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『桜井』
指先から伝わって響く北原の声。
私はぎゅっと瞳を閉じて、北原から伝わるモノを遮ろうとした。
「頼むから、こっち向いて」
息を飲んで、言われたとおり顔を上げる。
北原は、いつかみたいに私の右手を掴んで、自分の胸にあてた。
「俺、桜井に聞かれて困るようなことなんて、何もない。だから、気の済むまで確かめろよ」
「そんなこと……できない」
手を引くと、以前より簡単に私の手は解放された。
とまどいながら、私は北原を見上げる。
「だって……あの時、子供の時、北原のこと傷つけたもの。もう、そんなことできないよ」
簡単に、触れた人の心の声は私の中に飛び込んでくる。
触れていなくても、物を通して、その物に残った声さえ聞こえてしまう。
だけど、北原の声は聞かないように、聞こえないように意識していた。
幼稚な子供の私がしたことだけど、純粋な私の気持ちは、同じくまっさらで幼い北原を傷つけた。
だから、これ以上その傷を深くしないように、他の誰よりも心を置いていたつもりだ。
北原はますます嫌そうな顔をして、深く息を吐いた。
馬鹿。
口を開けば、次に言われる言葉はそれだろうと思ってたのに。
「じゃあ、黙って俺のこと、信じてほしい」
信じること。
私が一番、苦手なこと。
だけど。
「うん……」
真っ直ぐで真剣な瞳に心を掴まれたまま、私は頷いた。
きっと、北原なら大丈夫。
あの時、もっと素直に、ちゃんと話せばよかったのに。
私が信じることができたなら、もっと早く私たちは……。
今までの自分の言動に後ろめたさを感じながらも、見上げると、北原の表情が緩み、微笑んだ。
そんな怖いくらい優しい顔、初めて見た気がして、私は思わず目を逸らしてしまう。
「伊吹っ……」
私も北原も顔を見合わせて、その声のするほうを向いた。
北原が振り返ると、私も彼女の姿を見つけることができた。
温室の入り口から数歩の場所に、悲しい瞳で、口元には笑みを浮かべて、あやのさんが佇んでいる。
「やっぱり、桜井さんだったのね」
ちらりと私を見てそう言うと、今にも涙が溢れそうな瞳を北原に向ける。
「私、自惚れてた」
目を細めてうつむき、あやのさんは静かに話を続けた。
「伊吹には、私しかいないんだって、私じゃなきゃだめなんだって、ずっと思ってたの。離れるって決めて、勢いよく飛び出しても、きっと伊吹は私のこと待ってるって……約束、守ってくれるって信じてた」
やがて、その口元からも笑みが消える。
震える唇を閉じると、隠れて見えない瞳から、涙がひとつ、地面に落ちた。
「でも、約束には、あやの自身がつけた条件があった」
北原の言葉に、あやのさんがゆっくり顔を上げる。
「あれは……」
「もっと早く、あやのがこの話をしてくれたら、俺も考えたかもしれない。だけど、ごめん。……もう、そばにいてあげられない」
肩ごしに振り返った北原と目が合うと、まるで子供をあやすように、頭をぽんと撫でられる。
そして、私の頭に手を置いたまま、再びあやのさんに視線を向けた。
「彼女の隣に、いたいんだ」
今朝、夢の中で聞いた台詞。
そう、あの酷く悲しい感情は、私のものじゃない。
目の前で、両手で口元を覆って、これ以上の涙をこらえているあやのさんのものだ。
淋しくて、切なくて……。
もし、私が北原と出会うことなく、何も知らない無関係の同級生のままだったなら、あやのさんはこんなふうに悲しまずに、北原と日本を飛び立ったんだろうか。
北原からの告白は、嬉しいはずなのに。
あやのさんの表情を見ていると、甘い痛みが胸をチクリと刺す。
「……ごめんなさい。私、本当はこんなこと言いたかったんじゃなくて」
目元を拭って何度か瞬きすると、あやのさんは笑顔を作って顔を上げた。
「桜井さんも、伊吹と同じなのね」
「え……?」
私が首をかしげると、私を見ながらあやのさんが苦笑した。
「人間嫌い」
「えっ!?」
思わず大きな声を上げてしまう。
当たらずとも遠からずだけど、この北原と一緒の部類にするのはやめてほしい!
少なくとも私は、北原なんかよりずっと人間慣れしてると思うし。
「きっと、桜井さんなら、伊吹の気持ちをもっと理解してあげることができるのかもしれないわ」
私を見ていた瞳が、その北原のほうへ向いた。
「じゃあね、伊吹」
健気なまでの、あやのさんの笑顔が痛い。
でも、きっと、いつだってあやのさんは北原の前では、こんなふうに笑ってたんだろう。
「……サヨナラ」
あやのさんは再び泣きそうになって、唇をきゅっと結んだ。
「さよなら」
いつものように、静かに響く、北原の声。
見つめ合う視線を先に断ち切ったのは、あやのさんのほうだった。
黒髪が揺れ、こちらに背を向けると、足早に校舎へと戻っていく。
彼女を見送る北原の顔を見てはいけないような気がして、私もあやのさんの姿が見えなくなるのを見送った。
私の頭の上に置かれたままの手が、あたたかい。
北原、今、何を考えてるの?
でも、私に手を触れていてくれるってことは、何にも心配いらないってことなんだよね?
「ところで」
「へっ!?」
あやのさんの姿が見えなくなったところで、冷たさが戻った北原の声が降ってきた。
同時に、私から離れた手をズボンのポケットにつっこんだ。
「桜井の気持ち、聞いてないんだけど」
「あ……の、それは……」
急にそんなこと聞く!?
見上げると、いつも通り冷静冷酷無慈悲な北原の目が、私のことを見下ろしていた。
な、何なのよ、この変わり様はっ!
「いや…その……私も……」
好き……っていうか、怖くてそんなこと言える雰囲気じゃないよ。
さっきの優しい笑顔は?
いや、それとも、まさか、あやのさんと別れるために、口実作りのための芝居とか、そんなこと言わないわよね?
よくない想像が次から次へと湧いてきて、不安でうつむく私をよそに、北原は温室入り口にある、彼専用のイスに座った。
そして、雲に覆われた、灰色の空を見上げて溜息を吐く。
そこに北原が座るの、すごく久しぶりに見た気がする。
「……桜井」
目つきの悪い北原に手招きされた私は、彼の前に立ち、次は何を聞かれるのかとハラハラしながら見下ろした。
「桜井、俺のこと、嫌いか?」
そんなことない、とぶるぶる首を横に振る。
「それなら、いい」
「……!」
ふと笑った顔が見えたけれど、すぐにその表情は隠れてしまった。
立ち尽くしてる私に、まるですがりつくみたいに、北原が顔を埋めたのだ。
背中に回された手のひらが、しっかりと優しく私を抱き寄せる。
なんとなく……北原が、泣いているような気がした。
「………」
私は黙って胸元の下にある、北原の柔らかな髪を撫でた。
好きだった人との二度目のサヨナラは、決して良いモノではなかったはずだ。
私も、北原にそばにいてほしいよ。
そう私から告白するのは、また次でいい。
今は、もう少しだけ、このままで。




