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〈Ⅱ‐Ⅳ〉人呼んで“銀の狼”




◆1◆




さて、我々は“彼”にまつわる物語も追わねばならない。


五月八日。


テンダが重大な決断を下したこの日、奇しくも同じこの日に、マクスカ王国の首都マクスカシティでも、新たな事態が人知れず、それでいて大きく動き出した。


午前十一時。


王宮の三階にある、一定の階級以上の者しか立ち入れぬフロアの小さな会議室で、ある二人の男が顔を合わせていた。


「話とは何だね?」


そのうちの一人、太政大臣のイスラが手近にある椅子に腰かけながら、さも面倒くさそうにそう訊いた。


「お忙しいところお呼びだてしてしまい、誠に恐縮です。大臣殿」


巨躯を黒い鎧に包んだ男、騎士団長のエスティバの敬語にはわざとらしい響きが含まれていた。イスラはそれを聞いて内心苦笑した。


「こうして二人きりでお話するのは何年ぶりでしょうか」


「エスティバ殿、さっさと用件を切り出してきて良いぞ?大体想像はついているんだ……フロルのことを訊きたいのだろう?」


「先日の婚約記念パーティーの日を最後に彼女の姿を見ていません」エスティバは無表情のまま、椅子に座ろうともせずに本題を切り出した。「最後に会った時、彼女は“仕事”で方々へ行く予定だと話していた……今回の彼女の任務はどのようなものなのですか?」


「彼女はある任務のためイメッカへ行った……君に話せるのはここまでだ……どうしてそんなことを訊く?こんなことは今回が初めてではないだろうに」


イスラはそう言いながら葉巻を用意してふかし始めた。


「テンダ・カーソンとは何者ですか?」


「何だと?」


突如切り替わったエスティバの質問に驚き、イスラは葉巻を強く噛み締めた。


「あの日、テンダ・カーソンという少女が特別な来賓として招かれていた。何故かフロルが案内役をしていたようですね?おかしな話だ」


「特に意味はない。人手が足りなかったのさ」


「そのテンダという少女はどういうわけかパーティーの途中で逃げ出した……同じ頃に王宮内に侵入した者がいた……そしてその日を境にフロルが姿を消した」エスティバはそう言いながらゆっくりとイスラに近づき、机の上に片手を置いて彼の顔を覗き込んだ。「他にも気になることがいくつかある……何が起こっているのかお教え頂けませんかな?大臣殿、あるいは力になれることがあるかもしれません」


「勘繰るのは勝手だがね」イスラは少しも怯まずにエスティバを睨みつけた。「それらの出来事には何ら関連性はないよ。君の出る幕はない」


しばらくの間、二人は無言で睨み合った。


やがてエスティバはイスラから視線を外し、テーブルから手を離した。


「そうですか……わかりました……お手間を煩わせましたな」


エスティバはそう言うと部屋の出口へと向かった。


「エスティバ殿、一つだけ言っておこう」イスラは肩越しに振り返り、エスティバを呼び止めた。「あまり出過ぎたことをしないほうが良いと思うぞ。姫の婚約者とはいえ、陛下が君を特別扱いするなどとは思わぬことだ」


イスラの言葉にエスティバは声を立てて笑った。


「あなたらしいお言葉ですね……そう、あなたはいつまで経っても我々“騎士”というものがどういうものなのかをご理解頂けないようだ」エスティバの表情から突然笑顔が消え、代わって、獲物を睨みつける肉食動物のごとき鋭い光が宿った。「我々を……私を甘く見るなよ?大臣殿。後悔したくなければ」


イスラは何も答えなかった。エスティバもそれ以上は何も言わず、扉を開けて部屋を出ていった。


「こざかしい。しょせんお前など道化に過ぎぬわ」


部屋の扉が閉じられると、イスラは嘲笑を浮かべながらそう呟いた。


「で?どうする?リャーマ」


その時突然、何者かの声が部屋に響き渡った。ちょうど葉巻の煙を口の中に入れた瞬間だったため、イスラは驚きのあまり激しく咳き込んだ。


「そうだな。なかなかいい実験台になるかもしれんな」


また別の何者かがそう答えた。イスラは押し潰すように葉巻を灰皿に押し込むと、顔を上げて声の主たちを探した。


「そなたらは……もう少し気を遣って頂けないだろうか?毎回そのように出てこられると、そのうち私は心臓発作で死んでしまうぞ」


イスラは“彼ら”にそう言った。部屋の隅、窓際に彼らはいた。


仮面の男、骨の手の男。


リャーマとガタカが何食わぬ顔で、さも当たり前のようにそこに立っていた。


「お前の心臓なんざ、どうでもいいぜ」


ガタカは小馬鹿にしたように笑った。


「ちょうど良い。今の話を聞いていただろう?」イスラは怒りを懸命に堪えてそう言った。「あのエスティバを……騎士団をどうにかおさえつけてくれぬか?そなたらの力で。騎士団にあちこち嗅ぎ回られては、そのうち少々厄介なことに―」


「調子乗んじゃねえよ、おっさん!」ガタカは苛立たしく言った。「俺たちを便利な殺し屋かなんかだと思ってるんじゃねえだろうな?あ?未だにそういう風に思ってんのかよ?ええ?」


「ガタカ、少し黙っていろ」リャーマが静かにたしなめた。「さて、大臣殿。騎士団のことは我々に任せてもらおうか……私に少し考えがある」


「リャーマ、その考えとやらを話してもらおう。今すぐにだ」イスラは額に汗を浮かべながら必死の形相でそう言った。「その必要がある。何故なら、玄烏賊の洞窟から戻って以来、そなたらの様子がおかしいからだ。まるでやる気を感じられぬぞ!何を考えている?」


「うるうせえじじいだな!黙らせてやろうか?」


ガタカはそう言って両手の“骨の指”をばきばきと鳴らした。


「ガタカ、黙っていろと言っただろう。私に二度同じことを言わせるな」リャーマが再びたしなめた。「いいだろう、大臣殿。私の計画を話そう。まずは騎士団の動きを見張る。まあ、連中は恐らくフロルを追い、いずれはあのティトやらジドやらと接触することになるだろうな……そして様子を見ながら“翡翠”をぶつける。うまくいけば、ついでに騎士団の主力を消せるかもしれんぞ」


「“ひすい”?……それは……まさか」イスラははっと息を飲んだ。「馬鹿な!何を考えている?みすみす情報を……“あれ”の存在を……騎士団に教えてしまうことになるぞ?」


「構わん……テンダ・カーソンたちを帰国しやすくしてやるのだ……それに、“あれ”がきちんと動くがどうか実験してみる必要がある」


「しかし……それは……」イスラはそう言いながらも、反論を試みることを断念した。しょせん自分の意見が通る相手ではなさそうだ。「上手くやれるのだろうな?陛下には話したのか?」


「無論だ。私に一任するとのことだ」


「そうか……」


「もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ?大臣殿。そう遠くない日に、お前たちが望んでいた日が訪れるのだぞ?」リャーマはくっくっと笑った。「世界中に巨大な戦火の上がる日がな」




◆2◆




「団長、早かったですね」エスティバが会議室を出ると、廊下で待機していた若い部下の男が声をかけてきた。「一体どのようなお話を?」


彼の名はロサという。


つい最近、騎士団長補佐官という役職に就いたばかりの男だ。


騎士団の場合、補佐官というのは表立った任務についたりはせず、主に団長の身の回りの世話や連絡係としての仕事が多い。


「ライオネルを呼べ」


エスティバはロサの質問に答えず、立ち止まろうとも目を合わせようともせずに吐き捨てるようにそう言った。


「ライオネル?……ライオネル・ファスコ殿のことですか?」


ロサは慌ててエスティバの後を追いながら訊ねた。


「他に誰がいる?ライオネル……あの“銀の狼”を呼ぶんだ。さっさとしろ!」


エスティバはやはり振り返ろうともせず、苛立たしげにそう言った。


「は……しかし……あの方は……その……いつもどこにいるのかさっぱりわからないと評判で―」


「だからこそさっさと捜してこいと言ってるんだ」エスティバはようやく立ち止まり、振り反ってロサを睨みつけた。「王宮内のどこかにはいるだろう。すぐに私の部屋へ来るように伝えろ」


ロサは震え上がった。それ以上は何も言わずに素早く敬礼すると、踵を返して早足でその場を去って行った。


―フロル……何があった?……何が起きている?私の知らぬところで……。


再び歩き出しながら、エスティバはふうっと大きく息を吐き出した。


―私は決してお前を手放したりはしない……決して……。




◆3◆




午後十二時半。


さんざん王宮内を歩き回った挙げ句、ロサはついにライオネルの居場所を突き止めた。


―“銀の狼”……ライオネル・ファスコか……。


ロサは彼のことをよく知っていたし、何度も遠くから見かけたことはあったが、直接会話を交わしたことはなかった。


王宮一階にある食堂の裏口を出ると小さな庭があり、その隅には木造の食料倉庫がある。


―ああ……まったく頭にくる……。


ロサは庭の中央で立ち止まり、倉庫を眺めながらため息をついた。


“ライオネル様なら……恐らく……”


彼を見かけなかったかというロサの質問に対し、顔を赤らめ、恥ずかしそうにうつむきながら給仕係の若い女はそう答えた。


“食料倉庫にいらっしゃるかと…… 仕込みは朝のうちに済ませてしまいますから、実はあそこにはこの時間帯は滅多に人が来ないのです ”


何故そんな場所にいると思うのかと訊ねようとしたが、ロサは言葉を飲み込んだ。何故ならすぐにその答えに思い至ったからだ。


―噂通りの男ということか……。


君は“それ”を知っていながら何も言わないのか?食料倉庫には、いずれ陛下のお口に入る食料が保管されているのだぞ?一体どのような了見だ!と給仕係の女を責めると、女はうっとりとした夢見心地の表情でこう答えた。


“だって……私もたまに……その……つまり……お相手を……”


「騎士の風上にもおけぬ!」


ロサはそう呟き、両手を腰にあてて天を仰いだ。このまま倉庫へ踏み込むべきか、それともしばらくここで待っていたほうがいいかという葛藤が頭の中をせわしなく駆け巡った。


―しかし、団長はお急ぎの様子だった……このままでは私の責任に……。


ロサはそこまで考え、慌ててかぶりを振った。


―いや、そうじゃない……そうじゃなくて、私は“正しいこと”をするべきなんだ……騎士にあるまじき行為をしているのはライオネル殿のほうだ……そうとも!私は何も間違っていない!


ロサは意を決すると、食料倉庫に向かって風を切るように堂々と歩き出した。


倉庫の入り口の扉を開けると、甘ったるい木のにおいと、香辛料や野菜など様々なものが入り混じったにおいが鼻をついた。しばらく暗がりに目を凝らしたが、誰の姿も見当たらなかった。


―いないのか?


肩を落とし、再び扉を閉ざそうとしたが、突然微かに何かが耳に入りその手を止めた。眉間に皺を寄せて耳を澄ませると、次第にそれが空耳ではないことがわかってきた。


―やはりいるな。


ロサは怒りと照れくささの入り混じった複雑な心境になった。微かに聞こえてくるその声は、疑いようもなく女性の“そういう種類の(そういう時だけの)声”だった。


入り口の扉が閉じてしまわぬよう全開にし、ロサは倉庫の中へと入って行った。徐々に“声”が大きくなっていく。


―ここか?


倉庫の奥には小さな部屋が五つほどあり、そのすべての扉が閉ざされていたが、“声”の出所は最奥の部屋だろうと見当がついた。今や激しい息遣いや、服の摩れる音さえもはっきりと聞き取ることができた。


「ライオネル殿」ロサはそう言って大きく深呼吸をした。「ライオネル殿!そこにいるのですか?」


「……誰だ?」


低くて無愛想な男の声が返ってきた。ロサの怒りはさらに高まっていった。何故なら、ここに第三者がいるということを既に理解したはずなのに、女の“声”は少しも途切れることはなかったからだ。


「補佐官のロサ・カルネロスと申します。団長がお呼びです。大至急部屋へ来るようにとのことでした」


「エスティバ……か」ライオネルの声には驚きが一切含まれていなかった。「すぐに行くと伝えてくれ」


「“すぐ”とはどの程度ですか?」ロサは苛立たしくそう訊ねた。「今すぐ来て頂こう……騎士団員として……騎士としてあるまじき行為をあなたはなさっている。できることなら、私はあなたを力ずくで引きずり出してやりたいくらいだ。私はあなたを確実に団長のもとへお連れする義務がある」


しばしの沈黙。しかし女の“声”は相変わらずそのままだ。


「わかった。もう少し待っていろ」


ようやくライオネルはそう答えた。それもやはり相変わらずの無愛想でぶっきらぼうな声だ。


「何ですと?」


ロサは耳を疑った。まったく回答になっていなかった。


―何が“わかった”だ!


そして堪忍袋の緒が切れたが、その時からちょうど女の“声”が絶叫のようなものに変化し、さらにはライオネルの名前を狂おしく繰り返し呼び始めた。


それを聞き、ロサの怒りは絶頂を通り越し、あきらめの境地に一気に達してしまった。


―呆れ果てた男だな……いくら幼なじみとはいえ、団長はこの男に甘すぎるのではないか?


ロサはため息をつきながら出口へと引き返し、扉を閉めてそのすぐそばの壁にもたれかかって腕を組み、それからもう一度ため息をついた。


ライオネル・ファスコ。人呼んで“銀の狼”。


マクスカ騎士団に所属している者で、“怪力無双のエスティバ”、“漆黒のフロル”、そしてこの“銀の狼、ライオネル”の三人を知らぬ者はいない。


彼ら三人は同じ孤児院で育ったという。


ライオネルとフロルは同い年で、エスティバは二人よりも五つ年上ということらしい。


およそ十二、三年前のことだ。


三人は同じ孤児院に身を置いていて、幼少の時から並外れた剣の才能の片鱗を見せていた。当時のマクスカ騎士団首脳陣が、その噂を聞きつけて三人をスカウトした。


三人は騎士団の期待通りに成長した。とりわけフロル・ラウランは別格であり、当時の騎士団首脳陣はその才能に戦慄さえ覚えたとも言われている。


しかしどういうわけか、いつからかフロルは裏の刺客として動き始め、公の場に姿を現すことが少なくなった。


彼女はエスティバと男女の関係にあり、エスティバの出世のために汚れ仕事をしているという噂だが、真偽のほどは定かではなく、また、面と向かって本人たちにその質問を投げかける勇気のある者などいなかった。


ともあれ、エスティバは騎士としての功績を次々と上げ、史上最年少となる二十代で騎士団長の座についた。


一方ライオネルはというと、剣の腕は二人に劣るといわれているものの、それでも並みの騎士とは比較にならないほどの実力の持ち主であるにも関わらず、目立った功績はなく、未だに幹部の座にすらついていない。


強調性や礼儀に欠け、仕事も不真面目、誰にも心を開かないその人間性に問題があるのだろうというのが定評だ。


そして当然のことながら、そんな彼に近づく者はおらず、彼は常に一匹狼だった。


―団長の温情で首が繋がっているというところなのだろうな……あるいは温情などでもなく、単にあの実力は捨てがたいといったことなのかもしれん……。


ロサは晴れ渡った春の空を見上げ、懸命に苛立ちをおさえながらライオネルを待った。


ようやく倉庫の扉が開いたのは、それから約十分後のことだった。


「待たせたな」


ライオネル・ファスコが倉庫の中からその姿を現した。


彼が“銀の狼”と呼ばれる理由の一つでもあるその美しい銀髪が、午後の日差しをうけてまぶしく輝いた。黒いVネックのシャツ、ワインレッドのパンツに黒いブーツ。


ロサは知っている。騎士団の中で鎧を身につけようとしないのは、フロル・ラウランとこのライオネルだけだということを。


―しかし、まあ、女人たちが狂うのも無理はないか……。


ロサは苦々しくそう思った。こうして実際にライオネルを間近で見ると、その銀髪、吸い込まれそうな青い瞳、やや童顔とも言える整った顔立ちや、服の上からでもわかるしなやかに盛り上がった筋肉は、いかにも女性の心がとろけてしまいそうな要素に満ち溢れているのがよくわかる。


「補佐官か。ご苦労なことだ」


ライオネルはろくに挨拶もせず、面倒くさそうにそう言うと、大きなあくびをした。


「では早速参りましょう。団長は既に元に戻れないほどにご立腹されているかもしれませんが」


「そうだろうな。昔から短気だったからな」


ライオネルはベルトの位置を直しながらさらりとそう言った。


その動作につられて自然とライオネルの腰元が視界に入った。ロサはその左右両方の腰に下がっているある物にすっかり気をとられてしまった。


―あれが“残月”か……。


ロサはそれが何であるかを知っていた。


“残月”。


彼が“銀の狼”と呼ばれている二つ目の理由。それは銀色の狼の二本の牙。世界で唯一ライオネルにしか扱えない、彼自らが発明した特殊な武器の名前である。


二つの薄い銀色の円盤の中心を一本の円柱で繋げ、その円柱に糸が巻きつけてある物。つまり“ヨーヨー”のことだが、ライオネルはそのヨーヨーの両方の円盤の側面に半円型の鉄の刃を取り付けてあるのだ。


また、残月は、一般的に子供の遊具として使われるヨーヨーよりもサイズが大きく、円周はおよそ二十センチほどもある。


ライオネルは、両方の腰にぶら下がっている革と金属でできた三十センチほどの半円型のホルダーに刃を納めることで残月を携帯しており、傍目にはさしずめ、スケート靴を両腰にぶら下げているかのように見えた。


残月と並ぶように左右の腰それぞれにショートソードもぶら下がっているのだが、“剣術”を誇りとしている騎士団員たちは皆ライオネルの実力を認めながらも、彼の残月とその戦い方に強い嫌悪感を抱いていた。


―強ければいい、便利であればいい、というものではない……やはりこの男には騎士道の精神がないのだ。


ロサも例外ではなく、やはり残月に嫌悪感を覚えた。


「何をじろじろ見ている?急いでいるんだろ?」


ロサの視線に気づき、ライオネルが冷たくそう言った。ロサははっと我に返り、慌てて残月から目を離した。


「失礼……では参りましょうか」




◆4◆




マクスカ王宮の地下二階。


ここには小規模な牢がある。


犯罪者は通常、マクスカシティからおよそ三十キロほど離れた山の麓にある、軍が管理する刑務所へと送られるのだが、王宮でも緊急的に利用するのためにいくつかの牢や取り調べ室が用意されている。


しかし、現代においては滅多に利用されることはなく、この日もそこには誰もいなかった。


正確には、“彼ら”を除いて誰もいなかった。


「これが……“翡翠”?」


地下二階の最奥にある鋼鉄の扉の向こう、懲罰房の中に“彼ら”はいた。


そのうちの一人、マクスカ軍最高司令官のアルバート・プルス卿が訝しげにそう呟いた。


「どう見てもただの人間だ」


彼が眺めているのは、部屋の奥の壁に鉄の鎖と輪で両手両足を繋がれ、布で目隠しをされ、頑丈な縄の猿ぐつわで口をふさがれている全裸で筋肉隆々のスキンヘッドの男だった。


「当たり前だ。人間を基に造ったのだからな」


もう一人の男、深紅の仮面の男、リャーマがそう答えた。


「完成しているのはこの一体だけなのか?」プルス卿はなおも訝しげだ。「これから“試験”を受けさせるのだろう?もしこの一体が“破損”してしまったら……まずいのではないかね?」


「心配は要らねえさ」さらにもう一人。藍色の仮面の男、ガタカがそう答えた。「完成品は棄てるほどいるんだ……リャーマいわく、こいつはそん中で一番タフだから試験に向いてるんだと」


「そういうことだ……“百聞は一見に如かず”とはお前たち人間の言葉だったな……さっそく動かしてみるとしようか」


リャーマはそう言うと、骨の手を裸体の男へかざした。その手から紫色の光の玉が生み出され、裸体の男の頭部へと放たれた。


光が命中すると、裸体の男は微かに呻き声を上げて体を震わせた。


がちゃがちゃと鎖が揺れる。


やがて光は消え、部屋の中は静寂に包まれた。


「……どうした?動かぬではないか?」


プルス卿はリャーマとガタカを交互に見ながら顔をひきつらせた。


「私が命令を与えぬ限りは動かぬ」


リャーマは即答した。


「何だって?」プルス卿は両手を広げた。「それはとんだ欠陥品ではないかね?一体ずつそなたの命令を聞かせていかねばならないのか?それでは“軍隊”にならない!」


「それはまったく逆さ、司令官殿。むしろ理想的な、完全無欠な軍になるぜ!」ガタガはやや興奮気味にそう言った。「一体ずつ命令する必要はないのさ。この試験が成功すれば、残りの翡翠全部にも同じ術をかける。リャーマの魔力なら一晩もかからない作業さ。そうなれば、後はどんなに離れたところからでもリャーマが精神感応で一斉に号令をかけれるんだ。翡翠のほうからもリャーマにメッセージを送ることができる。いつでもどこでもな。どうだ?人間の軍隊には真似できねえだろ?桁違いの統率力さ」


「そんなことが……」プルス卿は感極まった声でそう言った。「素晴らしい……なんと素晴らしい……」


「まあ、試験が成功すればの話だけどな」


「その試験とは、具体的には何をするのかね?」


プルス卿は答えを待ち切れないといった口調でそう訊ねたが、リャーマもガタカもすぐには答えなかった。


「ガタカ、エスティバの動きはどうだ?」


リャーマはガタカに向き直った。


「ああ、さっき盗み聞きした話だとよ、どうやらライオネル・ファスコって小僧を使うようだ。フロルほどじゃないが、まあまあ面白い小僧さ」


「ライオネル……?銀の狼……だったかな?」


プルス卿はそう呟いた。


国境でフロルに言われた言葉、“騎士団は狼がいる”をふと思い出したが、すぐにそれを彼方へと追い払った。今は目の前の“翡翠”にひたすら夢中になりたかった。


「騎士団長自らは動けぬか……まあ、いいだろう」リャーマはそう言うと再び裸体の男に向き直った。「さて、翡翠よ。我が従順なしもべよ。目を開けろ」


リャーマの骨の手が男の目隠しを破り取ると、その下から血走った狂気じみた瞳が現れた。


「これよりお前に命を下す。騎士団のライオネル・ファスコという男を追い、その動きを見張れ。よいか?私が許可するまでは決してその男を殺してはならん」


「始末させるべきではないか?騎士団を自由にさせていいのか?」


プルス卿が不満の声をもらした。


「黙っていろ。騎士団はある程度自由に泳がせるのだ。あのティトという魔導士や、ジドとかいう男に接触させてやろうじゃないか。テンダ・カーソンたちにいつまでも帝国にいられては困るだろう?」


リャーマは苛立った声でそう答えた。プルス卿はあまり要領を得なかったが、とりあえず今はそれ以上は文句をつけないことにした。


「その騎士団の男が何をしようとするのか、しっかりと見張るのだぞ」リャーマは命令を再開した。「理解できたか?」


男はリャーマの言葉に素早く二、三度頷いた。


「よかろう。ではまずは服を着ろ」


リャーマはそう言うとプルス卿に目配せをした。


「そなたらに言われた通りに用意はしたが……」プルス卿はそう言うと、部屋の隅に置いてあったスーツケースのところへ移動し、中からきれいに折り畳まれた衣服と皮のブーツを取り出した。「こんなものでいいか?……一般人に紛れ込んでも特に違和感はないだろう。サイズも合うはずだ」


プルス卿は衣服一式をリャーマとガタカに見せた。ガタカはプルス卿に歩み寄り、それらを一枚ずつ手に取って広げると、見終わった順に次々と裸体の男の足下へ無造作に放り投げていった。


「まあ、そうだな。街ん中歩いて人間の中に紛れても目立たんだろ」


茶色のチュニック。黒いフードつきのマント。深い緑色の下着。黒いブーツ。


裸体の男は足下に落ちてくるそれらの物を、血走った目で睨むように見つめていた。


「それで全部だ。さっさと着ろよ」


やがてすべてを投げ終えると、ガタカは骨の手をばきばきと鳴らしながらそう言った。


「おいおい。手枷と足枷を外して―」


やってはどうかね?と誘い笑いをしながら言おうとしたプルス卿だったが、その言葉は喉の奥に引っ込んだ。


獣のような低い呻き声とともに、裸体の男は猿ぐつわを噛みちぎり、力任せに両手両足を動かして壁と繋がっている鎖を断ち切った。


さらに驚く事に、自由になった手で両手と両足の鉄の輪を力任せに“ねじ切った”のである。


プルス卿は驚きのあまり、口をあんぐりと開けたまましばらくの間何も言えず、ぎこちない手つきで衣服を身につけていく男をただ呆然と眺めていた。


「素晴らしい……」ようやく絞り出せた言葉はそれだった。「これでテンダ・カーソンの力さえ手に入れば……我々は限りなく神に近づける!」


プルス卿は半ば無意識のうちに高らかに笑っていた。




◆5◆




「遅かったな、ライオネル」


部屋に入ってきたライオネルへエスティバが声をかけた。


「まあな」


部屋を見渡しながらライオネルは素っ気なくそう答えた。


高官しか立ち入ることが許されていないマクスカ王宮の四階。そこにあるエスティバの部屋は、庶民であれば四、五人の家族が問題なく暮らせるほどに広かった。


すべての家具は効率的に並んでおり、どこを見渡しても汚れや埃などは一切なさそうだった。


「前の部屋とは大違いだな……王女の婚約者ともなればこうも変わるものか」


ライオネルはそう言いながら、許可もされていないのに部屋の中央にある広いソファーにどっかりと腰かけ、パンツのポケットをまさぐって煙草とマッチを取り出すと、ためらいなく一服やり始めた。


「別に私が頼んだわけではないんだがな……広すぎて少々困ってるくらいさ」


エスティバは特にライオネルを咎めようともせず、皮肉っぽくそう言いながらライオネルの向かいのソファーに座った。


「補佐官。君はもう下がりたまえ。駐屯所に戻っていろ。私もじきに戻る」


エスティバは思い出したように部屋の入り口を振り返り、そこで立ったまま二人を眺めていたロサに声をかけた。


ロサは承知しましたと答えて敬礼すると、最後にちらりとライオネルに一瞥をくれてから去っていった。


「王女とはもう寝たのか?」ロサが去るのを見送ると、ゆっくりと煙を吐き出しながらライオネルはそう訊ねた。「どうだった?十六……いや、十七だっけ?……処女だったか?」


「変わらんなお前は……」


エスティバはふっと笑った。


「と言うより、あんたとフロルが“変わりすぎた”んだ。俺は“平凡”なんだよ」


「こうして二人きりで話すのは随分久しぶりだな」


「まあな……」


それから二人の間にしばらくの沈黙が訪れた。


ライオネルはくわえ煙草で煙を追うように天井を見上げており、エスティバはそのライオネルの顔をじっと見つめていた。


それはとても不思議な沈黙だった。


お互い大体同じようことを考えているのだろうということは二人ともわかっていたが、ではそれは具体的に何かと言われると言葉にするのは困難だった。


今日までにお互いが過ごしてきた“日々”の長さと複雑さを噛み締めて反芻している。強いて言葉にするとしたらそうなるだろうと思えた。


「お前に頼みたいことがあるんだ」


やがてエスティバは小さくそう言った。


「フロルのことか?」


ライオネルは天井を見上げたままそう訊いた。


「ほう、驚いたな……さすがは“銀の狼”だ。どこまで知っている?」


「別に何も……ただ、あんたが俺と話したがるとしたら、フロルのことしかないだろうと思っただけさ」


「そうか……」エスティバは残念そうにふうっと大きく息を吐いた。「婚約記念パーティーの日のことだ。私は夜になってムミ姫の様子がおかしいということに気がついた」


「マリッジブルーとかいうやつだろ?」


ライオネルは冗談めかしてそう言い、鼻でふんっと笑った。


「ライオネル、よく聞け。私の勘が正しければ、今この王宮では何かとてつもなく重大なことが起きているのだ」エスティバは真に迫った口調でそう言った。「ムミ姫の様子はおかしかった……笑いもせず、怒りもしない……まるで魂が抜けてしまったかのようだ。あの日から、姫が歌を口ずさむのを見ることはなくなった」


ライオネルはようやく天井から目を離してエスティバと目を合わせた。


エスティバの話は続く。


「何かがおかしいと直感的にそう思った……いや、少し違うな。そもそも始めから今回の婚約はおかしいと、どこかでそう思っていたんだ……突然陛下が私と姫の仲をお認めになったのも不自然だった……私は夜になり、フロルの部屋へ行った。何か知っているかもしれないと思ったんだ」


「よくもそんなことができたな」ライオネルは軽蔑の視線を送りながらそう言った。「捨てた女の部屋へ行ったのか?他の女との婚約記念パーティーの日に?大したもんだ」


「ライオネル、最後まで話を聞いてくれ」エスティバは両手を広げて顔をしかめた。「お前の言うことももっともだ。私を軽蔑するがいい……だが、今は話を最後まで聞くのだ」


「わかった。さっさと続けろ」


ライオネルはぶっきらぼうにそう答えると、目の前のテーブルに置いてある灰皿に灰を落とした。


「フロルは部屋にいた。だが私を中に入れようとはしなかった。明日から“仕事”で方々へ行かなければならない、もう休まないといけないから、と言ってな」


「もうその必要もないだろうにな……もうあんたのために働く必要はないんだ」


ライオネルは非難めいた口調でそう呟いた。


「私は翌日から、パーティー当日に何か変わった出来事がなかったかを調べてみたんだ」エスティバはライオネルの言葉には取り合わずに話を続けた。「そしていくつか気になる点を見つけた。あの日、テンダ・カーソンという名の十七、八才の少女が特別な来賓として招かれていた。彼女の案内人はなぜかフロルだったのだ」


ライオネルは眉をぴくりと上げた。


「それにこのテンダという少女……どれだけ調べても正体がわからんのだ。王宮内の誰もが彼女が何者かは知らないと言った。王族や貴族、地方の領主、それに財閥にもカーソンという家はない」


「王女には訊いてみたのか?」


「ああ、それとなく訊いてみたんだが……」エスティバはため息をつきながらかぶりを振った。「何も知らないと答えたよ……魂が抜けたような声で……そう答えたのだ」


「陛下や大臣に訊けばわかるだろ?」


「ライオネル、話はまだ続くんだ」エスティバは強い口調でライオネルを制した。「私はその後、それについてほんのわずかだが手がかりをつかんだのだ。十七年前に国外追放となったマクスカ王宮の魔導士がいたらしいのだが、その名がティト・カーソンというらしい」


「偶然だろ?それほど珍しい名前でもない」


「確かにその可能性もある。だがな、そのティト・カーソンが追放された理由はいくら調べてもわからなかった。どうも“におう”と思わないか?」


「なるほどな……」


「まだあるぞ。そのテンダ・カーソンだが、何故かパーティーの途中で突然逃げ出したそうだ。そして奇遇にも同じ頃、王宮内に一人の少年が不法に侵入した。この少年は侵入がばれて、マクスカシティに待機していたもう一人の少年と共に逃走した。それを衛兵が追い、フォックスリバーの川沿いまで追い詰めた。するとそこに、王宮から逃げてきたテンダ・カーソンも姿を現したらしいのだ。少年たちとテンダ・カーソンが仲間だったかどうか、確実なことはわからなかったが、川にはエンジンつきのボートが用意されていて、テンダ・カーソンはそれに乗って一人で逃走した。少年二人は川に落ちてそれ以降の足取りはつかめていない」


「まさか……いくら軍が無能だからって、未だにガキ二人見つけられないのか?」


ライオネルはくっくっと笑った。


「お前が言うほど軍は無能ではない……が、そもそも捜索が行われなかったのだ」


「何だと?」


「大臣がそう命令したらしい。王宮に何も被害はなかった、優先的に捜索する必要はない、とな」


「なるほど……」ライオネルは皮肉っぽくそう言って鼻で笑った。「言い方を替えると、“よほどの何かが起こった”」


「そうだ。そしてその翌日からフロルは姿を消した……ついさっき、大臣と会ってフロルについて訊いてみたのだ。フロルはイメッカへ行った、それ以上話すことはないというのが返事だ。テンダ・カーソンについて訊くと、あまり勝手にうろちょろするなと一蹴されたよ」エスティバはにやりと笑った。「確信したのだ。何かが起こっていると。信じたくはないが、陛下や大臣、恐らく軍もそうなのかもしれないが、何かを起こしている……きっとフロルもその渦中にいるのだ」


「話はわかった。それで俺は何をすればいいんだ?」


ライオネルはすっかり短くなった煙草を灰皿に押しつけて消し、それからまた新しい煙草を取り出して火をつけた。


「フロルを追ってくれ。何が起こっているのかを突き止めてくれ。内密に動くのだ。私が直接行きたいところだがそうもいかない。私は目立たずに動くことはできない……それに、私は監視されているかもしれない」


「他に適役がいるんじゃないか?俺の噂は知っているだろ?仕事をしない男ってことで有名なんだ」


「ライオネル、冗談はもうたくさんだ!」エスティバは拳をテーブルに叩きつけた。灰皿がわずかに宙に浮いた。「お前のことを誰よりも知っているからこそお前に頼むのだ。私とフロルだけは知っている。お前は噂通りのふざけた男じゃない。剣の腕だけじゃない。お前の胸の奥には騎士としての“優しさ”と“情熱”がある。今でもそうなんだ。私やフロルとは違う。お前だけは子供の頃と同じように、未だに純粋なままなんだ。怠けているふりをしているだけなんだろ?悪者ぶっているだけだ!女を何ダース抱こうとも、お前の心が満たされることは絶対にない!何故なら、ひねくれて悪者ぶっているだけだからだ!」


「ほう、どうしてそう思うんだ?俺が悪者ぶっているだけだと、どうしてそう思うんだ?」ライオネルは急に表情を険しくさせ、低く、怒りのこもった声でそう言った。「なあ、エスティバ。答えてくれ」


「お前は……」エスティバは数秒だけ目を閉じ、ためらった後で言葉を続けた。「何を言わせたいのかわかっているぞ。ライオネル……ならばはっきりと言おう。お前は私を妬んでいるからだ……そうだろう?私とフロルの関係が、単なる幼馴染みではなくなった時からお前は変わってしまった……私たちから離れていった……一度だってお前は本心を打ち明けてくれなかった。私にはそれがつらかった。お前がフロルにどういう感情を抱いていたか……私は知っていたんだ」


それからまた沈黙が空間を支配した。


今度は先ほどとは少し異なり、負の感情が多く混じっている沈黙だった。ただしそれは“怒り”や“敵意”ではなく、限りなく“悲しみ”に近いものだった。


「誰のためなんだ?」沈黙を破ったのはライオネルだった。「今回の件について、あんたが言うように大きな“何か”が動いているとして、それを解決するのは誰のためなんだ?」


「愚問だ。ライオネル」エスティバは静かにそう言った。「フロルやムミ姫のためであり、ひいてはこの国そのもののためだ。無論私自身のためでもある」


「そうか……最後に一つだけ答えて欲しい」そう言いながらライオネルは立ち上がった。「今でも俺とフロルを友だと思っているか?孤児院にいた頃のことを覚えているか?」


その質問にエスティバは驚いて目を見開いたが、ほどなくしてそれは微笑へと変わった。


「私たち三人を繋ぐ糸は永遠に消えることはない……私はそう思っている……ライオネル、私こそお前とフロルにそれを訊きたかった……ずっとだ……ずっとそう思っていた。今、お前が私と同じ気持ちだったのだと知って、私は安心し―」


「この仕事、引き受けよう」ライオネルはエスティバの言葉を遮り、吐き捨てるようにそう言うと、煙草をくわえたまま歩き出した。「何かわかったら知らせる」


去り際にライオネルは振り返りもせずにそう言うと、後ろ手で部屋の扉を閉じた。


「ライオネル……」一人きりになってしまった部屋で、灰皿に残された吸い殻を見つめながらエスティバは小さく呟いた。「すまない……すまない……どうか、頼むぞ……」




◆6◆




マクスカ騎士団の駐屯所はマクスカシティの北側、王宮の目と鼻の先に位置しており、エスティバとフロルを除くマクスカ赴任の騎士団員、約二千人全員がそこで暮らしている。


エスティバの部屋を後にしたライオネルは、そのまま駐屯所にある自室へと戻った。


先ほど訪れたエスティバの部屋とは比較にならないほどに狭く、汚く、物が散らかっている部屋だったが、ライオネルはこの部屋がそれほど嫌いではなかった。


部屋に入るやいなや、ライオネルは部屋の隅にある姿見鏡の前に立ち、そこに映った自分の姿をじっと見つめながら、追憶の海へゆっくりと潜っていった。


―銀色の髪……銀の狼……か。


ライオネルには両親がいない。


赤子の時にみすぼらしいゆりかごに入れられ、マクスカ西部にあるアルカマ孤児院の玄関先に捨てられていたらしい。


ゆりかごの中には、赤子の名前や両親の身元を示す手がかりは一切なかったという。ライオネル・ファスコという名前も孤児院にもらったものだった。


“君の両親は、もしかするとビエストロ人かもしれないね”


子供の頃、孤児院の若い女の先生にそう言われたことがあった。なんでも、ビエストロの北部には銀髪の部族がいるのだという。


その先生は笑顔でそう言ったが、その表情の裏に哀れみが隠れていることをライオネルはその時既に見抜いていた。だが彼としては、特にその話に心を動かされることはなかった。


自分は何者なのか?何のために生まれてきたのか?その時のライオネルには、そんなことはどうでもいいことだった。


同じ孤児院にいたエスティバとフロルの存在が、そういった疑問から自分を遥か彼方へと遠ざけていたからだ。


三人で過ごす時間。その中に“居場所”があった。ここが自分の居場所なのだと意識することすらないほどに、当たり前のようにそれがそこにあった。


時は流れ、三人はマクスカ騎士団に引き取られてマクスカシティに移り住み、騎士団見習いとしてこの駐屯所で過ごした。


三人とも不思議と環境の変化に戸惑うことはなかった。


心のどこかで既に確信していたのかもしれないとライオネルは当時を振り返りそう思う。


三人とも早い段階で、己の剣の才覚が尋常ではないということに気づいており、いずれはこの孤児院から出ることになるのではないかという確信に近い予感があったのではないかと。


さらに時が流れ、思春期の真っ只中にいたある日のこと、ライオネルは生まれて初めて己の存在を疑うことになった。


特に何かの出来事がきっかけだったというわけではない。その日突然、青天の霹靂のようにある“悟り”が彼の胸に芽生えたのだ。


それはきっと幼少から剣を振り続けてきたことにより、この日ある一定の経験値に達した結果に違いなかった。


その“悟り”とは、“ああ、俺は生涯フロルに敵わないのだ”という絶望的な真実だった。


アルカマ孤児院の三勇などと呼ばれ、周囲から称賛や恐怖のまなざしで見つめられてきた三人だったが、その三人の中でもフロルだけはさらに飛び抜けた天才なのだということに気がついた。


エスティバも確かに強い。しかしその差というのは“埋めようのある差”だった。


しかしフロルは違う。それは努力では到底埋まらない差だった。何をどうしても越えられない壁だった。


ライオネルは思った。自分の心の中にある、自分自身の存在意義が“剣の才能”というただそれだけに支えられていたのだと。


―俺は何のために生まれた?この世で一番強くないというのなら、何故生きている?薄汚れたゆりかごと一緒に捨てられ、それでも生き延びたのは、俺がこの世で一番強くなるはずの人間だからじゃないのか?……俺は何者なんだ?


惜しむべきは、彼の存在意義を支えているのは、実は“剣の才能”だけではないということに、彼自身がすぐに気づけなかったということである。


“三人で過ごす時間”


いつもすぐそばにあったはずのこの居場所の大切さを彼は見落としていた。あるいはあまりにも近くにありすぎたから、あまりにも大きなものだったからこそ見落としてしまったのかもしれない。


ずっと後になってそれに気がついた時にはもう手遅れだった。


もしももっと早くそれに気がついていたとしたら、新しい、もっと違う種類の“居場所”を作り出すために、何か違うことができていたかもしれない。


しかし時は残酷に流れ、ライオネルからその機会を永遠に奪ってしまった。


もしかするとそうかもしれないと感じた時には、既にフロルとエスティバは男と女の仲になっていた。


「フロル、お前とエスティバができてるって知った時、俺はどこに行っていいのかわからなかった……自分が誰なのかわからなかった……間違ってるとわかっていても、お前たちから離れることしかできなかった……やっぱりそれは間違いだった……でもその時はどうしていいかわからなかったんだ……俺は、ただずっとガキのままの三人でいたかった……そして何よりも、お前にそばにいて欲しかった……それだけだったんだ……剣の才能など、それに比べれば何の価値もなかったんだ。ずっと後になってようやく気づいたんだ」


ライオネルは追憶の海から束の間顔を出し、鏡に映る青い瞳を見つめながらそう呟き、それからまた追憶の海へ潜った。


フロルと己の決定的な差を悟った後もなお、ライオネルはひたすら己の剣の腕を磨くことをやめなかった。フロルの域には届かないと知りながら、それでも止まることはできなかった。


止まってしまえば何もかもが完全に崩れさってしまうのではないかと思えた。それは死よりもつらいことだった。


そして二十歳の時、彼はある一つの考えにたどり着いた。


―“剣”だからだめなんだ……根本を変える必要がある……?


それまで彼が理想としていたのは、“相手に何もさせずに初太刀でしとめる”だったのだが、あえてそれを否定してみようと試みた。


―ならばそもそも近づかせなければいい。


そこで彼は世界中のありとあらゆる飛び道具を集めた。


弓、投げナイフ、トマホークにブーメラン、東洋に伝わる手裏剣やクナイ、円月輪というものまで集めた。


―何かが違う!


しかし、彼を満足させるものはなかった。


―限界がある……どれもこれも投げてしまえばそれで終わる……一度それを見られた相手なら回避される……。


そうして苦悩の日々を過ごしていたある日、彼はふとマクスカシティの街角で、幼い少年二人がヨーヨーで遊んでいるのを目にした。


―ヨーヨーか。


その時、ライオネルの胸に稲妻のような光が差し込んだ。彼は衝動的にその少年からヨーヨーを無理矢理取り上げ、泣きわめく少年に向かっていずれ返すと言い残し(後日本当に返した)それを駐屯所に持ち帰った。


駐屯所には騎士たちの武具製造や修理を行う工房があり、多くの職人がいる。


ヨーヨーを片手にぶつぶつと呟きながら工房に入ってきたライオネルを見て、職人たちは皆首を傾げながら、あいつは何をやるつもりだと面白半分に見守っていたが、やがて彼がそのヨーヨーに鉄の刃を取りつけ始めると、皆恐ろしさのあまり彼から視線を逸らして身を遠ざけた。


殺人ヨーヨーの試作品が完成したのはわずか数時間後のことだった。


刃を取りつけただけでなく、ヨーヨーの糸をより丈夫なものに変え、なおかつその長さを五メートルほどに伸ばした。


ライオネルは手に持った完成品を眺めながら工房を後にし、そのまま宿舎の中央にある特訓用の中庭へと向かった。


そこには何人かの騎士たちがいたが、ライオネルが来たとわかるとそうそうに引き上げていった。彼の閉鎖的な人間性を誰もが嫌っていたからである。


しかしライオネルはそれを少しもつらいとは思わず、むしろこれで実験がやりやすくなるとさえ思った。


彼はかかしのような木製の的に向かって殺人ヨーヨーを何度か投げつけた。


まずは利き腕とは逆の左手のみを使うことにした。何故なら、万が一接近された場合にに剣で対応できるよう、右手を常に自由にしておきたかったからだ。


彼は興奮した。もちろん初めてということもあり、満足にコントロールすることはできなかったが、これまで試した武器にはなかった可能性を実感した。


変則的な動き。予測しづらい軌道。スピードもなかなかのものだ。


ところがしばらく試しているうちに、やがてヨーヨーの致命的欠陥に気がついた。


それは、一度的に当たってしまうとそこで回転が止まってしまい、引き戻すことができなくなるという欠点だ。


それから数週間というもの、彼はこの問題を解決するために様々な工夫を凝らした。


苦心の末、中央の円柱軸にボールベアリングを仕込み、糸が伸びきった後も回転が続くように細工をしたが、それでもやはり的に当たると回転は止まる。もどかしさで気も狂わんばかりだった。


―やはり無理なのか……?


しかし解決の道は開かれた。あきらめかけた頃、再び運命の出会いは訪れる。


ある日のことだった。


マクスカシティの商店街を歩いていたライオネルは、ふと、正午であるにも関わらず店を畳もうとしている初老の男の商人を見かけた。


何気なくわけを訊くと、イメッカ南部でとても珍しい糸を手に入れたのだが、国境のバザーではさっぱり売れず、マクスカシティにやってきたのだがやはり売れない、もうこれ以上頑張っても無駄だ、何せたったの一人も買ってはくれないんだ、と商人は半泣きでそう語った。


一体どんな糸なのかと訊ねると、イメッカ南部の奥地の山に棲む珍しい蚕の糸だという。


“ファイアラン・モスって地元の連中は呼ぶんだ。こんなでっかい蚕でさあ!”


商人は両手を目一杯広げながら興奮気味にそう言った。最高級の釣糸よりもはるかに丈夫だという。


それならむしろバカ売れしそうなもんだが、とライオネルが首を傾げると、商人は深いため息をついてこう言った。


“欠点があるんでさあ……この糸はよう、ある程度の時間、一定の状態に固定されると、その後はどんなに真っ直ぐに伸ばしても、また元の形に戻ろうとするんでさあ……それじゃあ使いもんになんねえってよう”


この時、ライオネルの胸にまたしても稲妻が走った。


どんなものか見てみたいと頼むと、商人は笑って実演して見せた。


商人はまず、ファイアラン・モスの糸がぐるぐると巻き付けられている一本の鉛筆を取り出し、その糸を手際良く外していった。


その糸は三十センチほどで、商人はそれをライオネルに手渡しながら、ぴんっと引っ張ってみてくれと言った。


ライオネルは言われた通りに左右それぞれの親指と人さし指で糸の両端を持ち、わずかに力を込めて左右に引っ張った。


それから三十秒ほど経過した頃、商人が片方を放してみろと言った。


ライオネルは言われた通りに右の指を放した。当然のことながら糸はだらりと垂れ下がる。多少強く引っ張ったため、鉛筆から外された時よりは真っ直ぐに近い状態になっていた。


そしてライオネルは驚愕する。


なんと、ほどなくして糸がひとりでにくるくると巻き戻り始めたのだ。最終的にライオネルの左の親指と人さし指は、大きな毛玉のようなものをつまんでいる状態になった。


つまり鉛筆に巻かれていた時の状態に戻ろうとするのだと商人は説明した。


ライオネルはすぐさま店中の糸を俺が全部買うと告げ、商人の目を白黒と点滅させた。


かなりの高額だったが払えないほどではなく、ライオネルは合計およそ百メートルほどの糸を購入した。


そして早る気持ちをおさえながら足早に駐屯所の工房へと向かい、新たなヨーヨーの開発に没頭した。


新しい糸を使った殺人ヨーヨーが完成した頃には、既に日付が変わろうとしていたが、ライオネルはそんなことはお構いなしに休むことなくそのまま訓練所へと向かった。


ファイアラン・モスの糸の効果は絶大だった。


最大の課題であった回転の停止を見事に克服してみせたのだ。そればかりか戻りの速度も大幅に上がった。


―通用する……俺はまだ強くなれる!


翌日、ライオネルは一日中工房にこもり、最終的な完成品を仕上げにかかった。


これまでの実験を基に、最適なサイズの円盤、刃の太さ、糸の長さを割り出し、理想的な一品を造り出した。


こうして完成した殺人ヨーヨーは、円盤の直径二十センチ、刃渡りは円周の半分で、太さは三・五センチとし(これより太いと、ヨーヨーを戻した時に自分の掌を斬ってしまうため)糸の長さは五メートル、(これより長いと、投げた後コントロール不能になるため)さらに万が一を考え、糸が伸びきった後も回転が止まらないようにボールベアリング式を採用した。


ライオネルはおまけとしてヨーヨーのホルダーを作った。


革と金属でできており、腰にぶら下げることができ、ヨーヨーの刃の部分を収納できるものだ。


ところが、携帯する時に便利だというくらいにしか思っていなかったこのホルダーが、思わぬ発見をもたらすことになった。


さっそく訓練所で試したところ、想像以上にそのヨーヨーのサイズは適切であり、理想的な扱いやすさだった。


ほどなくしてライオネルは、ホルダーに納めた状態のまま糸に中指を通し、前方向に抜きながら素早く投げることによって、予め手に持った状態から投げるよりもむしろ速く、鋭く投げることが可能で、さらには命中精度も上がるということに気がついた。


―東洋の剣術の“居合い”と同じ原理か……。


この予想外の発見は素晴らしいものだった。しかし、同時にそれは新たな苦悩の始まりだった。


左手でヨーヨーを自由に操り、なおかつ右手の剣も自在に操る、そしてその両方を同時に操れるようになるまで一年以上かかった。


当初、これまで通り剣は左の腰に下げていたのだが、これだと右手で剣を抜く時に、誤ってヨーヨーを使っている左手を斬り落としてしまいかねない。


そこで剣を右腰に下げることにしたのだが、(背中に下げるという選択肢もあったが、それだとどうしても抜くスピードが遅くなってしまい、隙ができてしまう)右手で右腰から順手で剣を抜くというまったく馴染みのない動作を我が物とするのに相当苦労した。


それでも慣れてみると、右手で右から剣を抜くというのはそれほど大変でもなく、意外と非効率的ではなかった。


また、それだけでなく剣そのものにも工夫を凝らし、それまで使っていた長剣から一般的な剣よりも刃渡りがひとまわり短いショートソードと呼ばれる、主に女性が使用する種類の剣を使うようにした。


抜きやすくて小回りがきくため、ヨーヨーとの相性が非常に良かったためである。


“残月”という名を思いついたのもこの頃である。


ヨーヨーを放ち、引き戻した後に残る回転した刃の残像を見てそう名付けた。


こうして遠距離からの左手の残月、近距離における右手の剣という独創的な戦術を手に入れたライオネルだったが、彼の強さへの欲求はそれでもまだ満たされなかった。


―確かに強くなった……だがこれでもまだ単調だ……フロルやエスティバのレベルなら、一度見ただけで回避されてしまうかもしれない。


考え抜いた結果、ライオネルは最も単純で最も過酷な道を選択した。


つまりは、残月と剣を両手でそれぞれ使えるようにすればいいという選択だ。


彼はもう一つ残月を造り、左右の腰に下げ、そしてショートソードも同様に二本用意した。


それからの彼の特訓はまさに狂気の沙汰だった。


何度となく残月で己の体を傷つけた。危うく首を切断しそうになったことさえあった。


他の騎士団員たちは口々に、あいつはとうとう気が狂ってしまったんだと噂した。


しかしライオネル・ファスコはやはり天才だということがついに証明される日は訪れた。


わずか二年で彼はその独創的戦術をついに我が物にしてしまったのだ。


左右の残月、左右の剣、その組み合わせによる攻撃のバリエーションは驚異的だった。


彼は新たに手に入れた力に満足した。これが自分自身のあるべき姿なんだと思った。フロルやエスティバのことを思って苦しむことももうないのだと。己の力で確固たる自分自身を完成させたのだと。


こうして、ついに彼は自分を取り戻した。彼の心は満たされた。


「そうじゃない!それは勘違いだったんだ!結局俺は少しも満たされてなんかいなかったんだ」


追憶の海から戻り、ライオネルは再び鏡の中の自分にそう言った。


「残月を手に入れた。だけど、なあ、フロル。それが一体何だってんだ?俺のまわりにはもう誰もいないんだ。いつの間にかお前はずっと遠くに行ってしまっていた……エスティバもそうだ……騎士団の仕事なんてくだらなかった……どれだけ強くなったとしても、結局俺は自分が誰なのかはわからないままなんだ……今の俺の姿は単なる“嘘”なんだ……残月をぶらさげて立っている俺の体の中身は空っぽなんだ……自分の居場所がわからないままなんだ……」


ライオネルは左右の残月をそっと撫でた。


「俺はもう終わりにしたい……こんな日々は終わりにしたいんだ……俺は俺のためにお前を捜す……お前への気持に決着をつける……何のために俺は生まれてきたのか……その疑問に決着をつける」


そう言うとライオネルは鏡に背を向け、煙草を取り出して口にくわえてマッチで火をつけた。


―まずはどこへ行く?……イメッカへ行って直接フロルに会うか?


ライオネルはその考えをすぐに否定した。


―いや、もしかしたらイメッカへ行ったという大臣の情報もブラフかもしれん。やはりフロルの足取りを追うのが先か。あいつが行くとしたら……まずは……あそこか……。


やがて一つの答えを導き出し、ライオネルは部屋を後にした。




◆7◆




午後十八時を過ぎ、夜の闇がマクスカシティを覆っていた。


そのマクスカシティの貧民街の一角。


廃屋のような一軒家で、何かから隠れるようにひっそりと暮らしている褐色の小男、リッキーにとって、この日はとても良い一日となるはずだった。


「こうして見ると、悪いもんじゃねえなあ……」


にやにや笑いを浮かべ、煙草をふかしながらリッキーは我が家の玄関のドアを眺めていた。


つい先日、最強の女殺し屋という肩書きを持つ質の悪いの客に理不尽な理由で破壊されてしまった玄関のドアの改修がようやく今日終わったのだ。


薄汚い周囲とは不釣り合いではあったが、取り替えられたばかりのピカピカの扉を眺め、リッキーは心が洗われる思いだった。


これまで我が家の環境についてはまったく無頓着であり、リフォームはおろか、家の掃除や家具の買い替えすらしたことはなかったのだが、こうして真新しい扉を見ると、にわかに他の部分も真新しくしてやりたい気持ちになった。


「思いきって全部改修しちまうか?良い機会かもなあ」


しかし、それは大きな勘違いであるということを彼は約一時間後に思い知ることになる。


この日は“良い機会”とは真逆の一日となってしまった。


三十分ほど過ぎた後に、まず最初の死神がやってきた。


驚くべきことに、その死神はドアを蹴破りこそしなかったものの、ノックも挨拶もなしに出し抜けにドアを開けて入ってきたのである。


玄関のドアを開けるとすぐそこにはキッチンがある。そのキッチンでコーヒーを飲んでいたリッキーは、その無遠慮な客といきなり目を合わすこととなり、思わず口に含んでいたコーヒーを派手に吹き出してしまった。


―しまった……つい鍵をかけるのを忘れてたぜ……。


後悔先に立たず。リッキーは本能的に身の回りに武器になりそうなものはあっただろうかと思考を巡らせた。


「おい、リッキー・ヘンダーソンってのはお前か?」


その客(侵入者という言い方で差し支えないかもしれない)の男は少しも悪びれた様子もなく、平然とそう訊ねてきた。


「な、何だお前は!」リッキーは震える声で怒鳴った。「ノックもなしにいきなり入ってきやがって!イカれてんのかよ?」


「鍵が開いていたんだ。それは俺のせいじゃないだろ?」その男はすかさずそう言い返した。「それよりも早く質問に答えろ。お前がリッキーだな?王国一の情報屋のリッキーなんだな?」


―こいつは……。


その男の煌めく銀髪を見た瞬間に、リッキーは彼が何者なのかを理解した。


「ああ、俺がリッキーだよ。“銀の狼”殿」


「ほう、俺を知っているのか?」


「まあな。その銀髪……それに、腰にぶら下げてんのは噂の“残月”ってやつだろ?……ライオネル・ファスコ……いろいろと知ってるさ」


リッキーは息を整えながらコーヒーカップを流し台にそっと置いた。


「自己紹介の手間が省けて嬉しいぜ」


ライオネルはそう言いながら後ろ手で玄関のドアを施錠した。リッキーの心は一気に重くなった。


―どうせはなっから自己紹介なんてする気はないんだろうによ……。


「何の用だ?どんなネタが欲しい?さっさと言えよ!金は要らねえ!騎士団にゃあ関わりたくないんだ!」


「どうして騎士団と関わりたくないんだ?」ライオネルはそう言いながら煙草をくわえて火をつけた。「つい最近フロルと関わったからか?」


リッキーは答えに窮した。いかに身内の騎士団とはいえ、情報を売ったことを他人にもらしてしまえばフロルから報復を受けるかもしれないと考えたからだ。


「フロル?フロル・ラウランか?」とりあえずリッキーはとぼけてみることにした。「一体何の話だか―」


リッキーの言葉は周囲の空気と共に切り裂かれた。あまりの速さにその瞬間を視界に捉えることはできなかったが、その“結果”から何が起こったのかはすぐに理解できた。


流し台の上に置いたコーヒーカップが突然音を立てて砕け散ったのだ。そしてリッキーは消え行く“月の残像”を見たような気がした。


すぐさまライオネルに向き直るも、彼は先ほどと変わらぬ姿勢でそこに立っており、何事もなかったかのように煙草をふかしていた。


リッキーは彼の腰に下がっている左右のホルダーを交互に見た。


―これが……“残月”?俺とあいつは三メートルは離れているぞ?……見えなかった……この距離で?この速さかよ……化物め……。


「なあ、リッキー。お前の気持ちはわかる」ライオネルは煙を吐き出した。「だが心配は要らない。俺はフロルを追ってる。お前は感謝こそされ、誰からも恨まれたりはしないさ。さあ、知ってることを話してもらおうか」


「よ、よう、悪りいんだか、それで“はいそうですか”ってなってたらよ、俺らの商売あがったりなんだわ」


リッキーは、またもや残月が飛んで来るかもしれないという恐怖を懸命に堪えてそう言った。


「なるほど……お前が筋金入りの情報屋だと知って安心したぜ……さすがにフロル御用達というだけはあるな」ライオネルはふっと笑った。「だが、命あってのものだろ?お前が元気に情報屋を続けられるかどうかはな。命こそが商売の資本だ。違うか?」


「“喋らなければ殺す”……つまりそう言いたいんだな?」


リッキーは怒りと恐怖でわなわなと震えながらそう叫んだ。


「その通りだ」ライオネルはすぐさまそう答えた。「ただし殺すのは俺じゃない。マクスカ王宮がお前を殺すんだ」


「何?何だって?」リッキーは耳を疑った。「そ、そりゃあ……どういうこった……?」


「王女の婚約記念パーティーの日の翌日からフロルは姿を消した……イメッカにいるかもしれないという話だが、本当かどうかはわからない」ライオネルはそう言いながらゆっくりとリッキーに歩み寄った。「俺はエスティバに頼まれてフロルの足取りを追っている。いいか、リッキー、この件にはマクスカ首脳が絡んでいる。何か大きなものが背後にあるんだ……俺がもし王宮首脳だったとしたら、何を考えると思う?」


「何を……って?」


「お前だよ。リッキー」ライオネルはリッキーの肩に手を置いた。リッキーはびくっと体を震わせた。「お前の存在を知ったとしたら、なるべく早めにお前を消そうと考えるぜ……お前は騎士団よりも情報を持っている……フロルと今回の件について何か知ってるんだよな?そんなやつを放っとくわけにはいかない。そうだろ?」


「そ、それは……」リッキーは混乱した。ライオネルの言っていることは正しいと理解しながらも、それを認めたくなかった。「どうすりゃいいんだ……お、俺は」


「いいか、リッキー。俺は―」


ライオネルはそこまで言って突然言葉を飲み込んだ。そしてぴくりと眉を曲げると、ゆっくりと周囲を見渡した。


「な、何だよ?どうした?」


「……いや、何でもない」ライオネルはそう答え、リッキーに視線を戻し、意味ありげににやりと笑った。「そうだな、リッキー。それじゃあ、こうしよう。一時間後にまたここに来る。その時までに決断しておくんだ。俺に協力するかどうか。はっきり決めておくんだ」


ライオネルはそう言うとリッキーの肩を軽く二、三度叩き、踵を返して出口に向かった。


「お、おい……ちょっと待ってくれよ!」


突然の話の方向転換に戸惑い、リッキーは去り行く背中を呼び止めたが、銀の狼は訪れた時と同様に、無遠慮に呆気なくドアを開けて出ていった。


「何だよ……一体何だってんだ?」


一人きりになるとリッキーはやけに心細くなった。何にせよ早く一時間が経過しないだろうか、早く戻ってきてくれないだろうかと願いたい気持ちになった。




◆8◆




「主よ……我が偉大なる主、リャーマよ」


さて、ここはリッキーの家の裏庭。


「ライオネル・ファスコはリッキー・ヘンダーソンと接触。二人はまだ情報を交換していない」


黒いマントとフードで巨躯を覆っている男がそこに立っていた。


男は、家を出て通りの向こうへと歩き去っていく銀髪の男の後ろ姿を見送った後、たった一人で圧し殺した声で呟いていた。


高揚がなく、機械的で無機質な声だった。


“我が従順なる翡翠よ。ライオネル・ファスコは今どこにいる?”


男の頭の中にその声が響き渡った。


「近くにはいない……リッキー・ヘンダーソンの家を出た……一時間後に戻ると思われる」


“引き続きそこで見張っていろ。動きがあったら知らせるのだ”


「御意……」


男は頭の中の声に返事をした。そして頭の中の声が消え去ると、それから慎重に周囲を見渡しながらリッキーの家の壁にゆっくりと近づき、背中と片方の耳をぴたりとくっつけた。


「おい、何してんだ?」


突然どこかから声が聞こえ、男は驚愕に目を見開いた。


「覗きか?あいにくだが、この家には汚ねえ小男しか住んでないぜ」


男は声の主を捜し、壁から離れて頭上を見上げた。夜空から降り注ぐようなその声の主は屋根の上におり、煙草をふかしながら腰をかがめてこちらを覗き込んでいた。


「ライオネル・ファスコ……」


男は相変わらず高揚のない声でそう呟いた。屋根の上にいる男は、紛れもなく先ほど通りの向こうに消えたはずのライオネル・ファスコだった。


「俺のことをかなり知っている……って感じか。 俺とリッキーの会話を盗み聞きしていたな?家の中からでも気配がばればれだったぜ」ライオネルはそう言うと、立ち上がって屋根から庭へと飛び降りた。「ところで、今誰かと話していたよな?どうやって誰と話していたんだ?“主”とか“リャーマ”とか言ってたな? お前は何者だ?」


次々と質問を浴びせながら、ライオネルはこれで大分精神的に自分が有利に立っただろうと確信していた。こうして虚をつかれれば大抵の人間はその混乱から立ち直るのにかなりの時間がかかるだろうと。


しかし、それはまったくの見当違いだった。


黒いフードの男は驚愕の表情をすぐに不適な笑みへと変化させた。


―何だ?


ライオネルは己の目を疑った。フードの男が変化させたのは表情だけではなかった。


おもむろにライオネルに向けてかざした男の右腕は、深い緑色へと変色し、そればかりかまるでゴムでできているかのように素早く伸び、ライオネルにつかみかかってきたのだ。


今度は虚をつかれたのはライオネルの方だった。伸びた緑色の手に首を強くつかまれた。


―冗談きついぜ……。


標的の首をとらえた後も緑色の手はさらに伸び続け、そのまま勢いよくライオネルの背中を家の壁に叩きつけた。


ライオネルの呻き声が響き、リッキーの家がかすかにぐらついた。


「主よ……我が偉大なる主よ……想定外の事態だ」


首から緑色の手が外れ、ライオネルは地面に倒れ込んだ。手はフードの男のもとへと蛇のようにするすると戻って行く。倒れているライオネルを眺めながら、フードの男はまたしてもぶつぶつと呟き始めた。


「一時撤退する」


フードの男はそう呟くと、ライオネルに背を向けて歩き出そうとした。


「おい、まだ終わってないぜ」ライオネルは痛みを堪えて立ち上がりながら男を呼び止めた。「この“距離”が得意なのはお前だけじゃないんだ……“残月”……命中したぜ。既に」


ライオネルが放ったのは言葉だけではなかった。


立ち上がりながら、ためらうことなく右の残月を放っていた。


フードの男は無表情で振り返り、ライオネルと目を合わせ、それから自分の右腕を見た。


「痛くないはずはないんだがな……何なんだお前は?」


ライオネルは苦笑しながらそう言った。


先ほど自分の首をつかんで壁に叩きつけたあの右腕の、肘から下をきれいに残月で斬り落としてやったというのに、フードの男は無表情のまま、洪水のように赤い血が噴き出しているその右腕をじっと見つめているだけだった。


「ライオネル・ファスコ……想定外の力……」


フードの男はそう呟くと、突然狂ったように大声で笑い出した。


―おい……反則じゃないか?


ライオネルはまたしても己の目を疑った。笑い声が合図であったかのように、切断された右腕が一瞬のうちに“生え変わった”のだ。


―トカゲのしっぽじゃあるまいしよ……。


見間違えではない。フードの男は紛れもなく新しい右腕を再生させて見せたのだ。


「何だ?誰だ?」


その時ちょうどライオネルのすぐそばの窓が開かれ、リッキーが恐る恐る顔を覗かせた。


ライオネルはちっと舌打ちした。


「リッキー!下がれ!」


「ライオネル?何してんだ?」


フードの男はその隙を逃さなかった。


今度は左右両方の腕を緑色に変色させ、先ほどよりも速くそれを伸ばしてきた。


「クソったれめ!」


すぐにリッキーから視線を外してフードの男へと向き直ったライオネルだったが、既に次の攻撃を回避する余裕はなくなっており、両腕を交差させて防御の姿勢をとるのがやっとだった。


緑色の二本の手はライオネルの交差された両腕をすり抜け、シャツの襟をつかんだ。


「何だこの化物は?おい、嘘だろ?」


リッキーはようやく怪物の姿を認識したが、恐ろしさと混乱のあまり肉体も精神も瞬時に凍りついてしまった。


フードの男は高らかな笑い声とともにライオネルの体を軽々と持ち上げると、左右に振って勢いをつけ、そのままリッキーがいる窓へと投げつけた。


ガラスが粉々に砕かれる、耳をつんざくような音が夜の貧民街に響き渡った。


リッキーは叫び声をあげながら咄嗟に顔を覆ったが、飛びかかってきたガラスの破片とライオネルの背中にまともにぶつかり、そのままキッチンの奥まで吹き飛ばされてしまった。


家の中は二人の男の呻き声と、割れた窓から容赦なく侵入してくる冷たい夜風が吹く、悲しげな音色の不協和音に包まれた。


「まったく……初日から……なかなか楽しませてくれるじゃないか……」


しばらくして、リッキーの上に覆い被さる格好で倒れていたライオネルがゆっくりと起き上がり、慎重に窓辺に歩み寄って外の様子を確認した。


「何だよ、あの化物は?……お……俺を殺しにきたのか?」


リッキーは痛みと恐怖で泣きわめいた。


「どうやらもう帰ったようだ」ライオネルは周囲に何者の気配もないということを確認すると、壁にもたれて煙草を取り出した。「そのうちまた遊びに来るかもな」


「俺なのか?あんたが言ったように、俺を……俺を消しにきたのか?」


火をつけて煙草をふかしているライオネルの様子を眺めながら、リッキーはゆっくりと立ち上がった。


両腕のあちこちがひりひりと痛む。よく見てみると、腕にはガラスの破片による無数の切り傷があった。


「そうかもな……」


「どうすればいいんだよ?どうなってんだよ?」


「落ち着け……選択肢は一つしかないように思うぜ……俺に協力しろ。知ってることを全部話せ」


リッキーは顔を覆って泣き出した。しばらくの間、ライオネルは煙草をふかしながら呆れ顔でその様子を眺めていた。


「……わかった……全部話すよ」やがて涙がおさまると、リッキーは震える声でそう言った。「その代わり……俺もあんたと一緒に連れて行ってくれよ!それが条件だ!」


「何だと?」


ライオネルは顔をしかめた。


「だってそうだろ?あの化物がまた来るかもしれないんだ!俺は殺されるんだ!」


「助かりたければ俺に情報をよこすんだ」


「交換条件だ!それが飲めなきゃあ、俺は何も話さないからな!」リッキーは駄々っ子のようにわめき散らした。「あんたら騎士団にも責任があるんだ!フロルとあんたが俺を巻き込んだんだ!」


「ああ、そうかもな。わかった」ライオネルはうんざりした顔でそう言うとシャツの汚れを払い、家の出口へと向かった。「とりあえずこの家を離れるんだ……さっきの化物がお友達を連れて戻って来るかもしれん……魔法か魔術か、あの野郎、誰かと“連絡を取り合って”やがった」


「どこに行くんだよ?」


「マクスカシティを出るぞ」


「ちょ、ちょっと待ってくれ!」リッキーは慌ててライオネルに歩み寄った。「騎士団の屯所へ行こうぜ?あそこなら安心だろ?しばらく大人しくしていればいいじゃないか?エスティバは味方なんだろ?」


「残念だがそうはいかない」ライオネルは煙草の吸い殻を足下に投げ落とし、それを足で踏みにじった。「いいか?あの化物はお前と俺の話を盗み聞きしていた……見張られてるのさ。エスティバもな……今のところ、この街に安全な場所はないと考えるべきだ。騎士団の中にも敵がいるのかもしれない」


「……何てこった……ああ、もう、何でこんなことになっちまったんだよ……」


「泣くのは後にしろ。すぐに街を出るぞ」


「なあ、行くあてはあるのか?」


「ない……とりあえず街を出るんだ……その後考える」


「なあ、国境へ行こうぜ?ビエストロかイメッカのどちらかに逃げよう!さすがに追ってこれないだろ?」


「だめだ」ライオネルはかぶりを振った。「それでは解決にならないだろ?フロルの足取りを追い、何が起きているのかを突き止めて敵を倒す……これが一番の近道だ」


「死んだら意味ないじゃないか!命が資本だってあんたがさっき言ったんだぜ?」


リッキーはライオネルのシャツの袖をつかんで揺さぶった。ライオネルは顔をしかめてそれを振りほどいた。


「ならば一人で逃げろ。もううんざりだ……お前の情報なしでも俺は一人で動くからな……さっきの化物に見つからずに、お前が無事国境を越えられるように後で祈っておくよ」


ライオネルはそう言うとドアを開け、慎重に周囲を見渡した後で外へ出て歩き出した。


リッキーは一瞬だけ、一人ぼっちで国境へ向かう自分自身の様子を思い浮かべ、その恐ろしさに身を震わせると、慌ててライオネルの後を追った。


「わ、わかったよ!ああ、畜生!行くよ!一緒に行かせてくれ!」


リッキーは早足でライオネルに追いつき、両手を広げてそう言った。


「け、喧嘩はからっきしだけどよ、足は速いぜ!きっとあんたの力になれるさ!」


「大声を出すな」ライオネルはリッキーを睨みつけた。「既に誰かがどこかから見張っているのかもしれん。黙って歩け」


「コヒの村へ行こうぜ」


リッキーは素早くライオネルに近づき、耳元でそっと囁いた。


「何だと?」


「コヒの村だよ。フロルはそこに向かったはずなんだ」


「どういうことだ?」


ライオネルは立ち止まり、リッキーの襟をつかんで揺さぶった。


「く、詳しくは後で話すよ……」リッキーは両手を上げて降参の意思を示した。「フロルは、王宮に侵入したガキ二人……スピナとプロップってんだが……そいつらを追ってコヒの村へ行ったんだ。俺が情報を売った」


「コヒの村に何があるんだ?」


ライオネルは周囲を見渡しながら、声を潜めてそう訊ねた。


「ティト・カーソンさ。そいつがコヒの村のジドってやつと組んで、侵入者のガキらを動かしているらしいんだ」


「ジド……元熱風会幹部のあのジドか?」


「ああ、そうだ。なあ、いい加減に放してくれよ!」


「いいだろう」ライオネルは手を放した。「このままコヒの村へ向かうぞ」


「楽しい旅になりそうだね……まったく」


リッキーは吐き捨てるように皮肉をこぼした。


そしてもう一度だけ周囲を見渡した後で、二人は早足で再び歩き出した。


辺りにはまったく人気がなく、ゴーストタウンのように静まり返っている。


並んで歩いている体に傷を負った“二匹の一匹狼”は、不思議とその貧民街の風景によく似合っていた。


こうして二人は足を踏み出した。


夜のマクスカシティを抜け出し、いつ終わるとも知れない旅へと……。




◆◆◆





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