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〈Ⅰ‐Ⅰ〉ふたつの逃走劇





◆1◆




―ああ、いい天気だ……。


プロップはわずかに首だけ動かして空を見上げた。


今年の春は暑かったり寒かったりとすごしにくい天気が続いており、今日みたいに春らしく気持ちのよい日は久々だった。


―それなのに……。


「ねえ、スピナ!僕たちどこに向かってるの?」


滝のように流れる汗。心臓は最大限の排気量で活動中だ。プロップは並んで走っているスピナにそう訊ねた。


ここは街外れの平原。自分たちはどんどん人里から遠ざかっている。我が愛すべき相棒は何の考えもなく走っているのではないかと、プロップの不安は広がる一方だった。


「あのでかい川んとこだよ!来る時に通っただろ?疲れるからもう喋んなよ!」


スピナはしかめ面でそう答えた。


確かに走りながらの会話は楽ではないが、プロップとしては、どうしてももう一つだけ質問しなければならないことがあった。


ちらりと後ろを振り返ると、大分後方に相変わらずの速度でこちらを追いかけてくる四、五人の兵士たちが見えた。


―なんだってあいつら鎧きてるくせにあんなに速いんだ?王宮の衛兵ともなると鍛え方が違うのかなあ……でもガキだからって僕らをあまく見すぎだよな……純粋な追いかけっこで僕らにかなうわけないじゃないか。馬を使わないなんて。


とはいえ……。


「スピナ、どうやって川渡るの?橋のところまではかなり距離があるよ?」


今のところ追いつかれる心配はないが長引くほど不利になる。体力の問題もあるが、ひょっとしたら馬に乗った応援の兵が現れるかもしれないからだ。


「だから喋んなってば!心配すんな、おいらに任せとけって!」


自信満々なスピナだったが、プロップは少しも安心できなかった。


「信用できないよ!そもそも君がドジ踏んだからこうなったんじゃないか!僕までまきぞえにして……」


プロップに呼応するかのように、背後から兵士たちの罵詈雑言の叫びが聞こえてきた。


「ま、まあな……でもちゃんとプランBは用意してあるんだ!こんなこともあろうかと」


「まさかプランBってのは川に飛び込むってんじゃないだろうね?高さ見たでしょ?」


長いつき合いから、スピナなら本気でそれをやりかねないことをプロップは知っている。


「そいつはプランCだな……大丈夫だって!おいらだってたまにゃ頭使うんだ!」


その時ちょうど川の流れる音が聞こえてきた。


―スピナのやつ、一体どうする気だ……?




◆2◆




昼下がりの人通りのない街外れの並木道を、一人の少女が長いドレスの裾を両手で持ち上げながら息を切らして走っていた。


後ろ髪に巻かれた大きな赤いリボンが激しく揺れている。


―ああ、もう!足が……何よこんな靴!裸足のほうがましだわ!


よろめきそうになり、足を止めてハイヒールを脱ぎながら少女は悪態をついた。


息を落ち着かせながら慎重に辺りを見渡したが、小鳥のさえずりが聞こえるだけで人の気配はなかった。


「なんとか逃げ切れた……のかな?」


そう呟いてほっとため息をついたのも束の間、次の瞬間、突然目の前の木の枝が揺れたかと思うと、そこから何者かが飛び降りてきた。


少女は心臓が飛び出るかと思うほどに驚いて悲鳴を上げた。


「テンダ様、追いかけっこはもう終わりにしましょう……」


木の上から降りてきたのは黒衣の女だった。無機質で事務的な声。


「……えっと、あんた確か名前はフロルだったっけ?一体いつからそこにいたのよ?あたしのずっと後ろを走ってないとおかしいでしょ……まったく、お化けみたいだわ」


少女はそう言って唾を飲み込んだ。怯えを相手に悟られたくなかった。


「何をどうしようと私からは逃げられません。それに私は貴女に怪我をさせたくありません……ですからテンダ様、どうか王宮にお戻り―」


「白々しく"様"なんて呼ばないで!」黒衣の女、フロルの言葉を遮り少女はそう叫んだ。「あんたたちの正体がはっきりとわかったわ!薄汚い卑怯者よ!あたしはあんたたちにいいように利用されるほど便利じゃないのよ!」


怒りで震えるその声に対し、フロルは少しも動じず、少女を無表情で見つめたままだった。


「どうか落ち着いて下さい。何か誤解されているのでは?我々は今日―」


「それ以上その薄汚い口でべらべらと喋らないでちょうだい!あたしを捕まえたかったら力ずくできなさいよ!」


またしても言葉を遮られ、フロルはため息をついた。


「そこまで仰るのなら仕方ありませんね……」


そう言ってじりじりと近づいてくるフロルの無表情を睨みつけ、少女は後退りしながら必死に恐怖や焦りと戦っていた。


―力ずくでこいとか言っちゃった……一回謝ってみようかな。だめだよね多分。こいつめちゃくちゃ強そうだし、どうしよう……?


「テンダ様、どうか動かずにじっとしていて下さい。下手に動かれますと思わぬ怪我をさせてしまうかもしれません」


フロルは、相変わらずの無表情でそう言った。



◆3◆




「プー、見ろ!あの目印んとこだ!」


もうすぐ川沿いに辿り着くというというところまで来た時に、スピナが勝ち誇った声で叫びながら先を指差した。その方向を見ると、赤い布を巻きつけた木の枝が地面に突き刺さっているのが見えた。


「あれは何なの?」


「目印さ!あの真下にボートを用意してあるんだ!」


ここにきてようやくプロップの胸が軽くなった。


「本当?考えたじゃんかスピナ!ちょっとは見直したよ!」


プロップの言葉に気を良くし、スピナは人さし指で鼻をこすった。


「だろ?しかも念のため必要な荷物も全部のせてあるんだ」


そして目印のすぐ側までたどり着いた二人は、足を止めて川を覗き込んだ。真下にはちゃんとボートがあり、なおかつ鉄の楔で打ちつけられた降下用のロープまで用意されている。


「ちゃんとボートあるね!僕らにしては運があるほうだね今日は!」


「運じゃなくて実力さ!備えあればナントカカントカってな!」


そう言って高笑いするスピナを、プロップは冷ややかな目で眺めていた。


じゃあいつもそうすればいい。と言うか今日だってすでに作戦自体は失敗なんだ。"憂いなし"って言葉知らないくせにさ、と言いかけたがそれはやめることにした。


―とりあえずボートはある。これでなんとか逃げ切れそうだし、今日のところはこれでよしとしよう!


「よし、じゃあ行きますか!」


スピナは後方の追手たちの様子を確認しながらそう言った。まだここに来るまで大分距離があるが、それでももたもたしている余裕はない。


しかしその時、不意に何者かの叫び声が響き渡った。




◆4◆




「フロル、ちょっと待って!……名前、フロルでいいのよね?」テンダは両手を前にかざして制止を示した。フロルは足を止めたものの、決して油断はしないというようにテンダを凝視している。「やっぱりあんたに勝てそうにないわ……おとなしく捕まってあげるから、ちょっとだけ休ませて」


テンダはそう言いながら、ようやく冷静さを取り戻しつつある脳を最大限に回転させた。


―とりあえず時間を稼がなきゃ……実戦で試したことはないけど、こいつから逃げるには"あれ"をやるしかないわね……。


テンダは意を決して、心の中で魔法の呪文を詠唱し始めた。


―1……3……5……7……11……


「テンダ様、失礼ですが信用できません……お声から"嘘の色"を感じます。時間稼ぎなど無意味かと……」フロルは静かにそう言うと再び間合いを詰め始めた。「申し訳ございませんが、やはり少々痛い思いをして頂く他ないようですね」


迫り来る黒衣の女を前に、テンダは必死に心を落ち着かせていた。


―13……嫌な女……17……あと少し……19……23……この"量"で足りる?いや、もう余裕がない……やるしかない!


「ねえフロル、無意味かどうかは……」テンダは両手の平をフロルにかざした。「あたしが決めることよ!」


テンダがそう言い終える一瞬前に、すでにフロルの拳は放たれていた。魔法で攻撃してくるであろうと予想できていたし、たとえ詠唱を終えた状態からでも発動するより速く自分の拳をテンダの下腹部にめり込ませる自信があった。


しかし……。


―消えた……だと?


フロルの拳は虚しく空を切った。慌てて体制を立て直して周囲を探ったが、もはや何者の気配もなかった。


テンダは完全に消えてしまったのだ。伏せたり、背後に回り込んだりしたわけでもなく、魔法で一時的に体を透明にしたわけでもない。


「馬鹿な……」


フロルの肌が泡立った。


―瞬間移動……?……そんな魔法は存在しない……。





◆5◆




―やったわ!あたしって天才!


テンダは周囲を見渡しながら勝利のガッツポーズをとった。あの嫌な女を振り切って大分離れた平原まで移動できた。さすがにここまでは追ってはこれまいと確信した。


―上手くいった……やればなんとかなるもんね!


しかし魔法を成功させた喜びに浸っていたのも束の間だった。すぐに自分の体が鉛のように重くなっていることに気づいたのだ。


―消耗が激しすぎる?……当分同じ手は使えないわね。


何はともあれ、あまりもたもたしてはいられない。体に鞭を入れながらゆっくりと歩き出したテンダはこれからどうしようかと考えを巡らせているうちに、ふとティトの言葉を思い出した。


“テンダ様、いざという時のために川にボートを用意してあります。川沿いに目印の旗を立てておきました。……ああ、そうそう、ちなみに―”


しかし記憶はここで途絶えていた。


―あれ?……ちなみに……ちなみに何だっけ?


「おい、見ろ!あの娘―」


その時突然どこかから声が聞こえた。慌てて周囲を見渡すと、少し離れた場所に数人の兵士がおり、こちらを指差しながら何事か話合っていた。


どちらにせよこんな場所にいるのは不自然だ、といったような言葉が聞こえた。


―嘘でしょ……何でこんな場所に兵士がいるのよ!もう、勘弁してよ!


テンダは深呼吸をして自分の頬を両手で叩いた。


―もうちょっとだけ頑張ってね、あたしの体!


そして一目散に駆け出した。深くじっくり考えている暇はない。とりあえずティトの言っていた川沿いの目印を探すことに決めた。


「あ!おい!待て!」


走りだしたテンダを見て、兵士たちも慌てて後を追い始めた。がちがち、と金属がぶつかり合う音を聞きながら、テンダは振り返らずに全力で足を動かした。体は悲鳴を上げている。


―もうやめて!放っといてよ!泣いちゃうわよ!


そしてしばらく走っていると、川の流れる音が聞こえてきた。思いのほか近くに川があったことに安心したテンダは、ほどなくして目印の旗を視界に捉えると、歓喜のあまりしばし体の疲労を忘れてしまった。


―ついてる!天才な上に幸運なあたし……ん?誰かいる?


よく見ると旗の周りに二人の少年がいる。とても兵士には見えない。街の少年が川釣りでもしていて、偶然ボートを見つけてしまったのかしら、とテンダはぼんやりと考えた。


―とにかくあいつら邪魔だわ!


近づくにつれ頭にどんどん血が登って行くのを感じた。少年たちにはなんの罪もないが、今の自分は緊急事態なのだ。何者も道を塞ぐことは許されない。


「ちょっとあんたたち!どきなさい!邪魔よ!」





◆6◆




スピナとプロップは周囲を見渡して声の主を探した。すると追手の兵士たちとは真逆の方向から一人の少女がこちらに向かって何事か叫びながら物凄い勢いで走ってくるのを、二人ともほぼ同時に見つけた。


「プー、何だあれ?」


「さあ……僕に聞かれても……ん?……あ!もしかして!」


次第に近づいてくるその少女が、大きな赤いリボンをつけているのを目にしたプロップは、左手の平を右拳で叩いた。


―目印として赤いリボンを……間違いなさそうだ!


「あれが多分テンダって人じゃないかな?ほら、ティトさんが言ってた人だよ!……でもどうしてここに……?」


「あ!そうか、忘れてた……ティトのおっちゃんに言われてたんだ。テンダって人にもボートのことを伝えておくから、もし逃げる時にはギリギリまで待機してろってな!」


自分と同じように手の平を叩きながらそう言うスピナを、プロップは鬼の形相で睨みつけた。


「何でそんな大事なこと忘れるんだよ!このスカタン!あの人置いてくとこだったじゃないか!」


「ま、まあいいじゃねえか。ちゃんと思い出したんだからさ……」スピナは恥ずかしそうに頭を掻いた。「ボートは念のための手段だったわけだから……それより、とにかくこっちが味方だってことを伝えないと!」


誤魔化すようにそう言うと、スピナは少女に向かって大声で叫びながら両腕を大きく振った。


「おい!あんたがテンダで間違いないのか?おいらたちは味方だ!」


しかし少女は何の反応も見せなかった。聞こえない距離ではないはずだが、とスピナは首をかしげた。


―……というか、止まる気あんのか?この勢い……。


「ねえ、スピナ。あの人も兵士に追われてるみたいだよ。とりあえず僕らだけでも先にボートに乗っておこうよ」


プロップはそう言って少女の後方を指さした。スピナもそちらに目をやり、それから自分たちの追手も間近まできていることを確認した。


「よし、プー、お前だけ先にボートに乗ってろ!」スピナはプロップの肩を叩いた。「おいらはあの女を援護する!」


「……うん、わかった。気をつけて!ボートはいつでも動かせるようにしておくよ!」


プロップは少し迷ったが、スピナの提案が最も効率が良いと判断し、素早くロープ伝いに川岸を降り始めた。


「おう、そっちも気をつけろよ!」


プロップに一声かけると、スピナは軽く柔軟体操をして腰に下げている短剣を抜いた。


それは鞘も、柄も、そして刀身も、すべてが美しく輝く赤い短剣だった。


「ミシュ、今日も頼むぜ!」


スピナの声に呼応したかのように、その短剣はまばゆい光とともに一瞬にして持ち主の背丈とさほど変わらないほどの長さの大剣へと姿を変えた。





◆7◆




―何なのかしらあいつら……。


二人の少年のうちの一人が自分に向かって何事か叫びながら大きく手を振っていたが、怒りと焦りでほとんど耳に入らなかった。


―あたしの名前を呼んだ……?いや、そんなはずないわ。


この国で自分を知っている人物は限られている。そのはずだった。しばらくすると、叫ばなかった方の少年がロープを伝って川へ降りていくのが見えた。


―やっぱりあそこにボートがあるのね……あいつらは何者?


そして信じがたい現象と直面することになった。残った少年が腰の短剣を抜いたかと思うと、一瞬の光とともにその剣が巨大化したのだ。


―何よあれは……っていうかあたしを斬る気?


この少年たちは敵と見た方がよさそうだ、とテンダは気を引き締めた。あのフロルといい、この国は一風変わった刺客を抱えているようだ。


―先回りされてた……?情報が漏れてる……?ティトは無事かしら……。


少し迷ったが、ドレスの裾をつかんでいる指の間にかろうじてぶら下がっているハイヒールを捨てることにした。


それからやや自由になった片手を胸元に入れ、中にある小さな紙袋を取り出した。


―もう魔法は使えない……でもこんなところで捕まるわけにはいかない!


そしてついに巨大化した短剣を持つ少年のすぐ側へとたどり着いた。


「よう、あんたがテンダだな?おいらたちは―」


「いい加減しつこいのよあんたたち!」


少年が口を開くやいなや、テンダは紙袋を彼の顔目がけて思い切り投げつけた。それは見事に命中し、破れた紙袋から黄色い粉が飛び散った。


「な、何すん……だ、これは……催涙粉……?」


少年は剣を持っていない方の手で顔を抑えながらうずくまり、激しい咳とくしゃみをした。


「おとといきやがれってんだわ!」


足を止めて少年に中指を突き立てると、テンダは川を覗き込んでロープとボートの存在を確認し、一度だけ振り返って追手の位置を確認すると、素早くロープを伝って川岸を降り始めた。


今や裸足になっているため、岩肌が冷たく足の裏に突き刺さる。怪我をするかもしれなかったが気にしている余裕はない。


「やあ、あなたがテンダさんですね?上のスピナは大丈夫そうですか?」


テンダがボートに降りると、先に降りていた少年が駆け寄ってきた。


「あたしをなめんじゃないわよ!」


テンダは一喝すると、呆気にとられている少年の両肩をつかみ、渾身の力で腹に膝蹴りを見舞った。そして悶絶している少年の背後に回ってズボンのベルトを掴むと、気合いの一喝とともに川へ投げ飛ばした。


少年の悲鳴とその体が川に落ちる音だけを確認し、テンダは振り返りもせずに船首の方へ移動した。


―で、これどうやって動かすわけ?


ボートには一人がけの操舵席があり、何かしらの装置やメーターがそこら中にあったが、テンダには何が何だかさっぱりだった。


―エンジンつきのボート……か。


今さらながらボート全体が小刻みに揺れており、ぶうんと何かの音が鳴り続けていることに気づいた。


―エンジンはかかってるんだよね?オートバイと同じ……と思っていいのかな?


随分前に一度だけオートバイを動かした時の記憶を懸命に手繰りよせたが、このボートを走らせる自信を築けるほどの記憶は手に入らなかった。


―まあ、でもだいたいあれがハンドル的なやつで、んでどっちかがアクセルでどっちかがブレーキじゃない?……ギアは?ミッションで変えるの?……それらしいのないわね……でも水の上走るわけだし……いいや、ごちゃごちゃ考えても仕方ない!進めばそれでいいんだから!


そして気を取り直して操舵席に着こうとしたが、すぐに停泊用ロープを外していないことに気づき、ため息をついて船尾へ引き返した。


「テ……テンダさん、誤解だよ!あなたは大変な間違いを犯している!僕らは味方なんだ!」テンダがロープを外していると、先ほど川へ放り込んだ少年が、水面から顔だけを出して必死に何事かを訴えかけてきた。「ティトさんから僕らのことを聞いていま―」


「うるさいわね!この国のやつは誰も信用出来ないのよ!」


テンダは近くに置いてあった小さなガラスの瓶を手に取って少年に投げつけた。


少年はわっと叫んで水面下に姿を消した。瓶は少年のすぐ近くに落ちた。


水面に向かって中指を突き立てると、テンダは岩で押さえてあったロープを外して操舵席に戻った。疲労がたまり、体はどんどん重くなっていく。


―でもここまで来たらもう安心よね……ゆっくりいきましょう。ボートに乗ってる間は休めるし―


一息ついた後、テンダとしてはゆっくり優しくアクセルを踏んだつもりだった。しかしそれは決して発進に適した力加減ではなかった。


甲高いテンダの悲鳴が響き渡った。急発進したボートの上で体全体を強ばらせながら、幸か不幸か疲労を忘れることができた。


「ああ!……でもちょっと楽しいかも!」


激しい水しぶきを上げながら、ボートは勢いよく川を下って行った。




◆8◆




「ちっくしょう……あのアマ……」スピナは目、鼻、喉を襲う激しい痛み、咳、くしゃみと必死に戦っていた。まだうずくまったまま起き上がれずにいる。「何でおいらがこんな目に……」


ようやく痛みが少し治まり始めた頃、ボートが走り去って行く音が耳に入ってきた。


―プー?おいらを見捨てたのか……?幼なじみのおいらを?……いや、違うか、あいつもあの女にやられちまったんだな……。


「ようやく追いついたぞ!このクソガキめ!」


落ち込む間もなく、次は複数の足音と金属がぶつかり合う音とともに、男の野太い声が聞こえてきた。


顔を上げると、すでに周囲は肩で息をしている兵士たいにすっかり取り囲まれてしまっていた。


「今の音は……そうか、川にボートを用意してあったのか。で?お前は仲間に見捨てられたのか?」


スピナの一番近くにいる兵士がそう言って勝ち誇ったように鼻で笑った。


―一、二、三、四、五人か……何とかなるかなあ……。


スピナは嫌みの言葉を無視して冷静に兵士の人数を数えた。


いずれの兵士も小剣を腰に下げてはいるが、さすがに槍や弓を持ってくる余裕はなかったと見える。


―隙をつけば切り抜けられるか?でもどこへ逃げる?


「おい!これはどういうことだ?」


しかし、程なくしてスピナのあらゆる計算は水泡に帰すこととなった。テンダの来た方向からも兵士がやって来たのだ。


「王宮内の侵入者を追ってきたのだ。そちらこそ何をしている?」


スピナに話しかけた兵士が後から来た兵士に答えた。お互い状況があまり把握出来ていないようだった。


「街外れで不審な少女を見かけた。話しかけようとしたら逃げ出したので後を追ってきた……そうか、やはり侵入者の小僧たちと関係があったみたいだな!」


―一、二、三、四、ちっくしょう、全部で九人になっちまった!くそったれめ!かくなる上は……それにしてもあのアマ、今度会ったら絶対ぶっ飛ばしてやる!


「よう、おっさんたちさあ、さっきからガキだの小僧だの随分なご挨拶だよなあ!」


スピナは体勢を整え、唾を吐き、上着の袖で鼻水を拭って剣を構えた。いつからか剣は短剣に戻ってしまっていた。


「ミシュ、悪いけどもう一度頼む。それから水に濡れることになるけど、後でちゃんと手入れするから勘弁してくれよな」


兵士たちを睨みつけながら、スピナは短剣にそっと囁いた。


「何をぶつぶつ言っている?気が触れたか?」


兵士の一人が顔をしかめながら間合いを詰めてきた。短剣をまったく恐れていないといった様子だ。


そちらへ目をやった次の瞬間、背後にいた別の兵士が素早くスピナにつかみかかり羽交い締めにした。


「おとなしくしろ!もう逃げられんぞ!」


「ミシュ!起き上がれ!」


スピナの叫びに応え、赤い剣は再び光を放った。兵士たちは全員反射的に顔を手で覆って目を瞑り、スピナを羽交い締めにしていた兵士はその手を離してしまった。


―今だ!行くしかない!


解放されたスピナは、躊躇うことなく勢いをつけて川へ飛び込んだ。


長い滞空時間。危険だったが目を開ける勇気はなかった。剣を握っている右手と、鼻をつまんでいる左手をそのまま維持することだけに意識を集中した。


しかし下腹部に込み上げてくる不快感が容赦なく襲って来る。死にはしねえよと必死に自分を鼓舞していたのも束の間、衝撃とともに水の冷たさが全身を襲った。


「あのガキ一体何を?……あの光は……?」


最も早く目を開けた兵士でさえ、川に飛び込むスピナの姿を視界の端にとらえるのがやっとだった。そのため実際には大剣の姿を見ていたのだが、それは見間違えだろうと片付けてしまった。


「川に飛び込んだのか?馬鹿な!」


目を開けた兵士たちが次々に川を覗き込んだが、スピナの姿はどこにもなかった。


「どうしましょう?」


兵士の一人が誰にともなくそう言った。


「川に飛び込むわけにはいかんだろう……危険すぎる!誰か一人は王宮へ戻り報告を……残りは川下へ向かうぞ!いずれは陸に上がらないわけにはいかないのだからな!」





◆9◆




スピナは元の大きさに戻った短剣をズボンのベルトにひっかけて、しばらく水中に潜ったまま平泳ぎで川上へ進もうと試みたが、流れに逆らうのは到底無理だった。


兵士たちは川下へ向かうはずなので裏をかきたかったのだか諦めるよりほかなさそうだ。


息継ぎと短剣を鞘に収めるために水面から顔と手を出すと、自分の名を呼ぶプロップの声が聞こえてきた。


「スピナ!大丈夫?」


あたりを見渡すと、少し離れたところにプロップの頭を見つけた。あいつも川に落とされたのか、とスピナは苦笑した。


「一応な……ちょっと体が痛えけどよ……そっちは大丈夫か?」


「まあ、なんとかね……で、これからどうする?」


「どうするもなにもないさ!陸に上がれそうな場所まで泳ぐしかないだろ!」


スピナは川下の方を指さしながらそう言うと、短剣を鞘に収め、再び水面に潜って泳ぎ始めた。


「結局プランCだね……まあ僕ららしいけどさ」


深呼吸をしてプロップもスピナに続き泳ぎ始めた。


冷たい川の水を吸収していく衣服と同様に、彼らの心も次第に重くなっていった。





◆10◆




ようやくエンジンを切る方法を理解すると、テンダはほっと一息ついた。辺りは夕日で赤く染まりつつあった。


勢いに任せて川を下り、ようやく湖にたどり着いたまではよかった。しかし試行錯誤の末に減速の方法は身につけたものの、完全に停止させる方法がわからず、結局桟橋に何度かボートをぶつけることで乗り切った。


ところが今度はエンジン停止の方法がわからない。いろいろいじくり回した結果、ハンドルの脇に鍵らしきものがささっていることに気づきそれを回したのだった。


「天才はなんでもできちゃうから天才なのよ……」


鉛のように重い体に鞭を打ち何とか立ち上がると、停泊用のロープを桟橋の杭に巻きつけた。そして桟橋に上がろとしたところで、ふとボートにリュックサックが置いてあることに気がついた。


―こんな物あったんだ……って誰の?


中身を探ってみると、ナイフや小銭、乾パンと水が入った革袋、そして男性用の衣服が入っていた。


収納の乱雑さや衣服の汚さに顔をしかめながら、ふとあの少年たちのことを思い出した。


―これってあいつらの……?


"スピナは大丈夫そう―"


"ティトさんに雇われ―"


神の啓示のように、テンダの脳が先刻の記憶、少年の言葉を呼び覚ました。


―そう、確かにそう言った……ティトって……スピナ……スピナ、スピナ!


徐々に蘇る記憶の量に反比例してテンダの体温が下がっていった。


「あ……しまった!」


“ちなみに―”


―ティトの話の続きは……。


“ちなみに、街で雇った少年たちもいざとなったらそのボートを使うことになっています。ですので逃走の際にはぎりぎりまで待機して下さい……もっともテンダ様には"あの力"がある。ボートを使わなければならない事態に陥ることは考えにくいですが……そうそう、少年たちの名前は―”


「スピナとプロップ……」


テンダは両手で口を抑えて膝をついた。


―ああ……やっちゃった……。




◆11◆




「もう限界だよ……」


「おいらも……だ」


スピナとプロップはパンツ一丁の姿で、予め示し合わせていたかのように二人同時に草むらに倒れ込み、仰向けに大の字になった。


背中がちくちくとむず痒く、草木の青臭さや泥臭さが鼻を突いたが疲労でそれどころではなかった。


川を泳いで下っていた二人は、やがて上陸できそうな場所にたどり着いた。


そこは道らしい道もなさそうな森の中だったが、これ以上泳ぐよりはましと判断して這いつくばるように上陸した。


それからは特に言葉を交さず、川の水を存分に吸ってすっかり重くなった衣類とブーツを脱ぎ、黙々と水分を追い出す作業に没頭した。


一通り作業を終えて二人はようやく一息ついたのだった。


木の枝に干している衣類が風に揺れており、そのゆらめきが二人の眠気に輪をかけた。


「ところでスピナ、君の目真っ赤だけどどうしたの?」


スピナがうとうとしかけた頃、プロップが首だけを動かして話しかけてきた。


「ああ、あの女……催涙粉投げやがったんだ」


スピナは軽く目をこすりながら顔をしかめた。忌々しい少女の顔が頭の中をちらついた。


「今度会ったらぶん殴ってやる!」


「だめだよ、女の子殴るなんて」


スピナも首だけを動かしてプロップを見た。


「おい、あれが女か?お前だってひどい目に合わされたんだろ?」


「まあね。思いきり蹴られて川に投げ飛ばされたよ……」


プロップは苦笑しながら膝蹴りをくらった腹の辺りをさすった。触るとまだ少し痛んだ。


「本当かよそれ……"メスゴリラ"ってとこだな……人間じゃねえよ」


「でもさ」突然プロップの表情に灯りがともった。「結構可愛いかったよね?」


「……何言ってんだお前?」


片方の眉を釣り上げ、スピナは正気か?という顔をした。


「それにさ、胸だってなかなか……僕らと同い年くらいかな?十六、七だよね多分」


プロップはそう言いながら両手で自分の胸の上に曲線を描いた。スピナは、もしも今自分の体力に余裕があったなら、もう一度こいつに水泳を楽しませてやったに違いないと苦々しく思った。


「バカじゃねえの……もう喋んなよお前」


「本当に可愛いって少しも思わなかった?」


相手の苛立ちなどお構いなしというように、プロップはいたずらっぽくにやりと笑った。


「黙れ!」


「ちょっとくらいは思ったでしょ?」


「殴るぞ!」


「ほんのちょっとのちょっとくらいは絶対思ったって!」


「そりゃあ、まあ―」ちょっとくらいはな、と言いかけてスピナは慌てて言葉を飲み込んだ。傍らに置いてある短剣から冷たい視線が送られたような気がしたからだ。「いいや、思わねえよ!たったのこれっぽっちもな!まったく全然だバカ野郎!」


ふんと鼻を鳴らしてそう吐き捨てると、スピナは傍らに置いてある短剣に手を置いた。


―ミシュ、おいら君以外の女なんて何とも思ってないんだ……本当だよ。今のは馬鹿でお喋りな幼なじみにつられてしまっただけさ。


「君はまた短剣とお話してるのかい?」


スピナの様子を見てプロップは突然弾けたように笑い出した。


頭にきたスピナは何か言い返してやろうかと思ったが、もはや怒る体力さえ惜しいほどに疲労していたため無視することにした。


しばらくしてプロップの笑い声が止むと、どこかからカラスの鳴く声が聞こえてきた。


二人は自分たちの周りの景色が真っ赤な夕日に染まっていることに今更ながら気がついた。





◆12◆




―ま、いっか。やっちゃったもんは仕方ないわ。


テンダは自分にそう言い聞かせ、よしっと声を出して気持ちを切り替えようと努めた。


そしてボートから桟橋へ上がりかけたが、やはり後ろ髪引かれる思いを拭い去ることができずに動きを止めた。


催涙粉を投げつけた少年は兵士から逃げられただろうか。川に投げ落とした少年はカナヅチではなさそうだったので、あるいは今頃どこか安全な場所までたどり着いているのかもしれない。


いずれにせよ、あの二人にとって今日は人生で五指に入るほどの不幸な一日になるだろう。


そう考えながらテンダは胸元に入れてあったボートの鍵を取り出し、手の平に乗せてじっと見つめた。


―今から探しに行こうかな……せめて川に投げ落としたやつだけでも……。


しかしそれは効率が悪いように思えた。もう一度ボートを動かす自信も体力もない。


やはりここは一旦集合場所へ向かい、ティトと落ち合ってから少年たちを助ける手立てを相談するのが最善だろうという最終的な判断を下した。


一縷の望みではあるが、もし奇跡的に少年たちが無事だったとしたらきっと集合場所に来るはずだ。下手に自分が捜し回っては行き違いになる可能性もある。


―きっとどうにかなる……どうにかなるわ……。


テンダはリュックサックを背負った。よく見てみると、少し離れた位置に棒状に折り畳まれたテントがあることに気づき、それも拾い上げた。


逃走中に道に迷った場合等、有事に備えて少年たちが用意してあったのだろう。


―これを運んでやるくらいはしなきゃね……。


そしてボートから桟橋へ移ろうとしたが、荷物の重みで危うく背骨を折るところだった。少し考えて、先に桟橋へ荷物を投げ込んでから移動すればよいということに思い至った。


「ああ、お腹空いた……」


無意識にそう呟いてしまった自分がやけに腹立たしく思えた。


―そんなことどうでもいいよね……今日は……今は……。


夕日が沈みかかり、間もなく暗い夜が訪れようとしていた。


テンダは集合場所である"コヒの村"を目ざし、南へ向かって歩きだした。




◆13◆




「そろそろ行こうか、スピナ」


「ああ、そうだな」


夜が近づき少し肌寒くなってきた。スピナとプロップは立ち上がって木の枝に干してあった衣服を取り込んだ。


やはりまったく乾いておらず、二人はズボンとブーツだけ履いて上半身は裸のままでいることにした。


「よし、行くか!……プー、ところでどこ行きゃいいんだ?」


プロップはスピナの背中に平手打ちを食らわせた。


「痛えな!何すんだよ!」


「コヒの村の"ジドの店"が待ち合わせ場所でしょ!何でもかんでも忘れるんだな君は!」


今度はスピナがプロップの背中を叩いた。プロップはぎゃっと叫んだ。


「それは忘れてねえよ!おいらが聞いたのは"南はどっちだ?"ってことさ!」


「夕日の位置でおおよそわかるだろ!このスカタン!」


プロップはスピナの肩を目がけて拳を放った。スピナは笑いながらそれをかわしてプロップの手首をつかむと、自分の方へ引き寄せて逆に相手の肩に拳を見舞ってやろうとしたが、強く手を引かれて抵抗された。


両者とも野犬のような唸り声を上げながらしばらく引っ張り合いをしていたが、出し抜けにスピナが手をぱっと放したためプロップはよろめいて尻餅をついた。


すぐに立ち上がり、もう怒ったぞと叫ぼうとしたが、スピナの大きなくしゃみで思わず言葉を飲み込んだ。


「なんだよ……風邪ひいたの?」


プロップの質問には一切答えず、スピナは鼻水を撒き散らしながら立て続けに何度もくしゃみをした。


「なんとかは風邪ひかないっていうけどね」


そう言いながらもプロップは少し心配になってきた。


「いや……風邪じゃ……なくて」スピナはようやく喋り始めた。「催涙粉……あれがまだ効いてるらしい……鼻の中のどっかに粉が残ってるんだな」


「もう、仕方ないなあ。……顔をこっちに向けなよ。多分一回だけなら使えると思うから」


プロップはため息をつきながらスピナの額に右手を置いた。


「大丈夫なのか?今の体力で魔法なんか使ってさ。ぶっ倒れたら置いてくぞ」


「治してやろうってのに他にましな言葉は言えないの?……まあいいや、多分大丈夫だよ。じっとしてて」


スピナは言われた通りにしたが、あまり気分は良くなかった。プロップの魔法に助けて貰うのは初めてではなかったし、もちろん感謝もしているのだが、魔法をかけられている"間"がどうしても好きになれない。


目の前で呪文を詠唱されると、何だか学校の教師に説教されているような気分になるからだ。


「クブ神の子、プロップの名において命ずる……」スピナの気分などお構いなしに、プロップは目を閉じて詠唱を始めた。「慈愛の鎖で繋がる生命の車輪、その輝きにて我が隣人を癒せ……エ・ト・ティ・アズ……」


プロップの手の平から淡い緑色の光が放たれて一瞬で消えた。


「お、ばっちり治ったみたいだ。あんがとよ!」魔法が終わったと見るや、スピナは二、三回深呼吸をして鼻の具合を確かめると、それからばちっと音がするくらい強くプロップの肩を叩いた。「それにしても、いつ聞いても呪文ってダサいよな!」


「一言余計だよ……」プロップは呆れ顔でため息をついた。「そんなんだから君には魔法が使えないんだ……まあ、熟練者になれば心の中で詠唱するだけで発動させられるから、僕の腕が上がるまではこれで我慢してよね」


「頼むぜ!聞いてる方が恥ずかしいからよ!」


プロップは、スピナの尻を蹴飛ばしてやろうとしたが、小走りでかわされてしまった。


「もういいや、アホらしい……。さっさと行こうよ!もうすぐ夜だし」


「ああ、そうだな。食い物もなんにもないしな……あの女のせいでよ」


「あ、そう言えばコヒ村でまたテンダさんと会えるね!彼女もそっちに向かってるんだろうし……楽しみだね!」


にやにやと笑っているプロップの顔を冷ややかに眺めながら、スピナは腕組みをして考え込んだ。


―あのアマ、何て言ってやろうか……荷物をなくしたりしてやがったら?……そん時は絶対にぶっ飛ばしてやる!そうさ、プーが何と言おうとも絶対にだ!




◆◆◆





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