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北原の冷淡な表情が感情の全てを覆い隠すマスクだとしたら、このあやのさんの優しい笑顔は種類だけ違えど同じ物だと私は思った。
隙がないようで、だけど、彼女は計算しつくされた完璧な隙を作る。
しかも、ごく自然に。
そのことに気付ける人なんていないだろう。
だから、彼女は誰からも愛される存在だったんだ。
「卒業して半年しか経ってないのに、こんなふうに変わってしまうのね」
今年から理事長が園芸部仕様にしてしまった中庭をぐるり見渡し、あやのさんが言った。
「去年のクリスマスツリー、すごく可愛かったわ。みんなで写真撮ったの」
「今年は、もっと大きな木でツリー作るみたいです」
当たり障りのない話で、警戒心を解こうとしてるのか、核心に触れず、あやのさんは話を続ける。
私も彼女の話に相槌を打ちながら、自然と笑みがこぼれた。
キレイな、ひと。
一緒にいる人を和ませてくれる、優しいひと。
だけど、その奥に何かを潜めているような。
全てが、たとえ彼女が計算して作り出されたモノだとしても、嫌な感情が湧きあがらないから不思議だ。
完璧だけど、本当は不器用。
やっぱり……北原と、同じ。
それとも、北原が彼女と一緒にいるうちに似てしまったんじゃないかと、ふと思った。
「やっぱり、卒業したくなかったな」
少し淋しそうに言うと、あやのさんはベンチに腰を下ろした。
続いて、私も隣に座る。
「ホントはね、伊吹がここにいるんじゃないかと思って来たの」
私の顔を覗きこむと、あやのさんの肩にかかった黒髪が流れるように滑り落ちる。
瞬間、まるでフラッシュバックのように、鮮やかな映像が私の脳裏に浮かんで消えた。
あやのさんの髪を梳く、優しく撫でる、少し骨ばった指。
……たぶん、北原の指先。
私は瞬きをして、あやのさんから目を逸らした。
なんでもないように額をなで上げると、思っていた以上に自分の指先が冷たくなっていることに気がついた。
いや、もしかしたら頭が熱くなってるのかもしれない。
息を飲むと、緊張してるのがあやのさんに伝わってしまいそうで、すぐに大きく息を吐いた。
「私、心配だったの」
レンガ張りの床を見つめ、声のトーンを落としたあやのさんが言う。
「伊吹って、ほら、あんなふうでしょ。ただでさえ、周りはライバルだらけなのに、またひとりぼっちで意地張ってるんじゃないかって」
微笑むあやのさんに対し、私は笑い返すことなどできずに唇を噛んだ。
彼女の思い出が私を浸食しないよう、必死で扉を閉じるのに、それを強引にこじ開けられそうになるのを、ギリギリのところで押し止めてるから。
今ここで立ち上がって、あやのさんと距離を置けば少し楽になれるかもしれない。
だけど、あやのさんから伸びてくる柔らかな意識は、その感触とはうらはらに、私をベンチに縛り付けて離さない。
「桜井さん、誰か好きな人、いる?」
「えっ!?」
イキナリそんなこと聞くんですかっ!?
どう言っていいかわからないでいると、あやのさんは歯を見せて笑った。
「変なこと聞いちゃって、ごめんね」
「……いえ」
「私、本当に伊吹のこと、好きなの」
優しいカオで私の胸に宣戦布告の釘を刺す。
「はじめて伊吹に会ったときのことから、全部覚えてる。それまで、誰かと付き合ったこともあるけど、でも、これが本当に人を愛することなんだって思えたのは、伊吹が初めてだった」
「そう、ですか……」
少し照れてうんと頷くあやのさん。
ベンチの上に置かれている、細く白い指。
そこから伝わる、いっぱいの想いは、私の胸を覆い尽くしていく。
私は両手を膝に乗せ、ぎゅっと握った。
冷たい汗が背筋を伝う。
「最初は、伊吹、何にも話してくれなくて。でもね、ちょっとずつだけど、心を開いてくれて……嬉しかった」
ダメ、だ。
もう、無理。
堪えきれず箍が外れたように、一気に解放された頭の中に、あやのさんのすべてが流れ込んでくる。
『しあわせよ、私。伊吹がそばにいてくれるなら、ただ、それだけでいいの』
『伊吹がお医者様を目指していること、この子は知ってるの?』
『留学のことも、聞いたかな?』
『きっとわかってくれるわ。きっと』
次から次へと降ってくる意識。
どこか不安が強いのは、気のせいだろうか。
断片的に浮かんで消える、北原の指先、大きな手のひら……腕の中。
「桜井さん、伊吹が将来お医者様を目指してるのは知ってる?」
「動物の、ですよね」
私が答えると、あやのさんは目を丸くした後、吹きだして笑った。
「やだ、人間の、よ」
『なんだ、知らないのね』
同時に聞こえる表と裏の声。
でも、確か北原は人間になんて興味ないって言ってたはずだ。
だから獣医になりたいって……。
私は眉をひそめて、まだ笑い続けるあやのさんを見た。
「もちろん、日本で医学を学ぶのもいいと思うの。でもね、伊吹ってどっちかといえば、お医者様というより、研究者タイプだと思って。それなら日本より、海外のほうが環境がいいから留学を勧めに来たの」
「……はぁ」
私には獣医になりたいなんて言ったけど、やっぱり本当は父親と同じ医者を目指すつもりなんだろうか。
そうだよね、私に本当のことを言ってくれるわけないか。
あやのさんは、私なんかよりずっと長く、深く北原のことを知ってる。
「パスポートが取れ次第、向こうに来てもらうつもり。早ければ早いほうがいいもの。それに、クリスマスも近づくし」
『また、伊吹と一緒にいられる。ずっと、そばにいてあげられる。ふたりで、ずっと一緒に』
つないだ手、見上げると、そこには私の知らない北原の優しい顔。
あやのさんの頭の中にある絵が、私の中にそのまま投影される。
「桜井さん」
「えっ……」
名前を呼ばれて、その絵の中から引き戻された。
「伊吹のこと、好きなの?」
私のことを、まるで何かに怯えるように覗き込む瞳。
でも、そのずっと奥には、獲物を捕らえて逃がさない鋭さを秘めている。
『邪魔、しないで』
言葉と同時に、胸を突くような衝撃を受けて、私は息を飲んだ。