〈Ⅰ‐Ⅱ〉“何か”が動き出した(前編)
◆1◆
"マクスカ王国"
世界地図の北西に位置するこの国は、芸術、肉体競技などいずれにおいても溢れる感情が表現されることから別名"情熱の国"とも呼ばれている。
一説では、初代国王であり、かつて英雄王トゥールの六人衆の一人でもあった"パッシ王"の意志が現代まで脈々と受け継がれているためとも言われている。
若き日は"熱風のパッシ"の異名で怖れられ、国中を荒らし回っていたならず者だった彼は、ある時同じように若き日のトゥールと出会い、人生で初めての敗北と真の友情を知った。
それ以来トゥールと旅を共にし、その情熱と比類なき腕力で数多の危機から仲間を救った。
デト神との最後の戦いが終わり、国王となった後もその情熱は衰えることはなく、決して燃え尽きぬ太陽として民を導いたと言われている。
そんな伝説の残るマクスカ王国の首都"マクスカシティ"。
今日は王女の婚約を記念したパーティーが開かれている。
国中をあげての祭りは結婚式当日に行う、今日は王宮内で関係者のみのパーティーを行う、というのが事前に全国へ伝えられた趣旨だった。
しかし、そんな華やかな場所であっても"影"は存在する。
そしてその"影"は意思を持ち、人知れず静かに動いている。
パーティー会場から離れた、限られた者しか立ち入ることのできないフロアにある一室。
主に軍事関係の会議が行われる円卓のある部屋で、ただ一人、沈む夕日を窓から眺めている黒衣の女がいた。
「待たせたな、フロル」
部屋の扉が開き、一人の男が入ってきた。
誰が見ても高貴な身分と一目でわかる高級なローブ。整えられた口髭。そして彼の顔の皺はその人生の"濃度"を物語っている。
男の声が聞こえていないはずはなかったが、黒衣の女、フロルは窓から目を離さずに立ちつくしたまま微動だにしなかった。
男は苦笑した。姫と妃を除けば、あるいはこの女だけがこの国で唯一自分の思い通りにできない女だろうな、と苦々しく思った。
フロルが男の挨拶を無視したのは、単純に男に嫌悪感を抱いているからというだけではなく、数時間前の体験について熟考していたためでもあった。
テンダが使ったあの魔法。瞬間移動という言葉以外説明がつかないが、そんな魔法は存在しない。そして自分の体が感じている"もっと違う別の何か"は一体何なのか?
「フロルよ、聞こえていないのか?」
男は呆れたような、挑発的な声で再度呼びかけた。
「これは失礼……少し考え事をしておりましたので」フロルは男に向き直り、空虚な声でそう答えた。「さて、イスラ様。ご用とは?」
フロルにイスラと呼ばれたその男は、大きなため息をつきながら円卓の議長席にゆっくりと腰かけた。
「お前も座ったらどうだ?」
フロルは何も答えず、素早く目だけ動かして部屋の入り口を見た。誰の姿もなく、部屋の外にも人の気配はなかった。
大臣が直々に側近も連れずに自分と会う。その意味は一つしかない。
"もううんざりだと言ってやったらどうだ?"
突然胸の奥から聞こえてきた声にフロルは驚愕したが、努めてそれを表情には出さず、すぐさまその声を追い払った。
「お構いなく……ご用件を仰って下さい」
イスラは懐から葉巻と鋏を取り出し、テーブルに置いてあった水晶の灰皿とマッチ箱を自分の近くに引き寄せた。それから鋏で丁寧に葉巻の吸い口を切り取って口にくわえると、マッチで火をつけた。
「今日のパーティーをどう思うかね?」
返事はなかった。イスラの吐き出した煙が天井へ昇って行く。やがてそれが天井近くで完全に消える頃になっても、まだフロルは黙ったままだった。
嘲るような目でフロルの顔を見ながら、イスラは声を立てて笑った。
「お前が私をどう思っているのかは知っているが、たまには嘘でもいいからその鉄仮面を外してみてはどうかね?」
「私が忠誠を誓ったのはあの御方だけです。あなたではない……必要なことだけを仰って下さい」
イスラはふんっ、と鼻で笑った。
―お前の言う"あの御方"は陛下に忠誠を誓っているのだ……結局お前がやることは何も変わりはしない。
「パーティー会場を見たかね?王族、貴族、財閥……肥え太った豚どもの馴れ合いを見たかと聞いているのだ。まあ、連中の相手をしているよりは、お前の鉄仮面と睨めっこしている方がいくらかましかもしれんな」
くっくっという含み笑いを聞きながら、フロルは無表情を貫き通した。
長年の付き合いから、イスラの言動からくる怒りや嫌悪感を素早く宥めることができるようになっていた。
何故なら彼の言動はすべて"嘘の色"に染まっているからだ。怒りや嫌悪を投げつけてやったところで何も効果はなく、むしろそれを逆手に取られてしまうことになるからだ。
「"仕事"のお話でしょうか?」
フロルは自分から本題を切り出した。それ以外の要件などあり得ない。それならなおのこと時間が惜しい。
「ああ、その通りだ。お前に"仕事"を頼みたい。だかその前に訊きたいことがある」イスラの口調と表情が一変し、冷徹な爬虫類のようになった。「テンダ様を取り逃がしたそうだな?一体何故だ?」
イスラが"テンダ様"と言うのを聞いて、フロルは先刻のテンダの言葉を思い出した。
白々しく"様"なんて呼ばないで―
―なるほど、確かに白々しく聞こえるか……この男の口から出ればなおさらだな。
「何故、というのはどういう意味でしょう?」
「お前ほどの者から逃げ切れるとは到底思えないのだがな」
間髪入れずにイスラは答えた。嘘は許さない、白状しろという重圧が含まれている。
「テンダ様の方が私よりも足が速かった……ただそれだけのことです」フロルも同じように間髪入れずに答えを返した。「それがどうかしましたか?とっくに報告も済ませてありますが?」
「“足が速かった”だと?」
イスラは目を細めた。
―まずそんなことはあり得ない……こいつより速く動ける人間など、ラジアス中を捜し回ったとして一体何人いることやら……しかし、この"漆黒のフロル"が誰かに情けをかけるということはそれよりもあり得ない……とはいえ、こいつがテンダをわざと逃がす利点は何もない。となればやはりテンダが"あの力"を使って逃げたと考えなければ辻褄が合わない。もしそうだとしたら、"あの力"を見たこの女もやはり……。
「まあ、よいわ」イスラは葉巻を吸って煙を吐いた。「お前に頼みたい仕事とは、そのテンダ様のことなのだ」
やはりそうか、とフロルは思った。ようやくここ最近の疑問を全て繋げることができる。
何故今さらテンダが王宮に招かれたのか?何故その案内役として"裏"の人間である自分が抜擢されたのか?何故テンダは突然逃げ出したのか?
答えは一つだ。
つまり今日のパーティーは、テンダをおびき寄せて捕えるため"だけ"に開かれたものなのだ。
しかし一体何のために?ここでもう一つのピースを加えることができる。それはあの"もっと違う別の何か"の魔法だ。
すべてはあの魔法と無関係とは到底思えない。
「間違いなくテンダ様はイメッカへ戻られるおつもりだろう……お前はそれを密かに阻止するのだ」
「私でなくてもよいのでは?指名手配し、国境に兵を待機させておけば済む話でしょう?」
フロルは眉をひそめた。
―まさか……テンダ様を"消せ"というのか?
「それができないからお前に頼んでおるのだ」イスラは葉巻を持っていない方の手で、自らの脂ぎった額を軽く撫でた。「よいか?つまり決して他国に感づかれぬよう、テンダ様を生きたまま王宮へ連れ戻せという意味だ……なるべくなら我が国の人間にも知られぬよう密かに、素早く、だ」
「生きたまま……ですか……」
「方法は任せる。抵抗するようならやり過ぎない程度におとなしくさせてもよいだろう。邪魔が入るようなら好きなだけ"消して"構わん……それからもう一つ」イスラは葉巻の先でフロルの顔をさした。「今日、王宮に侵入した小僧二人を捜し出して確実に始末しろ。どうやらそいつらはテンダ様と関係しているようだ。あるいはテンダ様の近くにいるのかもしれん」
侵入者の件はフロルの耳にも入っていた。
―テンダ様と繋がっている以上、そいつらもイメッカへ入国させるわけにはいかない、ということなのか?
「テンダ様はともかく、侵入者だけは指名手配させてはどうですか?一緒に行動しているとは限らないのでしょう?」
イスラはちっと舌打ちした。
「お前はいつからそんなにあれこれと質問するようになったのだ?ん?フロルよ」
おや、とフロルは思った。珍しくイスラから"本音の色"を感じる。その侵入者のことがテンダ以上に頭を悩ませているようだ。
「当然の質問ではありませんか?私の体はひとつしかありません。テンダ様と侵入者が分かれて行動していた場合、どちらかを取り逃がす可能性があるのでは?」
イスラは葉巻を灰皿に強くねじり込んで消した。
「侵入者による王宮への被害は皆無だ、特に優先して捜索する必要はない……と指令を出してある」
フロルの頭の中に新たな疑問が加わった。
それはつまり、実際には何かしらの被害が"あった"のだ。たとえ王宮内の者であっても知られてはいけないほどの被害が。
それは何か?テンダを捕えること、あるいはあの魔法と何か関係があるのか?
―いずれにせよ、やはりテンダ様の"魔法"を私が見たということは隠しておいた方が得策かもしれんな……。
"何が得策なんだ?"
唐突に内なる声が嘲笑とともに質問を投げかけてきた。
今度は驚きを完全に隠すことができず、フロルは束の間目を瞑ってしまった。
―何だお前は?
フロルは内なる声の主に聞き返した。
"何だとは何だ?私はお前だ。知らぬはずはあるまい?"
―何が言いたい?
"今お前が言ったことについて話があるんだ。何が得策なんだ?何故テンダ様の魔法のことを報告しない?何を考えているんだ?"
―何を考えているのか、だと?……それは……―
「フロル!どうした?聞いているのか?」
イスラの声に、フロルははっと目を開けた。内なる声はどこかへ消え失せていた。
「よもやお前が居眠りということではあるまい……不満があるのか?」
言葉とは裏腹に、不満は一切取り合わないという口調だった。
「いいえ。特に不満はありません。テンダ様を生きて王宮へ連れ戻す。侵入者を始末する。誰にも気づかれぬように……それでよろしいですか?」
フロルは淡々と、事務的にそう言った。内なる声のことが気にはなっていたが、それは心の奥底にしまい込んだ。イスラは少し訝しげな表情で軽く二、三度頷いた。
「……よい。他に質問はあるか?」
「いいえ」
「では話は以上だ」
イスラはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「頼んだぞ」
「然るべく」
フロルはそう言うと、部屋を出るイスラを見送りもせずに再び窓の外へ視線を移した。
イスラは扉の前で一度だけフロルの方を振り返り、それから無言で部屋を出た。
◆2◆
「遅い……遅すぎる……」
「いい加減に落ち着いたらどうだ?さっきからよ、立ったり座ったり歩き回ったりって鬱陶しいんだよ!」
椅子から立ち上がろうとしたティトを、カウンター越しにジドが制した。
煙草と酒で焼き尽くされた喉から生み出されるジドの声は、初めてそれを聞く者を萎縮させてしまうのに十分な威圧感がある。
しかし二十数年来の付き合いから、ティトは無骨なこの男の胸の奥に隠されている優しさを知っていた。
「ああ、悪いなジド……煙草を一本くれないか?」
丸い銀縁眼鏡の奥から覗く、寝不足でたるんだティトの目を睨みつけながら、ジドはくしゃくしゃになった煙草のケースを胸のポケットから取り出してカウンターテーブルへ無造作に放った。
「こいつでおとなしく寿命でも縮めてろ」
ティトの目の前にある灰皿の上には、すでに吸殻の山が出来上がっている。
マクスカ王国の首都マクスカシティの南西に位置する"コヒの村"は、首都とそれ程離れていないものの、都会とは対照的に自然に囲まれた静かな村だ。
そんなコヒの村にある"ジドの店"という酒場に今ティトはいる。貸し切りにしたため店内にはティトとジドの二人きりだ。
"ジドの店"というのは元々は通称で、正式な屋号はあったのだが、いつの間にか常連客であっても誰もそれを思い出せないという状況になってしまったため(長い名前だったのも原因らしい)ついには"ジドの店"を正式な屋号にして看板も作り変えてしまった。
それだけジドは村人たちに慕われているということでもあり、そしてその"裏"の顔がその世界の人間に広く知られているということを表している話だ、とティトは思っている。
ちょうどティトが新しい煙草にマッチで火をつけようとした時、店内の壁時計の鐘が鳴り響いた。
―二十時……。
涼しくて優しい夜風が、カーテンをすり抜けて小窓から入ってきた。しかしティトの額には脂汗が浮き出ていた。
―誰も戻らない……たったの一人もだ……。
やはりどれほどのリスクを負ってでも自分がマクスカシティへ行くべきだった、と唇を噛んだ。
密入国者がうろうろするわけにもいかず、こうしてジドの店に隠れながら村周辺を捜索している店の若い衆たちの報告を待っているのだが、もうこれ以上は耐えられそうになかった。
今すぐにテンダたちを捜しに村を飛び出したいという衝動を抑えられそうにない。
"ティト、あたしやっぱりどうしてもマクスカに行きたい……いつかは決着をつけなきゃいけないし、それに、何よりムミに会いたいの……どうしても会いたいの!"
マクスカ行きに反対する自分に向かって、必死に訴えかけてきたテンダの顔が頭から離れない。いつの間にか無意識に煙草のフィルターを強く噛みしめていた。
マクスカシティの様子を探らせていた者から数時間前に伝えられた情報によると、スピナの侵入がばれてしまった、プロップも正体がばれてしまい追われることになった、そのため兵たちはざわついていたものの、パーティーは問題なく続いているという。
少年たちのことはもちろん心配だが、ボートがある。それにしては遅すぎるが国道を避けているため多少道に迷っているだけなのかもしれない。ボートにはそういう時のための荷物も用意されていた。
そしてパーティーが問題なく続いているというのなら、案外テンダはまったくの無事なのかもしれない。自分の心配は取り越し苦労に終わり、すべてが理想的に進んでいるかもしれない。
―テンダ様とムミ様は、今頃二人で夜空を見上げながらこれからのことについて語りあっている……王宮の最上階のバルコニーで……時折冗談を交えて笑い合いながら……時間を忘れて……。
ティトはその様子を頭の中で想い描き、思わず涙が込み上げてきそうになった。しかし、冷静な自分がそれを強く押し戻した。
―そんなはずはない!これは罠なんだ!私はあの伏魔殿をよく知っていたはずだ!情や義理を餌にして何もかも食らい尽くし、それでもなお満たされぬ怪物だらけのあの王宮を……パッシ王の意志など遥か昔に途絶えてしまったのだ!テンダ様は傷つき、打ちのめされるだろう。いや、それだけならまだしも、もし捕らえられてしまったとしたら?……ああ、私はその可能性があると知っていた。知っていたのに……。
くそっ、と吐き捨てると、ティトは根本まで吸われてすっかり短くなった煙草を灰皿に押し込んで消した。
「ジド、一杯飲ませてくれないか?」
カウンターの向こうで洗い終えたグラスを拭いていたジドは、手を止めてティトを睨みつけた。
「いい加減にしろ。今のお前に出せる酒はウチには置いちゃいねえよ」
「一杯くれと客が言ってるんだぞ?さっさと出せ!」
ティトが拳をテーブルに叩きつけると、ジドは拭いていたグラスを地面に叩きつけた。
「お前が酔って使い物にならなくなったら、本当にいざという時にどうすんだ?あ?鶏みてぇにバタバタしやがって!みっともねぇんだよ!」ジドはカウンター越しに腕を伸ばしてティトの胸ぐらをつかみ、強引に椅子から立ち上がらせた。「苛つく気持ちはわかるが、今はおとなしく座ってろ……」
そう言ってジドが手を放すと、ティトは服の乱れを直しながら無言で椅子に座り直した。
そして不機嫌そうな顔で新しい煙草をくわえて火をつけた。
◆3◆
「ところでさ、報酬は大丈夫なのかな?」
プロップはスピナにそう訊ねた。
辺りはすっかり夜に包まれている。国道を移動するわけにはいかず、二人は星明かりを頼りに人気のない平原をひたすら進み、コヒの村まであとわずかというところまでたどり着いていた。
「大丈夫って、何がだ?」
「だって僕ら結局見つかっちゃったわけだし……報酬貰えないんじゃないかなあ……」
プロップはティトからの依頼内容を思い出していた。
五日前、マクスカシティの北西にある"バスコの街"で声をかけられたのだった。
五日後に王宮へ潜入して、王女の婚約記念パーティーの様子を探って欲しい。何か妙なことが起こったらすぐに報告するように。
特にテンダという名の、君たちと同い年くらいの女の子をよく見ていて欲しい。彼女には目印として、今時そんなものどこで買えるんだというような、不自然なくらい大きくて赤いリボンをつけさせておく。
最終的な待ち合わせ場所はコヒの村のジドの店で。
そして報酬は―
提示されたのは、スピナとプロップが思わず目を丸くして口をあんぐりと開けてしまうほどの高額な報酬だった。
二人の目的地まで十分に旅を続けられる額だ。本当にその額かと念押しすると、結果次第ではもっと出してもいい、それに口止め料もふくまれているから、と言われた。
しかし王宮への侵入などという困難な仕事を、何故自分たちのような旅人に依頼するのか?そのスジの人間はいくらでもいるのでは?と訊ねると、それが出来ない理由がある、それに君たちの眼が気に入った、それから君のその赤い短剣が何となく縁起のいいものに思えたんだ、とティトは優しく笑いながらスピナの腰に下がっている短剣を指さした。
プロップはリスクの高さを危惧し、ティトが信頼できる人物であるか計りかねたため、時間をかけて考えたかったのだが、スピナが"やります!"と即答してしまったために、何となく引っ込みがつかなくなってしまった。
そこから二人は二手に分かれた。スピナはティトと共にコヒの村へ行き、ジドを交えての細かい打ち合わせを、プロップは最低限の荷物のみを持って先にマクスカシティへ入り、連絡係としての準備をした。
当日の計画(プランA)はこうだった。
王宮へはスピナ一人で潜入する。プロップはマクスカシティとコヒの村の連絡係として街で待機する。
スピナは何かをつかんだら一旦王宮を出てプロップへそれを伝える、そしてプロップはコヒの村へ早馬でそれを伝える、そして王宮へ戻る、パーティーが終わるまでこれを繰り返す、というものだ。
そして婚約記念パーティー当日はやって来た。
早朝、プロップは合流したスピナが詳細な王宮の設計図を持っていたことに驚いた。
ティトから手渡されたというその設計図は、数十ページに及ぶ小さなサイズの本になっていた。
―こんなのって……かなりの国家機密じゃないの……?
ティトの正体がいよいよわからなくなった。
しかし報酬にふくまれている口止め料には"余計な詮索をするな"の意味もある。あれこれ考えている余裕もなく、二人は予定通り計画を実行に移したのだった。
スピナは下水道を通り王宮へ潜入し、プロップは街にある大きなレストランで待機した。
多くの客で賑わうその店は、プロップくらいの年頃の少年が一人で過ごしていてもまったく不自然ではない雰囲気だった。
プロップは、"誰でもできる初歩魔法(改訂版)"という本を読んで時を過ごした。
午前中は何事も起こらなかった。
プロップはスピナの身体能力を高く評価していたため(知能指数はともかくとして)それほど不安にはならなかった。
これまでにも旅費を稼ぐために、さほど危険ではない潜入の仕事を引き受けたことが何度かあったが、スピナのせいで予定を変更せざるを得ないことは多かったものの、致命的な失敗はなかった。
今回はこれまでで最もリスクが高い依頼ではあるが、まあ何とかなるのではないか、プロップはそんな風に考えていたのである。
しかし問題は起きてしまった。
午後二時を少し過ぎた頃のことだ。
ああ、驚くなかれ。潜入がばれて衛兵に追われたスピナはなんと、愛すべき相棒の潜むレストランへ逃げ込んで来たのだ。
"見つかっちまったけど、おいらすげえ情報つかんだんだ!プー、はやく逃げようぜ!"
突如プロップの目の前に駆け込んできたスピナは意気揚々にそう言った。
"もし見つかったら一人で逃げるようにって打ち合わせたじゃないかこのスカタン!"
プロップの叫び声が店内に響き、多くの視線を集めることになった。
かくしてドタバタ逃走劇の幕は上がったのだった。
回想を終え、プロップはため息をついた。
―これで僕らはマクスカ中のお尋ね者だ……そんでもって報酬なしだったら、骨折り損のくたびれ儲けどころじゃすまないよ……。
「ばっちり報酬は貰えると思うぜ!しかもボーナスチップ付きでな!」
自信満々に、へへっと笑うスピナを、プロップは訝しげな眼差しで見つめた。
暗さでどんな表情なのかあまりよくわからなかったが、恐らくは満面の笑みなのだろうと思えた。
「どうしてそう言い切れるのさ?」
「覚えてないのか?すげえ情報をつかんだって言ったろ?」
「……情報って、どんな?」
プロップは首を傾げた。
―そう言えばそんなこと言ってたっけ……?
「聞いて驚くなよ?」スピナはわざとらしく咳払いをした。「なんとムミ姫は―」
「おい!お前ら!」
その時、突然どこかから男の声が聞こえてきた。
二人が反射的に声のした方を見ると、ランプを持った四、五人のガラの悪い男たちがこちらへ向かって来るのが見えた。
「お前らがスピナとプロップだな?俺たちはジドの店の者だ!」
◆4◆
―もう泣いちゃおうかな……。
重い荷物を地面に下ろし、ちょうど良い大きさの岩に腰かけると、テンダはふう、と息をついた。
ボートを降りた後、国道を避けながら南東へ進み続けたが、すでに疲労しきっていた体にとって荷物はあまりにも重く、少し進んでは休み、また少し進んでは休みと、まるで亀になった気分だった。
喉と唇は日照りが続いた後の土のように渇き、胃袋に住む精霊達は空腹の警報を何度も鳴らした。
既に骨が亀裂だらけになってしまっているに違いないと思えるほどに両足は痛み、素足のため爪先まで泥だらけだった。
大きな石に足の指先をぶつけて何度悶絶したことだろうか。割れた爪の間から滲み出た血が固まり始めていた。
自分自身にそれとわかるほどに体は汗臭く、荷物のせいでずれて絡み付く下着が何とも不快だった。何度となく足を止めて直しても、またすぐにずれてしまい苛立ちを加速させた。
―このまま死んじゃうかも……。
夜の暗さは不安に輪をかけ、何度か本気でそんな考えが頭を過った。国道外れの平原を進んでいるため人気はまったくない。寂しさに胸が押しつぶされそうだった。
それでも何とか歩き続け、恐らくコヒの村まであとわずかではないかと思われるところまで来たのだった。
「ああ、ムミ……」夜空を見上げながら、テンダは愛しい人の名前を呼んだ。「あたしもうだめかも……」
テンダのもとに結婚記念パーティーの招待状が届いたのは約一ヵ月前のことだった。
招待状の封を開けてその中身を見た時、人生でこれまでに感じたことのないほどの喜びの風が胸を吹き抜けた。
背中には天使の羽が生え、空高くどこまでも飛んで行けるような気がした。
しかしティトの表情は曇ったままだった。信用できない、マクスカへ行くことは許さないと言った。
感情的な口論になった。テンダは引き下がらず、何度目かの話し合いでついにティトは渋々マクスカ行きを了承してくれた。
招待状には、必ずテンダ一人で入国するように、ティトの入国は認めないと書いてあったが、ティトはそれを守る気はないと言った。
テンダはパーティーの二日前に一人で入国し、十日前から既に密入国していたティトとバスコの街で落ち合った。
どこかで必ず足がついてしまうので裏稼業人とは接触できなかったが、代わりに街で信用できそうな少年二人を雇った、彼らにパーティーを監視させる、自分は顔が割れているためマクスカシティには近づけないが、コヒの村の旧友であるジドの店で待機している、有事の際はそこが最終的な集合場所だ、といったことを説明された。
そして今日、パーティー当日。
バスコの街のホテルの部屋で心を弾ませながら、この日のために用意した高価なドレスに身を包み、普段ほとんどしたことのない化粧をした。
ティトに必ずつけるようにと渡された真っ赤なリボンは気に入らなかったが、鏡に映るドレスアップした自分の姿を見た時、今日こそが、生まれた時からずっと自分を苦しめてきた"呪い"から解放される日なのだと確信し、嬉しさで体が震えた。
ティトの言葉が頭の隅にあったので、念のために催涙粉の入った紙の小袋を胸元にしのばせておいた。
いよいよマクスカ王宮に足を踏み入れるその瞬間には、緊張のあまり足が震えた。
案内係として紹介されたのはフロルという女性だった。
黒衣に身を包んだ、無口でなんだか怖い感じのする女性だったがそんなことはどうでもよかった。
―そうよ、もうすぐムミと会えるんだから……。
そして再会の時は訪れた。
しかし……。
すべては裏切られた。いや、そうではなかった。裏切られたのではなく"初めからそうだったと今さら気づかされた"のだ。
何故気づけなかったのか?ティトの言葉が正しいと、本当は心のどこかで解っていたのではなかったのか?
決着をつけたいなどとティトに言いながら、甘い罠にはまり、覚悟を忘れてしまったのだ。
自分こそがこの世で最も間抜けな人間なのだという気がした。
ドレスも、靴も、化粧も、それがどれだけ綺麗で高価であったとしても、何もかもが―
―馬鹿みたい……。
すれ違う人々は皆自分を心の中で嘲笑っているに違いないと思えた。
―あたしはやっぱり……死ぬまで呪われたままなんだ!
ムミの言う通りにするしかなかった。涙を堪えながら懸命に走り続けた。
そして執拗に立ち塞がる黒衣の女を振り切り、王宮から逃げ出したのだった。
「ごめんね、ムミ……あたしのせいで……」
回想を終え、テンダはぽつりと呟いた。誰にも届くはずのない言葉を。
そして涙が一粒、流れ星のようにこぼれ落ちた。
「おい!そこのお嬢ちゃん!」
突然背後から声が聞こえたため、テンダは驚いて体をびくっと震わせた。涙を拭いながら振り返えると、いくつかの松明の灯りが目に入った。
「俺たちはジドの店の者だが、君がテンダかい?」
◆5◆
イスラとの密談を終えたフロルは、その足でマクスカシティの貧民街にある小さな一軒家を訪ねた。
そこは"古ぼけた"というよりも"朽ち果てた"といったような木造の家で、申し訳程度にある庭の草は一切の管理がされておらず伸び放題だった。
知らない人が見れば廃屋としか映らないだろう。
通りの向かいからその家を眺めていたフロルは、周囲を見渡して人気がないことを確認すると、素早く入り口のドアの前まで移動した。
「リッキー、私だ。開けろ」
過剰な力でフロルはドアを叩いた。居留守を使わせないというように。
しばしの沈黙の後、鍵が外れる音が聞こえ、わずかに開かれたドアの隙間から、褐色で小柄な中年の男がうんざりしたような顔を覗かせた。
「よう、フロルさんよ。今こっちは取り込んでるんだ……悪いが仕事なら他をあたってくれ」
その男、リッキーは作り笑いを浮かべてそう言うと、すぐさまドアを閉めようとしたが、フロルは左手でドアを押さえてそれを阻止した。
「私はお前より忙しいんだ」
そう言いながらフロルが強引にドアを開けて中に入ってきたため、リッキーは仕方なく身を退いて彼女を招き入れた。
外観の印象そのままに、家の中もゴミと埃で汚れきっており、カビの臭いがした。長い間窓を開けていないのだろうと思えた。
「何か飲むかい?」
リッキーは小さな冷蔵庫のドアを開けながら、入り口の脇に無表情で立っているフロルにそう言った。
「侵入者の件は知っているな?」
フロルはリッキーの言葉を無視してそう切り出した。
「ああ、ガキ共が逃げ回ってたらしいな。それがどうかしたのか?」
冷蔵庫からコーヒーが入ったポットを取り出し、流しに移動して戸棚からコップを探しながらリッキーは答えた。
フロルが他人に出されたものを口にするはずはないとわかりきっていたが、何もせずに彼女と向き合って話をするには、心臓のスペアが三つは必要だった。
極力目を合わせることもしたくないので何かしら手を動かしていたかった。
「背後に誰がいるのか調べろ」
「……やらんでもないが」リッキーは訝しげに目を細めた。「しかし、あんたが動くってことは何か―」
リッキーはそこまで言って慌てて口をつぐんだ。こちらの目を見るフロルの表情に変化はないが、体から発している"圧力の質"が変わっていた。
―"余計な口をきくな"というわけか……。
「と、とにかく引き受けるよ……だが、さっきも言ったように少々忙しくてね。まあ、それでも四、五日みてもらえれば―」
「朝までにやれ」
害虫を踏み潰すかのような冷たい声に言葉を遮られ、リッキーは思わず動かしていた手を止めた。
「朝?……朝だって?明日の朝って意味か?ちょ、ちょっと待ってくれ!いくら何でも無理だ!」
「やれそうかどうか聞いているんじゃない。やれと言ってるんだ」
フロルが一歩詰め寄った。リッキーは危うくポットを床に落とすところだった。
「急ぎなのはわかったよ……でもたった一晩じゃあ何にもできやしねえよ!せめて二日はくれ……な?な?」
フロルは天井を見上げてため息をついた。するとその次の瞬間、目にも止まらぬ速さで腰の剣を鞘ごと抜くと、その腹をリッキーの喉に押し込み、そのまま背後の壁に彼の体を叩きつけてそのまま押さえつけた。
リッキーが持っていたポットは床に落ち、その中身をぶちまけた。
「朝までにやれ……明日もコーヒーを飲んでいたければ……な」
耳元で囁かれる死神の宣告。リッキーの体は震え、額には脂汗が滲んだ。
必死に返事をしようとしたが、喉を押さえつけられているため、上手く声が出ず、息もできなかった。
「わかった……言う通りに……やるよ……か……勘弁してくれ……」
蛙の鳴き声のような声でやっとそれだけ言うと、リッキーを押さえつけていた力が弱まった。
「明日の朝にまた来る」
膝に両手をついて激しく咳き込んでいるリッキーにそう言い残し、フロルはドアを開けて出て行った。
ドアが勢いよく閉まると、途端に家中の重力が下がった気がした。
―まったく……いい歳こいて小便もらしちまうとこだったぜ。
息を整えながら、リッキーはフロルが出て行ったドアを見つめた。
―"漆黒のフロル"か……化け物め。あれでまだ二十代の小娘ってんだから、世の中どうかしてるぜ……。
これから朝まで休まずに街中を走り回らねばならない。そのことを考えて気が重くなった。
―……それにしてもあの女、気のせいか今日はいつもと様子が違うような……?
◆6◆
リッキーの家を後にして、フロルは王宮内の、やや隔離された場所にある自室に戻った。
剣を下ろし、黒衣を脱いで下着だけの姿になると、浴室の洗面台で顔を洗った。
これから明け方まで睡眠をとるつもりだった。
どれほど急いだところで、テンダたちが今日明日で国境を越えるのは至難だろう。それに自分が動くにはまだ情報が少ない。
あの王国一の情報屋、リッキーなら一晩でそれなりの成果を上げるだろう。そうなれば忙しくなる。明日以降は睡眠をとれない日々が続くかもしれない。
休める時に休んでおこう、と考えた。
顔を洗いながら、テンダのあの魔法、"もっと違う別の何か"の魔法のことを考えた。
未知の能力ほど恐ろしいものはない。次にテンダと対峙する時には少しの油断も許されないだろうと思った。
"本当にやるのか?何の恨みもない相手に剣を振るうのか?"
突然あの内なる声が戻ってきた。驚いて顔を上げると、鏡に映る、濡れた顔の自分自身と目があった。
―やるに決まっている。他に何がある?
戸惑いながらも心の中でそう返答する。しかし間髪入れずに次の質問が飛んできた。
"何のために?"
―何のため……だと?
フロルは自分が答えに窮していることに気づき愕然とした。
―今さら何を……今までもこれからも変わらない。あの御方のためだ!
"自分に嘘をつくのか?それが理由だと自分に言い聞かせているだけだろう?"
鏡の中の自分が嘲笑を浮かべてこちらを見ていた。
"本当のことを知っているぞ"
―やめろ……。
"あの御方のために働く理由はもうないんだ。何故なら―"
―やめろ!
フロルは込み上げる怒りに任せて、渾身の力で鏡に拳を叩きつけた。
鏡は音を立てて割れ、赤く染まり、そして焼けるような痛みが拳に広がった。
「私は何をしているのだ……」
血が溢れ出している自分の拳を見つめながら、無意識に口に出してそう呟いていた。
その時突然、部屋の入り口のドアを叩く音が聞こえてきた。
フロルははっと我に帰り、痛みを堪えながら水で拳の血を洗い流した。それから脱衣所へ行き、またしても溢れ出してきている拳の血が着かぬようにバスローブを羽織ると、バスタオルで拳を押さえた。
もう一度扉を叩く音が聞こえ、今度は扉越しの男の声も聞こえてきた。
「フロル、いるのか?」
入り口に向かって早足で歩いていたフロルだったが、声の主が誰であるかわかると、驚いて足を止めた。
"噂をすれば影……だな。頑張って顔を合わせないようにしてたというのにな"
―そんなことはない!黙っていろ!
内なる声を強引に追い払い、フロルは再び早足でドアの前に移動した。
「エスティバ様……」
鍵を外してドアを開けると、背の高い屈強な体を高級なタキシードに包んだ男、エスティバが立っていた。
「入浴中だったのか?すまないな」
「いいえ……」
普段はまず着ることのないタキシード。吐息に混じる酒の匂い。フロルの胸は締めつけられた。
"もうこの御方は私とは違う世界にいるのだ"
内なる声の主がいつの間にか戻ってきていたが、フロルは無視することにした。
「お一人ですか?パーティーの主役がこんなところにいていいのですか?」
"私を嘲笑いに来たのでしょう?"
「お前と話がしたくてな……部屋の中で話さないか?」
エスティバは綺麗に整えられた顎髭を撫でながら、ちらり周囲を見回した。
「恐縮ですが、もう休むところなのです。明日から方々へ行かねばなりませんので」
"どうぞ部屋の中へ……話とやらを聞かせて下さい……"
「……また"仕事"なのか?」
「はい」
エスティバは俯き、哀しげな表情を浮かべた。
「フロル、私はお前に何と言ったらいいのか……」
「何のことでしょうか?」
"どんな言い訳の言葉を用意したのか、是非聞かせて下さい。そしてそれが誰のための言い訳なのかも"
「私を憎んでいるか?」
「一体何のお話でしょう?そのようなはずがありません」
"憎むことすらできない。何故なら男が身勝手な生き物だと教えてくれたのも貴方なのだから"
エスティバはしばらくフロルを見つめたまま言葉に窮していたが、やがてあきらめのため息をついた。
「邪魔して悪かった。また今度ゆっくり話そう」
「はい……申し訳ございません」
束の間の沈黙の後、エスティバはゆっくりと手を伸ばしてフロルを抱き寄せた。
「……これからも私のそばにいてくれるか?」
「はい……」
エスティバの広い腕の中で、フロルは瞳を閉じて彼の匂いを感じた。
"つまりは自分の剣としてそばにいろ……という意味だ。こんな男のためにこれからも仕事を続けるのか?私を捨ててムミ姫と婚約したこの男のために?"
―そうだ。これからもずっと……だ。
それからしばらくの間、やがてエスティバが去るまでの間、部屋から漏れた明かりが、薄暗い廊下に重なる影を映し続けた。
◆7◆
―結婚してガキでもいりゃあよ、俺もそうなるのかなあ……それにしてもあのティトがなあ……。
腕を組みながら、ジドは半ば呆れ顔で、泣きながらテンダを抱きしめているティトの様子を見ていた。
今、ジドの店は安堵と歓喜に満たされている。
重苦しい沈黙が破られたのは、時計の針が二十一時を少し回った頃だった。
突然店の入り口のドアが開かれた。同時にそちらを見たティトとジドの視界に、上半身裸の真っ黒に汚れきったスピナとプロップの姿が映った。
「君たち!無事だったんだな!」
椅子から転げ落ちるのではないかとジドが心配したほどの勢いで立ち上がり、ティトは二人へ駆け寄った。
「まったくの無事ってわけじゃないですけど……まあ、なんとか」
プロップが苦笑しながらそう言った。
「何があったんだ?テンダ様は?」
「あれ?あの女、まだ来てねえのか……」スピナが店内を見渡しながらそう言った。「おいらたち、ボートをあいつに奪われたんだ!」
「奪われた?……どういう意味だ?」
スピナとプロップは身振り手振りを交えて一部始終を話して聞かせた。
「そりゃ傑作だ!」ジドはカウンターを叩きながらがははと笑った。「フォックスリバーに飛び込んだのか?無茶しやがる。気に入ったぜ!」
「おっちゃんに借りたボート、運転してみたかったなあ……」スピナは心から残念そうにそう言った。「絶対楽しかっただろうな……」
「何なら俺んとこで働くか?バイクも持ってるぞ」
「バイクかあ……でもおいら、旅続けなきゃいけないしな」
「ジド、いい加減にしろ!」
ティトはうんざりした顔でジドを睨みつけた。
「あ、あの……テンダさんはまだなんですか?」
プロップは恐る恐るティトとジドに訊ねた。初めて会うジドにすっかり萎縮していた。
「ああ、まだなんだ……」ティトは中指で眼鏡のずれを直した。「しかし君たちの話からすると、とっくに着いていてもおかしくないな」
「あの、僕たち探しに行きましょうか?案外近くで迷っているのかもしれませんし」
プロップがそう言い終える前にジドがカウンターから出てきて彼に近づいていった。
「ウチの若い連中に任せときな!お前らはひとっ風呂浴びてこい!」
ジドに頭をぽんっと軽く叩かれると、プロップは体を強ばらせて目を瞑った。
「こっちだ。ついてきな!」
そしてジドはスピナとプロップを連れて、風呂場のある二階への階段を上がって行った。
―ジドのやつ、今日はよく喋るな……。
三人を見送りながらティト微笑した。
―それにしてもテンダ様はどうしたのか……?ボートを上手く扱えなかったのでは?
カウンター席に戻り、ティトは新しい煙草に火をつけた。
―彼らの話からすると、やはり今回の招待は罠……しかし何故今頃になって?
無意識にドーナツ状の形になるように煙を吐き出していた。そして次第に薄くなっていくドーナツが、やがて完全に消えた時だった。
またしても店のドアが開いた。
「テンダ様!」
ジドの若い衆と一緒に、汚れきったドレス姿で泣きべそをかいているテンダがそこに立っていた。
ティトは慌てて煙草を揉み消すと、立ち上がろうとして今回は椅子から転げ落ちてしまった。
ジドの若い衆が驚いて駆け寄ろうとしたが、ティトはすぐさま立ち上がりテンダへ駆け寄って行った。
「ご無事で!」
「ティト、ごめんなさい……全部あなたの言う通りだった……」
「ご無事ならそれでいいのです……今は何も言わなくていいのです……」
ティトは泣きながらテンダを抱きしめた。
「おう、嬢ちゃんも無事だったか!」
二階からジドが戻ってきた。続けて何か軽口を叩いてやろうかと思ったが、抱き合う二人の様子を見て、やはり黙っていることにした。
それからジドは、若い衆に外へ出ろと仕草だけで合図を送ると、しばらくしてから自分自身も裏口からそっと外へ出た。
若い衆にしばらく周辺を見回った後に解散するよう指示を出し、店内へ引き返すと、ちょうどティトがテンダを入り口の近くにある椅子に座らせて、魔法で傷の手当てをしているところだった。
ジドは食事の支度を始めることにして黙ってカウンターに入った。夜も更けてきたが、三人とも空腹だろうし、積もる話もあるだろうと思った。
「これで傷の方はもう大丈夫です。浴室が二階にありますが、今はスピナ君たちが使っているのでしばらく待ちましょう」一通り手当てを終えると、ティトはそう言った。「何か飲みますか?」
「お水をちょうだい……」
ティトはわかりましたと言うと、カウンターへ入り、冷水を用意しだした。
「おう、客が勝手に入ってんじゃねえよ!俺がやるから嬢ちゃんと仲良く座ってろ!」
ジドは食事の用意を中断してティトの肩を叩いた。しかしティトは一向に手を休めなかった。
「いいんだ、ジド。これくらいやらせてくれ……お前には感謝している……」
「ほう、お前が俺に礼を言うとはなあ。お互い年をとるわけだ」
ジドはしかめ面でそう言うと、再び食事の支度を始めた。
「あの、ジドさん。初めまして。テンダです」二人のやり取りを興味深そうに見ていたテンダが、おもむろに口を開いた。「色々とお世話になって……本当にありがとうございます」
そう言いながら立ち上がろうとするテンダを、ジドは手で制した。
「若者が気ぃ遣ってんじゃねえや。それにこのティトには昔の借りがあるんでね……ある時俺たちはムショん中で―」
「おい、うるさいぞジド!今日はやたらと喋りやがるな!」
ティトは冷水の入ったコップを手に持ち、カウンターを出ながらジドを睨みつけた。ジドはがははと可笑しそうに笑った。
「ティト?あなた昔何をしたの?」
「何でもありません。こいつの言うことは気にせんで下さい」
ティトはコップを手渡し、少しずつゆっくり飲むように、と注意しようとしたが、テンダは渡されるなり水を一気に飲み干してしまった。
テンダの体に冷水が染み渡った。喉が喜びに震えているように感じられた。
「あの二人……男の子たちは無事だったのね?」
人心地ついた後、テンダが心配そうにそう訊ねると、ティトは笑いながら頷いた。
「二人ともテンダ様のことを、とてもお行儀が良くて品のあるお嬢様だったと言ってましたよ」
そしてティトとジドは同時に大笑いした。
テンダは真っ赤になってうつむいたが、とりあえずあの二人が無事であったことに安心してほっと胸を撫で下ろした。
―よかった……でも何て謝ろうかな?ごめんなさい、だよね。やっぱあんまり余計なことは言わないほうが……。
テンダがあれこれと思案していると、二階から誰かが階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
緊張で心臓の鼓動が高鳴る。
―あいつら……だ。
「何でリンス使わないんだよ君は?」
「おいらの勝手だろうよ。面倒だしいらないだろあれ……って言うかお前うるさいんだよ。いちいち女みてえにさ!」
何やら騒がしく言い争う声も聞こえてきた。テンダは自分が立っていた方がいいのか、座ったままの方がいいのか考えあぐねてそわそわとしていた。
「あ!」
スピナとプロップは、階段を降りきったところで同時にテンダの存在に気づき足を止めた。
二人ともジドから借りた少し大きめの寝間着姿だった。
その瞬間、時計の針が回る音は聞こえたものの、店内の時間は凍りついてしまった。
ぶつかり合う三人の視線。無言の重圧が空間を支配した。
ジドは三人の様子をちらりと一瞬見ただけで、何も言わずに食事の支度を続けた。ティトは元いたカウンター席に戻り、煙草をふかした。
特に必要な場面までは干渉は不要だろう、と大人二人は同じ判断を下した。
しばらくして重圧に堪えかねたテンダは、手櫛で前髪を整え、右手を小さく上げて軽く振り、ハァイと小声で挨拶した。作り笑いはぎこちなく引きつっている。
「ま……また会ったわね……今日はお互いに色々大変だったね!」
―あたし……何言ってんだろ?
「お前!よくも―」
そう言いながら一歩前に踏み出したスピナをプロップが慌てて制止した。
「スピナは黙っててよ!」
「何だと?」
「もういいじゃないか。そもそも君だってヘマやらかしてんだしさ」
「そりゃあ、まあ……そうだけどよ」
スピナは膨れっ面でそっぽを向いた。プロップはため息をついてテンダの方へ向き直った。
「あ、えっとテンダさん。改めまして初めまして……えっと、僕はプロップです。テンダさんも無事だったんですね?……何と言うか、その、よかったですね!」
「おかげ様でね。あ、ありがとう」
プロップとテンダはぎこちなく笑い合った。二人ともボートの上での一幕を思い出していた。
「おい、ボートとそこにあったおいらたちの荷物はどうした?」
いつまでも笑い合っている二人に、スピナは痺れを切らした。
―プーのやつ、女相手だからっていい顔しやがって!真っ先にそれを聞けってんだ!
「ああ、えっと、ボートは湖に止めて、それで荷物はちゃんと持ってきたわ」
テンダは少し離れた壁際に置いてある荷物を指さした。それを確認すると、スピナはふうと大きく息をついた。
「よかった……特にテントは高いからな……荷物持ってきてなかったら今すぐぶっ飛ばしてやるところだったぞ?」
「え、ええ、それは……当然そうなってたでしょうね……」
―何よ、さっきから荷物荷物って……あたしがどんな思いで……ってだめだめ。落ち着くのよテンダ。悪いのはあなたなの……。
「おいらたちは、あの後散々な目に合ったんだからな!」
―落ち着いて、一回深呼吸しましょう……。
「ゴリラみてえに暴れやがってよ……ったく」
―落ち着いて……落ち着いて……そうよ、あたしはゴリラ……落ち着いて……落ち着……けるわけないでしょ!
「誰がゴリラよ!この山猿!」
神話に出てくる神のいかずちのようなテンダの怒号が、店の外まで響き渡った。
テンダは素早く立ち上がり、持っていたコップをスピナ目がけて投げつけた。
スピナとそのすぐそばにいたプロップは、うわっと叫んでそれを何とかかわした。コップは奥の壁にぶつかり、音を立てて砕け散った。
「何しやがる!」
「あんたたちの荷物をこっちは死ぬ気で運んでやったってのに、ちょっとくらい気遣ったらどうなの?」
「お前の勘違いがいけないんだろ!自業自得じゃねえか!」
「あんたがでっかい剣なんか抜くからでしょ!紛らわしいのよ!」
「おいらはその前にでっかい声でちゃんと呼びかけたんだがな!」
「必死に走ってるんだから聞こえるわけないでしょ!とにかく謝りなさいよ!」
「ああ?何でおいらが謝らなきゃいけねえんだ?バカじゃねえの?」
「口で言ってもわかんないみたいね」
「ああ、そうだな。やってやろうか?」
二人は睨み合ったままお互いに詰め寄ろうとした。
ここにきてようやくティトがテンダを止めるために立ち上がり、プロップも両肩を押さえてスピナを制止した。
「テンダ様、いい加減になさい」
「スピナが悪いよ!僕らも荷物も無事だったんだから、それでいいじゃないか!」
ジドはというと、呆れ顔でそれを眺めているだけだった。
―さっきまでボロボロだったくせによ……元気なこった……。
◆8◆
「ところで君たちはいくつだっけ?」
重苦しい雰囲気を何とか打破しようと、ティトは話題を作った。
カウンターの一番端にスピナ、その隣にプロップ、角を挟んで二つ隣にティト、そしてティトの隣で、スピナの視線から隠れるようにしてテンダが座っている。
店内は今、ジドの料理の香りと、スピナとテンダが作り出した緊張感に包まれていた。
あれからスピナとテンダのいがみ合いは小休止となった。
テンダはむっつりと黙り込んだまま、ジドに案内されて二階の浴室へと向かい、スピナとプロップはジドの用意した遅い夕食をとり始めた。
しかしスピナは食事の間中ただの一言も話さず、時折誰かが話題を振っても気のない返事を返すばかりだった。
ティトもジドも、しまいには呆れて何も言わなくなり、プロップは針のむしろに包まれた気持ちになった。
それからしばらくして、入浴を終えたテンダが食事に合流したが、やはり状況は何も改善されなかった。
風呂上がりのテンダは普段着に着替えていた。ティトの手配により、彼女の荷物はバスコの街から取り寄せられていたらしい。
白いシャツの上から紺色のカーディガンを羽織り、下は七分丈のスキニーのジーンズに、半分スニーカーのようなサンダル(あるいはサンダルのようなスニーカー)という簡素な姿。
パーティードレス姿しか見ていなかったプロップは、その姿の新鮮さと、まだ乾ききっていない髪の色っぽさに胸をときめかせた。
―やっぱ可愛いよな……。
しかしテンダは、いただきますと言ったきり黙々と食事を続け、食器を動かす音と、ティトの咳払いしか聞こえないという状況が続き、そんなときめきは次第にしぼんでいってしまった。
―僕とティトさんで何とかしなきゃ……このままじゃ、何だか報酬の話も切り出しにくいしなあ……。
「えっと、僕とスピナは同い年で、十六歳です」
プロップは努めて明るくそう答えた。
「若いなあ……私の半分以下か。するとテンダ様のほうが一つ年上ということになりますね」
ティトはそう言いながら、頼むからそれについて何か気の効いたことを言ってくれと哀願するような視線をテンダへ送ったが、そうねという気の抜けた返事しか返ってこなかった。
がっくりと肩を落としたものの、ティトはわざとらしい咳払いをして挫けずに話を続けた。
「二人ともマクスカ出身かい?どうして旅を?」
プロップはあえて何も答えずにスピナを見た。彼が口を開くのではないかと期待したが、一向にその気配は感じられなかったため、仕方なく今回も自分が答えることにした。
「えっと、僕らは二人ともマクスカ人で、デリィ出身です。イメッカの図書館に行く予定です……今回のことで行けるかどうかわからなくなりましたけど……」
「どうして図書館へ?」
「探し物をしてて、調べたいことがあるんだ」
出し抜けにスピナが口を開いた。プロップはやはりなと思った。
―スピナのやつ、僕がうっかり旅の目的を喋っちゃうと思ったんだな……。
「探し物とは?」
「それは……ちょっと内緒なんだ」
ティトは素っ気なく、ふうんと頷いた。
「そうか、しかし、それは好都合かも……」
独り言のようにそう呟くと、ティトは腕組みをして考え込んだ。
「あの、ティトさん。それで、その、報酬の件ですけど……」ちょうど話題が途切れたということもあり、プロップは思い切ってそれを切り出すことにした。「結局僕らドジ踏んじゃったわけですけど、スピナが何か情報をつかんだらしいんです……ですから報酬を―」
「情報?何か見たのか?」
プロップの言葉を遮り、やや興奮気味にティトはテーブルに身を乗り出した。
テンダは無言のまま食事の手を止めた。
「あ、はい。僕もまだ詳しくは聞いてないのですが」
プロップはティトの勢いに少し圧倒されながらそう言うと、逃げるようにスピナへ視線を移した。
「凄えやつを見たんだ!今言っちゃっていいのか?」
先刻までの不機嫌はどこ吹く風、スピナの声は明るく弾んでいた。
「俺は外を散歩してたほうがいいか?」
カウンターの奥で洗い物をしていたジドが手を止めてティトを見た。
「いや、構わない」ティトはジドの方を見ようともせず、スピナを見つめたままそう答えた。「さあ、スピナ君、話してくれ」
スピナはコップの水を一口飲み、それからその奇妙な体験談を語りだした。
◆◆◆