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〈Ⅱ‐Ⅵ〉死者へ捧げる祈り




◆1◆




―まあ、確かに……ちょっとおかしいかもな……。


窓の外を眺めるふりをしながら、スピナは窓ガラスに映っている、自分と向かい合って座っている詩人の姿を見ていた。


五月十日。午前十一時。


プロップが統一記念公園でアリスと待ち合わせることに成功していたその頃、スピナ、テンダ、そして詩人のユニスの三人は、汽車に乗って既にエクスカンダリアを発っていた。


乗車した一行は、四人がけの向かい合わせの席に陣取った。片側にスピナが一人で座り、向かいにテンダとユニスが並んで座った。(テンダは迷うことなくユニスの隣に座ることを決断した)


発車するやいなや、テンダはスピナとユニスに簡潔な説明を始めた。


霊峰ベリオンは大陸の西海岸寄りに位置しており、東海岸沿いにあるエクスカンダリアから出発した場合、大陸をほぼ横断する格好になるらしく、汽車の旅は約二日ほど続くということだった。


「ベリオンは、一応アリナス公国の領土ってことになってるのよ」


テンダがそう説明すると、詩人は首を傾げてうむむと唸った。


「ジンガの領土ではないのですか?地図で見た限りではそう見えますが?」


「ああ、えっとね……」


テンダは目を上に向けて考え込んだ。記憶の引き出しを必死に探っているんだな、とスピナは思った。


「ほら、ジンガってさ、帝国統一まではアリナスの一部だったでしょ?……でしょって言うか、まあ、そうだったらしいんだけど……アリナスはもともと王国だったから……それでベリオンもアリナスの領土ってことになったらしいんだけど……えっと、何だっけな……あ、そうそう!ベリオンって何かとトラブルが多いから管理が大変なのよ。勝手に冒険者が入らないように見張ったりとか……ジンガだけだとそれが大変だからアリナスに渡した……アリナスのほうが国力があるから……何かそんな感じの理由だったと思うわ」


この女は詳細な説明がものすごく下手だなと、スピナは自分のことを棚上げにしてそう思った。


「なるほど。ところで今のお話からすると、我々もベリオンに入るのは難しいのでは?」


詩人はそう訊ねた。


「ああ、そこんとこは全然心配要らないわよ」テンダは事も無げにそう答えた。「簡単に入れるの……まあ、そうね、着いたら詳しく説明するわ」


詩人はああ、そうですかと答え、そこでその話題は終いとなった。


スピナは窓の外に顔を向け、ふと浮かんだひとつの疑問について考えていた。


―たったそれだけか?質問は他にもないのかよ?


考えてみれば今さらな疑問だった。


霊峰ベリオンが実は安全な場所だとテンダはわかりきっているらしいが、この詩人を含め世間一般ではそうは思われていないはずだ。


にも関わらず、詩人はそのことについては一切訊かず、それどころか疑問に思う素振りすら見せてはいない。


“霊峰へ行く目的は?噂されている危険をどう回避するつもりなのか?”


真っ先にそういった質問を投げかけて然るべきである。


単にこの詩人が変人というだけなのかもしれないし、あるいは出発前にテンダかマーサが簡単な説明をしたのかもしれないが、フロルから忠告を受けていたスピナにとってはどうしても引っかかる疑問だった。


―ちょっと探ってみるか?いや、怪しまれてしまうか?


スピナは詩人に質問をしようかどうか悩んだ。自分が警戒しているということを詩人に悟られないようにしなければならない、それもまたフロルに忠告されたことだった。


―ああ、面倒くせえ!もういいや!


やがてスピナは、やはり質問してみようと決断を下して詩人に顔を向けた。


「なあ、あんた。恐くないのか?」


突然スピナが口を開いたことに驚き、詩人とテンダはほぼ同時に素早くスピナに顔を向けた。


「何がですかな?スピナ君」


詩人は年季の入った微笑を浮かべて聞き返した。


「霊峰だよ。噂は知ってるんだろ?いくら報酬が高いからって、そんな仕事どうして引き受ける気になったんだ?そんなに自分の腕に自信があるのか?」


スピナがそう言うと、詩人は人さし指をぴんっと立てた。


「スピナ君、その質問に答えたら、代わりに私のお願い事を聞いてくれますか?」


「ん?お願い事?」


「それです」詩人は立てていた人さし指をスピナの腰に向けた。「その剣に触れさせて下さい」


「何だよそれ。じゃあいいよ。別に答えなくてもよ」


スピナはふんっと鼻を鳴らした。


「どうしてもダメですか?手に取って、眺めてみたいだけなのです」


「ダメだ!」


「ほんのわずかな間だけでいいのです」


「嫌だ!」


「頑固ですね」


「あんたこそしつこいぜ!」


「触らせてあげるくらいいいじゃないのよ!」


ここでテンダが会話に割り込んできた。


「うるせえ!ダメなもんはダメだ!」


「その剣のことになると、あんたってやけにむきになるわよね?そう言えば、なんとかって名前とかつけて話しかけたりしてるし。男のくせに気持ち悪いわ」


テンダは小馬鹿にしたようにふふふんっと笑った。


「そうかよ……もういい」


スピナは静かにそう言うと、おもむろに席を立った。


「何よ……どこ行くのよ?」


テンダは相変わらず小馬鹿にしたような口調でそう訊いたが、内心では少々動揺していた。予想していたものとは異なるスピナの反応だった。てっきり彼が強気で反論してくるものかと思っていた。


「便所だ」


スピナは振り返らずにぶっきらぼうにそう答えると、そのまま廊下の向こうへと歩き去って行った。


「何本気で怒ってんのよ……あいつ……」


テンダは詩人の手前、強気を崩さずにそうつぶやいた。


「テンダさん」詩人はにっこりと微笑んだ。「若いってのは羨ましいですな。けんかするほど仲が良いといいますね」


「仲良くないわ」テンダはユニスに冷ややかな視線を送った。「放っといてよ……」


「はあ……」詩人は決まり悪そうに首筋をぽりぽりと掻いた。「いやはや、そうですか……申し訳ない」




◆2◆




“イメッカ帝国聖騎士団”


帝国聖騎士団、あるいは聖騎士団と略して呼ばれる場合が多いが、正式名称はそれとなる。


その歴史は古く、帝国統一の年、つまりA・T元年に正式に誕生したのだが、それ以前から基となる組織は存在していたとも言われている。


イメッカ帝国聖騎士団は、マクスカ騎士団などの他国の騎士団と大きく異なる特徴がある


それは“国が保有する武力たり得ない”ということ。


さらに言うと、帝国聖騎士団は厳密には“民間の組織”となる。


基本的には双神教信者の支援のみが活動内容となり、刑事事件への介入や反帝国勢力などの鎮圧は一切行わない。


「今はモンスターの数もめっきり減っちゃったからあまりそんなこともないらしいけど、昔は巡礼の旅に同行して信者たちをモンスターから守ったりしてたらしいわ」


美しく、そして気高くそびえ立つ大聖堂を見上げながらマーサがそう言った。


「もっとも、あなたにはそんな説明は不要かしら?私より詳しいかも」


「まあ、そうですね」


フロルも大聖堂を見上げながらそう返事をした。


五月十日。午後十一時。


スピナたちが汽車でエクスカンダリアを発ったその頃、フロルとマーサは、エクスカンダリアの中央区にある大聖堂前で馬車を降りていた。


「もう少し東に行くと修道院、西に行けば聖騎士団屯所よ」


マーサは遠くを指さしながらそう言った。フロルは納得したというように軽く頷き、それが合図だったというように二人は西に向かって横に並んで歩き出した。


フロルは敷石で舗装されている歩道を眺めながら、その美しさに改めて関心した。


周囲には民家もなく人影もまばらだった。午前中のやわらかな日差しと静寂が緩やかな坂道を彩り、小鳥のさえずりとブーツが地面を叩く心地好い音が心を和ませたが、しかしそれでもフロルの胸は完全に晴れ渡ってはいなかった。


「ねえ、フロル、屯所に着く前にいくつか訊きたいことがあるんだけど……」


マーサは周囲を見渡しながらそう切り出した。やはりきたか、とフロルは思った。いつマーサがそれを切り出すだろうか、フロルはそれを恐れていた。


「はい、何でしょうか?」


「テンダ様のこと……私とティトのこと……あなたはすべて知っているのね?」


マーサの質問はフロルが恐れていたものとは違っていた。フロルは思わず驚きを表情に出してしまったが、すぐに真顔に切り替えた。


「ええ、知っています……テンダ様の正体……ティトがマクスカを追放された理由。ムミ様の婚約記念の日に、私がテンダ様の見張り役に抜擢されたのも、今思えば恐らく私がそれを知っていたからなのかもしれません」


「なるほどね……だけど、あなたは一体どうやって“その情報”をつかんだの?高レベルの国家機密のはずよ」


「かつて、“その情報”を偶然につかんでしまった地方領主の男がいました」


フロルはそこまで言って言葉を詰まらせた。マーサは黙ったままフロルの顔を覗き込み、次の言葉を待った。


「私がその男を消した……その時に私も情報を知ってしまった……」


「そう……」マーサはフロルから視線を外した。「もっと別のことを訊いてもいい?」


「はい」


今度こそ“あのこと”を訊いてくるに違いない、とフロルは身構えた。


「何故あなたはテンダ様の“血統”に敬意を払うの?」


「何と?」またしても意外な質問だった。フロルは驚きのあまり一瞬だけ立ち止まってマーサを見つめ、それからまた歩き出した。「奥方、恐縮ですが意味がわかりかねます」


「怒らないで聞いてちょうだいね」マーサは苦笑した。「“正常な”騎士がテンダ様の正体を知ったとしたら、最大限の敬意を払うでしょうね……これは理解できる。だけどあなたは違う……“正常な”騎士ではない……むしろ騎士道に反する行為を生業としていながら、それでもテンダ様に敬意を払っている……そこがわからないのよ」


「私は……」きわめて珍しいことだった。フロルの頭の中は真っ白になってしまっていた。「……そのように育ちました……そうとしか言いようがありません」やがて絞り出した答えはそれだけだった。


「そう……わかったわ。ごめんね、いろいろと訊いちゃって」


マーサは歩みを止めずに、すっと手を伸ばしてフロルの肩を優しくさすった。


それきり二人は無言のまま歩き続けた。


やがて坂道を登り終えたあたりで聖騎士団屯所が見えて来た。大聖堂ほどではなかったが、純白のその建物はマクスカ騎士団のそれとは違い、およそ血生臭さとはほど遠く、美しく、“柔らかさ”や“優しさ”を感じさせる建物だとフロルは思った。


―奥方は、今はあえて“それ”について話をしないつもりなのか……。


聖騎士団との交渉は恐らくうまくはいかないだろう、自分は“諸刃の剣”を交渉カードとして使わなければならないだろう、そしてそのことをマーサはすでに見抜いており、それについての質問をしてくるだろうと思っていたが、今のところその気配はない。それは、マーサが自分を気遣っているからなのか、他に理由があるのか、フロルにはわからなかった。


そして二人は屯所の正門の前にたどり着いた。


「おはようございます」


正門には門衛の若い男が二人いた。マーサは気品あふれる声で二人に挨拶をした。


「おはようございます、レディ」


門衛は二人とも丁寧に挨拶を返した。彼らが武器を携帯しておらず、防具すら最低限の軽装備であることにフロルは興味を引かれた。やはりマクスカ騎士団とは本質が違う組織のようだった。


「私はティト・カーソンの家内で、マーサと申します。ストロス卿にお会いしたいのですが、今日はこちらにいらっしゃいますか?」


マーサがそう言うと、門衛たちは一瞬だけ驚いた顔を見合わせた。


「ティト殿の奥さまですか……これはどうも初めまして」


門衛の一人が丁寧に礼をした。


「恐縮ですが、先にご用件を伺ってもよろしいですか?」


もう一人の男が訊ねた。


「主人が行方不明になりました。そのことでお話ししたいことがあるのです」


マーサは余計な間を置かずにそう答えた。さすがだな、とフロルは関心した。


「そ……そうですか……あの……申し訳ない。ここで少々お待ちを……」


門衛の一人はひきつった笑顔でそう言うと、もう一人の男に目配せをしてから屯所の中へと小走りで去って行った。


「ところでフロル、修道院には行ったことがある?あなたはエクスカンダリアに来るのは初めてじゃないってことらしいけど」


門衛を見送ると、マーサはフロルにそう訊ねた。


「いいえ。行ったことはありません」


フロルは小首を傾げながらそう答えた。マーサの質問の意図がわからなかったが、門衛に聞かれる位置で話すことなのだから、大した話題ではないのだろうと思った。


「そう……どうしよっかな……」マーサはひとりごとのようにつぶやいた。「後でちょっと寄ってみる?ねえフロル、“死者へ捧げる祈り”というのを聞いたことがある?」


「……死者へ捧げる?……いいえ、聞いたことはありません」


フロルは記憶を探ったが心当たりはなかった。


「そう……そうなの……どうしよっかなあ……」


マーサはまたしてもひとりごとのようにつぶやいた。それから続けて何か言いかけたが、その時ちょうど、先ほどの門衛がこちらに駆け足で戻ってきたため口を閉ざした。


「お待たせしました、レディ」少しだけ息を切らしながら門衛の男は告げた。「閣下はすぐにお会いになるそうです。どうぞこちらへ」


そして二人は先導する門衛に従い、聖騎士団屯所の入り口へと歩き出した。




◆3◆




「かったるいペースだな。まあ、明日には着くだろうが」


ライオネルは木に背をもたれて立ち、苦虫を噛み潰したような顔でそうつぶやくと、煙草をくわえて火をつけた。


「まあ、そうだなあ……」


少し離れたところで、ちょうどよい大きさの岩にどっかりと座り込んでいるリッキーは、うわの空でそう返した。あるひとつの考えにとらわれ、あまりライオネルの声が耳に入っていなかった。


五月十日。午後十一時十五分。


“二匹の一匹狼”は、マクスカ王国の国道外れの草原にある大きな木の下で休憩をとっていた。


マクスカシティを抜け出した二人は、コヒの村へ向かうという意見で一致したものの、その移動方法については意見が真っ二つに分かれてしまった。


国道に沿って移動するべきだ、最速でコヒの村へたどり着けるし、何よりあの化物に出くわさずにすむ、さすがに人目につくところで襲ってはこないだろう、というのがリッキーの意見。


対してライオネルは、多少の危険を犯してでも国道を外れるべきだ、国道に沿って移動すれば自分たちが今どこにいるか、どこへ向かっているのかが相手に知れてしまうかもしれない、敵はマクスカ中枢だ、どこに監視の目があるかわかったものではない、と頑なに反論し続けた。


リッキーはライオネルの意見が合理的だと頭の片隅では認めたものの、あの緑色の腕の化物の恐怖が心身ともに染み渡っており、わずかでもそれと遭遇する確率を下げたかったため自分の意見を曲げなかった。


二人の意見は平行線をたどったが、最終的にはライオネルの勝ちとなった。


腰元の円盤に手をかけながら、“そろそろ俺の意見が正しいと、そんな気がしてきただろ?”とライオネルがリッキーに詰め寄り、そこで口論に終止符が打たれたのである。


悔し紛れに愚痴や皮肉をこぼしながらも、リッキーは次第にライオネルに感謝するようになった。


野宿は苦痛ではあったが、結局この二日というもの、あの化物と再会することはなかったのである。


さすがに食料や傷薬などの日用品を買うために何度か国道に入ったが、監視の目があったとしても、自分たちの足取りを完璧につかむことは難しいだろうと思えた。


ライオネルの判断が正しかったわけである。


「ところでリッキー、お前に聞き忘れてたことがあるんだが、テンダ・カーソンという少女を知っているか?あの日、王宮に招待されていたらしい」ライオネルはくわえ煙草をふかしながらそう訊いたが、一向に相づちや返事が聞こえてこなかったため、眉をぴくりと上げながらリッキーに顔を向けた。「おい、お前聞いてんのか?」


しかしリッキーはあさっての方向を見ており、何事か小声でぶつぶつとつぶやいていた。ライオネルは苛立たしく煙草の煙を深々と吐いた。


「おい、リッキー!寝ぼけてんのか?俺の話を聞け!」


殺気だった音圧の声を浴びせると、ようやくリッキーははっと我に返りライオネルを見た。


「何だって?今何か言ったか?」


「テンダ・カーソンという名に心当たりがあるかと訊いたんだ」


ライオネルは煙草のフィルターをぎゅっと噛みしめた。


「テンダ……カーソン?」リッキーは顔をしかめた。「何だそりゃ?ティト・カーソンのカミさんか?……あ、いや、違うな、確かティトのカミさんはマーサ・マリシーユ……当時、王宮一の美人って噂だった侍女で―」


「おい、どうでもいい話をするな!」ライオネルは煙草を地面に叩きつけて踏みにじった。「お前、イカれたんじゃないだろうな?化物が恐すぎて、頭のネジぶっとんじまったんじゃねえだろうな?」


「違うさ。もっとも、そうなっちまったほうが楽かもしれんが」リッキーは肩をすくめた。「あの化物について考えてたんだ。あの緑色の腕の化物さ」


「あんまりビクビクすんな。次に会ったら、やつは俺が殺す。借りっぱなしじゃ気がすまないからな」


「そいつは頼もしいね。ところで俺が考えてたのは、あの化物はどっかで見たツラだなってことなんだ」


リッキーがそう言うと、ライオネルは少しだけ驚いた表情をして首を傾げた。


「何だと?あの男にか?」


ライオネルは頭の中に、忌々しいあの怪物の姿を思い浮かべた。


特徴と言えば(伸縮自在な緑色の両腕を除いて、という意味だが)平均以上の巨体であるということだけのように思えた。フードを深く被っていたため、顔の特徴については何も気づかなかった(それどころではない状況でもあった)が、このリッキーは、あのわずかな対峙の間に男の顔をしっかりと記憶したのか、とライオネルは少々関心してしまった。


「知り合いか?それとも、ああいう化物の噂を聞いたことがあるって意味か?」


「いや、腕が伸びる化物なんて与太話にも聞いたことはねえよ。だけどあの男のツラ、あれはどっかで見たことがあるはずなんだ。随分前だと思うんだが……さっきから考えてるんだが、全然思い出せねえんだ……」


リッキーは頭をぼりぼりと掻いた。


「必ず思い出してもらうぞ、リッキー」ライオネルは鋭く人さし指を突きつけた。「そいつはかなり重要な情報になる」


「ああ、まあ、そうだがよ」リッキーは面倒くさそうにゆっくりと立ち上がった。「しばらくは無理そうだな……とりあえずそろそろ歩かねえか?明るいうちにもう少し進んでおこうぜ?」


「まあ、そうだな」ライオネルは同意した。「思い出せよ、リッキー。できるだけ早く。そのことを考えながら歩くんだ」


「ああ、うるせえな、わかってるって!」


そして二人はまた歩き始めた。




◆4◆




聖騎士団屯所は四階建ての大きな建物だった。


入り口で、フロルは虹の女王と予備の長剣を預けるようにと衛兵に指示された。


私はティト・カーソンの妻であり彼女は信頼のおける従者だ、少々失礼ではないかとマーサは抗議をしたが、フロルはそれを宥め、素直に武器を差し出した。


一階は大広間で、床には豪華な赤い絨毯が敷かれていた。フロアの東西には二階へ続く階段と、一階の離れへと続いている廊下へ出るための扉が左右対称に配置されており、まるで王宮のような荘厳さと美しさを醸し出していた。


二人は興味深く館内の様子を眺めながら衛兵の後に続き、謁見の間があるという一階の奥へと歩を進めた。


豪華な樫の扉の先にある割には謁見の間はさほど広くはなく、豪華な玉座こそあったが窓もなく、どこか圧迫感のある空間のように二人は感じた。


「団長は只今会議中です。もうしばらくお待ち下さい」


そう告げると衛兵は部屋の入り口へと引き返し、扉の脇に待機した。マーサとフロルは玉座の手前にぽつりと取り残された。


それから二人は約十分の間待たされることになったが、その間は一切会話を交わさず、特に気まずさや苛立ちを覚えることもなかった。


衛兵が近くにいる以上、話せることは限られているということを二人とも十分承知しており、また、二人とも特に沈黙に苦痛を覚える性分ではなかった。


「お待たせして申し訳ない」


あらゆる意味で“完成された”微笑を浮かべながらその男は現れた。


アンドリュー・ストロス。


聖騎士団長であり、伯爵の称号を有している。


フロルの記憶の中にある情報からすると、彼の年齢は五十にさしかかっているはずだが、実際にこうして対面してみると、それよりは相当若く見えた。


意図してそうしているのか、はたまた偶然そうなっているのかはわからなかったが、彼の髪はほどよく野性的に跳ね上がっており、さぞ悩みの多いだろうと思われる役職についているにも関わらず、見える範囲には白いものは一本も混じっていなかった。


頭髪と同じように“ほどよい野性”を帯びている口髭。彫りの深い目鼻立ち。瞳の奥に煌めく鋭い光。純白のローブでは隠しきれない鍛え上げられた肉体。


どれもこれも彼の広義における“人間としての強さ”を感じさせた。


―やはり楽な話し合いにはならないか。


フロルは内心で皮肉っぽく笑った。


「レディ・マーサ。これはまた随分とご無沙汰しております。お元気そうでなによりです」


ストロス卿は玉座には座ろうとはせずに二人の手前に立ち、丁寧に挨拶をした。


「閣下、大変恐縮ですが余計な挨拶は割愛しましょう」マーサは微笑を浮かべて言った。「これから話し合うことについて、私たちは少しでも早く結論を出さねばなりません。挨拶だけではなく、余計な駆け引きも割愛する必要があるでしょう。それほど重要なお話なのです」


「レディ・マーサ。相変わらずですな」ストロス卿は困惑した表情でそう言った。「ティトが行方不明になったと聞きました。我々にとっても……いえ、私個人としても非常に気がかりだ。無論全面的に協力するつもりです。しかし、こういう事態だからこそきわめて冷静に話し合う必要があるかと―」


「ご心配痛み入ります」マーサは冷淡に言葉を遮った。「ところで閣下、すぐにこの部屋から出ていくよう彼に伝えるべきですよ」


マーサはそう言いながら後方を振り返った。視線の先には入り口の脇で驚いた表情を浮かべている衛兵がいた。


「レディ・マーサ、この場所は―」


「私の隣にいる女性が誰かご存じ?」またしても冷淡に言葉を遮り、マーサはにっこりと微笑みながらフロルを手でさした。「ご紹介しますわ。彼女は名はフロル・ラウランといいます」


その刹那、ストロス卿の表情から一切の笑みが消えたのをフロルは見逃さなかった。


―やはり私を知っているか。


フロルは無表情でストロス卿を見据えた。ストロス卿はフロルに鋭い一瞥をくれるとすぐに視線をマーサに戻し、何事もなかったかのようにまた例の“完成された微笑”を浮かべた。


「これは驚いた……」


ストロス卿は顎髭をつるりと撫でた。


「いかがなさいますか?このまま話し合いを続けますか?」


マーサはやや挑発的にそう言った。


「やれやれ……今日は忙しくなりそうですな」ストロス卿は自嘲気味にそうつぶやくと、入り口の脇にいる衛兵に声をかけた。「おい、君、悪いが外してもらえるか?それから、私がいいと言うまでこの部屋には誰も近づかないようにしてくれたまえ……頼むよ」


衛兵はしばらく戸惑っていたが、やがて、承知しました閣下と返事をすると、素早く部屋の外へと姿を消した。


「さて、これで心おきなく話し合いを始められますぞ」衛兵を見送ると、ストロス卿はぱちんと両手を合わせてそう言った。「と言っても、一体何から質問していいやらわかりかねますがね……ティトが行方不明かと思えば、フロル・ラウランが我が屯所にやってきた……何が何やらさっぱりだ」


「私をよくご存じのようですね、閣下。お互いにかしこまった挨拶は無用ですか」フロルは無表情のまま言った。「私のような者が聖騎士団屯所の敷居をまたいだ……そのことをお怒りですか?」


「君は君自身が思っている以上の有名人なんだよ、フロル・ラウラン殿」


ストロス卿は表情を変えずにそう答えたが、フロルはその表情の中に別のものを感じ取っていた。


―この男、“今何かを思いついた”?


「しかし、“怒り”というのはいささか心外だな……“君のような殺人者をこの聖なる場所に招き入れた”……という意味だろうが、そもそもすべての生命とは、ただ存在しているだけでそれが既に罪なのだ」


「左様ですか。それを聞いて安心しましたよ、閣下」


「そろそろお話を始めてもよろしいでしょうか?」マーサが二人の会話に割り込んだ。「ぶしつけですが、単刀直入に用件を申し上げます。私たちはこれからマクスカへと乗り込み、ティトを救出してマクスカ王宮と戦うつもりでおります。その計画に聖騎士団も荷担して頂きたいのです」


「何ですと?」ストロス卿は声を上げて笑った。「冗談が過ぎますぞ、レディ・マーサ。ああ、まったくとんでもない話だ」


「詳しくお話します、閣下」


マーサは順を追って話を始めた。ただし肝心の部分、テンダの正体やスピナの赤い剣については触れず、マクスカ王宮は腐敗しており正体不明の仮面の男たちがムミ姫を手中にしている、ティトはマクスカへ密入国したが重傷を負い行方がわからなくなった、フロルは王宮を裏切ってイメッカへとやってきた、という内容にとどめた。


ストロス卿は終始驚いた表情で話を聞き、特に質問を挟むことはしなかった。


「私たちはマクスカへ行き、その仮面の男なる者を倒し、ティトとムミ姫を救出します。しかし戦力が足りません。マクスカへ入国することすら困難です。そこで聖騎士団にご協力頂きたいのです」


マーサは話を終えた。しばしの沈黙が部屋中を満たした。


やがてストロス卿はかぶりを振りながら大きくふうっと息を吐くと、ためらいながらゆっくりと口を開いた。


「今の話は本当ですか……?まったく……何という……」ストロス卿は腕を組んだ。「ところでレディ・マーサ、あなたの言う“私たち”、つまり今のあなた方の戦力はどの程度なのですか?」


「私とこのフロル・ラウラン、私の義理の娘であるテンダ、それに傭兵の少年二人……以上ですわ。もしティトが無事であれば、彼の親友であり、元熱風会幹部でもあるジド・フェルディナンドとその一味がこれに加わります」


「とても正気とは思えない」ストロス卿は両手を大きく開いた。「あなたは自分が何を仰っているのか理解していますか?そのお話がすべて事実として、とても我々の手に負えることではない。それは国際的な問題だ。イメッカとマクスカだけの問題じゃない。七大国連盟で協議されるべき話になる。あなたはそれが理解できないほどの愚者だとは到底思えせん、レディ・マーサ。我々が荷担してそれで解決できると?まったく荒唐無稽なことだ!」


「私は正気ですし、きわめて冷静で合理的なつもりでいます」マーサは少しも動じずに言った。「お言葉をそのままお返ししましょう、閣下。私もあなたのことを、それがわからないほどの愚者とは到底思えません。我々が何故このような戦いをしているか、その真意を見抜けぬほどの愚者だとは、とても」


「なるほど、やはりそうですか」ストロス卿は再び腕を組んだ。「つまりこういうことだ。あなたがたは何かを隠している。イメッカ皇室にこのことを知られたくない理由がある。隠密に事を運ばなければならない事情がある……そういうことですね?」


「その通りですわ、閣下。さらに言うなら、私たちはその秘密をあなたがた聖騎士団にも打ち明けるつもりはありません」


「しかしレディ・マーサ、それはそれでやはり正気とは思えない」ストロス卿は人さし指を立てて前後に振った。「一体何の義理があって我々は協力せねばならないのですか?あなた方の秘密というのは我々にとって好ましいことではないかもしれない。それを打ち明けるつもりもないという。あなた方は何の見返りもなしに、一方的に我々を巻き込もうとしている。そんな話が受け入れられるとでも?」


「義理ならありますわ!」マーサはすかさず言い返した。「“黒い霧事件”において、ティトは聖騎士団を救った。それだけではありません。近年の“悪魔事件”でもティトは大きく貢献しているはずです。聖騎士団はティトを助ける義理があります!」


「レディ・マーサ、それほど単純な話ではありませんぞ」ストロス卿もすかさず言い返した。「我々とてティトの恩に報いたいとそう思っております。ティトを救いたい。マクスカで起こっていることが本当ならその解決を望みます。ですが先ほども言った通り、これは我々が扱える問題ではない。どのような事情があるかはわかりませんが然るべき解決方法を探すべきだ。私から紹介状を書きましょう。今回の件は皇室へ任せるべきです。レディ・マーサ、我々聖騎士団は決して“武力”ではないのです」


「閣下、私たちは―」


「“見返り”があればよろしいのですね?」


マーサの言葉を遮りフロルがそう言った。ストロス卿とマーサは驚いた表情でフロルを見た。


「何だと?」


ストロス卿は苛立ったように聞き返した。


「ですから、見返りがあればよろしいのでしょう?」


フロルは相変わらずの無表情でそう訊いた。


「フロル・ラウラン殿、何か勘違いしていないか?」ストロス卿はふんっと鼻を鳴らした。「見返りがあればいいという問題ではない。冷静に最善策をとるべきだという話なのだよ」


「建前はうんざりなんですよ、閣下」フロルは少しも動じずに言った。「最初にレディ・マーサがそう言ったはずでしょう。“余計な駆け引きは割愛したい”と、そう言ったはずです」


「フロル、やめなさい」


マーサは強い口調で咎めた。


「奥方、結論は出ています。“それ以外の方法はない”という結論が出ているんですよ。既に」


フロルはマーサの方を向き、彼女の眼を真っ直ぐに見据えたままそう言った。マーサは悔しそうな表情でうつむいた。


「さて、閣下。すべてあなたの言う通りです。我々はある秘密のためにマクスカ王宮を倒したい、そして聖騎士団を一方的に利用したいだけです」フロルはストロス卿に向き直った。「協力の見返りはこの“私”です。この件が解決したあかつきには、私の身柄を聖騎士団に差し上げると誓いましょう」


「話にならないよ、フロル殿。それのどこが見返りなのかね?我々聖騎士団は君のような人間を必要としていないよ」


ストロス卿はかぶりを振りながら苦笑したが、フロルはその表情の奥に浮かぶ、微かな本音を見逃さなかった。


「そうでもないでしょう?そちらには十分な利益になる。閣下、もういい加減に肚の探り合いはやめましょう」フロルはふっと笑った。「死神のような連中によって、マクスカの腐敗が進行しているというのは本当です。それを倒したとて、あなた方には決して不利益にはならないでしょう。出すぎた干渉行為と攻められることは決してありません。むしろ聖騎士団の功労者であるティトを救い、マクスカの不正を正したとなれば、あなた方は多くの世論を味方につけることができる」


「そんなものは望んでいない。我々は神に仕える者なのだぞ?」


ストロス卿は怒りのこもった口調で言い返したが、やはりその声の奥に潜む“本音”をフロルは見抜いてしまった。


「無論そうでしょう。しかし、少なくともあなただけはそうではない。聖騎士団を束ねる立場であるあなたにとっては」フロルは淡々と言葉を続けた。「私はこの身柄と共に、私の持っているすべての情報……ああ、もっとも今回の件については話せませんが……それ以外の情報をすべて聖騎士団に差し出します。それが見返りです」


「だから、それがどうして見返りになるのだ?さっぱりわから―」


「あなたが今何を考えているのか当てましょうか?」フロルは言葉を遮った。「天秤にかけているんでしょう?私の言う見返りがきわめて魅力的であるということはとっくにわかっていて、その上で我々に協力することのリスクを考え、それらを天秤にかけている最中なのでしょう?違いますか?」


フロルがそう言うと、ストロス卿の表情には驚愕の色が浮かんだ。それは紛れもなく真実の驚愕であり、その奥にはもはやそれ以外の本音は一切潜んではいなかった。


「帝国聖騎士団とは言っても帝国のものではない。自由ではあるが、その反面、組織として維持していくのはさぞ大変でしょうね」フロルはストロス卿の返事を待たずに話を続けた。「あなた方の台所がどれほど苦しいかという情報は、私のような者の耳にもしっかりと入ってきているんですよ。イメッカの腐敗を食い止め、世論を味方につけて磐石な基盤とし、さらに私の持つ情報で皇室との交渉を有利なものとする……どうですか?私はマクスカやイメッカのみならず、ビエストロやアスタリアの機密情報も持っています。それらのすべてを聖騎士団が手にするのです。それがどれほどのことか、あなたならよくわかるはずです」


それは決定的な言葉だった。しばしの沈黙が落ち、マーサとストロス卿はほぼ同時に確信した。もはやサイがふられてしまったということ、誰もがとても大きな決断を迫られているということを。


「どうやら、私は君を過小評価していたようだね……フロル・ラウラン殿」


しばらくして、ようやくストロス卿は口を開いた。それから彼は髪を掻き上げた。その仕草を見て、フロルは嫌な予感がした。


「君は噂以上の人物のようだ……その若さで……まったく驚いたよ」


ストロス卿はくっくっと笑った。


「図星だと……つまりそういう意味でよろしいですね?」フロルは無表情のままそう言った。「では交渉は成立……ということでよろしいですか?」


「ああ、そうだ……と言いたいところだが、やはり話はそう単純ではないのだよ」


ストロス卿は例の完成された微笑を浮かべた。フロルははっきりと確信した。先ほどこの男の表情から感じ取った“何か”が真実であるということを。


“この男は何かを思いついた”ということ。嫌な予感。


―私を何かに利用するつもりでいる?他にも条件を付け加えようとしている?私が誰だかわかった時点でそれが既に頭の中にあった?


「そうだね、ではこうしようじゃないか」ストロス卿はため息をつき、それからぱんっと両手を合わせた。「今日のところはこのくらいにして、また明日ここへ来て欲しい……いくら長とはいえ、私一人の一存では決定できない……幹部たちとの協議も必要だ」


「今すぐその協議とやらを始めてもらえませんか?」マーサは非難めいた口調で言った。「私たちはどこか別室で待っていますわ……いえ、何ならその協議とやらに参加しましょう。どうか今日中に結論をお聞きしたいところですね。時間は限られています……それに、フロルの覚悟に応えてくださいませんと私としては―」


「奥方、閣下の言う通りにしましょう……我々がいては話せないこともあるでしょうし……また明日来るとしましょう」


フロルは取り澄ました表情で穏やかにマーサを宥めた。マーサは悔しさを顔いっぱいに広げ、大きくため息をついたが、何も言わずにそのまま引き下がった。


「レディ・マーサ、どうか悪く思わないで頂きたい」ストロス卿は心から申し訳なさそうに言った。「ご理解頂けるだろうか……私としては是非あなたがたに協力したい……しかし私にも立場というものがある……これほどまでに重要なことについて、明日までに結論を出すということすら相当な離れ業なのです」


「まあ、そうでしょうね……」


マーサではなくフロルが冷淡に返事をした。直後の数秒間、フロルとストロス卿の視線はぶつかり合い、警戒、牽制、ほんの少しの敬意とそして嫌悪、それらが入り混じった複雑な感情が互いの間を行き来した。


「それではまた明日お会いしましょう。ちょうど今日と同じ時刻にお越し頂きたい。それまでに必ず結論を出すと約束しましょう。このストロスの名にかけて」


ストロス卿は深々とお辞儀をした。


そして簡素な別れの挨拶を済ませると、マーサとフロルは謁見の間を出て、聖騎士団屯所を後にした。




◆5◆




「詳しく聞かせてもらうわけにはいかないですか?」


お昼どきだというのに、その喫茶店はとても空いていた。大通りから離れた筋道の奥にあるからだろうなとプロップは思った。お世辞にも都会的とは言えず、やや古めかしくてこじんまりとした印象だったが、清掃は隅々まで行き届いており、とても居心地が良かった。


二人仲良く揃って同じアイスコーヒーを注文した直後、待ちかねていたかのようにアリスは質問を投げかけた。


「詳しく?何を?」


プロップはわざとらしくそう訊ねながらも、既にどう答えようかと必死に考え始めていた。


「プロップさんの目的です。どうしてアイニコワ先生にお会いする必要があるのか……“森”とは一体何のことなのか……そういったことです。もちろん、その、差し支えなければということですが」


ああ、やっぱりその質問かとプロップは作り笑いを浮かべながら、内心で冷や汗をかいた。


「その……僕の友人がいてね。彼はある理由で“森”を探してるんだ。僕たちはそのために旅をしているんだけどさ。まあ、その……ごめんね、アリス。話せるのはここまでなんだ……こんなに協力してもらっておきながら本当に悪いと思ってるんだけど……どうしても話せない理由があるんだ」


「そうですか……いえ、こちらこそいろいろと質問しちゃってごめんなさい。特別な事情がおありだということはわかりました」アリスはにっこりと笑った。「それにしても、このエクスカンダリアのどこにお泊まりなんですか?どこの宿も決して安くはないでしょう?大丈夫なんですか?」


この質問は思いがけないものだった。


女の子ってそういうところを気にするんだなあ、いや、女の子じゃなくても当然気になる疑問か、ところで何と答えるべきだろう、別に嘘をつく必要はないけど、テンダの家に泊まっているなどという言い方でいいのだろうか、女の子の家に泊まっているなんてあらぬ誤解を招いてしまうのではないか、おいおいちょっと待て、それはいささか自惚れ過ぎではないか、彼女は別に自分に大して“今のところ”特別な感情など抱いてはいないだろう、正直に言ってしまって何の問題があろうか、いや、ちょっと待てよ、待て待て、仮に“実は野宿をしている”と答えたらどうなるだろうか、もしかして“では、私の家に……”ってな話にならないだろうか、いや、そんなわけないか、でも試しに言ってみるだけなら構わないかなあ、いざとなったらそれはジョークだってことで済むわけだし、試すだけなら―


たったの一瞬だったが、プロップの頭の中に、星の数ほどの様々な思考が飛び交った。


「マーサさんって人の家にお世話になってるんだ」


結局プロップはそう答えることにした。


「マーサさんというのは?お知り合いですか?」


「まあ、その……旅の途中でテンダっていう人と知り合ったんだ。僕よりひとつ年上の人さ。その人からいろいろと仕事をもらったりしてるんだけど……ああ、前にも少し話したっけ?それで、マーサさんってのはそのテンダの保護者なんだ」


プロップは慎重に言葉を選びながらそう答えた。


「へえ、プロップさんと旅をしている方もそこに?」


「え?ああ、そうそう。そいつも一緒だよ」


「もともとはその方と二人で旅を始めたんですか?」


「うん。スピナっていうやつなんだけど、幼なじみでね。彼が“森”を探しているやつだよ。一緒に村を飛び出して旅を始めたんだ」


「スピナさん……ですか。今は一緒に行動していないのですか?」


「ああ、彼はその……別行動をしているんだ。図書館とかには縁遠いやつでね。テンダと一緒に別の仕事をしているよ。ちょっと遠くの方に出かけたんだ……どちらかと言うと、僕よりもスピナのほうがテンダと仲がいいんだ」


最後の部分は大嘘だったが、プロップはたった少しでもアリスがスピナに関心を持つことが許せず、また、自分とテンダの仲を勘違いされたくなかったため一石二鳥でそれらを解決したくそう答えた。アリスはああそうなんですかとだけ答えた。


その時、ちょうどウェイターがテーブルへコーヒーを運んできた。丁寧に置かれていくコーヒーの入ったふたつのグラスと、銀色と透明の小さなふたつの入れ物を眺めながら、プロップはちょっとした焦燥感を覚えた。


―小さいほうのやつは……ああ、ミルクと砂糖か?そうだよね……これって……どんくらいいれればいいんだろ?よく考えたら、僕は普段コーヒーなんてさっぱり飲まないぞ!ここで何か間違えたらカッコ悪いぞ!ダサい田舎者だと思われるぞ!


プロップはアリスに悟られないように小さくふうっと息を吐き出しながら、どのようなアイスコーヒーを完成させるべきかを頭の中で素早く考え始めた。


そして彼は結局“それ”に気がつくことはできなかった。


彼らより少し後に店に入ってきた、茶色いフードを被った大柄な一人の男が、カウンターの奥の席から不自然なほどにじっと自分たちを見つめているということに。




◆6◆




エクスカンダリア修道院に着いたのは、時計の針が十三時を少し回った頃だった。


「時間も余っちゃったし、やっぱり行きましょうか。あなたに見せたいものがあるの」


聖騎士団屯所にてストロス卿との対話を終えた後、マーサはフロルにそう提案した。


マーサの口調はいつも通りのどこか冗談めいたものだったが、その奥には“真剣味を帯びた何か”がひそんでいることにフロルは気がついていた。しかし、道中マーサはほとんど口を開くことはなく、彼女の真意はわからずじまいだった。


―奥方は一体私に何を見せたいというのだろうか?


翼の生えた裸の幼ない子供(恐らくは天使を表しているのだろうと思えた)のオブジェが飾りつけられている広い鉄の門。ミリ単位で揃えてあるのではないかと思われる入り口前の芝。一点の汚れもなさそうな白くて美しい建物。


およそ自分とは無縁であろうと思われる修道院を眺めながら、フロルの疑問はより深いものとなっていった。


「私もここに来るのは久しぶりなんだけどね」


門をくぐり、建物の入り口へと続く敷石の道を進みながら、ふとマーサが思い出したように話を始めた。


「綺麗な建物でしょ?礼拝堂とか図書館なら部外者でも自由に出入りできるのよ」


エクスカンダリア修道院。


イメッカ帝国聖騎士団と同じくその歴史は古い。


双子の神を信仰する宗教、“双神教”は、実は大きく三つの宗派に分かれる。


ひとつはクブ神のみを唯一絶対の信仰の対象とし、デト神を破壊神、邪神と位置付ける考えを主張する“アンダ派”。俗に“クブ神教”とも呼ばれる。


これはデト神が世界を支配していたとされる時代、つまりAD(またはBT)から既に存在していたが、当時は邪教とされ、信者は弾圧されていたという。


対照的に、デト神を絶対的な存在と位置付けるのが“イオス派”だ。


AD時代には、ほぼ強制的に全世界の人々がこの教えを刷り込まれていたとされる。驚くべきことに、トゥールがデト神を倒し、イメッカ帝国を統一した後も現代に至るまで、この宗派は完全には途絶えておらず、邪教とされながらもその信者は世界中に存在している。


「そこが人間らしいっちゃあ、人間らしいわね」


マーサは皮肉っぽく笑いながらそう言った。フロルは軽く頷いたが、内心はほとんどうわの空だった。


今さらマーサに説明されるまでもなく、フロルは双神教についてよく理解していたし、そんなことよりも何故自分がこんな場所に連れて来られたのかという疑問が心を満たしていた。


「あ、そうそう、ちなみに“アンダ”とか“イオス”ってのは人の名前が由来なんだって!知ってた?私もつい最近知ったの!なんでも、それぞれの宗派の指導者の名前からきているんですって」


自慢気にはしゃぎながら豆知識を披露するマーサに対し、フロルはいいえ知りませんでしたと素っ気なく返事をした。


「そんでもって、この修道院は当然“真派”になるわけだけど」


“真派”。


それはアンダ派やイオス派とも異なる三つ目の宗派である。


他の宗派との決定的な違いは、“クブ神とデト神はすべての生命の父と母であり、どちらも邪神にあらず、また、どちらも絶対神にあらず”という基本的理念にある。


「つまり、双子の神は二人揃って完全な神であるってわけね……まあ、私は無神論者だけど、双神教の中では“真派”が一番冷静かなって気がするわ」


それは同感だなとフロルは頭の片隅で思ったものの、やはり今はどうでもいい話だった。


「“真派”の生みの親は、他ならぬ英雄王トゥールだったと言われているわ。帝国統一後、アンダ派が勢力を盛り返してきたところを、“デト神とて邪神ではない、神が過ちを犯したのは我々人間のせいでもある、我々が信仰を失ったのがそもそもの原因だ、これからはその信仰を取り戻し、すべてを悔い改めるべきだ”ってなことを言ったらしいわ……さすが英雄王ね。それ以来、真派が圧倒的に多くなって―」


「奥方、そろそろお聞かせ頂けませんか?」


フロルは堪えきれなくなり、立ち止まってマーサの話を遮った。


「へ?何を?」


マーサも立ち止まり、肩越しにフロルを振り返りながら、きょとんとした表情で聞き返した。


「私に何を見せようというのですか?……“死者へ捧げる祈り”……確かそのようなことを仰っていましたが、それは何ですか?」フロルはそう言いながら、自分の口調が怒気を帯びていることに気づき、自分でそのことに驚いた。「それから奥方、何故“あのこと”について私に何も言わないのですか?……私が聖騎士団へ提案したことについてです……何故その話をしないのですか?」


「あなたらしくないわね、フロル……一度に二つも質問をするなんて……ちょっと冷静さに欠けているんじゃない?」


マーサは体ごとフロルに向き直り、おどけたようにそう言った。


「……あなたのお相手をしていますと、何故か自分のペースが崩されてしまいます」フロルはそう言った。無意識にその言葉が口から飛び出したといった感覚だった。さらに顔には微笑が浮かんでおり、それもまた無意識にそうなっていた。「本当にあなたは不思議な御方だ……本音が突発的に口からもれてしまわないようにする、というのが私の長年の習慣だったはずなのですが、あなたの前ではそれができない」


「それって褒め言葉?」


マーサは眉をひそめた。


「さて、半々……といったところでしょうか」


フロルは肩をすくめた。


「何それ?まあ、いいわ」マーサはうふふと笑った。「説明するより見たほうが早いと思うわ……と言うより、私も何て説明したらいいのかよくわからないってのもあるんだけどね……とりあえず行きましょ!」


マーサは建物の入り口を指さしながらそう言うと、フロルの返事を待たずにまたゆっくりと歩き始めた。


フロルはそれ以上は何も言わず、マーサに続いて歩き出した。


ほどなくして建物の入り口にたどり着いたが、マーサはそのままそこを通り過ぎ、東へ迂回してさらに奥へと歩を進めた。


建物の構造からして、恐らくその入り口の向こうが礼拝堂であり、マーサは自分をそこへ連れていくつもりではないのかとフロルは考えていたが、とりあえず質問はせずにマーサの後に従った。


ますますマーサの意図がわからなくなった。修道院と言えば、礼拝堂以外にとりたてて見るものなどないはずである。修道士の居住区などの禁域には立ち入れぬはずだった。


図書館には入れるということだが、そこには主に聖書や神書といったものしか置いていないはずだ。無神論者のマーサが、自分に何かを今さら説こうというわけでもあるまいとフロルは首を傾げた。


しばらく進むと、フロルの視界に吹き抜けの長い廊下が見えてきた。その向こうには広い庭があり、丁寧に手入れされた木々が見えた。どうやらそこはその庭を廊下で囲んだ、いわゆる“回廊”のようだった。


「さあ、着いたわ。ここよ。あれが“死者へ捧げる祈り”。“タンガ”と呼ばれたりもするわ」


マーサは回廊を指さし、その指をくるくると回しながらそう言った。回廊全体が“死者の祈り”なのだということを表しているのだろうとフロルは理解した。


「“タンガ”?あの回廊が……ですか?」


「正確には、あの回廊の壁に飾られている“絵”のことなの。近くで見ればわかるわ」


「絵……」


二人は回廊に足を踏み入れた。数人の修道士とすれ違ったが、誰も特に二人に興味を示すことはなく、呼び止められたり咎められたりすることもなかった。


そしてフロルは“それ”を目にした。


回廊の壁面には、数多の絵画がほとんど隙間なく貼られていた。フロルは最初に目にした一枚、足を踏み入れたすぐそばの壁に張られている一枚の絵に心を奪われ、足を止めてその絵に向き直り、半ば無意識のうちにゆっくりと近づいた。


―これは!


この時、もしフロルの命を狙っている何者かがすぐ近くにいたとしたら、たとえそれが幼児だったとしても容易に彼女の背後に近づき、問題なくその背中に剣を突き立てることが可能だったに違いない。


―これは……この絵は……。


フロルはすべての意識をその絵に奪われてしまった。目を離すことができなくなってしまった。それ以外の何かを感じることができなくなってしまった。


「どうフロル?あなたに伝わるかしら?正直に言うと、私にはあまりよくわからないのよ。でもあなたなら何か感じることがあるんじゃないかって、そう思ったの」マーサはフロルの背中へ問いかけたが返事はなかった。「やっぱり感じるのね」


「奥方……これは……一体何なのですか……?」


フロルは絵を見つめたままで訊いた。


「“死者へ捧げる祈り”……“タンガ”と言ったりもするんだけど……」マーサは静かな声で説明を始めた。「いつ頃誰が始めたものなのか……諸説様々ではっきりしないらしいんだけど……帝国が統一されて間もない頃、真派の高僧たちが始めたのがきっかけではないかと言われているわ。現在では、修道士たちが修行の一環としてこれを描いているの」


“死者へ捧げる祈り”。“タンガ”。


その画材に厳密な決まりはなく、通常の絵画用紙の他に綿布などを利用する場合もある。


顔料も化学塗料だけでなく、鉱石などから作った塗料が使われることも多い。


「だけど題材は決まっているから、真派の人しか描かないの。題材は“生と死”……真派以外の宗派は、その両方を“表裏一体”のものとしては考えないからってことらしいけどね」


また、タンガにおいて、必ず双子の神はある動物で表現される。


“クブ神”あるいは“生そのもの”を“羊”。


“デト神”あるいは“死そのもの”を“犬”


「だけどそれ以外の決まりはないみたい。色、配置、それらは自分なりの“意味”を表現していいみたい。生と死についての“解釈”……」


「“死者へ捧げる祈り”というのは?」


フロルは深呼吸をしてから訊ねた。


「ああ、それはね、真派では、すべての生命は“死”をもって初めて完成するとされているの……私にはよくわからないけどね……“死は恐いものでも悲しいものでもない”ってことらしいけど……だから、死者を“完成された生命”として崇め、敬い、慈しみ、祈りを捧げるっていう意味だそうよ……ちなみにティトの受け売りだけど……」


「そうですか……」


「もうすぐ“慰霊祭”があるでしょ?毎年慰霊祭では、修道士たちが描いたタンガがエクスカンダリア中に展示されるんだけど、ひとまず完成している一部をこの回廊に貼り出しているんだって。今年展示された分は、この修道院の禁域にある礼拝堂や地下倉庫に保管される、来年にはまた新しく描かれたものが展示される、この繰り返しらしいわ。まあ、そうは言っても、四千年以上続いているわけだから、どこかの時点である程度廃棄してるのかもしれないけどね。だって、置き場所がなくなっちゃうもの」


「そうですね……」


フロルはうわの空で返事をした。マーサの説明の半分も耳に入ってはいなかった。もはやすっかり絵の虜になってしまっていた。心臓は震え、体は火がついたように熱くなっていた。


彼女の目の前にある絵は、右半分の背景が血のような赤で染められており、そこには生まれたての赤ん坊が描かれていた。


左半分の背景は灰色で、そこでは横たわって眠りにつく老婆が描かれていた。


そして中央部分は美しく深い青が背景に描かれており、無表情の羊と犬、マーサの説明からするとクブ神とデト神、あるいは生と死ということになるが、それらが並んで描かれていた。


―それがどうした?


その時、あまりにも突然に、割れるような頭痛と共に“彼女”が現れた。


「お前は……」


フロルはそう呟くと、苦しそうに呻きながら前方に倒れかかり、タンガに手をついた。


―それがどうしたと訊いているんだ。この絵に一体どんな意味がある?どんな意味があるというのだ?答えてみろ!


「フロル?どうしたの?」


マーサは血相を変えてフロルに歩み寄り、支えるように彼女の肩に手をかけた。


「そっちこそ、一体どうしたというのだ?」


フロルは肩で息をしながらそう答えた。マーサはそれが自分に向けられた言葉ではないと気づくまでにしばらくかかった。


「フロル?何を言っているの?」


「やけに機嫌が悪いじゃないか。お前もこの絵の意味を感じ取ったんだろ?」


フロルはマーサの声を無視して“彼女”に問いかけた。


―お前は間違っている。ああ、くだらない。


“三人目”は苛立たしくそう答えた。


「フロル?どうしたの?」


マーサの額に汗が滲み出した。


「黙れ!くだらないかどうかは“私”が決めることだ!」


フロルは壁に手をついた姿勢のまま大声でそう叫んだ。マーサはびくっと体を震わせてフロルから手を離した。


「見つけたんだ……“死者へ捧げる祈り”……これが許されるとしたら?私にそれをすることができたとしたら?」


―あり得ない。“私”にそんな資格があると思うか?……いや、そうじゃない。そもそも“私”は死者へ祈りなど捧げたりはしないのさ。それは単なる偽善だ。“私”は“奪う者”なんだ!奪わなければ生きられない。狩りをしない鷹などいない。それと同じさ!


「そうじゃなかったらどうする?決着はついていないんだ!もう黙っていろ!」


「ねえ、フロル……」マーサは恐る恐るフロルに近づいた。遠くの方から、数名の修道士が怪訝そうにこちらを見ていることに気がついたのだ。このままここにいては憲兵を呼ばれかねない。「もう行きましょ?今日のあなたは体調が悪いのよ、きっと」


「ああ、わかっている。必ずまたあの仮面の男の前に立ってみせる!だからもう黙っていろ!私を一人にしてくれ!」


フロルはそう叫ぶと突然背後を振り返った。


今にも泣き出しそうなマーサの瞳と、狂気に血走ったフロルの眼がまともにぶつかり合った。


―楽しみにしているよ……。


最後にそう呟くと、割れるような頭痛と共に“三人目”は彼方へと去って行った。


「ねえ、フロル……一体どうしちゃったの?誰と話しているの?私はマーサよ?」


「奥方……?」フロルはそこでようやく我に返り、素早くあたりを見渡し、大きく息をついてから再びマーサに向き直った。「奥方……申し訳ありません……私は……」


「もう、しょうがないわねえ」


マーサは涙声でそう言うとおもむろにフロルに歩み寄り、彼女の体を強く抱きしめた。


フロルは驚愕のあまり声を出すこともできず、体は石のように硬直してしまった。


「奥方?」


「もう、びっくりしちゃうでしょ!」


マーサは戸惑うフロルなどお構いなしに優しくささやいた。フロルはどうしていいかわからず、両手をぎこちなく宙に浮かせたまま、視界の隅に映るマーサの後頭部を見つめ続けるしかなかった。


「ねえ、教えて。今のは何?誰と話していたの?」


「私は……」フロルは、このまま何も答えないほうがいいだろうと素早く決心したが、どういうわけか唇が勝手に動き始めようとしているのを意識した。「私の中にもう一人の私がいます……あなたの夫を殺しかけた“私”が……それが本当の私かもしれません」


「“死者へ捧げる祈り”……こんなもの見せなきゃよかったかしら?余計だった?ごめんね」


「いえ、滅相もございません」フロルは即答した。何故自分はこんなことをべらべらと喋っているのだろうという自己嫌悪に陥りながら、それでも唇はその動きを止めなかった。「見つけたのだと思います……私が捧げるべきもの……私が罪と真正面から向き合う方法を……」


「そう……」


「ですが、今はまだその時ではない……私は虹の女王を……剣を振い続けなければならない……あの仮面の男と戦わなければならない」


「仮面の男……」


「そうです。何故ならあいつは……あいつは……そう、あいつはもう一人の私自身でもあるから……きっと、そういうことなんです」


「ねえ、フロル」マーサはフロルから体を離し、彼女の肩に両手を置き、真っ直ぐに彼女の瞳を見据えた。「どういうことなのか、私はすべてを理解できない……あなたは裁かれるべき人間なのかもしれない……でもね、いつかそうなるとしても、今のあなたは一人じゃないの」マーサは優しくフロルの髪をなでた。「少なくとも今はね……あなたは一人じゃない……そのことを忘れないでね。あなたが聖騎士団にその身を差し出そうとしていること、私はそのことをとてもつらいことだと、そう思っているのよ。忘れないでね」


フロルは何も答えることができなかった。


胸の中に洪水のように溢れる感情が確かにあったが、もう唇が勝手に動き出すことはなかった。




◆◆◆





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