〈Ⅰ‐Ⅲ〉“何か”が動き出した(後編)
◆1◆
話は約十時間前に遡る。
マクスカシティの地下、複雑に入り組んだ水路を通り抜け、一切人目につくことなく王宮内天井裏へとたどり着いたスピナは、立ち上がれないほどの狭い通路を這って進んでいた。
真っ先にパーティーのメイン会場である大広間へ向かい、ティトから渡された小型の工具を駆使して天井に僅かな隙間を作った。
そこから首に紐でぶら下げている小型の双眼鏡でしばらくじっくりと観察したが、これと言って変わったことは起こらず、ティトに言われていた赤いリボンの少女を見つけることもできなかった。
―とりあえず一通り廻ってみるか……。
頭にバンドで巻きつけてあるヘッドライトの明かりをつけ、王宮の設計図を確認しながら、まず地下へ移動し、それから階上へ上がっていくことに決めた。
蜘蛛の巣を払いながら慎重に進み、地下の小部屋の上にたどり着いた時、その部屋から誰かの言い争っている声が聞こえてきた。
「それ以上私に近づかないで!」
女性の声がはっきりと聞こえた。その部屋は双眼鏡を必要としないほどに天井が低いようだった。
音を立てないように慎重に天井裏から下を覗くと、狭い物置のような部屋にいる、豪華なドレスに身を包んだ、自分と同い年くらいかと思われる少女の姿が見えた。
彼女は誰かと向かい合って立っているようだが、相手の姿は見えなかった。
―ん?あれって……まさか……。
「仰せの通りにいたしましょう、ムミ姫。私としてはこの距離で構いませんので」
少女と向かい合って立っている何者かが淡々とそう答えた。地を這うように太く、年季を感じさせる男の声だった。
―あ、やっぱりムミ姫だよな……何で王女がこんな場所に?
スピナはムミ姫と向かい合っている何者かの姿を見ようと、天井裏の隙間を広げた。
―何だ……こいつは……?
"鮮血"もしくは"業火"といった言葉を連想させるような、恐さや悲しさを感じさせる深紅の仮面。
男の顔は、口のまわり以外のすべてがその仮面で覆われていた。
黒く長い髪と、整えられた顎髭は声の印象とは異なり若々しく見える。
首から下は、仮面と同じ色の、古代文字のような複雑な模様がいたるところに刻まれている分厚いマントに足下まですっかり覆われており、どのような体型なのかはわからなかった。
スピナは唾をごくりと飲み込んだ。道化ではなく、こいつはもともとこういう"存在"なんだと何故か確信できた。
「あなたは一体……こんなところに無理矢理連れ出してどうするおつもり?お父様がこのことを知ったら、ただでは済みませんよ」
ムミ姫の声は震えていた。そうじゃなければさぞ美しく、優雅な声なのだろうと思えた。
「ただでは済まない、ですと?」
仮面の男の笑い声が響いた。
「何が可笑しいのです?」
「姫、おわかりになりませんか?幼くて愚かな姫よ。この状況……これから起こることは陛下のご提案なのだ」
ムミ姫は目を見開き、両手で口元を押さえた。真夏の砂浜のように、白く美しい顔が青ざめていく。
「まさかお父様は……嘘よ!そんなはずありませんわ!」
天井裏のスピナは混乱しはじめていた。
今日のパーティーは騎士団長のエスティバと、王女ムミの婚約を記念して開催されているのだ。そのパーティーの最中にこんな状況はあり得るだろうか、と考えた。
―どうなってんだ……?
「姫、恐縮ですがあまり大きな声を出さないで頂けますか?まだ何をするとも申し上げておりません」言葉とは裏腹に、仮面の男の口調からは一切の敬意が感じられなかった。「ああ、一応言っておきますが、誰かに聞かれたら困るという意味ではありません。ただ、私は人間のわめき散らす声が嫌いだというだけです」
「お父様は……お父様は……」ムミ姫は自分に言い聞かせるようにそう言った。「お父様は改心なさったのです!あなたのような無礼者を許すはずがありません!」
仮面の男は、救いようがないというように首を左右に軽く振った。
「まったくもって呆れ果てたお姫様だな。実の父がどのような男かもご存じないようだ。今日のパーティーに違和感を覚えなかったのですか?ほんの少しでも?」
ムミ姫ははっと息を飲んだ。
「まさか……すべて嘘なのね?お父様は最初から……そんな……」
宝石のように美しいムミ姫の瞳から涙が溢れ、顔が怒りと悲しみで歪んだ。
そして仮面の男に詰め寄ると、泣き叫びながら握りしめた拳を男の胸に、分厚いマント越しに力強く何度も叩きつけた。癇癪をおこした幼い子供のようだった。
「卑怯者!地獄に落ちるがいいわ!」
仮面の男は少しもたじろぐことなく、哀れむようにムミを見下ろしていたが、しばらくして突然マントの下から手を伸ばしてムミの首をつかんだ。
―な……こいつは……。
スピナは自分の体が恐怖で小刻みに震えていることに気がついた。
一国の姫という以前に、自分より明らかに体格の劣る少女を相手に、ためらいなくその首に手をかけるという異常性もさることながら、最もスピナを震え上がらせたのは仮面の男の"手"だった。
―化け物かよ……。
袖に隠れているため、手首の辺りまでしか見えないが、その手にはあるべきはずの皮膚と肉がなかった。
剥き出しの"骨"は鉄のような色で、目を凝らすと、その一本一本にマントに刻まれているのとほぼ同じような模様が細かく刻まれていた。
果たしてこれを"骨"と呼んでいいものか疑問だった。
さらにその"骨"の指先についている爪は、鋭く尖っており、まるで腐敗しているように黄ばんでいる。
何をどうやったって人間の手はこんな風にはならないとスピナは思った。
「大きな声を出すなと言っただろ?聞いていなかったのか?」ムミ姫の体が浮き上がった。仮面の男が首をつかんだまま軽々と、その華奢な体を持ち上げたのだ。「神は何故人間に涙を与えたのか……まったくうるさくてかなわん」
仮面の男は吐き捨てるようにそう言うと、無造作にムミの体を後方へ放り投げた。
背中を背後の壁に叩きつけられ、ムミはそのまま崩れるようにうつ伏せに倒れた。
泣き叫ぶ声は止み、うめき声と嗚咽に変わった。
「二度と私に同じことを言わせるなよ?理解できるか?汚らわしい人間の王女よ」
仮面の男がそう言い終えた直後、まるでその言葉が合図であったかのように突然部屋のドアが開き、何者かが入ってきた。
「おい!何をしている?」部屋に入ってきたのはローブ姿の中年男だった。「これはどういうことだ?姫に何をした?」
「これはイスラ大臣殿。何かご用ですかな?」
仮面の男は部屋に入ってきた男にそう言った。スピナは記憶の糸をたどったが、イスラという名前に心当たりはなかった。
―でも今大臣って言ったよな?それって偉いやつだろ。何でこんなところに?……この化け物と知り合いなのか?
「そなたがやり過ぎはせぬかと心配で来てみたが、案の定だな……術をかけるだけではなかったのか?姫に怪我を負わせてエスティバに感づかれたらどうするつもりだ!」
イスラは両手を広げて仮面の男を睨みつけた。
「どいつもこいつも……いいか?よく聞けよ?次にこの部屋で大声を出すやつがいたら、そいつが姫だろうが大臣だろうが二度と声を出せないようにしてやる!」仮面の男はそう言いながら詰め寄ると、"骨の手"でイスラの胸ぐらをつかんだ。「理解できたか?その必要があったとしても、私に繰り返し同じことを言わせるなよ?」
イスラは怯えた目で"骨の手"を凝視しながら、何度か小刻みに首を縦に振った。
「わか、わかった……手を放してくれ」
仮面の男が無言で手を放すと、イスラはまるでそこに火の粉が降りかかったというように胸の辺りを手ではたいた。
「イスラ……やはり貴方もそうなのね?……私をだましたのね?」
ムミがゆっくりと立ち上がりながら苦しそうに言った。イスラと仮面の男は同時に彼女へ視線を移した。
「姫、何とぞご理解頂きたい。婚約自体は嘘ではありませんし、姫を傷つけるつもりはございません。ただほんの少しの間だけ―」
「あなたたちの思い通りにはさせない!」
イスラの言葉を遮ってムミが叫んだ。イスラが少したじろいだほどの剣幕だった。
「同じことを言わせるなと今言ったばかりなんだがな?」
仮面の男は苛立った声でそう言いながら、ムミに向かって右の"骨の手"の平を突き出した。
するとその手の平から、突如として暗い紫色の光が溢れだした。
「お、おい、まさか殺す気じゃないだろうな?」
イスラの声は震えていた。額には大量の汗がにじんでいる。
「黙っていろ。予定通り術をかけるだけだ。さっさと済ませてやるとも……しまいには本気で殺したくなりそうだからな」
仮面の男が言い終えると同時に紫の光が"骨の手"から放たれ、ムミの頭部に命中した。
ムミは苦しそうに叫び声をあげながら、頭を両手で抱えてうずくまった。
そして、耳を突く金属的なきいんという音を放った後、紫の光は消えた。
ムミはもう叫んでおらず、無言でうずくまったままだった。
「……これで終わりか?成功したのか?」
イスラは訝しげに顔をしかめた。
「立ち上がって顔を上げろ」
仮面の男はイスラを無視して、うずくまったままのムミにそう言った。すると、ムミは何事もなかったかのようにすっと立ち上がった。
スピナはムミの顔を見て背筋が冷たくなった。先ほどまでとは対照的に、無表情で目の焦点が合っておらず、まるで夢遊病者のようだった。
「今からお前の主はこの私だ。理解できるか?」
「はい……」
仮面の男の問いかけに答えるムミの声も、表情同様に空虚なものだった。それは何の感情も込められていない"ただの音"と言ってもよかった。
「さて、お前はこれから何がしたい?」
「何もしたくありません……」
「この私が何かをお前に頼んだとしてもか?」
「いいえ……」
「では今から私が言うことをよく聞くのだ。よいな?」
「はい……」
スピナはこの奇妙な問答をどのような感情で受け入れていいのかわからず、ただ呆気にとられるばかりだった。そしてそれはイスラも同様だった。
「これから上へ行き、何事もなかったようにパーティーへ戻れ」
「はい……」
「そして今度はお前が"あの娘"をここに連れてこい……誰のことかわかるな?」
「……はい」
「私がお前を連れてきたように無理やりにではないぞ?決して警戒されてはならない」
「はい……」
「必ず二人きりでここに来るのだ」
「はい……」
「では行くがいい」
「はい……」
そしてムミは単調な足取りで部屋を出ていった。彼女を目で追っていたイスラは、部屋のドアが閉まると同時に安堵のため息をもらした。
「驚いたな……恐ろしいほどの効果だ」
「さて、こっちはきちんと働いてやったぞ。そっちはどうなのだ?」
仮面の男は"骨の指"で顎髭を撫でた。
「ああ、問題はあるまい。例の娘には"漆黒のフロル"をつけてある。その気になっても逃げられはせぬ」
「だといいがな……」
天井裏で次第に冷静さを取り戻しつつあったスピナは、王女のことが多少気がかりではあったものの、きわめて重要な情報を自分がつかんだという興奮の方が勝り、胸が高鳴っていた。
しかしそれも束の間だった。
スピナの腰の短剣が、突然一瞬の赤い光を放ったのだ。
―ミシュ?どうした?
スピナは短剣に手を触れて"その意思"を感じ取った。
―急いで逃げろ……ってか?何だよ、珍しくそっちから話しかけてきたかと思ったら……大丈夫だって。ここにいれば気づかれやしないさ!
「……これは……どういうことだ……?」
仮面の男が突然そう呟いた。
「ん?何の話だ?」
イスラの問いかけを無視し、仮面の男はしばらくの間、壁伝いに部屋中を行ったり来たりと歩き回った。
―何してんだこいつ?まさかおいらに気がついたのか……?
スピナはごくりと唾を飲み込んだ。
直感がミシュに従うべきだと囁いたが、結局動くことはできなかった。合理的な自分は"突然ばれる理由は何もない、下手に動く方が危険"と判断していたからだ。
しかし、その瞬間は訪れた。
それからさらにしばらく経った後、歩き回っていた仮面の男が突然立ち止まり、素早く天井を見上げたのだ。
「そこにいるのか?……馬鹿な……」
天井のわずかな隙間を通り抜け、深紅の仮面越しに男とスピナの視線がぶつかり合った。
―嘘だろ?何でだ?
スピナは素早く視線を外し、脳と体を最大限に回転させて来た道を引き返しはじめた。
―ごめんよ、ミシュ。君が正しかった……でも何でいきなりばれたんだ……?
仮面の男はスピナがいた辺りを見上げて、しばらく無言で立ちつくしていた。
「何事だ?まさか天井裏に誰かいるのか?」
イスラは仮面の男の視線の先を追った。
「ああ、そうらしい……すでに逃げ出したようだが。すべて見られていたのかもな……」
仮面の男は見惚れているように、天井を見上げたままそう答えた。
「おい、何だと?そなたは―」
「小言は後で聞いてやる!さっさと上へ行って衛兵どもに知らせろ!」
仮面の男に一喝されると、イスラは苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちし、ぶつぶつと文句を言いながら駆け足で部屋を出ていった。
「この私がまったく気配に気づけなかった……だと?」誰もいなくなった部屋に、仮面の男の独り言が響き渡った。「あり得ん……何者だ?人間なのか?」
◆2◆
「ってなわけで、結局見つかっちまったんだけど、どうだ?凄え情報だろ?ムミ姫は化け物みたいな男に操られているんだ!」
スピナの長い話(赤い短剣のくだりは割愛した)は終わった。
話を聞き終えた四人は、それぞれ思案に耽り、店内はしばしの沈黙に包まれた。
「ごめんなさい……あたし、気分が悪いみたい……ちょっと風にあたってくる……」
作り笑いを浮かべ、誰にともなくそう言うと、テンダは逃げ出すようにして店の外へ出て行った。
「……スピナ君、ありがとう。ちょっと待っててくれるかな」
心配そうにテンダを目で追っていたティトは、スピナにそう言うと返事を待たずに急ぎ足でテンダを追って行った。
「何だよ、みんなもっと驚くと思ったのに」
ティトが外へ出るのを見送ると、スピナはつまらなさそうにそう呟いた。
「ねえ、見間違えとかじゃないの?……仮面や妖術はともかく、まさか……骨の手なんてさ」
スピナの話を聞きながら仮面の男の姿を思い浮かべ、プロップはすっかり怖くなっていた。なるべくなら見間違えであって欲しかった。
「見間違えなんかじゃねえよ!おいらの目がいいのは知ってるだろ?」
「俺もにわかには信じられんな」カウンターの中でじっと腕を組んで考え込んでいたジドが、おもむろに口を開いた。「俺はこの国のやばいやつは大体知ってるつもりだが、そんなやつは噂でも聞いたことがねえ」
「何だよ、おっちゃんまで。だからきっと本当にやばいやつなんだ!誰も知らないってくらいにさ!」
「その仮面の男も気になるけどさ、それよりその話が本当だとしたら、国王は実の娘にひどいことをしてるってことだよね?……この国は大丈夫なの?」
プロップが声高にそう言った。スピナは今さらながらそこに気づき、そういやあそうだなと呟いた。
「今に始まったことじゃねえよ……」ジドはポケットから取り出した煙草を口にくわえ、マッチで火をつけた。「まつりごとをやってる連中ってのは大体どっかいかれてんのさ」
スピナとプロップは次に言うべき言葉が見つからなかった。
ジドとしてもこれ以上何か言うつもりはなく、店内は再び沈黙に包まれた。
それにしても、とプロップは思った。
―ジドさんもそうだけど、ティトさんとテンダさんって一体どういう人たちなんだろ?……今日、何かが起こると既に知っていた?スピナが見たようなことが起こると?
◆3◆
テンダはジドの店から少し離れたところにある、村の広場のベンチに座っていた。
「テンダ様、ここでしたか」
ティトは周囲を見渡しながらベンチへ近づいていった。夜の広場は二人の他には誰もいなかった。
「ティト、あいつの話、多分全部本当よ。あたし……今日ムミに会ったの」テンダは隣に腰掛けるティトのために少し端側に寄った。「様子がおかしかった……苦しそうにしてて、それで、あたしに早く逃げてって言ったの。さっきの話でわかったわ。あの子、術に抵抗してあたしを助けてくれたのよ!」
テンダは泣いていた。ティトは星空を見上げた。
「なんとも許しがたい……」
「あたし、このままイメッカには帰れない!ムミを助けに行くわ!力を貸して!」
「それはなりません」
テンダの強い口調を受け流すように、ティトは間髪入れずに答えた。相変わらず星空を見上げたままだった。
「どうして?わからないわ!ムミのことなんてどうでもいいとでも言うの?」
「そんなはずないでしょう!」
怒気を含んだティトの声に驚き、テンダは少したじろいだ。今のティトの怒りは、自分を叱る時の愛情が含まれている怒りではなく、純粋な憤怒だと感じた。
「私とてできればそうしたい。しかし、このままではいずれテンダ様もやつらの手に落ちてしまうでしょう。私一人では守りきれません」
「でも、だからって……」
「やつらの狙いは恐らくテンダ様の"あの力"なのかもしれません……何故今頃になってそんな必要があるのかわかりませんが。とにかく、ムミ様にはおいそれと危害は加えられないはずです」ティトはようやく視線をテンダに移した。「そしてテンダ様をわざわざおびき寄せたということは、やはり連中とてイメッカ側では手が出せないのでしょう。ですから、我々は一旦帰国し、それから今後のことを考えるのです。イメッカには仲間もいます」
テンダはうつむいてしばらく考え込んだ。
ティトの言っていることが最も合理的であると頭では理解できる。しかし理由はどうあれ、ムミをあのままにして自分だけ逃げるということに納得がいかない。
―でも、あたしのせいでこんなことになったんだから……これ以上は……。
「……わかったわ。正直に言うと納得いかない。今すぐムミを助けに行きたい。でも今回のことは全部あたしが間違ってた……だからティトの言う通りにする」
テンダの言葉は溢れ出す涙で震えていた。涙を抑えることができない自分自身が許せなかった。
―バカみたい……自分が一番つらいとでも思ってるの……?
「ごめんね……ティト、ごめんなさい……」
ティトは何も言わずに、テンダの肩に手を回して優しく抱き寄せた。テンダは逆らわずにティトの胸に頬を埋めた。
そのまま時間はゆっくりと流れた。穏やかな夜の風が二人を優しく包み込んだ。
「テンダ様は何も間違ったことはしていませんよ……あの二人の少年をひどい目に合わせたということを除けば、ですが」
テンダの涙がようやくおさまった頃、ティトはそう言って少し笑った。それにつられてテンダも笑顔になった。
「ところで」ティトはゆっくりとテンダの肩を押して自分の体から離した。「逃げる時に"力"を使ったのですか?」
「え?う、うん。フロルって女に追われたんだけど、そいつときたら……"あれ"を使わなければ逃げ切れなかったと思う」
テンダは両手の平を広げてそれを交互に眺めながらそう言った。"あの魔法"の感覚を思い出していた。
そのため、ティトがフロルの名前に驚きの表情を見せたということにまったく気がつかなかった。
「一応成功したのよ!もう一回やれと言われたら難しいかもしんないけど……」
「そうですか……」
嬉しそうに話すテンダとは対照的に、ティトの表情は険しいものになっていた。
―"漆黒のフロル"……か。
◆4◆
スピナがトイレから戻ると、ちょうどティトたちが外から戻ってきたところだった。
ティトはスピナたちを見渡して、待たせたねと声をかけると、テンダと共に元いたカウンター席に座った。
二人は何をしていたのだろうかとぼんやり考えながら、スピナもカウンター席へ戻った。
「疲れているところを申し訳ないのだが、君たちともう少し話がしたいんだ。いいかな?」
ティトはスピナとプロップの顔を順に見ながらそう言った。一瞬スピナと顔を見合わせた後で、大丈夫ですとプロップが答えた。
「では、まず君たちに改めてきちんとお礼を言いたい。本当にありがとう」
そう言って丁寧に頭を下げるティトを見て、プロップはむしろ申し訳ない気持ちになった。
「報酬は約束通り払わせてもらうよ。情報料はまた別でね」
スピナとプロップは再度顔を見合わせた。お互いに相手のにやけた顔を見ることになった。
「そのうえで君たちにもうひと仕事頼みたいのだが、どうかな?」
続けざまのティトの言葉で、今度はお互いのにやけた顔がきょとんとした顔へと変化していく様を観察することになった。
「……どんな仕事でしょうか?」
プロップは恐る恐るそう訊ねた。報酬は嬉しいが、自分たちは今日のことで国中のお尋ね者になってしまったわけで、これからの身の振り方など、考えなければいけないことは山積みなのだ。なるべくならこれ以上の危険は冒したくなかった。
「テンダ様の護衛を頼みたい。国境を越えて、無事にイメッカまでお送りして欲しいんだ」
一瞬の沈黙が訪れた。それぞれがティトの言葉を飲み込んで消化する間の沈黙。
「断る!」「絶対嫌よ!」
沈黙は破られた。
スピナとテンダは、予め示し合わせていたかのように同時に立ち上がって叫んだ。
プロップとティトは顔を見合わせて、お互いに自分の連れ合いをいつでも取り押さえられるよう心の準備をしておこう、と無言の合図を送り合った。
「どうでもいいけどよ、これ以上何も壊さんでくれよな」
ジドはカウンターの中から一同を見渡しながら、呆れ顔でため息をつくと、突然何かを思いついたというように、食べかけの料理がまだ残っているテンダの食器を素早く下げた。
「ティト、あなたがいれば護衛なんていらないでしょ?」
「って言うか、この女に護衛なんかいらないだろ。モンスターだって逃げ出すぜ!」
「うるさいわね、このボサボサ頭!あたしはティトと話してるの!」
「あ?誰が何だって?もっかい言ってみろよ!」
プロップはひどい頭痛に悩まされているというような顔で首を左右に軽く振ると、ゆっくりと椅子から立ち上がってスピナの上着の袖を引っ張った。
「スピナ、僕らも外を散歩しよう」
「ああ?」
「ちょっと僕らだけで話そうよ」
しばらくためらった後、スピナはちっと舌打ちして、テンダを睨みつけながらプロップに引っ張られて店の外へ出て行った。
「ティト、あたし、あんなやつと一緒にいたくない!」
スピナたちが店の外に出て行くのを見届けると、テンダは両手でテーブルを叩きつけた。それを見たジドは、やっぱり食器を下げていて正解だったなと胸を撫で下ろした。
「とにかく座って下さい」
ティトは煙草を取り出して口にくわえ、マッチで火をつけた。
一通り話が終わるまで我慢するつもりだったが、そうはいかないようだ。
「私はテンダ様と一緒には行けません」
「え?どうして?」
テンダは信じられないというように両手を広げた。一向に座る気配はなかった。
「私は密入国者ですからね。関所は通れません。それに、まだやることがありますので……ご心配は無用。私もすぐにイメッカへ戻りますとも」
「だから、あたしもティトと同じルートで一緒に帰ればいいじゃないの!」
「それはできません」ティトは煙草の煙を吐き出した。「彼らが戻ったら詳しく話します。きっと引き受けてくれるはずです」
「あいつらがいいって言っても、あたしは絶対嫌だからね!」
テンダはようやく椅子に座ると、そっぽを向いて頬杖をついた。
「テンダ様、そんなことを言っている場合ではないのです。ムミ様を助けるためでもあるのです」ティトは煙草を人さし指で叩き、灰皿の上に灰を落とした。「それに、テンダ様と彼らとはなかなか相性が良さそうじゃないですか?こうして知り合えたのも何かの縁であるわけですし。特にあのスピナ君とは―」
言葉が終わる前に、テンダの振り向きざまの拳がティトの肩に叩きつけられた。
ううっとうめき声をあげながら肩を押えながら痛みを堪えるティトをきっと睨みつけ、テンダはまたそっぽを向いた。
―ったく……冗談じゃないわ!
◆5◆
「プー、おいら絶対引き受けないからな!」
スピナとプロップは店のすぐ横の壁際で話し合いを始めた。
「いいや、君が何と言おうとも絶対に引き受けるよ」
「金なら、今回の報酬で十分だろ?」
「お金のことじゃなくってさ……そう、例え報酬がゼロだとしても僕らは引き受けざるを得ないんだ」
「どういう意味だ?」
スピナはぴくっと眉を動かした。
「だからさ、よく考えてよ。僕らは今日のことでマクスカ中のお尋ね者になっちゃったんだ」
「おう、有名人だな!」
スピナはにやりと笑いながら鼻をこすった。プロップはがっくりと肩を落とした。
「何が有名人だ!このバカちん!どうやってイメッカまで行くのさ?」
「ん?どうって?……歩いて行きゃいいじゃん。それか、金入ったから馬でも買おうか?」
「だからさあ、僕はそれができないって言いたいんだよ、バカ!」
プロップはスピナの太股を蹴飛ばした。
「っと、何すんだよ!」
「国道すたすた歩いてたら捕まるだろ!関所だって通れやしないよ!」
「……そういうもんか?」
スピナは腕組みをして考え込んだ。
「そりゃあそうでしょ!多分ティトさんは、それがわかってて僕らに頼んでるんだ」
「何だそれ?国境を越えられないおいらたちに頼んでも意味ないじゃん?」
「そう、そこだよ!」プロップは、人さし指をぴんと立てた。「それを知ってて僕らに頼むということは、きっと何か上手い方法があるんだよ!テンダさんだって訳ありのようだし、真っ直ぐ国境まで向かえってことじゃないんだよ!わかる?」
「うん、まあ、何となく……」
プロップは歯痒さで頭を掻き毟りたくなった。
「早い話が、引き受ければ全員得するんだ。むしろ僕らは感謝するべきかもしれないよ?ティトさんは、僕らがお尋ね者になっちゃったことに引け目を感じてるのかもしれない」プロップはスピナに顔を近づけた。意地でも説得してやるぞと思い、体に力が入った。「僕らがちょうどイメッカに向かっていることも知ってるわけだし、つまり、テンダさんを護衛させながら国境を越えさせれば、僕らも救えて一石二鳥じゃないか!」
「一石二鳥……」
スピナはううんと唸りながら再び考え込んだ。
プロップは、後生だから彼にただ一時の理解力を与え賜えと天に祈りを捧げた。
「悪りぃ、やっぱあんまよくわかんねえ」
プロップの祈りは届かなかった。
―こうなりゃ、とことんやってやるぞ!たとえ朝までかかったとしても、だ!
「でもよ、プーの言う通りにするよ!」
スピナはそう言うと、プロップの肩をぽんっと叩いた。プロップは耳を疑った。
「本当?わかってくれた?」
「まあ、正直わかんねえけど、大体こういうのっていつもお前が正しいからな」
プロップは感動のあまり、スピナに強く抱きついた。二人で旅を始めて以来、そんなことを言われたのは初めてだった。
―スピナもようやく少しは大人に……。
「離れろよ!気持ち悪りぃ!」スピナはプロップの両肩を押して体を突き放した。「ひとつ言っとくけどよ、だからってあの女とは絶対口きかねえからな!そこんとこは譲らねえからな!」
◆6◆
「話はまとまりましたか?」
外から戻ったスピナとプロップにティトが声をかけた。テンダは相変わらずそっぽを向いたままだった。
「はい、ティトさん。護衛の仕事、喜んで引き受けます!」
元いた椅子に座りながらプロップが答えた。スピナは無言のまま、一瞬だけちらりとテンダを見た後に座った。
「そうか、ありがとう!」
「いえ、こちらこそ―」
ティトさんは僕らを気遣ってくれたのでしょう、と言いかけてプロップは言葉を飲み込んだ。何故かティトにはそんな言葉は無用だと思えた。
「では、早速だけど計画を説明するよ。眠いだろうけど、もう少し我慢してくれ」ティトは一同を見渡した。特に誰も不満そうな顔はしていなかった。「三人とも明日の早朝にここを発つ。そしてこれから言う"ある場所"へ向かい、そこを通って安全に国境の関所を目ざす」
プロップとテンダの目が合った。ちょうど同じことを考えていたからだ。
「ティト、あたしもこの子たちも関所は通れないわ。きっと兵が待ち伏せしてるでしょ?」
スピナは、テンダが"この子たち"と言ったのが何となく気に食わなかったが、話の続きが気になったので口を挟まなかった。
「いいえ、それはあり得ません」
ティトはきっぱりとそう言った。
「どういうことですか?」
プロップはそう言いながらもう一度テンダの顔を見た。もしかしたらまた目が合うかもしれないと淡い期待を抱いたのだが、残念ながらそうはならなかった。
「スピナ君が得た情報も、テンダ様を捕らえたいという意向それ自体も、マクスカ側にとっては重要過ぎる機密だからだ……ああ、ちなみに、今回も私やテンダ様のことについては余計な詮索はしないで欲しい。詳しく話せない非礼をお詫びする」
プロップはいいえそんなと答えた。確かに気になることだらけではあるが、たとえ正体不明であってもこのティトは信用できる人物には違いない。プロップにとってはそれだけで十分だった。
スピナはそれについてそれほど興味はなく、深く考えたりはしなかった。
「しかし、重要だからこそ国境の警備を固めるのではないですか?」
「いや、もちろん全力で君たちを捕らえるつもりだろうけど、あくまでも内密に事を済ませようとするはずなんだ……」
"事を済ませる"という言葉を聞いたプロップの頭の中に、ふと、ある恐ろしい考えが浮かんだ。
―内密に事を……つまり僕らを捕まえるっていうより、殺すつ―
プロップは慌ててその考えを心の奥底に押し込んだ。
―いや、今はとにかく、一旦ティトさんの話を聞くべきだ……。
「一部の首脳陣以外に知られてはまずいから憲兵は使えない。そして国境付近で捕りもの騒ぎを起こして、他国に知られるのもまずい、と考えているはずなんだ」
ティトの話は続く。
「つ、つまり国境にたどり着いた時点で僕らは安全なんですね?」
まだ安心できないぞ、とプロップは思った。次の問題は"どうやって行くか"だ。
「ああ、間違いない。君たち二人の捜索がまったくと言っていいほど行われていないという情報もつかんでいるんだ」
「じゃあ、国道を通って堂々とイメッカまで行けばいいんじゃないの?」
テンダはなるべくならそうしたいという祈りを込めてそう言った。
今日出会ったばかりの歳の近い少年たち(特にその内の一人)と長旅をするのはかなりの抵抗があった。
国道を真っ直ぐに進めば、イメッカ側の国境にたどり着くのにせいぜい二、三日で済むはずだった。
「それは無理です。先ほども言った通り、むこうは全力で捕らえにくる。表の兵が使えなくても"裏"は使える……テンダ様は今日フロルという女性に会ったのでしょう?」
「おい、今何つった?」カウンターの奥で、ティトたちに背を向けて洗い物をしていたジドが、突然手を止めてカウンターに近づいてきた。「おい、ティト。まさかとは思うが、"漆黒のフロル"のことか?やつが動くと読んでいるのか?」
ティト以外の三人は、ジドの真に迫った口調にただならぬものを感じ、にわかに緊張した。
「ああ、間違いないだろう。今日、テンダ様は実際にフロルに追われたそうだ……運よく無事だったがな」
「何てこった……」
「おっちゃん、そいつのこと知ってんのか?」
スピナが興味深そうに訊ねた。
「この国で裏稼業やっててよ、あの女を知らないやつがいたとしたら、そいつはモグリさ……」
「そんなにやばいやつなのか?」
「そうだな……お前たち、このマクスカで最強の戦士は誰だと思う?」
スピナとプロップは顔を見合せて、言うまでもないよなと無言の確認をした。
「騎士団長のエスティバ……ですよね?パッシ王の再来とも言われている……」
プロップは恐る恐るそう答えた。ジドの次の言葉が何となく予想できたが、そうであって欲しくなかった。
「そうだ、表向きはそういうことになっている。と言うより実際エスティバが最強だろう。だが、それも"漆黒のフロル"を除けばの話なんだ」
ジドの言葉にスピナとプロップは驚き、目を見開いた。
テンダはフロルと対峙した時のことを思い出し、背筋を凍らせた。
―そんなやばいやつだって知らなくてよかった……知ってたら、びびりまくって"あの魔法"は成功しなかったわね……きっと。
「そんな凄えやつなら、どっかで名前くらい聞いたことがあると思うんだけどなあ」
スピナの声は少し高揚していた。自分たちの追手であることを忘れて、ただ"最強"に反応したんだな、とプロップは呆れ顔でそう思った。
「いいや、ほとんどの民間人はその名前を知らないはずさ。やつは決して表には顔を出さない。一応騎士団員ってことになってるらしいがな……エスティバの女だって噂もある。エスティバの出世のために汚れ仕事をしてる、とかなんとかな」
「ちょっと待ってよ、エスティバってムミ……姫の婚約者よね?」
テンダは非難めいた口調で、誰にともなくそう言った。
「ああ、そうだ。かなりの歳の差はあるが、姫のほうが首ったけらしいぜ。さすがに婚約前に身辺整理はしたんじゃねえか?まあ、フロルとエスティバの話はあくまで噂だけどな」
「話が少し脱線したが」頃合いと見て、ティトはわざと咳払いした。「とにかく、そのフロルか……あるいは他に刺客がいるのかもしれないが、それらの追跡から逃れて安全に国境を越える方法があるんだ。だから何も心配しないで欲しい。この村には"玄烏賊の洞窟"の入り口があるんだよ。そこを通れば安全に、しかも国道を通るのと同じくらいの速さで国境へたどり着けるんだ」
「"げか"の洞窟?」
スピナは首をかしげた。"げか"の意味を考えたが、さっぱり思い浮かばなかった。
「そう。そこはこの村から南へ、国境のすぐそばまで伸びている横穴の洞窟なんだ。ちなみに玄烏賊ってのはその洞窟に棲んでいたとされている怪物の名前だよ」
「どこが安全なのよ?フロルよりはその怪物のほうが少しはましっていう意味?」
テンダは眉間に皺を寄せて肩をすくめた。ティトとジドは顔を見合せて笑った。テンダは、なんだか自分が馬鹿にされたような気がして少しむっとした。
「まあ、あるいはそうかもしれませんが、私は"棲んでいた"と言いましたよ?玄烏賊とはいわばおとぎ話の中の存在なのです……もう少し詳しく説明しましょう」ティトは人さし指を立てた。「その洞窟は英雄王トゥールが活躍していた時代から、既にあったと言われています。洞窟のちょうど中間地点あたりに地底湖があって……大陸のちょっとした切れ目を縦断しているので、厳密には浸食した海水が一時的に溜まる場所、ということですが、そこに"玄烏賊"と呼ばれる巨大なイカの怪物が棲んでいたという伝説があるのです」
「イカ?巨大って?どんくらい?」
スピナの目が輝いた。さすがのプロップもこれには興味がわいた。
「さあ、どのくらいだろう。なにしろ伝説だからね。双子の神同様、実在してたかどうか怪しいもんさ。伝説だと牛や馬を丸呑みにしたというくらいだからかなりの大きさだろうね」
ティトは笑顔でスピナに答えた。その笑顔はスピナに気を遣ったというものではなく、純粋に会話を楽しんでいるもののようにテンダには感じられた。
「イカがそんなにでかくなるかなあ……」
「海の底にゃあまだまだ未知の生き物がいるってえ話だぜ!」
惚けたようなスピナの呟きに答えるジドの目もまた、少年のように輝いていることをテンダは見逃さなかった。
―始まったわ……"最強"やら"伝説"やら……男ってみんなそう。本当にガキなんだから……。
「一回見てみたいなあ」
「僕も……見るだけならね」
スピナとプロップは、頭の中にそれぞれのイカの怪物を思い浮かべて神秘的な気分に浸った。
「若き日のトゥールとパッシが、二人がかりで何とか倒したってことになってるんだが、まあとにかく眉唾だよね。しかも本来イカというのは―」
「それで?そこは安全なの?怪物はともかく、追手もその洞窟を逃走ルートとして想定するんじゃないのかしら?」
いつまでも"男のロマン話"を続けられてはかなわないと、テンダは話を強引に遮った。ティトは少し名残惜しそうな顔をした。
「いいえ、それはむしろ逆でしょう。完全に裏をかけると思います。何故なら玄烏賊の洞窟は、もう何十年も閉ざされたままだからです」
ティトは人さし指で眼鏡のずれを直した。本当にずれているわけではなく、これはきっとこの人の癖なんだなとプロップは思った。
「かつては観光名所として開放されていたらしいのですが、子供が地底湖で溺れたり、犯罪者や変質者が出たりと何かと問題が多かったので封鎖されたそうです」
「それなら、僕たちはどうやってそこに?」
ティトはプロップを指さした。いい質問だね、もしくは、話は最後まで聞いてね、のどちらかだろうとプロップは思った。
「封鎖されて以来、洞窟の管理はコヒの村の責任者に一任された。それぞれの入口は鋼鉄の扉で封鎖されていて鍵がかかっているんだが、その鍵の管理をしているのがここにいるジドなんだ」
ティトはそう言ってジドを指さした。
プロップとテンダは、それにしてもジドは何者なんだろうかと思ったが、二人ともほとんど同じような理由で、あえてそれは訊かないことにした。
先ほど"裏稼業"という言葉が出てきたということもあり、何やら訊くのがためらわれるように思えたからだ。
スピナはというと、ティトの話はろくに聞かず、相変わらず"巨大イカ"についての妄想に夢中になっていた。
「鍵はマスターと合鍵がそれぞれある。明日君たちは合鍵を持って洞窟に入る。その後我々は再び入口に鍵をかける。鍵は内側からでも開けられるから、国境側についたら合鍵で洞窟を出る。どうかな?これなら、よしんば追手が玄烏賊の洞窟に感づいたとしても、追跡はほぼ不可能だ。無論国境側で待ち伏せることもね」
ここにきてようやくプロップの心に花が咲いた。
―確かにこれなら何の問題もない。"漆黒のフロル"とやらがいかな化物だったとしても一切手出しは出来ない。
「ちなみに、念のため昨日までに洞窟内は調査済みだよ。ジドの部下たちによってね。特に危険なものはなかったらしいよ。もちろん玄烏賊なんていなかったそうだ。問題があるとすれば、鍵の紛失くらいなもんだ」
"鍵の紛失"と聞いてプロップはにわかに緊張した。
―スピナには絶対無理。悪いけどテンダさんもそういうの任せられそうにないよね……僕がちゃんとしなきゃ。
「では他に質問がなければ話は以上だよ。長くなってしまったね。すっかり疲れてしまったかな」
プロップは恐る恐る、あの、と小声で言った。
「関所に着いたら僕らはどうすればいいのでしょうか?つまり、その、報酬の受取とか、まあ、それはともかく、イメッカのどこへ行けばいいのか、とか……」
「ああ、そうか、それを言い忘れてたよ。すまないね」ティトは苦笑した。「関所には私の身内を待機させてある。その者と一緒にテンダ様の家まで同行し、そこで今日の潜入の分と合わせて報酬をまとめて受け取って欲しい。それで君たちの任務は終了だ……今日の分の報酬は今すぐに渡してもいいんだが、洞窟内では荷物になっちゃうだろうからね」
「なるほど、わかりました」
プロップはすっきりしたが、テンダはより一層気が重くなった。
―あたしん家までついてくるわけ?……ああ、やだ……。
「他には何かないかな?」ティトの問いかけに、今度は誰も口を開かなかった。「よし、それじゃあ明日に備えて今日はもう休むとしよう」
ティトはばちんと両手を合わせてそう言うと、スピナとプロップを一階の部屋へ、テンダを二階へとそれぞれ案内した。
「ねえ、ティト」
二階へ向かって階段を上がっている途中、階下に誰もいないことを確認しながらテンダが口を開いた。
「何ですか?」
「あなたはどうするの?」
ティトはテンダから目を逸らしてふっと笑った。
「ムミ様のことをもう少し調べてから国を出ます。一週間かそこらでイメッカへ戻れるでしょう」
「そう……気をつけてね」
「私に心配はいりませんよ」
ティトはテンダから目を逸らしたままだった。
―何か隠してる……のね?
テンダはティトの横顔を見つめた。
何かを隠していて、それが何なのか絶対に言ってくれない時の顔。
そして、テンダにそれを見抜かれているはずがないと思い込んでいる顔だった。
◆7◆
マクスカ王女婚約記念パーティー当日の夜は更け、やがて日付が変わり深夜が訪れた。
パーティーはとうに閉会となっており、王宮内の客室に宿泊することになった一部の来賓以外は、それぞれの自宅、あるいは宿泊先へと帰って行った。
静寂に包まれた王宮内。黒衣の女も既に眠りに落ちていた。
しかし、未だ眠らぬ者たちもいる。
ようやく自室へと戻ってきた大臣のイスラは、深いため息とともに広いソファーに座り込んだ。
体から根が生え、ソファーと一体化してしまったように感じた。服を脱ぐのも面倒なくらいに疲れきっていた。
しばらくぼんやりと天井を眺めた後、とりあえず何か飲もうと、重い体を持ち上げて振り返った時、ようやく"それ"が彼の視界に入った。
驚きのあまり、心臓が口から飛び出すのではないかと思った。
そうはならなかったが、代わりに自分で自分が情けなくなるような、みっともない悲鳴が口から飛び出してしまった。
「な……そなたら、い、いつからそこに、そこにいたのだ!」
そこには二つの"影"が立っていた。
ひとつは、深紅の仮面の男。骨の手の男。
その少し後ろにもうひとつの影、"藍色の仮面の男"が立っていた。
仮面とマントの色、顎髭の有無や、髪型の微妙な違いを除けば、二人はほぼ同一人物のように見える。
「……こんな時間に何か用か?驚かせおって!」
イスラは努めて平静を装ったが、声は震え、内心は焦りと不安にすっかり支配されてしまっていた。
彼にとっての"深夜に自室を訪れて欲しくないやつ"世界一位と二位が、よりによって同時にやってきたのだ。
「結局、あのテンダという娘を逃がしたそうだな?」
深紅の仮面の男が静かに口を開いた。
「ああ、そうだ。だからと言って、そなたらは私を非難できる立場か?ムミ様にかけた術が失敗だったのも原因の一つだぞ!」
イスラは両手を激しく動かして抗議した。
「失敗ではない……一応術はかけ直したがな……"漆黒のフロル"とやらは何故失敗した?」
深紅の仮面の男の声は静かなままだった。
「さあな。特に何も言わなかったが、何か隠しているとしか思えん。テンダが"力"を使ったのかもな。既にフロルにはテンダの追跡と小僧二人の始末を命じてある」
「そうか……」
深紅の仮面の男はそれきり黙り込んだ。しばらくして後ろにいる藍色の仮面の男が堪りかねたようにため息をついた。
「なあ、リャーマ。俺の見る限りあのフロルってのはかなり優秀だぜ。人間にしてはかなり、だ」藍色の仮面の男の声は、深紅の仮面の男のそれとは対照的に、若々しく、よく通るものだった。「任せていいんじゃないの?あんただってたまには間違いをやらかすこともあるのさ」
深紅の仮面の男、リャーマは振り返って藍色の仮面の男を睨みつけた。
「ガタカよ、私が許可するまでは黙っていろ!お前のよく回る舌はいつも私を苛立たせる」
藍色の仮面の男、ガタカは、はいはいと面倒くさそうに答えた。
「あの小僧……あの小僧については何かわかっているのか?」
リャーマはイスラに向き直った。
「いいや、詳しいことはさっぱりだ。赤い短剣を持っていた、ということくらいしか……それがいきなり巨大化したように見えた、など馬鹿げた報告もあったが―」
「何だと?」リャーマは話を遮り、イスラに一歩詰め寄った。「今何と言った?もう一度言ってみろ!」
リャーマの剣幕にイスラは驚き、後退りしようとしてテーブルの角に足をぶつけた。
「な、何だと言うのだ?……小僧たちを追っていた衛兵の証言だ。恐らく見間違えだろうとも言っておったらしいぞ」
「私は同じことをもう一度言えと言ったのだ」
リャーマがさらに一歩詰め寄った。イスラは両手の平を向けて制止を示した。
「あ、あか、赤い短剣が光って大剣に変化したとか……いうことらしい」
「剣……短剣……か」
リャーマはマントの下から"骨の手"を出し、ゆっくりと自分の顎髭を撫でた。
「おい、リャーマ。あんたが今何を考えているか大体わかるぞ。だがそんなことはあり得ない」ガタカはふんっと鼻で笑った。「それがもうひとつの"ラクラフィスの鍵"じゃないかって言いたいんだろ?……リャーマ、あんた疲れてんのさ。"それ"がもう存在しないから、俺たちはこんなに苦労してんじゃねえのか?」
リャーマはゆっくりとガタカへ向き直った。
「許可するまで黙っていろと言わなかったか?どいつもこいつも私に二度同じことを言わせるのが好きらしいな」苦々しいリャーマの舌打ちが部屋に響いた。「いいだろう、ではお前はこれをただの偶然で片付けるつもりか?人間並みにお喋りなガタカよ。この私が、たかが人間の小僧の気配にしばらく気がつかなかった。その時小娘にかけた術は完全に入りきらなかった。そしてその小僧の短剣は巨大化したという……これをどう説明する?」
ガタカはマントの下から腕を出して頭を掻いた。その腕もやはり"骨"だった。
「そりゃあそうだがよ、そんな都合良くいくかねえ……それに剣は剣でも赤い剣じゃあなかったと思うんだがなあ……」
「色などどうでもよい……何にせよ確かめる価値はある……そうだろう?」
「まあね。ってことは珍しくあんたが直々に動くってわけか」
「まるで他人事のようだな」リャーマは呆れたようにため息をついた。「お前も来るのだ。ガタカよ。正体のわからない小僧に、"あの魔法"が使える小娘……我らとて油断はできぬ。小娘は生かして捕えねばならんしな。それに」リャーマは振り返ってイスラを見た。「フロルという女は確実に始末する必要がある。小僧と小娘の力を計るのにうってつけではあるが、それで用済みだ」
イスラの頬が微かに痙攣した。リャーマが自分を振り返ったのは了承を得るためではなく、意見を求めるためでもない。単なる決定事項の報告なのだ。
「何故だ?テンダの"力"を見たかもしれないからか?あの女はまだ使える。今すぐ始末しなくてもよいのでは?」
「不安の芽は今のうちに摘んでおく。エスティバが王女と婚約した以上、いずれは始末することになるのだ」
イスラは反論できなかった。仮面の男が言ったことには一理も二理ある。そしてこの男が決めた以上、たとえ国王であっても覆すことはできないからだ。
「我ら二人で確実に事を運ぶのだ。理解できたか?」
リャーマは再度ガタカに向き直った。ガタカは少し納得いかないというように、ううんと唸った。
「もったいねえな……あのフロルはまだ強くなれるのによ……」
「お前の道楽に付き合う気はない。ガタカよ、我々の最終的な目的を忘れるなよ?」
ガタカはへいへい、と面倒くさそうに吐き捨てた。
「わかったよ……じゃあ、せめてあのフロルは俺とサシでやらせてくれないか?な?いいだろ?」
"骨"の腕を激しく動かしながらそう訴えかけるガタカを見て、イスラはまるで駄々をこねる幼児のようだなと思った。
「状況次第だ」
ガタカの哀願など一切顧みず、リャーマは間髪入れずに冷たく言い放った。
「何だよ、つまんねえ……」
ガタカはふてくされてそっぽを向いた。リャーマは特にそれを気にする素振りは見せなかった。
イスラはふと、いつの間にか自分の胸の中に、恐怖にも似た強大な不快感の塊がべったりとこびりついてることに気がついた。
―もうひとつの"鍵"とは何だ……?
心の中に何故かその考えが突然浮かんだ。そしてその理由はすぐにわかった。
不快感の塊はいつの間にか生まれたのではない。その言葉を聞いた時から生まれたのだ。
腕を組み、うつむいて自分のつま先を見つめながら必死に記憶を辿ったが、イスラはその言葉を思い出すことができなかった。
―鍵……何の鍵と言っていた?
「そなたらにひとつ訊きたいのだが―」
イスラは言葉を飲み込んだ。
顔を上げると、既に仮面の男たちの姿は消え失せていたのだ。
まるで自分の幻覚だったと言わんばかりに、音も気配もなく。
念を押すように部屋中を見渡し、完全に男たちの気配が消えたことを確認すると、イスラは大きく息を吐いた。
自分が大量の汗をかいていることに今さら気がついた。
―鍵……もうひとつの、もうひとつの……何の鍵と言っていた?
その疑問が一向に頭から離れようとしなかった。
―"何か"が動き出したのだ……。
イスラは何故かそう確信できた。あの"何かの鍵"という言葉が、何も知らない自分にさえそう思わせるほどの強い力を持っているように思えた。
―既に動いているものとは違う、別の"何か"が動き出したのだ……。
「我々はどこへ行くのだろうか……」
そう呟くと、イスラは倒れ込むようにソファーに座った。
◆◆◆