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「べつに、私は……」
いつもの調子でそう言いかけたところで、すかさずあやのさんが良かったと溜息混じりに言った。
「伊吹、何か気にかけてることがあるって言うの。私にも何だかはっきり言ってくれないんだけど。思い当たることがある?」
『お願い、伊吹を解放してあげて』
『彼を引き止めないで』
原因がさも私だといいたげな感情。
先生方も、あやのさんもみんな、私が北原を悪い方に導いてるような言い方をしてくれるけど、私はそんなつもりはない。
少しずつ、ほんの、少しずつ、自分自身のココロが冷たく固まっていくような気がした。
「良かったら、桜井さんからも、留学の話すすめてくれないかな」
「私、関係ありませんから」
「え?」
「そんな、私、そんなこと言えるほど仲良くないですよ」
「そうなの……?」
首をかしげるあやのさんに向き直り、私はうんと頷いた。
『ウソ』
嘘なんかじゃない。
前に香奈が言ったとおり、私たちの関係は微妙なのだ。
友達でも、もちろん恋人でもない、しいて言うならば、園芸部部長と副部長で。
「いっつも私のことバカにするし、睨まれてばかりだし。たぶん、嫌われてると思います」
「でも、堀口先生は、今伊吹のそばにいるのは、桜井さんだって」
もう、ホリちゃんの馬鹿。
ただでさえ頭が痛いのにと、私は思わず苦笑した。
「そばにいるっていうか……助けてもらったことは何度かありますけど」
あやのさんは私の次の言葉を待っているけど、今の気持ちをどこまでどういうふうに話したらいいのかわからない。
固まりかけた私のココロを浸食する、あやのさんの意識。
それを振り払うように、私は息を飲んで口を開いた。
「私は北原にとって、間違ってもあやのさんのような存在ではないし、だからたぶん、私が留学をすすめても、うるさいって言うに決まってます」
口の中がカラカラに乾いてる。
必死でつなぐ言葉は、早口になって、ところどころ途切れてしまう。
握りなおした指が震えてる。
『顔色が悪いけど、どうしたのかな。私がこんな話をするから?』
『やっぱり、伊吹のことが好きなんじゃないの? だけど、どうにかしなくちゃ。もう私には時間がないもの』
何をどう言ったら、あやのさんは私を解放してくれるのだろう。
北原、まだ温室にいるだろうか。
でも、私の話なんか、もう聞いてくれなくていい。
奥にあるゴールドクレストに目を向けたとき、ぐらりと視界が歪んだ。
身体が揺れてるわけじゃない、眩暈、だ。
「『やっぱり私ひとりじゃダメだと思うの。
この子から直接伊吹に言ってもらわなくちゃ。
これから伊吹に会いにいくんだけど、一緒に行ってくれない?
お願い、私から伊吹を取らないで。
どうしてあなたがそばにいるの?
私と全然違うのに。
どうして? どうして伊吹はひとりじゃなかったの?』」
どの言葉が声で、どれが意識なのか。
頭の中で響いているのか、耳から届いているのか、もう判断がつかなくなってきた。
目を閉じる。
扉、扉を閉じなきゃ、これ以上このままだと、また、私……。
「桜井さん、大丈夫?」
私の腕に伸びてきたあやのさんの指を、歪んだ世界の中でも見逃さなかった。
咄嗟に避けたものの、バランスを崩して、私はレンガ張りの床に倒れこんだ。
「どうしたのっ!」
「触らないで下さい!!」
倒れた身体を起こし、床に両手をついたまま、何度も大きく深呼吸する。
私を縛り付けていたあやのさんの意識が一時的に千切れ、身体が一気に熱を取り戻していく。
目を開くと、ぽたり、汗が落ちて茶色のレンガにいびつな円形のシミを作った。
「ご、め…ん、なさ…い……」
治まらない動悸に、片手を胸に当てる。
絞り出した声は、あやのさんに届いただろうか。
頭の中が焼けるように熱い。
ショート寸前、もしあやのさんに触れられていたら、たぶん意識を失っていたと思う。
「病気、なの……?」
私の様子をうかがうように、恐る恐るあやのさんが尋ねた。
ビョーキ。
何も知らない人から見れば、発作でも起きたように見えるだろう。
こんな自分が情けなくて、病気という表現が当てはまりすぎて、私は笑いそうになった。
「誰か、呼んでくるね」
「いえ……! 大丈夫、です、から」
「でも……」
声が出せなくて、私は首を大きく振った。
先生やホリちゃんを呼んでもらっても、どんな医者に診てもらっても、誰もどうしようも出来ないことは、私が一番よくわかってる。
あまりにも長い間、あやのさんに染まりすぎた。
もっと距離を置いて、早い段階で逃げ出せばよかったのだ。
あやのさんの意識だけのせいじゃない。
私自身、彼女の中に、決定的な何かを見つけ出せるような気がして、完全にシャットアウトできなかったんだと思う。
「桜井!」
突如、沈黙を破るその声を聞いた時、いっそ気を失ってしまった方が良かったと思った。
北原、だ。
「伊吹、桜井さん倒れちゃったの。でも、大丈夫って言うから……」
そう、大丈夫です。
もう少しこのまま、黙っていれば落ち着きます。
けど! なんでこんなタイミングで北原が現れるんだ。
「大丈夫か」
私の斜め前に、北原が膝をついたのが見えた。
呼吸は静かになりつつあるし、顔だってもう上げられそうだけど。
私は床を見つめたまま頷いた。
なんて最悪な状況。
「平気、だから」
汗をかいた首筋に、長い髪がぺったりと張り付いて気持ち悪い。
あやのさんの足音が近づいてきて、私はうつむいたまま上半身を起こす。
額から顎にかけて汗を拭い、ふたりと目を合わさないよう、顔を上げた。