〈Ⅱ‐Ⅴ〉“エミリアと不思議の森”
◆1◆
「はあい!どちら様で?」
玄関の扉を開け、思いもよらぬ訪問者の応対をしたのはマーサだった。
朝もやけを切り裂くような明るい声だった。
「おはようございます。こちらはテンダ・カーソンさんのお宅ですかな?ああ、申し遅れましたが、私はユニスといいます」
ツインネックのアコースティックギターを背負った、見るからに詩人とわかるその男は、年季の入った羽根つき帽子をとり、その帽子と同じくらいに年季の入った微笑を浮かべながらそう訊ねた。
―あら、ハンサムだわ!よかったあ。着替えもお化粧もすませた後で……。
マーサは思わず、“私がテンダ・カーソンですわ”と答えてしまおうかと思ったが、すんでのところでなんとか思い止まった。
「ええ、ここはカーソン家ですよ。旅の詩人さん」
マーサは手櫛で髪を整えながらそう答えた。
「テンダ・カーソンさんはご在宅ですか?」
「ええ……ところで私はマーサ・カーソンといいます!」
マーサはそう言ってにっこりと笑った。
詩人も一応笑顔を返した。
そして約二秒半の“妙な間”が生まれてしまった。
「……失礼、レディ・マーサ」詩人は咳払いをして仕切り直した。「テンダさんは今ご在宅ですか?」
「え?……ええ、まあ……どのようなご用件でしょうか?」
「ホワイトパールのブルーペーパーを拝見しました。面接を受けさせて頂きたく参りました次第です」
「何ですって……?」マーサは耳を疑った。「そうですか……まあ、とりあえず中へ……」
信じられないという面持ちのまま、マーサは家の中に詩人を招き入れた。詩人は、お邪魔しますと礼をしてから家の中へ入った。
「テンダ様!お客様がいらっしゃいました」
マーサは玄関から家の中へと呼びかけた。ややあって、マーサと同じように身支度をすっかりすませたテンダがやってきた。
「お客様って?もしかしてブルーペーパーを見た希望者?」
急ぎ足で玄関にやってきたテンダは、期待と興奮にぎらつく表情でマーサと詩人を交互に見た。
「はい。そうです。初めまして。私はユニスと申します。あなたがテンダ・カーソンさんですね?」
「そうよ!よかった……さあ、早くこっちに!」テンダは、せかせかと詩人をダイニングへと引っ張って行き食卓に座らせると、自分はその向かいに座った。「じゃあ、さっそく面接を始めるわ……マーサ、お茶を」
マーサは、はいはいと返事をしてお茶を用意し始めた。
「えっと、ごめんなさい。お名前何といったかしら?」
テンダは早口で訊ねた。
「はい。ユニスと申します」
詩人は真っ直ぐにテンダの瞳を見ながら微笑した。
「ユニスさん?変な名前ね」テンダは率直な感想をもらした。「それは姓?名?フルネームは?」
「はあ、それは……」詩人は一瞬だけ両目を上に向けてから言葉を続けた。「実は忘れてしまったのです。長旅を続けているうちに」
「はい?」テンダは眉をぴくりとさせた。「そんなわけないでしょ?……長旅って……あなた、歳は?いくつ?」
「それも忘れてしまいました。年齢とはとどのつまり、ただの数字ですからな」
詩人はほっほっと笑った。テンダは顔をしかめた。
―どうしよう……音楽家って変わった人が多いって聞くけど……ちょっと“イタイ人”かも……でもこのチャンスを逃したら次はいつ人が来るかわからないし……。
「その……ユニスさん。見たところ詩人さんのようだけど、剣や魔法の腕はどうなの?得意技ってある?」
「剣はそれほどでも。しかし春の治癒魔法は少々自信があります」
詩人は胸を張った。テンダはううんっと唸って腕を組んだ。
「はい。どうぞ」
その時、マーサがいれたてのお茶を持ってきて詩人の前に置いた。詩人は丁寧に礼を言った。
「マーサはどう思う?」
テンダは意見を求めた。
「そうねえ……」
マーサも立ったまま腕を組んで考え込んだ。
「うまいお茶ですな」詩人がお茶を一口飲んでそう言った。「お茶と言っても、いれ方次第で味は大きく変わるものです。レディ・マーサ、あなたのお茶には真心を感じます」
「まあ……そうかしら」
マーサは頬を赤く染めた。
「多くの場合、天は人に二物を与えません。しかしあなたは違うようです。心もお顔もすべてが美しい」
「まあ!お上手ね……そんなことないわあ……まあ、ちょっとはそいうところあるかもって自分でも……」マーサは恥ずかしそうに身をくねらせると、テンダの肩をぽんっと叩いた。「テンダ様!この方は合格でいいと思います!」
「マーサ?」テンダは信じられないという顔をした。「時々あなたのことがわからなくなるわ」そしてため息をついて詩人に向き直った。「まあ、いいわ。ユニスさん、剣と魔法の腕を見せてもらいましょうか。中庭に行きましょう。とびっきりの面接官がいるから」
「はい。わかりました」
テンダと詩人は席を立ち、中庭へと移動した。マーサはお茶を片付けてから見に行くと言ってその場に残った。
中庭の中央には、剣を構えて向き合っているスピナとフロルがいて、裏口を出てすぐのところにいるプロップがそれを見守っていた。
「あら、プーちゃん。まだ図書館に行かないの?」
テンダはプロップに声をかけた。 心なしか彼が苛々しているようにテンダには見えた。
「うん。マーサさんとフロルさんを待っているんだ。一緒の馬車に乗るからさ。マーサさんの支度がすむまで軽く稽古をするっていうから、見物してるんだ」そこでプロップは詩人の存在に気がついた。「あれ?その人は?」
「ああ、面接希望者よ。ユニスっていうの。ユニス、こちらはプロップよ。我が家の居候」
テンダは早くも詩人を呼び捨てにしていた。
「へえ……どうも、おはようございます」
プロップは軽い挨拶をした。
「おはようございます」詩人は微笑を浮かべて挨拶を返したが、プロップの目を見た瞬間に急に真顔になった。「プロップ君……でしたかな?」そう言ってゆっくりとプロップに近づいた。
「はい。そうですけど?」
プロップは少し身構えながら、詩人を怪訝そうに眺めた。
「プロップ君……君の近くに……」
詩人はそこまで言って言葉を詰まらせ、プロップを見つめたままじっと動かなくなってしまった。
「あの……何でしょうか?」
一向に黙ったままの詩人にプロップはしびれを切らした。
「いえ、何でも……」詩人はまた微笑を浮かべた。「君の未来に影が見えたような気がしたもので……」
「え?」プロップは不安になった。「ち、ちょっと待って下さい!どういうことですか?占いとか、そういうものですか?」
プロップは、これまでにないくらいにそういったことに敏感になっていた。何故なら彼は恋をしていたからである。かつてこれほどまでに未来を知りたいと思ったことはない。
「はい。私にはそういう特技があるのです」
「僕の未来に影?……そ、それは近い未来ですか?」
「そうですね……」詩人は顎髭をつるりと撫でた。「“曇りなき瞳”で真実を見つけるのです……決して簡単なことではありませんが……しかし君ならそれができる。それもまた“人間の夢”なのでしょうから」
「どういう意味ですか?」
プロップは両手を広げた。
「その時が来ればわかりますよ」
詩人はにっこりと笑った。
「ですから、“その時”ってのは近い未来な―」
「テンダ様、その方は?」
追及しようとしたプロップだったが、その時ちょうど、いつの間にかこちらに近づいてきていたフロルの言葉に遮られた。
傍らには汗だくのスピナもいる。詩人の姿を見て稽古を一旦中断したようだ。
「こちらはユニスよ。新しい護衛候補なの」テンダはお互いを紹介した。「ユニス、こちらはフロル。あなたの面接官よ」
「初めまして、フロル殿」
詩人は深々と礼をした。フロルは無言で会釈した。
「そちらの少年は?」
詩人は不思議そうにスピナを見た。
「ああ、えっと、あなたと同じ雇われの護衛よ。あなたが合格すれば、あたしとそいつと三人で霊峰ベリオンへ行くことになるわね」
テンダは面倒くさそうに早口でまくしたてた。
「彼はスピナっていうんだ」
プロップは仕方なく詩人にスピナを紹介した。テンダはスピナと霊峰へ行くことに対して、未だに子供っぽく腹を立てているのだと瞬時に理解した。
「スピナ君ですか。ユニークな名前だ」
「あんたに言われたくないぜ」
スピナは肩をすくめた。
「おや?」突然詩人は目を見開いた。「君のその剣は……これは珍しい色だ……何と美しい」
詩人はスピナの短剣を覗き込みながら一歩近づいた。
「おい」スピナは顔をしかめて一歩後退した。「な、何だよ?」
「スピナ君。少しの間だけその剣を貸して頂けませんかな?手に取って眺めてみたいのです」
「だめだ!」
スピナは首を振ってきっぱりと断った。
「そこを何とかお願い―」
「だめだったらだめだ!」
「……そうですか。いやはや、これは失礼しました」
詩人はあきらめて引き下がったものの、 悲しそうな表情で名残惜しそうに短剣を見つめていた。
「もういいかしら?ユニス」
テンダが急かすようにそう言った。詩人はようやく短剣から視線を外してテンダに向き直った。
「じゃあ、今から軽くフロルと手合わせしてちょうだい……フロルに合否を決めてもらうわ……ところで、あなたの剣は?」
テンダは詩人をじろじろと眺めながらそう言った。背中にギターを背負っており、肩にはショルダーバッグを下げてはいるが、彼が武器らしきものを携帯していないということに今さらながら気がついた。
「ああ、私の剣は……」詩人はショルダーバッグを開け、がさごそとあさった。「これです。どちらかというと私は歌や魔法のほうが得意なもので……腕力もそれほどではないものでして……」
詩人が恥ずかしそうに取り出したのは、スピナの短剣より少しだけ長い程度の細長い剣だった。
「細剣?婦人用の護身武器だわ」テンダは呆れ顔でそう言った。「大丈夫なのそんなんで?」
「なかなか興味深いですよ。テンダ様」
フロルが無表情でそう言った。
「そうかしら?」テンダは鼻で笑ったが、フロルの無表情を見て、彼女が皮肉や茶化しでそう言っているのではないということに気がついた。「まあ、いいわ。じゃあ、さっそくお願いね。フロル」
「承知しました……では詩人殿、こちらへ」フロルは詩人を庭の中央まで誘導した。そしてニメートルほど距離を空けて向かい合うと、木刀を下段に構えた。「では始めましょう。遠慮なくどこからでも打ち込んできて結構です。ところで、ギターはそのままでいいのですか?」
「お構いなく……このギターは私の体の一部ですからな……それにしても、これは驚きましたな」詩人は細剣を鞘から抜きながらそう言った。「遠慮なくと言われましても、その構え……まったく隙が見当たりません……弱りましたな」
「ただの試験です。命まで取られはしませ―」
フロルが言い終える前に詩人は素早く一歩踏み込み、細剣による突き攻撃を放った。フロルは少しだけ上体を捻ってそれを避けた。
「なかなかしたたかですね。詩人らしくないのでは?」
フロルはにやりと笑った。
「いやはや、お恥ずかしい……緊張のあまり手がすべりました」
詩人はほっほっと笑った。
「あなたは面白い方ですね」フロルは構えを解き、木刀を地面に突き立てた。「試験は終わりにしましょう」
「ほ?まだ何もしていませんよ?」
首を傾げている詩人を無視して、フロルはテンダのもとへと歩いて行った。詩人はそれを目で追いながら、訝しげな表情で剣を鞘に収めた。
「フロル?どうしたの?」
突然戻ってきたフロルへ、テンダが不思議そうに声をかけた。
「テンダ様。彼は合格です」
「え?もう終わったの?」テンダはフロルの顔を覗き込んだ。「フロル、まさかとは思うけど、あなたも見え透いたお世辞を言われたとかじゃないわよね?」
「いい加減に試したわけではありません。ご安心を」
フロルはテンダに優しく微笑みかけた。テンダは完全に納得はしなかったが、それ以上は何も言わなかった。
「剣は合格……ということでいいのですかな?」
戻ってきた詩人が、やや困惑した表情でテンダに訊ねた。
「ええ、そのようね。じゃあ、最後に春の治癒魔法を見せてもらいましょうか……ちょっとあんた!」テンダはスピナを鋭く指さした。「適当に怪我を負ってちょうだい!」
「何だと?」スピナは怒りをあらわにした。「ふざけんな!」
「試験ができないじゃないの!その赤い剣で、お腹をかっさばいてみてよ!」
「お前がやれ!剣は貸さねえけどな」
「まあまあ、お二人さん」詩人が苦笑しながら間に立った。「すべて私一人でやりましょう」
そう言うやいなや、詩人は再び細剣を右手で抜き、剣の汚れを拭うかのように左の掌に剣身を走らせた。
それを見ていたフロル以外の三人は、顔をしかめて思わず視線を逸らした。フロルだけは無表情のまま注意深く見守っていた。
「タネも仕掛けもございません」詩人は特に痛そうな様子は見せず、冗談めかしてそう言いながら斜めに血の線が走る掌を全員に見せると、ほっというかけ声と共に両手を軽く合わせて叩いた。詩人の両手から、ほのかな緑色の光が溢れてすぐに消えた。「はい。この通り」詩人は誇らしげに左手を開いて見せた。
テンダとプロップは思わず、あっと叫んだ。詩人の傷は完全に治っていた。
「凄い。ねえ、テンダ、口で詠唱しなかったよ」
「それだけじゃない。速いわ……」
フロルは何も言わず、わずかに眉をぴくりと動かしただけだった。魔法はさっぱりのスピナは、へえと短い感想をもらした。
「いかがですかな?合格ですか?」
詩人は得意満面でそう言った。
「そうね。文句のつけようがないわね」テンダは短くて小さい拍手を送った。「よし!もういいわ!あなたで決定よ!じゃあ、さっそく準備して、今日中にエクスカンダリアを出ましょう」
「あら?もう終わったの?」片付けを終えたマーサが中庭にやってきて一同を見渡した。「どうでした?ハンサムな詩人さんは合格?」
「ええ。フロルも合格を出したわ。準備して、お昼には汽車に乗るわ」
それからテンダとマーサと詩人は再びダイニングへと戻り、報酬や荷物やスケジュールなどの細かい打ち合わせを始めた。
プロップは特にやることがなくなり、ひどく苛立った様子で家中をうろうろしたり、本を読んだりしながらマーサとフロルを待った。
フロルはもう少し稽古を続けると言い、スピナと二人で中庭に残った。
「スピナ、話がある」
中庭に誰もいなくなるのを見計らって、フロルはスピナを手招きで近くに呼び寄せた。
「何だ?」
スピナはやや警戒しながらフロルに近づいた。実はこれも稽古の一環で、油断して近づいたところを木刀で襲われるのではないかとも思ったが、どうもそうではなさそうだった。
「もう少しこっちに来い」
フロルはスピナの肩に手を置き、抱き寄せるように体を近づけた。スピナはわけもわからず照れ臭くなってしまった。
「いいか、よく聞けよ」フロルはひそひそと囁いた。「あの詩人に気を許すな。お前が常に見張っているんだ」
「何だって?どういうこった?」
スピナは思わず大声を上げてしまった。フロルは人さし指を口元にあててたしなめた。
「あの詩人は見た目通りの人物ではないということだ」
「見た目通りの?」
「一目見た時から感じてたんだ。あの男はかなりの使い手だ」
「まさか」スピナは苦笑した。「あのとぼけた詩人のおっさんがか?」
「どういうわけか、あの男は本来の実力を隠しているように思える。言葉や口調、仕草や気配から考えを読むこともできなかった……少なくとも単なる詩人じゃない」
「そんな怪しいやつをどうして合格させたんだよ?」
スピナは非難の目でフロルを見た。
「よこしまな気配は一切感じられなかったんだ」フロルはきっぱりとそう答えた。「我々に対する敵意のようなものは一切感じられなかった……問題はないと思うのだが、いずれにせよ念のため警戒は怠るなということだ。取り越し苦労ならそれでいいわけだ」
「わかったよ……なんとなく」スピナは腕を組んで考え込んだ。「じゃあ、フロルからあの女にもそう言っておいてくれよ。おいらから言ったってどうせまともに聞きやしねえからよ」
フロルは、スピナの言う“あの女”がつまりテンダのことだと気づくのに約四秒かかった。
「お前とテンダ様の関係はなかなか興味深いが、時々面倒だな」フロルは、ふんっと鼻を鳴らした。「テンダ様にこのことを話す必要はない。今のところは、私たち二人の胸の中にしまっておけばいいんだ。それにスピナ、警戒していることを詩人に悟らないようにしなければならないんだぞ」
「どういうこった?」
「お前もテンダ様も警戒していてはその気配は必ずもれてしまう。あの詩人が何者であれ、それを悟られてしまうのは良くないんだ」
「つまり、いいやつだったら傷つけてしまうし、悪いやつだったら先手を取られてしまう……みたいなことか?」
「大体そんなところだな。お前にしてはなかなか飲み込みが早いじゃないか」
フロルは笑って褒めたが、スピナにとってはやや引っかかる言い方だった。
「とにかくお前がしっかりとしなければならない。テンダ様はお前が守るんだ……霊峰ベリオンは、テンダ様にとっては安全な場所のようだが、それでもお前だけは絶対に油断をするな」
「ああ、まあ、わかったよ……」
スピナは複雑な思いを抱いた。
―面倒だな……それなら最初っから護衛はおいら一人でよかったじゃないか。
ところがその考えはすぐに否定される。
―でも、あいつと二人っきりって……それは……何て言うか……。
スピナはあれこれ考えることを中断した。これ以上続けると脳みそが沸騰しかねなかった。
それに、腰に下がっている赤い剣が、何やら非難めいた視線を自分に送っているような気がしたからだ。
◆2◆
プロップは走った。
ペース配分など一切考えずに力の限り走った。
―何で今日に限って……ちくしょう!
プロップはあの詩人を憎らしく思っていた。彼には何の罪もないどころか、これでようやくテンダたちが霊峰へ旅立てるのだから、むしろありがたい存在なのだということは当然理解していたが、それでも苛立ちを抑えることはできなかった。
おかげでマーサとフロルの出発が遅れてしまい、一緒の馬車に便乗することになっているプロップもそれを待たなければならなくなったのだ。
何かしら言い訳をつけて自分一人だけ出発してしまおうかと何度も考えたが、実行に移すことはできなかった。何となくマーサを裏切ってしまうような気がしたからである。
―もう帰ってしまったかな?二度と僕と口をきいてくれなくなるんじゃないだろうか?……ひょっとして、あの詩人が言っていた“不吉な影”って、やっぱこのことなのかな?
プロップは想像した。
あのくるくる赤毛のそばかす娘、まんまる眼鏡のほんわか娘のアリスが、軽蔑の色を浮かべた氷のような視線で自分の胸を鋭く貫く様子を想像した。
―何て言い訳しよう?
もうすぐ待ち合わせ場所である統一記念公園の中央広場が見えてくる。
―“急な来客があって”……これが一番いいかな。嘘じゃないしね。素直にそう言って謝ろう……まだ彼女が帰ってなければの話だけど……。
プロップは懐中時計を取り出して恐る恐る時刻を確認した。
―十一時四十分……ああ、約束の時間に三時間近く遅れてる……無理だ。彼女はもう帰ってしまったに違いない!
何度も時計を確認しながら、寂しげな表情で自分を待つアリスを想像して、プロップは泣き出しそうになった。
さて、プロップ少年は何故こんな状況に陥っているのか。
それを知るためには話を二日前に戻す必要がある。
プロップがきわめて重要な“その本”を図書館で発見した日のことである。
◆3◆
それは五月八日のこと。
プロップはいつも通り早朝にアリスと公園で顔を合わせ、一緒に図書館まで行き、そしていつも通り手がかりを求めてあらゆる本を読んだ。
―まずはこれかなあ……。
その日プロップが最初に手に取った本は、民俗学、歴史の棚にあった“イメッカ帝国の伝承”という本で、イメッカ帝国にまつわる伝説やおとぎ話、歴史上の偉人の逸話、果ては民の間に広まる怪談などについての考察といった内容だった。
―面白そうだな……。
まずプロップが気になったのは以下の章だった。
――――――――――――――――――――
『太陽の塔の伝説』
かの有名な「創星記」の著者であるチェスター・クレイス・ガルシア。
本章では、彼のもう一つの代表作「英雄王伝記」の中に登場する「太陽の塔」の謎について考察する。
※なお、双子の神であるクブ神とデト神については、現代においてもその存在の真偽が定かではないが、本書では便宜上あえて存在していたものとして話を進めるものとする。
※チェスター・クレイス・ガルシアについては後の章で記述する。
~太陽の塔とは?~
「英雄王伝記」によれば、英雄王トゥールはBT17年(AD1016年)に太陽の塔へ登り、そこでデト神との戦いに決着をつけたということらしいのだが、この太陽の塔に何があったのかという点については一切記されていない。
単純にそこがデト神の居城であったとも考えられるのだが、「英雄王伝記」の中で、デト神の居城はベルラン(現在のビエストロ北部)にあったとはっきり記されており、トゥールたちも当初はそこを目ざして旅を続けていたとさえ書かれている。
彼らはいかなる理由で太陽の塔を目ざすことになったのか?
「英雄王伝記」を読んだことのある方なら誰もが疑問に思ったはずだ。
謎の多い同書だが、太陽の塔に関する項は取り分け違和感に満ち溢れているのだ。
トゥールたちはいつの間にか塔へたどり着いており、いつの間にか時の牢獄から解放されたことになっているクブ神がいつの間にかそばにおり、そしてデト神を時の牢獄へと追いやるのである。
さらには、この太陽の塔についての歴史的資料がまったくと言っていいほど残されていないのだ。
チェスター・クレイス・ガルシアが何かの理由で意図的に隠蔽した、そもそも存在していない、など諸説さまざまあり、今なお歴史研究家の間で議論が交わされる伝説なのである。
~塔があったとされる場所~
「英雄王伝記」では、塔はアリナス王国(現在は公国)の領土である広大なベルアス平原の中央にそびえ立っていたとされている。
しかしご存じの通り、現在ではその場所にそのようなものはなく、代わりとでもいうように英雄王の霊廟があるのみだ。
そしてこの霊廟にもまた多くの謎がある。
「英雄王伝記」の中で、トゥールは帝国統一後、十年の歳月をかけて太陽の塔を取り壊したとあるが、その場所に何故わざわざ自らの霊廟を建てさせたのだろうか?
トゥールにとって、アリナスは特別に縁のある場所ではない。霊廟についても、トゥールの遺言通りに建てたという以外に歴史的記録はまったく残っていないのだ。
~塔についての仮説~
さて、筆者はここで上述の事から以下の仮説を立ててみることにした。
・太陽の塔は実在した。
・ トゥールは何かしらの理由で太陽の塔についての記録を後世に残したくなかった。そのためチェスターに命じて英雄王伝記のその部分を修正させた。(余談だが、創星記にも不可解な点がある。詳細は後の章で述べるとするが、チェスターが意図的に内容を変えたということは十分に考えられる)
・トゥールはそれだけでは安心できず、太陽の塔を壊し、さらに、封印するかのようにその上に自分の霊廟を建てさせた。
では何故そこまでする必要があったのか?太陽の塔とは一体何だったのか?
次の章では……
――――――――――――――――――――
ここまで読んで、プロップはふと顔を上げた。
―あ、そう言えば!
プロップは目次へと戻った。ふと思い出したのだ。スピナが深紅の仮面の男に言われた言葉を。
―太陽の塔か……興味深いけど、僕らには関係ないよね。それよりも……。
プロップは目次を指でなぞりながらその章を探した。
―“創星記に書かれた嘘”……スピナの話だと、仮面の男はそう言っていたとか。この本にも書いてあるぞ。“創星記にも不可解な点がある”……あった!
その章は、太陽の塔の章よりも大分後のページにあるようだった。プロップは興奮気味にせかせかとページをめくった。
――――――――――――――――――――
『創星記の謎』
創星記。
これを知らない者は、このラジアスに一人もいないと断言できるだろう。
チェスター・クレイス・ガルシアによって書かれたこの本は、四千年以上に渡り語り継がれてきた。
しかし、筆者は幼少の頃より、この本についてどうしても納得がいかない点があった。
友人たちにその話をすると決まってこう言われる。「考えすぎだろ?」「伝承なんてそんなもんじゃないか?」「そもそも双子の神だって本当にいたかどうかわからないんだ」
なるほど。確かにその通りだ。しかしそうじゃなかったとしたら?
筆者は考えずにはいられない。
~時の牢獄とは?~
では筆者の納得いかない点とはどの部分か。さっそくそれを述べるとしよう。
それは創星記の中の以下のくだりである。
《トゥールと六人の旅の仲間たちは、数えきれない冒険の果てに、ついにクブ神を時の牢獄から解放することに成功しました
彼らはクブ神と力を合わせ、デト神との最後の戦いに挑みました
壮絶な戦いの末、勝利したトゥールたちの手により、今度はデト神が時の牢獄へ閉じ込められてしまいました
戦いが終わるとクブ神は、ラジアスの命運をこの星に暮らすすべての生命に託すと言い残し、宇宙の彼方へと去って行きました》
さて、読者諸君はどう思われるだろうか。
まずこの話の通りだとすると、トゥールたちは自らの力で時の牢獄を開けたということになる。言い変えれば、時の牢獄がどのようなものであれ、“人間にも開けられる”ということになる。
それなら、“ 戦いが終わるとクブ神は、ラジアスの命運をこの星に暮らすすべての生命に託すと言い残し、宇宙の彼方へと去って行きました ”というのは何とも違和感を覚えないだろうか?
何故なら、創星記のどこにも“デト神が死滅した”とは書かれていないからだ。
デト神は“人間にも開けられる”場所に閉じ込められただけなのだ。
クブ神は、いつかデト神がそこから脱出するかもしれないという可能性を知りつつこの星を去ったというのだろうか?少し無責任のような気がしないだろうか?
あるいは何かしらの理由で、二度と時の牢獄が開かないということを確信していたのだろうか?だとすれば何故そのことが創星記に書かれていないのだろうか?
例えばたったの一言、“時の牢獄は永遠に閉ざされてしまいました”とでも書けばいいのだ。何故そうしなかったのか?
まったく矛盾しているようだが筆者は無神論者である。
このようなことを書いてしまうと多くの批判の声が聞こえてきそうだが、あえて次の言葉を書きたい。
筆者は思う。
時の牢獄は今なおこの星のどこかにあり、そしてその方法を知ることさえできれば、“人間でも開くことができる”のではないか。
そう、今本書を書いているこの時にも、どこかにデト神が復活する可能性が確かに存在しているのかもしれない。
さあ、どうだろう?親愛なる読者諸君は、筆者のこの考えを自信を持ってすべて否定できるだろうか。
余談ではあるが、筆者はこのことについて友人のクブ神教信者に―
――――――――――――――――――――
ここまで読んでプロップは再び顔を上げた。
―ちょっと大げさな気もするけど……確かに一理あるかなあ……もしかしたら、今もどこかに破壊神が……。
世にも恐ろしい破壊神の姿を想像し、プロップは思わず身震いした。
―ま、まあ、とにかく、仮面の男の言っていたことが今の話と関係あるかどうかはわからないな……。
その時プロップの脳裏に閃きの光が輝いた。
―そう言えば、もう一つあったんだ!仮面の男の言葉は……“最初に生まれた悪魔”……それについても何か調べていたほうがいいよね。
プロップは再び目次を指でなぞった。大雑把に“民話”の章があったのでそこをめくってみることにした。
最初に目に飛び込んできたのは次の話だった。
――――――――――――――――――――
『イメッカ帝国の怪奇伝承』
~その①「恐怖!口先だけ女」~
これはあまりにも有名な怪談話だ。
いつ頃誰が作ったのか不明だが、筆者は今回そのルーツを探ってみた。
その結果、非常に興味深いルーツを見つけることができたのだが、それを述べる前に、ひとまずこの“口先だけ女”がどんな話だったかを改めて紹介しておくとしよう。
語る人の年齢(あるいは出身地)などによって細部に差が出るのだが、大体は以下の通りの話になる。
ある若い男が薄暗い夜道をひとり歩いていると、突然目の前の路地から、マスクで口元を隠した若い女が現れた。
「ねえ、アタシってキレイ?」
女はおもむろにそう訊ねてきた。
「キレイだと思いますよ」
男は特に考えもせずにそう答えた。すると、女はマスクを外しながら……
「そう……でもアタシって、実は―」
――――――――――――――――――――
「いや、違う違う、これはまったく関係ないね……ばかばかしい」
顔を上げ、プロップは思わず口に出してそう言った。
「もっと後のページかな?」
プロップはふうっと一息つきながらページをパラパラとめくった。
そして今度こそ目的のページにたどり着いた。
――――――――――――――――――――
『イメッカ帝国の怪奇伝承』
~その⑧「最初に生まれた悪魔」~
さて、この話は先に紹介した七つの伝承とはかなり毛色が異なってくる。
何故なら、この話は先の章で述べた「英雄王伝記」の中に出てくる逸話であり、なおかつその内容には多くの謎が秘められているからである。
ではさっそく紹介しよう。
《悪魔。
それは人の姿をとりながら人あらざる者。
それは人肉を喰らいながら赤い目を輝かせる者。
いつ頃どのようにして誕生したのか?
それは誰にもわからない。
わかっているのは最初に生まれた悪魔がいるということ。
彼女の名はミザリィスティア。
彼女に心臓を奪われた者は皆悪魔と化す。
~中略~
英雄王トゥールはついに彼女を倒すことができなかった。
トゥールと六人衆に追い詰められたミザリスィティアは、もう二度と人を喰らわない、二度と人の前に姿を現したりはしない、だから命だけは助けて欲しい、私はただデト神が滅びる様を見たいだけだとトゥールに哀願した。
六人衆のうち、“熱風のパッシ”だけは、この悪魔は確実にここで殺しておくべきだとトゥールに助言した。
しかし心優しきトゥールはそれに従わず、ミザリィスティアを解放した。
パッシはトゥールを厳しく非難したが、トゥールは少し悲しげな微笑を浮かべながらこう言った。
「彼女の顔を見たか?彼女は常に左の瞳から黒い涙を流し続けている。彼女もまた、デト神に苦しめられた哀れな存在なのだ」
「それは大きな誤解だ」パッシはすかさず反論した。「あいつが本当に憎んでいるのは人間だけだ!あいつは今でもデト神を愛している。あいつはきっと約束を守らない。今にまた人の心臓を喰らうに違いない!」
「もしもそうなったとしたら……」トゥールはなおも悲しげな微笑を浮かべたままだった。「そうなったとしたら、彼女は必ず自ら滅びることになる。約束を破ることは不可能なんだ」
パッシは悲しげにかぶりを振り、そしてもうそれ以上何も言い返したりはしなかった。》
上記が「英雄王伝記」で語られたミザリィスティアの逸話である。
ところが話はこれで終わらない。
読者諸君の中で、イメッカ帝国各地における“悪魔伝説”を耳にしたことがない方はほとんどいないと思われる。
実話を基にしたとも言われている、少女に憑依した悪魔と、その悪魔を追い払おうとするエクソシストとの戦いを描いた、かの有名な物語を例に挙げるまでもなく、イメッカには様々な悪魔の伝説が長きに渡り語り継がれている。
どれもあくまでおとぎ話のように語られてはいるが、悪魔の存在の真偽をはっきりと証明できる者がいないのもまた事実である。
さらには、デト神教にはミザリィスティアを信仰する宗派が現在も存在している。
ミザリスティアは、今もなおこのイメッカのどこかで息を潜めているのだろうか?
英雄王は何故ミザリィスティアを見逃したりしたのだろうか?
何故“彼女は必ず滅びる”と確信したのか?
トゥールたちはミザリィスティアの正体を知っているという口ぶりだが、何故「英雄王伝記」にはその詳細が記されていないのか?
“常に左の瞳から黒い涙を流している”とは?
太陽の塔と並び「英雄王伝記」における永遠の謎のひとつである。
――――――――――――――――――――
「“黒い涙”……か」
プロップはふうっと息を吐きながら本を閉じた。
―玄烏賊が実在していた……仮面の男は、ミザリスティアが今もイメッカにいると言った……。
プロップの心はどんよりと雲った。
この本の作者のように、ミザリスティアの伝説を単なる研究の対象として楽しめたらどんなに素晴らしいだろうかと思った。
嘆かわしいことに、プロップたちにとってはもはやそれは現実的な問題なのだ。
スピナとプロップは、最初に生まれた悪魔がかなり高い確率で実在しているということ、そしてどういうわけかその悪魔が自分たちの旅に関わっているのだということを既に知ってしまった。
―あれ?そう言えば……。
ここにきてプロップはあるひとつの疑問に行き当たった。
―どうして“悪魔に気をつけろ”なんだろ?……ミザリスティアが実在しているとして、あの仮面の男は何故わざわざそれを忠告してくれたんだ?あいつは僕らの敵……だよね?……つまり仮面の男たちもミザリスティアとは友好的ではない、って意味なのかな?
さらにその疑問がもうひとつの疑問を呼び寄せた。
―わざわざ忠告をした意味……それってつまり―
プロップは思わず身震いした。
―ミザリスティアがスピナを……あるいは僕たちを“狙ってくる”。何らかの理由で……それをあの仮面の男は確信していた?
十分に辻褄の合う考えだと思えた。
―待てよ……待て待て……あいつらはスピナの剣とテンダに異様な興味を示していた……“欲しがっている?”……わざわざ忠告した意味……ミザリスティアも“それを欲しがる”……仮面の男たちとミザリスティアは“それを取り合っている”……そういうのも考えられるぞ……でも、もしそうだとして一体それは何故……スピナの秘密……テンダの秘密……僕たちが知り合ったのは偶然だし、そんな―
「どうしたんですかプロップさん?恐い顔……」
突然話しかけられ、プロップはわあっと大きな声を上げてしまった。周囲から冷たい視線が注がれる。プロップは苦笑しながら視線の主たちに頭を下げた。
「アリス」
話しかけたきたのは、くるくる赤毛のそばかす娘だった。いつの間にかすぐそばに彼女が立っていた。
「ごめんなさい……急に話しかけたりして……私ったら……」
アリスは心から申し訳なさそうにそう言った。
「い、いや、いいんだ。考えごとをしてただけなんだ。大した考えじゃないけどね」
プロップはそう言って無理矢理笑顔を作り上げた。
「何を読んでいたのですか?顔色がよくないですよ?」
「いや、まあね……ちょっと複雑な本を……」
「そうですか」アリスは不思議そうな顔で、ちらりとプロップが読んでいた本を覗いた。「“悪魔伝説”……ですか?」
アリスは何気なくそう訊ねたが、プロップはその言葉の意味を深読みしてしまった。
“悪魔のおとぎ話を読んで顔色を悪くされたのですか?まるで坊やですわね。うふふ”
つまりはそういう風に聞こえてしまったのだ。あるいは、それは恋という名の病気における典型的な症状のひとつだった。
「いやいや……たまたまね……ペラペラめくっててたまたまこのページにきたんだ。別に怖がってるとか、そういうんじゃないのさ」
プロップは引きつった笑顔であははと笑った。アリスは相変わらず不思議そうな顔で、ああそうなんですかと返した。
「ところでアリス、どうしたの?仕事は?」
プロップは話題を変えることにした。おあつらえむきに、いつもと違って、彼女が掃除道具も本棚に戻すべき本も手にしていないということに気がついた。
「ええ、実は今日はやることが思ったより早く片付いちゃって。手が空いちゃったんです」
アリスは嬉しそうにそう言った。プロップは思わず破顔せずにはいられなかった。
―“手が空いちゃったんです”だって……可愛い……。
そしてプロップは例によって御都合主義的思考を生み出した。
―それでわざわざ僕のところに来たんだ……僕に会いたかった……つまり、そういうことでいいんだよね?
そうじゃなくて単純に手持ち無沙汰になっちゃったってだけだろ?という理性の反論があったものの、プロップは聞こえないふりをしてそれをやり過ごした。
これについては、 明らかに恋という名の病気における典型的な症状のひとつと言えよう。
「あの、もしかして私お邪魔ですか?」
しばらくプロップが何も言わなかったためか、アリスは悲しげな表情でそう訊ねた。
「まさか」プロップは間髪入れずに答えた。「とんでもないよ。僕もちょうど休憩しようかと思ってたんだ。お目当ての本もなかなか見つからないしね。座りなよ、アリス」
「そうですか……お邪魔じゃなくてよかったです」アリスはほっとした表情でそう言ったが、わざわざプロップが引いてくれた、彼の隣の椅子に座ろうとはしなかった。「あの、プロップさんの探している本ってどのようなものですか?私なら見つけられるかもしれません。いつも片付けをしてますから、大体どこにどんな本があるかわかりますし」
「え……?」突然の提案にプロップは戸惑ったが、すぐにそれがこの上なく魅力的な提案であることを悟った。「そうだね。お願いできるかな?ごめんね、せっかくの空き時間なのに」
「いえ、いいんです。私、本を探してウロウロするの好きですから」アリスは本当に嬉しそうにそう言った。「それで、プロップさんはどんな本を?」
「あ、ああ、えっと……」プロップは何と答えたものか迷った。「“森”……についての本を探しているんだ」しばらくして、ためらいがちにそう答えた。
―それだけなら問題ないよね。スピナの秘密をばらすことにはならない……よね。
「“森”……ですか?生物や植物についての専門書?それとも世界の有名な森についての観光案内みたいなものですか?」
アリスは首を傾げながらそう訊ねた。
「うまく言えないんだけど……」プロップは腕を組んだ。「不思議な森のことなんだ……幻影みたいに現われては消える森……そういうのが実在しているかどうか……あるいはそういう伝説とかが残っていないかとか……そういうのを調べたいんだけど……ごめん、なんだか抽象的で……」
「幻影みたいに現われては消える森……ですか……」アリスはしばらくの間ふむむと唸っていたが、やがてぽんっと静かに両手を叩いた。「まあ、とにかく頑張りましょう!」
アリスのただでさえ細い目がさらに細くなり、そして愛らしい曲線を描いた。
「アリス、ありがとう」
プロップの胸がはちきれんばかりにときめきで膨れ上がったのは言うまでもない。
それから二人は手分けをして館内を歩き回り、目的の本を探し続けた。アリスがこの本はどうかとプロップのもとへと届けたり、他の職員にそういう本はないかと訊いて回ったりと奮闘したが、結局二人とも目ぼしい発見をすることはできず、気がつけば閉館の時間がすぐそこまで迫っていた。
「アリス、今日はこのくらいでいいよ。もう日も暮れかけてるしさ」
あきらめることなく本棚を漁っていたアリスへ、プロップは笑顔でそう言った。内心では本が見つからないことに苛立ちと悔しさを覚えていたが、アリスが懸命に手伝ってくれたことへの嬉しさがそれをきっちりと相殺していた。
「そんな……ぎりぎりまで頑張りましょうよ」
アリスは手を止め、泣き出しそうな顔でそう言った。
「いやいや、もういいって。また明日も来るからさ。本当にありがとう」
プロップは、あははと笑って見せた。
「そうですか……ごめんなさい。お役に立てなくて……」
「謝ることないよ。僕は嬉しく思っているんだ……その、つまり、君が手伝ってくれたことについて……」
「プロップさん……」
アリスはプロップに近づき、ゆっくりと両手を伸ばした。
否、“伸ばそうとした”。
「アリスおねえちゃん!」
いくら閉館前ということもあり辺りには人が少ないとは言え、あまりにも無遠慮な音量と音圧を兼ね揃えた幼女の声が突然響き渡った。
刹那、プロップはその声の主に明確な殺意を覚えた。アリスが伸ばしかけていた両手。ああ、それはきっと自分の手を握ろうとしていたに違いなかったのに、すっかり台無しになってしまったではないか。
「あら、サラちゃん」アリスは一瞬驚いた表情になり、それからプロップに背を向けて声の主にそう言った。「どうしたの?今日はまだママは迎えに来ないの?」
アリスはやわらかくてゆったりとした口調でそう訊いた。子供用の声だ。プロップは首だけを動かしてアリスの向こうにいる憎き相手を見た。なるほど、相手は六、七歳と思われる、いかにも元気が有り余っていそうな少女だった。
「もうすぐくるんじゃないかなあ」アリスにサラと呼ばれた少女は、あまりそのことには興味がないといった口ぶりでそう答えた。「おねえちゃんはなにしてるの?」
「サラちゃん、図書館では静かに話すのよ。いつも言ってるでしょ?」
アリスは口に人さし指をあててそっとたしなめた。それを見て、プロップは何とも奇妙な種類の“嫉妬”を覚えた。
それはサラという少女への嫉妬と言うよりは、“これまでに見たことのないアリスの一面を見た”ということへのもどかしさなのかもしれなかった。
もっと彼女のことを知りたいというもどかしさ、そして自分以外の誰かが彼女のすべてを知る可能性への恐怖と“焦り”。
「おねえちゃんは、なにしてるの?」
注意されたことが悔しかったのか、サラは皮肉っぽく極端に小さくてゆっくりとした声で同じ質問をした。
「こちらのお兄ちゃんのために本を探しているのよ。プロップお兄ちゃんっていうのよ」
アリスは苦笑しながらそう言うと、手をさしてプロップを紹介した。
「ぷろっぷ?……いいにくいおなまえだね」
サラは子供らしい率直な感想をもらした。プロップの怒りはさらに高まっていったが、アリスの手前、無理矢理に笑顔を作り、こんにちはサラちゃんと挨拶をした。
「おねえちゃんの“かれしぃ”?」
サラはにやにやしながらそう言った。途端にプロップの殺意は薄れ、にわかに彼女の頭を撫でてやりたい衝動に駆られた。
―“かれしぃ”だって。イメッカっぽいなあ。都会だなあ。よく言ったぞ!
プロップはアリスが何と返答するだろうかと期待に胸を踊らせた。
「お友だちよ。不思議な森のお話を探しているの」
それは即答だった。アリスは照れることもなく、焦ったりもせず、その質問にはあまり興味がないと言わんばかりに、笑顔でさらりとそう答えた。プロップの心が激しく傷ついたのは言うまでもない。
「サラはね、そのほんしってるよ!」
サラは得意気にそう言うと、颯爽と駆け出してアリスとプロップの脇を通り抜けた。
「あ、こら!走っちゃだめでしょ!」
アリスが慌てて注意したが、サラは立ち止まることなくそのままいずこかへと走り去って行った。
「もう……あの子ったら」
「よく来る子なの?」
プロップは苦笑しながらそう訊ねた。
「ええ、彼女はサラちゃんといって、お休みの日にはよくこの図書館に来るんです。私、どういうわけかすっかりなつかれちゃったみたいで」
「へえ、本が好きな子なんだね」
「ええ、まあ、そうなんですけど……ちょっとお転婆さんなのが玉にきずですね」
「子供が元気なのはいいことだよ。それはそれできっと」
「そうかもしれませんね……プロップさんって優しいですね」
思わずプロップがどきりとするような笑顔でそう言うと、アリスは先ほどと同じようにプロップに近づいて両手を伸ばした。
否、伸ばそうとした。
「おねえちゃん!ほん、もってきたよ!」
儚くもプロップの期待は再び裏切られた。しかもまったく同じ人物によって。
「まあ、サラちゃん、いい加減にしなさい。走ってはいけません」
アリスはプロップへと伸ばしかけていた手を引っ込め、突然駆け寄ってきたサラへ、今度は厳しい口調でそう言った。
「サラは、ほんをもってきたの!」ふくれ面でそう言うと、サラは押しつけるように手に持っていた本をアリスへ手渡した。「もってきたの!」最後にそう吐き捨てると、踵を返して再び走り去って行った。
「サラちゃん、待ちなさい」
少しだけ声を張り、アリスは呼び止めようとしたが、サラは振り返ることもなく、やがて姿を消した。
「もう、まったく」
「やっぱり、ちょっと元気すぎるかもね」プロップは顔をひきつらせながらそう言った。もはやあきらめの境地に至っていた。アリスに手を握られる機会は恐らくもうやっては来ないだろうと確信できた。「ところで、その本は?」半ば強引に手渡された、アリスの手に抱えられている正方形の本を指さしながら訊ねた。
「これは……」ちらりと表紙を眺め、アリスはくすくすと笑いながらプロップにその本を手渡した。「絵本ですね……子供たちに特に人気があるシリーズの……確かに“森”のお話ではありますけど」
「なんだ。絵本か」本を受け取りながら、プロップもくすくすと笑った。必死にそれを持ってきたサラのことがとてもいじらしく思えた。「“エミリアとふしぎの森”……」
表紙の上部にやわらかなフォントで表示されているその本のタイトルを何気なしに読み上げたプロップだったが、その下に描かれている絵に視線を落とすと、一瞬にして顔から笑みが消えた。
「“エミリアシリーズ”の一冊です。いたずら好きの女の子エミリアが、毎回いろんな騒動を起こすというお話なんですけど、大人が読んでも思わず笑っちゃうくらい面白くて、すごくいいシリーズなんですよ。絵のタッチとかも可愛らしいですし」
アリスは丁寧に解説したが、その言葉はプロップの耳にほとんど入っていなかった。プロップはとり憑かれたように表紙を見つめていた。
―この絵……これは……。
薄暗い夜の森で、二人の幼女が立って向き合っている。
一人は可愛らしい黒いリボンのついたカチューシャを被った、ブロンドヘアの少女で、腰に手をあてながら不思議そうな表情でもう一人の少女を見ており、もう一人の少女は、おしとやかに手を前に組み、達観したかのような大人びた微笑を浮かべてカチューシャの少女を見つめている。
―この子は……まさか……。
プロップの全身に鳥肌が立った。表紙のどこにもそれは書かれていなかったが、二人の少女のうちカチューシャの少女の方がエミリアであると一瞬で確信した。
もっとも、プロップはエミリアに見覚えがあったわけではない。見覚えがあったのはもう一人の少女、エミリアと向かい合っている白いワンピースの少女の方だった。
「プロップさん?」
プロップから漂うただならぬ雰囲気をようやく察知したアリスは、首を傾げながら歩み寄り、彼のそばから絵本を覗き込んだ。
愛しいアリスの体がかつてないほどに接近しているにも関わらず、プロップは絵本に全神経を奪われていた。そして無言のままアリスの方を見ることもなく、ゆっくりと表紙をめくった。
――――――――――――――――――――
【エミリアとふしぎの森】
「ママなんて、大キライ!」
ベッドのなかで、エミリアは、となりでねているママにむかってそうつぶやきました。
ママは、エミリアのこえにはきづかず、スヤスヤとねいきをたてていました。
夕ごはんのとき、エミリアは、シチューをテーブルにこぼしてしまい、そのことでママとけんかをしてしまったのです。
「わざとじゃないのに、ママのおこりんぼ!」
くやしくて、くやしくて、エミリアは、ねむることができずにいました。
「こんなおうち、でてってやるんだから」
それは、とてもすばらしいかんがえだな、とエミリアはおもいました。
「そうよ、それがいいわ。そうすれば、ママもきっとこうかいするにきまってるもん!」
ほとんどのばあい、エミリアは、おもいついたことをすぐにやらなければきがすまない女の子ですが、その夜もやっぱりそうなりました。
「朝がくるまえにおうちをでれば、だれにもきづかれないわ」
ママをおこさないよう、そっとベッドからぬけだすと、エミリアは、よそいきのおようふくにきがえ、たからものの青いビー玉をポケットにいれて、足おとをたてないようにおうちをぬけだしました。
「さようなら、ママ」
エミリアは、わがやをやねの上までじっくりとながめながら、おわかれのあいさつをしました。
やねの上を見たときに、ふと、まんまるのお月さまと目があいました。
とても大きなお月さまでした。こんなに大きなお月さまを見るのは、ずいぶんひさしぶりだな、とエミリアはおもいました。
「もうかえらないもん」
エミリアは、あるきだしました。
「ぜったいかえらないもん」
ジリ、ジリ、ジリ、という虫のなきごえがどこかからきこえてきました。
そんな虫のこえはきいたことがありません。ああ、夜にだけなく虫がいるんだな、とエミリアはおもいました。
「ぜったい、ぜったい、かえらないもん。いまさらあやまったっておそいんだから」
そのときとつぜん、つまさきになにかがぶつかり、エミリアは、きゃあっとひめいをあげながら、みっともなくじめんにころんでしまいました。
「いたい……大きい石がじめんからでっぱっていたのね……くらくてきづかなかったわ」
エミリアは、おようふくのよごれをはらいながらゆっくりとたちあがりました。
いまさらながら、こんなに夜おそくにお外にでたのははじめてだということにきがつきました。
「こんなことでくじけないもんね。かえらないもん」
ふたたびあるきだしたエミリアでしたが、こんどはちかくの草むらがとつぜんガサゴソとうごき、びっくりしてたちどまってしまいました。
「もしかして、ピーターがいっていた夜のおばけなの?」
エミリアは、むねをどきどきさせながら草むらを見つめていました。
しばらくすると、ニャア、というなきごえとともに、いっぴきのネコが草むらからとびだし、どこかへとすばやくはしりさっていきました。
「なによ!おどかさないでよ!夜ふかしのおねぼうネコめ!ビックリするでしょ!ちきしょうめ!とっととおうちへかえりやがれ!」
エミリアは、とても大きなこえでそうさけびましたが、朝や昼とちがって、だれもなにもいう人はいません。
もちろん、エミリアをふりかえる人もいません。
村のみんなは、もうとっくにベッドのなかでねむっているにきまっているのです。
「もうかえろうかな……ママは、きっともうはんせいしてるわね」
ポケットのなかに手をいれて、たからもののビー玉をいじくりながら、どうしようかな、どうしようかな、となやんでいると、どこかから、女の子の小さいこえがきこえてきました。
「きこえる……?あなたはいくつ?……このこえがきこえる?」
エミリアは、ぶるぶるとふるえながらまわりを見わたしました。
人のことばで話しかけてくるということは、こんどこそ夜のおばけにちがいない、とおもいました。
「きこえる?……あなたは子ども?女の子?いくつなの?」
そのこえは、さっきよりも大きくきこえました。
「だあれ?どこにいるの?どこからきこえてくるのか、ぜんぜんわからないわ。あなたは夜のおばけなの?体がとうめいだから、どこにいるのかわからないの?」
エミリアは、大きなこえでそういったつもりでしたが、体がブルブルとふるえているので、とても小さいこえになってしまいました。
「おねがいだからおしえて。あなたはいくつなの?」
「どうしてそんなことをきくの?あたしの体にとりつこうとしているのね?いくつなのかをきいて、だいたいの体のサイズをはかろうとしているのね?そうはいかないわ!あたしはエミリアよ!村でいちばんけんかがつよいのよ!ピーターのおにいちゃんよりつよいのよ!」
エミリアは、はやくちでそういいました。
「あたしは夜のおばけじゃないわ。あんしんしてエミリア」
「どうしてあたしのなまえをしっているの?あやしい人ね!ずっとまえからあたしのことをしらべていたのね?」
エミリアは、すでにとてもこんらんしていました。
「そうじゃないわ。あなたがいま、じぶんでなまえをいったでしょ」
「人になまえをきくまえに、まず、じぶんからなのったらいいでしょ?」
「たしかにそうね……じゃあ、おしえてあげる。あたしのなまえはね、ミシュっていうのよ」
――――――――――――――――――――
「そんな馬鹿な!」
つい先ほど、幼い女の子が目の前でそのことを注意されたばかりだというのに、プロップはフロア中に響き渡るほどの大声を上げてしまった。すぐそばにいたアリスは驚いてプロップから一歩離れた。
「プロップさん?……どうしたんですか?」
「アリス、僕が探していたのはこの本かもしれない」
「え?この絵本がですか?悪い言い方ですが、これは作り話ですよ?」
「そうは思えないんだ」
「どういうことですか?」
プロップはその質問には答えず、再び本に目を落として意識を注ぎ込んだ。アリスは不可解な表情のまま再びプロップに近づき、そっと本を覗き込んだ。
――――――――――――――――――――
「ミシュ?かわいいけど、かわったおなまえね」
「そうかもね……ところで、あたしのなまえはおしえたわ。こんどはあなたのばんよ」
「あたしは……七さいよ……つぎの十二月がくれば、っていみだけど」
エミリアは、すこしためらいましたが、やくそくどおりじぶんのとしをおしえてあげました。
「七さい……そうなんだ。じゃあ、あたしもいまから七さいになるわ」
「なにそれ?やっぱり、あたしの体を」
「そうじゃないわ、エミリア。こっちにいらっしゃい」
ミシュとなのったふしぎなこえは、やさしくそういいました。エミリアは、なんだかこわいな、とおもいましたが、とりあえずいうとおりにしようとおもいました。
いまさらおうちにはかえれませんし、それに、そのミシュがどんな女の子なのか見てみたくなったからです。
「こっちへいらっしゃいったって、いったいどっちにいけばいいのよ?」
「こっちよ、エミリア……わかるでしょ?」
ミシュは、うふふっとわらいました。とてもかわいいわらいかたでした。
「わかるわけないじゃん」
エミリアはそうこたえましたが、ふしぎなことに、こころのなかにしぜんとどっちへいくべきかということがうかんできました。
「こっち?こっちなのね?」
エミリアは、ゆっくりとあるきだしました。
かいどうをはずれ、きけんな虫やへび、うんがわるければおおかみがでるかもしれないから、ぜったいにいってはいけないよと、ひごろからおかあさんにうるさくいわれていた、とてもひろい草原へとはいっていきました。
「そうよ……こっちへおいで。あたしたちの……あたしの森へおいで」
「森?このちかくに森なんてないわ」
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。きてみなければわからない」
「あなたって、とってもふしぎね。こえはきこえるのにすがたが見えない。それに、いっていることばもなんだかへんだわ」
「そうかしら?そうね……だとしたら、七さいになったことはないから……かしら」
「またいみのわからないことをいったわね」
「のろまなエミリアさん、とにかくはやくいらっしゃいな。森にくれば、とりあえずあたしのかおを見ることはできるから」
――――――――――――――――――――
「ねえ、アリス、これはどういう意味だろう?」
プロップは突然そうつぶやくと、アリスの顔に本を近づけて、開いていたページの一行に指をあてた。
「えっと、どこですか?」
アリスは驚いて身を引き、一旦まん丸メガネをかけ直してから本に視線を戻した。
「ほら、ここだよ、ここ……“あたしたちの……あたしの森”って書いてあるでしょ?これってどういう意味だい?この後エミリアは森に着くんだよね?そこにはミシュという女の子以外に誰かがいるのかい?」
「えっと……どうだったかしら?」アリスは矢継ぎ早に浴びせられた質問を頭の中で急いで整理させた。「そうですね……確かこの本にはエミリアとミシュ以外は誰も……あ、いや、お母さんと、お友だちのピーターも出てきたかもしれないですね……確かこの後、エミリアは一旦家に帰ることになるんじゃなかったかしら」
「そうじゃないよ、アリス、森だよ。森には誰かいるのかい?ミシュ以外の誰かが」
「えっと……出てこなかったと思いますけど……」
「それならさ、アリス」
プロップは問い詰めるかのようにアリスに顔を近づけた。アリスは眉をぴくっと上げ、驚きと戸惑いの表情を作りながら半歩後退った。
「 この部分、“あたしたちの……あたしの森”って台詞は、何だかとても不自然な気がしないかい? 」
「はあ、まあ、そう言われてみれば……」
「絶対変だよ。だって、後半への布石というわけでもないのに、わざわざそんな台詞にする必要はないと思わない?」
「はあ、まあ、そう言われてみれば……」
「だけど、これがもし作り話でないとしたら辻褄が合うんだよ。実際に起こったことを思い出しながら書いたとしたら?それならそう書いてしまったとしても不思議じゃないんだ」
「そうですかねえ……」
「絶対そうに違いないよ!」
「プロップさん、今思ったのですが、それを言うなら、“あたしもいまから七さい”とか、“七さいになったことがないから”とかいうのも不自然な台詞になりますね……この話では、結局ミシュが何者だったのかということについてはわからずじまいになりますから……もっとも、それもこれも、ミシュを不気味な存在だと印象づけるための一種の技法なのかもしれませんが……」
「いや、違うよ、やっぱり絶対にこれは実話なんだ!」
プロップは強引に結論を出すと、アリスから自分自身へ向けられた、恐怖に近い種類の視線にはまったく気づくこともなく、また本の世界へと戻って行った。
――――――――――――――――――――
しばらくあるいているうちに、エミリアは草原のちゅうしんまでたどりつき、そこで足をとめました。
「ここなの?このなかにいるの?」
エミリアの目のまえには、じめんにぽっかりと大きく口をあけたほらあながありました。
むかし空からふってきて、ななめにじめんにつきささった大きなくぎを、巨人がぬきとったかのような、大きなほらあなでした。
「そうよ、エミリア。はいってらっしゃいな」
ミシュはそういいましたが、エミリアはためらいました。
ほらあなのなかはまっくらで、どこまでつづいているのかそうぞうがつきません。
「こわがらないで、エミリア。ここには、へびも、くもも、おおかみもいないのよ。まして、夜のおばけなんてのもね」
「こわがってなんかないもん」
エミリアは、ふうっと大きくしんこきゅうをすると、ほらあなにゆっくりとはいっていきました。
「ねえ、くらいよ?なにも見えないよ?」
いっぽいっぽ、しんちょうに足をすすめながら、エミリアはそういいました。
そのこえは、こだまとなってほらあなのなかにひびきわたりましたが、やがてそれがきえてしまったあとでも、ミシュからのへんじはありませんでした。
「ねえ、きいてるの?このあなはどこまでつづくの?なにも見えないわ。大きな石がじめんからでっぱっているかも……」
こんどもへんじはありませんでした。エミリアのおでこから、ベタベタするあせがながれおちました。
「ねえってば!なにかいってよ!」
やはりこんどもへんじはありませんでしたが、そのかわりに、とつぜん、あたりがまっ白なひかりにつつまれ、ジュワ、ジュワというふしぎなおとがひびきわたりました。
「ちょっと!あんた!これはなに?なんなの?」
エミリアは、おもいきり大きなこえでさけびましたが、ジュワ、ジュワ、というおとがそれよりも大きかったので、じぶんのこえなのに、じぶんの耳にもよくきこえませんでした。
「目をとじて……エミリア」
ようやくミシュがへんじをしました。エミリアは、いわれるまでもなく、すでに目をとじていました。白いひかりがとてもまぶしくなってきたからです。
ジュワ、ジュワ、というおとも、どんどん大きくなっていきます。ところで、じぶんのこえすらきこえないのに、いったなぜミシュのこえはきこえるのかしら?とおもいながら、エミリアは、りょうてで耳をおさえました。
いったいどれくらいのじかんがながれたのでしょうか。
きがつくと、いつのまにか、ジュワ、ジュワ、というおとは、すっかりきえていました。
「もう目をあけてもだいじょうぶよ……おもったとおりね。あなたは森にはいれたわ」
ミシュのこえがきこえてきました。それは今までとちがって、どこからきこえてくるのかわからないこえではなく、まちがいなく目のまえにいるということがわかるこえでした。
エミリアは、おそるおそる目をあけました。
「やっとあえたわね。のろまなエミリアちゃん」
目のまえにひとりの女の子がいました。エミリアは、おどろきのあまり口をぽかんとあけたまま、なにもいうことができませんでした。
といっても、その女の子が、とくべつにへんなかおだったり、へんなかっこうをしていたというわけではありません。
おどろいたのは、じぶんたちをかこむまわりのふうけいでした。
じめんの下にむかってほらあなをすすんでいたはずなのに、いまじぶんがいるばしょは、大きなまんまるお月さまにてらされ、きいたことのない、鳥や虫のなきごえにつつまれ、見あげるほどに大きな木々が、どこまでもつづいている森のなかなのです。
「どうしたの、エミリア?おどろいた?」
「ここはなんなの?じめんのなかに森があるの?そんなのきいたことないわ」
「じめんのなか……ですって?いいえ、むしろぎゃくよ、エミリア」
ミシュは、くすくすとわらいました。エミリアは、なんだかバカにされたようでムッとしましたが、ミシュのえがおがなんともかわいらしかったので、まあ、ゆるしてやろうか、とおもいました。
「あなたは、ちかくの村の子なの」
エミリアは、そうたずねました。
「いいえ、ちがうわ」
「へえ……あ、もしかして、あなたもママとけんかしたの?おうちをぬけだしたの?」
「……ちょっとちがうわね……あたしは、まえにすんでいたおうちをおいだされたの。いまはこの森が、あたしのおうちなのよ」
「この森のどこかにたてものがあるの?」
「いいえ、どこにもそんなものはないわ。この森そのものがおうちなの」
エミリアは、ふうん、とへんじをしました。
「あなたのほかにはだれかいないの?」
「……この森には、あたしひとりしかいないのよ」
ミシュは、わらってそういいましたが、エミリアには、そのえがおがとてもさびしそうに見えました。
きっと、ひとりでさびしかったからあたしをこの森によんだのね、とおもいました。
「ねえ、これ、あげるよ」
エミリアは、ポケットからたからものの青いビー玉をとりだして、ミシュにさしだしました。われながら、なんといいかんがえだろう、とおもいました。
「あたしのたからものなんだけど、あなたにあげるわ」
「え?たからもの?」
ミシュは、おどろいてそういうと、ふしぎそうなかおで、ビー玉をじろじろとながめました。
「これは……ほうせき?いや、ちがうわね。ガラスの石?」
「ちがうよ、ほうせきだよ。さいしょは、ピーターのものだったんだけど、あたしのおにんぎょうとこうかんしてもらったの」
「ガラスの石なのに……たからもの?」
「だからあ、ほうせきだってば!」
エミリアは、いらいらしてきました。
「なによ!せっかくあげるっていってるのにさ!いらないっていうの?」
「いいえ、ごめんなさい、エミリア」
ミシュは、あわててそういいました。
「はじめて見たからおどろいたのよ……そう、ビー玉というのね……ありがとう。とってもうれしいわ」
ビー玉をそっとうけとると、ミシュは、それをいろんなかくどから、じろじろとながめました。
「ねえ、エミリア。またあえるかしら?もっとあなたとおはなししたいの」
「またあえるよ。というか、あたしはもうおうちにかえらないの……ママとけんかしたから……あ、そうだ!あなたのおうちにいさせてよ!あなたは、ひとりぼっちなんでしょ?」
「エミリア、それはできないの……ごめんなさい、じかんはかぎられているのよ」
ミシュは、かなしそうにそういいました。
「きょうは、もうこれまでなの……エミリア、じかんがきたわ。いったんおうちにかえりなさいな。そして、夜になったら、またここにいらっしゃい。たのしみにしているわ」
「え?どういういみ?またふしぎなことをいうのね。あたしは、おうちにはかえらないわ」
エミリアがそういうと、とつぜんまた、あのまぶしい白いひかりと、ジュワ、ジュワというおとがあたりをつつみました。
「ねえ、ちょっと、これはなに?どうしたの?」
「じかんがたりないの……エミリア、いちどおうちにかえりなさい。夜になればまたあえるわ」
「ミシュ?どういうことかわからないわ」
エミリアはそういいましたが、さっきとおなじように、そのこえはじぶんの耳にはきこえませんでした。
森のけしきも、えがおでこちらを見ているミシュのかおも、すべてがグニャグニャにゆがんで、だんだんとうめいになっていきます。
ああ、もしかして、これはゆめなのかしら?とおもいながら、エミリアは目をつむり、耳にてをあてて、ひかりとおとがやむのをまちました。
しばらくして、ひかりとおとはやみました。
エミリアがそっと目をあけると、ミシュも、森も、もうどこにもなく、そこは、草原のまんなかのほらあなの目のまえでした。
「やっぱり、夜のおばけだったのかな?」
これからどうするべきか、エミリアは、とほうにくれていましたが、しばらくして、やっぱりいちどおうちにかえろうとけっしんしました。
「ミシュのいうとおりにしよう……あの子にまたあいたいわ……」
――――――――――――――――――――
―地面の中ではなく、むしろ逆……だって?
プロップは顔を上げて本から目をはなした。
「あの……プロップさん、とりあえず座りませんか?そんなにその本が気になるなら、座ってじっくりとお読みになっては?閉館までにはもう少し時間はありますし」
眉間にしわを寄せたまま、石像のようにじっと固まって考え込んでいるプロップを眺めながら、アリスはばつが悪そうな表情でそう提案した。
「地面の逆……逆……逆……」しかしプロップはアリスの言葉が耳に入っていない様子で、ぶつぶつと小声でつぶやいていた。「地面の逆……それはつまり……“空中”?まさか……」
「あの、プロップさん?」
「アリス、この本は……」
ようやくプロップはアリスの方を向いた。
「はい、何でしょう?」
「いや、とりあえず終わりまで読んでみるか……」
プロップは再び本に没頭した。アリスは呆れ顔でふんっと鼻を鳴らした。
「“つぎの日のこと、エミリアは……”」
プロップは続きを読み始めたが、しばらくは特別な展開は訪れなかった。
どうやら、エミリアは夜が明ける前に家に戻れたらしく、彼女のママは娘の一時的な家出に気がつかなかったようだ。
エミリアは、近所に住む友だちのピーターにあの夜の出来事を打ち明けたが、夢でも見たんだろと相手にされなかった。
そこでエミリアは、次の日の晩もこっそりと家を抜け出し、あの草原の洞穴にやってきた。
ミシュに呼びかけながら洞穴を進むうちに、例のまぶしい白い光とジュワ、ジュワという音に包まれ、再びあの森へとたどり着くことができた。
それからというもの、エミリアは毎晩その森へ行ってはミシュと会話を交わした。
何度訊ねてもミシュは自分の正体を語ろうとはぜず、また、長い時でも一、二時間、短い時は数分で森とミシュは消えてしまった。
エミリアは、自分だけの秘密に快感を覚え始めたらしく、いつしかミシュに会いに行くことが一番の喜びとなっていった。
そしてプロップを再び驚愕させる展開が訪れた。
――――――――――――――――――――
そんなある日のことです。
エミリアとミシュは、とんでもない大げんかをしてしまいました。
「きょうはね、とってもだいじなおなはしがあるのよ、エミリア」
いつもどおりにエミリアが森につくと、ミシュは、大きな木のねもとにこしかけながらそういいました。
「だいじなおはなし?」
エミリアは、ミシュのとなりにこしかけながらたずねました。ミシュのこえが、いつもとはなんだかちがうな、とおもいました。
「そう……とってもだいじなおはなしよ……よくきいてね」
「うん、わかった」
「とおい、とおい、むかしのおはなしなんだけど……」
ミシュは、むかしこのせかいをすくった、あるゆうしゃのおはなしをしました。
エミリアは、あれ、なんかへんだな?とおもいました。
ミシュのおはなしは、エミリアがしっていたおはなしにそっくりでしたが、あるところから、とつぜんエミリアのしっていたおはなしとちがってきたのです。
「そのおはなし、しってるよ……がっこうのせんせいにおしえてもらったわ……でもね、ミシュ、ちょっとちがうでしょ?あなたのきおくちがいだわ」
エミリアは、ミシュのおはなしにわりこんでそういいました。
「なんですって?」
ミシュは、とてもおどろいたかおでそういいました。
「エミリア、あなたのしっているおはなしをおしえて」
「うん、えっとね……」
エミリアは、じぶんがおぼえていたゆうしゃのおはなしをしました。
「どう?これがただしいおはなしよ。あなたのきおくちがいだったでしょ?」
エミリアは、えっへん、といばりました。
「それはちがうわ、エミリア。あたしのおはなしがただしいのよ」
ミシュは、わらってそういいました。おや?この子は、いがいとまけずぎらいなのね、とエミリアはおもいました。
「ミシュ、だれにでもまちがいはあるわ。でもね、だいじなのは、それをすなおにみとめることよ。むずかしいことばで、“くんしひょうへん”っていうのよ」
それは、パパがエミリアにいったことばだったのですが、エミリアは、じぶんがかんがえついたことのように、いばってそういいました。
「エミリア、ちがうのよ、あたしのおはなしのつづきをきいてちょうだい」
ミシュは、そのおはなしをさいごまではなしました。
「ウソつき!」
はなしをききおえたエミリアは、たちあがってミシュをどなりつけました。
「ミシュのウソつき!そんなのしんじない!」
ミシュのおはなしは、エミリアがしっていたものとちがって、あまりにもおそろしいけつまつでした。
「エミリア、おちついて、すわってちょうだい」
「いやよ!どうしてそんなウソをつくの?」
「うそじゃないのよ。しんじて!」
「大キライ!……そんなおそろしいおはなし……かみさまにおこられちゃうわ!」
エミリアは、はしりだしました。もうこの森にいたくない、とおもいました。
「まって!エミリア、いかないで!」
ミシュが、あわててあとをおいかけてきました。
「いやだ!もうかえる!」
エミリアは、ふりかえらずにぜんりょくではしりつづけました。
はやくあの白いひかりと、ジュワジュワのおとがやってくればいいのに、とエミリアはそうおもいました。
いつもなら、それがいやでたまりませんでしたが、きょうは、はやくやってくればいいのに、とこころのなかでかみさまにいのるほどでした。
しばらくはしっていると、とつぜん目のまえのこかげから、なにかがとびだしてきました。エミリアは、ぎゃあっとさけび、あわててたちどまろうとしてしりもちをついてしまいました。
「エミリア、おねがい……きょうがさいごなの」
ああ、いったいどういうことでしょうか。それはミシュでした。いつのまにエミリアをおいぬいたのでしょうか。
「あなたは、いったいなんなの?」
「エミリア、あなたがそうしたように、あたしもいちばんのたからものを、あなたにわたしたいの!」
「たからものなんかいらない!おうちにかえりたい!もう、あなたのかおなんか見たくない!」
ミシュは、とてもかなしそうなかおをしました。
それを見たエミリアは、じぶんは、とてもわるいことをいってしまったのだとこうかいしましたが、もうなにもかもおそすぎました。
ミシュのかなしそうなかおは、まわりのけしきといっしょに、グニャグニャとゆがみはじめてしまったのです。
さいごにミシュがなにかをいいました。しかし、くちびるがうごいているのはわかりましたが、かのじょのこえは、もうきこえませんでした。
きょうだけは、ずっと目をあけていよう、とエミリアはおもいましたが、どうしてもまぶしさにたえきれず、やっぱりいつもどおりに目をつむって、りょうてで耳をふさぎました。
ひかりとおとは、きえました。
エミリアは、目をあけました。
ミシュも、森も、きえてしまいました。
エミリアは、ミシュにひどいことをいってしまったと、とてもこうかいしました。
かのじょにあって、あやまりたいとおもいました。
しかし、もうにどとミシュにはあえませんでした。
それからエミリアは、なんどとなくあの草原のほらあなをおとずれましたが、もうにどとあの森にいくことはできませんでした。
―おわり―
AT4153年 6月
作・画 ジェニファー・アイニコワ
――――――――――――――――――――
「4153年……今から二十年前に書かれた本か……創星記の嘘……まさか、そのことが関係している?」
プロップは本を閉じ、腕を組んでうむむと唸った。
「あの、プロップさん、もしよかったら職員室にいらっしゃいませんか?お茶くらいなら出せると思います。少しお休みになっては?」
かわいそうなプロップ少年は、そのチャンスをまんまと取り逃がしてしまった。
愛しのアリスがお茶に誘ってくれたというのに(場所は職員室ではあるが)彼は考えごとに夢中になり、その言葉がすっかり耳に入らなかったのだ。
「どう考えてもこれは実話だ……そうだ、この作者は……」プロップは再び本を開き、最後のページに載っている名を指でなぞった。「ジェニファー・アイニコワ……この人に会えれば……」
「アイニコワ先生なら、このエクスカンダリアに住んでいますよ」
アリスは事もなげにプロップのつぶやきに答えた。
「何だって?この人を知っているの?」
ばたんっと本を閉じ、プロップはアリスに詰め寄った。
「ええ……まあ……」アリスは後退りした。「二、三年くらい前だったでしょうか……先生が著書の資料を探しにこの図書館にいらっしゃったことがあって、たまたま私が応対をしたんです。それ以来懇意にして頂いてて……」
「本当?その人の住所を詳しく調べることはできない?」
「住所ですか?一応私は知っていますけど……先生の著書をお借りするために、図書館の使いとして何度かご自宅に伺ったこともありますから」
「ねえ、アリス、その住所を教えてもらうわけにはいかないかな?」
「そうですね……通常なら関係者以外にむやみに伝えられないんですけど……」アリスは人さし指で頬を掻いた。「プロップさんには恩がありますから、一肌脱ぎますよ!」しばらく迷った後、アリスはにっこりと笑ってそう言った。「何とかしてみます!」
「アリス!」プロップの胸に大輪の花が咲いた。「本当かい?助かるよ!」
「じゃあ、そうですね……」アリスは両手をごしごしとこすり合わせた。「あ、そうだ!プロップさん、こういうのはどうです?私、明後日は仕事がお休みなんです。案内しますから、一緒に先生のご自宅へ行きませんか?私が一緒ならご紹介もスムーズにいくでしょうし……まあ、その、館長の許しが出ればですけど」
「アリス……」
プロップは、己の顔全体が燃えるように熱くなっていくのを感じた。お茶に誘われたというチャンスを逃したものの、結果的に彼は勝利をつかみ取った。
それは、かろうじて“デート”という言葉の定義の枠に収まるものと言えるのではないだろうか。あくまで“私用”で休日に二人きりで街を歩くのである。
「でも、そこまでしてもらっちゃっていいのかな?恩ったって、別に大したことはしてないし……君の本とメガネを拾っただけだ」
「気にしないで下さい。正直に言うと、プロップさんが何をお調べになっているのかちょっと興味あるんです。何だかミステリー小説じみてますしね」
アリスは好奇心に満ちた瞳でそう言った。ああ、それは僕に気を使ってるわけじゃなくて本心なんだなとプロップは確信した。
「じゃあ、明後日の……そうですね、朝九時でいいでしょうか?統一記念公園で待ち合わせしましょう」
「うん、わかった。大丈夫だよ。九時だね」
こうしてプロップはうきうきとしながら図書館を後にした。
その日の夜にテンダが重大な決断を下すということや、見ず知らずの詩人のせいで、当日の待ち合わせに遅刻してしまうということは想像もしていなかった。
◆4◆
―あ、アリス!
ようやく統一記念公園の入り口にたどり着いたプロップは、やや離れた場所にあるベンチに腰かけている、くるくる赤毛の少女を視界に捉えた。
―まだいた!待っててくれたんだ!
プロップは風のように速く走り、ベンチへと向かった。
不安という名のいくつもの重りが心臓に次々と乗せられていく。
―待っててくれたって言うより、一言文句を浴びせるつもりで待ち構えているのかもしれない……。
アリスの姿が、近づくにつれて大きくなっていく。どうやら彼女は本を読んでいるようで、走ってくるプロップには気づいていないようだった。
―あんたなんか最低って言われてビンタされるかも……ああ、神様!
そしてベンチの前にたどり着いた。アリスはようやくプロップに気がつき、本から目をはなして顔を上げた。
「アリス……ごめん……本当に……ごめん……急な……来客が……って言っても、僕の客じゃないんだけど……変な……詩人が……何て言うか……馬車に乗るのが……遅くなって……本当に悪気は……」
膝に両手を乗せ、プロップは息が整うのを待たずに懸命に弁明したが、やはり言葉は支離滅裂になってしまった。
「プロップさん?どうしたんですか?すごい汗……」
アリスは目を丸くしてプロップの顔を覗き込んだ。
よく見ると、いつもと違い、アリスのくるくる赤毛の前髪が、銀色の髪止めできれいに分けられていることにプロップは気がついた。
「どうしたんですかって……僕は……こんなに遅刻してしまったんだ……詩人がね……そいつのせいで……馬車に乗るのが遅くなって……詩人は僕を訪ねてきたわけじゃないんだけど……つまり、僕と一緒に馬車に乗る人が―」
「遅刻?……あら、いつの間にかこんな時間に……」アリスは腕時計に目をやり、ぷっと吹き出した。「私ったら……待ってる間に本を読んでたら、すっかり夢中になって時間を忘れてました」照れ笑いしながらそう言うと、アリスはゆっくりとベンチから立ち上がり、公園の出口を指さした。「とりあえずどこかで休みませんか?あっちに美味しいコーヒー屋さんがあるんですよ」
「アリス……怒ってないの?」
プロップはそう訊ねながら、汗ばむ肌を包み込む、午前中に吹く優しいそよ風の心地よさを感じた。
「何がですか?」
アリスは首をかしげた。
「いや、何でもないよ……そのコーヒー屋さんに行こうか」
プロップは形容し難い高揚感を覚えた。晴れた休日の公園。いつもとは少し違うアリスの髪形。この世界に、これ以上美しいものは存在しないだろうと確信できた。
こうして二人の一日は始まった。
思いもよらぬ“危険”と初めて遭遇したその日が。晴れやかなプロップの心境とは対照的な一日が。
◆◆◆




