〈Ⅱ‐Ⅷ〉招かれざる客(中編)
◆1◆
マーサとフロルが急な知らせを受け、再び聖騎士団屯所へと引き返した時には、既に日付が変わっていた。
当然だが昼に来た時とは違い、エクスカンダリア中央区は静まり返っており、また、聖騎士団屯所は、照らし出す松明と深夜の闇によって、物悲しくも美しい建物へと変貌していたが、ふたりはそれらの風景を一切楽しむ余裕はなく、早足でプロップの元へと向かった。
すっかり待ち侘びた様子で屯所の入り口付近をうろうろとしていたストロス卿は、マーサとフロルを見るなり挨拶もそこそこに、すぐさま一階にある医務室へと案内した。
ストロス卿がドアをノックしてふたりが来たことを知らせると、プロップは少し緊張気味の声でドア越しに一同を迎え入れた。
プロップはベッドから半身を起こしたまま、部屋に入って来たマーサとフロルを笑顔で交互に見た。マーサは飛びかからんばかりの勢いでプロップに抱きつき、知らせを聞いて自分がどれほど心配したかということを涙声で訴えた。
「私とフロルは既に家に戻っていたのよ。夜がふけてもあなたが帰ってこないから、何かあったのかとふたりで話していたの。そしたら聖騎士団の使いの方がみえて、あなたが事件に巻き込まれたって言うじゃない。驚いてすっ飛んで来たのよ」
「すいません」プロップはマーサの気持ちを嬉しく感じながらも、照れ臭いので早く体を離してくれないだろうかと思った。「何だかいろんなことが起こりまして……」
「体は大丈夫?」マーサはようやく体を離し、改めてプロップの様子を慎重に確認しながら訊いた。「暴漢に襲われたんですって?大怪我はしていないって聞いてるけど」
「はい、大丈夫です。少し眠れましたので、今はちょっと目が冴えちゃってるくらいです」
「プロップ、これからすぐに話し合いたいんだが構わないか?お前に起こったことについて、私と奥方はまだ詳しく聞いていないし、それに、私たちからお前に知らせておきたいこともあるんだ」
フロルは素早く部屋中を見渡しながら訊いた。部屋には自分たち三人と入り口に立っているストロス卿以外は誰もおらず、天井裏や床下、廊下や隣室にも人の気配がないことを確認した。
「ええ、構いません」
プロップ答えた。マーサとは対照的に冷静沈着なフロルに感心したが、あるいは彼女は特に自分を心配していないだけなのかもしれないなと思い直した。
「少し長い話し合いになっても構わんかね?」ストロス卿が口を開いた。「今起こっていることについて、私も君たちに訊きたいことがある。昼間の件も含めて、すぐに話し合いをしたい」
「わかりました、閣下」
プロップはにわかに緊張した。自分も含め、この部屋にいる全員が多少混乱していることに気がついた。すべての答えを所持しているものはひとりもおらず、全員が手持ちのカードを出し合って答えを完成させる必要があるのは明らかだった。
「閣下、この部屋は“安全”ですか?」
フロルがストロス卿に訊いた。
「ああ、“安全”だよ。実は誰も近づかぬよう既に手配しておいたのさ。すぐに重要な話し合いが始まるだろうと予想していたんだ。会議室も用意できたが、プロップ君は安静にしていなければならない。このままここで話し合いを始めよう」
ストロス卿はそう言いながら部屋の角へ移動し、そこに並んでいた小さな腰かけを、ベッドにいるプロップの視線の前にくるように三つ配置し、即席の会議室をこしらえた。そしてイメッカの流儀にのっとり、ふたりのレディを優先的に座らせようとした。マーサは礼を述べて座ったが、フロルはこのままで結構ですと言ってベッドのそばに立ったまま腕を組んだ。ストロス卿は特に強制しようとはせず椅子に座った。
「まずはプーちゃんが襲われた事件について教えてちょうだい」
マーサがそう言った。プロップは詳細に自分とアリスに起こったことを話した。聖騎士団員に既に何度も話していたため、プロップは自然と語り口がスムーズになっていた。
ジェニファー・アイニコワという絵本作家を訪ねたこと、目を離した隙にアリスが連れ去られたが、慌てて追跡しなんとか救出したこと、マンホールの中へと逃げて行った人さらいがどんな男だったか、自分に何と言ったかということも話した。(ただし、何故アイニコワを訪ねたのかということには触れなかった)
プロップが一通り話しを終えると、ストロス卿がいくつか補足した。
「騒ぎを聞きつけたシティーガードがふたりを現場で保護した。その直後にアイニコワ氏が現場へ現れ、自分はその子たちの関係者だ告げた。それからシティーガードたちがここへ三人をお連れしたという次第だ。ちなみにアリス君とアイニコワ氏は、少し離れたところにある別の部屋で眠っているよ。プロップ君もそうだが、皆しばらくはここに滞在して頂くことになるかもしれない」
「ねえ、プーちゃん。もう一度言って」マーサは静かに訊いた。「その人さらいがあなたに言った言葉を。お願い」
「は、はい……」プロップは内心首を傾げた。マーサの顔がすっかり蒼白になっていたからだ。「“ミザリィスティアは探している”、“ミザリィスティアは求めている”……確かそう言ってました」
「閣下、やはりそうなのですね?プーちゃんたちを聖騎士団が保護した理由は。帝国軍ではなく聖騎士団の“管轄”。そうなのですね?」
マーサはストロス卿を問い詰めた。
「そう言えば、僕も気になっていたんです。何故聖騎士団なのかなって」プロップも訊ねた。「もしかして、僕がマーサさんの関係者だからかなとも思ったんですが、やっぱり他の理由があるんですね?」
ストロス卿は険しい表情を浮かべ、ふむむと唸ったまま何も答えなかった。
「単なる狂人の戯れ言では?」フロルがマーサに言った。「その言葉に何の意味が?ミザリィスティア?おとぎ話の悪魔の名前ですか?」
「あの、フロルさん」マーサより先にプロップが口を開いた。「おとぎ話なんかじゃありません。ミザリィスティアは実在します……少なくとも僕はそう考えています……そして、そいつは僕たち全員に関係があるんです」
プロップがそう言うと、途端に部屋の空気が重くなった。他の三人の顔色が一気に変わった。マーサとストロス卿は驚きで目を見開いた。フロルは険しい表情でプロップを睨んだ。
「どういう意味だ?プロップ、お前は何か大事な情報を持っているな?言ってみろ」
「えっと、あの……」プロップは部屋から逃げ出したい気分になった。フロルの声に殺気めいたものを感じた。「そ、そうだ。フロルさん、閣下の前でこの話をしてもいいんですか?僕たちのことや、マクスカのことですが……」
「構わん。閣下は既に我々の事情をほぼご存知だ」
フロルは即答した。
「わかりました……」プロップは少しためらってから言葉を続けた。「赤い仮面の男がスピナに言ったそうです……玄烏賊の洞窟で……“イメッカヘ行ったら、最初に生まれた悪魔に気をつけろ”と」
「何だと?」フロルは鬼の形相になった。「どうしてそんな大事なことを今まで黙っていたんだ?いいかプロップ、それは我々全員の命に関わる重大な情報だぞ!そうと知っていれば、誰も別行動などさせなかった!」
「ご、ごめんなさい」プロップの声は震えた。マーサとストロス卿がいなければ、陸亀が甲羅に身を隠すように素早くシーツの中に潜り込んでいたに違いなかった。「僕もすぐにスピナからそれを聞いたわけじゃなかったですし、にわかには信じられませんでしたし、みんな何だかんだで忙しかったですし……」
「スピナのやつめ。山から戻ったら思い知らせてやる」
フロルはプロップから視線を外し、舌打ちしながらぼやいた。
「最も気になる質問をしてもいいかね?」ストロス卿が口を挟んだ。「ミザリィスティアが君たちを狙う理由は何かね?何か心当たりがあるのか?」
「それにはお答えできかねます」
フロルは意味ありげにプロップへ目配せをしながら答えた。プロップはその意味を瞬時に理解した。自分とスピナだけの秘密、さらには、恐らくテンダの秘密についても、ストロス卿には話していないということに違いなかった。
「せめて、心当たりがあるのかどうかだけでも答えてはくれぬか?ミザリィスティアについては、情報を共有するほうがお互いのためだぞ?」
「いくつか心当たりはあります」フロルより速くマーサが答えた。「ただし、それは推測の域を出ません。我々は誰も仮面の男やミザリィスティアの正体と目的をはっきり理解できているわけではありませんから」
「先ほどからお二人ともどうも変ですね」フロルはマーサとストロス卿を交互に見た。「ミザリィスティアの存在を疑っていない……と言うより、まるでミザリィスティアが実在していることを“とっくに知っていた”……そういう風に聞こえます」
「いくら漆黒のフロルと言えど、やはりそれは知らなかったか」ストロス卿は独り言のようにつぶやき、自嘲的に笑った。「そうとも。はっきり言うぞ。いいかね?ミザリィスティアは実在する。聞こえたかね?もう一度言うぞ。ミザリィスティアは実在する。これは紛れもない事実だ。ミザリィスティアが生み出す“悪魔”、これも実在する。必要とあらば、物的証拠を見せることもできるぞ」
ストロス卿が言い終えると、部屋には重苦しい沈黙が落ちた。
プロップは身震いした。ミザリィスティアが実在しているということは既に自分の中に確信として存在していたことだが、こうして他人の口から聞かされることにより、初めて強い現実味を帯びてきた。しかしプロップの体を震わせたものはそれがすべてではなかった。もうひとつの大きな要因は、“ストロス卿がそれを言った”ということだった。
帝国聖騎士団の団長。イメッカ帝国における重要人物のひとり。当然ながら押しも押されもせぬ立派な人物だ。
そのストロス卿が今この狭い部屋で“最初に生れた悪魔が実在している”と発言した。冗談で何でもなく、きわめて真剣な口調で発言したということ。
それはつまり、目に見えぬ巨大な竜巻がそこにあり、自分は知らぬうちにそれに飲み込まれてしまったということ。きっとそういうことなんだとプロップは感じた。
「まさか……“それ”は本当だったと?」フロル呆れたように笑った。「帝国聖騎士団は密かに“悪魔討伐”をしている……そんな噂を聞いたことがありましたが、それは諜報活動をカムフラージュするために聖騎士団があえて流したデマだと、マクスカではほとんどの者がそう思っていました。悪魔など実在しないと。この私もそうだと思っていたのですが……」
「“裏の裏は表”ということさ。白状してしまおう。聖騎士団は実際のところ諜報活動を行っている。しかしそれはあくまで“ミザリィスティア”の情報を入手することを最大の目的としているのだ。そして悪魔討伐の噂も我々が自ら流している。つまりこうだ。他国は、我々が諜報活動のカムフラージュとして悪魔討伐をうたっていると考える、しかし実際に我々がカムフラージュしたいのは悪魔討伐のほうなんだ。それをあえて“表”にすることにより、我々は皆を欺いているわけだ」
「なるほど……なるほど……そういうことが……」フロルは深く思案しながら、ゆっくりと噛みしめるように言った。「しかし、どうして聖騎士団が悪魔討伐を?何の目的が?」
「どうして聖騎士団が悪魔討伐をしているかって?」ストロス卿は声を上げて笑った。「そもそも帝国聖騎士団とは、ミザリィスティアを倒すために作られた組織だからだ。歴史の影に隠された事実だがね。四千年以上も前から、我々聖騎士団は人知れずずっと悪魔と戦い続けてきたんだ」
ストロス卿の言葉により再び沈黙が落ちた。プロップはもはや何も言えなかった。理不尽に対する怒りのような胸苦しさを覚えた。突然舞い込んだあまりにも大きな情報を一体どう処理しろというのか。
「閣下の仰っていることは本当よ」しばらくして、マーサが付け足すように言った。「ティトは、悪魔が関係しているいくつかの事件の解決に手を貸したの。だけど、まさかミザリィスティアがプーちゃんたちに関係していたなんて夢にも思わなかったわ」
マーサが言い終えても、フロルとプロップは黙ったままだった。プロップはちらりとフロルを見た。彼女は腕を組んで眉間に皺を寄せていた。さすがのフロルも情報整理に時間がかかっているに違いないと思った。
「皆少し混乱しつつあるな」やがてストロス卿が口を開いた。それは無意識のうちに彼が身につけた指導者独特の声だった。「今起こっていることも含めて、順を追ってすべてを説明するよ。いいかな?」
ストロス卿は一同を見渡した。特に誰も反対する者はいなかった。
「A・T元年。話はここから始まる。始皇帝トゥールが大陸を統一し、イメッカ帝国が誕生したこの年に帝国聖騎士団も誕生した。その最大の目的は、誰にも知られることなく密かにミザリィスティアを倒すことだ。表向きには双神教の布教を行いながら、裏ではミザリィスティアを追い、彼女のしもべである悪魔どもと戦っていた。それから現在に至るまで四千年以上も戦いは続いているが、未だにミザリィスティアを倒すことはできていない」
「どうして“誰にも知られることなく密かに”戦う必要があったのですか?」
フロルが質問した。
「大きな理由はふたつある」ストロス卿はその質問を予想していたかのように素早く答えた。「ひとつは民に悪魔の存在を知られたくなかったからだ。帝国が誕生し、多くの人々が神への信仰を取り戻しながらラジアス全体が平和へと向かっている最中に、実はミザリィスティアが今もなお人々を襲っているという事実を広めるわけにはいかなかった。再び混乱が世界に広がってしまうかもしれなかった」
「なるほど。そして、もうひとつの理由は“英雄王伝記”ですか?」
フロルは得心の表情を浮かべた。
「君には驚いたよ、フロル・ラウラン。今の話だけでそこまでたどり着くとはね」
ストロス卿は心から驚いた表情を見せた。プロップはフロルの言葉の意味がわからず混乱した。
―英雄王伝記?そう言えば図書館でそれについてチラッっと何か読んだよね……何だっけ?
しばらく考えた後、プロップはとりあえずしばらく質問はせず、じっくりと話を最後まで聞いてから考えをまとめようと決めた。今はただ、目の前で開示されていく巨大な歴史の秘密の重さに押し潰されないようにするだけで精一杯だった。
「英雄王伝記によれば、トゥールはミザリィスティアにとどめを刺さず見逃したということになっている」ストロス卿は話を再開した。「“ミザリィスティアが約束を破れば彼女は身を滅ぼす”と言ったそうだが、それは大きな過ちだったらしい。ミザリィスティアは約束を違え、また人を襲い始めたのだ。皇室としては、始皇帝の過ちを公にしたくなかった。密かに正そうとしたんだ」
「どうして英雄王伝記を脚色しなかったのでしょうか?」フロルが訊ねた。「とりあえず、“ミザリィスティアは完全に滅びた”とでも書いておけばよかったのでは?」
「確かにその通りだが、どうやら始皇帝ご自身がそれを望まなかったらしい」ストロス卿は答えた。「始皇帝はミザリィスティアを倒した後、すべてを民に打ち明けて謝罪なさるおつもりだったそうだ。民に混乱を招きたくなかったので仕方なく嘘をついていただけで、自らの過ちについて隠すおつもりはなかったが、側近たちは過剰なまでに始皇帝を説得したらしい。まあ、しかし無理もない話だ。当時の状況を考えればな……かつてない平和な時代へとようやく漕ぎ出したところだったのだから」
「トゥール自らが討伐へ赴く訳にはいかなかったのでしょうか?」
フロルは髪をかき上げた。
「不可能だった。当時、始皇帝はもはや自らの意思で城を出ることさえ不可能だったそうだ。帝国ができたばかりなのだ。想像するだに恐ろしいね。やるべきことは無限に近いほどにあったはずだ」
「どうして聖騎士団を民間の組織にしたのですか?それほど重要な目的を持つ組織なら、むしろ帝国の指揮下にあったほうが何かと好都合では?例えば、少なくとも資金面で苦労することはないはずです」
「それは違うよ、フロル殿。メリットは資金面だけなんだ。もし聖騎士団が公的機関だったとしたら、大きな障害ができてしまうんだ」
「小回りが利かなくなる、ということですか?」
「その通りだ。聖騎士団が誕生した時点では、まだ七大国憲章やその他の安全保障条約は作られていなかったが、始皇帝は既に不可侵の条が真っ先に作られるであろうことを予想していたそうだ」
「“重大な危機的事態の発生による自衛権の行使を除き、いかなる軍も連盟の事前承認なく他国へ入国してはならない”……でしたっけ?つまり聖騎士団はそれらの制限を受けずに活動する必要があった」
「まったくその通りだ。悪魔どもと戦うには、常に世界中に聖騎士たちを忍ばせておかねばならない。聖騎士団というのは格好の隠れ蓑なのさ。始皇帝の“提案”により双神教の元となる団体が立ち上げたというだけの組織だからね。と言うより、最も大事なことを忘れていないか?“政教分離”だよ。これも始皇帝の想定の範囲内だったわけだ。そして、これについては単なる建前ではない。為政者により特定の宗派を優遇させるわけにはいかないのだ」
「なるほど。それはごもっともです」フロルは心から納得したという口調で言った。「しかし、よくもこの四千年間、他国に悪魔の存在を確信させずにいられましたね。世界のどこかから歪が生じてもおかしくなかったのでは?」
「帝国にとって幸運だったのは……幸運という言葉を使ってよいものやら……悪魔どもはどういうわけかイメッカ以外にほとんど興味を示さなかったのさ。この四千年間で、イメッカ以外の六大国にいたわずかな悪魔はほぼ我々が壊滅させたよ」
―イメッカ以外に興味を示さない?
フロルもマーサも特にそのことに反応を示さなかったが、プロップは妙に気になって仕方なかった。
―どういう理由があってイメッカにとどまっているんだろう?ラジアスを支配することがミザリィスティアの目的じゃないのかな?仮面の男たちと関係がある?やっぱりミザリィスティアも仮面の男たちのように、スピナの剣やテンダのことを狙っているから?そのことが関係しているのかな?
「まったく、何と言えばいいか……」フロルは深いため息をついた。「このことが公になったとしたら、世界中の歴史学者は全員ショック死しかねませんね。世界の指導者たる英雄王トゥールが、よもや誰よりも先に憲法を破っていたなどと」
「君らしくもない発言だな、フロル殿。指導者とは常に現実主義者でなくてはならないのだ。多くの命を守るためには、“真”が弊害になることのほうが多いのだ」
「おや。それこそ閣下らしからぬ発言では?」
フロルは挑発的に笑った。
「無論オフレコさ」
ストロス卿は肩をすくめた。
フロルとストロス卿の間に、その瞬間にある共有感が生まれた。最初に会った時よりも互いを認め合った。お互いに思っていたよりも相手が視野の広い人物であることを理解した。
「話が筋道から逸れそうになっていないかしら?」マーサが呆れ顔でふたりを咎めた。「先を続けてちょうだい」
「ああ、すまないね」ストロス卿は苦笑した。「さて、今朝のことだが、お二人がここを訪れ、ティト救出の助力を依頼された。私は即決できないと返事をしたわけだが、それは単純にマクスカにおける出来事が複雑で重大なことだからという理由だけではなく、実はミザリィスティアのこともあったからなのだ」
プロップはマーサとフロルを交互に見た。二人ともプロップの無言の質問に答えるように微笑して見せた。聖騎士団との交渉はまあまあ上手くいってるんだな、とプロップは理解した。
「折り悪く、今はミザリィスティアの“交換周期”に入っている」ストロス卿は陰鬱な表情で言った。「今は聖騎士団の主力がエクスカンダリアを離れるわけにはいかないんだ」
「“交換周期”?」
フロルは眉をひそめた。
「まさか……その話は本当なのですか?」
マーサまじまじとストロス卿を見た。
「ああ、本当さ。約三百年周期でそれは起こっている。ミザリィスティアが新しい体に“乗り換える”時期だ。彼女は……ああ、便宜上“彼女”と呼ぶが、彼女の元の肉体はとうの昔に滅んだらしい。言ってみれば彼女は人間の肉体に寄生するのだ。それがお気に入りなのか、何故か毎回美しい少女、十六から二十歳くらいの肉体を狙う。単に飽きたからなのか、“使用期限”が切れてしまうからなのか、理由は定かではないがね」
「今思ったんですが」プロップはここでようやく質問を挟むことにした。単純に抑え切れない好奇心が湧いてきたからというだけでなく、あるひとつの恐ろしい可能性に思い至ったからだ。「ミザリィスティアはそもそも何者なのですか?“最初に生まれた”と言いますが、どうやって生まれたのでしょうか?トゥール王はそのことをご存知だったと思われるんですが、その辺は伝えられていないのでしょうか?」
「もっともな疑問だな」ストロス卿うなずいた。「残念ながら伝えられていないんだよ。始皇帝や当時の皇室は知っていた。初代の聖騎士団はそのことで随分皇室ともめたらしいが、結局は言いくるめられてしまったんだ。皇室の説明はこうだ、“それは双神教崩壊に繋がる大きな誤解を招きかねない”……現在でも帝国最大の機密扱いなんだよ。長い歴史の中で、この機密に腹を立てた聖騎士団の者たちが度々帝国に開示を求めたが、その都度堂々巡りの議論の果てに退けられてきたのだ。かく言う私も退けられたひとりだがね」
「他国などから独自にその情報を入手しようとしているんでしょうね?」
フロルが訊ねた。
「言わずもがなさ。我々聖騎士団の存在意義に関わることだからね。しかし目ぼしい成果は挙がっていない。我々としても、帝国にそう強く反発はできないし、聖騎士団内部でも意見が真っ二つで本腰を入れられないという事情もある。双神教の崩壊を恐れる者も多いのだ。その者たちにとって、それは自分たちの存在意義が崩壊するのと同じだからだ。まあ、気持ちはわからなくもないがね。まったく腹立たしいジレンマだよ」
「そのジレンマを抱えながら四千年も戦い続けられるものでしょうか?いくら双神教信者と言っても、トゥール皇帝の意志と言っても、騎士たちはやる意義を保ち続けられるものでしょうか?」
「ああ、モチベーションなら他にもあるのだよ」ストロス卿は悲しげな表情を浮かべた。「実は聖騎士団の正体を知るものは、団員の六割程度なのだよ。そして悪魔討伐の任務を与える騎士として選ばれる条件は、一部例外もあるが、基本的に“悪魔に深い恨みを抱いている者”なんだ。例えば身内を殺害された、などだ。我々はそう言った者たちを密かにスカウトしている……つまり、この私もそうしてスカウトされて今に至るのだ」
「なるほど、それは興味深い事実ですね」
フロルは独り言のように呟いた。ストロス卿はそれを聞いて眉をひそめ、フロルに何かを訊こうと口を開いたが、プロップの熱っぽい質問がそれを遮った。
「どうして今がその周期だとわかるんですか?もしかして今日の事件は……アリスが狙われたのは―」
「落ち着きたまえ、プロップ君」ストロス卿は冷静にたしなめた。「どうやらミザリィスティアは交換周期に入ると、多くの少女を“候補”として誘拐するらしいのだ。これは、過去の国内の年間行方不明者の軍による記録から明らかになったことなんだが、交換周期には、目に見える形で国内の少女失踪事件が増加するのさ。無論公にはされていない事実だがね」
「アリスも僕と同じ十六歳だ!彼女も“候補”として誘拐されかかったと?あの男は悪魔なんですか?」
プロップの口調はなおも熱を帯びたままだった。想像するだに怒りが込み上げてきた。
「現場に“黄色い粉末”が落ちていたのさ。そして君が目撃したという大男は、恐らく我々が“将軍”と呼ぶ大物の悪魔だ」
「“黄色い粉末”?“将軍”?」
フロルが冷静に訊ねた。
「ああ、悪魔は例外なく事件現場に黄色い粉末を残して行く。意図的にそうしているわけではなく、やつらの体からこぼれ落ちる物らしい。硫黄に近い物質のようだがね。“将軍”というのは、この四千年間で数多く目撃されている悪魔だ。どうやら他の悪魔たちを取り仕切っている司令官のような存在らしい……しかし、今回のように直々に“候補”を誘拐したり、目撃者に伝言を残すといった記録は私が知る限りこれまでなかったはずなんだがな……実はそこが非常に気になっている点でね。もしかして―」
「僕はこの事件が終わるまでマクスカには戻らない!」
ストロス卿の言葉を遮り、プロップはマーサとフロルに向かって叫んだ。
「プーちゃん、落ち着いて」
「おい、プロップ。何を言い出すんだ」
マーサとフロルはほぼ同時に言い返した。
「スピナにもテンダにも……みんなに申し訳ないけど、僕は絶対にアリスを見捨てられないんだ。みんなと袂を分けることになっても構わない。僕はエクスカンダリアに残るよ」
プロップは迷いなく言い切った。冷静になれという内なる声も聞こえたが、すぐさまそいつを頭の中から追い出した。
「私から提案があるんだがね」マーサとフロルが口を開きかけたが、それより速く、狙いすましたようにストロス卿が言った。「実はちょうどこの後、私からそれを切り出そうと思っていたのさ……レディ・マーサ、フロル殿、どうだろう?ミザリィスティア討伐に力を貸しては貰えぬか?この交換周期こそ、ミザリィスティアにたどり着く絶好のチャンスだ。はっきりと言おう。作戦にはフロル・ラウランという切り札が不可欠なんだ。然る後に我々聖騎士団は、ティト救出に手を貸すと約束しよう。ミザリィスティア討伐の見返りとあらば、聖騎士団内の意見をひとつにまとめることも容易い」
「よくもいけいけしゃあしゃあとそんなことが言えますね」フロルは嘲笑浮かべて言った。「今日の事件がなくとも最初からそれ条件にするつもりだった、私がフロル・ラウランとわかった時点でそれを思いついていた、そうでしょう?」
フロルは確信した。昼間の会見でストロス卿の表情が語っていた謎の“閃き”の正体を。
「ちょっと待って下さい。つまりこういうことでいいですか?」マーサが強い口調で言った。「ミザリィスティア討伐に手を貸せば、先にフロルが提案した“見返り”はなしでも構わないと、そういうことでいいんですね?」
「奥方、それは―」
「フロルは黙ってて!閣下、答えて下さい。今ここではっきりと」
「レディ・マーサ、非常に申し上げにくいのですが」ストロス卿は少しためらってから続けた。「ミザリィスティア討伐は“追加条件”です。先のフロル殿の提示した条件の上に」
「冗談じゃないわ!」
マーサが怒鳴った。わけがわからず戸惑いながら、プロップはマーサのその口調がテンダと似ているなあとそんなことを考えた。
「奥方、私としては閣下の仰る通りで結構ですよ。それに、どうせプロップはすっかりその気になってしまっている。彼抜きではスピナもマクスカへ行かないでしょう。それは我々にとって歓迎すべき事態ではない。それに、あながち遠回りではないかもしれないですよ。プロップの言うように、ミザリィスティアが一連の出来事に関係しているのであれば、彼女から何か有力な手がかりを得られるかもしれません」
フロルは穏やかに言った。マーサは悲しげな表情でフロルを見た。
「レディ・マーサ、どうかご理解頂きたい。何も私は私利私欲だけのためにそう申しているのではありませんぞ。正直に申しまして、聖騎士団をティト救出に向かわせるためには、フロル殿の提示した条件だけでは弱いのです。私の一存だけでやすやすと動かせるものではない。面倒な長老たちを黙らせる材料が必要なんです」
「いいでしょう」しばらくの沈黙の後、マーサは渋々そう言った。「だけど、閣下にもフロルにもはっきりと伝えておくけど、私は完全に納得したわけじゃありませんからね。このツケはどこかで払わせますからね。きっと」
プロップはすっかり混乱した。まず、マーサが何に腹を立てているのかわからない。いずれにせよフロルがミザリィスティア討伐に力を貸してくれるのは心強い。しかし、何だか自分がわがままを無理に通したようで罪悪感を覚える。
―それにしても、やっぱ今のもテンダに似てたなあ……“このツケはどこかで払わせますからね。きっと”だって……って、今そんなことどうでもいいか……。
「わかりました。いずれはレディ・マーサがご納得される形で我々から何かしら提案できることを探してみせましょう。約束します」ストロス卿は胸に手を当ててそう言い、それからプロップに向き直った。「ところで、さっき言いかけたんだが……“将軍”が自ら候補誘拐にやって来たことや、君にメッセージを残したということについてだが……私が思うに、それは恐らく君たちがミザリィスティアに関わっていること……我々聖騎士団の知らない何かの情報を持っているということに関係していると思うのだ。マクスカで起こっていることについてレディ・マーサたちからある程度事情は伺ったが、まだ君たちが隠している情報があるだろう?まずはそれを―」
「閣下、それはいけませんね」フロルはにやりと笑って遮った。「我々は必要以上の情報開示はしません。それは絶対にそちらに飲んで頂く条件となります」
「それは不公平過ぎやしないか?我々はあくまで“対等”な条件のうえで契約しているんだぞ?これ以上こちらが条件を加えられる理由はないのでは?」
ストロス卿は自信満々にそう言ったが、すぐさまフロルは自信満々に鼻で笑った。
「いいえ、ありますとも」フロルは勝利を確信した微笑を浮かべて言った。「先ほど閣下が仰ったことです。“有史以来聖騎士団が抱えているジレンマ”のことですよ。我々に力を貸すメリットが聖騎士団にはもうひとつあるんです。“ミザリィスティアとはそもそも何者か?帝国が隠している真実は何か?”その答えが手に入るんです。我々が相手にしている仮面の男なる者たちは、その答えを知っている可能性がきわめて高い。やつらの忠告通りにプロップの前に悪魔が現れてメッセージを残したのですから。聖騎士団は我々と共に仮面の男と戦うことにより、長年の大問題をひとつ解決できるわけです」
フロルがそう言うと、マーサの顔ははっと輝き、対照的にストロス卿の顔はすっと青ざめた。
「しかしフロル殿、勘違いしていないか?ミザリィスティアを倒してしまえば、もはやそれを知る必要はなくなるのだよ」
ストロス卿はそう言い返したが、顔は青ざめたままだった。
「そうは思えませんね。ミザリィスティアを倒した後も双神教を導いていかねばなりませんし、存続をかけて帝国に対するカードは持たねばならない。それが帝国の決定的な弱みになる情報だった場合、聖騎士団はあらゆる未来の選択肢を自由に選ぶことができる……閣下ご自身が帝国の中枢に入ることも可能でしょうし、帝国内でかなりの発言力や権力を握ることも……」フロルはそこで一旦言葉を区切った。「ああ、いちいこんな説明は面倒ですね……まだ説明が要りますか?」
「話が飛躍し過ぎてはいないかね?そんな未来のことまで我々は……」
ストロス卿はそう言い返したが、明らかに弱々しい口調で、しかもそれ以上の言葉が出てこなかった。
「そうですか?何ならミザリィスティアを倒した後、我々は聖騎士団抜きでマクスカに戻るという選択肢もあるんですよ」フロルは容赦なく追い打ちをかけた。「我々としても痛手ですが、情報を洩らすよりはましです」
「ああ、わかった。わかったとも。降参だよ」ストロス卿は声を立てて笑いながら両手を上げた。「君の言う通りだ。条件を飲もう。我々は必要以上の情報を君たちに求めない。それ決まりだ……ああ、まったく、フロル・ラウラン。君だけは敵に回したくないよ。つくづく思い知った」
「私もあなたを敵に回したくないですね。あらゆる意味で」
フロルはふっと笑ってそう言った。マーサはそれを見て満足そうに笑った。
そして部屋を満たしていた緊張感和らいだ。プロップの興奮も多少おさまった。
―まだいくつか細かく話し合わなきゃならないところもあるけど、これで当分の目的ははっきりしたってわけだ。でも―
興奮のおさまりに反比例して次第に不安プロップ胸に積み重なっていった。
―本当に大丈夫かな……啖呵を切っちゃったけど、ミザリィスティア討伐なんてもちろん簡単じゃないよね……フロルさんが味方なのは心強いけど……いや、でも僕はアリスを守りたい。スピナがあの赤い剣を守っているみたいに……絶対に。
「では今日はこれくらいにして、明日また具体的な打ち合わせをするとしよう。別室を用意させる。レディ・マーサとフロル殿もこの屯所に滞在して頂くとしよう」
しばらくしてストロス卿がそう言い、長い夜の話し合いは終わった。
こうして、後にエクスカンダリアの歴史に残る大いなる戦いの幕は上がった。
◆2◆
五月十一日。
薄っすらと夜が明ける頃、ライオネルとリッキーは、ようやくコヒの村を視界に捉えた。
このまま道なりに進めばものの数分で村の入り口に着く。
少しひんやりとしてはいるが雲は少なく、小鳥のさえずりは活発だった。今日が気持ちの良い快晴になるであろうことは明らかだったが、ふたりは早くも不吉なものを発見してしまった。
「もちろん気づいたよな?」
リッキーが言った。自分と同時に足を止めたライオネルを見て、彼も“それ”に気づいたのだと確信した。
「当たり前だろ」
ライオネルは素っ気なく答えた。
ふたりのわずか数メートル手前の地面。約一平方メートルほど、草も土も黒焦げになっている部分があった。
ライオネルは近づいて膝をつき、その部分に軽く触れ、指を何度かこすり合わせた。
「何だと思う?」
リッキーは不安げに訊いた。
「お前の昨夜の仮説は少し間違っていたようだな」立ち上がりながらライオネルは言った。「ティト・カーソンはもう死んでいるかもしれん。少なくとも五体満足ではなさそうだな」
「どういうこった?」
「冬の魔法さ。知ってるだろ?あいつの剣、虹の女王だけが、世界で唯一の魔法剣を実現できる……この黒焦げはその結果だ。間違いない」
「だからって相手がティト・カーソンとは限らんぞ」
「いや、フロルはよほどの相手でないと魔法剣は使わない。ティト・カーソン以外考えられん」
「ここでふたりが戦ったのか?死体がないな」
「フロルが片付けたのかもしれんし、ジド・フェルディナンドが片付けたのかもしれん」
ライオネルはそう言うとまた歩き始めた。リッキーも慌てて後に続いた。
「俺としたことが」ちょうど村の入り口にたどり着いたと同時にリッキーはそう言って自分の頬をぴしゃりと叩いた。「ああ、何で忘れてたんだ。そうとも、この村には玄烏賊の洞窟があるじゃないか」
「何だって?」ライオネルはちらりとリッキーを見ながら門をくぐり村ヘと入った。「玄烏賊の洞窟だと?それがどうし―」
ライオネルは言葉を飲み足を止めた。
「わかるだろ?」
リッキーも足を止めた。
「なるほど、ティト・カーソンは玄烏賊の洞窟を使ってガキふたりを逃がした」
「テンダ・カーソンも一緒だろうな」
「フロルが追いついたんでティト・カーソンが足止めをした。フロルはティト・カーソンを倒して玄烏賊の洞窟へ向かった」
「ああ、そういうことだろうな。つまり、行き先はイメッカだ……どうする?」
「とりあえず洞窟を見てみるべきだ。確か村の奥だったな」
ふたりはジドの店には向かわず、真っ直ぐと村の奥を目ざした。畑に出ている農夫や荷車を引く男、大きな牛乳瓶を抱えて歩く女、早朝から元気に走り回る幼児に至るまで、すれ違う村人は皆一様にふたりの余所者へ警戒心あらわな視線を送った。
「気をつけろよ。この村全体がジド・フェルディナンドの身内みたいなもんだ」
リッキーは声をひそめて言った。
「ああ、わかってる」
ライオネルが答えた矢先に、前方の民家の門から突然ひとりの男が現れ、にやにやと笑いながら近づいてきた。
「よう、前にも会ったかい?」
オーバーオールを着て、もじゃもじゃと長い髭を生やしたその男は、ふたりの前に立ち塞がる格好で足を止めて陽気な声で言った。
「そうかもな」リッキーは笑顔で応じた。「何度かここに来たことがあるからね」
「ニルバナへ行くのかい?」
「いいや、ニルバナから来たのさ。ダコセスタへ行くんだ」
「だったら道が違うぜ。ひとつ後ろの通りを東へ行くんだ。引き返すんだな」男はにやりと笑った。「この先には何にもないぜ」
「ああ、そのことは知ってるよ」リッキーはなおも笑顔のままだった。「ちょっと時間があるんでね。村をのんびり散歩してるのさ」
「なるほどね。朝の散歩は気持ちいいからな」男は一瞬だけライオネルに鋭い一瞥を送り、すぐにまたリッキーへ視線を戻した。「ところで、お前さんたちの仕事は?」
「買い付けだよ。ダコセスタの絨毯を見に行くところさ」
「馬車も引かずにか?それに、そっちの兄ちゃんは商人には見えんがなあ」
「今日は商談だけなんだよ。この男はうちで雇ってる護衛なんだ」
「ほう、そうかい。それにしても―」
「時間の無駄だ」ライオネルは苛立った様子でそう言うと、おもむろに胸元から騎士団のエンブレムを取り出し男に突きつけた。「俺たちはマクスカ騎士団の者だ。村中じっくり見せてもらうぜ」
男はあからさまにうろたえた。リッキーは目を見開いてライオネルへ批判的な視線を送った。
「騎士団だって?な、何の捜査だ?」
男は必死に笑顔を取り戻しながら訊いた。
「悪いがあんたに答える義務はないんだ。ちなみにあんたが俺らを邪魔する権利もない」
ライオネルは冷淡にそう答えると、相手の反応を待たずに平然と歩き出した。
「なあ、おい」リッキーは慌ててライオネルを追った。ちらりと振り返ると、男は不安げな表情で何か言いたそうにこちらを見ていた。「何やってんだよ?」ライオネルに向き直り、怒鳴りたい衝動を懸命に堪えて小声で言った。「あの男はすぐに村中にこのことを知らせるぞ?わかってんのか?どこかにジドやその一味をかくまってたとしたら、こっそり村の外へトンズラさせてしまうんだぞ!」
「時間の無駄なんだよ」ライオネルはリッキーを見ようともしなかった。「考えてもみろ。銀髪で、腰に円盤ぶら下げてる人間がこの国にあと何人いる?そうだろ?」
「まあ、確かに……そうだけどよ……」リッキーは渋々認めた。「先が思いやられるぜ。まったく」
それからふたりはさらに村の奥へと進んだ。相変わらずすれ違う村人たちの視線は冷たかったが、玄烏賊の洞窟に近づくにつれて、徐々に人気はなくなっていった。
やがて洞窟の入り口の眼前、緩やかな傾斜から入り口を見下ろせる位置でふたりは立ち止まった。そして彼らは一分とかからないうちに有益な情報を入手した。
「それで?」リッキーが訊いた。「この事実をどう解釈する?」
「そうだな……」ライオネルはズボンの左右のポケットそれぞれに、両手の親指を引っ掛け、残りの指でピアノを演奏するようにリズミカルに太腿を叩いた。「フロルと侵入者のガキらは既にイメッカにいる。ティト・カーソンとジド・フェルディナンドは死んだか、そうじゃなきゃマクスカのどこかにいるだろうな」
ふたりはすぐに気づいた。入り口を囲むぼろぼろの柵と、ピカピカ過ぎる鉄の扉とがあまりに不釣り合いであることに。
「つい最近“ぶっ壊された”んで新品に取り替えたばっかり……ってなとこだよな」リッキーは肩をすくめた。「鎖と錠もピカピカだ。でもよ、いくらフロル・ラウランでも、こんなでけえ扉を破壊できるもんなのか?」
「愚問だな」ライオネルはあっさりと答えた。「あいつにとってはカーテンに等しい」
「だと思ったよ」リッキーは、ひゅうっと口笛を鳴らした。「それより、もしティトとジドが死んでないとして、どうしてマクスカにいると思うんだ?ガキらとフロルを追って既にイメッカへ行ったかもしれんぜ?」
「それは考えにくい。あいつらはそう簡単に入出国できないし、ティト・カーソンが生きてたとして、フロルの魔法剣を食らったのなら春の魔法でもそう簡単に傷は癒せない。見動きが取れないはずさ」
「なるほど。納得したよ。となると次は当然」
「“ジドの店”とやらに行くのがよさそうだな」
本人たちは認めたがらないだろうが、ふたりは徐々に息が合ってきていた。ほぼ同時に踵を返し、来た道を引き返した。
ジドの店へたどり着くまでの間、ふたりは強烈な違和感を覚えた。もっとも、至極当然のことではある。ライオネルが村人に正体を告げてしまった結果だ。しかしそれでも、ものの二十分で村中から人影が消えるという不気味さには違和感を覚えざるを得なかった。
「これほどのものか?ジド・フェルディナンドと村人の仲は」
ライオネルは慎重に周囲を見渡しながら訊いた。いくつかの家の窓から、カーテン越しに鋭い視線を感じた。
「ああ、そうだよ。みんな家に引っ込んで鍵かけちまったに違えねえ……まあ、善良だが、ちょっと真面目過ぎる連中だよな。こんなことしたらよ、自分たちは何かを隠していますって教えてくれてるのと一緒じゃねえか……田舎者らしいけどな」リッキーは哀れむように言った。「ジドが熱風会を抜けてこの村に来た当時、村人たちはまったく歓迎しなかったそうだ。そりゃそうだよな。元熱風会幹部なんだ。厄介者に決まってる。だけど、二年と経たないうちに評価は逆転した。金に困ってるやつ、ゴロツキとモメてるやつ、ジドは黙ってそっと手を差し伸べたそうだ」
「へえ、熱風会時期トップを約束されてたやつがどうしてそう変わっちまうんだろうな」
「さあな。そればっかりは俺にもわかんねえ。本人にしかわからんのかも。ただ、脱会前後にジドと熱風会六代目はえらいモメてたらしいぞ」
ライオネルはそれ以上その話題に興味を示さなかった。先ほど村の男と話した地点から東側へと進み、しばらくして突き当たったT字路を南へ進んだ。相変わらず人の気配はなかった。数分経った頃、ジドの店の裏口が見えてきた。
「お前は正面だ」
ライオネルは指をくるりと回して指示を出した。リッキーはやや不満そうな顔をしたが、特に何も言わずに早足で正面へと向かった。
裏口は建物の陰となっており、とてもひんやりとしていた。ライオネルはこの建物がしばらく無人であることを感じ取った。このひんやりとした空気が“まったく動いていない”気がしたのだ。人が頻繁に出入りする建物の入口付近(建物内も当然そうだが)は、空気が“動いている”ものだ。ライオネル独特の直感だったが、彼はこれまでにこの感覚に裏切られたことは一度もなかった。
裏口手前の地面の土にふと目をやると、薄れつつあるタイヤ痕があった。誰かがバイクを最近動かしたに違いなかった。
裏口の扉のすぐ脇には、小さな格子付きの窓があった。当然窓は閉じており、曇りガラスであったためそこから中の様子はわからなかったが、少なくとも動く何かが中にいないということはわかった。
周囲を慎重に見渡しながら、ライオネルはドアノブに手をかけて回してみた。やはり鍵がかかっていた。もう一度回すようなことはせず、予定調和のようにライオネルはすぐさま腰元の小袋をガサゴソとあさり、細くて鋭い小さな金具を取り出すと、鍵穴にそれを突っ込んだ。
鍵穴へ耳を近づけ、何度かガチャガチャと試した後、心地良い“ガキリ”という音とともに扉は開いた。ライオネルはさらに数回周囲を見渡した後、静かに素早くジドの店へと入り後ろ手で扉を閉めた。
思ったより小さな酒場だな、というのがライオネルの第一印象だった。外観は縦長だが、酒場は一階部分のみのようで、裏口から入ったところから酒場全体が見渡せた。向かって右側に階段があるが、二階の廊下に続いているだけでそれ以外は何も見えない。客用に開放されておらず私室になっているのだろうと思えた。
階段の向こうにカウンターがあり、奥の棚にはいくつもの酒瓶が寂しそうに並んでいた。閑散としていて薄暗く、静まり返った店内を見渡しながら、ライオネルはすぐに“それ”に気がついた。
「剣はともかく、“こっち”は俺のほうが速いようだな」
得意気に金具を見せびらかせながら、リッキーが二階から階段を降りてきた。ライオネルはとっくに階上に人の気配を感じ取っており、それがリッキーだろうということはわかりきっていたので少しも驚かなかった。
「危険を顧みず先に入ったんだな。見直したぜ」
ライオネルは感情がこもっていない声で言った。
「外から見ただけで人がいないってのはわかりきってたからな。万が一を考えて二手に分けただけだろ?」リッキーは得意満面で言った。「大まかに二階は見たが、これと言って何もないなあ。衣類とか日用品の様子からすると、“予定外の突発的小旅行に出た”ってな感じだぜ。やっぱり連中はとっくにここからトンズラしたんだな」
「じゃあ、お前は“それ”に気づかなかったんだな」
ライオネルは小馬鹿にしたように笑った。
「え?何に気づかなかったって?」
「まあいいさ」ライオネルはそう言うとカウンターへ向かって歩き出した。「お前はもういっぺん二階へ行って丹念に調べろ。何か連中の行き先へつながる手がかりがないか探すんだ」
「へいへい」
リッキーは腑に落ちない表情のまま二階へ引き返した。
その後の約三十分間、ふたりはいたるところを探ったが、結局目ぼしい成果はなかった。リッキーの言う通り、“予定外の突発的小旅行に出た”という線で間違いなさそうだなとライオネルは結論づけた。
「時間の無駄だな」リッキーがゆっくりと二階から降りてきた。「手がかりはなさそうだ……いくつか妙な隠し戸棚があったけどな」
「ああ、そうだな」ライオネルはカウンターの奥から出てきてリッキーと視線を合わせた。「よし。焼こう」
「お?」リッキーは目を細めた。「何?“焼こう”って言ったのか?何を?魚か?まだ昼飯には早いぜ」
「トイレの奥に倉庫があった」ライオネルは客席のほうをあごでしゃくった。「そこに灯油があったから持ってきたんだ」
「なあ、銀の狼」リッキーは客席の上に置かれたタンクをしげしげと眺めながら言った。「まさかとは思うが、“焼こう”ってのはそういうことか?この店を?何のために?いくら騎士団でも、そいつは越権行為だろ?」
「俺たち騎士団は例外なく熱風会が大嫌いなんだ。知ってるだろ?いっぺんこういうことをやってみたかったのさ」ライオネルは既にマッチを取り出していた。「それに、忘れたのか?俺たちは今王宮から追われている身だぞ。法律もくそもあるか」
「あんたはもう少しまともなやつだと思ってた」リッキーはライオネルの目の前まで素早く移動して立ち塞がった。「個人的になうさ晴らしでそんなことさせてたまるか!別にここが全焼しようが構わねえが、そうなったら足がつく。王宮以外のやつらからも追われることになるぞ!それくらいわかるだろ?」
「邪魔するやつは皆殺しにするまでさ」ライオネルは強引にリッキーの体を片手で押し退け、つかつかとテーブルに近づくと、タンクの蓋を開け、ためらいなく床に撒き始めた。「明日死ぬかもわからねえんだ。楽しもうぜ」
「おい、ライオネル、一体どうしちまったんだ?」
リッキーは混乱のあまり一歩も動けなかった。鼻をつく灯油のにおいが混乱に輪をかけた。ほんのわずか数分前まで彼は冷静だった。正常だった。
―ああ、そうさ!わかってる!
リッキーは脳内にいる冷静なもう一人の自分からの忠告に必死で答えた。
―五秒以内にこの店から脱出する。ライオネルを止めるのは不可能だ。全速力で村から出るんだ。わかってるとも!そうするつもりさ!だがその後は?どこへ行く?俺が明日ムショにぶちこまれるか死ぬ確率は?かなり上がるよな?控えめに言っても九十パーセントくらい上がるよな?
「ふざけるのもいい加減にしろ!」
くぐもった誰かの声が突然聞こえた。
リッキーを取り巻く混乱に、さらに混沌が追加された。
「何だあ?だ、誰だ?」リッキーは震える声で叫んだ。断じて聞き間違いではなかった。第三者の声。近いようで遠いところから発せられたような不思議な声。さらにガタゴトと騒がしい物音も聞こえてきた。「ラ、ライオネル、今のは―」
ライオネルはタンクを地面に置き、満足そうに笑みを浮かべていた。ああ、こいつは何かを“仕掛けた”んだな、とリッキーの頭にわずかな理解が生まれた刹那、リッキーとライオネルの間の空間、階段の手前の床が約一メートル四方の正方形型にカーペットごとぱっくりと割れ、必死の形相の男が姿を現した。
「この……お前ら、この店を……何なんだ?お前ら……くそっ!……この店は……お前らなんかに……ああ、くそっ!」
わけのわからない言葉を発しながら、男は混乱もあらわに、血走った目でリッキーとライオネルを交互に何度も見た。
健康的な小麦色の肌。隆々とした筋肉を見せびらかすような、やや季節外れの黒いタンクトップにグリーンの労働者用のパンツと茶色のブーツ。顔に刻まれた、風化した無数の傷。
彼の名はホセ。ライオネルとリッキーは知る由もないが(すぐに知ることになるが)このホセは、フロルがテンダたちを追ってこの店へ現れた時、ジドと共に彼女と対峙したあの男である。
「落ち着け」ライオネルは妙に優しい声でホセをなだめた。「放火する気はない。演技だよ。お前を地下から引っ張り出すためのな」
ようやく落ち着きを取り戻したリッキーは、ライオネルの対応に感心した。抜群のタイミングと言えた。ライオネルの言葉があと一秒でも遅かったとしたら、この筋肉男は、ライオネルか自分のどちらかにつかみかかるか飛びかかるか、あるいは顔面に拳を叩き込んだに違いなかった。
「お前……お前らは……」ホセはライオネルに指を突きつけながら、必死に続きの言葉を探ったが、まだ興奮冷めやらぬ彼の脳は適切な言葉を見つけ出せずにいた。「あの女の仲間……騎士団の……犬……そうだ!番犬だ!お前らも王宮の犬なんだろ?ふざけやがって!」
「落ち着け」ライオネルは冷静に繰り返した。「混乱するのはもっともだ。床を汚したことも謝る。だがこうする必要があった。俺たちの利害は一致している。これからゆっくり説明してやる」
ホセは警戒心の残る顔でライオネルを見つめたまま何も言わなかった。
「おい、ライオネル」しばらくして、ホセの無言にばつが悪くなったリッキーが口を開いた。「お前はこいつが地下に隠れていたことにとっくに気づいていたのか?」
「もちろんだ」
ライオネルは素っ気なく答えた。
「そいつは凄えな……」リッキーは本心からそう思った。「でもよ、それならそれで他にもっとましなやり方はなかったのか?」
「なかった」ライオネルは即答した。「地下にわざわざ降りて引っ張り出すのは面倒だ。そうだろ?」
「そうは思えねえが……」
「……説明して……もらおうか」
ようやくホセがゆっくりと口を開いた。
リッキーは口を閉ざし腕を組んだ。もはやこの場はライオネルに完全に主導権を渡そうと決めた。どういうわけか、筋肉男の荒々しい息遣いは徐々に弱まり、表情の緊張も解けつつある。話し合いは冷静に行われそうな方向に動いている。
「俺はマクスカ騎士団のライオネル・ファスコだ。そっちの男はリッキー・ヘンダーソン。どっちも聞き覚えのある名前だろ?」
そしてライオネルは長い説明を始めた。リッキーは驚いた。“テンダ・カーソン=死んだはずの王女説”と、“自分たちを襲ってきた男が腕の伸びる化け物であること”を除くすべての事実をホセに打ち明けたのだ。愚直ではないかとも思えたが、しかし、あるいは、義を美徳とする筋肉タイプの男に対しては、必要以上に説明における言葉のトリックは使わないほうが有効かもしれないとも思えた。
「一応筋は通っている……みてえだが……」
話を聞き終え、ホセはつぶやいた。その声にはなおも疑念と困惑が混じってはいたが、それはわずかなものだった。
リッキーは言葉が出なかった。認めざるを得なかった。自分がライオネルを過小評価していたことを。
状況から考えて、ライオネルの言う通りお互いの利害は一致している。だが真正面からそれを説明しても信じさせるのは骨が折れる。だからライオネルは自分を騙す必要があった。さっき自分は思わずこう言ってしまった。“王宮以外のやつらからも追われることになるぞ”と。
筋肉男は床下でそれを聞く。演技とは思わない。何せ心からの本音なのだ。説得する時間が短縮できる。実際に今、筋肉男は早くも納得しつつあるではないか。
ライオネルはおよそこういった駆け引きに無縁で、原始的な交渉術を使うタイプだと思っていた。自分が補完的に交渉を進める役割を担わなければならなくなるだろうとすっかり決めつけてしまっていた。
―“銀の狼”……か。やるじゃねえか……。
「だけどよう……何つうか……俺にどうしろっつうんだ……」
ホセは頭をぼりぼりと掻いた。
「そっちの話を聞かせてくれないか?フロルはここに来たんだろ?何があった?ティト・カーソンやジド・フェルディナンドは無事なのか?」
ライオネルは穏やかに訊いた。リッキーは内心舌打ちした。ライオネルのその演技に首筋がかゆくなる思いだった。自分の家に押しかけて来た時の態度とはどえらい違いではないか?
「ああ、それは……」ホセはしばらく考え込んだ後、大きくかぶりを振った。「いや、だめだ。そいつはちょっと待ってくれ」
「困った状況にあるんだろ?俺たちは協力できる。お互いのためにだ」
「俺には判断できねえ!」ホセは苛立たしく言った。「あんたらが嘘を言ってるようには思えないが、だが俺らはよ、そう簡単に騎士団を信用できねえんだ。わかるだろ?」
「まあ、確かにそうだ……」ライオネルはうなずいた。「だが、今の俺はマクスカ騎士団の一員としてここにいるわけじゃない。俺個人としてここにいる。俺も命を狙われている。フロルを探し、今何が起こっているのか知る必要がある」
ホセは黙ってライオネルの目を見つめた。ライオネルは視線を少しもそらさずに受け止めた。
「許可が要る」しばらくしてホセは言った。「あんたらと協力するかどうか……許可を取ってくる。二日はかからねえだろう。ここで待ってくれ」
「悪いがそいつは無理だ」ライオネルは一変して厳しい表情になった。「時間が惜しい。俺たちを連れて案内するんだ」
「嫌だと言ったら?」
「お前はそんなこと言わないさ」
ホセは顔を引きつらせ、つばをごくりと飲み込んだ。リッキーは勝利を確信した。
―まいったね、この男……。
リッキーはまたしてもライオネルに感心してしまった。放火の演技には“これ”も計算に入っていたのだということに気がついたのだ。
いくらライオネルの話に納得できたとしても、筋肉男は独断ですべてを決めることはできない。マフィアの掟だ。ボスに確認を取りに行く。しかしこちらとしては、直接ボスのところへ連れて行ってもらうのが理想的だ。放火の演技を見せたことにより、こちらがついて行くと言った場合に筋肉男は断われなくなる。
何故なら、どんなに演技と言われようが、いざとなればライオネルなら本気で放火しかねないからだ。ライオネルという男から放たれる“虚無感”がそう思わせる。ライオネルをここに置いて行けば、そのうち痺れを切らし、放火あるいは村人たちにどんな仕打ちをするかわからない。ジドの部下である男がそんな選択をするはずがない。
―ライオネルの完璧な読み勝ちだな。
リッキーはふっと笑った。
「……いいだろう」ホセは案の定降参した。「だが、一応言っとくけどよ、おやっさんがその場でお前たちに死刑を言い渡す可能性だってあるぜ」
「構わんさ。お前を恨んだりしないよ」ライオネルはにやりと笑ってホセの肩をぽんっと叩いた。「ということは、ジド・フェルディナンドは生きてるんだな?ティト・カーソンも……そういうことだな?」
「……ああ、そうだよ」ホセは舌打ちした。「ああ、ちきしょう!喋っちまった……俺がおやっさんに殺されるかもな……」
「安心しろ。そうはならん」ライオネルはそう言うと、裏口を親指でさした。「じゃあ、早速出発しようぜ」
「ちょっと待てよ、床を掃除してからだ!」ホセは叫んだ。「何かの拍子に火事になったら……俺は死んでも死にきれねえ!」
「心配ないさ。そう言うと思って、予め灯油は水で薄めといた。火事にしようったってできない。まあ、ちょっと臭うけどな。我慢しろ」ライオネルは早くも出口に向かって歩きだしていたが、ふと立ち止まった。「そう言えば行き先を聞いてなかったな。俺たちはこれからどこへ行くんだ?」
ホセは逃げるようにリッキーを見た。リッキーは黙って肩をすくめて“あきらめろよ”と提案した。
「ダコセスタだ」ホセは渋々答えた。「熱風会本部がある。知ってるだろ?」
「なるほどな……馬車を飛ばせば夜には着くな」
「おい、馬車を使うのか?」リッキーは顔をしかめた。「目立っちまうぜ」
「問題ない」ライオネルは即答した。「俺たちの新しい友人がこれから村人を説得して、そんでもって“安全な”馬車を手配してくれるからな」
ホセは驚いた顔でしばらく考え込んだが、やがて両手を上げて降参した。
「ああ、わかったよ。くそったれ!お前の言う通りにするよ……ったく、“招かれざる客”ってなとこだな」
「ほう、顔の割に詩的なことを言うじゃないか」
ライオネルはくっくと笑った。
◆3◆
早朝、汽車でオルドランドを出発したスピナ一行は、午前十時を過ぎても、依然として無言のままだった。
それもそのはず。昨夜、重大な過ちを犯した詩人と少年は、文字通り一晩中その償いをさせられたのだ。寝不足と二日酔い、そして精神的ダメージの大きさから喋る気力は皆無だった。
テンダの説教は彼女の部屋で一晩中行われた。詩人と少年は正座させられ、言い訳も反論も許されずにひたすら謝罪要求を飲まされ続けた。
テンダは腕を組み、部屋中を歩き回り、時折ベッドに腰掛けながら容赦ない言葉を浴びせた。
この旅はピクニックではないということ、自分がいかに割高な報酬を支払っているかということ、その気になれば契約違反として訴訟を起こすことも可能だということ。
テンダは繰り返し何度も唾を飛ばしてまくし立てた。的確な比喩も交え、その表現は多岐にわたり、詩人と少年を後悔と自己嫌悪の海で溺れさせるに十分なパワーがあった。宿のロビーで多少の睡眠をとっていたテンダには、余力があったのだ。
詩人と少年はひたすら足の痺れと睡魔に抵抗し続けた。自分たちより不幸な人間がこの世に存在するだろうかと思った。明け方になり、小鳥たちの声が聞こえ始め、薄っすらと外が明るくなる頃、ようやく断罪は終わったが、ふたりはすぐに出発の支度をするよう命じられ、ついに休息の時は訪れなかった。
朝食もろくにとらず、病人のようにふらふらと汽車に乗り、四人がけの席にテンダと向かい合わせで座ったが、ふたりとも睡眠をとる気はなかった。今もなおテンダの体から放たれている怒りのオーラがそれを許さなかったからだ。
こうして一行は気まずい沈黙の中で永遠とも思える時間を過ごしていたが、ようやくテンダがそれを打ち破った。
「ねえ、ユニス。何してるの?」
ああ、一体いつ以来のまともな日常的質問だろうか。スピナは眠気まなこでテンダを見て、それからユニスを見た。彼はボロボロの羊皮紙に羽ペンで何かを書いていた。
「ははあ……ええっと……昨夜の記録ですよ」ユニスはためらいがちに答えた。その表情は、テンダの攻撃(口撃)が再開されるのかと怯えているようにも見えた。「あの時とっさにメモしたのですが、いくつか抜けていたので、思い出しながら書いていたのです」
「昨夜の記録?それってつまり」テンダは目を細めた。「あたしに叱られたことを記録して、後でどっかに訴えるつもり?」
「いえいえ、そのことではありません」ユニスは慌ててかぶりを振った。「あなたの寝言ですよ。ほら、ロビーでお休みの時に。あなたはいくつか興味深い言葉をつぶやいていたのです」
ユニスは羊皮紙をテンダへ見せた。テンダは少し身を乗り出して覗き込んだ。スピナも首を動かした。羊皮紙にはいくつかの言葉が書かれていた。なかなか達筆だなとスピナは思った。
“ベル・ファラ”
“イスカリオス”
“チェスター”
“最初に生まれた悪魔”
“契約書”
“迷宮”
ほぼ同時に読み終えたテンダとスピナは、反射的に顔を見合わせたが、ふたりとも決まり悪そうにすぐさま視線を外した。
「……あのう」ユニスはふたりを交互に見ながら感想を求めた。どういうわけか、ふたりともこちらを見ようとせずに黙ってしまった。「何かしらご意見はないのでしょうか?」
「おいらは、その中でひとつだけ気になる言葉があるぜ」しばらくしてスピナが言った。「“最初に生まれた悪魔”ってやつだ。つい最近その言葉を聞いた」
「何それ?どこで?誰から?」
テンダが訊いた。
「いや、それは……」スピナは目配せした。「知りたきゃ後でな」
テンダは、ふうんと言ってそれ以上追及しなかった。ユニスの前では話せないことだと察した。
「ミザリィスティアのことですよね?神話に出てくる」
ユニスが言った。
「ねえ、って言うかさ」テンダがユニスに言った。「なんでそんなことしたの?女の子の寝言を書き留めるなんてちょっと気持ち悪いわ」
「言われてみればごもっとも」ユニスは人さし指でこめかみを掻いた。「詩になると思ったのです。夢の中の言葉というのは、なかなかどうして侮れません。抽象的で支離滅裂なようで、実は真実であったり、あるいは、預言や予言に等しいものであったりするのです。どうです?レディは何か気になる言葉がこの中にありますか?」
テンダはどう答えていいものか迷った。実際のところ、すべての言葉に引っかかりを覚えていた。
意味不明だがどこかで聞いた言葉。(自分の寝言なのだから当然かもしれないが)とても大事な言葉。しかし、何故大事なのかは一切わからない。解けないなぞなぞへの苛立ちを覚えた。
「ユニスはどう思う?」
テンダはしばらく考えてそう聞き返すことにした。
「“ベル・ファラ”、“イスカリオス”、これらの単語はまったく意味不明ですね。人名か地名でしょうか……“契約書”、“迷宮”、これらは何を意味しているのかがわかりません」
ユニスは羊皮紙を見ながら答えた。
「“チェスター”は?」
テンダは首を傾げた。
「これは明らかに人名でしょう。レディ・テンダのお知り合いでは?」
「いいえ、知らないわ」
「そうですか……だとすれば、かの有名なチェスター・C・ガルシアのことでしょうか」
「チェスター・C・ガルシア?……それって……誰だっけ?」
「英雄王伝記の著者ですよ。トゥール王の幼なじみだったという」
「あ。ああ、そのチェスターね。それなら知ってるけど……」テンダは無意識に前髪をいじり始めた。「あたし……どんな夢を見てたのかしら……」
「この先役に立つかもしれません。覚えておきましょう」
ユニスは満足そうに言うと、羊皮紙を丸めて糸で縛り、テンダに差し出した。
「何よ?」テンダは驚いた。「何であたしに渡すの?」
「あなたの寝言ですぞ」ユニスはさも当たり前のことのように言った。「この先必要になることでしょう」
「たかが寝言よ!馬鹿じゃないの」
テンダはそう言ったものの、心のどこかで自分がこのまま羊皮紙を受け取るだろうということを確信していた。何故かはわからなかったが、あるいはそこに書かれているすべての言葉に不思議な力があるからかもしれなかった。
「先ほど申し上げた通りですぞ、レディ」ユニスは羊皮紙を引っ込める様子は見せなかった。「夢の中の言葉は侮れません」
「……わかったわよ」
テンダは羊皮紙を受け取った。その瞬間、妙な安心感を覚えた。やはり受け取るべきものだったのだと思った。
―ベル・ファラ……?
テンダはしばらく羊皮紙を見つめ、やがて厄介なゴミを扱うように、乱暴にリュックにしまい込んだ。
◆4◆
―こんな気分はいつ以来だろう……。
早朝、目覚めた瞬間にプロップの頭に浮かんだ考えはそれだった。あるいは睡眠中から既にそれを考えていたのかもしれなかった。
“決していい気分じゃない”。それは確かな結論だった。しかし何故良くないのか。そこが難しい。
聖騎士団屯所のベッドはかなり心地良い。故郷を飛び出し、旅を始めてからというもの、多くの宿に泊まったが(野宿の場合がかなり多かったが)ここのベッドはその中で間違いなく最高だった。マットの柔らかさときたら、聖母の胸の中にある底なしの包容力に他ならない。
そして部屋自体も最高だ。永遠と思われるほどの清潔と静寂に包まれている。死霊の怨念かと見紛うような壁のしみなど一切なく、どこかから酔っぱらいの言い争いや、爆弾もかくやというようないびきが聞こえてくる世界とは程遠い。
しかし結論はこうだ。“決していい気分じゃない”。
プロップの故郷であるデリィという名の山村では、年に一度の伝統的恒例行事である、少年相撲大会が開かれていた。プロップは相撲という競技を考えた大昔の東洋人を呪った。いや、あるいは、相撲に興味を持ち、自分たちの国にも普及させようと思い立ったマクスカの先人たちの墓に小便をかけてやるべきなのかもしれない。
勉強は村で一番。足の速さだって平均以上。しかし、この日競われるのは、身長と体重と腕力と足腰の強さなのだ。よりによってプロップの欠点のみで戦わなければならない一日なのだ。
毎年例外なくプロップは土をなめさせられた。残るのは痛みと屈辱。普段は数学の課題を教えてもらおうと、憧憬の眼差しを向けながら近づいてくる女の子たちも、この日ばかりはばつの悪い苦笑いと、お情けの拍手を送ってくる。生き地獄というものがあるとすればこれではないか?あるいは煉獄?(ところで、あの忌々しいスピナ・ノールは毎年優勝候補だった)
しかし逃げることは許されない。もはやこの小さな村における一種の宗教的感覚、つまり、“相撲大会から逃げるような男は男にあらず”がそうさせる。プロップがいかなる手段で訴えたとしても、両親は一顧だにせず息子を戦地に送り出すのだ。
毎年その日の朝が来ると、決まってプロップはベッドの中から出るのに強大なる意志の力を要した。
―その感じと似てるかなあ……。
頭をぼりぼりと掻き、ベッドを出ながらプロップはなおも考え続けたが、着替えを済ませ、部屋に迎えの衛兵が来る頃になると、もっとはっきりとした最終的な決断に達していた。
―違う。そうじゃない。これは他の何にも似ていないんだ。初めての感覚なんだ。こんな気分になったのは生まれて初めてなんだ。
迎えの衛兵は一通りプロップに挨拶を済ませると、これからの段取りを簡単に説明した。一階奥にある食堂で朝食を済ませ、少し休憩時間を置き、午前十一時より大会議室において作戦会議を始める予定とのことだった。
歴史に刻まれるような秘密の任務がこれから始まろうとしている。小さな村の少年相撲大会なんて比較にさえならないこの緊張感と恐怖。
―ちょっと待てよ!
プロップは自分に問いかけた。
―初めてじゃないよ!伝説のイカの化け物と戦い、骨の手の怪人から死に物狂いで逃げ切ったのはつい最近の出来事じゃなかった?
プロップは一瞬考えた後、ためらいながら自分自身に本音を打ち明けた。この世でプロップにしか聞こえない言葉であるにも関わらず、プロップは言いながら赤面せずにはいられなかった。
―いや、それらの時とはちょっと違うんだ……そうでしょ?だって、その時はアリスがいなかった。今はアリスがいる。わかるでしょ?そりゃあ、スピナやテンダだって大事な友人には違いないよ。でもアリスは……特別なんだ。だからこの今の気持ちは生まれて初めての気持ちなんだ。
プロップは恥ずかしさをごまかすために大きな咳払いし、それから衛兵と共に部屋を出て食堂へと向かった。
◆5◆
想像していたほど食堂は立派ではなかった。考えてみれば当たり前だな、とフロルは内心ひとりで笑った。ここは聖騎士団屯所なのだ。マクスカ騎士団の食堂とて(フロルは滅多にそこで食事したことはなかったが)よそに自慢できるものではない。予算的にマクスカ騎士団より厳しいはずの聖騎士団に、それ以上の食堂があろうはずもない。
ところが、フロルはわずか十秒後に評価を一転させた。
なるほど、確かにマクスカ騎士団の食堂と比べてかなり狭い。五十人入ればぎゅうぎゅうだろう。しかしマクスカにはない“華やかさ”がここにはあった。壁に掛けられている抽象画の質の高さ、天井から吊るされているクラシックな風流なランプ、広く大きな窓から覗ける小さくも美しい庭園、決して高級品ではないだろうが、芸術的なこだわりを感じさせるローズウッド(と思われる)のテーブルと椅子。何より、廊下を行き交い食事をとる騎士たち一人ひとりの上品さ。無骨で下品で騒がしいマクスカ騎士団とは天地の差だ。
「ではフロル殿、こちらへ。朝食は係の者が後ほど持って参ります」
部屋へ迎えに来た衛兵の男がフロルを空いている席へと誘導して去って行った。フロルはあたりを見渡した。マーサやプロップの姿は見えなかった。昨夜、フロルとマーサには別々の部屋が用意された。他の二人の支度が遅いというより、自分が早すぎたのだろうなとフロルは思った。昨夜話し合いが終わった後、フロルはこれからのことを考え、わずか二時間ほどしか眠れず、迎えが来る頃には既に支度が済んでいたのだ。
席へ着きかけたその時、強い視線を感じ、フロルは背後を振り返った。
視線の主はひとりの青年だった。彼はひとつ向こうの列席の間に立ち尽くしていた。美しく滑らかなダークヘア。女性のように繊細な肌。鍛え上げられた無駄のない肉体。二十歳前後だろうか、スピナやプロップよりもかなり大人びた雰囲気だった。その生涯において数え切れないほどの乙女たちを狂わせるであろう、紛れもない美男子だった。白いシャツに黒いパンツという軽装ではあったが、フロルは彼が優秀な騎士であることを直感した。と同時に、フロルの胸の内に正体不明の“懐かしさ”が込み上げた。
フロルが振り返ったことが意外だったのか、青年ははっと驚いたような顔をした。
「何か?」
フロルは立ったまま訊いた。
「えっと、すいません」青年は恥ずかしそうに笑うと、ゆっくりとフロルに近づき、彼女の向かいの席を指さした。「ご一緒してもよろしいですか?」
「どうぞ」
フロルはそう答えながら、この“懐かしさ”は何だろうかと内心首を捻りながら席に着いた。青年は緊張しているようで、ぎこちない動作でフロルの向かいに座った。
「ああ、これは失礼。僕としたことが……」青年は慌てて立ち上がった。「自己紹介がまだでした」
いちいち立たなくてもよさそうなもんだがとフロルは呆れたが、とりあえず微笑を作った。
「僕は聖騎士団のボロミア・スコーフィールと申します」青年は丁寧にお辞儀をした。「失礼ながら、あなたはレディ・フロル・ラウランですね?団長より、既にあなたのことを伺っております」
「いかにも。私はフロル・ラウランです」そう答えながらフロルは彼が何者なのか、素早く思考を巡らせた。団長から既に聞いている?昨日の今日で?この若さで彼は聖騎士団の重要な立場にあるのだうか?「初めまして。スコーフィールド殿。ところで、私に“レディ”は不要ですよ」
「では、僕のこともボロミアと呼んで下さい」ボロミアは嬉しそうに言うと改めて席に着いた。「実は、会議の前にあなたと接触するなと団長より命じられていたのですが……あなたを一目見て、どうにも好奇心が抑えられませんでした」
朝方に似つかわしくない熱っぽい話し方を聞き、フロルは彼が“純粋カタブツ一直線ボーイ”だと分析した。抜群のルックスという才能に溺れることなく、彼は乙女心を激しく傷つけることはしないだろう。もったいない話だとフロルは思った。その気になれば、多くの欲望を満たすことができるのに、彼は決してそれをしないだろうから。しかし、ともなれば、むしろより多くの乙女を狂気に導くのかもしれないとも思えた。
「好奇心……ですか?」
フロルはわざと警戒の表情を作って見せた。案の定、それを見た青年は慌てた。やはり“純粋カタブツ一直線ボーイ”で間違いなさそうだ。
「いえ、その、変な意味じゃないんですよ」ボロミアは顔を赤らめた。「僕はその……」
「名高い他国の女殺し屋とは、一体どんな顔をしているのか……そういう種類の興味ですね?まあ、気持ちはわかります」
フロルは不機嫌そうな顔を作って言った。彼をからかうことを面白がっている自分に気づき、自己嫌悪を覚えた。同時に、何故か自分は彼に好感を抱いているのだということも否定しようがなかった。
「いえ、決してそういう意味ではありません!僕は」ボロミアは一旦咳払いをしてから熱弁を続けた。「もちろんあなたの噂は知っています……そして、あなたのことをすべて肯定することはできません。それは間違いありません。ですが人間というもの、たったそれだけではあまりにも狭量だと思います。つまり、あなたのしてきたことが道義的に認められないとしても、僕はひとりの男として、あなたの剣技に多大な関心があります。あなたの剣、虹の女王にも。その部分だけは、憧れと尊敬の念を抱かざるを得ません。ひとりの剣士として」
「そうですか」
フロルはそう答えた刹那、雷光のように閃いた。彼に抱いている“懐かしさ”の正体がはっきりとわかった。
―ライオネル……。
懐かしい友人の名を心の中でつぶやくと、胸の奥から何かが込み上げてきたが、フロルはそれを慌てて遠くへ押しやった。
「ご気分を悪くされたのでしたら謝ります」
フロルの様子を見てボロミアは額に汗をにじませた。
「いえ、そんなことはありませんよ。お気になさらず」
フロルは取り澄ましてそう答えた。
「ボロミア!」
その時突然、誰かの小走りの足音と甲高い声が聞こえた。フロルが肩越しに振り返るより速く、声の主はフロルとボロミアの間に来て立ち止まった。
「エレン?」ボロミアは声の主を見て眉をひそめた。「どうしてここに?」
エレンと呼ばれた少女を見て、フロルは表情にこそ出さなかったものの、内心驚愕せざるを得なかった。
何故ならその少女があまりにも美しかったからだ。
そう、あまりにも美し過ぎる。ボロミアと同じ歳の頃だろうか。真っ直ぐと輝くブロンドヘア。大きく輝くエメラルドの瞳。純白に輝く肌。いかにも貴族令嬢然とした真っ赤な高級ワンピースに寄り添う、しなやかに輝くプロポーション。神の奇跡としか言いようがなかった。マクスカ王女のムミ、あるいはテンダとて、客観的に見てもかなりの美少女だが、それでもこのエレンという少女は別次元だった。大げさでも比喩でもなく、彼女がその美貌を最大限に活かせば、実際的に国をひとつ滅ぼすことも可能かもしれないなとフロルは思った。
「あなたが今日はここにいると聞いたから」
エレンはフロルを挑戦的にちらちらと見ながらボロミアに微笑みかけた。
「今日は重要な会議があるんだ。君とて立ち入れないはずだよ」
ボロミアは申し訳なさそうにフロルをちらちらと見ながら、懸命に説得するようにエレンに言った。
「パパから許可はもらってるの」エレンは勝ち誇ったように言った。「私たち、もう三日も会っていないのよ?」
エレンは甘えるような声でそう言うと、ボロミアの肩に手を置き、チュッと音を立てて頬にキスをした。
「やめろ、エレン!」ボロミアは顔を真っ赤にしながらエレンを突き放した。「僕は客人と話をしているんだ。失礼じゃないか!」
「あら、ごめんなさい」エレンはそう言いながらも悪びれた様子は見せず、前髪を掻き上げてフロルを見た。「初めまして。お客様」
「どうも初めまして」
フロルは微笑した。この数十秒のうちに、エレンとボロミアが恋人であることとエレンが明らかに自分を警戒していることをすっかり理解し、この場に平然と現れて“パパに許可をもらった”と言ったことと、彼女の身なりなどから、恐らく幹部の誰かの身内なのだろうと推察していた。
「申し訳ございません。フロル殿。彼女は団長のお嬢様で、エレンと申します。エレン、こちらはマクスカ騎士団のフロル・ラウラン殿だ」
ボロミアは懸命に怒りをこらえながら紹介を済ませた。
「あら、そうでしたの。マクスカ騎士団ですか」
「いえ、厳密には、今はマクスカ騎士団の団員ではありません」
「そうですか」エレンはまったく興味がなさそうだった。「こちらへはどのような件で?ボロミアとどのようなお話を?」
「エレン、いい加減にしろ!」ボロミアは立ち上がり、素早くエレンの腕を取ると、申し訳なさそうにフロルを見た。「申し訳ございません、フロル殿。僕と彼女は話がありますので、これで失礼します。また後ほどお目にかかりましょう」
「ええ、お気になさらず。また後ほど」
フロルが答えると、ボロミアは一礼し、腕を引っ張るようにしてエレンを連れて歩き去った。エレンは不満あらわな顔でボロミアとフロルを交互に見ていた。
やがてふたりの姿が見えなくなるまで肩越しに見送った後、フロルはふうと息を吐いた。エレンの態度に特に気を悪くすることはなかった。ある年頃の女の子としては健全な感情なのだ。そして自分はあまりそういったことに興味もない。
「ライオネル……」
フロルは今度は口に出してそうつぶやいた。そう、今自分があのボロミア青年に抱いた興味はそれだけだった。旧友に似ているということ。
―ライオネル、お前は噂通りの男じゃない。必死に隠しているが、お前はあの青年同様に純粋で真っ直ぐなやつだ。
再びフロルの胸の奥から何かが込み上げてきたが、やはり彼女はそれをすぐに遠くへ押しやった。
―ライオネル、お前は今どうしている?動いたか?何か少しのきっかけがあれば、お前は必ず動く。そういうやつだ。
フロルは自嘲的にふっと笑った。
―まあ、お前が動くとして、それはきっと私やエスティバ様のためではないのだろうがな。お前はもう私たちを友とは思っていないのだろう?
フロルは懐かしい銀髪の友の顔を心に浮かべた。
いつか彼にもう一度会えるだろうかという考えが不意に浮かんだ。
しばらくしてマーサとプロップが姿を現し、そして朝食が運ばれてきた。
◆6◆
作戦会議は午前十一時きっかりに始まった。
聖騎士団屯所三階の最奥にある大会議室は、聖騎士団の中でも限られた階級の者しか立ち入ることを許されていない場所だった。
出席者は十二名。それぞれ威厳ある円卓に緊張の面持ちで腰かけた。団長のストロス卿始め、元老院代表一名、聖騎士団の各隊長六名、それしてフロル、プロップ、マーサがいた。
そしてもうひとり……。
「アリス!」
思わずプロップは大声を上げてしまった。自分の向かい側に座ったのは間違いなくあのくるくる赤毛のまん丸メガネ少女だった。
開会の挨拶を口にする寸前だったストロス卿は、プロップに遮られた格好になり、気まずそうに咳払いをした。
「プロップ君、静粛に」
「閣下、どうして彼女がここに?」
「追って説明するよ」
「彼女は民間人です!」
「追って説明すると言っているではないか」
「……わかりました」
プロップはとりあえず引き下がることにした。アリスの方を見ると、申し訳なさそうな表情でこちらを見ていた。どういうわけか、特に自分がここに呼ばれたことに驚いている気配は感じられなかった。
―何だ?既に“打ち合わせ済み”なの?納得してここに来ているのかい?
プロップの胸の内に、不安の巨大風船が膨れ上がった。
一方フロルは、聖騎士団隊長のひとりに、先ほど食堂で出会ったあのボロミアの姿を認めた。先ほどと違い、彼は立派な銀の鎧とマントに身を包んでいた。
―隊長だと?あの若さでか?
それからすぐにフロルは思い出した。彼の恋人らしきエレンという少女がどう紹介されたか。
“団長のお嬢様……”
確かそう言っていたはずだ。先ほどはそれほど気にもならなかったが、彼がその若さで何故聖騎士団の隊長という身分にあるかという理由がわかった気がした。
―つまり、団長のお気に入りということか……騎士として優秀なのは確かだろうが、隊長というには若すぎる。
フロルの視線に気づき、ボロミアは軽く会釈をした。
「では始めよう」
ストロス卿が形式ばった挨拶をし、会議は始まった。
最初の十分間は状況説明が行われた。現在、ミザリィスティアの交換周期に入っていること、昨日アリスの誘拐未遂事件が起こり、“将軍”が姿を現したこと、レディ・マーサたちに協力を仰ぎ、これを期にミザリィスティアと最終的な決着をつけるつもりであること、また、作戦成功後にはマクスカへ赴き、ティト・カーソン救出に力添えすることなどを簡潔に説明した。誰も異論や質問を挟まなかった。
昨日フロルとマーサと会談してから、この短時間に、既にストロス卿は多くの関係者を説得済みなんだなとプロップは感心した。なるほど、よく見れば、ストロス卿の目の下には、少しも睡眠をとっていないという証拠がくっきりと浮かび上がっていた。
「それでは、さしあたっては、本日の十四時に開始することを目標に、ミザリィスティア討伐の作戦を説明する」ストロス卿が重々しく告げた。場の緊張感がより高まった。「この作戦は、基本的に三百年前行われた“聖女作戦”を踏襲するものである」
ストロス卿がそう告げると、六人の隊長たちがいっせいに眉をひそめた。
「“聖女作戦”は散々な結果に終わったと聞きますが」
ひとりの隊長が発言した。
「そうだ。何故失敗だったのか。それはミザリィスティアの強さを完全に見誤っていたからだ。今回はその部分を補完している」
「“補完”とは、具体的にはどういうことですか?」
別の隊長が訊ねた。
「フロル・ラウラン殿だ。彼女についての説明は要るまい?三百年前にはこれほどの戦力はなかった。だから敗北したのだ」
ストロス卿は自信満々に答えた。各隊長は畏れるような表情でフロルを見た。
「その“聖女作戦”について詳しくお聞かせ下さい」
フロルが言った。
「ああ、もちろんだとも」ストロス卿が答えた。「三百年前のことだ。あるひとりの少女がミザリィスティアの下僕に誘拐されかかり、すんでのところで救出された。しかし、その後も彼女は数回に渡り狙われ続けた。異例のことだった。当時の聖騎士団は、ミザリィスティアはその少女を大層気に入ったのだろうと判断し作戦を立てた。あえてその少女に日常生活を送らせながら、その実、聖騎士団精鋭により二十四時間密かに監視し続けた。ほどなくして、案の定再び悪魔が彼女をさらいに来た。聖騎士団はすぐに救出はせず、少女をさらった悪魔を尾行し、ついに当時のミザリィスティアのアジトを突き止めた。後にも先にもミザリィスティア当人が聖騎士団の前に姿を現したのはこの時だけだ。聖騎士団は、当時最強と言われていた精鋭部隊をアジトに送り、帝都本部にいた全軍がこれを後方支援したが、結果は無残きわまりないものだった。精鋭部隊は全滅し、千名近くの死者を出した挙句にミザリィスティアはその場から逃げた。ミザリィスティアはその他の悪魔たちと桁が違うということを初めて聖騎士団は知ったのだ」
「その少女はどうなったのですか?」
プロップが震える声で訊ねた。
「……行方不明になった」ストロス卿は少しためらいながら答えた。「ミザリィスティアがその場から連れ去ったのだろう。そして、恐らくは彼女の新しい体に―」
「アリスにそれをやらせるつもりですか?」プロップの声は怒りに震えていた。「そうでしょう?今この場にアリスがいる意味は。今回はそのオトリをアリスにさせるつもりなんだ!ふざけてる!」
「彼女自身が了承した」
「そんな馬鹿な!」
プロップはアリスを見た。アリスは悲しそうな顔でプロップを見つめた。
「プロップさん。私は自分の意志で決めたんですよ」アリスは言った。「閣下の作戦を信じています。それに、私は……」
「こんなの間違ってる!」
プロップは叫んだ。
「何があろうとも彼女は守り切る」ストロス卿が断固とした口調で言った。「今回の作戦は成功する公算が高い。君も理解できるはずだ。フロル・ラウランという人物についてだよ。彼女の戦闘力は桁外れだ。一騎当千という言葉があるが、彼女には実際的にその力がある。しかしそれだけではない。この三百年の間に、我々はあるひとつの悪魔封じの魔法陣を開発した。今回はミザリィスティアをどこにも逃しはしない。そしてこれ以上犠牲を払わないようにするためにはこれしかない。これを逃せば次のチャンスは三百年後だ。それまでに一体何人が悪魔の犠牲になることか……どうか理解して欲しい」
「プーちゃん」なおも反論しようとしたプロップをマーサがなだめた。「納得しづらい部分はあるけど、既に彼女は決意してしまっているみたいよ?そのことについては、後で話し合いましょう」
プロップは渋々黙った。
「当時の悪魔の拠点は今はどうなっているのですか?」
フロルが訊ねた。
「今は聖騎士団の支部になっている」ストロス卿が答えた。「エクスカンダリアの北の山の麓に立っている廃墟……どうやらその昔病院か何かだったようだが……そこが悪魔の拠点だった。事件後、その建物を改築し聖騎士団の支部とした……ちなみに当時、その事件は表向きには、無政府主義過激派と帝国軍の戦いが起こり、たまたま近くにいた聖騎士団が巻き込まれたということで処理された」
「なるほど。もうひとつ訊きたいのですが、彼女が今回のミザリィスティアの“お気に入り”だという保証はあるのですか?既にミザリィスティアが新しい体を入手済みという可能性は?」
「考えにくいと判断した。今回、“将軍”が直々に姿を現したこと。そしてその将軍が残したメッセージを考えるに、アリス君を狙っていることは間違いない」
「罠ではないですか?三百年前の教訓を持っているのは聖騎士団だけではない。向こうだってそうだ。わざわざ予告をするでしょうか?何かを誘っているのでは?」
「もちろんその可能性は考えた。しかし、ならばその罠に乗ってやろうというのが結論だ。敵は我々を甘く見ている。あらゆる罠に対応できる布陣を敷く。それに、何度も言うが、こちらにはそなたがいるのだ、フロル殿。そなたなら、あらゆる自体を打開できる力がある」
「過大評価ではありませんか?」
「君自身はどう思っているのかね?」
「やれることはすべてやるつもりですよ。何せこちらとしてもマクスカへ攻め入るのに聖騎士団の協力が必要ですから」
「ならば何も問題あるまい。私としては、今この建物の中にいるすべての騎士を使っても君に勝てる気はしない。大げさじゃないよ」
「やはり過大評価ではありませんか?」
ひとりの隊長が口を開いた。
「試してみればいい」ストロス卿は素っ気なく言った。「止めはせんよ。今この場で剣を抜きたまえ。彼女を殺してみろ。できるもんならな」
場が凍りついた。発言した隊長は、しばらくして咳払いをひとつすると、ひきつった笑みを浮かべ、結構ですと言って引き下がった。
「では説明を再開するよ」ストロス卿が一同を見渡して言った。「本日の十四時をもって、アリス君とアイニコワ氏を帰宅させる。各自二名の護衛を二十四時間体制でつける。ああ、ちなみにこれは帝国軍の特殊兵だ。わけを話して協力してもらった。そして、それとは別に、アリス君だけはフロル殿と聖騎士団の者一名で秘密裏に監視させる。決してアリス君には近づかず、敵に気づかれないようにするんだ。アリス君には日常生活を送ってもらう。しかし“表向きの護衛”たちはあえて“隙”をつくる。ふとした油断に見せかけて、一日のうち数分間だけ彼女から目を離すようにするんだ。そうして再び悪魔が彼女をさらいに来るのを待ち受ける。悪魔が彼女をさらったら、フロル殿はそれを追跡し、聖騎士団の者は我々本部へ素早く連絡する。そして全軍上げてフロル殿を追跡し、敵の本拠を包囲する。その後我々は敵の本拠ごと悪魔封じの魔法陣を張り、フロル殿はミザリィスティアと決着をつける。なお、アイニコワ氏及びアリス君の保護者であるスミス夫妻には、今回のことはすべて秘密だ。協力者はアリス君のみだ。作戦の全容は以上だ」
「フロル殿と共に行動する聖騎士団の者とは誰ですか?」
ひとりの隊長が訊ねた。
「ボロミア、お前だ」
ストロス卿はボロミアを指さした。ボロミアは特に驚いた顔をしなかった。他の隊長たちは皆わずかな嘲笑を浮かべながら小さく二、三度頷いた。
フロルは内心ため息をついた。はっきり言って彼は邪魔である。自分ひとりでやるほうがよほどましだった。足手まといになることはあっても、彼が役立つ場合はきわめて少ないだろう。
しかしフロルは異議申し立てをしなかった。時間の無駄になるばかりか、これを理由にまた交渉がやり直しになる可能性さえあるということがわかりきっていたからだ。
フロルの推察はこうである。まず、ボロミアは団長の娘であるエレンと恋人同士だ。そして団長はそのボロミアを痛く気に入り贔屓している。彼に手柄を与え、将来的には義理の息子として自分の跡継ぎにしたいとさえ考えているかもしれない。ボロミアは会議の前から既にフロルと行動する任務を与えられることについて説明済みだったようだし、他の隊長たちは団長のえこ贔屓を良く思っていないようだ。
つまり、どれだけ異議を唱えようがストロス卿は断固として受け入れないだろうし、下手に他の隊長たちを煽りでもすれば士気が下がり、この作戦自体が根本から崩れてしまう恐れがある。ここは仕方なしに足手まといの若者ひとりを自分が抱え込んで解決するしかなさそうだ。
「では、我々他の聖騎士団員はどうするのです?」
ひとりの隊長が訊ねた。
「エクスカンダリア及びイメッカ全域において、いつでも出動できるよう体制を整え、各自本部からの連絡を待つように」
「私はどうすればいいのですか?」
マーサが訊ねた。
「レディ・マーサとプロップ君には私と共に本部にいてもらうとしよう。アドバイザーとして動いて欲しい」
「わかりました」
「僕はフロルさんと行く!」
プロップは断固とした口調で言った。全員が驚いて彼を見た。
「プロップ、やめろ」
フロルはそう言いつつ、内心では彼が絶対に引き下がらないであろうことを既に確信しており、神を呪いたい気持ちになっていた。
「絶対にこれだけは譲らないよ!それができなきゃ僕は降りる。作戦には参加しないし、スピナが戻るのを待ってまたふたりで旅をするんだ!」
「君の言っていることは、多くの命を危険にさらす―」
「閣下、私は彼に賛成です」ストロス卿がプロップに噛みつく前に、フロルが申し出た。「よく考えてみれば合理的です。私とボロミアの二人でいるより、よほど行動の幅が広がります。それに彼はこう見えてただの少年ではありません。多少の諜報活動の経験がありますし、いくつか大きな戦闘の経験があります。私やアリスとの信頼関係も深い。これはきっと作戦に有利に働くことでしょう」
フロルは内心うんざりしながらも、毅然としてそう言った。先ほどのボロミアの件とまったく同様に、どれほどプロップを説得しようとしても時間の無駄どころか事態を悪くするばかりなのだ。泣き出さんばかりに自分へ送られるプロップの情熱的な視線を感じたが、これを受け止める気はなかった。
「……よかろう。君がそこまで言うのならな」ストロス卿はしばらく考えた後、そう答えた。「よし。ではこれより、各自に具体的な指示を送る。そして十四時から作戦開始だ。何日かかるかわからぬが、これが帝国聖騎士団史上最も重要な戦いになるということを自覚し、誇りを持って力を尽くせ!全員で勝利の美酒を飲もう!」
◆◆◆




