file5 「innocent」
「退部届なら、私じゃなくて倉田先生に渡してよね」
「誰が辞めるなんて言った?」
「じゃあ、何よ。っていうか、あやのさんは? ひとりにしておいていいの?」
「遅刻については、謝らないのかよ」
「なっ……」
この状況で、そんなことに謝れと言われて、私は頭を抱えたくなった。
今って、それどころじゃないでしょ?
どこまでも冷静な北原に対して、暴言が溢れ出しそうになったけど、必死で歯を食いしばって堪えた。
だって、フツーじゃいられないのは私だけで……。
「ごめん……」
中庭に寄り道しなければ、あんなふうにあやのさんとバッティングすることもなかったんだ。
うつむいて、小さな声で謝った後、北原を上目使いで見た。
「早く、あやのさんのところに行ってあげて。私があんなふうに倒れたの見て、たぶんショック受けてると思うから」
触らないで、なんて大きな声で言ってしまったし。
何より、あやのさんは私たちの関係を誤解してるんだから。
私たちは一緒にいない方がいい。
北原から逸らした視線をどこに向けたらいいかわからなくて、なんとなく、さっき散ってしまったバラの花びらを見つめた。
「もう、いいんだ」
「え……?」
「それより、その膝、早く手当てした方がいい」
もういいって、どういうこと?
私の膝が痛いことこそ、北原にとって、どうだっていいじゃない。
このまま、いつもと変わらない表情で、北原はあやのさんの後を追うのだろう。
きっと、平気な顔して、私のこんな気持ちも知らないまま、いなくなってしまうんだ。
「北原、いつ行くの」
聞いてどうにかなるものじゃないけど。
「行くってどこにだよ」
「留学に決まってるじゃない」
見当違いな返答に、私は少しイラついて言葉を返す。
私の気持ちが表に出たのか、北原もむっとして口を開いた。
「退部も留学もしない。俺は、どこにも行かない」
真っ直ぐに、私から目を逸らさずに強い口調で北原が言う。
「え……?」
どこにも、行かない?
北原は、今そう言った。
確かに退部も留学もしないと言ったのだ。
98%ありえないと思ってた台詞に、私は一瞬目を丸くした。
「そんなの…あやのさんは、どうするのよ」
「あやのとは、もうずっと前に別れてる」
「だって」
「もう終わったことだ。他人に口出しされたくない」
これ以上の反論を許さない、鋭い視線。
だったら、さっきの抱擁は? 今朝の夢は何?
聞きたいことも、言いたいこともたくさんあるのに、ちゃんと言葉にできるまで上手くまとめることができない。
わずかな沈黙のあと、北原が眉根を寄せて大きな溜息をつく。
「桜井、前から言おうと思ってたけど」
「……何よ」
「お前って、ヒトの心が読めるくせに、どうしてそんなに思い込み激しいんだよ。肝心なところは鈍感で抜けてるし、嫌なことからはすぐ逃げて、どうしようもない馬鹿で。どうにかしろよ」
「どうにかっ……て……」
できるもんなら、とっくにしてるわよ。
そう、言い返そうとしたのに、驚いて声が出なかった。
体が不意に引き寄せられて、今、私は北原の腕の中にいる。
修学旅行の時みたいなアクシデントなんかじゃなく、確かに抱きしめられている。
背中に回された手のひら、耳元に感じる吐息。
「俺も、桜井と同じ能力がほしい」
髪に触れる指先が、わずかに震えてるように感じた。
「桜井のこと、全部、知りたい。何考えてるのか、どう思ってるのか、全部」
強く抱きしめられて、私も北原のジャケットを握る。
全身が心臓になったみたいに、大きく波打っているようで。
熱くて、苦しくて。
「桜井、好きだ」
それ……って。
ピンと来ない。
「好きなんだ。……ずっと、一緒にいたい」
『ずっと……ここに、一緒にいたい』
あの時の言葉が重なって、私の胸の奥に響く。
腕を離した北原が、少しだけ頬を赤くして、呆れた顔で私のことを覗き込んだ。
「いくらバカでも、告白の意味もわからないわけじゃないよな」
「………」
「おい」
「………」
「大丈夫か」
徐々に不機嫌になる北原に、私は呆然としたまま頷いた。
頬が、顔が、体中が熱い。
自分の熱と、北原から伝わる体温に、頭の中が溶けてしまいそうで。
「ホントに、意味わかってるのか」
真面目な顔して聞くから、私はもう一度、大きく頷く。
「だけど……」
「あやのには、ちゃんと話したよ。医者になるつもりもないし、もちろん留学なんて考えられない。それに、俺の気持ちは、春に別れたときに終わってるって」
ずっと聞けなかったことを、確かめたかったことを、北原は簡単に答えた。
あまりにもあっけなくて、現実感が無くて。
「あやのに何か言われたのか? 何を聞いたんだ?」
私が能力のせいで何かを聞いたから倒れたのだと、北原もきっとわかってるはずだ。
だけど、私が見たものを伝えるのは怖かった。
強く北原を想う気持ち、どれだけ北原が彼女に心を開いていたのか、どんなふうに彼女のことを抱きしめていたのか。
言葉に出来ない。
「桜井」
うつむいた私の頬に、北原の手のひらが触れる。
「俺は、桜井に、そばにいてほしいんだよ」




