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体育館横から外へ出ると、冷たく乾いた空気が体を包む。
それでも眩しいくらいの日差しが、温室内を暖めてくれているはずだ。
私はポケットに手を入れて身を縮めながら、部長を務める園芸部の活動拠点でもある、癒しの場所へ向かった。
「それにしても、北原のT大って……」
確か、お父さんがお医者さんとかで、同じ医者を目指すように言われてる、とか言ってたけど。
どちらにせよ、T大が合格圏内なら、H大だって余裕だろう。
暖気を逃がさないために、冬期間だけつけられるガラスのドアを開け、私は温室内に足を踏み入れた。
そして、静かに大きく深呼吸する。
ヒトと接することが苦手で、どうしても嫌で、逃げてきた私を救ってくれたのが、様々な植物が所狭しと置かれている、この小さなガラスの温室だった。
能力を少しコントロールできるようになった今でも、強い意識は頭の中に飛び込んでくるし、それを防御するための扉を常に閉じていることは、楽なことじゃない。
「元気、ちょうだい」
私はお気に入りのポトスに手を伸ばした。
葉に触れた指先から伝わるのは、小さな光の粒子。
優しく柔らかな光は、日常の雑音で混乱した私の頭の中に静かに降り積もっていく。
そして、脳内を浄化し雪のように消える。
触れていない植物たちからも、目に見えないたくさんの粒子が、私を包み込むように降り注ぎ、心地よさにゆっくり目を閉じた。
上手く出なかった結果に対するもやもやした気持ちも、好きな人に対するちょっとした不信感も、できるなら一緒に消して欲しい。
なんて、余計なことを考えたからだろうか。
ふと、粒子の流れが止まって、私は目を開ける。
コンクリートと砂の擦れる音に驚いて、顔を上げた。
「あ、ごめん」
温室の中、それも、1メートルと距離が離れない位置に、見慣れないスーツ姿の男性が立っていた。
相手もまた驚いたように、瞳を泳がせ、最後に目が合う。
……見られた?
一瞬、そんな焦りが込み上げてきたけれど、あるはずがない。
私がしている行為は、普通のヒトが見れば、ただ植物に触れているだけにしかすぎないのだから。
でも、彼の表情が、まるで見てはいけないものでも見てしまったように、あまりにも呆然としていて、私を不安にさせた。
それに、ドアが閉まる音も、彼がここまで近づいてくる気配も、何も感じられなかった。
絡んだままの視線を逸らすことができず、少しずつ胸が高鳴っていく。
妙な沈黙を先に破ったのは、彼のほうだった。
「驚かせて、ごめんね」
彼がにっこりと目を細めると、わずかな緊張感もぷっつりと切れ、思わず安堵の息が漏れた。
「いいえ」
私も笑顔を返すと、男性はぐるりと温室内を見渡した。
北原と同じくらい、私より頭ひとつ分くらい大きな背丈に、真っ黒な髪、女の子みたいに大きな瞳は、たぶん、このヒトを実年齢より幼く見せているはずだ。
黒の細身のスーツも、どことなく借り物みたいに見える。
もしかしたら転校生かとも思ったけど、私たちと同じ高校生にしては、随分と落ち着いた雰囲気があった。
「つい三年前まで、僕もこの学校の生徒だったけど、ここがこんなに良い場所だって知らなかったな」
「え?」
「僕、明日から教育実習でお世話になる、南海柊です。よろしくね」
アイドル顔負けのスマイルに、この先、女子たちが騒ぐ姿を簡単に想像できた。
今までそういうことにあまり興味のなかった私でさえ、不覚にもちょっとだけ鼓動が早くなる。
「君は? 一年生?」
「いえ、二年です」
「そっか。いや、明日から一年生のクラスを担当することになってるから、もしかしたらと思って」
誰かさんとは違って、相手をほっとさせるような話し方に、穏やかな笑顔。
はじめてこの温室で、園芸部顧問でもある倉田先生と出会った時のことを思い出した。
倉田恭介先生は華奢で色白で、どこから見てもさえない生物教師なのだけど。
この植物たち同様、何も言わず、何も聞かず、たとえ授業中、抜け出してきたとしても、ただ黙って受け入れてくれた。
とにかく優しいひと。
本来、私の好きなタイプはそういう人だったはずなのに。
心の中で勝手な結論が出たところで、南海先生が目の前にあるアイビーに触れた。
そして、瞳を閉じる。
「………」
私の、真似?
ちょっと馬鹿にされたような気がして、私は唇を噛んだ。
「君がこうしていたの、よくわかるよ。なんだかほっとする」
そう言うと、目を開けて触れていた葉を、長く骨張った指で愛でるように撫でる。
「ホント、ですか?」
「うん」
頷いた南海先生が嘘をついたり、私をからかっているようには見えなかった。
私が感じたものを同じように受け取ってくれることは、ちょっと照れくさいけど、素直に嬉しくて、先生と目が合うとお互いに微笑んだ。
「明日から実習だから、緊張しちゃってね。僕もこの学校にいたのに、今回は立場が違う。ただそれだけで、まるで別の世界だ」
視線をアイビーに戻して、南海先生は苦笑した。
「でも、今、ここに来て、楽になった」
私が、初めてここに来て感じたことと、同じ。
こんなことって、あるんだ。
北原や川島くん、香奈に、倉田先生でさえ、誰もそんなこと、言ってくれたことなんかない。
不思議な感覚に、私はぼんやりと南海先生の横顔に見とれた。
「どうかした?」
こっちを向いた南海先生に聞かれて、私は我に返って首を左右に振った。
「い、いいえ」
何考えてるんだろう、私。
ぼんやり見とれるだなんて、どうかしてる。
「あれ、南海くん、寄り道?」
南海先生の向こう側、ガラスのドアをゆっくり開ける倉田先生の姿が見えた。
いつも、白衣の下はシャツにネクタイだったけど、さすがにこの季節はハイネックのセーターを着ていた。
眼鏡の奥にある優しい瞳がにっこり笑う。
「倉田先生、この温室、すごく良いですね。あの頃知ってたら、もっと来てたのにな」
「今は園芸部があるんだよ。この桜井さんが一緒に世話をしてくれるようになってから、植物たちの成長が良くなってね」
「そうなんですか」
確かに、倉田先生が言うとおり、私が世話をすると植物の成長が早いのだ。
時期外れに花が咲いたり、妙に枝や葉が伸びてしまう。
でも、彼らがいなければ、私の癒される場所がなくなってしまうから、お礼をするように私は大切に彼らを育ててるだけで。
「それなら、園芸部の手伝いさせてもらえば良かったかな。昔、バスケ部だったんで、そっちをみてくれって言われてて」
「気に入ったなら、ここはいつ来てもいいから。ね? 桜井さん」
突然話を振られて、私は驚いて倉田先生と南海先生を交互に見た。
「あ、は、はい。いつでも、どうぞ」
「ありがとう」
面と向かって言われると、どうにも胸の中がざわついて、私はうつむいた。
「しおりー」
今度は倉田先生の背中から、川島くんがひょっこり顔を出した。
「伊吹が呼んでっぞ」
ぶっきらぼうな口調で言うと、川島くんの三白眼がぎろりと南海先生のほうを向いた。
ただでさえ人相、いや目つきの悪い彼の名は、園芸部会計係の川島貴文。
本当なら私たちと同じ二年なのだけど、高校浪人した彼は現在一年生。
そして、ガラス扉の向こうから、冷たく痛い視線をこっちに向けているのが。
「北原……」
彼の名を呼んで、ポケットの中のテスト結果を思い出した。
あぁ、今回は何て言われるんだろう。
私は倉田先生と南海先生に頭を下げ、温室を後にした。