんちゃってね。


そんなことを考え、心細さを認めたくないという思いから無理やりふっと笑った。


しかし、次の瞬間だった。テンダの背筋は凍りついてしまった。


どうひいき目に考えても、決して聞き間違いではなさそうだ。


―え……?


自分の背後から聞こえてくる、ざっ、ざっ、という断続的な足音。


―嘘でしょ……?何なのよ!


二人の少年のいたずらである可能性を考えたが、すぐにそれはあり得ないという結論に思い至った。


確かに自分の背中と背後の壁との間には、人一人が歩ける空間は十分にあるが、自分に気づかれずにそこに行くことは少年たちには不可能だ。


ざっ、ざっ、という足音は徐々に鮮明になっていく。


どうやらその何者かは、右往左往しながら自分に近づいてきているようだ。


―やめてよね……泣いちゃうわよ。


テンダは恐怖のあまりまったく身動きがとれなくなった。意を決して振り返るという最悪な選択肢はとっくに頭の中から除外していた。


そこにこの世のものとは到底思えない何かがいたとしたら、自分は発狂してしまうに違いないと確信できたからだ。


―早く誰か戻ってきてよ!誰でもいいから!この際、ボサボサ頭のほうでもいいわ……。


身体を強ばらせ、目を瞑り、力の限りテンダは祈り続けた。


しばらくして、祈りが通じたかのように足音がぴたりと止んだ。


しかし祈りが通じたわけではなかった。


テンダの左肩にそっと何者かの手が置かれた。





◆9◆




テンダから離れて洞窟の奥へ進んだスピナは、足を止めて壁にもたれ、ふうと一息ついた。


朝食をとった場所から先には、ほぼ直角の曲がり角があり、そこから先はしばらく細い一本道が続くようだった。


角を曲がってしばらく進んだあたりで、魔法の光が届きにくくなったので立ち止まることにしたのだった。


先の様子を見てくるなどと言ってここまで来たのだが、それはまったくの嘘であり、テンダと二人きりの空間が耐え難かったため一人になりたかったというのが本音だった。


―あの女の声聞いてると何か腹立つんだよなぁ……プーのやつも調子に乗りやがってよ。


プロップの小便は男にしては長い、もう少しここにいようとスピナは思った。


その時だった。


それがテンダの悲鳴だと気づくのにたっぷり七秒もかかった。


"金切り声"という言葉すら少し物足りないと思えるほどの、何とも凄まじい叫び声が響き渡ったのだ。


―何かあったのか?


スピナの肉体は思考よりも一瞬速く動き出していた。来た道を全速力で引き返しながら、腰に下がっている短剣の柄に右手をかけていた。


そして角を曲がった次の瞬間にそれは起こった。


人影が見えたと思った刹那、スピナはうわっと叫んで後ろへひっくり返り、尻餅をついて仰向けに倒れた。


何か硬いものに額をしたたかぶつけたようだ。痛みのあまり悶絶していると、突然誰かの声がすぐ近くから聞こえてきた。


「痛ったあい……」


額を片手で押さえながら上半身を起こすと、目の前に両手で額を押さえながら倒れているテンダの姿があった。


「何やってんだ?……お前」


痛みで顔をしかめながらスピナは苦々しくそう言った。どうやら出会い頭にお互いの額が激突したらしいと理解した。


テンダはスピナの声にびくっと体を震わせると、素早く体を起こし、四つんばいでスピナに近づいて行った。


「で、でっ、でっ、で………」


必死の形相でわけのわからない言葉を発しながら自分に近づいてくるテンダを見て、スピナは気味が悪くなり座ったまま後退りした。


「何だよ?何なんだよ?」


「出た……ゆう、幽霊が出たのよ!」


「幽霊だぁ?よくわかんねえけど、こっち来んな!」


「逃げんじゃないわよ!あんたはあたしの護衛でしょ?」テンダは移動速度を上げて一気に詰め寄ると、スピナの上着の襟を両手でつかんだ。「あたしの肩!肩に触ったのよ!」


スピナは苦虫を噛み潰したような顔でテンダの両手を交互に見た。


「何が何だって?」


「だから、幽霊に触られたの!肩!肩に!」


スピナは手を放させるために立ち上がろうとしたが、テンダは握った手に力を込めて抵抗した。


「わかったから手を放せ!」


「わかってないでしょ!肩に触られたのよ!」


スピナは両手を広げて、"わけがわからん"と"少しは落ち着け"の両方を示した。


「朝っぱらから出る幽霊なんて聞いたことないぜ」


「洞窟の中はいつも夜でしょうが!」


「そりゃそうだけどよ……お前、そこそこ魔法とか使えるんだろ?幽霊なんかにびびってどうすんだよ」


「あんたねえ!」襟をつかんでいるテンダの手が激しく動かされ、スピナの体は前後に揺さぶられた。「幽霊ってのは幽霊なのよ!つまり幽霊ってのはお化けなの!魔法なんか効かないんだから!」


「わ、わかった。わかったから手を放してくれ。頼むから……よ」


スピナはテンダの手首をつかみ、力ずくで襟から引き離しにかかった。


しばらくもみ合った後、ようやきテンダが手を放すと、二人は両膝をついた姿勢のまま肩で息をしながら無言で睨み合った。


「ごめんね、二人とも」


突然背後から声が聞こえ、テンダはぎゃあと叫んでスピナに飛びついた。その勢いで二人はまたしても尻餅をついて倒れてしまった。


慌てて上半身を起こしたが、スピナは驚きのあまりあんぐりと口を開けてしまった。


今の声は間違いなくテンダがいたすぐ後ろのあたりから聞こえたはずだが、そこに当然あるはずの人影が一切見当たらない。


そのため、テンダが自分の胸にすがりついているという異常事態を気にする余裕はまったくなかった。


―おい、まじで幽霊なのか?……あれ?いや、待てよ。今の声……まさかこれって……。


「プー、お前か?"あれ"を使ったんだな?」


「そうだよ。ごめん、悪気はなかったんだけど……」


二人の目の前の何もない空間に、うっすらとプロップの姿が現れた。言葉とは裏腹に、二人を見下ろしているその表情は明らかに笑いを堪えているものだった。


「何がしたかったんだよ!このバカ!」


スピナはすぐそばに転がっていた小石を手に取って悪友へ投げつけた。悪友は笑いながらそれを避けた。


「え……?何?プーちゃんなの?」


テンダは目を細めてプロップを凝視した。


「そう、幽霊の正体は僕だよ!」プロップは得意げに人さし指で鼻をこすった。「トイレに行くふりをして魔法で体を透明にしたんだ。それからこっそりテンダの後ろに回ったのさ。テンダはこの魔法知らなかった?」


テンダの脳がプロップの言葉の処理を終え、心臓に落ち着けと命令を下すまでに約十秒かかった。


―魔法……透明になる魔法……春の魔法の一種。ティトに聞いたことあるけど、でもそれって―


「使用は禁止されてるはずでしょ?って言うか伝授自体禁止されてるはずだわ!」


「確かにそうなんだけど、まあ、何と言うか、僕らの暮らしていたデリィには、ちょっと変わり者のお爺さんがいてさ」プロップは同意を求めるようにスピナの顔を見た。「こっそり教えて貰ったんだ」


「こいつは十二の時に、それで女風呂を覗こうとしたんだ」スピナは非難の目でプロップを指さした。「体は透明になっても影は消えない。それでばれちまって、結局未遂に終わっちまったんだけどな」


「そうそう。しかも、そんなに長い間透明でいられないしね……って、違う違う!あれは誤解なんだってば!僕は覗きなんて―」


「そんなことはどうでもいいわ!」テンダは眉を釣り上げてプロップを睨みつけた。「何でこんなイタズラしたのよ!」


「二人にだって責任はあるんだよ?ずっと喧嘩腰でさ……二人が仲良くするきっかけを作りたかったんだ」プロップはにやりと笑いながらスピナとテンダを交互に指さした。「なかなか効果があったみたいだね」


プロップの言葉の意味を考え、スピナとテンダは思わず顔を見合わせた。


思いのほか相手の顔が近くにあるということに今さらながら気がついた。


テンダはまだスピナの胸にすがりついたままだった。


「触んないでよ!」


「おい、何すんだ―」


テンダに両手で強く体を押し退けられ、悪態をつきながらスピナは仰向けに倒れた。


「ねえ、プーちゃん……」


「は、はい」


スピナを押し退けて素早く立ち上がり、真っ赤に染まった怒りの形相で詰め寄ってくるテンダを見て、プロップは思わずたじろいだ。


「二度と……いい?二度とこんなことしないでね?ね?」


「わ、悪かったよ。でも、テンダもちょっと大げさだよ!誓って僕は君の肩に触ったりしてないもの!」


テンダは両手を伸ばしてプロップの頬をつかみ、力いっばいつねり上げた。


いいいい、というプロップの悲痛な声が響き渡った。


「とにかくやめてね?ね?」


「はい……」


プロップの返事は、"はひ"というような発音になった。仰向けのままでそれを聞き、でこぼことした洞窟の天井を見つめながら、スピナは深いため息をついた。


―プーのバカめ……。


ふと、先ほどまでテンダの頭が置かれていた左胸のあたりから、ほのかに甘い香りが漂ってきた。


シャンプーなのか香水なのかまったくわからなかったが、鼻を押しつけてその残り香を胸いっぱいに吸い込んでみたいという衝動に駆られている自分がいることに気づき、慌ててそいつを頭の中から追い払った。


―あほらし……なんか疲れた……。


それからしばらくの間、テンダの怒りが収まるまでの間、プロップの"いいいい"が鳴り響き続けた。


すっかり白けてしまったというように洞窟内はひんやりとしている。


そしてついに三人とも気づくことはなかった。


少し離れたところから、自分たちをじっと見つめている何者かの視線に……。




◆10◆




雨も上がり、順調に馬を走らせていたフロルだったが、ほどなくして、あからさまに自分を追跡している集団の気配に気がついた。


人目につく場所にいる限りは手を出してこないだろうと思えたため、あえて自ら国道を外れることにした。


その集団の正体が何であれ、今自分が抱えている"仕事"と無関係とは考えにくい。接触すれば何かしらの情報を得られるかもしれないと考えたのだった。


やがて国道外れのさほど広くない森の中へ入ったフロルは、馬を降りて連中が追いつくのを待った。


連中からは殺気も感じられた、恐らくは戦闘になる、そして弓を装備している者が必ずいると考え、この場所が最適だと判断したのだった。


時刻は十六時四十五分。空は不吉な赤に染まり始めている。


無数の馬が大地を駆る足音。徐々に高まり、そして徐々に遅くなる足音。


ある者は馬を降りて草の茂みに身を隠しながら、またある者は馬にまたがったまま、その集団はフロルを中心に円形に広がっていった。


なかなか統率がとれているようだなと、フロルは感心した。視界に入る限りでは、連中はいずれも男であり、街のゴロツキといった風貌だった。


「穏やかじゃないな!私をマクスカ騎士団の者と知ってのことか?」フロルは声を張り上げた。特に何かしらの反応を期待したわけではなく、相手の人数を確認するための時間稼ぎに過ぎなかった。「何者だ?何か用か?」


フロルは虹の女王の柄に右手をかけながら、神経を研ぎ澄まして自分を取り囲む"殺気"の数を肌で感じとった。


―およそ二十人……といったところか。私もなめられたものだ。


「熱風会……あるいはジドの店の使いか?随分と早く動いたんだな!」


森はしんと静まり返った。何の反応もないということは、つまり“肯定”と見るべきかとフロルは考えた。


―テンダ様の口から私の名前が出た。ジドやティトが私が動くと読んだのか?……だとしたら少しお粗末だな。これでは、わざわざ私に情報を与えに来たようなものではないか?


「問答無用ということなら、さっさとかかって来たらどうだ?私は暇じゃないんだ―」


そう言い終えないうちに、フロルの耳にぶんっと風を切る音が聞こえてきた。


―無駄だ!


わずかに上半身をひねりながら、フロルは飛んできた弓矢を左手でつかみ取った。


唐突に停止させられた弓矢の振動音が響いた。


フロルは矢を地面に投げ捨てると、それが合図だったというように素早く移動を始めた。まずは矢が飛んできた東側を攻め、弓の数を減らすのが先決と考えた。


ところが、連中はまったく予想外の動きを見せた。


―何?どういうことだ?


フロルは足を止めて背後を振り返った。


フロルの馬が、突然苦しそうな鳴き声をあげながら激しく暴れ出したのだ。フロルが動き出した直後、多方向から放たれた無数の矢が馬を襲ったようだ。


―殺気が消えた……馬だけが狙いなのか?


そして馬が音を立てて倒れると、それを見届けたというように連中は一目散に逃げて行った。


フロルはあたりを見渡して連中が全員いなくなったのを確認しながら、今や体が弓矢の剣山と化し、苦しそうに息をしている馬にゆっくりと近づくと、剣を抜いてとどめをさした。とても助かる見込みはなかった。


―最初から私の足止めが狙いだったか……。


静まり返った森の中でフロルはしばらく立ちつくしていた。


―何のための足止めなのか……コヒの村からティトやジド、テンダ様たちが逃げ出すための時間稼ぎか?あるいは村で何かをしているのか?


馬の骸には早くも多くの羽虫が群がっていた。馬の体に取り付けてあった革袋から必要な荷物を取り出し、フロルは森を出た。


―何はともあれ、予定通りコヒの村へ向かうしかなさそうだな……。




◆11◆




自分の首ががくんと垂れる重みでスピナははっと目を覚ました。


座ったままうっかり眠ってしまうところだった。腕時計を覗くと、時刻は二十時を回っていた。


中でテンダが眠っているテントへ目をやり、その横で寝袋の中ですやすやと眠っているプロップの様子を確認した。特に問題はなさそうだ。


テンダが眠ってしまったため魔法の光は消えてしまった。(スピナは知らなかったが、そういうものらしい)


代わりにおこした焚き火の炎をじっと見つめ、それからスピナは大きな欠伸をした。疲労感が全身に広がっている。


今朝の"幽霊騒動"以降、テンダはプロップとすらろくに口をきかなくなった。スピナとしてはそれはそれで別に構わなかったが、プロップは目に見えて落ち込んでいた。


そして、時折休憩をとりながら黙々と歩き続け、これまでで最も広い場所にたどり着いた三人は、少し早めの睡眠をとることに決めたのだった。


危険は少ないとはいえ、三人とも眠るわけにはいかず、相談の上、まずはスピナが一人で見張り番をすることになった。


見張りの交代まであと五時間はある。退屈で死にそうだなとスピナは苦笑した。


炎を見つめているうちに、その"赤"からふとあの深紅の仮面の男のことを思い出した。


―骨の手の男……あいつ、一体何だったんだろ?


それから、必死で泣き叫ぶ王女の顔を思い浮かべた。


―放っといていいのかな?おいらたちには関係ないけど……いや、もうすでにまったく無関係とは言えない……のかな?


このままテンダをイメッカへ送りとどければ、そこから先はまた自分たちの旅を続けられる。しかし本当にそれでいいのだろうかという気持ちがいつの間にか芽生え始めていた。


―おいらがテンダを守る……。


不意に頭の中に浮かんできたその言葉に自分で驚き、スピナは思わず目を見開いた。


「何考えてんだおいらは……やっぱ疲れてんだな」


口に出してそう呟きながら苦笑していると、自分の声に混じり、背後で何か物音がしているということに気がついた。


反射的に素早く振り返ったが、そこには何もなかった。


―何だ?空耳か?


念のため周りを見渡したが何者の気配もない。やはり気のせいだろうと肩の力を抜いた矢先に、またしても物音が聞こえてきた。


今度は空耳ではないと確信できた。


ざっ、ざっ、という断続的な音。恐らくは足音だと思えるが、不思議なことに、それが聞こえてくる方向や距離がまったくわからない。


―どこだ……?


スピナは立ち上がって周囲を見渡しながら腰の短剣を抜いた。


「プー、起きろ!」


大声でそう叫んだがプロップは微動だにしなかった。スピナは顔をしかめて舌打ちした。駆け寄って叩き起こす余裕はなさそうだった。先ほどまでとは違い、今は足音がかなり近くに来ているのがはっきりとわかる。


「おい、起き―」


「おにいちゃん、あたしのこえきこえる?」


もう一度プロップに向かって叫ぼうとしたスピナだったが、幼い少女のものと思われる声に遮られてしまった。


―何だってんだ……?


スピナは全身に鳥肌が立つのを感じた。方向は定かではないが、声は自分のすぐ近くから聞こえる。しかし、あたりを見渡しても声の主が見つからない。


「誰だ!姿を見せろ!」


「これでみえるかなあ?」


突然焚き火が消え、あたりは完全な闇と化した。


そして驚きの声を上げる間もなく次の怪奇現象が起こった。


スピナの目の前に、白い光に包まれた少女の姿が浮かび上がってきたのだ。


両目の異常を確かめるかのように、スピナは二、三度大きなまばたきをしたが、"それ"は幻影などではなく、まぎれもなくそこに存在していた。


少女を包む光が、消えた焚き火の代わりといわんばかりに洞窟内を照らしている。


「な、何だ?お前は?」


緊張ですっかり渇いてしまっている喉からは、弱々しく、情けないかすれ声しか出てこなかった。


「あたしは、めりっさ、だよう。おにいちゃんは、すぴな、でしょお?」


舌足らずな言葉を聞きながら、スピナは改めて少女の姿をじっくりと観察した。


恐らくは五、六歳くらいかと思われる、愛らしい無邪気な笑みを浮かべている少女。


しかし、その姿から明らかな違和感(この状況自体が既におかしいのだが)を覚えた。それは少女の"服装"からくるもだった。


おかっぱ頭はともかく、白いブラウスと、サスペンダーで止められている黒いロングスカート、それから白のスパッツに赤い靴。


それらすべてのデザインは"時代遅れ"などという生易しいものではなく、"時代劇の衣装"と言っても過言ではなかった。


「名前はメリッサ……か。どうしておいらの名前を知ってんだ?」


奇妙ではあるが、少女の様子からしてとりあえず危険はなさそうだと判断し、スピナは落ち着いて話を進めることにした。今すぐにあれこれ考えても仕方なさそうだ。


「しろいろーぶのおにいちゃんにおしえてもらったの!はんさむなおにいちゃんに」


「何だそりゃ?」相手は子供だ、まずは他愛ない話題から始めて会話に慣れさせる必要があるかもしれないと考え、スピナは話題を変えることにした。「メリッサ、君はいくつだ?」


「ろくさい!」


メリッサは誇らしげに笑いながらスピナに手の平を見せつけた。それなら五歳じゃないかとスピナは思ったが、それはあえて指摘しないことにした。


「そうか。立派なお姉さんだな。こんなとこで何してんだ?」


「おとうさんと、おかあさんを、まっています」


「待ってるって……ここへ迎えに来るのか?」


「こないんだって」メリッサは寂しそうな顔でそう言うと、スピナが右手に持っている短剣を指さした。「しろいろーぶのおにいちゃんがそういったの。きのうおしえてくれたの。あたしちいっともしらなかったの」


メリッサの指につられ、スピナも短剣を見た。


「……今の話とこの剣が何か関係あるのか?」


「だからあ」メリッサは苛立たしそうに地団駄を踏んだ。「はんさむなおにいちゃんは、そこにいるんでしょお?すぴなおにいちゃんよりはんさむなおにいちゃんがそこにぃ」


スピナは内心ため息をついた。


―だめだ、まったく話が見えてこねえ……今からでもプーのやつを叩き起こそうか。あいつならもう少しましな会話ができるかもしれん。


「ずっとここでまってたの。きのうのよるに、はんさむなおにいちゃんがきて、もうおとうさんとおかあさんはきみをみつけられないっていったの」やきもきするスピナなどお構いなしにメリッサは話を続けた。「ほんとおは、あたしは、ずうっと、ずうっとむかしにしんじゃったんだって。おっきないかにたべられちゃったんだって」


スピナは再び鳥肌に襲われた。


―今……何つったんだ?


「おとうさんと、おかあさんも、びょうきでしんじゃったんだって。あたしよりあとにしんじゃったんだけど、あたしよりさきにてんごくにいったんだって。だから、もうあたしをむかえにこれないんだって」


まったくもって信じがたい話だが、この子は幽霊なのだとスピナは確信した。額から一筋の汗が流れ落ちるのを感じた。


所々要領を得ない部分はあるが、今目の前に現実として"この状況"が存在しているのだ。


しかし、だとすれば、メリッサの言った"おっきないか"とは、つまり玄烏賊が実在していたことを示しているのだろうか。


―それとも、やっぱりおいらはうっかり居眠りしてしまったとか?……これは夢じゃねえか?


「それでね、はんさむなおにいちゃんがね、おねがいをきいてくれたらあたしをてんごくにつれてってあげるっていったの!」


「……そのお願いってのは?」


スピナは自分の頬を軽くつねりながらそう訊ねた。やはり夢ではなさそうだった。


「すぴなおにいちゃんに、おことづけだって。はんさむなおにいちゃんは、あまんまりゆめのなかにいけないからっていってたよお」


「おいらに?伝言?」


「みずうみについたら、いそいでとおりぬけろって。すぴなおにいちゃんは、わるいこだから、ゆめのなかでいっぱいしつもんしてすぐにわすれちゃうんだって」


「湖?この洞窟の地底湖のことか?」


「あかいかめんのおじさんが、おっきいいかをいきかえらせるんだって」


「ん?ちょっと待て!今、赤い仮面って言ったのか?」


スピナは心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。


「それからあ……さいごにぃ……」


スピナの質問には答えず、(と言うよりは、自分の言うべき言葉に夢中でスピナの声が聞こえていないようだ)メリッサは親指を噛み、ううんと唸りながら考え込んだ。


「あっ!おもいだしたよお!」


メリッサは片目を瞑って見せた。だったらはやく言えよ、このおマセさんめと内心苛々していたスピナだったが、努めてそれは口に出さなかった。


「むりにぼくのかおをおもいだすひつようはないよ、ってつたえてくれっていったの!」


「……え?それだけか?」スピナは肩透かしをくらったような気持ちになった。先の二つにしてもやや要領を得ない伝言ではあったが、この三つ目にいたってはまったく意味がわからない。「どういう意味なんだ?」


「わかんないよお……はんさむなおかおなのにねえ……」


両手を頬に当てて、うっとりとした表情を浮かべているメリッサを見つめながら、スピナは腕組みをして考え込んだ。


―わけわかんねえ……でも時間はある。やっぱ、じっくり話すしかない……よなぁ……。


「よし、メリッサ。これからお兄ちゃんがゆっくり順番に質問するから、落ち着いて聞いてくれ。いいか?」


「いえっさあ!」メリッサは、冗談めかして右手を額に手を当てて敬礼のポーズをとった。「あたしも、おにいちゃんたちといっぱいおはなししたかったの!ずうっとちかくにいたのに、だあれもきづかないんだもん」


「ずっといたのか?それって、おいらたちが洞窟に入ってからずっとって意味か?」


「そうだよお!おねえちゃんは、かたにさわっただけでびっくりしてにげちゃうんだもん。んもう、しつれいしちゃうわっ!」


メリッサはほっぺたを膨らませた。スピナは苦笑した。


―なるほど、今朝の幽霊騒ぎは"半分"本物の幽霊の仕業だったってわけか……って、まあ、とりあえず今はそんなことどうでもいいわな。


「じゃあ、メリッサ。そうだな、まず白いローブのお兄ちゃんのことなんだけど―」


「ああっ!」


突然体を包む光りがその輝きを増し、メリッサは驚きの声を上げた。スピナは言葉を飲み込んで眩しさに目を閉じた。


「お、おい、どうしたんだ?」


何とか片目だけを開くと、メリッサは驚きと歓喜の入り混じったような表情で、自分の両手の平を交互に眺めていた。


「もうてんごくにいけるんだって!」


そう言うと、メリッサはスピナに背を向けて顔を上げた。


スピナもメリッサが見ているあたりに目をやったが、ごつごつとした岩の天井が見えるばかりで特に何も見当たらなかった。


「あっ……おかあさん?おかあさん!おとうさんも!そっちにいるのね?いまいくね!」


「メリッサ?どうしたんだ?」


メリッサは振り返ってスピナを見た。瞳から涙が溢れているものの、それはスピナの胸を打つ、満ち足りた至福の笑顔だった。


「おかあさんと、おとうさんがよんでるの……すぴなおにいちゃん、あたしもういかなくちゃあ……ばいばい」


「ばいばい……って、おい!」


そして、片手を振っているメリッサの姿は徐々に薄くなっていった。スピナは慌ててメリッサの腕をつかもうと手を伸ばした。


「ちょっと待ってくれ!もう少し話がしたいんだ!」


しかし、スピナの手は空を切った。メリッサの体は完全に消えてしまい、あたりは再び闇に閉ざされてしまった。


刹那、スピナは強烈な既視感を覚え、そしてすぐにその正体に気がついた。


―ミシュと最後に別れたあの時に……ちょっと似てるな……。


切なさのとげがちくりと胸にささる。スピナは握りっぱなしだった赤い短剣の刀身に手を触れた。暗さで誤って手を切ってしまわぬように、そっと優しく手を触れた。


―ミシュ……この剣の中に"いる"のは君の心じゃないのか?


メリッサの言葉を思い返し、思わず涙が込み上げてきた。


"はんさむなおにいちゃんは、そこにいるんでしょお?"


赤い短剣は何も答えなかった。スピナは涙を胸の奥へ押し込んで消した。もうこのことは考えないようにするんだ、と自分に何度も言い聞かせながら。


―いつだって名前を呼べば応えてくれたんだ……おいらがそう信じていればいい。そうさ、"ここ"にいるのはミシュの心なんだ!


しばらく立ちつくしているうちに、静寂の中にプロップの寝息を聞き取れるようになった。


ところで、今の出来事を後で二人にどういう風に説明したものかと考えながら、暗闇に目が慣れるのをじっと待ち続けた。





◆12◆




「何だよこれは?おい、ジド?」


出し抜けにテーブルに置かれたウィスキーのボトルと空のグラスを見て、ティトはカウンターの向こうにいるジドにそう言った。


「心配しなくてもそいつは俺の奢りさ」ジドは素っ気なくそう言うと、煙草をくわえて火をつけた。「一杯くらい構いやしねえだろ……明日くたばっちまうかもしんねえしな」


二人きりの店内に時計の針が回る音が響いた。時刻は二十時を少し回っていた。


「まったくだな……今のところ死人は出ていないのか?」


しばらくためらった後、ティトはそう言いながらボトルの蓋を開けた。


話し合いの結果、二人はフロルに対して先手を打つ作戦に出ることにした。


ジドの配下へ出した命令は、国道を見張り、フロルを捜して追跡する。ただし決して交戦してはいけない。隙を見つけて彼女から馬を奪い、それから食事や睡眠といった一切の休息を妨害する。それだけを徹底しろ。というものだった。


フロルがコヒの村へ行くと決めたのなら、軍隊並みの戦力でない限りそれを止めることはできない。


ならば可能な限り足止めをして、尚且つ彼女を疲労させることに全力を注ぐ方が効率が良いし、何より無駄な怪我人、死人を出さずに済む。


先ほど配下から入った報告によれば、フロルが村に到着するのは、恐らく明日の午前中だろうとのことだった。


この作戦の最終段階は、消耗したフロルをティトが一人で村の近くで迎え撃つというものである。


「ああ、誰もくたばってねえ。もっとも、怪我人は多いらしいがな……噂以上の化け物だとよ」


「そうか……」


とくとくと心地よい音を立てながら、ティトはグラスにウィスキーを注いだ。水割りにもロックにもしないのがティトの主義だ。


「ところでよ、今さら訊いても始まらんが、勝ち目はあんのかよ?」


「さあな。やってみなけりゃわからん」


ティトはウィスキーを一口飲んだ。その味は、安酒にありがちな単純な辛さではなく、深みのある辛さだった。ボトルに書かれている銘柄を読みながら、なんともマクスカ人好みの味だなと懐かしく思った。


ジドは真顔でティトの様子を眺めていたが、一瞬だけうつむいて顔を上げると、それをにやにや笑いに一変させた。


「もしお前がくたばっちまったらよ、お前のカミさんを俺にくれないか?ガキもいねえんだよな?前からよ、いいケツだなって思ってたのさ!」


「何だって?」ティトは声を上げて笑った。「嘘をつけ!お前の趣味じゃないだろ?ああ、そうさ、お前ときたら……お前はデカい女じゃなきゃ駄目なんだ!そうだろ?」


「違えよ。デカい女もいけるってことさ!」


ティトは抑え切れずに再び大声で笑った。つられたようにジドも豪快に笑った。


何がそんなに可笑しいのか自分たちにもよくわからなかった。


ただただ可笑しくて仕方なかった。





◆13◆




まもなく日付が変わろうとしていた。


国道外れの平原に、肩で息をしながら歩く黒衣の女の姿があった。


―やれやれ……だな。


順調に行けばとっくにコヒの村へ到着しているはずだった。


夕方にしかけてきた連中は馬を奪っただけにとどまらず、その後も執拗につきまとってきた。


国道へ引き返す、もしくは休息をとろうとするとすかさず弓矢が飛んでくる。しかし決して交戦しようとはせず、牽制を終えるとまた距離を空けるというその繰り返しだった。


それでも何人か動きの遅い連中に怪我を負わせることはできたが、退却に全力を尽くされていては捕えることもできず、人海戦術をしかけられている以上は焼け石に水だった。


―このまま寝ずに歩き続けるしかないか……。


沸き上がる苛立ちを抑え、ストレスと笑顔で握手を交わし、フロルは精神が乱れぬよう努めた。


怒りや焦りがいかに死へ繋がりやすいかということを彼女は知っている。


それにしても、とフロルは考えた。


自分がコヒの村へたどり着く分には構わないとでもいうような連中の動きは、一体何を表しているのだろうか。


深呼吸をしながら、頭の中のテーブルにばらまかれたパズルのピースをかき集める。


―逃走ルート……か?


どうやらパズルが収められていた箱には、そうタイトルが書かれているようだ。


そして、現時点で完成図がどのようなものであるかを理解できるくらいのピースは揃っているような気がした。


―私を倒す気はない……時間稼ぎ……コヒの村……あそこには……。


フロルははっと顔を上げた。


暗闇に光りがさし込んだような閃き。机の隅に置いてあった重要なピースを見つけたのだ。


外枠をすべて埋めた後に取りかかるピース。それを埋めれば、自ずと他の多くの箇所も埋まっていく重要なピース。


―玄烏賊の洞窟……そうか!そういうことか!……確かに、この国のどこへ逃げるよりも安全だな……。


懐中時計を取り出して覗き込むと、既に日付が変わっていた。


テンダは、(あるいは侵入者の少年たちも一緒に)既に洞窟へ入っているのだろう。そうなると自分が追いつくためには、もはや一刻の無駄も許されそうにない。


これ以上自分を見張っている連中に構ってはいられないと考え、フロルは足を速めた。


―まったく、やれやれだな……。





◆14◆




「思ったよりてこずってるなぁ。フロルのやつ」


夜の平原を進んで行く黒衣の女を、遥か上空から見下ろしている二つの視線があった。


そのうちの一つの主、藍色の仮面の男、ガタカが苦々しくそう言った。


「連中にやられるってことはまずあり得んだろうが、このままだとガキどもに追いつけないんじゃないか?それなら、いっそ今ここで俺にやらせてくれないか?」


「それはならん……」ガタカと並んで宙に浮かんでいる、深紅の仮面の男、リャーマは静かにかぶりを振った。「我々はおいそれと姿を晒すわけにはいかん。今はあの女を見張っている人間どもの目がある」


「ならば、そいつらごと皆殺しにすりゃいいじゃないか!」


「それで?我々に何の得がある?」リャーマは小馬鹿にしたように鼻で笑った。「面倒が増えるだけだ。人間とは、仲間が死んだ理由を執拗に追いかける生き物なのだ」


「まあ……そうだな」ガタカは渋々納得したというように、ううん、と唸った。「"我思う、故に我あり"ってな連中だもんな」


ガタカはそう言って、へへっと誘い笑いをしたが、リャーマはこれ以上取り合うつもりはないというように無言でガタカから視線を外し、次第に遠ざかって行く黒衣の女の後ろ姿を見つめた。


「さて、あの女より一足先に玄烏賊の洞窟へ行くぞ」


「へ?もう行くのか?フロルがガキどもとぶつかるのを待つんじゃないのか?」


「あの女では役不足かもしれん。お前の言うように追いつけないかもしれんしな……そして、あの洞窟ならちょっとした"実験"が可能だ」


リャーマの言葉の意味が解りかねて、ガタカはしばらく"骨の腕"を組んで考え込んでいたが、やがて、ああそうか、と声を上げた。


「はいはい、玄烏賊の洞窟ね。あんたの可愛いペットと遊ばせるわけだ。なかなか面白そうだが、ちょっとやり過ぎじゃないか?ガキどもが食われちまったらどうする?」


「その程度の力なら、それは我々の望むものではない」


ガタカはふうんと素っ気なく返事をすると、気だるそうに両手を後頭部で組んだ。


「それにしてもよ、いつになく慎重だよなリャーマ。俺らがぱっとやっちまった方が手っ取り早いってのにさ。俺の出番はあんのか?退屈で死んじまうぜ!」


「……白状してやろうか?ガタカよ」


リャーマの口調が真に迫ったものだったため、ガタカは少し驚いた。


「何だよ?」


「私は、あの小僧と赤い剣を少し恐れている……」


ガタカは両手を下ろしてリャーマに向き直った。


「へえ、あんたでも恐ろしいものがあるんだな。驚きだよ」


リャーマは何も答えずに、わずかにうつむいた。


このようなリャーマの様子は久しく見ていないということに気づいたが、彼が何を考えているのかはまったく見当がつかなかった。


「では、行くとするか……」


しばらくして顔を上げると、リャーマはそう呟いた。


そして、一切の光りも音もなく、突然に仮面の男たちの姿はその場から消えた。




◆15◆




「そんな馬鹿な……」


玄烏賊の洞窟に入って二日目。午前九時三十二分。


プロップの訝しげな声が響いた。


朝食を終え、相変わらずスピナを先頭にテンダ、プロップの順で三人は歩を進めていたが、それぞれの間の距離は昨日ほど離れてはいなかった。


歩きながら、スピナが昨夜現れた少女の幽霊の話を始めたからである。


一通り話し終え、(ただし"はんさむなおにいちゃん"と赤い剣についてのくだりは割愛した)スピナは少し苛立っていた。


話している最中からずっと、何言ってんだこいつ?という雰囲気を二人が醸し出していたからだ。


「おいらが嘘ついてるって言うのかよ?」


「まあ、プーちゃんはそんなことしてないって言ったけど、あたしは確かに肩に触られたわけだし、辻褄が合わなくはないけど……でもまさか……幽霊が玄烏賊に注意しろ、だなんて……ねぇ」


テンダは苦笑した。内心では、こいつ絶対居眠りしてやがったんだわと舌打ちしていた。


「おいらだって幽霊なんか信じてなかったんだ!昨日本当に起こったことなんだ!」


振り返り、両手を広げて懸命に二人に訴えかけながら、やはりこんな話を信じろと言う方が無茶なのかもしれない、とスピナは半ばあきらめの境地に達していた。


テンダとプロップは、顔を見合せてばつが悪そうにううんと唸った。スピナがあまりにも必死なので、夢でも見たんだろ!と率直に言うのがためらわれた。


「もういい。わかった。信じないんならそれでもいいさ。でもよ、とりあえず地底湖に着いたら一気に駆け抜けようぜ?別に損はないだろ?何も起きなきゃそれはそれでいいわけだしよ」


「嫌よ!無駄に体力使っちゃうわ!先は長いのよ!バカじゃないの!」


一瞬の沈黙の後、プロップはスピナとテンダとの間の空間に、天を引き裂く雷が発生したのを見た。そして頭の中に鳴り響く突撃の法螺貝の音を聞き、さあ始まるぞ!と体を強ばらせた。


「誰がバカだ!バカ!お前は一番荷物少ないだろうが!ちょっと走るくらいなんだってんだ!」


「護衛が偉そうに何よ!雇い主なのよ、あたしは!」


「だから、その雇い主様の安全のために提案してやってんじゃねえか!」


「二人ともそこまでにしなよ!」


プロップは急ぎ足で二人の間に割って入った。スピナはそっぽを向いてちっと舌打ちした。テンダはその背中を睨みながらふんっと鼻を鳴らす。


「スピナ、もうちょっと言い方ってもんがあるでしょ?そりゃあ君の話を信じてやれなくて悪いと思うけどさ……」


「そうよ!謝りなさいよ!」


テンダはスピナに人さし指を突きつけた。


「はいはい。全部おいらが悪いですね。お詫びの言葉もございません」スピナは背を向けたまま、ぶっきらぼうにそう答えた。「だから謝りません」


「あんたって本当に―」


「もうやめなよ!」食ってかかろうとするテンダを、プロップが手で制した。「テンダだってよくないよ!年上なんだしさ……スピナの言う通り地底湖は急いで通過しよう。その後少し長めに休めばいい。ね?そうしようよ!」


「わかったわよ……」


テンダは渋々引き下がった。"年上なんだし"という言葉がやけに胸に響いた。


それきりその話題はしまいになった。


何とか妥協点に達した三人は、三者三様の思いを抱えながら黙々と歩き続けた。


誰もはっきりとは気づいていなかったが、一行はこの時既に地底湖の近くまで来ていたのだった。




◆◆◆





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