〈Ⅱ‐Ⅰ〉テンダの決断(前編)
◆1◆
さて、第二章をどこから始めるべきか……。
この物語は“輝ける赤”が中心にあるわけだが-
♪~もう少しだけここにいてくれ~♪
ああ、先ほどからやたらと吟遊詩人の歌が大きく聞こえてくる。
ならばいっそのこと、ここから始めるのも悪くないかもしれない。
時はトゥール暦(A・T)4173年 5月9日
スピナたち一行が、イメッカとマクスカの国境にたどり着いたあの日から十日後。時刻は二十三時を少し過ぎた頃。
イメッカ帝国の首都にして世界最大の都市“エクスカンダリア”。
その東地区に広がる繁華街の中で、ひときわ大きな二階建ての“ホワイトパール”という酒場がある。
それでは、ひとまずその店内から物語を再開させるとしよう。
♪~もう少しだけここにいてくれ~♪
吟遊詩人の男が歌っている。
きわめて珍しいツインネックのアコースティックギター(アヴァロン貝で縁どられたハート型のサウンドホールはやや気障だ)が哀愁の漂うマイナーコードを、鋭くて乾いたシャッフルビートで刻んでいる。
♪~いつか必ずたどり着くから~♪
店内はほぼ満席だったが、そこに夜の酒場らしい喧騒は一切存在していなかった。
誰もが詩人の歌に心を奪われていたのだ。
一階の中央 、テーブルを脇に寄せただけの即席のステージから誰も目を逸らすことはできなかった。背もたれのない椅子に腰かけた詩人の弾き語りが店内のすべてを支配していた。
この曲がかれこれ何曲目になるのか、誰も正確には思い出せない。詩人の歌の魅力は、店内の時間の流れを一定ではないものにさせてしまっていた。
テーブルの上のビールがどれだけぬるくなろうが、ローストチキンが冷め、その肉汁が固まり始めようが、灰皿の上の煙草が寂しそうに燃え尽きようが誰も気に止める客はいない。
二階の客にいたっては、もはやテーブルに座っている者すらおらず、席を離れ、手すりから身を乗り出して一階に視線を送っている。
ウェイトレスたちは通路でカカシのように立ち尽くし、一階のカウンターの中にいる太ったマスターはグラスを磨く手を止め、厨房からは五、六人のコックたちが仕事を投げ出して顔を覗かせていた。
♪~ゆっくり進めばいい~♪
詩人の歌が続く。羽根つきのハットを被ったままで、くたびれた茶色の外套も脱がずに彼は歌い続けている。
♪~どこへ行くべきか既にわかっているのなら~♪
胸元あたりまで伸びている(ギターの弦に触れてしまうのでは?と、近くにいる何人かの聴衆が時折危惧するほどの)長髪や、整った線の細い顔立ち、透明感のある歌声は彼の若さを感じさせたが、およそ手入れなどされていない無精髭と、決して調子を外さない熟練された弾き語りからは“彼の所持している経験の深さ”を全員に感じさせた。
♪~ほとんどのことは問題にならないのだから それさえ理解しているのなら恐らくは~♪
何故この歌はこんなにも強く胸をしめつけるのか。その疑問に答えられる者はたったの一人もいなかった。
演奏の技術自体は中々のものだが、特に上手く韻を踏んでいるわけでもなければ派手な展開もなく、コーラスらしいコーラスパートすらもない、いたって平坦なコード進行が続いているだけの曲なのだ。
しかし、それなのに何故か心に深く染み渡っていく。まったく不思議としか言いようのない歌だった。
♪~大地に吹く風は 時に我々の背中を押すが~♪
誰かがふと、ある言葉を思い浮かべた。
♪~別のある日には我々を自己嫌悪の檻へと追いやる~♪
その言葉とは“真実”だった。この歌の魅力の正体に限りなく近い言葉だった。“何かしらの真実を歌っているのだ”と。それはこの詩人にとっての真実。金や名声などの一切の“俗”とは対極にある“真実”。芸術においてもっとも美しい要素である“真実”がこの歌の中心にあるのだと。
♪~そして夜の想いは気まぐれ~♪
力強いダウンピッキングが歯切れの良く響き、リズムがゆったりしたものへと変化した。
♪~それでもたとり着く それぞれの居場所へと やがて必ず~♪
ここにいたり、聴衆は皆新たな共有感を手に入れた。“曲が終わりに近づいている”と全員がほぼ同時に確信した。
♪~そこには神そのものか あるいはそれを越える力がある そして美しき生命の中に夢があり 繋いだ手の中に永遠がある~♪
詩人の歌声が徐々に穏やかになっていく。
♪~自分たちがどこから来たのかを知っているのなら それぞれの居場所へ~♪
再びリズムが元に戻った。 基本のコード進行が繰り返される。どうやら曲のアウトロに入ったようだ。
♪~自分たちが何者かを知っているのなら それぞれの居場所へ~♪
繰り返しのフレーズ。しかし詩人のテンポは一定に保たれている。早く終わらせようと焦るような雰囲気はかけらも存在しない。
♪~自分たちがどこへ行くのかを知っているのなら それぞれの居場所へ~♪
それ以上ないほどの適切な長さのコード進行を繰り返した後、ついに詩人の曲は終わりを迎えた。
最後の一音が消えた後、数秒間の沈黙の余韻が店内を満たした。そして誰かが思い出したようにゆっくりと拍手すると、そこから波紋が広がるように、今度は歓声と指笛が店内を満たした。
詩人は立ち上がって帽子をとると、笑顔で礼儀正しくお辞儀をして聴衆に応えた。しばらくして喝采が鳴り止むと、帽子を被り直し、ストラップを動かしてギターを背中に回して、自分が座っていた背もたれのない椅子を持ち上げた。
「失礼、この椅子はどこへ戻せばいいのですかな?」
詩人は辺りを見渡しながら、誰にともなくそう言った。
「何だよ!終わりかよ?」近くに座っていた中年の男がそう叫んだ。「もう一曲聞かせてはくれないのか?あんたの歌は最高だ!」
店内のいたるところから同意の声が上がった。
「誠に恐縮です。しかしながら―」
「金か?金なら俺が出すぜ!」詩人の言葉を遮り、中年男は返事を待たずにズボンの後ろのポケットから財布を取り出した。「もとはと言えば俺が頼んだことだ。まあ、そうじゃなくてもチップは出しただろうがね。それくらいあんたの歌は素晴らしいよ!」
詩人はこの店に雇われて演奏を披露したわけではなかった。
この中年男がたまたま隣に座った詩人を見て、珍しいギターだが一体どんな演奏をするんだ?と話しかけると、周りの客たちもそれに興味を示し出し、ためらいがちな詩人を説き伏せて無理矢理演奏させたというのが事のいきさつだった。
「いえいえ、お代は結構」詩人は苦笑しながら手を振って男を制した。「私が言おうとしたのは、今夜はこれが最も良い“引き際”のように思える、ということです。ですから今夜の演奏はこれにて―」
「ギャンブルとか商売じゃあるめえしよ!」今度は二階から降り注ぐ声が詩人の言葉を遮った。手すりから身を乗り出している若い男がそう叫んだ。「引き際も何もないだろうよ!もう一曲やろうぜ?何たってここはエクスカンダリアなんだ!」
“そうだそうだ”、“聴き足りないぜ”、といった賛成の声が上がった。詩人は咳払いをしながら小さくかぶりを振った。
「いいえ、“引き際”とはあらゆる物事において重要なものですよ」詩人は顔上げて二階にいる若い男を見た。「皆さんのお気持ちは本当にありがたいのですが、やはり今夜はこれまでです。今夜はもうこれ以上良い詩は歌えないかもしれない。そして私もそろそろお酒を飲みたいのです。どうかご理解を」
詩人はそう言って丁寧にお辞儀をしたが、それでも客たちは収まらず、不満の声が店内を包んだ。
「もう勘弁してやろうじゃないか!」突然の大声に店中が静まり返った。声の主はカウンターの中にいる太った男だった。「旦那がそう言ってんだ。今夜はこれで終いにしよう。何なら明日も歌って貰えるよう、後で俺が交渉しとといてやるからよ!どうだ?それでいいだろ?」
「ビルがそう言うなら仕方がないな!」詩人に金を払おうとした中年男がそう言った。「その代わり交渉が決裂したら、あんたは明日ここにいる全員から袋叩きにあうぜ!」
男がそう言うと、客たちは一斉に爆笑した。“まったくその通りだぜ、ビル!”、“俺は何の理由もなくあんたを殴れるけどな、ビル!”などの茶化しの声があちこちから聞こえた。
ビルと呼ばれた、カウンターの中の太った男はこの店のマスターだった。
彼は顔が広く人望がある。このエクスカンダリアで長年酒場を営んでいられるのも、彼の人徳によるところが大きいと評判の人物だった。
店で何かしらの騒動があった場合は大抵ビルの一言で片がついてしまう。今回もそれは例外ではなく、もはや誰も詩人に催促をしようとは思わなかった。
「というわけであんたはもう自由の身だ。カウンターで飲んだらどうだい?静かに飲みたいんだろ?」ビルは詩人に片目を瞑って見せた。「椅子はその辺に置いときゃいいさ。テーブルもそのままでいい」
そう言いながらビルは、近くにいたウェイトレスに目配せをした。ウェイトレスは慌てて詩人のもとへ駆け寄り、彼の手から椅子を受け取ると、せかせかと即席のステージを片付け始めた。
「ああ、どうも、ありがとう」
詩人はウェイトレスに律儀な挨拶をすると、カウンターへ向かって歩き出した。客たちはそれを見送りながら称賛の言葉や拍手を送った。
「いやはや。照れ臭いですな……」
詩人は周囲にお辞儀をしながら歩き、やがてカウンター席についた。
そしてようやく“ホワイトパール”の店内は普段の雰囲気を取り戻した。
「何にする?」
詩人が椅子に座ると、ビルはカウンター越しにそう訊ねた。
「“シンハ”を下さい」詩人は笑顔でそう答えた。「今さらですが、勝手に演奏してしまい申し訳ございません」
「構いやしねえよ。それにしても大したウデだ」ビルも笑顔でそう答えながら、棚から“シンハ”の瓶を取り出して詩人の前に置いた。「ところで、あんたは常温のビールが好きなのかい?」
「ええ、まあそうですね」
詩人はそう答えるとシンハを一口飲んだ。
「詩人さん、あんたアスタリアの出身か?アスタリア人はその手のビールを好むからな」
「いえ、違いますよ」
詩人はふうと一息ついてからそう答えた。ビルはそれに続く言葉、つまり、“そうではなく私は~出身です”を待ったが、詩人はそれ以上何も言わず、やや気まずい沈黙が訪れてしまった。
「そうだろうね。アスタリア人にしては色白だもんな」
ビルは冗談めかしてそう言うと、再び詩人の言葉を待ったが、詩人はふっと笑っただけでやはり何も言わなかっため、もうこれ以上その話題を続けるのをやめようと決めた。
この詩人は他人に自分の素性を知られたくないのかもしれないと考えたのだ。
このエクスカンダリアでは何も珍しいことではない。そして他人の心の奥にある“何かしらの秘密のようなもの”に首を突っ込まないというのがビルにとっての、この街で長く酒場を続けるためのひとつの鉄則だった。
「お隣、空いてるかい?」
突然女の声が聞こえ、詩人は右隣を見た。
ウェーブがかかったブロンドヘアーの女がそこに立っていた。
胸元の大きく空いた赤のドレスに、それと同じくらいに赤いハイヒール。肩にはショールを羽織っており、小型の高級バッグを持っている。
ビルは彼女のことを知っていた。街角に立つ娼婦のタバサ。この店の常連だ。彼女が見た目ほど若くはないということも知っていた。
―タバサのやつ、さては男にフラれたな?
ビルは彼女の様子を一目見てそう確信した。彼女が男連れではなく一人で店に来ることは滅多にない。それに今日はまったく化粧をしていなかったからだ。
とは言え、彼女から何も言わない限りはこちらからあえてあれこれ訊くこともあるまいな、とビルは思った。
「ええ、どうぞ」
詩人は笑顔でそう答えると、立ち上がってタバサのために椅子を後ろに引いた。
「悪いねえ」タバサは嬉しそうにそう言って椅子に座り、詩人が自分の席に戻るのを眺めていた。「あんた詩人さんかい?あたいは今店に来たとこなんだ……ついさっきまで盛り上がってたみたいだけど、あんたが演奏してたのかい?」
タバサは煙草をくわえてマッチで火をつけながらそう訊いた。
「ええ、そうです……」
詩人は静かにそう答え、シンハを一口飲んだ。
「そうかい。もう少し早く来ればよかったねえ……聴きたかったよ」
タバサはふっと笑った。
「やあ、タバサ。今日は仕事は休みかい?何にする?」
ビルが愛想良くそう言った。
「こんばんは、ビル。ハイボールをちょうだい……仕事は勝手に休んでやったのよ」タバサは熟年の愛想笑いを浮かべた。「今日はムシャクシャしてんのさ……」
「恋人にフラれた、といったところですかな?」
詩人が間髪入れずにそう言った。ビルもタバサも驚いて目を見開いた。二人とも詩人が事実を言い当てたということに驚いたのではなく、そういった話題に関心を示したということが意外だった。
会って間もない人物ではあるが、寡黙で、俗っぽい話題には一切興味がなさそうだと、二人は共通の印象を詩人から受けていたのである。
「まあね……世の中にはフラれた女をなぐさめる歌は多いけど……」しばらくしてタバサはぷっと吹き出してそう答えると、おもむろに前髪をかき上げ、そのまま額を詩人の顔に近づけた。「男に殴られた女をなぐさめる歌ってのは聴いたことがないよねえ……」
詩人はタバサの額を無表情で見つめながら、シンハを更に一口飲んだ。彼女の額、左の眉のやや上の方には、青紫色の小さな痣があった。
「あの野郎は浮気してやがったのさ……」タバサは前髪を直しながら話を続けた。「あたいは怒鳴りつけてやったんだ……よりによってあんな女と……そしたらあいつ、開き直ってあたいを殴りやがったんだ。つまんないよねえ。こんな話……笑うしかないよ……ったく」
「そいつは災難だったな……」
ビルがそういいながら出来上がったハイボールのグラスをそっと差し出した。
「しかし今日が初めてではなかった」詩人が独り言のようにそう呟いた。「彼は時々あなたに手を上げていた……あなたはだからこそ彼から離れられない……自分でも間違っていると気づいてはいるが、それでもあなたは彼から離れられない」
またしてもビルとタバサは驚いて目を見開いた。
「驚いたねえ……あんたときたら……」しばらくしてタバサはそう言いながら呆れたように笑った。「副業でカウンセラーでもしてるのかい?不思議な詩人さん……まあ、もっとも、あたいみたいな女はこの街じゃあ珍しくもなんともないか……」
そう言ってタバサはやや大袈裟に笑った。ビルは気まずくなり、グラスを片付けるふりをして目を逸らした。
「そうやっていつまでも笑ってごまかしていればいい」タバサの笑いに割り込むように詩人がそう言った。しかし相変わらず穏やかな口調だった。「あなたは、何もかも自分のせいだと思い込むことにすっかり慣れてしまった……」
シンハの瓶を見つめたまま詩人が言葉を続ける。タバサは笑いをぴたりと止め、訝しげな顔で詩人を見つめた。ビルも同じように詩人を見つめた。
「あなたは幼い頃から、母親の姿を見ることが耐えられなかった。愛する母親が、じっと悲しみを堪えている姿を見ているのが辛かった……あなたは早く大人になるしかなかった」
詩人が淡々と語る。口にくわえている煙草から膝へ灰が落ちたが、タバサはそれに気づかなかった。詩人から目を逸らすことができなかった。
「やがてあなたは、父親が早くに他界したことすら自分のせいではないのかといった、まったく愚かしい考えを抱くようになった。だがそんなことはあり得ない。あなたのお父様は事故で亡くなった」
詩人は視線を移し、タバサの目を正面から見据えた。タバサは逃げるように灰皿の上へ視線を移し、半ば無意識に煙草を押し込んで消した。
「そしてあなたは、いつからか母親を避けるようになった。自分が母親を苦しめているんだと思うようになった。それもまたあり得ないことだ。あなたのお母様が配達の仕事を辞めてしまったのもあなたのせいではない。お母様は生まれつき体が弱かっただけだ」
詩人はショールの上からタバサの肩にそっと手をかけた。タバサはびくっと体を震わせて恐る恐る詩人を見た。
「嘆かわしいことに、あなたの過ちはさらに続いた。ついにあなたは自分自身にすら嘘をつくようになってしまった。厚化粧と空虚な笑い声で何もかもをごまかすようになった……しかし、それでもまだやり直せないところまではきていないのです」詩人はタバサの耳元に顔を近づけた。「お母様は今もまだあなたを待ち続けている。雨が止むのを待っているのではない。あなたが傘を差し出してくれるのを待ち続けている」
詩人はタバサの肩から手を放した。
「家族の問題から逃げ出してはいけません。そして自分の弱さからも……決して……」
詩人はそう言うと再び正面に向き直り、シンハを一口飲んだ。
タバサは詩人を見つめたまま、慌ててバッグから財布を取り出して五千イェル札をつかむと、それを乱暴にテーブルの上に置いた。
「説教なんて……まっぴらだよ……ビル、つりはいらないよ……」
タバサは震える声でそう言うと、ビルの返事を待たずに立ち上がり、逃げるようにして店の出口へと足早に歩き去って行った。
テーブルの上に残された、口をつけられていないハイボールのグラスと、しわくちゃになった五千イェル札を眺めながら、ビルは今しがた起こった出来事をどう理解したものかと必死で考えた。
―何だってんだ?今のは……。
ビルは見逃さなかった。立ち去るタバサの目から涙が溢れていたのを。
―この詩人は何者だ?魔法か魔術の類いか?
しかしビルの脳はすぐさまいつも通りの処理を施した。つまり“エクスカンダリアで酒場を長い間営むための処理”である。
―何だっていい……知らぬが仏ってなもんさ。余計なことは聞かない、見ない。それでいいんだ……。
とは言え、ビルは次の話題に困ってしまった。詩人は穏やかな目でシンハの瓶をじっと見つめている。ビルはその瓶が空であることに気づき、渡りに舟とばかりに瓶を手に取った。
「いいペースだね、詩人さん。もう一本あけようか?」
「いえ、結構です。それよりもご主人」詩人は笑ってそう言うと、テーブルに両肘をついて身を乗り出した。「“ブルーペーパー”を見せて頂けませんか?実のところ、私はそれが目的でこの店に来たのです」
「へえ?あんた金に困ってるのかい?」
ビルは顔をしかめた。
“ブルーペーパー”とは、知る人ぞ知るイメッカ特有の仕事仲介の手段のことである。
伝説の英雄王トゥールが帝国として国を統一する前、つまり“紀元前”からこの大陸にそれはあったという。
当時、この大陸の多くの国では人種差別があり(現在もなお、そのなごりがある地方もある)一定の職につくのがきわめて困難な労働階級者が多く存在した。
それらの者たちが、上流階級者が公に依頼できない厄介な類いの仕事を密かに引き受けるようになり、いつしか“ブルーワーカー”と呼ばれるようになった。
詳細はこうだ。上流階級者はまず街の酒場のマスターへ仕事を依頼する。
マスターは依頼内容の詳細を“ブルーペーパー”と呼ばれる紙のノートへ書き込む。ブルーワーカーはそれを見て仕事を選び依頼人に会う。そして依頼が滞りなく達成されれば酒場へ仲介料が支払われるというものだ。
現代においては、ブルーワーカーは既に死語であるが、“ブルーペーパー”の名とシステムはそのまま残った。依頼人は上級階級者に限ったものではなくなり、その内容も荷運びや魔物退治から、迷子のペット探しに浮気調査など様々なものがある。
イメッカ中の多くの酒場にブルーペーパーがあり、国家も経済的にメリットがあるという理由からそれを公認している。
ただし、もし犯罪に関わるようなことがあった場合は、軍および騎士団の調査が入り、酒場側が直接関与していなかったとしても、営業停止などの重い処罰が下される場合があるため、リスクを恐れてあえてブルーペーパーを採用していない酒場もあるが、ビルはリスクを承知でホワイトパールでそれを行っている。
仲介料は店の大きな利益となる。それなくしては、とてもこのエクスカンダリアで商売は続けられないのだ。
「ええ、まあ、お金も必要なのですが……」詩人はばつが悪そうにそう答えた。「もしかすると私の探し物が見つかるかもしれないと思いましてね」
「探し物?」ビルは首を傾げた。「まあ、よくわからんが……なあ詩人さん、もしよければウチで働かないか?みんな明日もあんたの演奏を聴きたがっている。納得のいく額を払うよ。最近のブルーペーパーには、割に合わない仕事も多い。どうかな?な?いいだろ?そのシンハも俺の奢りってことでいいんだぜ?」
「ご主人……では、こうしましょう」詩人はぽんっと両手を合わせた。「まずはブルーペーパーを見せて頂く。そこに私の望む仕事がなければ、このお店にお世話になる……それでどうですかな?」
「……いいだろう」ビルはしばらく考えた後にそう言った。「約束だぜ?もう取り消せないぞ?俺の記憶が確かなら、今んとこブルーペーパーには、ウチで働くよりましな仕事はなかったと思うけどな」
ビルは自信満々にそう言うと、ちょっと待っててくれと言い残しカウンターの奥の部屋へと歩いて行った。詩人はその背中を見送りながらふうっとため息をついた。
「待たせたな」ビルは一分足らずで戻ってきた。そして古ぼけた一冊のノートを詩人に手渡した。「今日現在で、およそ千二百件ほどの依頼があるよ。帝国中を探したって、ウチより分厚いブルーペーパーを置いてある店はないだろうな。何たってここはエクスカンダリアなんだ」
得意気に笑うビルへ、詩人もそれに負けないほどの笑顔で応え、それから無言でノートをパラパラとめくり始めた。
「ほほう……」
しばらくして詩人はあるページで手を止め、その依頼内容をじっくりと読んだ後に満足そうに唸った。
「おいおい詩人さんよ、悪いことは言わねえ。そいつはやめときなって。確かに報酬は破格だけどな」ビルはカウンター越しにノートを覗き込んでそう言った。「そいつは今日依頼されたばっかりのホヤホヤもんだが、間違いなくハズレだぜ?ウチの店じゃあ掲載可能期間は二週間ってことになってるんだが、たとえ一年載せてたとしても、そいつを引き受けるやつは現れないぜ。賭けてもいい」
詩人が読んでいたのは最新のページだった。内容は以下の通りである。
――――――――――――――
【人材求む!】
《内容》
霊峰ベリオンを登山予定につき、護衛を一名急募。
採用決定次第出発。
なお、当方は二名。
《期間》
下山後、エクスカンダリアに帰還するまで。およそ一週間~十日程度の見込み。
《報酬》
1,000,000_Yell (前金500,000_ Yell)
※前金は支度金込み
※交通費および宿泊、生活費は当方別途負担
《資格》
男女不問。年齢は20~40才。
戦闘経験が豊富な方、特に春の治癒魔法の習得者優遇。
※採用試験(面接、実技どちらも)あり
《依頼人から一言》
とにかく急いでるので、“おっ?”と思ったら迷わずにさっさと来てね♪
エクスカンダリア西地区 3丁目 10ー11 テンダ・カーソンまで
――――――――――――――
「詩人さん、あんた“ 霊峰ベリオン ”を知ってるかい?」
ビルは不安になり始めていた。詩人は明らかにこの依頼に心を奪われている様子だった。
―やべえ、この詩人にゃあ絶対ウチで働いて貰わねえと……。
「あそこはやばい。腕に覚えのある冒険者でもまず近づくやつはいねえ。頂上まで登れたやつなんかいやしねえんだ。聞いた話じゃあ、登ろうとするやつは、何か恐ろしい幻覚を見せられて追い返されるらしいぜ」
ビルは両手を広げて懸命にそう言ったが、詩人は相変わらずノートを見つめたままうむむと唸っていた。
「帝国軍だってあそこには近づけないんだ……それに―」ビルは一旦大きく息を吸い込んでから言葉を続けた。「その住所だ。俺も大分疑ったぜ。断ろうかと思ったが、依頼人はたいそう気の強い若いお嬢ちゃんでね……どうせ引き受けるやつなんかいないと思って了承したんだが……いいかい、西地区ってことはつまりスラム街だ。そんなとこに住んでるやつが百万イェルなんて大金持ってるわけがない。いかにも怪しいし危険だ。なあ、そいつはやめときなって!」
今やビルの額には汗がにじんでいたが、詩人はなおもノートをじっと見つめていた。
「テンダ・カーソン……大いなる宇宙意思の子……“ラクラフィスの鍵”……ですか……」
詩人が突然ぽつりとそう呟いた。ビルはそれを聞き取れなかった。
「何だって?今何て言ったんだ?」
「いえいえ、何でもありません」詩人はそう言ってノートをぱたんと閉じると、ビルへそれを手渡した。「実に興味深いなあ、と言っただけです……ご主人、決めました。私はその仕事を引き受けます」
「何てこった……正気か?俺の話を聞いていなかったのか?」ビルはノートを受け取りながら天を仰いだ。「もっとじっくり考えた方がいいぜ?もう一杯飲みながらな……シンハを出そうか?」
「ご主人、私は既に決めてしまったのです」詩人は苦笑しながらそう言った。「それに私は旅の吟遊詩人。風に吹かれるままに歩く人種なのです」
ビルはううんと唸りながら、人さし指を所在なく前後に振った。何かしらの反論材料を探したが、一向に上手い言葉を思いつくことはできなかった。
「……ではご主人、こういうのはどうです?」詩人は仕方ないと言った口調でそう言った。「その仕事を終えた後、もし私にその後の予定がなければ、その時はしばらくこの店で働くといたしましょう。いかがですか?」
「……そうか……わかったよ俺の負けだ」ビルは両手を上げて降参した。「その代わり約束を忘れないでくれよ?どうか仕事を無事に終えてくれよ?」
「ええ、忘れませんとも。ただし、繰り返しますが、その時私に何の予定もなければ、ですよ?」
「ああ、わかってるさ。交渉成立だ。それじゃあさっそくサインをと……」ビルは胸のポケットからペンを取り出すと、先ほど詩人が見ていたページを開いた。「ええっと、ここにあんたの名前を……ミスター?」
「“ユニス”と申します」
詩人は立ち上がって丁寧にお辞儀をした。
「ユニス……か。変わった名前だな……それは姓かい?フルネームは?」
ビルはノートにその名前を書きながらそう訊いた。しかし一向に詩人から返事が返って来なかった。ビルは手を止めて詩人を見たが、彼は微笑を浮かべたままじっとこちらを見返しているばかりだった。
―まずいな……依頼に犯罪者絡みってことがあったら店がポシャッちまう……。
ビルはしばらく葛藤した挙句、それ以上は何も訊かないことにした。これまでも、明らかに偽名で依頼を引き受けた者は決して少なくなかったし、それらの人物が必ずしも犯罪者とは限らなかった。
家柄などの事情を抱えている者もいるのだ。この詩人は偽名を使わないだけむしろ善人であるかもしれない、と考え直したのだ。
「……まあ、いいか……必ず書かなきゃならんってわけでもないしな……」ビルはそう言ってノートを詩人に差し出すと、カウンターの下から朱肉を取り出した。「それじゃあ、ミスターユニス。名前の横にあんたの印を」
詩人は無言で頷き、右手の人さし指を朱肉につけて名前の横に印を押した。
「どうも。これで手続きは完了だ……幸運を祈るよ。ミスターユニス」
ビルは愛想良くそう言って、ブルーペーパーを片付け始めた。
「私はあなたとこのお店に、その二倍の幸運を祈りましょう」
詩人は胸に手をあててそう言った。
◆2◆
―あれ?あの子……。
少女は不意に、遠くから自分を見つめているその視線に気がついた。
―間違いない……あの子だわ……またあたしを見てる……?あたしと同い年くらいかな?九歳?十歳?
街外れの広い草原。その中心に少女は立っていた。周囲には“自分たち”と、そして遠くから自分をじっと見つめている視線の持ち主以外には誰もいない。
夕焼けが辺りを赤く染めていた。草のにおいと、自分自身の汗のにおいがやたらと鼻にまとわりついてくる。
「お、おい……お前」
少女の目の前には、彼女のクラスメートでもある五人の少年が、苦しそうに呻き声を上げながら地面に倒れていた。そのうちの一人の少年がゆっくりと立ち上がりながら少女にそう言った。
「お前、このままですむと思うなよ!……兄ちゃんにいいつけてやるからな!覚えてろよ!」
言葉とは裏腹に、その声は涙で震えていた。さらに彼の鼻からは真っ赤な血がぼたぼたと垂れ落ちていた。
「ウチの兄ちゃんはな、中学で一番強いんだぞ!お前なんか一秒でぶっ飛ばす……って聞いてんのかよ!」少年は屈辱にまみれた声でそう叫んだ。この世で最も恐ろしい脅し文句を吐いてみせたというのに、あろうことか、相手の少女はいたって平然な顔であらぬ方向を見ているのだ。「お、おい!無視すんな!びびってんのか?」
「ねえ、あの子が誰だか知ってる?」
少女は視線を動かすことなく、少年の左後方を指さした。
「何だって?」
「ほら、あそこよ!さっきからこっちを見てるの……ウチの学校の子かなあ?あんた知ってる?」
少年は顔をしかめながら、少女が指さした辺りを振り返った。すると後方の土手の上に、黒いマントに身を包み、フードを深くかぶっている人影が見えた。
かなり離れたところにいるその人影は、この距離では指人形ほどの大きさにしか見えない。より正確な特徴をつかむために、少年は額に手をあてて日かさを作り、目を細めてじっと集中しなければならなかった。
次第に、その人影は顔の下半分をスカーフのようなもので覆っているということがわかった。そしておおよそだが、その身長は自分たちとさほど変わらない程度であり、フードの隙間から見える長い髪から、恐らくは女の子だろうということがわかった。
「顔がよく見えないなあ……ウチの学校のやつかもしんないけど、少なくとも僕が知らない子だと思う。多分だけど」
少年がそう答えると、少女はふうんと素っ気ない相づちをうった。
「最近よく見かけるのよねえ、あの子……時々あたしのことをああしてじっと見てるのよ……何なんだろ?」
「へえ、変な話だなあ……」少年は首を傾げながらそう答えたが、突然はっと我に返り、素早く少女に向き直った。「って、そうじゃないだろ!今はそんな話どうでもいいんだよ、くそったれ!女のクセに威張りやがって!兄ちゃんが必ずお前に仕返しをするぞ!」
「バッカみたい」少女は腰に両手をあて、呆れ顔でかぶりを振った。「お兄ちゃんにあんたは何て言うの?男の子五人がかりで、たった一人のクラスメートの女の子に負けちゃったんだようって泣きながら言うわけ?その瞬間、あんたは男の世界から出て行かなきゃならなくなるわね!」
「お、お前は魔法が使えるだろ……僕たちは誰も魔法なんか……」
「あら?みっともない言い訳ね!」
少女は少年を鋭く睨みつけた。少年はたじろいだ。
「今のケンカであたしは一切魔法なんて使ってないでしょ?いい?あんたたちは素手で負けたの!」少女は“素手で”の部分を強調した。「このあたしに“素手で”負けたの!女の子相手に“素手で”負けたの!五人もいたのに“素手で”負けたの!わかった?」
少年はもはや溢れ出す悔しさに堪えられず、両手で顔を覆って泣き崩れた。少女はその様子を眺めながらふんっと鼻を鳴らした。
「これに懲りたら、二度とあたしに向かってあんな口きかないことね!ケンカなんていつでも買ってやるわ!今度あんたのお兄ちゃんとやらも連れてきなさいよ!楽しみに待っててやるんだから!その代わり、あんたのお兄ちゃんは体がおっきいでしょうから、そん時はあたし、遠慮なく魔法を使うからね!そのつもりで来てよね!まともにケンカしたいんなら、角材か鉄パイプでも持ってくることね!」
得意気に舌を回転させている少女だったが、少年たちは体の痛みと恐怖により、もはや誰もその言葉を正確に聞き取ることができなかった。適当な理由をつけてさっさとこの場から逃げ出したかったが、その機会は永遠に訪れないのではないかと、彼らは皆本気でそう思った。
「あたしは魔法においても、体術においても、あんたたちなんか問題にならないのよ!」少女の言葉はなおも続く。「あたしは天才なんだから!」
しかし、次の瞬間である。少年たちにとっての救世主が現れた。
「テンダ様!」少女の後方から一人の大人の男がそう叫びながら現れた。息を切らし、強ばった表情で土手を下ってこちらへ走ってくる。「テンダ様!これは……一体何を……」
銀縁の眼鏡をかけたその男は、少女のそばで足を止めると、はあはあと息を切らしながら少年たちの様子を眺めた。そして状況を理解すると、素早く少女に向き直り、彼女の両肩に手をかけた。
「これはどういうことです?何でこんなことを?」
男は顔を真っ赤に染めてそう怒鳴った。
「ティト……あたしは……悪くない……」
少女はふてくされ、うつむきながら弱々しくそう答えた。
少年たちはその様子を見るなり、千載一遇のチャンスとばかりに素早く立ち上がって一目散に駆け出した。
「あ、こら!君たち!待ちなさい!」
男はそう叫んだが、誰一人としてそれに従う者などいなかった。少年たちの背中は、風のように速く遠ざかっていった。
男は仕方がないというようにため息をつくと、再び少女に向き直り説教を再開した。
「ケンカはいけないといつも言っているはずです!一度や二度じゃない!私とマーサはいつもそう言っているはずです!繰り返し何度もそう言ったでしょう?どうしてそれが守れないのです?」
「あたしは悪くないの!あいつらがあたしに―」
「言い訳など聞きたくありません!」
少女は意を決したように顔を上げて反論したが、男の言葉にぴしゃりと遮られてしまった。
「言い訳なんかじゃない!」しかし少女はあきらめなかった。「あいつらは……あたしにひどいことを言ったのよ!うんとひどいことを言ったの!」
「理由は問題ではない!」男も引き下がらなかった。「いかなる理由があったとしても暴力は許されない」
「“お前は本当の両親に捨てられたに違いない”って言ったの……」
少女は震える声でそう言った。その瞳からは大粒の涙が溢れていた。
「え……?」
男ははっと息を呑んだ。
「ティトとマーサは、ただの従者でお前の両親じゃない、本当の両親は、きっとお前が邪魔だったから捨てたんだって、そう言ったの」少女はそう言いながら、肩にかけられている男の両手を力強く振り払った。「それでもあたしが悪いの?そんなことを言うやつらを殴っちゃだめなの?あたしはどうすればよかったの?」
少女はそう言うと両手で顔を覆って泣き出した。男は何も言わずにしばらく少女を見つめていたが、やがて人さし指で眼鏡のずれを直すと、片膝をついてしゃがみ、少女を優しく抱きしめた。
それからしばらくの間、穏やかでやわらかい時間が、ゆっくりと二人の間に流れた。
その間言葉はなかった。風が優しく通り過ぎて行った。少女は、溢れる感情に任せるままに泣き続けた。草と汗のにおいが相変わらず鼻にまとわりついたままだったが、今はそこに煙草のにおいも加わっていた。自分を抱きしめているこの男は、年がら年中煙草を吸っている。彼のにおい。今しがた自分が発した言葉に、大きなショックを受けている男のにおい。自分のせいで悲しい思いをしている男のにおい。
「もう帰りましょう……日が暮れる」やがて少女が泣き止むと、男は体を放して優しくそう言った。「ご飯を食べてお風呂に入ったら、ゆっくりと話をしましょう。マーサと三人で……私たちは家族なのです」
「うん……わかった……」
少女は涙を拭いながら頷いた。罪悪感が胸の中にどっしりと腰を落としていた。
そして二人は土手を上がり、すっかり濃くなった夕焼けを眺めながら、手をつないで我が家へと向かって歩き出した。
―あれ?
数歩進んだところで、突然少女は足を止めて背後を振り返った。またしてもあの視線を感じたのである。
―あれ?あの子……まだいる……。
視線の主であるその少女は、先ほど同じ場所に同じように佇んでいた。黒いマントとフードが、まるで、濃くなり始めた夕焼けと一体化して溶け込んでいるようだった。
「どうしました?」
男も足を止めてそう訊ねた。
「ねえ、ティト、あの女の子がね―」少女は一瞬だけ男の顔を見て、それからまたすぐに視線を戻したが、その一瞬でフードの少女は姿を消していた。「あ、あれ?」
慌てて首を左右に動かしたが、もうどこにも誰の姿も見当たらなかった。
「どの女の子です?」男は少女が見ている辺りを眺めながら小首を傾げた。「誰もいませんよ?」
「おっかしいなあ……」
少女はなおもあきらめがつかず、しばらくきょろきょと辺りを見渡していた。
「テンダ様、もう行きましょう。マーサが心配してます」
やがて男は痺れを切らし、呆れ顔でそう催促した。
「うん……わかった……ごめん……」
少女は渋々といった様子でそう言うと、踵を返してまた歩き出した。
―ティト……ごめんね……。
少女は心の中でそっと呟いた。
―ティト……あの女の子がずっとあたしを見てるの……。
少女は突然の不思議な違和感を覚えた。
―ティト……後になって気づくの……あの子こそがあたしにとって一番大切な……。
少女の声は、いつの間にか十歳のものではなくなっていた。少女はそのことに気づき混乱した。
―あれ?あたしは……これって……。
そして、いつの間にか辺りが暗闇に閉ざされていることに気づいた。
―ティト?ねえ、ティト?どこにいるの?もうマクスカを出た?フロルと戦って大怪我をしたの?……あれ?今日はいつだっけ?……これって何?今はいつ?あたしはどこにいるの?
それから少女の意識は急速にどこかへ向かって流れ始めた。
―あれ?何だっけ?何だっけ?
◆3◆
「テンダ!テンダ!」
誰かが呼んでいる。
「テンダ?大丈夫かい?」
誰かが自分の肩を揺さぶっている。
―あれ?今日はいつ?あたしは……。
そしてテンダの意識は目的地に到達した。
「ティト!」
そう叫びながらテンダはベッドから体を起こした。ベッドの脇に立っていたプロップは、驚いてうわっと叫んだ。
「ああ、びっくりした……」
プロップは、心臓に手をあてて顔をしかめた。
「あれ?プーちゃん?」
テンダはプロップの顔を凝視した後、きょろきょろと辺りを見渡した。
―ここは……?
清潔さが保たれてはいるが、質素で殺風景な狭い部屋だった。
正面には事務的な机があり、その横には薬品が入った瓶がところ狭しと並んでいる戸棚があった。自分がいるベッドのすぐ横には鉄格子の窓があったが、外には夕焼けに染まった木と草原しか見えず、やはり今自分がどこにいるのかは見当がつかなかった。
「プーちゃん、今日って……いつだっけ?」
テンダは、未だに胸に手をあてたままのプロップにそう訊ねた。
「え?」プロップは不安気な表情になった。「いつって……四月三十日だよ……テンダ、大丈夫かい?随分とうなされてたし……」
「うん……何か昔の夢を見てたような気が……四月三十日……」
テンダは壁にかかっている時計を見た。時刻はまもなく十八時になろうとしていた。
「あ、そうか!」テンダは、ぱんっと両手を鳴らした。「玄烏賊の洞窟……あたしの魔法で仮面の連中から逃げて来て……それで……あたしいつの間にか眠っちゃったのね」
テンダは独り言のようにそう言いながら、掛け布団を上げてベッドから降りた。
それから両腕を伸ばして体をほぐすと、ふうっと息をついた。
「それで、ここは?」
テンダは改めて部屋中を見渡しながらそう訊いた。
「関所の医務室だってさ」テンダにつられるようにプロップも周囲を見渡した。「実は僕もついさっき目覚めたところなんだ。いつの間にか気絶してたみたいでさ」
「あ、そう言えば!」テンダは素早くプロップの顔を覗き込み、注意深く観察した。「プーちゃん、あなた鼻が折れてたわ!……治ったみたいね、もう大丈夫なの?」
「うん、もう大丈夫だよ!」プロップは鼻をさすった。「気絶してる間にここのドクターが治癒魔法で治してくれたみたい……テンダは?大丈夫?」
「うん、まあ、まだちょっとぼんやりするけどね」テンダはそう言いながら腰をひねって軽い柔軟運動をした。「ところで、フロルたちは?」
「ああ、そのことなんだけど……」プロップは眉間にしわを寄せた。「取り調べ中だってさ」
「何ですって?」
「僕にもよくわからないんだけど」プロップは部屋の入り口のドアを指さした。「スピナたちは取り調べ中で、一旦僕らはこの部屋で待機してろって言われたんだ。ドアのすぐそばには見張りの兵がいるみたい……何だか嫌な感じだよ」
テンダ、ふうんと頷きながら木製のドアをちらりと見たかと思うと、おもむろにドアに向かって歩き出した。プロップは驚き、わけがわからぬままその背中を目で追った。
「テンダ?どうすんの?」
テンダはプロップの質問には答えず、ドアの前まで来て立ち止まると、ためらいなくドアノブを回した。
「ちょっと、兵隊さん!どうなってんの?あたしの連れは?」
ドアのすぐ脇にいた衛兵の男が、驚いてドアを片手で押さえて顔を覗かせた。テンダは二、三歩だけ後ろに下がった。
「静かにしろ!」衛兵はしかめ面でそう怒鳴ったが、テンダの姿を見ると少しだけ眉を上げて考え込むような表情になった。「おい、女の子のほうも目を覚ましたようだ」
「そうか。わかった。隊長に知らせて来る」
扉越しのくぐもった声がテンダの耳に入ってきた。どうやら扉の向こうにはもう一人誰かがいるらしい。衛兵は声の主に、ああ頼むと返事をした。
「君たちの仲間は今取り調べの最中だ。ところで君の体調はどうだ?」
衛兵は一変して事務的な口調でそう言った。
「何も問題ないわ。ありがとう」テンダは素っ気なくそう答えた。「取り調べってどういうことかしら?あたしたちに何か問題があるの?」
「どうやら問題だらけのようだぞ」衛兵は、ゴホンと咳払いをした。「体調に問題がないのなら、君たちにも取り調べを受けてもらうことになる。知らせの者が戻るまでしばらく待っていろ!」
そう吐き捨て、衛兵は返事を待たずにドアを閉じようとした。
「ち、ちょっと待って!」テンダは慌てて駆け寄り、ドアノブを引っ張って抵抗した。「何が問題なわけ?みんな通行証は持ってるわ!それともあたしたちが犯罪者に見える?」
「私に言われても困る!取り調べでそう訴えてくれ!」
衛兵はぴしゃりとテンダの言葉をはね除けると、やや強引にドアを閉めた。テンダは納得がいかず、閉じられた扉を叩きながらわめいた。
「ねえ、関所のどこかにあたしの家族がいるのよ!マーサ・カーソンという女性を探してちょうだい!ここのどこかであたしたちを待ってるの!彼女に話をしてみてよ!」しかし返事はなかった。テンダはむむむっと唸った。「ちょっと!聞いてるの?兵隊さん!これは重大な間違いだわ!後でどうなっても知らないからね!」
「テンダ、もうやめなって!」プロップはテンダの肩に手をかけ、扉から引き剥がすように後ろへ引っ張った。「印象を悪くしたら不利だ」
「印象もクソもないでしょ!あたしたちには何の問題もないんだから!……こんなに可愛らしい乙女を足蹴にするなんて……まったく……」
およそ乙女らしからぬ悪態をつきながら、テンダはドアから離れプロップと共にそのまま奥の壁際まで後退した。それからドアの方を注意深く見つめながら、声をひそめてプロップの耳元に囁きかけた。
「それとも……やっぱりあたしたちがおたずね者ってこと、ばれてるのかな?王宮側からすでに何か手を回されてるとか……」
「それはあり得ないよ」プロップも声をひそめてそう言った。「それなら、あのフロルって人をわざわざ寄越したりはしないでしょ……当初の目論見通り、僕らが安全であることには変わりないはずなんだ」
「じゃあ何で関所で取り調べなんか受けてるわけ?」
「恐らく僕が思うに―」プロップは咳払いをして言葉を続けた。「フロルって人も問題なんじゃないかな?気を失ってる僕とテンダを抱えて関所にやってきた……彼女は騎士団員ってことらしいけど、ほら、何かいろいろ複雑な任務をしてるわけで……つまり、あまり公にできないようなって意味だけどさ。だからそのあたりを訊かれてるんじゃないかな?」
「騎士団員ならなおさら問題ないんじゃないの?同じマクスカ人どうしでしょ?それとも帝国側から取り調べを受けてるとか?」
「どうなんだろうね?僕には何とも……」プロップは腕を組んで考え込んだ。「ただ、マクスカ側だったとしても、騎士団とマクスカ軍は別の組織だから、すぐにじゃあどうぞお通り下さいってわけにはいかないのかも……国境警備隊は確か軍の所属だよね……えっと、って言うかさ、テンダ、それよりも、もっと明確でわかりやすい問題があると思うんだ」
「え?何よ?」テンダはプロップの返事を待ったが、プロップは気まずそうにうつむいたままだった。「何よ?プーちゃん?」
「えっと……ほら、テンダ。気づかないかな?」
「だから何が?」プロップの遠回しな口ぶりにテンダは少し苛立ってきた。「何よ?はっきりいいなさいよ!」
「テンダ……僕らは誰も通行証を持っていないんだよ。フロルって人はもしかしたら持ってるのかもしれないけど」
「え?え?」テンダの心と体が凍りついた。呆けたように口を開けて、しばらくプロップの顔を凝視していたが、やがて素早くかぶりを振って精神を立て直した。「いやいや、何言ってんのよ?通行証はちゃんとあるわ!三日前、玄烏賊の洞窟に入る前にちゃんとみんな荷物確認したじゃない?あんたたちの通行証はティトが既に用意してあった」
テンダはひきつった笑顔でプロップの肩を叩いた。
「確かにそうだった。でもね」プロップは哀しげな表情を浮かべた。「君はごく最近の記憶が抜けてるみたいだ……ほんの数時間前のことさ……ほら、テンダが言い出したんだよ?あの最後の魔法を使う前に……仮面の男たちから逃げるために……君が言い出したんだ」
テンダは眉間にしわを寄せて考え込んだ。
―えっと……何だっけ?……そうだ!そう言えば、あたし“あの魔法”をきっちり成功させてやったんだわ!きっちり四人分の“的確な量”で……ティトや老師様がそれを知ったらきっと褒めて……って、違う違う!そうじゃなくって―
テンダはさらに考え込んだ。プロップが心配そうに、哀れむようにその顔を除き込んでいる。
―あの時……あ!そうか!
「あ!そうか!」
テンダはようやく思い出した。あの時自分がそう提案したのだった。“荷物は全部ここに捨てていく”と。
「思い出したかい?そう、通行証はみんなバッグの中に入れてたんだ。荷物は全部捨てて来ちゃった……仕方なかったけどさ。ちなみに僕もまだ着替えられていないんだ……ここには代わりの服がないみたいでさ」
プロップは自嘲的に笑いながら自分の胸元を指さした。そこには、やや黒くなってしまった鼻血のしみが不恰好に広がっていた。
「ああ、何てこと……」テンダはプロップの言葉がまるで耳に入っていない様子で、ふらふらと歩きながらプロップから離れ、がっくりとベッドに顔をうずめ、わなわなと震える拳でマットを叩いた。「お気に入りの……買ったばかりの……9,800イェルもしたチュニックが……リュックの中に……どうしてそれを……魔法を使う前に……ああ、あたしのバカ!バカ!」
「ああ、そうなんだ……」プロップは呆れ顔でテンダの様子を眺めながら、空虚な声でそう言った。「気の毒に……なんてなぐさめていいかわからないよ」
「本当は16,800イェルだった!」突然がばっと起き上がったかと思うと、テンダはそう叫びながらプロップに素早く歩み寄り、彼の胸ぐらをつかんだ。「掘り出しものだったのよ……」
「そ、そうなんだ……安かったんだね」プロップは努めて笑顔でそう言うと、テンダの両手を無理矢理引きはがしにかかった。「とにかくさ、テンダ。そんなことよりも、今は通行証の問題をどうにか考えなきゃ!多分、この後いろいろ訊かれ―」
「“そんなことよりも”って何よ!」テンダは力強くプロップの体を揺さぶった。「どうでもいいって思ってるんでしょ?ええ、そうでしょうとも!男の子にはわからないんだわ!」
「わ、わかるよ、その……テンダ……どうか……落ち着いて……お願いだから……」
「おい!君たち!」その声はプロップにとっては救世主の声となった。突然部屋の扉が開き、先ほどの衛兵が顔を覗かせた。「一緒に来てもらおうか……四人一緒に取り調べをするそうだ」
◆4◆
「フロル・ラウラン殿……それにスピナ・ノール君だったっけ?君たちはどこから来たんだ?一体何があった?」
机をはさんで向き合って座っている国境警備隊の隊長、ペドロ・ルネスと名乗った男がそう言った。
きっちりと後ろに撫でつけられた髪。整えられた口髭。高級そうな軽鎧とマントはなんとも隊長という肩書きにふさわしいものだった。
もう何度目になるかわからない彼のその質問に、スピナはうんざりした気持ちになったものの、“何かちょっとカッコイイな”という彼への印象は変わらなかった。やや妙ではあるが、“何かしら彼の気に入る回答をしてあげたい”という感情が胸に芽生え始めていた。
「その、何て言うか、すげえ複雑なんだよ……おいらたちは―」
「隊長殿、率直に申し上げまして、もうこんな問答は無意味かと」
フロルは右隣に座るスピナの肩に意味深に手を置き、彼の言葉を遮ってそう言った。スピナは瞬時にしてフロルの意図、つまり“お前は何も言うな”を理解したが、なんだか少し面白くないような気分になった。
衛兵に半ば強制的に取り上げられた“ミシュ”のことも気がかりでしょうがない。ふんっと鼻を鳴らした。
「太政大臣から受けた特別な任務の最中なのです……少年たちは民間人ですが重要な協力者であり、任務の最中に怪我を負った……先ほどから申し上げている通り説明は以上です。それ以上のことををあなたに詳しくお話ししなければならない義務はありません。そして我々は一刻も早くイメッカへ行かねばならないのです」
フロルはいたって冷静にそう答えた。
―大人ってのは面倒くせえな……。
少しも苛立っていない様子のフロルに感心しながらも、スピナはそう思った。
「確かにこれ以上は無意味かもしれんね……」
ペドロは深いため息をついた。やや演技がかっているな、とスピナは思った。
「フロル・ラウラン殿、私の部下の中にはあなたのことを知らぬ者も多い……しかし私はよく知っている……直接お会いするのは始めてですがね」ペドロは顎髭を撫でた。「だからこそこうして私が自ら取り調べをしているわけだ……たったの一人で。外の扉の前に見張りの者こそいるが、今はこの部屋には私とあなた方しかいない……通常は隣室で密かに取り調べの様子を記録している者がいるのだが、今はそれすらいない。それもこれもすべてはあなたをよく知っているからだ……マクスカ騎士団の影、“漆黒のフロル”殿」
「ご配慮ありがたく存じます。まあ当然と言えば当然でしょうがね。私のことを知っているというのなら」フロルは威圧的にそう言った。「しかし、このままでは取り返しのつかないことになりかねませんよ?隊長殿」
スピナは、フロルのその態度が演技なのかはかりかねた。
―国境警備隊の隊長だろ?……フロルのやつ、そんな態度でいいのかな?あれ?軍より騎士団の方がエライんだっけ?
「そろそろ私の気持ちも察して頂きたいんだがね」ペドロは真剣な面持ちでそう言った。「エンブレムを見るまでもなく、あなたが本物のフロル・ラウランであることは明らかだ……あなたのその雰囲気……ただ者ではない。そして騎士団の任務に我々軍は一切干渉はできない。優先的に協力要請に応じなければならないという義務はあっても、だ」
「わざわざご講釈頂かなくてもそれは承知しておりますよ……ええ、まったくその通りです。ですからこれ以上我々を拘留しておく権限はあなた方にはない。そうでしょう?」
フロルはようやく少しだけ苛立たしげな口調になった。これは演技だな、とスピナは直感的にそう思った。
「仰る通りですよ……ですがそれは建前だ」
ペドロは腕を組んだ。 スピナの目には、その仕草が少しもフロルの言葉に怯んではいないぞと無理に主張しているように映った。
「あまりにも突然に、しかも我々の管轄のど真ん中にあなたは現れた……万が一あなたが嘘をついていたとしたら?……すんなりとあなたを通してしまっては私は笑い者だ。私の立場をどうか理解頂けないだろうか?数日はかからない。既に早馬がここを発っている。騎士団本部および大臣に確認が取れるまでお待ち頂けませんか?帝国へ向かわれるというのなら、少年たちの通行証の問題もある。詳細をお話しできない事情がおありだということは理解しました。あなたの方もそれくらいは譲歩して頂けないでしょうか?」
「まったくあなたは呆れた方だ、ペドロ・ルネス殿」
フロルは突然立ち上がってそう言った。ペドロもスピナも驚いて体をびくっと震わせた。これもまた演技なんだなとスピナは思い、そしてフロルに尊敬の念を抱いた。
―なんかカッコイイなフロル……“騎士もの”の舞台劇の女優みたいだ……。
「“譲歩”ですと?我々は武器をあなた方に預け、敬意をもって取り調べにも応じている……私に与えられている任務を思えば、今のこの状況が既に軍の出過ぎた干渉行為だ!」
フロルは机を拳で叩いた。ペドロとスピナは再び体を震わせた。
「隊長殿、あなたはそれがわからないほどの愚か者には見えない……それとも、あるいは何か他に理由がおありなのですか?」
フロルのその言葉に、ペドロの顔がみるみるうちに蒼白になっていった。それを見た瞬間、スピナの脳にある直感的な閃きが浮かび上がった。
―ああ、そうか!フロルは“さぐり”を入れてるんだ……この隊長が“おいらたちの事情”を実は知っているのではということを……仮面の男とかに通じてるやつなんじゃないかって……多分、そういうことなんだな。
そしてスピナはフロルに憧れに近い念を抱いた。
―“カッコイイ大人”って感じだな!
それと同時にスピナはある疑問を抱いた。
―そう言えば、フロルっていつの間においらたちの仲間になったんだろ……?なんだかんだで、イメッカまで一緒に来るってことになったんだっけ……?あれ?っていうか、おいらとプーはただあいつに雇われただけで……あれ?この状況って……?
それからふと玄烏賊の洞窟での出来事、フロルとの“一騎討ち”のことが胸の奥からじわじわと溢れ始めたが、その時ちょうどペドロが話し始めたため意識をそちらに奪われてしまった。
「フロル殿……私としてもなるべくは……」
ペドロはそこで言葉を詰まらせた。これ以上何と言っていいのかわからないというように、眉間にシワを寄せて深いため息をついた。フロルは呆れ顔で小首を傾げた。
「隊長殿、どうも要領を得ませんね。一体何を気にされてるのですか?……まあとにかく、いずれにしろ、やはり我々がここにいることは、お互いにとって良いこととは言えないのでは?……どうかすぐに我々を通して頂きたい。少年たちの通行証も早急に……私は、あなたが非常に協力的だったと後で報告することになるでしょう。あなたのお立場が悪くなることはないはずだ」
「しかし……」
ペドロはなおもためらうように考え込んでいた。
部屋の中は複雑な沈黙に包まれたが、しばらくして突然部屋の扉が開かれてそれを破った。
「何だ?誰も入れるなと―」ペドロは驚いて立ち上がりそう言ったが、部屋に入って来たその人物を見るなり慌てて口をつぐんだ。「閣下?……いかがされましたか?どうしてこのような場所に?」
「隊長、君はもう下がりたまえ」威厳のある低い声。ペドロよりもさらに高級そうな鎧とマントに身をつつんだその白髪の男は、声と同様に威厳のある微笑を浮かべながらそう言った。「この者たちの取り調べは私が行う」
「閣下?それは一体?」
「なあに、気にするでない。そこの騎士殿とはちょっとした知り合いでね。話がしたいのさ」
「しかし、それは……その、危険ですし……ここは我々の……その、つまり……」
「これは命令だよ。隊長」困惑しているペドロに、男はさらりとそう言った。「内密な話がしたいんだ。隊長、私が良いというまで、君も含めこの部屋には一切誰も入ってはいけないよ?無論盗み聞きもね?」
「……承知致しました、閣下」
ペドロは困惑の唸り声を上げながら、随分長い間考え込んでいたが、やがてためらいがちにそう言って敬礼すると、名残惜しそうにフロルを眺めながら部屋を出ようとした。
「ああ、そうそう」男は、ドアノブに手をかけたペドロを呼び止めた。「医務室にあと二人いるそうだが、様子を見て問題なさそうであればここへ連れて来てくれ」
「……承知致しました、閣下」
ペドロの表情には疑問符が浮かんでいたが、そう返事をすると扉を開けて部屋を出た。スピナは彼を見送っていたが、フロルは険しい表情で閣下と呼ばれた男をじっと見つめていた。
「さて、フロル君」男は笑顔でそう言いながら、ペドロが座っていた椅子にゆっくりと腰かけた。「安心したまえ。そう長い話にはならないだろう」
◆5◆
どうやら取り調べ室は地下にあるようだった。
場所がら思わず刑務所を連想してしまうような薄暗い階段を降りながら、プロップの不安は高まっていった。
―恐いな……。
先導する衛兵の背中を見つめながら、プロップは胸に手を当てて深呼吸をした。
―何を訊かれるんだろ?……恐いな……でもスピナもテンダもいるし、 どうにかなる……かな? ……あのフロルって人も……そう言えば、あの人はもうすっかりテンダの味方になったってことでいいのかな?
ふと後ろを歩くテンダを振り返ると、彼女は興味深そうに辺りをきょろきょろと見回していた。
「取り調べなんて時間の無駄よ」テンダは誰にともなくそう呟いた。「あたし、基本的に軍人って嫌いだわ」
「おい!余計な口をきくな!」
先導していた衛兵が肩越しに振り返りそう言った。テンダは舌を出して“ベー”っとやり返した。自分とは対照的なテンダの様子を眺めながら、プロップの胸に今さらのように今の状況についての考えが浮かび上がってきた。
―今さらだけど、ここ最近の出来事は普通じゃないよね……僕とスピナはこれからどうなる?首尾よくイメッカに行けたとして、それからどうなるのかな?僕らの仕事は一応そこで終わりってことになる……でも本当にそれで終わり?……ひょっとして僕らは自分たちが思ってるよりもずっと大きな“何か”に巻き込まれちゃってるのかも……。
「そこで一旦止まれ」
階段を降りきったところで、先導の衛兵がそう告げて廊下の奥へと歩いて行った。プロップとテンダは言われた通りにした。
廊下の奥の方には三人の衛兵らしき人影があり、先導していた衛兵がそれらの人物に何事か(恐らくは自分たちを連れてきたことを報告しているのだろうが、プロップには聞き取れなかった)を告げている。プロップはふと階段がさらに地下へと続いていることに気づき身震いした。
―ここよりさらに地下の部屋がある……って、それはつまり“牢屋”とかそういうもん?……これから僕らが入ることになったり……。
プロップはそこまで考え、その思考を打ち消すようにかぶりを振った。
―いくらなんでもそんな……わけないよね?堂々としてれば平気さ!洞窟で出会った化け物どものことを思えば、こんな取り調べなんてどうってことはないさ!そうとも!
「待たせたな。では奥の部屋へ」
しばらくして先導していた衛兵が戻って来た。そして薄暗い廊下の先を指さしながらそう言った。
◆6◆
―なるほどな……。
ペドロがその男を“閣下”と呼んだ瞬間にフロルはある仮説を立てた。そしてその“閣下”と呼ばれた男の言葉を聞き、その仮説が正しいという確信を得た。
「反吐が出るな」
フロルは皮肉な笑みを浮かべながらそう呟くと、静かに椅子に座り直した。スピナは訳がわからず、フロルと、“閣下”と呼ばれた男の顔を交互に見ているしかなかった。
「おいおい、まだ話は始まっていないというのにいきなりのご挨拶だな。フロル君」明らかに作り物である笑みを浮かべながら男はそう答えた。「しかも我々は初対面だというのにね」
その言葉を聞き、スピナはこの男に激しい嫌悪感を覚えた。つい先ほど、この男はペドロに、“フロルとは知り合いだ”といったようなことを言っていたはずだ。
―面倒臭くて、きな臭くて、嘘ばっかの嫌な大人だな……。
フロルやペドロとは対照的と言ってもいい印象。スピナは内心舌打ちした。
「これは失礼しました閣下。マクスカ軍最高司令官、アルバート・プルス卿」フロルの敬語にはあからさまな皮肉がこもっていた。「あなたがいらっしゃったことで、私は自分の想像以上にこの国が腐敗していたのだと気づき、思わずそのような言葉が口をついて出てしまいました」
「ほう、噂通りの切れ者のようだな君は」プルス卿と呼ばれた男は可笑しそうに笑った。「先刻の会話だけですっかり状況を理解できたとはね。いかにも、私がアルバート・プルスだ。お会いできて光栄だよ、フロル・ラウラン君」
プルス卿はそう言うとスピナの顔に視線を移した。スピナは多少驚いたが特に恐怖は感じなかった。
「そして君が侵入者の少年……スピナ・ノールという名だそうだね?君のおかげで、マクスカシティの地下水路は全面的に改築を行うことになりそうだよ……まったく、あんな侵入経路があったとはね」
スピナは努めて真顔を保った。何の話だ?と言い返してやろうかと考えたが、やはり問答はフロルに任せるべきだろう、まして相手は先ほどよりも手強そうだ、と思い直し口をつぐんでいることにした。
「スピナ、この男に演技は無用だ」フロルはスピナの考えを見透かしたようにそう言った。「こいつは“事情”をよく知っているようだ」
「どういうことだ?」
フロルの意外な言葉に驚き、スピナはそう訊いた。フロルがそれに答えようとした時、ちょうど部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。
「何だね?」
プルス卿はスピナを見つめたままで、外にいる人物に声をかけた。
「失礼します。閣下」扉を半分だけ開き、ペドロが顔を覗かせた。「残りの二名をお連れしました」
「ご苦労」
プルス卿は立ち上がって扉の前まで移動した。
ペドロは姿を消し、変わってプロップとテンダが入ってきた。プロップはひどく緊張しており、テンダは苛立っているようにスピナには見えた。
「さあ、どうぞ」プルス卿は、自宅を案内するかのような丁寧な仕草で二人を招き入れた。「プロップ・ベント君だね?怪我は大丈夫かね?」
「はあ、まあ……おかげ様で……」
プロップは、訝しげにプルス卿を見つめながらスピナの隣の椅子に腰かけた。
「テンダ様……お初にお目にかかります。私はマクスカ軍のアルバート・プルスと申します」
テンダへのプルス卿の態度は、これまでとは毛色の異なる、敬意と嘲笑が入り混ざったような不可解なものだった。そしてその言葉を聞くなりテンダの表情に不安の影がさした。
スピナとプロップは、何でこの男もテンダ“様”と呼ぶのか、という共通の疑問を抱いたものの、テンダの表情の変化には気がつかなかった。その一方でフロルは瞬時にそれを見抜き、そしてそれが何故なのかも理解した。
「ご気分はいかがですか?このような場所へお呼びすることとなり、誠に申し訳ございません。何せ事情が事情なだけに―」
「気分は最悪だわ」テンダは、フロルの隣の椅子に腰かけながらプルス卿の言葉を遮り、怒りと不安に震える声でそう答えた。「あんたも“そっち側のやつ”ってこと?このままあたしたちをここに閉じ込めておくつもりなのね?上等だわ!」
「滅相もございません。テンダ様。少しお話をさせて頂きたいだけなのです」
プルス卿は驚いた表情で両手を振った。何とも大げさで白々しい仕草だわ、とテンダは内心舌打ちした。
「へえ、あっそ。悪いけどこれっぽちも信用できないわ!」テンダの声は高まる不安と怒りにより、鋭くて荒いものとなっていた。「今のうちに言っておくけど、話の流れ次第では力ずくでここを出るからね!本気よ?」
「テンダ様、心配は無用です」フロルがそっとテンダをたしなめた。「私たちはじき出国できます。この男は、おおかた私たちに嫌味を言いに来ただけというところでしょう」
「そう喧嘩腰ではかなわんなぁ……」プルス卿は苦笑した。「私とて多忙な身だ……それをわざわざ国境くんだりまでやって来たのだから、それなりに楽しみたいと思っているんだがね」
「ひとつ伺いたいことがあります」フロルの敬語にはもはや敬意が一切含まれていなかった。「どのような名目でここへいらっしゃったのですか?“表向きの理由”という意味ですが」
「なあに、大したことじゃないよ。抜き打ちの視察ってなもんさ」
「なるほど……どうりであの隊長はやけに慎重だったわけですか」
「訊きたいこととはそれだけかね?随分とつまらない質問だな?」
プルス卿はくっくっと笑った。
「そうでもないでしょう。あのペドロ隊長を始め、国境警備隊の人間が善人だということがわかったのですから……あなたと違ってね……どうせ重要な情報はお話し頂けないのでしょう?」
フロルは肩をすくめた。
「なるほど……君は本当に危険な人物だね……その“人間性”……剣の腕だけではないというわけか。あのリャーマという男が、やたらと君を消したがる理由がやっと理解できたような気がするよ」
プルス卿は苛立たしそうにそう言った。
―演技じゃねえな……このおっさんはフロルの言葉にまじでイラっときたらしいな……。
スピナはざまあ見ろと内心鼻で笑ったが、プルス卿が口にした“リャーマ”という名の響きにより、心地好さは半減されていた。
初対面の人物の口から発せられたその名は、何とも言えぬ新鮮な響きを帯びており、スピナにとっては呪いの言葉のように不快なものだった。
“私の名はリャーマという”
玄烏賊の洞窟での一幕が脳裏をよぎる。耳に響く低い声。人あらざる骨の手に首をつかまれたあの感触。スピナは思わず身震いした。
「リャーマ?……あの仮面の男のことですか?」フロルは淡々と言葉を返した。「よもや、軍の最高司令官ともあろう御方ですらやつらと通じていたとは……少々意外でしたね」
「そうかね?ところで、意外と言えば、君が最も訊きたがっているはずの質問を一向に投げかけてこないことを私は意外に思っているよ」プルス卿はテーブルに肘をついて身を乗り出した。「エスティバのことさ。果たして彼が“どちら側”なのか……知りたくてウズウズしているんじゃないかな?」
「……仰っている意味がわかりかねます」
フロルはそう答えたが、その表情と声色には演技ではない怒りがわずかながら含まれていた。彼女にとってまったくの不覚だった。彼女以外の四人にそれは伝わってしまった。
スピナはフロルの怒りの理由に思い至らなかったが、テンダは三日前に聞いたジドの話、つまり、フロルはエスティバと恋仲だったという噂がある、を思い出していた。そして今のフロルの反応からその噂は事実なのだと確信し、この部屋に入った時点から覚えているプルス卿への嫌悪感をより一層激しいものとさせた。
―こいつ最低!女に対してそういうのをネタにおちょくるなんて!
何かしら文句を言ってやろうか(それもかなり激しい口調で)と考えたテンダだったが、フロルがその事実を今のところはっきりと認めているわけではないということもあり、とりあえずは様子を見ることにした。
プロップもテンダとほぼ同じようなことを考えたが、それとは違う考えにより強くとらわれてしまっていた。それは、“ 軍の最高司令官ともあろう御方 ”というフロルの言葉に端を発するものだった。
―最高司令官だって?
今さらのように、目の前の白髪の男の顔をまじまじと見つめ、それからこの部屋に入った際に、この男がテンダになんと名乗っていたか記憶を呼び起こした。
―アルバート・プルス……そう、確かにそう名乗ったよね……まさか……。
フロップはその名を知っていた。マクスカ軍最高司令官。伯爵の地位を有し、国王からの信頼も厚いと言われている、騎士団長エスティバと双璧をなすマクスカの有名人だ。
―プルス卿もあの仮面の男の仲間?……この国って……どうなってんのさ?……冗談が過ぎるよ……。
「おや、君とエスティバは特に仲が良いと聞いていたんだがな……単なる噂に過ぎなかったのかな?……それともすべて過去ということなのかな……」
プルス卿はにやにやと笑った。自分の言葉がフロルにどのような効果をもたらしているか十分に理解していて、それを面白がっているようだった。
「あなたには関係のないことです」誰もが驚いた。フロルの声は既に平静を取り戻していた。「閣下、これ以上の無駄話はなさらず、必要なことだけをお話下さい。こちらとしては、このような取り調べなどさっさと終わらせてしまいたいのです」
「気を悪くしたのならあやまるよ」プルス卿はふふっと笑った。「お詫びといってはなんだがね、彼について教えてやろうか?」
フロルは無表情のまま何も答えなかった。プルス卿はふんっと鼻を鳴らした。
「エスティバは何も知らぬよ。仮面の男たちと通じているのは、陛下と大臣、そしてこの私だけだ。どうだ?安心したかね?」
「随分と余裕がおありですね、閣下」
フロルは平静を保ちながら、内心ではプルス卿の意図を計りかねていた。
―“嘘の色”は感じられない……何故私にわざわざ情報を?
「他にも何かお教え頂けるのですか?」
「そうだね……」プルス卿は腕を組んで考え込んだ。例によってわざとらしい仕草だった。「後は全員の処遇についてかな……我がマクスカ軍は、アルバート・プルスの名において、正式にここにいる四名の出国を認めるものとする。テンダ様と少年たちの通行証も大至急用意させて頂くとしよう」
その言葉に、スピナ、テンダ、プロップの三人は、安堵と困惑の表情を互いに見合わせた。
「なお、四名とも出国後いつでも再入国可能だ。スピナ・ノール、プロップ・ベント、両名の王宮への不法侵入の罪は免除となる」
スピナはプルス卿の言葉にそれほど興味をかきたてられなかった。既にこの対話に飽き始めており(小難しい話はプロップやフロルに判断を任せる、と決め込んでいた)今や一刻も早く“ミシュ”を取り戻したいという思いで頭がいっぱいだった。
一方でプロップは複雑な気持ちになっていた。
―正直ちょっと嬉しい安心したけど……でもまあ想定の範囲内だよね……僕たちはある程度そうなると予想して国境を目ざしたわけだし……でも、何かこうすんなりと言われるのも逆に気持ち悪いなぁ……。
「また、言うまでもありませんが、テンダ様についてもその少年たちと行動を共にされていることによる罪などは一切ございません……今後とも我々と懇意にして頂きたく存じます……きたるムミ王女の結婚式にも是非おこし頂きたいものです」
プルス卿は胸に手を当てて小さくお辞儀をした。これにはテンダの堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけんじゃないわよ!」
テンダは立ち上がり、拳を力任せにテーブルへ叩きつけた。顔は炎のように真っ赤に染まっている。スピナとプロップは驚いて目を見開いた。
「あんたたちを決して許さない……覚えておいてね!あたしは必ずあの子を助けに戻ってくるわ……必ずよ!あんたたちに報いを受けさせる……必ず……」
「お待ちしておりますよ。テンダ様」
テンダの怒りなどまるで意に介さず、プルス卿は不敵な笑みを浮かべながらそう言った。
「今のうちにせいぜい笑っていればいいわ……いい?ムミやティトに―」
「テンダ様」フロルが突然立ち上がり、テンダの肩にそっと手を置いて言葉を遮った。「もう十分でしょう。この男には怒りをぶつける価値がありません」
テンダは悔しそうな表情でしばらくフロルの顔を見つめていたが、やがて渋々椅子に座り直した。
「ところで、閣下。この私はどのような扱いになるのでしょうか?」
フロルは椅子に座りながらそう訊ねた。
―気のせいかな?このフロルって人、何だか無理矢理話題を変えたがっているみたいだ……。
プロップは直感的にそう思った。そして幸いと言うべきか、プルス卿はそれにまったく気がついていないように見えた。
「ああ、君については、大臣から与えられた任務により帝国へ向かう、という形になる」
プルス卿は咳払いをした。「エスティバに真実が伝えられることはないがね……もっとも、君の行方など彼は特に気にしないかもしれんな……むしろ君が行方不明になれば彼はせいせいするかもね」
フロル以外の三人は、プルス卿のその言葉に緊張感を覚えた。三人とも(特にスピナは)玄烏賊の洞窟でフロルの“強さ”、そして“恐さ”を十分過ぎるほどに思い知らされた。今フロルは剣を持ってはいないが、あまりに露骨な挑発をこうも繰り返すと、取り返しのつかないことが起こるのではないかと三人とも考えたのだ。
彼女はたとえ素手であったとしても、この関所にいるほとんどの人間をあの世に送ることができるかもしれないと。
しかし当のフロルは、三人の考えより一歩先の境地に至っていた。
―そうか……この男……とどのつまりこいつらは……。
「承知しました、閣下」フロルは穏やかにそう答えると、すっと立ち上がった。「もうこれ以上お話することはないように思われます。我々はそろそろイメッカへ向かいたいのですが、よろしいですか?」
「フロル……君は本当に素晴らしいな……その若さで氷のような冷静さを身につけている……私のドラ息子たちに君の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいよ」プルス卿は苦笑した。「確かに話は以上だが、最後にひとつだけ教えて貰えないだろうか?」
「何でしょうか?」
「どうやってここまでたどり着いたのだ?そのルートも興味深いが、それよりも、あの仮面の男たちからいかにして逃げ切った?お前たちにあの者たちを殺せるはずはない……何があった?君が任務を放棄してテンダ様へ合力したということは、まあ、何となく理解できるが、あの怪物たちをどうやって退けたのだ?」
「直に本人たちから伺うとよろしいでしょう」
フロルはふっと笑った。
「公平ではないなあ、フロル」プルス卿は両手を広げた。「私はいろいろと教えてあげたというのに、それくらいはよかろう」
「そうですね……では閣下、代わりと言ってはなんですが、私から一言忠告を……」
フロルはテーブルに両手をつき、挑戦的に身を乗り出してプルス卿に顔を近づけた。その瞬間から、フロル以外の四人は室内の“空気”が一変して重くなったように感じた。
「騎士団を甘く見ないことです……エスティバ様や私だけではなく、騎士団には、決して何者にも飼われることのない“狼”がいる……ゆめゆめお忘れなきよう……」
フロルは静かに重々しくそう言うとテーブルから手を放した。重くなった空気が元に戻る。誰もが理解できた。フロルのその言葉は、仮面をかぶったままの駆け引きではなく何かしらの真実の言葉であり、強い意志と力を持った“攻撃”だということを。
「……わかった……覚えておくよ」
プルス卿は不敵な笑みを浮かべていたが、そこには困惑の色が浮かんでいた。フロルの言葉に不気味さを感じているのだとプロップは思った。
―それにしても、結局これはどういうことなんだろ?話はこれで終わり?要領を得ない部分が多いな……もっといろいろ訊いたりできそうなもんだけど?フロルって人もこれでいいのかな?
腑に落ちない様子のプロップなどお構いなしに、プルス卿はゆっくりと立ち上がると、全員の顔を見渡した後で別れの挨拶を口にした。
「では私からの話は以上です。この部屋を出て出国の手続きを……外にいる私の部下に案内させす。武器をお返しして、テンダ様たちの通行証を用意させましょう……またお会いできる日を楽しみにしております」
プルス卿は深々と丁寧にお辞儀をした。戸惑いながらも、スピナ、テンダ、プロップの順に立ち上がり、プルス卿をちらちらと見ながら部屋を出た。フロルはその場に立ったまま、先に出ろとスピナたちに目で合図をした。テンダはまだ言い足りないといった様子で、もどかしそうにプルス卿を炎の瞳で睨みながら渋々部屋を出た。
「閣下、差し支えなければ、あの藍色の仮面の男に言付けをお願いできますか?」
スピナたちが部屋を出るのを見送った後、フロルがそう言った。
「よかろう。何だね?」
プルス卿は興味深そうに微笑みながらそう答えた。
「私は必ずお前を倒す……お前が私にそうしているように、私も常にお前のことを考え、お前を“見ている”と……そうお伝え下さい」
プルス卿はフロルの言葉に首を傾げた。
「ほう、少々意外だね……君も"正常な"騎士のように熱くなったりするのか?ロマンチストな若者のように?私には理解できないし、どちらでもいいことだが……まあ、わかった。伝えておこう」
プルス卿はそう答えた。フロルはそれ以上何も言わず、振り返ることなく部屋を後にした。
◆7◆
「弱ったなあ……奥さん。いくらなんでもそれは無理ですよ……」
スピナたちが“取り調べ”を終えてから約三十分後。
時刻は間もなく午後二十時になろうとしている。
太った中年の行商人の男は、あまりお洒落とは言えない丸い小さな帽子をとり、手の甲で額の汗を拭ってかぶり直した。
「えー?そんなはずないわあ……絶対大丈夫よ」
その女は行商人を励ますように明るい声でそう言った。白状してしまうならば、行商人の男は、無邪気な少女のような彼女の笑顔にすっかり魅了されてしまっていた。
計算しつくしたかのようにほどよくカールしているブロンドヘア。季節にぴったりと合う落ち着いたブルーのワンピースは、彼女を実年齢より若く見せているが(初対面ではあるが、男は、彼女が実際には自分とさほど変わらない年齢だろうと確信をもっていた)それは少しも嫌みではなかった。
「ねっ?お願い!3,000!ねっ?ねっ?」
女は両手を組んで哀願した。男は女から視線をそらして気まずそうに咳払いをした。
あたりはすっかり暗くなっているというのにも関わらず、国境の南側、つまりイメッカ帝国側の関所の大広場で開かれている市場は大いに賑わっていた。
各国の関所では、事前に国から許可さえ得ていれば個人の商店を期間限定で開くことができる。(期間や選考基準は国により細かな違いがある)関所の広場で開かれている店であれば信用も高く、また、隣国の珍しい品物や掘り出し物が多く見つかるかもしれない、という理由から、関所の市場は人気が高く、出国の目的ではなく、買い物目的だけで関所を訪れる者も少なくはなかった。
そんな市場の一角。元々は真っ白だったが、使い古して今やクリーム色と化してしまった男の店のテントの前で始まった戦いは、既に数十分にも渡って繰り広げられていた。
男は長年様々な国を旅して回り、各国境で商売をしてきたが、怒鳴り声、色仕掛け、泣き落とし、といった方法を使わずに自分をここまで追い詰めた女性客は初めてだった。彼女の純粋な人間としての魅力。たったそれだけの武器で、ベテラン商人のプライドという名の強固な砦が陥落しそうになっているのだ。
「奥さん、さっき言ったことは本当なんです……あなたは本当に素敵な方だ。だから私としてはできる限りのことをしたい。しかし、3,800……どうあってもこれ以上は下げられないんです」
男は手に持っている、東洋風の革製の婦人用ショルダーバッグを指さしながら懸命に訴えた。
「あら、そう……本当に素敵なバッグなのに……エクスカンダリアからわざわざ来たのに……」女はがっくりと肩を落としたが、わずか数秒でその肩は再び上昇した。「ああ!私ったら、たった今素晴らしいことを思いついたわ!あなたと私、どちらにとってもいい結果になる方法を!」
女は目を輝かせてそう言うと、テントの脇に紐で下げられている財布を指さした。男が持つバッグと同じような東洋風の財布には、“1,800YELL”と殴り書きされた値札が貼りつけられていた。
「バッグを3,800で買う。そしてそのお財布もセットで買うわ!その代わりお財布を1,000イェルにまけてちょうだい!ねっ?いい考えでしょ?議論の余地がないわ!そのバッグとお財布はきっとよく似合うわあ……」
議論の余地はおおありだがな、と男は思ったが、ここらで白旗を掲げようと決心した。どうあがいても勝ち目はなさそうだった。この婦人はその気になれば朝まで交渉を続けるだろう。そしてそれが彼女の“欲”ではなく、彼女の“無垢”がそうさせる、という点が始末におえないのだ。
「降参だ……エクスカンダリアの美しいご婦人」男はため息をつきながら両手を上げた。「その条件で商談成立としましょう……まったく、あなたのような方は初めてだ」
「まあ、美しいだなんて……」女は両手で頬をさすりながら、恥ずかしそうに身をよじった。「そんなこと……よく言われるけど……そんなことないわあ……口がお上手ですこと」
それから女はオホホと笑った。男は財布を紐から外しながら、女につられて笑いだした。まったく不思議なことだが、その瞬間に男の胸の中から敗北感が消え失せた。きわめて粗利の薄い商談ではあったが、彼女のその笑顔を見れただけでよかったのかもしれないと素直にそう思えた。
「マーサ!ちょっと、マーサ!」
その時、どこかからそう叫ぶ少女の声が聞こえてきた。バザーの喧騒の中にありながら、その声は埋もれることなくはっきりと聞こえてくるものだった。
女は驚いてきょろきょろと辺りを見渡し、そして少し離れたところから手を振ってこちらに近づいてくる声の主を発見した。
「あ!……テンダ様……」女は口に手を当てて小さく呟いた。「いっけない……私ったら、すっかり忘れてたわ……」
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